僕にとっての二十世紀
(1947~2000)その6
#27 僕にとってのこ十世紀(1947-2000)その6
帝塚山の"姫松園"には加川良、村上律、笑福亭福笑、フーさん、ナベさん、
ムロオ君、角谷君といったミュージシャン、落語家、デザイナ一、写真家が住んでいた。
関西ではブラック・ユーモアいっぱいの創作落語家として知る人ぞ知る福笑さんは、
当時はまだかけ出しの落語家で、それこそあの狭いデイランでも独演会をやったりしていた。
その時のとてもじゃないけど高座では出来ないような下ネタだらけの小噺は、
僕達にとっては逆にとても新鮮であったし愉快であった。
この人の反骨精神いっぱいのアンチ体制的な生き方は、この当時からあったように思う。
後、いつも控えめだったナベさん。
この人は汽車の写真を撮るのが仕事?だったようで、
いろんな所へ出かけて行っては走っている蒸気機関車の写真をカメラに収め、
そのコレクションの一部が部屋中に雑然と貼られていた。
又、時々ご馳走になった手作りのホット・ドッグと、ドリップで入れてくれたコーヒーは今だに忘れられない。
姫松園の住人の中では加川良が少し有名人で、
当時、毎日放送でチャチャ・ヤングという深夜放送の番組でパーソナリティをやっていた。
それでファンからのプレゼントが放送局に送られてくるわけだが、
よく僕達は明け方に姫松園に戻ってくる彼を待ち伏せし、そのプレゼントを分けてもらった事がある。
中身はたいていチョコレートやクッキーといった菓子類であった。
いちばん最年少だった角谷君は伊藤銀次のバンド"ごまのはえ”のベーシス卜で、
愛用のリッケンパッカーのエレキ・ベースをとても大切にしていた。
聞くところによるとこのリッケンバッカーは、かの細野晴臣から譲り受けたものらしい。
(そういえば"はっぴいえんど"時代の細野さんは、リッケンバッカーのベースを使っていた時期がある。)
又、この角谷君は少し変わった趣味を持っていて、大きなコウモりを自分の部屋に飼っていたのだ。
それも南方に住む果実しか食べないというコウモリで、角谷君が食うや食わずだというのに、
いつも果物を買ってきではこのコウモリに与えていたのが印象に残っている。
僕やディラン仲間の堰さんは、姫松闘の住人ではないんだけどしょっちゅう誰かの部屋にお邪魔していた。
そして昼頃になると決まったように近くの大阪外大?の学生食堂へ行き、
さも学生の様なふりをして安い定食を食べたりしていた。
’7 2年の春一番の時は、コンサートのチケットを皆で手作りで作ろうという事になり、
姫松園の廊下いっぱいにトレーシング・ペーパーにシルク印刷したチケットを並べて乾かしていた。
ところが管理人(これがとんでもないアルコール依存症のオパハンであった。)に見つかり、
えらいどやされた記憶がある。
このオバハンとはその後もしょっちゅうトラプったけど、
今思えば僕らが子供の頃に近所のオパハンとやった口げんかと似ていた様な気がする。
’7 1年の秋頃から、僕は律ちゃんとデュオ・グループを組んでいた。
アメリカの"ハッピー&アーティ・トラウム”のレコードを聴いて感動した僕達は、
同じようなニュー・トラッド・サウンドのグループをやろうという事になり、
彼らの楽曲に意訳の歌詞をつけるところからスター卜した。
今だともう少しまともな訳詞を付けれるけど、当時はそんな能力を持ち合わせていなかったのである。
でも僕らはハッピー&アーティになりきって唄っていた。
コンサー卜や'72年にりりースしたレコードでは、
ミュージシャンではないのに福岡風太が"悲しいね"という曲でフィドル?を弾いている。
又"ひがみ”という曲ではドラムまで叩いている。
これは同時代に閉じ空気を吸い、同じ感覚を持っている者同志で何かをやるのがベストなのではないだろかという発想からそうなったのである。
特に当時の大阪のミュージック・シーンはそうであった。
つまりどこかでアンチ東京という意識を常に持っていて、
東京のミュージシャンはお酒落で上手だけど、あんた達に本当のフォークやロックのスピリッツが解ってたまるかいと思っていた。
もちろん現在は東京にも素晴らしいミュージシャンがいることを知っているけど、
あの頃のツッパリようはそれぐらい異常であった。
そしてこの’72年に"律&イサ卜"のレコーディングの話が持ち上がり、これをキッカケに東京に移住しようということになったのである。
次回に続く。
2001.3.28
中川イサ卜