タイトル:途中下車はいかがでせう
作家 :寺坂 安里
場所 :枝香庵
展示会 :それでは、旅の支度を 寺坂安里 水彩画展
購入日 :2023年11月3日
サイズ :F3号
技法画材:水彩画
白色の夜と橙色の夜。前者は私たちの日常です。昼間よりも明るく、闇を感じることはありません。その傍に橙色の夜はあります。灯りの周囲は仄かに暖かく、揺らめきとともに暗さが残っています。目を開けると、一人の女性が「いらっしゃいませ」と声をかけてきました。丸椅子に乗った三毛猫は、女性が持つトレーをじっと睨んでいます。不思議と懐かしい心地がこみ上げてきます。誰もが一度は訪れたことがありながら、忘れてしまう。それが橙色の夜です。
今回紹介する《途中下車はいかがでせう》だけでなく、寺坂安里さんの作品はレンズを覗いたような空間をしています。そのため、鑑賞者が作品の中に取り込まれていく感覚になります。ころんと転がり落ちると言ってもよいでしょう。しかし、この大胆な構図は容易には真似できません。空間を歪ませすぎると乗り物酔いした気分になってしまいます。また、モチーフの形がわかり難くなってしまう弱点があります。鑑賞者を程よく「橙色の夜」に招待する工夫を探っていきましょう。
この作品では右上の柱の曲線が構図の軸になっています。それを提灯の流れが補完しています。提灯は大きさだけでなく、傾きに違いがあり、左から右奥へと続いていきます。リズムよく鑑賞者を店の中に誘ってくれます。途中下車して一杯いただくことは決まりですね。色の濃淡にも注目してみましょう。右上の柱と手前のガラス瓶を置く棚は、濃い焦げ茶色をしています。一方、店の奥に行くほど薄く、明るくなっています。もし全体が薄いと宙に浮いた感じなってしまい、反対に濃い焦げ茶を多用すると重苦しくなりかねません。この作品においては、濃淡によって遠近感が生まれるだけでなく、濃い焦げ茶色はレンズ状の空間の支柱として機能しています。さらに、左上は提灯で灯されているため手前でも明るくなっています。この作品の主人公は女性の給仕と三毛猫ですが、提灯の明るさも目立ちます。鑑賞者の視線はポンと弾かれたように提灯の明るさに寄っていくのです。これぞお客を呼び込む提灯の役割!
作者にお尋ねしたところ、この構図は古い写真を眺めているうちに、その中に入っていくことをイメージしているそうです。とてもユーモラスな発想ですね。この情景を普通に見える形で描くと、鑑賞者は遮られた別の世界に感じてしまうでしょう。もう一つ構図で注目したいのは角度です。寺坂安里さんの作品は、やや上から見下ろす角度が多いです。手にした写真を見ている姿勢です。人によっては顕微鏡を覗くように思うかもしれません。いずれにしてもこの情景を見下ろしながら、作品の中に入っていきます。不思議の国のアリスがウサギの穴に落ちるとまではいかなくとも、でんぐり返しをしながら作品に入る感覚です。これが作品の面白さを深めてくれます。
個展風景①
途中下車が決まったところで、モチーフをゆっくり観察してみましょう。喫茶店のように見えますが、どこか大人な雰囲気があります。トレーを手にした女性の給仕はほんのり色っぽさを感じませんか。ここは大正から昭和初期に流行したお酒を提供するカフェーがモデルになっています。白粉を塗っているのでしょう。腕に比べると顔や首筋は白く、桜色の頬紅を引き立てます。髪型もモダンで長い睫毛が素敵ですね。小さな口は上品さがあります。正面から顔を見るのが憚られる美しさです。トレーの持ち方が美しく、姿勢が弓なりになっているのもポイント。これはレンズによる歪みではなく、艶めかしさの現われでしょう。左手の指先にも注目してください。上向きにすらりと伸ばすことで気品が漂います。ふと、お店の棚の珍しい模様に気が付きました。直線を組み合わせた組子細工の類のようにも思われますが、ハングル文字のようにランダムな文様を描いています。女給さんが左手を添えていなければ、見落としてしまったかもしれません。また、格子状の床も当時(大正や昭和前期)はモダンだったしょう。ただ、店の奥まで模様は続いていません。モデルになるお店があるのかは分かりませんが、店の奥まで格子状の模様が続くと、絵画としてはうるさく感じるおそれがあります。お酒の瓶とグラスを目立たせるには、その周囲の色彩は抑えた方が良いはずです。
《招き猫の冒険》部分
個展風景②
女給さんは割烹着とエプロンが合わさったような服を着ています。ポケットも可愛らしい。伝票を入れるのにも便利そうです。当時のカフェーの写真を見ると、実際にこのようなエプロンをしているものがあります。着物も魅力です。作品の色調を害しない渋めの萌黄色ながら、カフェーの華やかさを感じさせる柄になっています。花は椿でしょうか。衿と袖の淡い菖蒲色も良いアクセントです。また、この作品では提灯がバイプレーヤーとして活躍しています。女給さんは大正レトロを感じさせるふんわりした髪型です。竹久夢二が描く女性にもこのような髪型がありますね。しかし、そのまま黒で塗ってしまうと水彩画の中ではかなり重たくなってしまいます。提灯に照らされることで、自然に髪を明るく、軽やかなイメージになります。
次は、三毛猫さんです。カフェーの看板娘(息子?)とも思えますし、鑑賞者と一緒に旅をしている友人、さらには鑑賞者自身と解釈することもできます。三毛猫さんの設定によって物語の展開も変わっていくでしょう。もちろん想像は鑑賞者の自由です。三毛猫さんの耳の内側がほんのりピンク色をしているのも良いですね。可愛らしい。女給さんが持つトレーを不思議そうに見つめています。普段とは違うお酒の香りに警戒心を高めているのかもしれません。人間の言葉を理解するくらいの知性はありそうです。むしろ「吾輩は猫である」くらいに冷静に我々を観察しているとも。
ガラス瓶の形と色合いも素敵です。ガラス瓶は透明又は茶色系が多いので、実際にこのような色合いであったのかは分かりません。しかし、ガラス質感を表しつつ、かつ作品の世界観に相応しい色合いです。私はローマングラスっぽい雰囲気があって好きな色です。トレーやグラスの大きさもベスト。左手前の棚に並べられたウィスキーやワインの瓶もバラエティに富んでいますね。作品全体としてはオレンジ、茶色系の割合が多いのですが、豊かな色彩を感じます。
会場につながる枝香庵の階段
あらためて三毛猫さんの視線を追っていくと、トレーの先を見ているように思えてきました。女給さんもどこか遠くを見ています。これは鑑賞者を作品に引き込むうえで、隠れたポイントになっている気がしてきました。三毛猫も女給も鑑賞者、すなわち正面に視線が寄ってしまうと不自然ですが、両者の視線がクロスしながら、鑑賞者の後ろにまで伸びるように感じさせることで、鑑賞を一つの空間に取り入れることができるのです。
《途中下車はいかがでせう》のタイトルのとおり、この作品の奥には路面電車が描かれています。ただし、遠目からでは背景の色と混じってしまうため、気づかない人も多いでしょう。最初は女給さんと三毛猫さんに目が行きます。どんなお店なのだろうかと思案しながら、作品に近づき、提灯に連れられて店内に進むと路面電車に気づくという仕掛けです。路面電車が目立ってしまうと、画面がごちゃごちゃしてしまうばかりか、直ぐにゴールに辿り着いてしまいます。路面電車の位置もポイント。この作品の空間の歪みを戻し、普通の形に置き換えたとしましょう。路面電車が画面の中央に位置していると、目立ちすぎてしまいます。鑑賞者はカフェーよりも路面電車の出発時刻が気になりかねません。画面の端に少しだけ路面電車を見せるのが無難です。しかし、途中下車というコンセプトが弱まってしまいそうです。目立ちすぎても困るが、存在感が薄くてもダメという難題に対し、レンズ状の空間に上手く路面電車を紛れ込ませています。路面電車が坂を上っているように見えるのも微笑ましいです。
ところで、この作品に季節はあるのでしょうか。オレンジや茶色から冬に暖をとるような感覚を覚える人もいるでしょう。一方、女給さんのすらりと伸びた腕やグラス、提灯から夏祭りの雰囲気を連想する人もいるかもしれません。春や秋の解釈も成り立ちます。季節を限定しないのは部屋に飾りやすいというメリットがありますが、同時にそれはいつでも橙色の夜に行くことができることも意味しています。次の停車場が楽しみです。(2024年1月12日)
デザートを食べたら、再び旅に戻りませう