タイトル:43°54'21.4"N125° 20'22.8"E,June 1945
作家 :津絵 太陽
会場 :日本橋髙島屋(高島屋)
展示会 :津絵太陽展-みなそこへ。-
購入日 :2021年9月18日
サイズ :60.6×45.5cm
技法画材:油絵
タイトル:43°54'21.4"N125° 20'22.8"E,June 1945
作家 :津絵 太陽
会場 :日本橋髙島屋(高島屋)
展示会 :津絵太陽展-みなそこへ。-
購入日 :2021年9月18日
サイズ :60.6×45.5cm
技法画材:油絵
タイトルの「43°54'21.4"N125° 20'22.8"E,June 1945」は緯度経度の座標である度分秒と年月を示しており、1945年6月の満州国の首都である新京、現在の中華人民共和国の長春市を描いたものです。満州国と新京については、後ほど触れたいと思いますが、この作品を見たとき、どのような印象を抱くでしょうか。私は最初、画面構成が少し整い過ぎているのではないかと感じました。店主と顧客が会話する中、タイミングよく馬車が通過しています。また、建物は正面を向き、特に変わったアングルではありません。むしろ、変哲のない街並みの一角をそのまま切り取った、悪く言えば面白みに欠ける場面です。
展覧会風景①
そこで、今回は作者が絵を描く目的という大上段に構えて考察したいと思います。まず考えられるのは、満州の記録という趣旨です。作家の津絵さんによれば、曽祖父が満州の開拓団に参加していたことが、戦争の時代を描くきっかけになっていることから、記録という意味はあると思います[1] 。しかし、記録ということだけで、説明するのは物足りません。骨董市に出かけると、昔の写真が売られているのを見かけます。公的な写真ではなく、ごく一般的な家族のアルバム、学校や会社の記念写真など様々で、縁もゆかりない家族写真など誰が買うのだろうと思いつつ、眺めていて飽きません。探せば満州の写真もあると思いますので、純粋に記録という趣旨ならば丹念に写真を収集することも考えられます。また、津絵さんにお伺いしたところ、実際に現地に足を運んでいるものの、この作品は当時の場所をそのまま再現したわけではなく、取材に基づく複数の要素を組み合わせて制作したということです。学術的な記録とは異なる意図があると考えられます。
次に、作品から得られる物語性というのはどうでしょうか。今回の個展「-みなそこへ。-」では、開拓地を遠目に眺めながらリュックを背負い撤収する女性、銃を肩にかけ塹壕に座り込む男性、厚手の学童服を着た子どものように作品を通じて、鑑賞者が具体的な物語を想像してくことはできると思います。ただ、水筒などの遺留品、民家の裏路、牧草地の牛の群れなど、どちらか言えば物語性を排除して、客観的事実に焦点を当てている作品が多いように感じられます。
[1] 「若手に訊く 津絵太陽 旧満洲の記憶を蘇らせる」アートコレクターズ 2021年12月号 p64-65
私が思うには、絵画としてのリアリズムの追究です。開拓地を眺める女性を描いた「Northern Manchuria,mid-August 1945」を見たとき、遠近感が写真とは異なるように感じたので、作者に尋ねたところ、写真なら完全にぼやけてしまう部分もある程度明瞭に描いているということでした。確かに何が描かれているのか分からなければ、鑑賞者にモチーフは適切に伝わりません。先の作品であれば女性に視線が集まり、もう一つの主役である開拓地の風景は失われてしまいます。考えてみれば、写真であっても三次元を二次元にしており、目で見る光景とは違うため、完全たる事実ではないことになります。単純な事実の再現ではなく、絵画という技法を駆使し真に迫ることで、鑑賞者に訴求し、記憶に残るような作品を生み出していくことに主眼に置いているではないでしょうか。
Northern Manchuria,mid-August 1945
「-みなそこへ。-」は、日本人が見た満州がテーマになっています。つまり、当時満州に住んでいた日本人が見た風景を鑑賞者が追体験する意図があると考えられます。1945年3月は東京大空襲、6月には米軍が沖縄を占領しており、情報統制が敷かれ、日本に比べれば物資に余裕があった満州の住人も、戦局の悪化は把握していたと思われます。満州に住む日本人が、もしかすると政権に変化があるかもしれない、新京から引き揚げるときが来るかもしれないと予想し、現在の満州の姿を写真に記録しておこうと考えたならばどうするか、そのように思い巡らせていると、私はこの作品がまるで違って見えることに気が付きました。おそらく撮影者はできるだけ多くの情報を、主観を入れずに残したいと考えるでしょう。ならば荷を運ぶ馬車は、作者が無理に画面に入れるために都合よく通りがかったのではなく、撮影者は馬車が近づくのを見て、タイミングよく通過するのを待っていたのではないか。しかも道路を渡る男性、茶荘の店員と顧客が扉を開いて会話するこの瞬間をシャッターチャンスと思ったのではないか。記録目的であれば、堅牢な煉瓦造りの建物、古ぼけた商家、雑草に覆われた家屋を正面から捉えた方が、商家の看板を含め建物の外観が明確に伝わります。変わった角度から撮影したり、特定の被写体をフォーカスすれば、現実の風景と乖離した印象を後世に与えかねません。情報過多に思えるかもしれませんが、撮影者の意図を推察すれば、地べたに座る露店主、遠目に映る煙突が映り込む範囲をファインダーに捉えたのも頷けます。この風景を撮影した日本人とこの作品を鑑賞する自分を重ね合わせたとき、私はまさに「43°54'21.4"N125° 20'22.8"E,June 1945」に立ち、カメラの重みや鉄の冷たさが手に伝わって来る感覚になりました。
せっかくですので撮影した人物を想像してみましょう。首都である新京に在住し、カメラを所有又は使えることからすると、経済的に上位の階級と推測できます。時局柄、民間人が街中を不用意に撮影していればスパイ活動と疑われかねません。軍属か国営企業に勤務していると考えるのが無難です。しかも、漢人や満州人が暮らす街並みを記録しておこうと考えるのは、かなり冷静かつ客観的に物事を考えることができる人物です。また、このようなことを考える余裕があることから、単身で新京に派遣されている満鉄関連の会社に勤務する20代の男性と考えました。このように想像を膨らませるのも絵画の楽しみ方です。
展覧会風景②
次に、満州国と新京について整理しておきましょう。満州国は1932年3月に現在の中国東北部に溥儀を執政(後に皇帝)として建国され、太平洋戦争が終わる1945年8月に滅亡しました。面積は約130万平方キロメートルと現在の日本の約3倍もあります。建国時の人口は約2,900万人、そのうち日本人は約57万人に過ぎません。その後、日本からの開拓団による入植等が進み、1940年には総人口は約4,100万に増えましたが、日本人は約210万人(うち朝鮮・台湾人が約130万人)でした。人口構成は漢族、満州族が大半を占めており、建国後も増加していったことに驚きました。この点は、満州国の成り立ちを考える上で重要な視点かもしれません。なお、満州国では国籍法は制定されていません。日本からの開拓団は当初、試験移民と言われ、関東軍の護衛のもと武装して入植していきました。また、独身の男性で編成された満蒙開拓青少年義勇軍というのもありました。移民を受け入れるために満州拓殖会社は、1941年までに2000万町歩(20万平方キロメートル)という膨大な土地を買い上げましたが、漢族、満州族との軋轢を生む要因の一つとされたようです。
満州国の首都である新京は、1800年に清朝が長春庁を設置したことに由来し、満州国が建国されるまでは、地方都市に過ぎませんでした。緯度は旭川と同じくらいで、標高230メートルの広い台地に位置し、東側は松花江に注ぐ伊通河が流れています。年間の平均気温は6~8℃程度と寒冷ですが、夏は30℃近く上昇することもある一方、冬はマイナス20℃を下回ることもある寒暖の激しい土地柄で、年間降水量650~750mm程度のうち多くは夏場に集中します。
43°53’14.6”N 125°19’19.4”E,July 1930s
建国時の新京の人口は約10万人でしたが、20年で50万人、将来は300万人都市に発展させる計画でした。これは東京市の230万人を上回る規模ですから、日本の意気込みがわかるでしょう。新京の中心部は、長春駅を南にメインストリートの大同大街(現人民大街)がまっすぐ延び、西公園や関東軍司令部を通過すると、外周1kmになる大同広場に至り、その周囲には満州中央銀行や首都警察庁などが集まるターミナルになっていました。大同広場から南西に溥儀の居所として新宮殿が建設される予定でしたが、未完のまま終戦を迎えます。新宮殿の予定地から南には順天大街(現新民大街)が延び、満州国国務院、満州国司法部、満州国経済部等が立ち並ぶ官庁街となっていました。これら行政機関の建物は、鉄筋コンクリート造の洋式建築に天守閣のような和風の三角屋根を載せた帝冠様式と呼ばれる建築様式が採用されました。満州に睨みをきかす関東軍司令部の異様さは際立っています。
September 1945
「43°54'21.4"N125° 20'22.8" E」をGoogleアースで調べてみると、現在の偽満皇宮博物院の北にある位置を示します。新京は長春駅から南東には大馬路につながる日本橋通り(現勝利大街)が通り、東側は商業地として栄え、南西の敷島通り(現漢口大街)には住宅や学校など居住地として区画されていました。この作品では奥に堅牢な建物が描かれていますが、服装や看板からは主に漢人や満州人が住むエリアと想像されます。
この作品で最初に目が行く場所はどこでしょうか。私は緻密に描かれた重厚な煉瓦の建物が目に飛び込んできました。中を伺うことができない濃い窓が並んでいるのも一際目を奪う要因かもしれません。次に、粗末に補修された屋根の商家に目が移りました。漢字で書かれた看板や瓢箪のような形をした掲示物が気になります。また、店員と顧客の風貌など解読したくなる要素が散りばめられています。新京の街を解読するポイントと言って良いでしょう。ただ、一旦、鑑賞者の視線は弾かれるように、画面左から手前に向かって歩いてくる男性に注意が向けられます。この男性は長袍を描くという趣旨もありますが、鑑賞者の視線を画面の手前に動かすという役割も持っています。もしこの男性が存在しなければ、鑑賞者の視線は画面中心の商店から離れることはなく、看板の漢字を眺めて終わってしまったかもしれません。さらに、人物を結ぶとバランスの良い四角形となり、建物の四角と呼応するように立体感を生み、臨場感を強めていることに気が付きました。立つ、歩く、座るという姿勢に違いがあり、建物の「静」に対して「動」の印象を与える効果があります。
次に、鑑賞者の視線は画面手前の道路で少し休憩を入れることになります。情報を多く取り込んだ作品ですので、余白のような空間は大事になってきます。詰めすぎるとかえって情報は入ってきません。道路の細かい凹凸からすると舗装されていないのだろうか等とぼんやり考えていると、背中を丸め疲労を感じさせる男性を乗せた馬車に目がいきます。もともと内モンゴルは清朝の八旗軍を支えた馬の産地であり、大地が凍結する冬季でも安定して荷物を運べる馬車は、満鉄を補助するべく国の交通を支えました。しかし、この馬車の荷物は多くありません。大豆や高粱を入れた袋とイモ類のような農産物が僅かに積まれているだけで、物資の不足を物語っているように思えます。目を凝らすと男性は手綱を握って馬を御していますが歩みは遅く、男性も馬も物憂げな様子で、戦時下の疲弊した様子を伺うことができます。
鑑賞者の視線に戻りましょう。商家の隣は雑草に覆われ、背後にも木々が生い茂っています。細かく積み上がった煉瓦と草木の対比が画面に面白さを与えてくれます。その先には煙突が見えます。工場が置かれているのか、鉄道に関するものなのかは分かりませんが、遠近感を強めてくれるだけでなく、形としても画面にリズムを生み出しています。また、矢印のように鑑賞の視線を空へと持ち上げてくれる効果も見逃せません。L字型に広がる空を伝わり、鑑賞者は再び堅牢な建物に戻ってくる仕掛けになっています。このように一見すると落ち着いた構成に感じますが、モチーフの配置や動き、人工物と植物、遠近感などを入念に検討し、鑑賞者の視線を回遊させる躍動感に満ちた画面構成になっていることに驚かされました。
次に、各モチーフを観察してみましょう。それぞれ新京の街を表す情報源として主役になっているのが特徴です。まずは画面の中心にある建物です。実際の面積以上に大きく感じられませんか。手前の商家に隠れている部分もこの建物は存在しているわけで、頭の中で自動的に1階から2階部分を想像してしまうためと思われます。満州国に関連する写真や絵葉書 [2]を見ると、帝冠様式のような特異な風貌はないものの、この建物も当時を偲ばせる重厚さを誇っています。外観は煉瓦ですが鉄筋構造かもしれません。満州各都市には南満州鉄道株式会社が経営していたヤマトホテルが建てられていましたが、煉瓦造りと鉄骨の両方があるようです。この建物が当時の場所にあったものかは不明ですが、新京の地図と照らし合わせてみれば面白い結果が得られるかもしれません。また、角柱に等間隔に記されている×と・が組み合わさった印も気になるところです。
[2]「満洲写真帖」中日文化協会 昭和4年版 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1192581
「中国戦前絵葉書データベース」国際中国学研究センター https://iccs.aichi-u.ac.jp/database/postcard/manzhou/category-39/MX505/
商家のポイントは看板に書かれた文字は「廣大茶荘」、「存發合」と読めます。「茶荘」は現在でも御洒落なカフェで用いられますが、茶葉の卸売・小売業と思われます。編笠を被った顧客と価格交渉をしているように見えます。入口の両脇にも文字が描かれており、近づいてみると右側は「万民有慶、五族協和」、左側の判読は難しいものの「一天淑気、万里恩波、楊柳春風」かもしれません。満州の春聯を記録した資料にそのような文言が示されています[3] 。春聯とは、新年の行事の一つで、門の戸に貼付する門聯の一種で、紅紙に吉祥を表す対句を書いたものを言うそうです [4]。直ぐに判読できるのは「五族協和」であり、仮にこの作品の背景を知らなかったとしても、満州国の風景であることが示唆されています。
[3] 「異民族の目に残された歴史の記憶 : 日本語ガイド・ブックに記録された旧満州の建造物・装飾物を中心として」趙軍 千葉商大紀要51巻2号
[4] コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%98%A5%E8%81%AF-530208
左の商家の看板には、「存發合」に加えて、「合用雑貨」、「乾群集品」と思しき文字が書かれています。また、「京醤」と書かれた瓢箪のような形をしたものが掲げられています。多民族国家である満州国では、必ずしも住民の全てが漢字を読めるわけではなかったため、看板の形で何を売っているのかを示すことがあると作家の津絵さんに教えていただきました。「京醤」とは北京でつくられる味噌で、甜麺醤に近いようです。なお、京醤肉絲(ジンジャンロウスー)という北京料理があり、青椒肉絲(チンジャオロース)と発音が近いので、日本人が誤って注文しやすいとか。左側の店は雑貨屋で、店の入口にある一斗缶のほか、様々な商品が陳列されているように見えます。商家は屋根の各所が壊れ、板で無理やり補修しています。微妙な色彩の変化によって、粗末な煙突からは煙が出ていることがわかるでしょう。また、商家の外壁はモルタルによる目地が太く、煉瓦造りであることは明白です。一方、背後の建物は煉瓦同士の隙間がほとんど見えません。
道路を渡る長袍に身を包んだ男性は、他の人物に比べると身なりがしっかりしているように感じませんか。歩き方もどこか鷹揚としています。他の人物も日よけのために帽子を被っていますが、この男性は身だしなみとしての帽子に見えます。日本人が支配者階級であったとしても、漢人や満州人の中で貧富の格差はあったと考えるのが普通でしょう。
モノトーンの色調は、古い写真とリンクして、鑑賞者の想像力をかきたてます。モノトーンながら、「黒」とも「白」とも言い難く、灰色とも違うような不思議な色彩です。一般的にモノトーンは冷たい感覚になるのですが、この作品は柔らかく暖かい印象を受けます。部屋に飾っても重たい空気になりません。
日本は対外的な戦争を重ね、膨大な国費と人材を投入して、満州国を建国し、維持しようとしました。満州が日本の生命線とされたのは、世界恐慌を発端とする不況にあったことは確かです。二・二六事件に関与した将校は、部下が塹壕の中で家族から届いた手紙を読んで泣いているので、不審に思い手紙を読ませてもらうと、暗に戦死してくれないかと書かれていました。戦死となれば弔慰金が支給されますので、家族はそれに縋るほかなかったのです [5]。それくらい日本は経済的苦境に立たされていたわけです。しかし、経済的利益を求めるのであれば、アメリカの資本を受け入れつつ満州を経営すればよく、アメリカと敵対する必要はありません。おそらく日本がアメリカを排除し、満州こだわったのは、日露戦争から続く戦争によって多くの日本人が犠牲になったことが要因と思われます。血を流してきた日本人が、お金しか出さないアメリカと利益を分け合うのは、不条理に感じられたのかもしれません。その反動でしょうか、日本は太平洋戦争によってすべて清算してしまったように日露戦争以来の戦死者や満州の地に無関心になってしまったように思います。そのような中で満州を舞台とする作品を描くことは、失われつつある歴史を繋ぎ、彼の地で暮らした人々への鎮魂という意義をも有していると言えるのではないでしょうか。(2021年12月29日)
[5] 2013年2月21日に放送されたBSプレミアム「徹底検証 二・ニ六事件 ~日本をどう変えたのか?~」という番組で紹介されていたように記憶しています。
■満洲国と新京を知るには
・「図説写真で見る満州全史」河出書房新社 2018.12
・「図説満州帝国の戦跡」河出書房新社 2008.7
・「日本人が知らない満洲国の真実-封印された歴史と日本の貢献」 扶桑社 2018.1
・「ボクの満州-漫画家たちの敗戦体験」亜紀書房 1995.7
・ジェトロ大連事務所 https://www.jetro.go.jp/ext_images/world/asia/cn/tohoku/pdf/overview_06_changchun_2106.pdf
・日本大百科全書(ニッポニカ)ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/contents/nipponica/sample_koumoku.html?entryid=559
■もっと満洲国と新京を知るには
・旧満州の都市地図3 新京(現・長春) 国立国会図書館リサーチ・ナビ https://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/theme-honbun-601024.php
*満洲国の雰囲気を知るには「満洲グラフ」という満鉄が発行していた写真グラフ誌(ゆまに書房にて復刻)が参考になりそうです。