解説

Ⅰ.分子間力と相互作用の基礎

はじめに

 主に共有結合によって構築された生体分子は,いわば生体の部品といってもよい。これらの多様な部品(生体分子)から生物体がつくられているわけであるが,個々の部品の間に何らかの関係が生じないことには,高次の機能的構造は生まれてこない。一般に,こうした生体分子間の関係(相互作用)は,分子間の引力や反発力によって担われている。したがって,生体の構造と機能を理解するためには,分子間に働く力に関する情報が共有結合以上に重要である。ここでは以下に4つの力についてとりあげるが,通常,これらの力は共有結合力に比べてはるかに弱いものである。



1. 静電相互作用

 電荷を有するイオン間に作用する力であり,これはイオン結合の結合力(クーロン力)と同じ原理に基づいている。したがって,異符号のイオン間には引力が,同符号のイオン間には斥力が作用することになる。静電相互作用(electrostatic interaction)の大きさは,電荷の大きさだけでなく,媒質(溶媒)の誘電率に大きく影響される。生体系を構成している溶媒は水であるが,この水の誘電率は一般的な溶媒のなかでは比較的大きい値に属する(比誘電率80.1)。したがって,水を溶媒として成立している生体のシステムでは,イオン間の静電相互作用は相当に弱められることになる。このことは,電解質元素が生体内(水溶液中)でイオンとして存在していることの主要な理由でもある。また,生体内に存在している電解質イオンが生体分子間の静電相互作用に対して遮閉効果を示すことから,生体系での実際の静電相互作用の大きさはさらに小さくなることが予想される。 タンパク質やリン脂質などの多くの生体分子は水中でイオン化(電離)する基を有しており,部分的に正あるいは負の電荷を持っている(図1)。このような分子間では実際に静電相互作用が可能となる。イオン化している基の例としては,カルボキシル基,アミノ基などのタンパク質中に存在するものや,リン酸基のように核酸やリン脂質中に存在するものがあるが,これらの存在量は生体分子の種類に応じて多様である。それゆえ,各種生体分子間の静電相互作用の有無や程度は個々の分子で大きく異なってくる。

2. ファンデルワールス力

ファンデルワールス(van der Waals 1873)は,実在気体のふるまいを記述する状態方程式を導いた。この方程式は,理想気体の状態方程式に補正項を導入することにより得られている。この式が実在気体の挙動を比較的正しく記述することから,気体分子のように電荷をもたない分子間にも何らかの引力が働いていることが解る。このファンデルワールスの先駆的な研究に因み,正味の電荷を有しない分子間に作用する引力をファンデルワールス力(van der Waals force)と呼んでいる。ファンデルワールス力を生ずる分子間の相互作用には,次の3種類が知られている。1)配向力(双極子・双極子相互作用): 双極子モーメント(永久双極子モーメント)を有する極性分子間に作用する引力を配向力(orientation force)という。この力は双極子-双極子の配向に基づくものであり,双極子間の電荷の偏りに依存した静電的な力である。一般に,分子間の配向は温度が上昇することによる熱運動の増大により乱れてくるので,配向力は高温ほど小さくなる。2)誘起力(双極子・誘起双極子相互作用): 永久双極子モーメントをもつ極性分子が他の分子に接近すると,その分子に電荷の偏りが現れ誘起双極子が生じる。この誘起双極子と永久双極子の間で作用する引力を誘起力(induction force)という。誘起力は永久双極子の持つ双極子モーメントの大きさと相手分子の分極率に比例しており,温度には依存しない。3)分散力(誘起双極子・誘起双極子相互作用): 永久双極子モーメントを持たない無極性分子間で働く引力を分散力(dispersion force)という。無極性分子においても分子内の電子の分布はゆらいでおり,このゆらぎにより瞬間的な双極子モーメントが生ずる。そして,ある分子の瞬間的双極子モーメントは,別の無極性分子に新たな瞬間的双極子モーメントを誘起することができる。これらの瞬間的双極子モーメントを有する分子間での力が分散力である。以上の3つの相互作用の合計が分子間に作用するファンデルワールス力と考えることができるが,各相互作用の寄与の程度は分子の種類により異なる。たとえば,H2Oのような永久双極子モーメントの大きい極性分子では,1)の双極子・双極子相互作用が大きな部分を占めているが,双極子モーメントを持たない無極性分子では3)の誘起双極子・誘起双極子相互作用がファンデルワールス力の主要成分となる。一方,生体分子は一般に多数の原子が結合した高分子であるので,その分極の程度も多様である。したがって,生体分子間に作用するファンデルワールス力の内容も,分子の種類に応じて著しく変化することが予想される。こうしたファンデルワールス力による分子間結合の結合力や結合距離に関する理論的取り扱いのひとつに,レナード-ジョーンズ ポテンシャル(Lennard-Jones potential)がある。相互作用する分子間のエネルギーは引力だけでなく,分子が接近したときには斥力が生じてくる。レナード-ジョーンズ ポテンシャルは,この引力と斥力の両者を考慮して導出された分子間のポテンシャルエネルギーである。図2には,このポテンシャルの例を示した。図中でポテンシャル曲線が極小となる分子間距離が,最も安定な状態である。また,曲線の勾配が分子間に作用する力(引力または斥力)に対応する。

3. 水素結合

一般に,物質の沸点や凝固点は物質を構成している個々の分子を引き離すためのエネルギーと関係しており,このエネルギーはまた分子を結びつけている引力の大きさに依存している。たとえば,沸点は液体から気体への相変化の容易さに対する指標となり,沸点の高い物質ほど分子間力が相対的に大きく,この引力を振り切って気体になる変化が起こりにくい(図3)。通常,分子が大きくなると外側のオービタルが歪みやすくなり,分子は双極子モーメントを生じ易くなる。したがって,分子が大きくなればファンデルワールス相互作用は増大し,その結果,沸点は上昇する傾向にある。 水分子(H2O)は酸素と同族の水素化物(H2S,H2Se,H2Te)に比較して,その沸点や凝固点が異常に高いことが知られている。図4の中で,第14族元素と水素との化合物(CH4~SnH4)においては,元素の原子番号が増加すれば(分子が大きくなる)沸点も単調に上昇している。ところが第16族の元素では水の部分でこの関係が大きくずれている。このことから,H2Oでは分子間の引力がH2S,H2Se,H2Teなどに比べ相対的に大きく,通常のファンデルワールス力以上の結合力が水分子間に作用していることが示唆される。第17族のHFや第15族のNH3についても同様である。 ここで水分子のO-H結合に注目すると,この結合の共有電子対は電気陰性度の大きいO原子に偏っており,H原子が正,O原子が負の極性が生じている(図5)。水中ではこの正に帯電したH原子と他の水分子のO原子が引きつけあうことになり,分子間での結合が形成される。このような,水素原子と電気陰性度の大きい原子(O,N,F,Cl)を介した分子間の相互作用を水素結合(hydrogen bond)という。  水素結合は電気的陰性の原子(Y)の負電荷と電気的陰性原子(X)に共有結合した水素原子(H)の間で成立し,次のように示される。 この表示から明らかなように,水素原子は電気陰性度の大きい原子であるXとYを取り持つ働きをしているともいえる(点線が水素結合)。水素結合は分子内の電荷の偏りに基づく双極子間の相互作用であるため,形式的には前述のファンデルワールス力(双極子・双極子相互作用)に分類することも可能である。しかし,水素結合を仲介する水素原子は非常に小さいため,相手の電気的陰性原子と強く相互作用することができる。したがって,水素結合における引力は通常のファンデルワールス力に比べ相対的に大きなものとなる(共有結合よりは弱い)。 生体分子においても,多くの水素結合が重要な働きをしている。水素結合の結合力は生体分子間あるいは分子内での結合形成にとって適度な引力を提供するだけでなく,その方向性や識別性などの特質から生体分子間の特異的相互作用に大きく貢献している。ここでは,以下に生体分子で見いだされる幾つかの水素結合の例を示す(図6)。

4. 疎水結合

一般に水和したイオンやエタノールなどの極性分子は水に溶けやすい。こうした水になじみやすく溶けやすい性質を親水性(hydrophilicity)という。これに反し,メタンやエタンのような無極性分子は水にはほとんど溶けない。このように水と反発して溶けない性質を疎水性(hydrophobicity)という。疎水性分子や疎水性基を有する分子を水中にいれると,多くの場合,単に溶けないというだけではなく,疎水性分子や疎水性基が互いに接した状態をとり,水分子との接触面積をできるだけ減らそうとする。その結果,疎水性分子種は互いに寄り集まるようになり,分子間に結合力が作用しているようにみえる。このように,水中で水になじめない疎水性分子や疎水性基が集合する変化の原因(駆動力)を疎水性相互作用(hydrophobic interaction)という。あるいは,こうした分子や疎水性基間の集合に結合力を想定して,単に疎水結合(hydrophobic bond)と呼んだりする。  疎水結合は,水という溶媒と疎水性の溶質という組み合わせを前提としているが,生体系における溶媒が水であることを考えると,生体分子間での疎水結合の意義は非常に大きい。実際に生体分子の親水-疎水性について調べてみると,タンパク質中には親水性のアミノ酸だけでなく疎水性のアミノ酸が含まれており疎水性相互作用を可能にしている。また,細胞膜を構成している脂質中にも疎水性の炭化水素鎖が存在しており,この炭化水素鎖間での疎水性相互作用は細胞膜形成の最も重要な要因であることが知られている。

5. 分子間結合のエネルギー

分子間結合は共有結合に対して非共有結合(noncovalent bond)と呼ばれることがある。この両者は結合の様式がもちろん違うのであるが,それだけでなく結合のエネルギー,言い替えれば結合力が大きく異なっている。共有結合は非共有結合に比べ結合力が強く,その結合エネルギーは50~200kcal/mol程度である。一方,非共有結合の結合エネルギーは数kcal/mol程度であり,共有結合に比べて非常に弱い結合である。  たとえば,水素結合の平均的なエネルギーは3~7kcal/molとされるが,この値は分子の熱運動のエネルギーである0.6kcal/mol(20℃)のおよそ10倍でしかない。このことは,非共有結合が常温では比較的柔軟に形成されたり壊れたりしていることを意味している。すなわち,共有結合はひとたび形成されると常温では比較的安定であるが,非共有結合は可逆的な結合-再結合が可能であるということである。こうした非共有結合の性質は,生体分子の相互作用(結合と解離)に基づいて成立している生体機能の発現には必須の条件であると思われる。生物は,その部品は共有結合で組み立て,そして,部品間の接続や相互のやりとりには非共有結合を利用している。  非共有結合の結合エネルギーが熱運動のそれに近いことから,著しい高温状態では分子間力よりも熱運動が優位になり,非共有結合の形成は不可能になる。これは,高温状態で生物が存在できない理由の一つでもある。また,逆の低温状態では,ひとたび形成された非共有結合は解離することができず,生体分子間の可逆的相互作用は望めない。  ファンデルワールス力のように水素結合よりもさらに弱い結合では(1kca/mol程度),単独の結合力のみでは熱運動に打ち勝って分子間相互作用に寄与することができない。ところが,生体分子は多数の原子からなる高分子であるため,分子間で多くの原子が接近して相対するような配置が可能である。すなわち,相互作用する分子が互いに鍵と鍵穴の関係のような構造を有していれば,多数の原子が非共有結合に関与できることになり結合のエネルギーは増大する。このような例は生体分子中で多く見られ,抗体と抗原の結合や酵素と基質との結合は重要である(図7)。