どうでもいいような、どうでもよくない話:今回は一研究者として、少し真剣に「習慣」の心理的影響について語ります。習慣とはじつに興味深い現象で、何気ない行為がいつの間にか固定化され、ときに自己の手枷足枷となることがあります。わたしの場合、それがまさに、服装です。下はいつもジーパン。上は暗色系のパーカー(春)、Tシャツ(夏)、パーカー(秋)、セーター(冬)をループ。寒くなったらゴワゴワのウィンドブレーカーを羽織る。靴は徹底して履き潰す。腕時計は、体の重心がやや左に流れる気がして、身に着けない。ずっとこんな身なりでコンクリートジャングルを生き延びてきました。けっしてミニマリストではないし、立場的に誤解は避けたいですが、そう呼ぶなら全力で乗っかります。まぁ、なんだかんだで、この習慣が長すぎました。手枷足枷どころか、アルカトラズ刑務所ばりに脱出できません。いまや、違う服装だとそわそわして、研究の集中力が落ちてしまい困ったことになっています(体感パフォーマンスで2割減)。襟付きの服なんかは生理的にもう駄目、だから白衣は着ない、スーツも着ない。会議や学会発表はしぶしぶスーツで、TPOとかいう悪魔の三文字にひざまずく。ひょっとしてスティーブ・ジョブズ的な形式主義への抵抗⋯⋯いや、やっぱり単なる習慣で、信念のかけらもございません。大学院生のころ、大学の建物に入ろうとしたら、見知らぬ教員に「お前はどこの業者だ」と呼び止められました。スルーできない何かをお感じになられたのか、それともわたしが業者なのか、今もってこの二択を検討中です。ともかく、研究するときは、どうしてもいつもの格好じゃないと、わたしは駄目なんです。世界を見れば、全裸じゃないと論文を書けない人だって⋯⋯いや、さすがにそれはない。なんだか、何を伝えたかったのか分からなくなってきたので、今日はこのへんで。明日も同じ服です。〔2025.12.6〕
(What’s the Story) Morning Glory? :研究のお供といえばお菓子、ではなく、コーヒー、でもなく、音楽です。少なくとも私にとっては。もともと音楽を聴きながら研究する人間ではなかったのですが、大学院時代、先輩がイヤホンで音楽を聴きながら学位研究に齧り付いている様を見て、やがて自分も真似をしたのでした。当時の自分はとにかく学位研究がうまくいかず、1日1行も書けないほどの体たらく。だから大学とアパートの往復がしんどくてしんどくて、なんでこんなにしんどいことをやっているのだろうかと、相当に追い込まれていました。これがうまくいけば自分の人生も好転するはずだという強い思い込みと、つまずきドロップアウトしていくことの恐ろしさで、精神的にはずいぶん酷いものでした。だから、没頭するというか、縋り付くように、音楽、とくに洋楽を聴いてその中に深く沈み込み、焦りや不安といったネガティブな感情を一切遮断しようとしていたのです。そんな中でとくによく聴いていたのが、英国のロックバンド・オアシスのセカンドアルバム『 (What’s the Story) Morning Glory? 』です。言わずもがな、1990年代を代表する名盤中の名盤で、私はなんなら日に何度も聴いていたくらいです。とりわけトラック4、10、12は飛び抜けた出来に感じて、CDが擦り切れる勢いでリピートしていました。2009年、私は学位を取得し、同じ年、オアシスはギャラガー兄弟の仲違いがもとで解散。そんな背景があり、遅まきながら今年、あるニュースに目が釘付けになってしまいました。解散したはずのオアシスが2024年に再結成? 日本公演もやるの? こんなことがあるなんて。若い頃の自分が突然 Hello と挨拶しに来たような、とても不思議な気分。いまでも夜中、研究室で一人、このアルバムをPCで流しながら、次の成果こそと願って課題に取り組んでいます。〔2025.11.22〕
形態人類学者のお仕事:遺跡出土人骨の鑑定:ヒト(人骨)の大きさやかたちに注目する人類学者のことを、形態人類学者とよびます。彼らは、その人生の中で、必ず経験することになる仕事があります。それは、遺跡から出土してきた人骨について、鑑定報告書を作成することです。当方の研究室も、しばしば外部の機関から「発掘調査をしたら人骨が出たので鑑定できませんか」というご依頼を頂戴し、よほどのことがないかぎりお引き受けしています(つい最近も1件の鑑定を終えたばかりです)。鑑定といっても、いったい何を鑑定するのか。要点としては、その骨を残した当人が、大人なのか子供なのか、大人だったら青年・壮年・熟年・老年のいずれか、また男女のどちらか、子供だったら何歳ごろか、疾病や生活習慣の痕跡はあるかなど、死亡時の個体情報をできるかぎり引き出すのです。しかし、出土人骨は必ずしも全身的に残存するわけではなく、長い年月のはてに部分的になったり、あるいは風化してボロボロになったりしていて、一筋縄ではいきません。歯が一揃い出土しただけで、あとは何もありません、なんていうことだって何度も経験してきました(こうした場合、歯の種類を特定し、何体分が含まれているかを検討します)。まあ、端的にいうと、慣れないうちは何にも分からないのです。私個人の認識として、人骨の鑑定に必須なものは、けっして持って生まれた「才能」ではなく、どれほど多種多様な状態の人骨をひたむきに観察してきたか、すなわち鑑定眼を裏打ちする重厚な「経験」であると考えています。一見して鑑定の天才かと思える人類学者たちは、すべからく気が遠くなるほど地道なトレーニングを積み上げていることを、私は長年にわたって見てきました。なので、鑑定報告書を作成しようとする者は、それまで自分が積んできた経験値を、たえず試されることになります。鑑定し、悩み、教科書や論文を紐解いてまた鑑定し、また悩む。そこにテレビドラマで観るような華やかさはなく、地味な仕事といえばそれまでですが、これほど駆け出しの研究者を育ててくれる仕事は、そうはありません。なんというか、かつて駆け出しだった私も、こんなことを語ってしまう、それなりの年齢になってしまいました。〔2025.11.17〕
扁平脛骨を再考したい:縄文時代人の骨格は現代人とあれこれ違うところがあり、その中でも有名な特徴として扁平脛骨 Platycnemia が知られています。扁平脛骨とは、文字通りスネの骨のシャフト部分が内外側方向に圧平し、外観上「すごく扁平だな~」となってしまう状態を指します。しかし、なんで扁平になるのでしょうか? 私と関係する話ですが、当教室の先々代教授・森本岩太郎先生は、次のようなアイデアを提示されています。縄文時代の子供は栄養不良になる場合が多い。→栄養不良は骨質の不足をもたらすだろう。→しかし下肢骨は体重の荷重に耐えられるだけの強度を求められる。→とくに脛骨では前後方向への屈曲(曲げの力)に耐えられるように成長過程でシャフト部分が内外側方向に扁平化したのではないか。ざっくりな説明で恐縮ですが、この仮説はいわば栄養説と機能適応説 bone functional adaptation をミックスしたものと捉えられます。私は、このストーリーは本当なのだろうかと、長らく疑問に思っていました。その後、幸運なことに成長期縄文時代人の四肢骨についてCTデータを取得する機会に恵まれました。「しめしめ、これで本当に骨質不足の脛骨ほど扁平になるという仮説を検証できるな」。最近、やる気を出してデータを閲覧しだしたところで、解剖学実習のレジュメを一から作成せねばならない状況に突入…。焦点を絞った研究ですが、1~2年内に原著論文にまとめ、どこかに投稿したいです。〔2025.10.24〕
地形と起伏と縄文時代人:縄文時代人は内陸とか、海岸沿いとか、いろんな場所に住んでいました。急峻な山岳地帯にも縄文時代の遺跡があります。こうした生存環境、もっというと住居周辺の地形の起伏(でこぼこ)は、どの程度縄文時代人の下肢骨格に影響を与えたのだろうかと、ずいぶん前に考えたことがあります。自分でも地形データを取り扱えないものかと。でも、GIS系のソフトウェアは高額だというし、なまなかに手が出せないと思い込んでいました。その後、フリーソフトはないのかと調べたら、普通にありました(勉強不足を恥じ入るばかりです)。Quantum GIS、現在で言うところのQGIS。ちょっと触ってみると、高度地形データを読み込んで、指定した領域の平均起伏度 Terrain Ruggedness Index を算出できることがすぐに分かりました。遺跡を中心に半径10kmとか50kmとかの領域で起伏の激しさを数値化できるのか…。この値と縄文時代人の骨格データとの相関を見れば、起伏の影響度(力学的負荷?)をある程度議論できるのではないか…。そんなことを考えて、今もデスクの上に放置しています。遺跡数を十分確保すれば修士論文でも全然使えるテーマだと思うのですが、どうでしょうか。〔2025.10.21〕