⛩️1 お宮のれきし
⛩️1 お宮のれきし
その1 清水のお宮
『大町市北安曇郡神社誌』によれば、清水のお宮の名まえは「三島社神明社合殿(みしましゃしんめいしゃあいどの)」となっています。三島社と神明社という、二つのお宮を合わせてお祀りしているからです。(それを、合祀(ごうし)といいます)
ですから清水には昔は「三島社」と「神明社」という二つのお宮がありました。
このお宮は広い乳川扇状地(ちがわせんじょうち)によってできた段丘の上に、東向きにまつられていて、後ろに餓鬼岳がそびえる雄大なけしきは神をお祀りする場所としてまことにふさわしいところです。
神社の森の面積は二五三四坪ほどもあります。特別大きな木があるわけではありませんが、檜や杉がよく茂り、お宮にふさわし景色を作っています。
お宮の森の後ろのほうにある地域を神明原(しんめいばら)というのは、そこに神明社がまつられている野原という意味です。
三島社と神明社がいつ清水の村にまつられるようになったのかは、資料がなく、予想するしかないのですが、昔、この地方を治めていた仁科氏によって清水の開拓が進められた鎌倉時代後期のころではないかと思われます。村を守る神(=鎮護の神 ちんごのかみ)として勧請(かんじょう)されたのだろうと思われます。
また、神明社の場所が地頭(じとう)であった清水氏居館(もとの郷蔵の西)戌亥(いぬい)の方角にあるので、居館の鬼門除け(きもんよけ)の意味もこめられて祀ったかとも考えられます。 (写真上 神楽殿)
(注 以下「お宮のれきし」については、文・写真とも、郷土史研究家 故 篠﨑健一郎さんの研究をもとにしています。篠﨑さんは研究の成果を一冊のアルバムにまとめられ、平成2年7月に本神社に寄贈されました。本神社はそれを大切に保管しています。なお、文の表現は子供たちにもわかりやすいように変えてありますが、変えようのない専門的なことばはそのままになっています。また、写真はアルバムから写したものですが、何年もたっているのでやや鮮明さに欠けています。)
その2 むかしの三島神社
棟札(むなふだ=建物を作った人や年、作った理由などが書いてある板)に、寛政10年、木曽の井戸長四郎によって建てられたと書かれています。
このお社は、作られてから昭和48年までの175年の間、本殿としてすえられていましたが、いたみがめだつようになったので、新しい社殿を作ることになりました。
そのとき、このお社は城山神社のお社として西山城跡にうつされました。
今はトタンぶきですが、むかしの屋根はこけらぶきでした。建物全体は素木造(しらきづくり)で,色はついていませんでした。
その3 むかしの神明社
寛政3年に建てられてから平成2年までほぼ200年ちかくになります。神明社としての役目が終わったあとも、大崎の堤の傍らで水神社としてまつられていました。
神明造りは神社建築のもっとも古い形で、伊勢神宮がその中心となる形ですが、宮本の仁科神明宮もその古い形をよく伝えています。
このお社の大きさは三島社の社殿とほぼ同じです。よけいな飾りのない、神明造の特色をよく表しています。
この写真は平成2年ころに撮影されたものだと考えられますが、背景に見える森が現在に比べて見通しがよく、木々が若いように感じられます。
そのように考えると、句会が開かれた明治18年(1885年)にこの建物の上にすわって句会をした人たちがみた風景はいまと大きく違って見晴らしがよかったのかもしれません。
その4 舞殿
境内の中央にある建物は舞殿ともいいます。この建物は正面(桁行)六間、側面(梁間)四間のやや略式のものです。
建てられたのは近代になってからですが、正確な資料がないのではっきりとはしません。しかし、内部に掲げてある句額(俳句をかいた額)に「明治十八年」とあり、もしもこれを掲げた句会が、舞殿落成記念であるならば、そのころ建てられたものということになります。
句の額を掲げた人たちは清水やその周りの村の素人の俳人だと思われますが、「天地人」でなく、相撲の番付のように「東西の大関」から始まるように書かれています。その書き方は興味ぶかいのですが、理由ははっきりしません。
その5 今の本殿
○今の本殿は昭和48年に再建されたものです。内宮式の神明造で、すこし変わっているところもあります。しかし、直線的な構造や、一切の装飾を排したシンプルな素木造りという点では、まさに神明造の本領にかなっているといえます。
○棟札(むなふだ=建物を建てた人や年などが書かれた木の板)
この棟札には「御本殿竣工遷座祭斎行」(ごほんでん しゅんこう せんざさい さいこう)と書かれています。この棟札から、今の本殿は昭和48年に完成して、神様をここにお移ししたことがわかります。
はじめのころは、今のように本殿の周りに板の塀がなかったようです。
その6 二つのお宮を合わせたころのこと
明治39年、神社合祀令(じんじゃ ごうしれい=いくつかの小さなお宮を集めて、ひとつのお宮にするようにという命令)が出されました。それで清水の人たちは、それまで別々にまつっていた三島社と神明社を合わせることにしました。その結果、三島社のお宮が神明社の境内に移されました。そのときに、清水の集落内にあった他の小さなお宮も移されました。しかし、それは大きな行事でしたので、すぐに取りかかることができませんでした。北安曇地方は42年から43年にかけて行われたようです。
○写真はありませんが、表に「天下泰平 奉遷宮三島社御棟札 国家繁昌」と書かれた棟札があり、その裏側に「明治四十三年十一月吉日」とあることから、清水のお宮の合併も明治43年だったと思われます。
○また上の棟札とは別に「大正六年九月八日」と書かれた「社務所の棟札」があります。そのことから「三島・神明両神社」が合祀(ごうし=合わせること)されてから10年後に社務所が新築されていることがわかります。
上の写真 大崎の祠 御社宮司
大崎の上の方の尾根先にある小さなお宮。今は森らしいものは見あたりませんが、享保年間の記録には東西九間、南北八間のお宮の森があると記されています。
その7
むかしむかしのお祭りのようす
遠い昔は、左の写真のように地域ごとに小さなお宮がまつられ、近くの人たちがお祭りをしているところがありました。そこにまつられている神ははるか古代からまつられていた神で、いわば民間信仰の原点ともいえる神でした。
大崎のように、祠の付近にはたいてい古代の村あと(遺跡)があり、その遺跡が発見されています。
昔はあちこちの村で多くの神がまつられていましたが、明治の神社合祀令によって、村の中心的な神社に合祀され、廃絶してしまうことが少なくありませんでした。
大崎では昔はなかなかにぎやかなお祭りをおこなったらしく、明治二十何年かには、遠くから芝居をよんできて、下方の畑に舞台を仮設し、「義経千本桜」などを上演したという記録も残されています。