近代以降の科学は、「観測可能なものだけが実在の基準となりうる」という暗黙の信条を共有してきた。量子力学における「観測問題」もその延長線上にある。しかし、もし世界の大部分が、われわれの意識や感覚に届かない領域として存在しているとしたらどうだろうか。
クトゥルー神話の「旧支配者」は、まさにそうした存在の寓話である。彼らは人間の知覚や認識の網から滑り落ち、意識されないままそこに「ある」。その不気味さは、単に姿形が怪物的であるからではない。人間が持つ「世界を理解している」という前提を崩壊させる点において、狂気を呼び込むのだ。
哲学者イマヌエル・カントは、物自体(Ding an sich)は認識できず、我々が知りうるのは現象にすぎないとした【脚注1】。この考えを徹底すれば、「観測されない宇宙」は常に人間の外部にあり続ける。
量子力学の解釈においても、「観測」が実在の確定条件であるとするコペンハーゲン解釈は、この問題を象徴的に示す。だが、もし観測者が存在しなければ、宇宙は曖昧なまま漂うのだろうか?
クトゥルー神話的な宇宙像は、この問いを極端に突きつける。すなわち「人間の意識が届かない宇宙は、恐ろしくも無関心に存在している」という想定である。
なぜ「観測できないもの」を思考するとき、人は狂気に陥るのか。
その理由の一つは、人間の精神が「意味付け」を基盤に成立しているからである。フロイトが示したように、無意識の世界でさえも言語的・象徴的に秩序づけられている【脚注2】。
しかし、旧支配者は意味を与えない。彼らは「意識の網」に捕まらない存在であり、結果として人間は理解不能のまま直面することになる。この理解不能性が「狂気」を呼び込むのだ。
ラヴクラフトの小説『狂気の山脈にて』において、登場人物たちは未知の古代都市を探索する中で、異様に幾何学的な建築群に直面し、その合理性すら狂気を誘うものとして描かれる。秩序が存在するにもかかわらず、それが人間の「秩序概念」と噛み合わないとき、精神は崩壊の危機に瀕する。
ニーチェは『善悪の彼岸』で「人間の視点はあくまで有限である」と強調した【脚注3】。もし視点の外に広がる世界を覗き込もうとすれば、そこには「深淵」が広がっている。そしてその深淵は、我々を見返さない。
つまり、観測なき宇宙とは「無関心な宇宙」である。人間がいかに望もうと、その存在は人間に向き合わない。ここにこそ、クトゥルー神話が描く恐怖の核心がある。
われわれは、宇宙が人間中心であることを暗黙に期待する。しかし旧支配者は、その期待を冷徹に裏切る。狂気とは、実は「無関心の宇宙」を直視してしまった人間の精神の反動ではないだろうか。
「観測なき宇宙」をめぐる議論は、単なる空想ではなく、哲学と科学双方の問題圏に通じる。人間の理解が及ばない存在を想定することは、狂気を招くと同時に、認識の限界を自覚する契機ともなる。
異界知学研究序説において、このテーマは「人間の理性と宇宙的無関心とのあいだに生じる裂け目」を明らかにする試みである。われわれはその裂け目を恐怖として受け止めるだけでなく、認識の拡張として引き受けるべきなのだ。
Sigmund Freud, Das Unbewusste(1915)
Friedrich Nietzsche, Jenseits von Gut und Böse(1886)
H. P. Lovecraft, At the Mountains of Madness(1931)
Thomas Nagel, “What is it like to be a bat?” The Philosophical Review 83(4), 1974.