そこに「在る」のに、見えないものがある。
存在しているのに、我々の目に映らないものがある。
これはオカルトの話でも、SFの話でもない。
認識とは、意識のフレームによって構成される。
つまり、「見ること」には前提が必要なのだ。
異界知学(Exognomica)とは、
「認識の対象外にあった存在や構造を、意識可能な“知の対象”として再定義するための、観測と思索と創造の実践学である。」
神話、宗教、科学、夢、情報、そして狂気。
この世界には、あまりにも多くの「名前のない存在」がある。
我々はそれを“見て”いないのではない。
見るという構文そのものを持っていないのだ。
異界知学は、その“見るための構文”をつくる学問である。
ローレンス・ブレアの著書『超自然学』†1にはこんな逸話がある。
1520年、マゼランの艦隊が南米フエゴ島に到着した際、島民たちは彼らの船がまったく“見えなかった”という。
それは視力の問題ではない。
彼らの世界の構造には「巨大な木造帆船」という概念が存在していなかった。
だから“視界”にあっても、“認識”できなかったのだ。
──この逸話は、クトゥルー神話における旧支配者の姿とも重なる。
彼らは見えていないのではない。通常我々が認識している概念の外にいる存在なのだ。
ニーチェは言った。
「深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いている」
善悪の彼岸 ― 『将来の哲学への序曲』(ニーチェ) †2
この言葉の恐ろしさは、“見返される”ことによって、自らの中に潜む“異物”が目覚めるという点にある。
だがクトゥルー神話では、深淵はおそらく我々を覗いてなどいない。
相手にされていないことそのものが恐怖である。
ならば我々は、見返されることのない深淵に向かって、一方的に視線を投げかけつづけるのだろうか?
異界知学は、以下のような対象に接近するための知的構築である:
神話に登場する“名前を持たぬ存在”
認識できていないが、世界に確かに作用している構造
意識のスケール外にある情報、感情、夢、存在
そのために、我々は複数の“知のレンズ”を使う:
神話学 … 言葉にされなかった概念の温床
哲学 … 存在と認識の関係性を問い直す
数理構造論 … 空間と構造のフレームを可視化する
情報理論 … 知の不完全性・非対称性を明示する
『異界知学研究序説』は、旧支配者を様々な角度から研究する“思考の旅”である。
講義は「旧支配者はなぜ我々を“見ない”のか?」という問いから始まる。
やがて我々は、空間、夢、狂気、儀式、神話、情報、AI、未来といった多層的な異界へ踏み込んでいく。
そして、最終的には「知るとは何か?」という、問いの根本に還ってくることになる。
この講義を受講するあなた自身が、
「今まで“見えなかった”もの」に気づいてしまったとき──
それは、異界知学の第一歩が、すでに始まっている証である。
†1 著作名:『超/自然学: 宇宙と意識のリズム』(ローレンス・ブレア)
†2 著作名:『善悪の彼岸 ― 将来の哲学への序曲』(フリードリヒ・ニーチェ)