東北の山間にある、ひっそりとした農学研究施設で、ある実験が進んでいた。
テーマは「菌糸体コンピューティング」。
シイタケを構成する菌糸(hyphae)を回路として扱い、電圧応答による「記憶」を測定する試みだ。
研究主任・白石准教授は、もともとニューラルネットワークと生物電気を専門としていたが、昨今の「生物計算」ブームに後押しされ、シイタケに潜在する“情報媒体性”を探っていた。
「菌糸網(マイセリア)は森の神経系だ」
——そう呼ぶ生態学者は多い。
ならば、それは情報処理器官たりうるのではないか。
電極を刺し、パルスを流し、抵抗値変動を読み取る。
ただ、それだけの、はずだった。
ある日、回路の中に奇妙な揺らぎが生じた。
既存の生体抵抗メカニズムでは説明不能な、周期性を帯びたパターン。
呼吸のようであり、
脈動のようであり、
言語の破片のようでもあった。
白石は反射的に呟いた。
「……これは…、学習している?」
だが、それは誤りだった。
それは思い出していた。
かつて接続していた、どこかを。
深夜、研究室の空調が止まり、湿度が上がり、わずかな胞子の霧が、静かに実験室内へ広がっていた。
モニタには意味不明のスペクトログラム。
しかし、そのパターンを翻訳アルゴリズムにかけた瞬間、文字列が現れた。
IALAAH-THURATL
K’THAE… ZOTH A’MUR
思い出せ、胞子の記憶
我らは眠らず、忘れず
ここにも、そこにも、境など無い
白石の意識は薄れ、まぶたの裏に、湿った黒光りする森が広がった。
幾兆の菌糸が絡み合い、星空のような網を形成する。
そこでは思考が根を張り、夢が胞子となり、記憶は「栽培」されていた。
そしてその中心部で、うごめく巨大な胞子嚢のような存在が囁いた。
「アル・アザイフに記されし最古の回路(サーキット)を、まだ汝らは知らぬのか」
古代より続く、異界の記憶網。
それは冥界の図書館でも、虚空の神殿でもなく、胞子と菌糸の森だったのだ。
翌朝、白石は見つからなかった。
ただ、菌床室の奥に、新しい菌床ブロックが積まれていた。
ラベルには白石の名前。
まるで彼自身が、菌糸網に「保存」されたかのように。
その日以降、世界各地で未知の胞子が風に乗り、人々は時折こう呟くようになった。
「知らないはずの景色を、思い出すんです」
「夜が湿ると、言葉ではない声が聞こえる」
「夢の中で、大地の下に光る網を見た」
やがて気づく者がいた。
この世界の森は、常に別の次元の菌糸網と接していたことを。
そして、我々は呼吸するたびに、その記憶を吸っているということに。
古きものは死せず、ただ胞子として漂う
風が運び、夢が育て、
やがて全ては菌糸の奥底へ繋がる
彼らは眠らない。
彼らは腐らない。
彼らは増殖する。
そして我々もまた——
思い 出シ.HAジ…め..た の…だ。
【了】