原作:クトゥルフ神話TRPGセッションリプレイ
主人公:シュウ・ナガコト(ミスカトニック大学助教授、32歳)
原作:クトゥルフ神話TRPGセッションリプレイ
主人公:シュウ・ナガコト(ミスカトニック大学助教授、32歳)
ミスカトニック大学の研究棟は、晩秋になると妙に静かだった。
窓の外では枯れ葉が風に転がっているが、その音さえも、厚い壁に遮られて届かない。シュウ・ナガコトは研究室の机に向かい、ドイツ語で書かれた論文に目を落としていた。数式と文章が入り混じる、いつもの光景だ。
机の隅では、古い腕時計が静かに時を刻んでいる。
カチ、カチ。
正確で、律儀な音。
それはシュウにとって、時間がまだ直線的に流れていることを確認させる、小さな証拠でもあった。
その音を遮るように、扉がノックされた。
「失礼するわ」
入ってきたのは、エリス・ホイットリーだった。金髪の長い髪をきれいにまとめ、仕立ての良いコートを羽織った長身の女性。アーカムで不動産業を営む、やり手の経営者だ。シュウがこの街に来たとき、住まいを世話してくれた縁もあり、仕事上以上の信頼関係があった。
だが、その日の彼女は、いつもより表情が硬かった。
「忙しいところ、ごめんなさい。どうしても、あなたに見てほしいものがあるの」
エリスはそう言って、書類鞄から一枚の設計図を取り出した。紙は新しく、折り目もついていない。正式な建築図面だ。
シュウは無言でそれを受け取り、机の上に広げた。
一見して、問題はない。
壁の配置、寸法、注記――どれも正確だ。直線は直線として描かれ、角度もきちんと直角になっている。
それでも。
シュウは、眉をわずかにひそめた。
「……妙だな」
言葉にする前に、違和感はすでにあった。視線をどこに向けても、図面が“平面”として頭に収まらない。数値は正しいのに、全体像が落ち着かない。
エリスは、彼の反応をじっと見ていた。
「やっぱり、感じる?」
「ええ。これは……測定ミスではないですね」
シュウは指先で、問題の部屋をなぞった。角部屋。外から見れば、何の変哲もない一室だ。
「ここです。この部屋。何度測っても、角度が一定しないんです」
エリスは淡々と説明した。
直角定規を当てても、時間を置くと微妙にズレる。測るたびに、数値が変わる。誤差と言い切るには、あまりにも一貫性がある。
「それだけじゃないわ。中に入ると……距離感が狂うの。廊下が、妙に長く感じる」
シュウは、設計図から視線を上げた。
「視覚的な錯覚、ではなさそうですね」
「ええ。むしろ……見ないほうが楽になる感じ」
その言葉に、シュウの背筋を小さな緊張が走った。
“見ないほうが楽”。
それは、理性ではなく本能が下す判断だ。
「エリス。ひとつ聞いてもいいですか」
「なに?」
「その部屋で、“角”を意識したとき、何か感じましたか?」
彼女は一瞬、答えに詰まった。そして、正直に言った。
「……見返された気がした」
沈黙が落ちる。
研究室の空気が、ほんのわずかに重くなった。
シュウは、ゆっくりと息を吐いた。
「なるほど。これは建築の問題じゃない」
彼の脳裏に、古い知識が浮かぶ。
直線、角度、収束。
そして――角を通って現れる存在。
「エリス。もし時間があるなら、大学の数学棟を一緒に見に行きたい。似た現象が、あちらでも起きている」
エリスは迷わなかった。
「行きましょう。専門家の判断なら、信じるわ」
シュウは設計図を丁寧に畳み、腕時計に目を落とした。
針は、いつも通りに動いている。
だが、その規則正しさが、なぜか少しだけ――頼りなく思えた。
数学棟は、夕暮れの色に沈みかけていた。
古い石造りの建物は、昼間であれば学生の足音と会話で満ちているはずだが、その時間帯には不自然なほど静かだった。
重たい扉を押し開けると、ひんやりとした空気が流れ出してくる。
暖房が止まっているわけではない。ただ、体温を拒む冷え方だった。
「……静かね」
エリスが小さく呟く。
その声が、廊下の奥へ吸い込まれていく。
シュウは一歩、建物の中へ踏み出した。
床の感触は確かだ。靴底が石に触れる硬さも、摩擦音も、すべて正常だ。
だが――足音が、少し遅れて返ってくる。
コツ……
……コツ。
まるで、距離を測られているかのようだった。
「第3講義室は、この先の突き当たりです」
シュウは記憶を辿りながら言った。
廊下は、視覚的には完全な直線だ。壁、床、天井――どこにも歪みはない。
それでも、二人は同時に気づいていた。
「……遠くない?」
エリスが、確かめるように言う。
「ええ。進んでいるはずなのに、近づいている感覚が薄い」
シュウは立ち止まり、肩掛けカバンに手を伸ばした。
中から取り出したのは、巻き尺だった。
「測ってみましょう。感覚だけでは、判断できません」
エリスはすぐに理解し、うなずいた。
「どこを固定すればいい?」
「ここで。壁際がいい」
彼女は巻き尺の端を持ち、床に膝をついてしっかりと固定する。
その動作に、迷いはなかった。
「準備いいわ」
シュウは巻き尺を引き出しながら、廊下を歩き始めた。
一歩。
二歩。
三歩。
視覚的には、確実に進んでいる。
それなのに――金属が引き出される音が、ほとんどしない。
五歩。
十歩。
シュウは足を止め、足元の巻き尺を見下ろした。
「……3.2メートル?」
思わず、声が漏れた。
歩数から考えれば、最低でも十メートルは進んでいる。
だが、数値は明らかにそれを否定していた。
「冗談でしょ」
エリスが目盛りを確認し、眉をひそめる。
その瞬間だった。
カチ。
巻き尺の目盛りが、一目盛りだけ――逆に戻った。
「……今、戻ったわよね?」
エリスの声が、わずかに低くなる。
「ええ。見間違いではありません」
シュウは巻き尺をゆっくりと巻き取りながら、ノートを取り出した。
鉛筆で、簡潔に記録する。
歩数、表示距離、時間。
距離は伸びない。
それどころか、収束している。
シュウの思考が、ひとつの結論に辿り着く。
「……直線が、短くなろうとしている」
「どういう意味?」
「空間が、“理想的な直線”に近づいている。現実の距離を犠牲にして」
エリスは、息を呑んだ。
「それって……安全じゃないわよね」
「ええ。少なくとも、人が通るための状態ではない」
そのとき、シュウの腕時計が、ほんの一瞬だけ刻みを早めた。
カチ、カチ、カチ。
すぐに元に戻る。
だが、確かに――時間もまた、影響を受けている。
廊下の突き当たり。
そこにあるはずの扉が、やけに鋭く見えた。
角が、角として強調されている。
「……行きましょう」
エリスが言った。
声は落ち着いているが、覚悟を含んでいた。
シュウはうなずく。
「ええ。ここまで来た以上、確認しないわけにはいかない」
二人は、距離が縮まる廊下を進んだ。
その先で待っているのが、
“講義室”なのか、
それとも――別の何かなのか。
まだ、誰にも分からなかった。
第3講義室の扉は、廊下の突き当たりにあった。
ごく普通の木製の扉だ。古いが、大学の建物では珍しくもない。
それでもシュウには、その扉が異様に「整いすぎて」見えた。
蝶番、取っ手、縁。
どこを見ても無駄がない。
直線と直角だけで構成された、完璧な形。
「……そのまま開けるのは、やめたほうがいい」
シュウはそう言って、肩掛けカバンからロープを取り出した。
「ロープ?」
「ええ。直接触れない方がいい。
直線的な動作は、なるべく避けたい」
エリスは一瞬だけ考え、すぐに納得したようにうなずいた。
「なるほど。遠隔操作ね」
シュウはロープの端に輪を作り、慎重に扉の取っ手へ引っかける。
距離を取り、ロープを張る。
「準備はいいですか」
「いつでも」
シュウがロープを引いた。
――ギィ……。
扉は、ゆっくりと開いた。
人の手ではなく、曲がる媒介によって。
その瞬間、空気が変わった。
冷たい、というより――
折れた。
講義室の中は、一見すると普通だった。
黒板、教卓、机、椅子。
長年使われてきた、ありふれた教室。
だが、シュウは一歩足を踏み入れた瞬間に理解した。
四隅が、同時に視界に入らない。
どこかを見ると、必ず別の角が見えなくなる。
視線を動かすたびに、部屋の形が微妙に変わる。
「……この部屋、変よ」
エリスの声が、背後から聞こえた。
「呼吸してるみたい」
シュウは無言でうなずいた。
それは比喩ではない。
空間が、周期的に状態を変えている。
腕時計に目を落とす。
――止まっていた。
「……時間も、影響を受けています」
「冗談じゃないわね」
二人は、自然と部屋の中央を避け、壁沿いに進んだ。
直線の延長上に立たないよう、慎重に。
黒板の前に来たとき、
シュウは息を呑んだ。
数式が書かれている。
いや、書かれてはいない。
削られていた。
lim θ → 0
κ = 0
√−1
チョークではない。
爪か、硬い何かで、黒板の表面を削り取って刻まれている。
「……誰かが、意図的に」
シュウは低く呟いた。
「召喚、じゃないわよね?」
「ええ。これは――侵入条件です」
彼は、式を指さした。
「角度をゼロに近づけ、曲率を消す。
現実には存在しない値を、現実側に引き込む」
エリスの表情が、引き締まる。
「通路を、作ってる?」
「正確には……
通路が成立する状態を、維持しようとしている」
そのときだった。
部屋の一角――
天井と壁と床が交わる点が、
わずかに“鋭く”なる。
直角ではない。
だが、直角よりも、はっきりとした何か。
視線を向けた瞬間、
見てはいけないと本能が叫んだ。
「……来るわね」
エリスの声が、かすかに震える。
シュウは、無意識のうちにロープを強く握っていた。
空間が、成立しようとしている。
この部屋は、もうただの講義室ではなかった。
角が、開きかけていた。
天井と壁と床が交わる一点。
そこは本来、三つの面が均衡を保つ場所のはずだった。
だが今、その均衡は崩れ、直線として確定しようとしている。
シュウは、視線を黒板へ戻した。
κ = 0
この式が成立している限り、
この部屋は“通路”になりうる。
――ならば、成立させなければいい。
シュウは、肩掛けカバンに手を伸ばした。
指先が触れたのは、小さなナイフの柄。
護身用。
だが今は、道具だ。
「……等号があるから、成立する」
自分に言い聞かせるように呟きながら、
彼は黒板に一歩近づいた。
右手にはナイフ。
左手には、扉につながったロープ。
直線の延長上に身体を置かない。
意識的に、少しだけ体を斜めにする。
「シュウ……」
背後で、エリスが名前を呼ぶ。
「大丈夫。
やることは、単純だ」
単純であることと、
容易であることは、まったく別だ。
ナイフの先端が、黒板に触れる。
ギィ……
音がした。
それは、刃が石に当たる音ではない。
空間が軋む音だった。
シュウは、等号の一本目を削り落とそうとした。
ほんのわずかでいい。
「=」が「≠」になるだけでいい。
だが――
黒板の表面が、逃げた。
削れたはずの溝が、
次の瞬間には、元の位置に戻っている。
「……自己修復?」
思わず、声が漏れる。
数式が、意思を持っている。
いや、式そのものではない。
この状態を維持しようとする、何かがいる。
その瞬間、空間が一段階、沈んだ。
見えない圧が、講義室全体を押し下げる。
シュウの腕時計が、狂ったように動き、
そして――止まった。
角の奥で、
“何か”が触れた感触があった。
姿はない。
音もない。
だが、確かに――
こちらを測っている。
シュウは理解した。
これは“失敗”だ。
等号を書き換えるには、
すでに遅すぎた。
そのとき。
背中に、強い感触。
「まだよ!」
エリスの手だった。
力強く、現実的な温度を持つ手。
「まだ、終わってないでしょ!」
その声が、
シュウを“こちら側”へ引き戻す。
彼は、はっと息を吸った。
――完全な侵入ではない。
通路は開きかけているが、
固定されていない。
なぜなら。
この部屋には、まだ――
曲がるものが存在している。
シュウの視線が、
手にしたロープへと落ちた。
そして、扉へ。
数式を壊せなかったなら、
空間そのものを壊すしかない。
彼は、エリスと視線を交わした。
言葉はいらなかった。
シュウは、ロープを強く握り直した。
黒板の数式は、もう見ない。
角の奥にある“何か”も、見ない。
見る必要はなかった。
やるべきことは、決まっている。
「エリス。僕の合図で、全力で引いて」
声は、驚くほど落ち着いていた。
恐怖が消えたわけではない。
ただ、思考が一本道に収束していた。
エリスは一瞬だけ彼の横顔を見て、うなずく。
「了解。
……請求書、覚悟しとくわ」
その言葉に、シュウはほんの少しだけ口元を緩めた。
――現実の話をする。
それだけで、人間は“こちら側”に立てる。
シュウは一歩後ろに下がり、
ロープに体重をかける。
「今だ!」
二人は、同時に引いた。
ギャァン!!
金属が悲鳴を上げる。
蝶番が、歪み、耐えきれずにねじれる。
扉は、直線的には倒れなかった。
ロープに引かれ、
弧を描き、
角を潰しながら崩れ落ちる。
その瞬間――
ヴォンッ
音ではない。
概念が破綻する感触。
講義室の空気が、一気に緩んだ。
鋭さが消える。
張りつめていた直線が、
わずかに“たわむ”。
角の奥で、
“確定しかけていた存在”が、
行き場を失った。
吠え声は、なかった。
ただ、
失敗した、という気配だけが残った。
シュウは、膝に手をついた。
息が、少し荒い。
だが、呼吸はできている。
「……終わった?」
エリスが、慎重に尋ねる。
「完全に、ではありません。
でも……侵入は未成立です」
シュウは、倒れた扉を見た。
直線でも、角でもない、
ただの“壊れた建具”。
それが、今はひどく心強かった。
腕時計を見る。
――再び、動き出している。
カチ、カチ。
いつもより、ほんの少し遅い気もしたが、
それはもう問題ではなかった。
「出ましょう」
シュウが言うと、
エリスは深く息を吐いた。
「ええ。
これ以上、ここにいる理由はないわ」
二人は、崩れた扉を避け、
静まり返った講義室を後にした。
背後で、
もう“何か”が動くことはなかった。
第3講義室を出た廊下は、妙に長く感じられた。
さきほどまで感じていた圧迫感は消えている。
だが、完全に“元に戻った”とも言い切れなかった。
シュウは歩きながら、無意識に壁と床の境目を確認していた。
直角。
問題ない。
それでも、視線を外すと、
一瞬だけ――
角が鋭く見える気がする。
「ねえ、シュウ」
エリスが、少し後ろから声をかける。
「さっきの話だけど。
“教授じゃない”ってやつ」
シュウは、歩調を落とした。
「ああ……。
ええ、まだ助教授ですから」
「肩書きの問題じゃないわ」
エリスは、はっきりと言った。
「あなた、責任を引き受けるとき、
自然に“上に立つ側”の思考になる」
シュウは、返事をしなかった。
否定も、肯定もせず。
「それが悪いって言ってるんじゃないのよ」
エリスは続ける。
「ただ……
危ない橋を渡るとき、
自分だけで抱え込む癖がある」
シュウは、立ち止まった。
「……それは」
言いかけて、言葉を探す。
「昔からです。
多分、実家の影響でしょうね」
北海道の実家。
代々伝わる古文書。
雪鬼文書。
説明はしなかったが、
エリスはそれ以上、踏み込まなかった。
「なら、覚えておいて」
彼女は、少しだけ声を柔らかくした。
「今回は、
“あなた一人じゃなかった”ってこと」
シュウは、ゆっくりとうなずいた。
「……はい」
二人は、そのまま数学棟を出た。
外の空気は、ひどく現実的だった。
風が吹き、学生の話し声が聞こえる。
世界は、続いている。
だが、完全に同じではない。
シュウのポケットの中で、
腕時計が一瞬だけ、
逆回転した。
ほんの、コンマ数秒。
気のせいだと、思うことにした。
数日後。
シュウ・ナガコトは、
学会出張という名目でアーカムを離れていた。
数学棟の研究室では、
彼の不在をめぐって、
静かな火花が散っていた。
「……つまり、危険な場所に
また一人で行ったってことですか?」
エイミー・カーライル博士は、
眼鏡越しにエリスを見た。
声音は丁寧。
だが、感情は隠しきれていない。
「“一人で”じゃないわ」
エリスは、落ち着いて答える。
「私も一緒よ」
「それが問題なんです」
エイミーは、少しだけ声を強めた。
「あなたは、専門家じゃない」
「でも、逃げなかった」
エリスは微笑んだ。
「それに、
彼は“一緒に行くな”って言っても
聞かないタイプでしょう?」
エイミーは、言葉に詰まった。
それは、否定できない。
「……彼は」
エイミーは、視線を落とす。
「危険なものを、
理屈で処理しようとする人です」
「ええ」
「でも、
理屈が通じないものもある」
エリスは、少しだけ真剣な表情になった。
「だからこそ、
“理屈の外側”に立つ人間が必要なのよ」
二人の視線が、ぶつかる。
しばらくの沈黙。
やがて、エイミーは息を吐いた。
「……ずるいですね」
「何が?」
「余裕があるところ」
エリスは、肩をすくめた。
「年の功よ。
それに――」
少しだけ、声を落とす。
「今のところ、
恋愛感情はないわ」
エイミーの表情が、わずかに揺れる。
「“今のところ”?」
「ええ」
エリスは、窓の外を見る。
「未来は、直線じゃないもの」
そのとき。
研究室の机の上に置かれたノートの端が、
ほんの一瞬、鋭角に折れた。
二人は、同時にそれを見た。
次の瞬間には、
何事もなかったかのように戻っている。
「……気のせい、ですよね?」
エイミーが言う。
エリスは、答えなかった。
ただ、
シュウ・ナガコトという存在が、
世界に残した“歪み”を思う。
曲率は、ゼロにはならなかった。
だが――
完全には、戻らない。