原作:クトゥルフ神話TRPGセッションリプレイ
主人公:シュウ・ナガコト(ミスカトニック大学助教授、32歳)
原作:クトゥルフ神話TRPGセッションリプレイ
主人公:シュウ・ナガコト(ミスカトニック大学助教授、32歳)
曇り空から射す光は弱く、ミスカトニック大学の古い建物の中は昼間でも少し薄暗い。
研究室の窓際に置かれた本棚からは古い革表紙の匂いが漂い、机の上にはインク壺とペン、積み上がった書類。
シュウ・ナガコトは、江戸期の漢籍の虫食いページを慎重に広げ、欠けた文字を筆記していた。
――コツ、コツ。
扉を叩く音に顔を上げる。
「どうぞ」
扉が開き、長身の女性が入ってきた。エリス・ホイットリー。不動産業を営む彼女は、ビジネスライクな雰囲気を漂わせながらも、その目には焦りが宿っていた。
「お忙しいところすみません、ナガコト先生」
「エリスさん。何か急ぎのご用件ですか?」
エリスは鞄から古びた写真を取り出し、机の上に置いた。
「この家、見覚えは?」
写真には、二階建ての木造家屋。外壁は灰色にくすみ、二階の窓には板が打ち付けられている。庭は荒れ、雑草が伸び放題だ。
「アーカム北部の住宅街ですね。何年も空き家になっているはず」
「そう。幽霊騒ぎで誰も住まない。近所では“悪霊の家”と呼ばれているの」
エリスは声を潜めた。
「夜になると二階の窓に人影が歩くのが見える、地下室から奇妙な音がする……。これでは売れない。調査してくれれば20ドル、原因を取り除けばさらに20ドル上乗せします」
ナガコトは写真を見つめ、静かに息を吐いた。
――幽霊か、それとも何か別の……。
「引き受けます。住所をいただけますか?」
数日後。秋風が吹き、舗道の落ち葉がカサカサと音を立てる。
ナガコトはリュックに懐中電灯、ロープ、カメラ、ノート、万年筆を詰め込み、現場へ向かった。
まずは近所の聞き込みから始める。
庭先で洗濯物を取り込んでいた中年女性に声をかけると、彼女は手を止め、落ち着かない表情を浮かべた。
「大学の先生が、あの家を?」
「ええ、調査でして……何かご存じなら教えていただけませんか」
女性は目を逸らし、声をひそめる。
「夜になると、二階の窓を人影が横切るのよ。何年も誰も住んでないのに」
さらに、煙草をふかしていた初老の男性にも聞く。
「昔の持ち主はコービットという男だ。神父を名乗ってたが、夜な夜な儀式をしてたらしい。地下室には行くな、あそこは生き物の匂いがする」
その言葉に、背筋がわずかに冷える。
家の裏手に回ると、南京錠のかかった外付け地下室扉(セルラードア)と、錆びついた裏口が見えた。南京錠の向こうから漂ってくる空気は、湿り気とわずかな腐臭を含んでいた。
裏口は錆びてはいたが、鍵は外れていた。
ナガコトは慎重にドアを押し、軋む音に眉をひそめながら中に入る。
空気はひんやりとして湿り、家具や床板から漂う黴の匂いが鼻を刺す。
二階へ上がると、右手の寝室はほとんど空っぽだった。壁には割れた鏡が釘で固定されている。
――妙だな。
鏡を外すと、裏に封蝋付きの封筒が隠されていた。
封を切ると、古い紙と小さな金属の鍵が入っている。紙にはこう書かれていた。
“コービットは地下で“それ”を封じた。だが完全ではない。奴は生きたままだ。鍵を持つ者だけが扉を開けられる。”
さらに、箪笥からは渦巻き模様のペンダント、ベッド下からは黄ばんだ日記が出てきた。
日記の筆者はコービット本人。
“奴は死なない。食事を与えぬ限り眠り続ける。だが封印は弱まる。誰も近づけてはならない。”
ページの端には渦巻きの落書きが何度も繰り返され、乾いた黒い染みが付着している。
家の裏手からさらに奥へと足を踏み入れると、木立が薄暗く広がっていた。
午後の光は枝葉に遮られ、地面は湿り気を帯びている。
落ち葉を踏むたびに、柔らかく湿った音が靴底から伝わる。
やがて、不自然に地面が盛り上がっている場所に行き当たった。
しゃがみ込んでみると、そこには新しく掘られた穴があった。
土はまだ湿っており、掘り返されたばかりのようだ。
懐中電灯の光を穴に向けた瞬間、ナガコトの呼吸が止まった。
土の中から覗く黒く湿った塊が、ぴくりと動いたのだ。
よく見ると、それは人間の腕に似ていた。
皮膚はまだらに剥がれ、筋肉と骨がのぞき、爪は異様に長く伸びている。
次の瞬間、低く濁った唸り声が穴の奥から響いた。
人間の声帯から発せられるものとは思えない、湿った振動を伴った音だ。
背筋を氷が走る。
ナガコトは後ずさりし、視線を穴から外した。
そのまま振り返り、木立を抜けて家を離れる。
ミスカトニック大学、考古学研究室。
ナガコトは同僚のエイミー・カーライル博士に今回の発見を説明した。
机の上には手紙、鍵、ペンダント、そしてコービットの日記が並べられている。
「……つまり、地下に何かが封じられている可能性が高い」
「そうみたいね。あの穴の腕と日記の記述が一致してる」
エイミーは日記のページをめくりながら、真剣な眼差しで言った。
「二人で行きましょう。危険だけど、一人よりは安全よ」
数日後、二人は再び家へ向かった。
夜の空気は冷たく、吐く息が白い。
地下室への扉を開くと、湿った空気が顔にまとわりつく。
階段を降りると、奥の闇の中で何かが動いた。
濁った呼吸音と、湿った擦過音が近づいてくる。
目が慣れてくると、それは腐敗した人型であることがわかった。
片目は白く濁り、口から黒い液体が垂れている。
エイミーが短く叫んだ。
「引き返すわよ、シュウ!」
二人は一目散に階段を駆け上がり、鉄扉を閉めて鍵をかけた。
大学図書館の特別資料室。
埃をかぶった書物の山から、ナガコトは渦巻き模様と酷似した図形を見つけた。
封印と抑制の印
特定の儀式空間で用いることで、超常的存在を物理的に拘束する。
真鍮棒は印の中心に接触させる「起動具」、ペンダントは印を安全に扱うための「媒介具」。
さらに別のページには、封印強化の手順がラテン語で記されていた。
ペンダントを石板の中央に置き、詠唱を行い、真鍮棒で印を固定する。
問題は儀式中に妨害されれば失敗するという点だった。
ナガコトは戦闘力のある護衛を求め、大学の警備員で元州兵のトーマス・ハーグリーブスを訪ねた。
「オカルトは信じちゃいないが、危ない奴が地下にいるなら話は別だ」
短くそう答えると、トーマスは頷いた。
夜、三人は裏口から家に入り、一直線に台所の地下室扉へ向かった。
鉄扉を開けると、冷たい風が吹き上がる。
懐中電灯の光が湿った石壁を照らし、階段の奥に闇が沈んでいた。
「行くぞ。俺が先頭だ」
トーマスが銃を構え、階段を降りる。
祭壇の影から、腐敗した存在がゆっくりと姿を現した。
皮膚はまだらに崩れ、口から黒い液体が滴る。
「今だ、シュウ!」
ナガコトはペンダントを石板に置き、エイミーと共に詠唱を始めた。
青白い光が渦巻き、存在が光に引きずられていく。
しかし真鍮棒の固定が遅れ、片腕がまだ現世に残っていた。
トーマスが銃を連射し、存在が怯んだ隙にエイミーが棒を押し込む。
渦巻き模様が強く光り、存在は悲鳴を上げながら完全に消え去った。
数日後、昼間の地下室は静まり返っていた。
祭壇の周囲を調べると、儀式書、予備の真鍮棒、コービットの破門記録、儀式協力者の名前が載った手紙が見つかった。
「この名前…数年前の発掘に関わってた人よ」
エイミーの声には驚きが混じっていた。
ナガコトは深く息を吸い、静まり返った空気を肺に満たす。
――これで、この街はしばらく安全だ。