大学の地下にある、湿り気を帯びた薄暗い研究室。 生物学者の佐久間は、シャーレの中の「それ」を、血走った目で見つめ続けていた。
それは、変形菌の一種、モジホコリだった。
通常、粘菌は餌であるオートミールに向かって最短ルートで管を伸ばす。その性質は「迷路を解く単細胞」として知られている。
だが、佐久間が培養した「検体S」は違った。
シャーレの中に餌はない。
それなのに、鮮やかな黄色の原形質は、脈動しながら複雑怪奇な幾何学模様を描き続けているのだ。それはまるで、見えない地図をなぞっているようだった。
「……ありえない」
佐久間は震える手で顕微鏡のピントを合わせた。
粘菌のネットワークは、既存の数学では説明のつかない角度で分岐していた。
ユークリッド幾何学を嘲笑うかのような、ねじれた結合。見ているだけで、眼球の奥がずきずきと痛む。
「先生、まだ残っているんですか?」
背後から助手の学生が声をかけた。佐久間は飛び上がるほど驚き、振り返った。
「馬鹿野郎! 大きな声を出すな……。『彼ら』の思考が乱れる」
「彼ら……? 先生、それはただの粘菌です」
学生は呆れたように肩をすくめ、シャーレを覗き込んだ。そして、眉をひそめる。
「あれ? 先生、これ……文字に見えませんか?」
佐久間は息を呑んだ。
シャーレの中の黄色い粘液は、ゆっくりと、しかし確実に形を変えていた。血管のような網目が収束し、ある種の記号を形成していく。
それはラテン語のアルファベットに近いが、どこか決定的に冒涜的な筆跡だった。
《 I A ! I A ! 》
「イア……? 鳴き声ですか?」
学生が笑う。
「違う! 読むな!」
佐久間が叫ぶより早く、粘菌の脈動が激しくなった。
ドクン、ドクン、ドクン。
シャーレのガラスを叩く音が、研究室の空気を震わせる。単細胞生物が、意思を持ってガラスを叩いているのだ。
その時、佐久間は理解してしまった。
粘菌は迷路を解いていたのではない。「受信」していたのだ。
この不定形の肉体こそが、遥か宇宙の彼方、深淵の闇に眠る「何か」の神経回路を受け入れるための、生けるアンテナだったのだと。
「あ……あぁ……」
学生が白目を剥いて崩れ落ちる。
彼の耳や鼻孔から、鮮やかな黄色の液体が垂れ始めた。いや、垂れているのではない。這い出しているのだ。彼の脳内で増殖した胞子が、新たな宿主を求めて。
シャーレの中の粘菌が、爆発的に膨張した。
ガラスの蓋が弾け飛ぶ。
溢れ出した黄色の原形質は、机を覆い、床を這い、そして佐久間の足元へと殺到した。
それは捕食ではなかった。
ただ、「統合」を求めていた。
粘菌が見つけた『最適解』――それは、脆弱な人類という種を、より強靭で、より古(いにしえ)の神に近い精神構造へと進化させること。
「テケリ……リ……」
佐久間の喉から、人間のものではない音が漏れた。
視界が黄色く染まる中、彼は歓喜に震えた。
自身の脳が溶け出し、大いなるゼリー状の知性の一部へと組み込まれていく。そのネットワークの先には、とてつもなく巨大な、緑色の肉塊が嘲笑うように鎮座していた。
雨の降る夜、大学の研究室は静寂に包まれた。
ただ、床一面に広がった黄色い粘液だけが、規則正しく、星々の運行に合わせて脈動を続けていた。
(了)