アルテア市立図書館。その埃とカビの匂いが染み付いた奥の書庫は、世間から隔絶された男の聖域だった。
彼の名は新田。無機質な活字の海を漂い、忘れ去られた歴史の残滓を拾い集める日々。それは、外界の騒々しさから逃れるための、孤独な隠れ家だった。
彼の内側には常に、世界の合理性に馴染めない、形容しがたい欠落感が横たわっていた。それは、なぜか思い出せない、柔らかな光に満ちた過去の断片が、心の奥底で疼くような感覚だった。
ある薄暗い午後、彼は封鎖された書架の奥で、異様な粘り気を持つ石版のような表紙の写本を見つけた。それは、伝説の狂気の詩人クラーク・アシュトン・スミスが記したとされる『エイボンの書』の、知られざる断片だった。
奇妙なシンボルと、見る者の視線を絡めとるような粘液質の文字。それは、彼の単調な人生を破る、甘美で邪悪な毒薬のようだった。
写本を解読しようと試みるうちに、新田の精神は、潮の満ち引きのように静かに侵食されていった。夜ごと、彼は現実と夢の境目で、この世界の背後にうごめく真実の断片を、幻影として見るようになる。それは、彼の心を蝕む、抗いがたい力だった。
やがて新田の探求は、破滅的な偏愛へと姿を変えていく。
彼は写本の中に、這い寄る混沌ナイアルラトホテップの、不完全な肖像を見出したのだ。それは、この世界の支配者、人類の歴史を嘲笑うように操る道化師。
新田の心に焼き付いたナイアルラトホテップの存在は、混沌とした宇宙の論理であり、彼が抱えていた欠落感を完璧に満たす、唯一の真理だった。
彼は、その冒涜的な存在に心酔し、狂気と同一化していく自分を、あたかも崇高な「恋」であるかのように錯覚していった。
しかし、ある夜の夢で、その陶酔は崩壊した。
彼はナイアルラトホテップの真の姿と接触してしまう。それは、千の顔を持ち、絶え間なく自己の形を変え続ける、宇宙的な悪意の化身だった。
その圧倒的な恐怖と、人間の理性を冒涜する光景は、新田の自我を粉々に打ち砕く。彼は絶叫と共に夢から逃れようとするが、その際、夢の中で写本の最も重要なページを、現実世界に引きずり込むように引き裂いていた。
現実に戻った彼の精神は、もはや正常ではなかった。彼は図書館を追われ、かつて築き上げた全ての人間関係を失った。彼の心は、破り取った最後のページに隠された謎を解き明かすという、ただ一つの強迫観念に支配される、空虚な器と化していた。幻覚と幻聴に苛まれながらも、彼はそのページが指し示す場所を求めて、街を彷徨い続けた。
そして、ついに彼は最後のページの謎を解き明かし、図書館の地下深くに隠された古代の遺跡に辿り着く。そこは、ナイアルラトホテップを現実へと引きずり出すための、忘れ去られた祭壇が眠る場所だった。
新田は、破り取った最後のページが、古びた紙切れではなく、彼の心の奥底に封じ込めた、かけがえのない記憶そのものであることを理解する。それは、かつて彼が、誰かと共に過ごした穏やかな日々の、最も大切な一瞬の情景だった。その記憶こそが、祭壇を起動させるための最後の鍵だったのだ。
彼は祭壇へと向かう最後の瞬間、かろうじて残っていた理性の断片で、震える手で一枚の紙に走り書きを残した。それは意味不明な図形と、掠れた文字で綴られた、理解不能なメモだった。彼が守ろうとした唯一の、世界との接点だった。
彼はそのメモを、かつて己が聖域とした書庫の片隅に隠し、震える手で祭壇に触れ、自らの記憶の断片を、あたかも物理的なページであるかのように祭壇にはめ込んだ。
祭壇が異次元の光に包まれると同時に、新田の自我は宇宙的な恐怖の奔流に飲み込まれていった。それは彼の理解をはるかに超えた、絶望そのものだった。
彼は自分が、冒涜的な存在をこの世界に招き入れるための「道具」に過ぎなかったことを悟る。彼の意識は、悲鳴を上げる間もなく、その記憶の断片と共に、ナイアルラトホテップの底なしの暗闇へと還元されていった。
彼は「新しい人生」を手に入れたが、それは自我を失い、永遠の苦痛の中で混沌の一部となる、最も醜悪な結末だった。
そして数日後、図書館の清掃員が、書庫の片隅で紙切れを見つけた。
それは、彼が見たこともない奇妙な図形と、意味不明な文字が乱雑に描かれたものだった。清掃員は首を傾げ、価値のないゴミだと判断し、それを無造作に塵箱に放り込んだ。新田の存在は、どの記憶にも、どの歴史にも、どの塵にも、二度と認識されることはなかった。
(了)