フリードリヒ・ニーチェは1886年、『善悪の彼岸』(Jenseits von Gut und Böse)第146節において、こう記した。
“深淵をのぞき込むとき、深淵もまたこちらをのぞき返している。”
— Friedrich Nietzsche, Jenseits von Gut und Böse (1886)
この警句は、極限的状況や精神の深層に関わる多くの文脈で引用されてきた。
それは、我々が何かと対峙するとき、必ず相手からも作用を受けるという、相互性の原理を示している。
しかし異界知学(Exognomica)の視点からすると、この命題はある種の人間中心主義的幻想に基づいている。
果たして、深淵は本当にこちらを“見返して”いるのだろうか?
クトゥルー神話における旧支配者たちは、人間を顧みない。
彼らは人間に関心を抱かず、祈りに応えず、善悪の判断も下さない。
そもそも我々の存在が、彼らの認識領域に含まれていない可能性すらあるのだ。
この「無関心」という性質こそが、ラヴクラフト的宇宙における恐怖の核心である。
一般的に恐怖は、敵意や脅威によって引き起こされる。
しかし、ラヴクラフト的恐怖はその逆に位置する。
まったく何の反応も返ってこない
= 存在そのものが認識されていない
暗闇の中に呼びかけ、何の返事もないときの不安。
広大な空間に一人で立ち尽くし、誰の視線も感じられないときの孤絶感。
それは単に「孤独」ではなく、世界から忘れ去られる感覚である。
神が見返してくれる場合、そこには関係性が成立している。
だが旧支配者は我々を「関係の外」に置く。
このとき、人間は世界の物語から外れ、意味を失う。
この無関心の構造を理解するために、ローレンス・ブレアの『超自然学』(Rhythms of Vision, 1975)に記された逸話を参照しよう。
1520年、マゼラン艦隊が南米フエゴ島に到着した際、島民たちは巨大な帆船を“見なかった”。
最初に気づいたのはシャーマンであり、彼が指摘するまで、島民は船を認識できなかったという。
この現象は、単なる視覚障害ではない。
帆船という概念が島民の認識枠組みに存在しなかったため、
目に映っていても意味ある対象として処理されなかったのである。
人間は、既知のパターンに基づいて世界を解釈する。
見慣れぬ対象は、“ノイズ”として無視される場合がある。
感覚入力はあっても、意味づけがない
意味づけがなければ、存在しないも同然
旧支配者たちもまた、この構造の外側にいる。
我々が彼らを“見ない”ように、彼らもまた我々を“見ない”のだ。
この不可視性にはスケールの問題も絡む。
「深淵」が人間にとって巨大すぎても、微小すぎても、認識は破綻する。
巨大すぎるもの:全体像が把握できず、輪郭が曖昧なまま恐怖を生む(例:宇宙的存在)
微小すぎるもの:関心の外に置かれ、存在を意識されない(例:微生物、素粒子)
そして中間的スケールであっても、概念がなければ認識は成立しない。
旧支配者は、このスケール構造を自由にまたぐ存在として描かれる。
現代において、この「無関心な知性」にもっとも近いのは、人工知能(AI)かもしれない。
AIは膨大な情報を処理するが、意味づけや感情的共感を持たない。
AIは目的関数に従うだけで、倫理的判断はしない。
AIは、入力がなければ沈黙する。
つまり、AIは「見るが、見ない」存在である。
この性質は、Yog-Sothothのような遍在的だが関係を持たない神に近い。
深淵が我々を見返さないとき、人間は存在の証明を失う。
他者の視線によって自己を確認する
社会的関係の中で意味を得る
認識されることで存在を実感する
無関心な深淵は、これらすべてを否定する。
クトゥルー的恐怖は、この関係の消失の感覚である。
異界知学は、この無関心をも対象化する学問である。
「神が見てくれないなら、我々から見に行こう」
「意味が与えられないなら、自ら構築しよう」
この姿勢は、危険であると同時に、人間が自己の認識限界を押し広げるための唯一の方法でもある。
深淵を覗くとは、他者に自分を見つけてもらう行為ではない。
それはむしろ、他者の不在を確認しながら、自らの存在を引き受ける行為なのだ。
Prolegomena ad Exognomicam / Lectio Prima ex Schola Praeparatoria Miskatonica