人類は、理解不能なものに直面すると、それに名を与えて安定を得ようとする。
稲妻にゼウスの怒りを、洪水に神々の罰を見たように、「神」という言葉は未知の前に掲げられる最初の楯であった。
だがラヴクラフトが描いた旧支配者――Azathoth、Yog-Sothoth、Cthulhu――に「神」という呼称を与えるとき、我々は危険な錯覚を孕む。
彼らは人間の祈りに応えるわけではなく、善悪の尺度すら持たない。
「神」という言葉は、説明のための便宜でありながら、その便宜ゆえに本質を見誤らせる。
宗教学的に「神」を定義する際、しばしば以下の四属性が挙げられる。
全能(Omnipotence)
全知(Omniscience)
遍在(Omnipresence)
善性(Omnibenevolence)
一神教の神はこれらを体現し、人間社会に秩序を与える存在とされる。しかし、旧支配者にはこの属性がほとんど見られない。
Azathothは「盲目白痴の神」[*1]。宇宙の中心で踊るが、その行為に意志も意図もない。
Yog-Sothothは「門にして鍵」「全てにして全て」[*2]。それは知識を持つ存在というより、知識=宇宙構造そのもの。
Cthulhuは夢を通じて人間に干渉するが、それは自らの意志ではなく、偶然の副産物である可能性が高い。
これらの存在を「神」と呼ぶとき、私たちは人間的な人格性や意図性を誤って投影してしまうのである。
人間は、言葉を持つことで世界を切り分けてきた。
「神」という語は、その切り分けの中で最も強力なラベルのひとつである。
しかし、それは理解不能な存在を擬人化してしまう呪縛でもある。
ニーチェは『善悪の彼岸』において次のように述べた。
「深淵をのぞき込むとき、深淵もまたこちらをのぞき返している」
(Jenseits von Gut und Böse §146, 1886)
だが旧支配者に関しては、この逆が真実だ。
深淵は我々を見返さない。
そこには意志も応答もなく、ただ無関心の沈黙が広がる。
存在論的に言えば、旧支配者は「必然的存在」と呼ぶべきである[*3]。
彼らは意志を持ってそこにいるのではなく、宇宙の必然として「ただ在る」。
この在り方は、インド哲学のブラフマン[*4]や、道教の「道(タオ)」[*5]に類比できる。
それらも人格を持たず、根源的原理として世界を成り立たせる。
ただし、旧支配者はその無関心さゆえに、人間にとって畏怖の対象となる。
自然災害に意志を求めることが無意味であるように、AzathothやYog-Sothothに「意図」を問うことも無意味である。
だが我々はそれを「無意味」と割り切れない。
その裂け目にこそ、クトゥルー神話的恐怖の核心がある。
崇拝とは、本来は相互関係を前提とする。祈りが届き、加護が返される。
だが旧支配者においては、その相互性が成立しない。
作中に登場する狂信者たちは、それでも彼らを「神」と呼び、儀式を通じて接触を試みる。
だがそれは、無関心な存在を「神格化」し、自らの認知枠組みの中に押し込める行為にすぎない。
一方で、畏怖は関係性を前提としない。
むしろ関係がないからこそ畏怖が生じる。
「こちらを見ない深淵」に対峙すること――それが異界知学における旧支配者研究の根幹である。
旧支配者は「神」と呼ぶにはあまりにも異質である。
それは人間の宗教的語彙の延長線上にはなく、むしろその語彙を崩壊させる存在だ。
異界知学の課題は、この「神」という人間的ラベルを剥ぎ取り、無関心にして必然的な存在と真正面から向き合うことにある。
旧支配者は神ではなく――人間の認識限界そのものなのだ。
[*1] H. P. Lovecraft, The Dream-Quest of Unknown Kadath (1943).
[*3] Thomas Aquinas, Summa Theologiae, Prima Pars, Q.3(存在論における必然的存在の議論)。
[*4] Chandogya Upanishad, VI-8-7:「汝はそれである(Tat Tvam Asi)」の哲学的文脈。
[*5] 『道徳経』第一章:「道可道、非常道」。