2023年1月29日 閃華の刻 にて頒布した「ゆきどけ」三部作です。
大般若長光と女審神者がお化けと遭遇したりする話です。
ちょこちょこ修正が入るかもしれません。
私には演練場で出会った審神者がいました。名を杏饗院といいました。奇しくも親友と同じ音を持っていました。友でした。先日、その友の訃報が届きました。葉月の二九日のことでした。
「あの…」
自信なさげな声と所在なさげな動作で、一目見た時からおとなしい子なのだということを理解しました。着任したタイミングで配布される緋色の巫女服を正しく着て、推奨マニュアル通りに髪を結っていました。真面目な子なのだと、そう感じました。どうやら彼女は戦歴がよろしくなく、減俸の相談が担当さんを通して言われているようなのでした。そして何かヒントはないかと、演練でいろんな審神者に話しかけているようでした。胡散臭いスピリチュアルな世界ですから、私も最初は疑っていましたけれど、彼女の真剣な態度に噓偽りはないと分かりました。名前のせいもあるかもしれません。その時から私たちは友になったのです。少なくとも、私にとっては友であったのです。ある日は演練の待合室で。ある日は近侍と共に喫茶店で、様々な話と勉強をしました。互いに高めあう、友でした。
「一入さんは、何故、なんで審神者になったのですか?」
「えっ、そうですね…家族が欲しかったからかな…」
本当の理由は覚えていません。いつの間にかなっていていつの間にかやっているというだけでした。ですが、本丸という自宅に家族のような存在が多くいるというのは、私の精神を安寧に導いてくれた気がしています。ゆっくりと迷いながらもその旨を話しました。
「…そうなんですね。」
彼女の顔は私の予想に反していました。少しだけ表情が曇ったのが分かりました。曇ったというのは少し違うかもしれません。私には、とんでもなく胡散臭い友達がいます。その友は都合が悪い時、機嫌が悪い時に取り繕うために、目を細めて口角を上げて実に胡乱な顔をします。彼女は、その顔をしました。見間違うはずがありません。別の友はとってもわかりやすいのですから。ですが、彼女はそのような顔をあまりしません。今回が初めてです。彼女にとって嫌なことでも言ってしまったのでしょうか。とはいえ、わざわざ確認することでもないので、そのままにしました。その日は、戦術や褒賞の話をして別れました。それからしばらく会うことはありませんでした。これが、私と彼女の最後でした。
二二XX年八月二九日
武蔵国サーバーにおける審神者の皆様へ
演練場で審神者の気配を感じられない女に声を掛けられる事象が相次いでいます。
話しかけられて違和感を覚えた際は、近くの政府職員にお声がけください。
ご協力のほどよろしくお願いいたします。
防禦庁怪異対策対派課
『んで?その女がなんだって?死んだの?』
容赦ない物言いをするのは、電話先の本丸の主であり、世にも珍しい養成学校時代からの腐れ縁同期審神者である。長いポニーテールを靡かせ、黒い軍服に身を包み、胡散臭い笑顔日本代表になれるレベルの胡乱な笑顔ができる存在である。そしてオカルトにめっぽう強い審神者の味方(?)でもある。
「そうなの。」
『どういうご関係で?』
「普通に友達だったと思う。演練で話してからまあまあ話すようになって…そこから。」
『ふ~ん。で、その友達が死んで、そのとたんに演練審神者じゃない女が出てきたってこと?』
「そう…だね……?」
『なんで疑問形なの…』
なんのために電話繋いでんのさ、と困った笑いを浮かべながら、すごい勢いで手元の端末を使い作業をしている。彼女は、時の政府直属の怪異対策課の課長さんで、いわゆるお偉いさんである。困ったことがあればすぐに彼女に連絡をする。小言を言いながらもなんだかんだと解決策を考えてくれる。だから今回もすぐに連絡を入れた。訃報が届いた日から幽霊が出たというのなら、何か関連性があるかもしれない。私の勘はよく当たるのだ。
『友達の幽霊、ね。』
「まあ特別仲良しでは無かったけど……」
『名前は?』
「えっとね、杏饗院さんだったかな。下の名前は憶えてないんだけど。」
『あんきょういん?これまた怪しい。』
「あやしい?」
『どういう字かわかる?』
「確か、杏に郷の下に食って書く饗、に院。」
『杏饗院、あんきょういん……あぁ、あの家か。』
「知り合い?」
『ウーン、知り合いっちゃ知り合いかな。でも複雑な家だしなぁ。ちょっと上に話付けてみたらいいかもしれない。』
「それって政府の怪異対策課?」
『そうだけど』
「課長さん課長さん?あなたって怪異対策課所属だよね?」
『そうだけど、手続きってもんがあんの。』
伏せられた長いまつげが上がる。画面でも手元でもない、目の前の虚空を見つめる。彼女が思案をしているときの顔だ。赤丹の瞳には何が見えているのだろうか。
『とりあえず対策課の相談窓口に行くことをおすすめするよ。』
「……行かなきゃダメ?」
『行かなくったっていいけど、君の懸念事項はそのままになるよ。』
「うう……」
片手で携帯端末をパタパタとさせながらジトっとした視線でこちらを見る女性が、ホログラムの画面いっぱいに映し出されている。別に、友人と言えど目の前の腐れ縁同期よりは浅い友情だったのだ。誰がどんな状況になっていようと、どうということはない、はず。だというのにどうしようもなく気になってしまった。この心の靄の原因はわからないけれど、窓口に相談すれば多少は霧が晴れるだろうか。杞憂であることを確認するという名目で、気軽な気持ちで対策課に行くことを決めた。
自分の端末がぱッと光る。液晶画面には三六八の文字。長い長い待ち時間に意識が飛んでしまいそうだ。昨晩は早く寝たはずなのに、ただの待ち時間というものは眠気を誘う。言葉に魂が宿るというのなら、時間と空間に霊力が宿っても不思議ではないのかもしれない。
「主、」
「ありがとう大般若さん。えーと、窓口は」
「あっちだ。」
今日の近侍は大般若さんにだ。彼に促されて、座り心地の悪いソファーから立ち上がる。方向音痴と呼ばれる部類の人間の自覚はある。そのためか、いつの間にか審神者の先導が近侍の仕事になっていた。だから近侍がいつだって先導をしてくれる。とは言え主という手前、迷子になる訳には行かない。窓口と大きく映されたホログラムを目指して歩く。時刻は午後二時過ぎ。午前の仕事と早めの昼食を済ませ、対策課へ足を運んだのには理由がある。杏饗院さんの訃報を確認しに来たのだ。勿論それだけでなく、女の霊が歩き回っているという噂の真偽も確かめに来た。その霊が友人だったら。死人が歩き回れるはずはない。いや、まだ同一人物の確証は無い。そのために訃報の照会と、万が一を考えて怪異対策課本部の相談窓口に来たのだ。
最悪の展開が脳内を占める。左右に首を振って嫌な考えを振り払う。ポーチに手を突っ込んで、訃報の通達用紙を持ってきたことを確認する。特殊な端末に用紙をセットすれば、通達日と内容がどれほど正確化を表示してくれる。便利な時代になったもんだ。
[照会したい資料をスキャンして下さい]
無機質な電子音が響く。何世代か前のコピー機のようなものに手紙を挟む
[スキャンしています。少々お待ちください]
この世界の訃報は、遺族と本人が決めた相手に死んだ日の翌日に届く仕様になっている。死んだ日の翌日に必ず届くものであり、訃報の申請もその日の日付になる。はず。
[スキャンしています。少々お待ちください]
届いたのは葉月の二九日。夏の暑い日だった。今でも覚えている。嫌なくらい暑くて暑くて熱くて、玄関から郵便の鈴が響いて、確か私が受け取ったんだっけな。顔の温度だけが冷たかった。手も、その日の気温も暑かったのに。何の異常も無ければこの訃報の発行日時は命日、八月の二八日になるはずだ。
[スキャンが完了しました。情報を表示します]
「えっ」
声を上げたのは誰だったか。揺らめくホログラムに示された日付は、予想と異なる事実を映し出していた。
通達申請日は七月三一日。情報正当性 九割九分九厘以上。
これ以上ない正確な情報であるという確証が取れてしまった。この手紙が届いたのは八月二八日。つまり、
「その友達ってのが死ぬ前に作られてたことになるなぁ。この手紙は。」
「そ、そんなことある?」
「普通は無いんじゃないか?」
「ということは?」
「課長さんの言う通りにすべきだろうな。」
「対策本部にも行かなきゃいけないのかぁ……」
「……お待ちしておりました。」
突然後ろから声を掛けられる。いきなりだったので、驚いてしまった。後ろに立っていたのは、ミディアムショートをハーフアップにした可愛らしい髪型の、見るからに役人といった風貌の人だった。
「驚かせてしまって申し訳ありません。私、怪異対策課の老竹と申します。」
「あ……えと、武蔵国所属の一入と言います。」
可愛らしい見た目をしているというのに、声は男性のそれで面食らった。よくよく見れば背だって高い。大般若さんより小さいけれど。課の人間は変わり者が多いと聞くがこういうことなのだろうか。きっと課長さんの直属の部下なのだろう。バディを組んでいたりするのかもしれない。よく見れば胸のあたりに、桜に交差した刀を模した徽章が付いている。政府の役人である証だ。左腕には研修生の文字。彼はどうやら入りたてのようだ。課長から話は伺っております、と人当たりのよい笑みを浮かべた老竹さんが応接室に案内してくれた。怪異対策課のこの部屋には何度も訪れたことがあるが、毎回窓口との椅子の差に驚く。
「えっと、もしかして話通ってます?」
「はい。『知り合いが照会窓口からくると思うから話を聞いてやってくれ』と。」
「……」
「資料を持ってきますね。少々お待ちください。」
老竹さんが部屋の外に出る。資料室にいくのだろう。課長殿にすべてが見透かされているようでちょっと納得がいかないような気分になりながらも、個室のソファーに腰を下ろす。大般若さんは座らないのだろうか?じっと視線を送れば意味が伝わったのか、隣に腰掛ける。大般若さんの重みでソファーが鳴く。長い時間政府施設にいるが、まだまだ帰れそうにない。本丸に帰りが遅くなる旨をメールで送ろうと、携帯端末をスクロールし始める。大般若さんも今夜の「酒を口に含みながらガキ使を見る会」を欠席することを伝えねばならないだろう。幹事は誰だったかなぁ。確か安定が主催だったはず。考え事をしていれば直ぐに戸を叩く音がする。どうぞ、と声を掛ければ、老竹さんが紙束と共に入ってくる。
「お待たせしました。こちらが杏饗院様の情報です。」
「えっ、個人情報では?」
「必要最低限の情報です。所謂審神者データベースに記録されている程度の。許可も取っています。」
課長である友人の権力を感じる。職権乱用の気も感じる。本来であれば、個人情報や重要書類の類は全てデータ化され、紙と二重で保管されているはずだ。その上、審神者のデータベースも一部の人間しか閲覧が許されていないと聞いている。しかしこの役員は紙媒体で個人情報を持ってきた。何か事情があるか、もしくは足を付けないためか。または上司の圧に勝てなかったか。心なしか顔が死んでいるようにも見える。研修生なのに容赦のない人使いの荒さだ。大般若さんも紙媒体で個人情報が出されたことに驚いたようで、理由を尋ねていた。
「何故紙媒体で?」
「オンライン上で見ると履歴が残ってしまいますので。ご了承ください。」
ちょっぴり無理をした笑顔にすべてがあった。お願いなのでこれ以上聞かないで下さい、が詰まった笑顔。細くなった瞳は絶対に笑っていない。想像だときっとハイライトもない。ひとは時にこんな顔をする。それと同時に課長殿の権力と圧の強さをひしひしと感じた。政府緊急対策本部はとんでもない激務だと聞くが、上司があれなら部下もこれである。
「杏饗院十六」
「じゅ、じゅうろく?」
「いざよい、というのがあるだろう。十六夜と書く。だから多分読み方は『いざ』だ。」
「ネーミングセンス無さすぎでは?」
「そしてこれが杏饗院様のご兄弟で審神者をされている方のデータになります。」
八重(やえ)、十二(ひふた)、一八(いちはつ)、二十(はた)、二(つぎ)
「全員数字だ…」
「全員死亡しているな。」
「……」
「職員殿、これを主に見せるのは指示かい?」
「はい。」
「なるほどね」
「なるほどねって……大般若さんはなにか分かったの?!」
「はは、主もまだまだだな。」
「なっ……」
グぬぬ、と歯を食いしばってしまう。ちょっと馬鹿にされているような気配を感じる気がしなくもないが、私の大般若さんはそんなことはしない。
「な〜んにも分かっちゃいないさ。」
……あぁこれは本当に何にもわかっていない顔だ。適材適所という四字熟語を脳内の辞書で引く。確かに大般若さんは御神刀でも霊刀でもないので、何かヒントを求めるのは少し違うのかもしれない。というか、もしかするとお化けがいるとも限らないのだ。もっと言えば、杏饗院という家も大般若さんが知っている時代のものじゃないのかもしれない。考えれば考えるほど大般若さんには不向きな気がしてならない。
「俺にあまり期待しないことだな」
期待されたところで本当に何もできないのかもしれない。バチン、とウインクが飛んでくる。きっと俺にできることはこれくらいさ、の意思表示だ。普段見ることが叶わないウインクに、すこし、ほんの少しだけクラっと来たのはナイショだ。
「ゴホン……こちらの資料もご用意しましたが、ご覧になりますか?参考にはなると思います。」
「えっあっ、見ます……ってこれ、辞典?」
至って普通の、いや普通のものにしては分厚過ぎる辞典が机の上に座していた。少なくとも、小学生が使うようなものではなさそうだ。私が見たことが無いということは、候補生が扱う難易度でもないのが見て取れる。表紙は黒くしっかりした素材でできていて、『怪異百覧』の文字が金で印字されている。
「これは?」
「簡単に言えば妖怪辞典のようなものですね。古典的な妖怪伝説から本丸で発生した最新の怪異までの情報が記録されているものになります。一ヵ月ごとに更新があって年一で新版が出ます。」
「本当に辞典ですね……」
「それくらい怪異が頻繁に発生してると考えていただければよいです。」
「はぁ」
「ご相談の件ですが、こちらの方で調査は行いますが実際に被害が出ないと動くことができないのも事実です。ご自身で一定数調査していただけると助かります。」
「え」
「あ、えぇっと、そちらの辞典はそのまま持って帰っていただいて大丈夫です。」
一瞬で顔から血の気が引いていくのが分かる。政府の役人さんも気を利かせてくれたようで、少し申し訳ないような表情になっている。決して任務を疎かにするつもりはないが、余裕をもってやるタイプではない。夏休みの最終日に宿題を纏めてやるタイプの子供だったのだ。それを予測しての妖怪辞典なのだろう。彼女が用意周到すぎるのか、私の行動が分かりやすすぎるのか。
「今夜は寝れないな。」
恐怖の一言が聞こえて、背筋に寒気が走る。意味がわからないくらい情報収集に長けてしまった初期鍛刀の乱ちゃんに連絡を入れようと思う。巻き込まれ体質の主のせいでごめんなさいって。明日が休日なのが唯一の救いだとおもいたい、が。
また主さん変なことしたの!?と叫ばれたのは先刻の話。本丸に分厚い辞書を抱えて帰ってきた第一声がこれだった。なんでこんなに面倒事を持ってくるのか。自分自身でだってわからないし、解決策があるならぜひ教えてほしい。きっと私自身は何も悪くないはずなのだ。そろそろタイピングの速度が限界突破しそうな乱ちゃんを横目に、課長さんから渡された辞典を机に置く。普通では見ないような厚さのものを出されると、やる気もそがれるというものだ。文机にしなだれかかっていれば、背後から声が降ってくる。
「主さ〜ん、調べてまとめといたの、全部PDFにして送っといたよ〜」
「乱ちゃんはや〜い流石〜」
「本当は主さんのミッションなんだよ?」
「返す言葉もございません……」
ぐうの音も出ないとはこのことだ。とりあえず、気合を入れてコンピューターに手を置く。杏饗院家。字面からして良いイメージはあまり浮かんでこない。あんずの饗宴。杏は元々東洋で薬とされていた果実。現代ではもう薬としての効能を期待されてはいないとはいえ、名の影響は大きい。その事は、審神者養成学校で飽きるほど叩き込まれてきた。名前の意味は、きっと古典的な方法を踏襲していると予想できる。問題はそれがいつから名乗られているか。大般若さんだけでなく古い刀にも最近の刀にも聞いてみたけれど、皆口を揃えて知らないという。つまり最近の家柄ということだ。ならばネットの海を彷徨うしか方法はない。人間というものは恐ろしく、思ったよりも現実的だ。都合が悪ければ有を無にすることも厭わない。過去の情報が本当に正しいとは限らないのだ。ニュースデータベース、審神者スレッド、刀剣スレッド、国立図書館資料ベース、ありとあらゆる電子の海を航海してもらった。タイピング大臣の乱ちゃんに。そしてその結果がこの資料に詰まっているというわけだ。だというのに。無い、無い、どこにもない。杏饗院家のはじまりがどこにも無い。現代の杏饗院家については蛆のように出てくる。医療技術分野において、凄まじい発展を遂げた研究一家のようだ。今の電子霊力波学や医療霊力学は杏饗院家が牛耳っているようだし、テクノロジーだけではなく医療工業分野でも多大な影響を及ぼしているらしい。論文も見つかる。論文を探すのが得意な刀が探してきてくれた。ありがとう。確かに霊力を医療に用いるという手法は、当時からすると斬新で危うい発想だったのかもしれない。今でも危険性があると言われ続けている分野であるのも事実と、課長さんが言っていたのを思い出す。
「危険すぎる……?」
ふと呟いた自分の言葉に光を見た。でも現代では大いに活用されている。私達を構成する肉体も医療霊力学が元になっている。ということは。
「うわぁ~!ブラックリストじゃん……」
「ふふふ。真っ黒だね。……リストの事だよ?」
別の検索班から悲鳴が上がる。どうやら、やっと二〇一〇年代の杏饗院家の資料が出てきたらしい。だというのに資料の八割が黒塗りのブラックリストであったようだ。背後からモニターをひっそりと覗けば、戦時中の黒塗り教科書みたいな資料だった。実物は見たことが無いけど。情報の隠匿。政府には都合の悪い情報。
「青江さん……これもう無理じゃないですか?」
「先程渡された論文を見る限り、これは政府も一枚噛んでいる気がするね。」
我が本丸においてトップレベルのロジカルシンキングを誇る脇差、青江と堀川。二振に杏饗院家の学術論文が渡っていたようで、一通りの分析を終えて報告に来てくれた。みんなの頑張りだけでことが進んでいく。申し訳ないやらありがたいやら、複雑な心境だ。このままほっておくとスライド作成までやりだしそうな勢いだし。ざっとした内容をまとめてくれた青江が声をかけてきた。
「う〜ん、どうしようか。これ以上は無理な気がする。」
「そうだねぇ。さらに踏み込んでみんなに火の粉が降り掛かっても嫌だし。」
「あと探れるとするなら、杏饗院十六本人からの証言しか無い。」
「そうなると主さん自身に聞くしかないよねぇ……」
これはお蔵入りすべき案件なのだ、と認識しつつも調査の手は止められない。友人が死んだのだ。不可解な死なのだ。ここで私が頑張らなければ、誰が彼女の死を悼むというのだろうか。止められはしまい。一度休憩にしようと、平野がお茶とつまめる菓子を持ってきた。今日の菓子は水羊羹だ。隣の机で液晶とにらめっこをしている堀川におやつを差し出せば、乱ちゃんに杏饗院十六について聞かれた。
「主さん、杏饗院さん?について覚えてることとかない?」
「えぇ~?そうだなぁ、あ、杏饗院さんと最後に会った時も水羊羹食べた記憶がある。」
「これまたタイムリーだね。」
「そのときね、審神者になった理由を聞かれたの。あの時だけ、課長みたいな顔してたなあ。印象に残ってる。」
「あの胡乱な笑顔かい?」
「そうそう。そんな顔したことなかったから、ちょっと驚いたんだよ。」
審神者になった理由。それこそ十人十色だ。志願したもの、勉学の末に勝ち取ったもの、受け継いだもの、強制的にさせられたもの。
「ねえ乱ちゃん、私は望んで審神者になったけど、杏饗院さんはどうだったのかな。」
自ら審神者を志願したことを心の中でよかったと思いながら、杏饗院さんとの心を重ね合わせる。純粋な、素朴な疑問だった。しかし、こんなことを思いつかない子だっているのではないか。良家の子供ほど幼いころから本丸で生活をする。自分が人間で、好きでもない職業に就かされて、同年代の子供たちがきゃたきゃたと遊ぶ中自分だけは見ず知らずの神に囲まれて生活をする。もしかしたら、楽しそうに遊ぶ子供さえ、見たことが無い可能性だってある。家に決められたこととはいえ、幼子にその分別と諦めはつけられないし、つけさせるのは、酷だ。
「……主さん、それだよ!」
乱ちゃんの声で我に返る。杏饗院という最新の歴史無き名家が、戦時中の国家にできることなど数えられる。杏饗院家は医療面での技術を持っていた。人体改造などもしていたに違いない。そんな家が何をするか。人間はいつでも残酷だ。手段など選ばない。人柱を立てたのだろう。きっと。お得意の医療霊力学の力を使えば、実験体など無限に生み出すことができる。倫理と命を生贄に。このような存在がこの世には蔓延っているというのだ。この世は地獄だろう。検索内容を変える。政府の賞与獲得履歴にシフトチェンジする。
二〇八〇年 杏饗院家 生体実験による成功
二〇八八年 杏饗院家 生体実験とその政策提案
二〇九一年 杏饗院家 生体実験とその活用システムの提案
二一六〇年 杏饗院家 生体実験成功体の寄付とその技術の提供
詳細内容
成功体六体(識別番号 二、八、十二、十六、一八、二十)
これだ。
単純に政府の賞与獲得履歴と考えれば、生体実験の成功体が生身の人間とは思わない。杏饗院家は容赦ない生体実験を繰り返していたのだろう。そしてその甲斐あって、政府からの恩賞と地位を手に入れた。一族は大いに繁栄した。しかし、現代で人体実験は禁忌中の禁忌である。家の為にも、後世の為にも、証拠など残したくないだろう。一族と政府は証拠隠滅の最期の一手を下したのだ。いや、もしかすると証拠隠滅はその場しのぎではなく、仕組まれていた可能性すらある。能力を徐々に奪われる審神者、計画された死、演練場で人の気配を感じられない審神者達。正直、知りたくなんてなかった。
「そういうことだったんだ……」
虚無感が心を満たしていく。ああそうか、私はあの時に、杏饗院さんを、彼女を救ってあげられなかったのだ。最後に会った、あの時に。彼女はもういないのだ。薄々理解はしていた。あの審神者になるために生まれたような、清廉潔白を人にしたような女が、普通の人間であるとは思えなかった。その予感は当たっていた。そして、結果的に見て見ぬふりをしてしまったのかも、しれない。
「なんかね、杏饗院さんは家族のことが好きじゃないんだろうなって薄々感じてたの」
意図せずに口から言葉がまろび出る。
「私にとっては、みんなが家族みたいな存在だけど、杏饗院さんは違うんだなってわかってたの」
「刀剣男士に主として見てもらえてないとか」
「手入れの時以外頼りにしてもらえないとか」
「でも普通にすごい人だったんだよ。毎日任務を確実にこなして、部下を労わる。」
「だからこそ、家族が欲しかったんだなって」
「わかってたの」
「でも私は、杏饗院さんには血のつながった両親がいると思ってたし」
「気にしてくれる家族がいると思ってたから」
「揺らがない地位が」
「確固たる実力が」
「ちょっとうらやましかったんだよね」
ないものねだり、無い袖は振れぬ、隣の芝は青い。きっと私は、偽善者の微笑みを湛えている。
「やあ。例の審神者は来たかい?」
「お疲れ様です。はい。いらっしゃったので資料をお見せしました。あと辞典も渡しました。」
「うん。ありがとう。」
「それにしても大丈夫なんですか?」
「何が?」
「だって、あの情報特級秘匿資料じゃないですか……」
「僕に漁られる場所に置いてあるのが悪い。そうだろう?」
「……はい。」
杏饗院の家は、政府の指令を受けることによって研究を行い、そして繁栄してきた。つまりは杏饗院家に不都合があると政府にも不都合だということだ。そのため、一家の情報は秘匿され続けてきた。というのにだ。ここ最近、具体的に言えば七月の中頃から情報が解禁されており、誰でも見ることができるようになっていた。情報統制が緩和されたということは、隠す必要性が無くなったからに違いない。まだ解禁されていない情報を政府職員の権限で覗き見した上に、職員ではない人間に横流しするという時代が時代なら犯罪になりそうなことをサラッとしでかしている。でもまあ。数日もすれば解禁になる条件付きの情報だったのでお咎めはまずありえないだろう。つくづく嫌になる。ひとを辞めて五年が経つ。人間というものはいつの世も生き汚い。
「夢で神社に行ったの。」
「えっどんな神社?」
「えっとね、すごい荒廃してるんだけど鳥居が石で、全体的に暗かったんだけどあんまり怖い印象は無くて、お社もちょっと壊れてるんだけど、ご神体の盃は朱塗りでピカピカしてたの!」
「へぇ~!ご神体が盃なんて珍しいね!」
「ねえねえ、ゆうきちゃんが言ってたおまじない知ってる?」
「え~なあに?知らない」
「朱塗りの盃に水と莠コ髢薙?蛟、をいれるんだって!」
「それで?」
「きさらぎ様、きさらぎ様、ようこそおいでくださいました。どうぞこのままお通りくださいって唱えるの。」
「ふーん!簡単だね!」
「そうするときさらぎ様が何でも願いを叶えてくれるんだって!」
私は昨晩奇妙な夢を見た。ボロボロの神社に綺麗な美しい盃が置いてある。ご神体のかわりなのだと思う。私はご神体が見えるところにボーっと立っている。すると、脇を何かが通り抜けていく。直感で人間でないと分かる。私はボーっとしている。何かがまた脇を通る。人間ではない。ボーっとする。誰かが脇を通る。にんげん。人間が通って行ったので少し驚いて顔を確認しようとする。誰だろう、知り合いかもしれない。振り向く。
「ってところで目が覚めるんだよ。」
『完全に呼ばれてんね。ウケる。』
面白いとは程遠い表情で呆れた顔を浮かべるのは怪異対策課長兼同期の彼女だ。オカルトな出来事があれば彼女に連絡を入れる。絶対に入れる。今回もいつもと同じように携帯端末で通話を繋いでもらった。長電話になりそうな予感がしたので、アイスココアに氷を少し入れた。溶けると少し薄くなってしまうが、これはこれで美味しいのだ。
「ウケてる場合じゃないんだよ!? この夢も石切丸さんが気付いてくれたからこうなってるんだし……」
『ご神刀が言うならドキドキするよね。まあ相談場所間違ってるけど。』
「? 何も間違ってないよ。政府の怪異対策課に相談してるよ。」
『いやここは怪異対策課ではないんよ……』
はァ~と大きなため息をつきながらキーボードを叩く音がする。叩いて入力するキーボードなんて過去の産物なのに、これじゃないと嫌らしい。乱暴にエンターキーを押す音や、爆速でタイピングする音が聞こえてくる。眉間に寄る皺と比例するように増えていく画面内の文章。それと同時に送られてくる何個かのファイル。最後に一件のメール。
『君が見た夢の要因と考えられる資料だ。』
「凄い量だね?!」
『そう。あまりに多すぎて絞れていないのが現状。雑な捜査なのも現状なんだけどね。きみの他に十人程度の人間から同様の夢を見たと報告がある。』
「へえ……」
『正直な話、対策課に持って行っても同じ対応しかできない。情報をもっと絞り込まないといけない。』
「な、なるほど。」
『杏饗院の件では君の考えで進展したとも聞くし、まぁ気になったことがあれば連絡をくれ。』
「わかった……」
『お役に立てず申し訳ない。』
「このメールは?」
『あと数時間後に全職員全審神者に配布されるやつ』
「それ見ちゃっていいの?」
『数時間早いだけだし。気にせんでよろしい。』
はあ、あまり納得はいかないがよく読むとする。あ、もしかして、今までのメールも全部彼女が書いていたのだろうか。よく見る注意喚起のメールだ。それもまだ、曖昧な情報しか書かれていない第一報といった文章。情報が足りていない上に飽和しているのだろう。彼女はボリボリと頭を掻きながらこう言った。
『まあとりあえず有識者の所に連絡するとしますわ。』
「有識者って?」
『ん?政府の浄化課だね。彼らも怪異の浄化を担っているわけだし。』
新情報が入ったらまた連絡するという一言を残して、通信はぷつりと切れた。ひとりきりになった執務室で、夢の内容を反芻する。奇妙な夢を見た。ボロボロの神社に綺麗な美しい盃が置いてある。ご神体のかわりなのだと思う。私はご神体が見えるところにボーっと立っている。すると、脇を何かが通り抜けていく。直感で人間でないと分かる。私はボーっとしている。何かがまた脇を通る。人間ではない。ボーっとする。誰かが脇を通る。にんげん。人間が通って行ったので少し驚いて顔を確認しようとする。誰だろう、知り合いかもしれない。振り向く。本当に不思議で、脈略がない。いったい誰が何の目的で、私にこの夢を見せているのか。分からない。分からない。この間の杏饗院さんのことだってそうだ。なんで、私に、なんで。思考が行き詰っているのを感じる。ついさっきも休憩していたけれど、もう一度休憩にしよう。疲れていてはいけない。ココアの氷はあまり溶けていなかった。
審神者という職業は意外にも忙しい仕事だ。年末年始とお盆休みは実質無いし、毎日新たな任務が発令される。月に二回は特別な任務も課される。就任して数カ月の時は、あまりの激務に目を回したものだ。今も目を回していることに変わりはないが。今日は、そろそろ江の里こと悲報の里も始まるし、設備やら備蓄を揃えようと思って万屋に行こうとしていた。ついでに借り受けていた怪異辞典も返却しに行かねばいけない。近侍のにっかり青江と並んで政府施設へのゲートを通ったら、万屋じゃなかった。何処か見覚えのある廃神社に着いていたというそれだけである。それも最近悩まされていた夢と似た神社だ。
『は?』
携帯端末からどう考えたって思考が追いついていない声が聞こえた。こっちは貴女より思考が追いついていない状況にあるというのに。事の発端は万屋に行くために転送ゲートをくぐったこと。これが絶体絶命という状況なのだなと一種の感心をしてしまった。近侍も共に飛ばされてしまったのが唯一の救いか?いやまずは助けを呼ぼう。さて携帯端末をチェックするぞ、とポケットから端末を出せば最低限の機能しか使えない。あ~これ怪異遭遇時対策マニュアルでよく見たパターンだ、などと現実逃避を始める。なんだよ写真と電話だけって。二○○○年代のガラケーでももっといろんなことできるぞ。ふざけるなよという気持ちのまま政府の窓口に連絡をしようとしたが、脳内である懸念が生まれる。政府の窓口は役所やっつけ仕事に定評がある。つまり、ここから出るのに一か月を要する可能性も無いわけではないのだ。じゃあどうするか。身内の専門家に連絡するほかあるまい!そして冒頭のは?に戻る。
「わかった?」
『君の状況はわかったけど総合的にはな~ンにもわかんねえわ。』
「私もわかんない!」
端末からクソデカロングため息が聞こえてきた。こればかりは仕方ないとはいえ、申し訳なさもいっぱいである。我ながらお化けに好かれている。やっぱり本丸に入ってきた無害なお化けたちを放置しているのがいけないのだろうか。脳内で課長さんの「絶対そう」という呆れ声が聞こえてくるようだ。
『ちょ、ちょっと待って。こっちも設備整えるから……有志諸君~!!加州も集合!あと次郎ちゃん叩き起こしてきて!殴っていい!軽傷で収めて!』
「てんやわんやしてるね」
「うん、多分主のせいじゃないかな?」
「……またお菓子もっていかなきゃ」
大侵冦もびっくりの騒がしさだ。まあ私のせいなのだけれど、自分の身というのはいつだってかわいい。とりあえず無事に帰りたいだけだ。
『政府にも一報入れておいたけど、そっちでどうにかできませんか頼みますって言われてガチャ切りされたので今から僕の管轄です。キレそう。』
「すみません……で、何したらいいですか?」
『まず鳥居見てきて。』
「は?」
いや、は?私は帰りたいだけなのだが??何故異世界じみた廃神社を探索させられそうになってるんですか?そちらの怪異対策が本業の方とは違ってお化け耐性はあんまり無いし知識もない。もしかしてこれが死ねの婉曲表現?
『いや普通に君の戻し方わかんないのよ。だから情報収集していただきたいんですけど。帰りたいでしょ。』
「はい……」
『とりあえず怪しい事象は全部声に出して。可能ならビデオ通話にして。映像データを送ってくれた方が解析しやすいから。』
ああこうやって部下にも圧力をかけているのか、怪異課の役人さんも大変だなどと現実逃避している場合ではないのだ。青江にも状況を説明して一緒に来てもらうことにした。来てくれなかったら野垂れ死ぬところだった。良かった。どう考えてもこの状況で私が携帯端末を持っていたら、重要なものが映らないどころか、ぶれっぶれで新たな心霊写真を量産しそうなので青江に託すことにした。
まずは現場検証だ。今は紅葉が美しい秋だというのに、この廃神社は時間が流れていないような気がするほど閉鎖的だ。生命が存在しないような、してはいけないような、そんな気がする。周りは木々に囲まれていて通り道は鳥居の下しかない。木も枯れていて生気が感じられない。そこからしか入れないし出ることもできない。そんな感じ。お化け耐性が無いとは言えど、霊力の流れ方を感じるくらいはできるのだ。鳥居を見に行くために神社に近寄る。幸い、私たちが飛ばされた地点は敷地外の石段のあたりだった。目のまえの鳥居に近づく。後ろには青江がいる。前にもなにかがいる。
「青江?」
「僕は後ろだ。前のは違うよ。」
声に出す。後ろから返答が聞こえる。刀剣男士にも感じられるもののようだ。じゃあ前にいるあれは何なんだ。誰かが見えているわけではない。目に映るものは何もない。だというのに、鳥居の奥に「何か」が存在している。元々そこにあることが当然でない方がおかしいというような自然さだ。まるでこの神社ができる前から居座っていたような、そんな違和感のなさ。青江が音もなく私の脇をすり抜けて前に出る。臨戦態勢を取っている。何かは私たちに気付いていないように見える。後ろにも気配がある。今出てきた、と言った方がいいかもしれない。突然ポッと出てきた。青江ではない。そのまま音を立てることもなく近寄ってくる。確かに近づいてくる。悪意はない。私たちを害そうという気持ちは感じられない。そうか、これはあの夢の再現なのか。そうだというのであればやることは決まっている。何かはわからないけれど、何かが通り抜けていくのを待つ。そして人間の気配がすれば顔を確認する。それだけだ。ふと、視線を逸らす。鳥居の右側の柱に文字がある、蔦が絡まり、朱塗りも剥げているので見えにくいが、文字だ。ちょうどいい。彼女に言われたのも鳥居の確認だった。マイクが拾えるであろうギリギリの声で話す。
「伏田撞神社」
『ふしだづきぃ?』
「うん。」
『鯰尾。』
『はい。』
『そのまま。続行して。鳥居は多分潜らない方がいい。脇から入ってくれ。』
鳥居は神様の通り道だ。人が通ればどうなるかはわからない。指示の通りに、鳥居の脇から境内に足を踏み入れる。表から見たときと同じように閉鎖的で、息が詰まるような、閉ざされた場所だ。本来ならこんな場所に神社があるとは考えにくい。いや、神社が作られた後にこの場が閉じられたのかもしれない。改めて周囲を見渡す。何度見ても夢と同じ場所だ。荒廃したお社に荒れ果てた鳥居。何かが通る気配。足りないのは新品みたいな盃だけ。
青江と一個ずつ片耳に付けたイヤホンから、あっちの本丸の騒がしい音が聞こえる。指示する音声、元気のいい返事、誰かが走り回る音、激しいタイピングの音、印刷機の音、紙が落ちる音。こっちとは大違いだ。半歩前に居る青江は、息さえ殺したように物音がしない。自分の心臓と呼吸の音が体の中で反響する。イヤホンを付けた右耳に、耳の骨に、心の臓の音が反響する。どくり、どくり。生者にしか奏でられない音。皮膚の下を流れる赤い機構。生体の中に流れる大いなる命の奔流。この場には、命の奔流は二つしか存在しないはず。ならば、鳥居の奥から聞こえるこの音は何なのだろうか。命の奔流には程遠い弱弱しい拍。されど確実な意思を持って、脈を刻んでいる。先ほどの「何か」には脈も拍も感じることはできなかった。つまり今後ろにいるのは生命。意志を持った生命。私たちと同様の生命。目を閉じる。
「人がいる…」
「……主は、あれが人間に感じるのかい。」
「いや、生きてる人間じゃないのはわかるんだけど……限りなく人間に近い何か……」
件の夢をなぞるのならば、後ろの人間の顔を確認せねばならない。夢では驚いたが、これは驚きというより恐怖だ。正体のわからないものに対する本能的な恐怖。もしかすると、人間ではなくおぞましい化け物が立っているかもしれない。分からないは恐怖だ。青江は視界に入っているようだが私はまだ見ていない。見れていない。いつの間にか汗をかいていた。背中につぅと汗が伝う。この先は知らない。夢で見たこともない。夢の通りならここで帰れるのかもしれない。わからない。わからない事だらけだ。自分が何故こんな目にあっているのかも、怪異に巻き込まれているのかも、神社に居るのも、何もわからない。意を決して振り返る。何もわからないのは彼女も同じなのかもしれない。
「杏饗院…さん………?」
杏饗院十六。先月に亡くなったはずの友がそこに立っていた。私の知っている彼女とは程遠い姿で。かつて健康的赤みを帯び、陶磁のように美しかった肌は見る影もない。ガサガサとしていて黄土色の枯木の皮のようであった。美しく長い黒髪は首あたりで散切りにされ、バラバラと落ちている。不安げに揺れて、されど強い意志の籠った瞳は跡形もなく溶け落ち、黒い液体を絶え間なく流し続けている。あるのは落ち窪んだ深淵への穴がふたつ。深淵は、私たちに見向きもせずに鳥居をくぐる。政府指定の緋袴を土と穢れで汚し、貶め、無用の存在に作り替え、この場に存在している。杏饗院さんであろう何かは、私たちに気が付くことなく小さな本殿へと足を運ぶ。木製の扉に手をかける。木の枝のように細くやせこけた腕。ギぃ、と低い音を立てて正面の扉が開く。そのままお社に入っていく。少しするとお社の中からガリガリと音がする。ガリ、ガリ、ガリガリ。連続した音がする。止まらない。木材と爪が当たってこすれる音。いったい何をしているのか。様子を探ろうにも、あんな友の姿を目の当たりにして凸する勇気はない。末端から温度が消えていくのが分かる。
「僕が見てこよう。」
流れるような動きでその場を離れ、本殿の裏を回り、息を潜めて室内を覗き見る。彼の顔色が変わることは無かったが。何をしているのかはわかったようで、イヤホンから流れる音声がさらに騒がしくなった。同じルートで私の近くに戻ってくるにっかり青江は、足音なども気にしていないようだった。
「あっちの情報次第だけど、この場はどうにかなりそうだよ。」
「え、本当に?」
「あぁ。まずあれは幽霊とも呼べないか弱い存在だ。僕が斬ってしまってもいいんだが、そうはいかないみたいだ。」
「というと?」
「本殿の中には神棚があって、そこに盃が置いてあったよ。」
「や、やっぱり……」
「でも新品とはとても思えないような骨董品だったよ。」
骨董品?だというなら夢の盃とはまた別物なのだろうか。とは言えほの暗い山奥の神社のご神体代わりに盃が置いてある時点で、もう怪しさ極大発散出血大量サービスなのだ。勘弁して。端末から通知音がする。課長さんが色々と調査をして、その情報をまとめてくれたみたいだ。だが残念ながら今の私にとんでもない情報量のスライドを見る余裕はない。全くない。これでも変わり果てた友達にビビり散らしているのだ。声を上げずに静止しただけでも褒めてほしい。そんな私の心中を察したのか。青江がメールを確認してくれた。
「伏田撞神社は実在する神社みたいだ。鳥取あたりにあるみたいだね。……ご神体は鬼……だね。」
「鬼?!」
「フフフ、僕じゃ足りないみたいだね。……役割の話だよ?」
「いや一件落着みたいな顔してるけどわかんないから……説明して……」
「端的に言うと、伏田撞神社は杏饗院家が霊力研究で創建したものだね。正確に言うと買収だけれど。」
「買収……」
「詳しくは後で資料を見てくれればいいけど、実際にここで実験されてたみたいだね。それこそそこの杏饗院さんもここで実験してたみたいだ。」
「……」
「そしてさっきから杏饗院さんはずっと本殿の床をひっかき続けていたよ。」
ああなるほど、という声が聞こえる。課長だ。置いていかれてるのは私だけだ。資料には最近審神者養成学校で流行っているおまじないも添付されていたそうで、その内容が何とも怪しい。なんでも願いを叶えてくれるとか、盃に何か置くとか、きさらぎ様とか、歓迎した途端にどうぞこのままお通りくださいって言いだすおまじないはもうアウトに近い。アウトだ。政府ちゃんは早く発禁にして。そして案の定、伏田撞神社とおまじないには関係があるらしく、杏饗院家が研究していた儀式に「盃に山で汲んだ水と、対象者の頭を置く」というものがあるらしい。
「待って」
『何さ』
「つまりあの本殿の盃って頭置きってこと?」
『それも対象者の首だけ、ね。胴体はいらないんだよ。』
「あぁ、なるほど。霊力の返還をするのは死後でいいんだね。」
本当に待ってほしい。つまりあそこに置くのは首というより生首、しゃれこうべということだ。そして今は乗っていない。
『なのであなたの任務は盃に頭を載せることで~す』
「え???」
『ん?』
「まあ本来ここに呼ばれたのは主だけなんだろうし、僕がやってもあまり意味は無さそうだよ」
「いや何もわからないんですが……?」
『……あくまで考察だけれど杏饗院家は土着の鬼を使って霊力増大の秘術を手に入れた。でも頂戴したわけではない。規定の時間だけ鬼から霊力を借り受けているだけに過ぎない。』
「だから霊力を返還しなきゃいけない。杏饗院一家が死んでる理由はこの間調べただろう。」
「あ……」
『だからこそ杏饗院とやらはアンタを呼んで……い~や、アンタに助けを求めているんだ。』
課長さんちの次郎ちゃんだ。初大太刀らしく、怪異案件によく同行しているのでとてもお世話になっている。おかげさまで彼の発言の信ぴょう性は高い。とはいえ、言葉の意味はあまり分からない。確かに私と杏饗院さんは友達だったがそこまでの信頼関係があったとは言い難い。何故私に。
『お化けに理屈が通用するわけないだろ。』
「……納得できるのが悔しいよ!」
もう私の命運は(お化けと課長によって)決められているのだ。逃げられるわけがあるまい。もうやるところまでやってやるよ!という覚悟を心の中でして、根本的な疑問がよぎる。
「首ってどこに……?」
「ちょうど杏饗院さんが探しているんじゃないかな。僕が見たときはただの床だったけど、主には別のものが見えるかもしれない」
『試してほしい。』
杏饗院さんが探している。杏饗院さんは本殿の床を引っかき続けている。ガリガリという音は今も止まってはいない。つまりは本殿の床、もしくはその下である。地下室もしくはそれに準じる場所に行けと?もしかして嫌われている?死ねと?思わず引きっつった笑みを浮かべる。いいや、私は覚悟を決めたので向かいます。偉い子なのでいけます、と己を奮い立たせる。
『よろしい。特に注意点はないよ。元杏饗院十六がガリガリしてるあたりの床に何かがあると思うからそれを盃に置く。それだけ。』
「何もなかったら?」
『その時はどうにかする。』
あまりの頼もしさに眩暈がする。本当に政府職員と審神者を兼業しているのかと疑ってしまいたくなるような気もするが、彼女は彼女なりに手を尽くしてくれているのは理解しているし、何より帰りたい。帰りたい。一連の解説は後で聞くことができるだろうし、今やらねばならないことはしゃれこうべ生首探しなのだ。もう後には引けまい。託していた端末を懐に忍ばせ、改めて気合を入れて一歩踏み出す。未だに元杏饗院さんは床を引っかき続けているようだ。心なしか引っかくペースが速くなっている気がした。焦っているのだろうか。先ほどの青江と同じルートを通って本殿に向かう。ありがたいことにあっちは気付いていないというか認識していないようだ。物音等は気にせず、でも極力静かに入口にたどり着く。本当に古い神社だ。ここ数年は手入れされていなかったのだろうということがよくわかる。数段の階段を上り、扉の陰で様子を伺う。幸い、元杏饗院さんが扉を開けっぱなしでいてくれたのでそのまま中を覗き込む。小さな後ろ姿が見えた。記憶よりも何周りも小さな背中。薄暗い室の中、黄ばみを超えてもはや黒くなった巫女服の上だけがぼうっと浮かび上がっていた。がりがり、がりり、ガリ。不規則な音が小さな箱のような部屋に反響する。彼女が何故こうなってしまったかはわからないが、生前からあまりにも可哀そうで、哀れで、さみしそうだったのに、友であったのに気付いてあげられなかったのだ。勝手なエゴだというのは理解しているが、この姿になる前に何もできなかった自分が無力な気がして、あの時に手を差し伸べれば何かできた気がして。少しの申し訳なさと大きな同情を抱えて、杏饗院さんだったモノの近くを注視する。大きな穴も地下室への扉も見当たらない。さらに目を凝らす。床板の木目を数える勢いで見続ける。凝らす。凝視する。見えない。ふっと気を緩める。この部屋は少々暗い。目が慣れねば見えるものも見えまい。一瞬の隙に霊力が横切る。微弱で、ここにいる私しか気が付かないような、弱い何か。審神者で無ければ気が付けないような、細く伸びた救済の力。今一度床を睨む。床板と床板のわずかな隙間に結界が張られているのが分かる。ゴクリと唾をのむ。あれだ。あれをどうにかせねばいけない。よく見れば結界はちょうど杏饗院さんだったモノの真ん前にある。本当にこれを求めていたのだ。でもつまり、私は彼女の前に出ないと結界の中身を知ることはできないということだ。え、あれの視界に自分から行くの?無理では?いやでもあれは私に気が付かないみたいだし……とあれこれ考えてから、勢いだけで本殿に足を踏み入れ、そのまま元杏饗院さんの前に躍り出る。
推測通り、彼女は微動だにしない。これ以外の動きをする機能が備わっていないのだろう。もはや、彼女は単なるシステムとしてしか作用できないのだ。きっと。いや、機能に堕ちてもなお、救われたいと願っているのかもしれない。安心して結界の状態を確認する。長い間放置されていたからか、私でも難なくこじ開けられそうだ。新人研修でやったことを思い出す。護符に霊力を込めて貼り付ける。自分の霊力が護符に集中していくのが分かった。もう十分だろうと床に思いっきり叩きつける。
シャン
薄い何かが壊れる音がした。それと同時に、経年劣化に耐えられなかった床が落ちる。
「っあ!」
嘘だろ。寄りによって落下オチとかそんなことある?落下の激痛を覚悟したが、想像の痛みは無い。どうやら下は土で、クッション材の役割を果たし無事に着地したようだ。それに高さもあまりない。立てば顔が本殿の床から出る程度のものだ。大きく見積もっても四寸といったところか。イヤホンから笑い声が聞こえてくる。くっ……帰ったら覚えとけよ……
さて。ちゃんと下は存在したが、お目当ての物を探さなければならない。端末のライトを使って土の中を照らす。少々光量が足りないがしょうがないのでしゃがんで作業をする。全体的にふかふかで豊かな土のようだ。外の枯れ具合と相まって実に不気味だ。少し触ってみる。ふかふかの土の下に固いものがあるのが分かる。この状況で、土に埋まっている固い物に良い想像が全くできないが、少し、ほんの少しだけ掘ってみる。指先が何かにあたる。ほんのり冷たい。骨か?棺か?それとも骨壺?どうにでもなれぃ!という気持ちで、手のひらを付ける
「かお」
人の顔だ。それも骨になっていない。人肌の気配がする。でも死んでいる。命は存在してない。何故。土から手を引き上げる。こんなところに少しの間も居たくない。何故ここに遺体が、腐ることもなく存在しているのか。私たちが来るタイミングを見計らって誰かが埋めた?でも結界を破ったのは私で、床板をブチ抜いたのも私だ。理解が追いつかない。いや、理解しない方が幸せなのかもしれない。ハ、と乾いた笑いが落ちる。ひとつ、遺体の存在を認識すれば、この床下に何人もいるのが分かった。死んでいるのに、霊力を感じる。同じように、同じ状態で埋められているのだ。息が詰まる。呼吸が浅くなる。いち、に、さん、し。遺体はいつつ。そして生者がひとつ。
後ろで音がした。軽いのものが落ちる音。でも下は床板ではなく土なので、ぽす、と慎ましやかな音がした。きっと私の真後ろ。いま振り返れば、それが見れる。振り返りたくなかった。でも本能的に振り返った。もしかすると本能では無かったのかもしれない。呼ばれていただけかも。案の定落ちていた。
「杏饗院さん……」
杏饗院さんの生首が落ちていた。黒い液体を絶え間なく流す深淵は、きめ細かい陶磁の皮膚で閉じられ、豊かな髪が顔の周りを彩っていた。私の知っている杏饗院さんだった。あの時に手を差し伸べてあげられなくてごめん。もっと話して、もっとちゃんと友達だったらこうならなかったのかも。ごめんね。そういう気持ちを込めて杏饗院さんを抱える。ほんのり温かい気がした。ついさっきまで生きてたと言われたら騙されてしまうくらい、この杏饗院さんは生きている。お目当てのひとは見つけた。あとは盃に置くだけ。そう思って立ち上がった。目に入るのは杏饗院さんだったモノ。生命力の亡くなったひとのなきがら。首から先が無くなっていて、そういうことかと納得する。正直二割も納得していないがお化けのすることなんていつでもわからない。分かりたくない。よいしょ、と掛け声を上げて本殿の床に舞い戻る。扉のそばに青江がいる。さて、これでおしまいだ。小脇に抱えた杏饗院さんを目のまえの盃に両手で据える。どう置いたらいいのかわからないけど、とりあえず立てておいた。すると生首の切断面からこんこんと清らかな水が湧いてくる。その清水はとどまることを知らず、どんどんと溢れてくる。盃から溢れたら本殿から溢れてしまう。そうしたら、この木造建築はどうなるか。経年劣化で床が抜ける木造建築だぞ、ちょっと待ってくれ、帰れるよね?死にたくないんだけど?ちょっと課長さん?!見えてんでしょ?!いい加減にしてくれこれで帰れないならいったいどうすれば。そう思った次の瞬間。
「力乃返還遠認女留。己乃末末速久通利抜計良礼与。」
「え~、いりちゃんからお菓子を大量に頂いてます。大切に食べるように。優先権は考察班と情報収集班です。」
かく言う私も、昨晩までこの間の怪異の報告書やら状況説明なんやらで嵐どころか天変地異の忙しさだった。書類仕事が得意な刀はもれなく駆り出され、報告書の長文作成のために文章を書くのが得意な刀まで集められた。もうてんやわんやだった。考察も長義くんは書類の見過ぎで寝言でも紙を数えていたし、長谷部は五徹でぶっ倒れたのにも関わらず自室からネットを介して書類を送りつけてきた。そんなにしなくていいと言ってもやろうとするので、乱ちゃん(極)に一発腹パンをお願いして沈めてもらった。ごめん、面倒な仕事ばっかり持ってきてごめん。
そんなこんなで一件落着して、いつもの日常が戻ってきた。もうしばらく怪異はこりごりだなと思っているが、それはそれ、これはこれである。仕事とはいえ、プライベートの時間を使わせてしまった対策課にお菓子の詰め合わせ特大サイズを持って行った。毎回お詫びは無くていいと言われるが、礼儀は尽くしてしかるべきだ。ついでで良いので一連の答え合わせも聞きたいし。対策課の人たちが茶請けの菓子とお茶でワイワイしているのを横目に自分もお茶を啜る。横では課長さんがおせんべいに齧り付いていた。
「んで、何が聞きたいって?」
「う~ん、何ってわけじゃないんだけど、結局あの神社は何?」
「伏田撞神社は元々伯耆国の鬼伝説から来た伝承の鬼をご神体にした神社。最初はそれだけ。だけど杏饗院家が古い鬼の伝承に目を付けて霊力研究に活用したのが事の発端。」
「……その研究手法って?」
「特別なもんじゃない。諏訪に御渡りってのがあるだろう。詳細は省くが、雑に言うと神様が通った道が見えるようになる。つまり神様の通り道だ。神様の通り道なんてものは霊力とかその辺の超自然的な力が働いていると言われている。」
「あぁ、その道を作り出したんだ!」
「そうそう。神を何度も通せば、その道自体がパワースポットになる。そして同じ道を霊力管理のできる能力を持ったものが通れば?」
「霊力をちょっともらえる、とか?」
「正解。初めは微々たるものかもしれないけれど、繰り返せば膨大な量になるだろうね。審神者が五、六人できるくらいの量に。」
「あぁ……」
「でもまあ神の霊力も無限ではないんだろうな。持って行った霊力の返還を要求してきた。」
「それがおまじないの噂かな?」
「そ。幽かな鬼で幽鬼。よく考えたもんだ。きさらぎ様とやらは、来更来だ。何回も同じ道を通るから。」
たぶんね、という言葉に合点がいった。元来の神の力を利用しようと考える者は多いらしい。たとえその手法がどんなものだったとしても。審神者という存在にどれ程の付加価値があるのかはわからないが、霊力についての研究はとどまることを知らない。ため息をひとつ吐き出せば、隣から考察の続きが流れてくる。
「とはいえ審神者になってるんだから、賜った霊力なんて使い切ってる。」
「……」
「だから器ごと返還したんだ。人の身は生の力が強いから、霊力の足しにはなる。」
思わず趣味悪……とぼやいてしまった。課長さんはけらけらと笑っている。何が面白いのかはよくわからないが、怪異対策課ではないので同業者が死ぬ話は得意でないのだ。審神者が命を削って戦争に参加しているのを嫌でも自覚させられる。勿論就任時に耳にタコができるほど聞かされた話だ。だけど聞くのと実感するのはまた違う。そして実感と体感もまた違うのだ。隣では人で居ることを辞めた旧友が呑気に紅茶を飲んでいる。
「……辛かったりしないの。」
別にこの心のもやを振り払ってほしいわけではなかった。でも、怪異対策課という未知の存在に命が左右される部署に所属しているのだ。何か彼女なりの解決策があるのかもしれないと、期待をしたのは事実だった。
「毎日死ぬ生命の意義なんて数えてられないんでね。」
期待は裏切られることとなった。くだらないと投げ捨てるような調子だった。いや、ハナから聞く対象が間違っていたのだ。元々血も涙もない人間だから怪異対策課に配属されたのだ。聞くんじゃなかった。こころに感じる苦みを飲み干すために、お茶を流し込む。甘さでべたついた口内はさっぱりしたのに、私はヘドロに身を埋めているような心地だった。
「なあいりちゃんよ。」
「……何?」
「今回は君がどんなに動いたところで、君の友の死は回避できなかったよ。」
「……」
「世界の救済なんてできない。たとえ手が届いても救えない命はある。」
それに君が杏饗院の夢と共鳴しなかったら、無関係な人間の命が失われていたかもしれない、と言われた。杏饗院十六と関わり、その名を記憶していたからこそ君がピンポイントで狙われて、早い段階で現場検証ができて、多くの人間が「返還」されることを防ぐことができたのだ。少なくとも、君が成したことは悔いるようなことではない、と。そうかそうかそうですね、と簡単に気持ちを落ち着けることができたらどれ程よかったか。残念ながら、私はいたって普通の人間なのだ。最後に会った時にもっと話せていれば、違う結末になったかもしれない。かもしれないは存在しないけれど。後悔は止む事を知らない。旧友に優しい言葉を掛けられても、私は友人を救えなかったのだ。相当難儀で面白い顔をしていたのだろう。旧友の課長は楽しそうに笑い出した。
結局、その日はお茶を一杯だけごちそうになって帰ることにした。今日の近侍、大般若さんを呼びよせて怪異対策課本部を後にする。
「大般若さんはどうでした?」
「ん、なに、俺も煎茶を一杯馳走になっただけさ。」
「おいしかったでしょ。」
「あぁ。美味かったな。茶葉の種類でも聞いてくるんだったな。」
後悔したような表情を浮かべている美丈夫を見上げる。きれいなかみさまだ。刀剣男士はいつだって美しくて、清廉で、潔白で、まっすぐだ。風にたなびく銀糸の髪が、羽二重の肌に落とされた深紅の瞳が、不変の美しさを湛えている。清らかな泉のようでいて、本質は武器。命を屠り、葬り去るための存在。ひとの手によって生み出された、美しき手段。ふと、生前の杏饗院さんを思い出した。きめ細かい陶磁の皮膚に、豊かな濡羽色の髪。もしかしたら、杏饗院家は審神者なんかじゃなくて、神様そのものを作りたかったんじゃないだろうか。にんげんに、都合の良い、神さま。
「主人」
「……」
沈んでいた意識が浮上する。いつの間にかT字路に立っていた。この時間帯は皆仕事中のようで、政府の通路には私と大般若さんしかいなかった。しん、と静まり返った廊下にひとりと一柱分の靴音が響く。本丸に帰るゲートは右の通路の先にある。無意識に左側を歩いていたようで、そのまま左折するところだった。考え事をしていると周りを見ないのは悪い癖だ。その癖のおかげでいっつも迷子になる。そのたびに大般若さんに迎えに来てもらうのだ。しょうがないなぁって、困ったような顔をして。左側から夕陽が差し込んでいる。自分の影が長く伸びる。大般若さんの影はもっともっと長い。
「そっちに行くと帰れなくなってしまうよ。」
そうだ、本丸に帰るには右の道を行かなければいけない。左の道の先に何があるかはわからないけれど。いつもと同じ、困ったように笑う大般若さんが立っている。夕陽のせいでちょっと見えにくいけれど、きっといつも通りの顔に違いない。
「すみません。また、迷子になるところでしたね。」
「本当になぁ。いっそのこと手でもつなぐかい?」
「手?! いえ! 大丈夫です!」
慌てて大般若さんの後に続く。このままふたりで本丸にかえるとしよう。失われた命は戻らないのだから。
好きなもの。丸しかないテストの答案、優しいおじいちゃん、ご褒美のケーキ、猫のミーコ。
嫌いなもの。ケアレスミス、怒鳴り散らすおじいちゃん、何も知らない親戚、霊力適性検査、あいつら全員。
「お手上げ。とてもじゃないけど無理。僕じゃ力不足ってことだわこれ。腹立つんだけど。」
「いやいや、課長ができないなら多分もう誰もできませんよ。」
今日の防禦庁怪異対策課は大時化だ。下っ端の自分にはよくわからないが、どうやら課長でもどうしようもできない案件が舞い込んできたらしい。
事の始まりは二カ月前、転送ゲートにまつわるトラブルから始まった。本丸から外部に出る際は、転送ゲートに行きたい場所のパスコードを入力して、確認が取れればゲートが開くシステムになっている。演練場と万屋は確認不要で、特定のパスコードを入力すれば二四時間三六五日、いつ如何なる時でも行き来が可能だ。他の本丸に行きたい際も、事前に担当職員を通して承認を得ていれば簡単に行くことができる。勿論、政府側で往来を停止しているときは不可能だが。そんな便利な転送ゲートだが、時折様々なものが“混ざる”ことがある。何の害も無い浮遊霊から、執念深い生霊の呪いなど、厄介なものが混ざってしまう。多くは生きている人間が原因だったり、ちょっとした浄化で解決することだったりと、怪異対策課ではなく浄化課に送られる案件が大半だ。だというのに、対策課に来たということはそういうことだ。資料を見れば案の定厄介な怪異絡みの案件だった。それも、一番のベテランである課長がお手上げだという。
「これ以上どうしろってんだよ」
頭をガシガシと搔き、今までに無いほど苛立っている鬼上司に気圧されながら机の上に置かれた今回の資料に目を通す。どうやら、転送ゲートに指定したパスコードを入力したものの、全く異なる別の場所に接続されてしまったらしい。それも全員同じような場所に。この時点で異常を感じて相談窓口に一報を入れてくれた審神者もいるが、興味本位や事故で怪しい場所に足を踏み入れてしまった者も一定数いた。何なら迷い込んだ審神者の半分は突撃している。なんだ、審神者ってのは命知らずばっかりなのだろうか。
「全員が同じ場所に転送されるなんて、お化けの仕業以外ないだろうに。」
「そりゃあそうですよね。……へえ、全員廃校に出たんですね。」
「聞き取り調査をしたら、全員、須らく、全く同じ学校だったよ。」
「建物の形状とかから判別付いたんですか?すごいですね。」
「……いやそれがな、巻き込まれた審神者は全員養成校の卒業生なんだよ。」
審神者養成校、というものが存在する。正式名称は国立道明大学附属中学校・高等学校。勿論、大学まで存在する。審神者が徴収され始めた年に作られた新たな国立大であり、日本で唯一の審神者や時の政府の役人を育成するためだけの教育機関である。中学校と高校は分校として、第一から第七までの十四校が全国に存在している。未成年で審神者になった者の三割程度はこの養成学校を卒業している。
「確かに呼ばれている気はしますが、大きな要素ではないような。」
「う~ん、まぁそう思うよね。養成校卒の審神者なんてわんさかいるし、僕もそう思って事前調査してたんだよ。そしたらさぁ。」
課長が座っているソファの横には、大量の紙束が積まれている。その束の一番上に乗っている冊子状のものをこちらによこしながら、げっそりと疲れた顔をしてこう言った。
「全員七校の出身なんだよ。それも寮生。」
本丸を持つ前の候補生の多くは、特例を除き学校に併設された寮で過ごす決まりになっている。各校によって少しずつ規則や特色が異なるが、基本的には皆同じような生活をするようになっている。
「懐かしいです。俺も寮生でした。」
「あぁそうなんだ。僕も寮生だったよ。老竹ちゃんは何校?」
「俺は五校ですね。」
「あ~、一番都会にある養成校か。」
「そうですね、便利でした。」
審神者養成校と名乗っているのもあり、立地は民間の人間にはわからないような山奥のことが多い。その上、認識障害の結界も張られているので、普通の人間が見つけることはまず不可能だ。その中でも一番街に出やすいのが五校で、一番田舎でたどり着くのが困難とまでいわれているのが七校だ。
「課長は何校だったんですか?」
「僕のことはどうでもいいの。問題は七校が現在も稼働してる養成学校でなんの問題も無いということ。」
「そういえば、七校って学校の七不思議みたいなのありませんでしたっけ。」
「あるある。そこも調べてから行ったんだけどさ。」
「どうにもならなかったんですね……」
奇声を上げながら髪の毛を搔きむしる上司を憐みの目で眺めることしかできない。課長がどうにもできない案件が、我々部下にどうにかできるとは思えないし、きっとこのまま迷宮入りになるのだろう。この上なく残念だが。手元の報告書をめくりながら、自分の担当審神者のことを考える。兼業職員も楽じゃないのだ。
「僕にはできないので、助っ人を呼んでありますからあとはよろしく。老竹ちゃん。」
「えぇわかり、はい?今なんと?」
「この怪異の担当者を君にしたのであとは頼んだ。」
「え、いや、かちょ、」
「多分僕が呼ばれてないだけなんだよ。七校は僕を御呼びじゃない。それに君も養成校上がりだってんなら尚更だ。夏なんだから学校の怪談で肝試しもオツなもんだろうよ。」
「げぇ、なんで俺にばっかり仕事振るんですか」
「なんでってそりゃあ、君が一番若手だからだよ。頑張り給えよ下っ端クン。」
先ほどとは一転して心底楽しそうな笑みを浮かべた上司は、いつも通りの口調で資料の束を僕の前に移動させた。キュルキュルと音を立てて回る椅子に、優雅に腰を掛ける上司に恨み節を唱えそうになる。なるほどこの資料を読み込むところから始めればよいのだな等と考えてしまった自分にげんなりした。これほどまでに社畜が板についているなど考えたくもなかった。致し方なし、課長が呼んだ助っ人とやらとの打ち合わせに向かうことにした。
資料に軽く目を通した後にオフィスを一歩出れば、ジィジィミィンミンミンと騒がしく求婚する節足動物が煩わしい季節だ。デボン紀から誕生した昆虫という生命は、哺乳類や生命と呼べるか定かでないいきものが平然と闊歩する現代でも、栄華を極めているように見える。ただでさえ自分の仕事が一瞬で倍になったというのに、ここまで煩くされては気がさらに滅入るというものだ。途中の自販機で買った炭酸飲料を口に押し込んで眉間の皺をぎゅっと押す。ここ最近ずっと液晶画面を見ていたためか、眼球の奥が少しばかり痛い。強炭酸が口内で弾けてバチバチと音を立てている。
「やあ若竹君」
「老竹ね。先生はいつまで俺の名前間違える気だ?」
「許してくれたまえ。それは資料かね?僕が持とう。」
「ありがとう。」
後ろから肩を叩いてきたのは南海太郎朝尊だ。俺は政府職員であって審神者ではない。だから刀剣男士を顕現させることはできない。しかし怪異対策課や浄化課といった、実地業務のある課では危険が伴うので刀剣男士の帯刀が義務付けられている。南海太郎朝尊は俺の相棒であり先生だ。とある脇差が先生と呼ぶのを真似して、いつの間にか先生と呼ぶようになっていた。今から面会だという旨を伝えれば同行すると言い出したので、記録をお願いすることにした。どっちにしても呼びに行くつもりではいたのだが。先生と合流したところでとある部屋に向かわねばならぬことに変わりはない。政府のオフィスは何棟かに分かれている。課の本部がある場所と一般の審神者が入れる建物は別棟だ。なので渡り廊下を通っていかねばならない。とはいえ、特別遠いわけでもないのでほんの数分で面会室にたどり着いた。どうやら客人はすでに来ているようで、中からしゃべる声が聞こえる。ノックと声掛けをして扉を開ければ、茶色と銀糸の後頭部に、見覚えのある顔が並んでいた。
「久しぶりだね。」
「……あれ、一入さん、ですか?」
「うふふ。そうだよ。神社の時にはお世話になりました。」
「お変わりないようで。こちらこそ、あの時はまだ研修生だったので色々と至らぬ点も多くて……逆にお世話になりました。」
「ふふ、初めてのお仕事があれだったって聞いたけど、大変だったでしょう。」
「あぁ、いえ、お陰様で非常に勉強になりました。」
今日の客人は課長の旧友一入さんだった。課長が審神者養成学校の候補生だった頃からの仲らしい。とどのつまり同窓生、というわけだ。そして自分がかつて担当補助をした案件の依頼主であった。よく考えれば隣に座っていたのが大般若長光の時点で察せたな。今回課長がこの友人を呼びたてたのにはもちろん理由があるのだろう。
「課長さんが私を呼ぶときは大体オカルト関係だからね。」
「仰る通りです。今回も怪異の調査にご協力いただければと……」
飲み物を聞けばじゃあコーヒーで、と返ってくる。薄手のグラスにアイスコーヒーを注ぎながら、自分のカップにも氷をと濃い目の紅茶とガムシロップを追加してローテーブルに置く。先生は勝手にホットコーヒーを淹れている。課長の趣味で対策課の面談室には嗜好品が豊富に置かれているので、好きなものが飲めるのは大変ありがたい。一入さんと大般若長光とは反対側のソファに、浅く腰掛ける。
「今回は廃校探索をお願いしたく。」
「今回も私が行くみたいだね。」
「あの、はい、その、大変申し訳ないです…」
「あぁ! 大丈夫大丈夫! 気にしないで。課長さんの人使いが荒いのは今に始まったことじゃないから。褒賞も毎回ちゃんとくれるし。本当に気にしないで。」
優しい言葉に感謝の念を抱きつつ、探索の話をする。課長曰く、今回の案件は人を選ぶ。純粋に、お化けが見えるのと見えないというだけの話で、課長は見えない側で一入さんは見える側だそうだ。
「本題に入らせていただきます。今回は、注意喚起のメールも出回っていた転送ゲートエラーについてです。」
「ああ、本丸から直接つながるあれかな。変な廃屋に通されるとか。」
「はい。その廃屋というのが、廃校になった養成学校だそうです。」
「へぇ。」
「こちらが興味本位で突入した審神者が記録してきた地図になります。」
「あ~」
資料の一枚を机上に差し出す。紙に記されているのは何棟からなる建物の見取り図だ。北を上にして、北東に大きな建物が一つ。北西から南東にかけては細長い四つの棟の建物が確認できる。西側の建物は通路のようなもので四棟全てが繋がれている。この地図を見た時の反応が、一入さんも課長も同じだった。
「見覚えはありますでしょうか。」
「もちろんあるよ。行ったことあるもん。」
課長が整理した資料と同じ情報が得られた。この地図は国立道明大学附属第一中学校・高等学校の見取り図で間違いないようだ。
「う~ん確かにお化けの仕業だね。」
「そうなんですか……」
地図とにらめっこを続ける一入さんを横目に資料を読み上げる。
「今回怪異に巻き込まれたのは、七校出身の審神者六名。全員演練やら万屋やら他本丸に用があってゲートをくぐる際に廃校舎に飛ばされたとのことです。刀剣男士も一緒のケースが四名。そのうち三人が実地検証を行いました。」
「審神者って命知らずなのかな?」
「ど、どうなんでしょうね……」
「課長さんを見てると審神者はみんな命知らずに見えてくるね。」
「本当にその通りです……」
本当に本当にその通りです。審神者は命をかなぐり捨てているのではないかと錯覚するほどに、勇敢で向こう見ずな人が多い。筆頭は課長ですけども。余計な考えを脳みその隅っこに追いやって、数枚の写真を一入さんの前に差し出す。
「……へえ」
「こちらが実地検証の際に撮影された廃校の写真です。霊的要因から成る玉響現象、いわゆるオーブのようなものは観測されませんでしたが、こう、全体的に暗くて風通しの悪い写真になっていますね。」
「いかにも吹き溜まりで空気が循環していませんって感じだね。」
一入さんの言う通り、吹き溜まりのようなどんよりとした空気を感じさせる写真たちであった。写っているのは荒廃した校舎の壁や鬱蒼とした森、そして空間の途切れ目だった。本丸や政府の施設に限らず、防禦庁の関する施設は全て層位の異なる土地に立っている。この世界は三層から成っている。表層であり、普通の人間が生活をする現世。深く深くどこまでも昏い、死者や魂のみが集う幽世。そして、どちらにも属すことができずに中途半端なものが揺蕩う中間の途世。言い方は様々だが、基本的にこの三つが精神や魂の世界を構築しているとされている。実際に層になっているのではなく、ひとつの場所に三つの世界が同時に存在しているが、知覚することはできない、らしい。たまたま、あちらとこちらとの視線が交わる時にだけ、感じることができる世界だとか、向こうとこちらのチャンネルがぴったりと合えば見ることが叶うとかなんとか。とどのつまり、わかる人にはわかるが、わからない人にはわからない、というやつである。通常であれば幽世や途世に生きた人間が行くことは不可能だが、霊力という第六感の発見により他の世界を覗き見したり、渡ることができるようになった。それを活用しているのが時の政府であり、本丸という機構である。そして時折“あちら側”からうっかり現世に浮上してきてしまうことも多い。過去の幽霊のようなものだろう。そして今回渡るのは限りなく現世に近いが、土地のほぼすべてを途世に浸しているという摩訶不思議な場所だ。限りなく現世のあの世、というわけだ。正直理解は追いつかないが、そういうものらしい。
そして写真に写っているのは、この層がずれてしまっていることによる空間の割れ目である。亜空間に繋がる亀裂とでも表現するべきだろうか。この亀裂に入って戻ってくることができた人は、ひとりもいないと言われている非常に危険なものだ。それが何故廃校で観測されたかと言えば、一校の立地が原因だそうだ。
「あぁ~、そうだよね、一校は初期に建てられてるから、層とかそういうの、曖昧だもんね。」
「まだ霊的空間学の発達していない時期に建てられたので、無理はないと思います。」
「経年劣化かな。私が居た時はそういうの無かったし。」
「そのようですね。」
ある意味人工的に作られた空間でもある途世は、人の手が入らないと現世か幽世に遷移してしまう場合が多い。しかし今回の一校がある空間は、長年手入れがされていない場所である。現世の層には七校が建っているが、その下の曖昧な境界線のさらに下。管理が難しいのも当然だ。そうすれば空間の境界がさらに曖昧になって、一校という立地そのものが現世と途世のツギハギのような状況になってしまっているようだ。その上、一校という学校には大量の都市伝説があるらしい。
「あと、七不思議があるとか。」
「あぁ、うん、あったね。」
一入さんの話によれば、一校には都市伝説に毛が生えた程度の七不思議が存在していた。いわゆるトイレの花子さん的な中学生が好きそうなものだったそうな。語る人によって変わってしまうような些細なもので、世間一般の七不思議と同等のものらしい。夜のハ棟の呻き声、体育館裏の影、集会堂の閉じない扉、ニ棟の地下室、旧校舎の幽霊、夜の職員室から聞こえるバイブレーション、裏山から光るもの、音楽室にぶら下がる首吊り紐、コンピューター室のパスワード。きっとこれ以上に多くのオカルト話が、生徒の間で実しやかにささやかれていたのだ。その中でもひとつだけ特殊なものがあった。多くのオカルトが蔓延る一校だったが、全生徒が口をそろえて、七番目の不思議に据えていた。
「『寮の図書室の日本人形』ですか。」
「あれだけはみんな同じこと言ってたの。面白いよね。」
「面白いというか不気味というか。」
不思議だ。異口同音に「七番目は日本人形!」と言うらしいのだ。霊力が一定以上ある子供たちが集まる場所ではあったから、何か不思議な力が働いていたといわれればそれまでだが、それを含めたとて疑問は尽きない。
「でもその学校の怪談的な口頭伝承が怪異の原因だと考えるのは妥当ですね。」
「私もそう思うな。あ、あとは聞いてる? もうひとつのオカルト。」
オカルトというか事件なんだけどね、と付け加える彼女を見て、慌てて資料を漁る。七不思議の記述はあれど、何かの事件の資料は添付されていなかった。課長が載せ忘れた、ということは無さそうだしちゃんと聞いてこいというお達しなのだろう。
「いえ、詳しくお聞かせ願えますか。」
「オッケー。でもまあどうってことないんだよ。ただ、審神者の適性が低い子が自殺したってだけの話。」
「……」
「ほら、まだ指揮科とか総務科とかに分かれてない時代だったからさ、」
適性のない子は学校に居場所なんて無かったんだよ。人間は己の経験則でしか話ができないといったのは誰の論か。審神者になった女は微笑みを浮かべて過去に死んだ生徒の話をし始めた。
「初期の養成学校なんて一種の訳アリの子供しか集まらないし、まあ普通の学校にはならないし。」
「そうですね。」
「それもあって、審神者に憧れが強すぎる子も何人かはいたんだよ。」
「……」
「そういう子に限って適性が無かったりするんだろうね。そのまま首吊ったか飛び降りだかで自殺しちゃったんだよね。」
「……悲しい話ですね。」
「うん。かわいそうだよね。」
生まれ持った適性で判断されてしまうこの業界では、珍しいことではないのだろう。実際に自分が候補生の時にも、適性検査の結果で進学する学科が振り分けられたし、結果を見て精神を病んでしまった子も少なくなかった。黎明期となればなおさらだろう。隣で先生が音声録音端末を操作する音が聞こえる。ずっと話していたから喉が渇いた。甘めのアイスティーを飲み込んでから、ふと浮かんだ疑問を口にする。
「一入さんって課長と同期なんですよね。」
「そうだよ?」
「一入さんって一校の卒業生なんですよね?」
「そうだよ。」
「……課長と何歳差なんですか?」
「え? 完全に同期だよ。同い年。養成学校の受験とか留年とかしてないから本当に同い年の同期。」
「え、何校の卒業生なんですか?」
「え、一校。」
「いちこう」
うそだろ、と声にならない呟きが落ちる。思わず隣の先生を見つめれば同じように驚きの表情を浮かべていた。それもそのはず、養成学校一校と言えば、現代の審神者や役人の間で半ばおとぎ話となっている存在だ。歴史遡行軍との戦争が本格化する前の審神者や対応する役人の育成に力を入れ始めた黎明期に創立された、国立道明大学附属中学校・高等学校の第一校である。何もわからない状況で手探りのまま様々な教育方法が試され、現代の養成学校の教育方法が確立されたといわれている。かつての最先端の教育機関であり、何らかの理由によって廃校となって今は存在していない幻の学校。もはや現存していたかどうかも怪しいともっぱらの噂だった。しかし目の前の女性は一校出身らしいし我が上司も同じ一校出身らしい。驚いたの一言ではとてもじゃないが片付けられそうにない。
「一校って結構前に廃校になったって聞いていますけど、というか実在したんですね?」
「え、そんな話になってるの? 普通に存在してたよ! すぐ廃校になったけど!」
あっけらかんと言い放つ一入さんはそのまま話を続ける。
「めちゃくちゃ田舎で山の奥というか山の上だったけど結構楽しかったよ。仕組みとかもまだ全然決まってない頃だったから、普通の学校のカリキュラムに加えて霊力の授業とか手入れの講演、神事のお作法とかやってたよ。」
「えっ、すごい忙しくないですか? 今の養成校ってもはや専門学校みたいになってますよ。」
「あ、老竹ちゃんも養成学校の卒業生なの?」
「はい。五校でした。」
「あ~あの一番都会にある学校かな。五校は特に専門色が強いって聞いたけど。」
「そうですね。卒業生の九割が審神者になれるって有名ですし……」
「へえ。じゃああなたも兼業審神者さん?」
「あ、えっと、俺は才能っていうか、その、霊力が足りなくて。」
「そうなんだ。」
あまり興味のなさそうな返事に、少し救われた気がした。自分自身、審神者という職業に憧れがあって養成学校に入ったし、最難関入試と呼ばれるほどの受験も潜り抜けてきた。でも才能というものは皮肉で、持たざる者には優しくなかった。本音を言えば入学時点で限界は見えていたし、諦めを覚えるのも早かったから、何とか役人というポジションを手にしている。とはいえ、審神者という職への憧れは消えなかったので変に優しくされるよりは、こうした反応をしてもらえるほうが有難かったりするのだ。きっと一校出身というなら一入さんも優秀な方なのだろう。それに、公私混同は三流のやることだ。目の前の資料に向き直り、気になったことを聞いてみる。
「一校が廃校になったのって何年前でしたっけ。」
どうせ調べはついているのだろうと思い、手元のタブレット端末を操作する。廃校のデータがまとめられた資料にたどり着いたかと思ったその時に隣から声がした。
「そろそろ干支が一周するくらいかな。」
「十二年くらいですか。」
「ううん、その五倍くらい。」
目の前の女性はさも普通のことだといわんばかりに六十年、と言い直す。六十年。人が円環を一周してしまうほどの時間。ゆっくりと咀嚼するように六十年とつぶやく。
「あ、もしかして私の見た目に驚いてる? あはは、若く見えるよね。審神者になると時間の流れも変わるし、若作りが得意になるよ。ただそれだけ。見た目なんて些細なことだしね。」
「お、驚きました……」
「新鮮な反応が見れて面白かったよ。審神者の見た目年齢なんて真に受けちゃだめだよ。勿論課長さんだって。」
少し声を潜めて悪戯っぽく言う一入さんは俺よりも年下の少女にしか見えなくて、この人が六十年以上を生きている人にはとても見えなかった。そして彼女と同年代ということは課長も。ここまで考えてから、これ以上思考をめぐらすことを辞めた。絶対碌なことにならないから。
結局、現地調査が行われることになったのは夏の暑い日だった。屋外に居れば、すぐに汗がにじんで地面からの反射する熱で顔が熱くなる。そんな季節に、我々は廃校肝試しという名の仕事をすることになった。時刻は午前十一時過ぎ。これからさらに気温が上がると思うとげんなりする気持ちを抑えて、端末を見る。すごい量の添付資料とともに送られてきたメールを読めば、意地悪そうな笑顔が脳裏に浮かんで腹が立った。あのクソ上司、人の心が無さすぎる。大きめのタブレット端末に表示された画像やら文章の群をスクロールしながら、この後のことを考える。まず今から行われるのは現場検証という名の現場凸だ。怪異対策課本部管轄の専用の転送ゲートから、現場の廃校に向かうようだ。しかし、前例を見るとたどり着くにも条件と運が必要な気がする。資料にも、「第七養成校寮生の卒業生若しくは第一養成学校の卒業生、そして運のある人間」としか記入されていない。十中八九、仮定というか予想で書かれているのは理解できるが、この状態で本当に現場にたどり着けるとは思えない。どうしようかと頭を悩ませつつも隣の一入さんに声をかける。
「今回は本当にご同行いただきありがとうございます。」
「ううん、ぜんぜん気にしないで。半分好きでやってることだし、課長さんにはお世話になってるから。ゲートで行くんだね。」
「はい。とはいえ運も絡んでくるので、確実に目的の場所に着けるかといわれると少々不安が残ります。」
「なるほど?」
一入さんは腕を組んで悩む素振りを見せる。課長曰く、「行けるようになるまで接続しなおせばいい。ゲームのリセマラ厳選と同じ。」と言っていたがそんなことあっていいのだろうか。本当にこんな雑な状態でいいのかを頭を抱えたくなるが、資料にはそうとしか書かれていないので致し方あるまい。
「ええと、現世とは異なる場所への派遣なので帯刀は一振、怪異への対策ができるものが推奨されていますが、今回はどの刀をお連れですか?」
「今日は大般若さんにお願いしました。たぶんあっちで色々説明受けてると思う。」
あっち、と指さされた方向を見れば、相棒の南海太郎朝尊と極修行を終えた戦装束の大般若長光が談笑をしていた。どことなく雰囲気のある二振が今回の調査の戦力だ。
「大般若長光ですね。記録します。次に今回の概要についてですが、転送ゲートのエラーによる廃校調査です。目標は原因の解明及び解消または浄化です。万が一身体に被害が及ぶような出来事があれば、緊急送還術式の発動により政府施設に転送されます。この部屋ですね。ここまでよろしいでしょうか。」
「はい。大丈夫です。」
「では具体的な調査の内容の説明をします。資料をご覧ください。」
一入さんの端末に資料を送り、詳細と書かれたファイル名の文章を読み上げる。場所は途世に限りなく近い現世層位の廃墟。現世の住所では西日本のとある県境あたりの山中となっている。迷い込んでしまった審神者数名と第一調査隊の調べにより、廃墟は廃校になった国立道明大学附属第一中学校・高等学校であると判明した。当時と比較すると建造物の数が異なるが、本校舎四棟と学生寮の位置と大きさが一致したためである。また、一校の跡地に建てられた国立道明大学附属第七中学校・高等学校は現世に建っており、かつ建物の形状等が異なるため一校だと考えられる。だが、一校は廃校と同時に建物は取り壊されているため、本来であれば建造物は存在していない。誰が見ても廃墟というほどに荒れており、人の手が入っている形跡は一切無い。全体的に経年劣化で老朽化が進んでいる。掲示板や黒板には何か書かれている様子だが、埃や汚れで読むことができない。
廃校の中で起こることは多岐にわたる。審神者の報告では、足を踏み入れた瞬間から強烈な視線を感じるが悪意や憎悪というものは感じず、精霊の悪戯のような印象がある。これも七不思議の影響だろうか。また、様々な怪異が存在しているのは感覚的にわかるが、皆一様にこちらとは目が合わないそうだ。
「そして大きな特徴として、やはりすべて悪意は感じない、という点ですね。」
「悪意が無いのにお化けやってるの?」
「お化けは職業ではないと思うんですよね。」
「でも悪意のない怪異なんているのかな。」
「悪意や強い想いが無いと存在できない、というわけではありませんからいると思いますよ。例えば、う~んそうだな、」
「死んだのに気が付いてない幽霊とか?」
「あ、そうですね、そういうのです。いわゆるシステムとして動いているだけのやつですね。死んでるのに希死念慮が強すぎて死に続けている怪異とかいますね。」
納得の表情を浮かべている彼女に続きを話そうと液晶画面を見れば、監査係から調査の準備が完了した旨のメッセージが入っているのに気が付いた。ここまで説明しておけば後は大丈夫だろう。刀たちと合流して、正体不明の廃校内肝試しに向かわねばならない。少し重い腰を上げて一入さんに移動を促す。
「監査係から準備完了の連絡が来ましたので、転送ゲートに向かいましょうか。準備は大丈夫ですか?」
「大丈夫です。行きましょう。」
持ち物の最終確認を済ませ、携帯機器の動作確認もした。同行する刀たちの準備も万端だ。さて残る問題は入場リセマラだけとなった。一入さんが一校出身ということなので、真夏の肝試しガチャは一入さんに委ねることにした。まぁ課長が突撃した時は十回程度で繋がったと書いてあったし、二桁で収まれば十分だろう。とりあえず、万屋へ行くパスコードを打ち込んでもらう。ピッピッと無機質な機械音が鳴っている。伸びた電子音の後に、目の前のホログラムがきらきらと消えていく。一回目。ホログラムの海が割れて見えたのは、いつもの万屋だった。政府職員用の入り口だから人込み特有の喧騒は聞こえないが、確実にいつもの万屋の風景が見えた。
「一回目だしね。じゃんじゃん行こう。」
「はい。接続しなおします。お願いします。」
ゲートの接続を解除して、もう一度打ち込みをしてもらう。英数字十五桁から成るコードは覚えるのに苦労を要するのだが、もう手になじんでいるのだろう。すぐに打ち込まれて、再び長い電子音。海割りに奇跡はここでも見られるようで、次の瞬間には眼前に怪しく光る紫と赤の空間が広がっていた。パスコードに間違いはない。ゲート脇のホログラムが、正しく万屋の位置情報コードを表示している。とどのつまり、二回目にしてガチャに大勝利したというわけだ。
「うわぁ」
「……た、只今より調査を開始します。」
引き気味の声に慌てて口上を口にすれば、先生が記録端末を操作し始める。この中で索敵が一番得意なのは大般若長光だ。先陣を彼に任せて一入さんと俺が続く。しんがりは先生。間に人間二人を挟んで列を形成する。彼が気色の悪い色合いのゲートに足を踏み入れる。避難経路が断たれてしまっては元も子もないので、ゲートは開きっぱなしにしておく。持ち込んだ記録計兼測定計は主に三つ。温度感知機能付き動画撮影カメラと霊力測定器。そして審神者用霊力判別機だ。これは審神者に適性のある霊力のみを記録する機械だ。審神者にも霊力の性質はばらつきがある。浄化が得意なもの、名前を付けるのが得意なものなど、様々な形態が存在している。簡単に言えば体質のようなもので、その霊力が実際の仕事にどれ程役に立つのか、どのような面で役に立つのかを判別はするために開発されたのがこの機械というわけだ。審神者の養成学校だったというので、役に立つと踏んで拝借してきた。先頭の大般若長光にカメラを持ってもらい、先生には霊力測定器。自分は審神者用霊力判別機を携えている。
目の前の一入りさんが怪しい光に消えたのを確認して、自分もゲートに身を入れる。一瞬の眩い光の後に、パッと開ける気配がする。目を開けば、曇天よりも暗い空に、仄暗い空気。左右には廃墟があった。左に見えるのは四つの建物。全部同じ向きに並んでおり、通路で繋がれている。渡り廊下のようなものだ。これが資料にあった校舎四棟だろう。ならば右側の建物は学生寮で間違いない。校舎よりも二回りほど大きい建物だ。かつてはここに多くの候補生が住んでいたとは考えられない有様だが。
「いやぁ、絵に描いた廃墟じゃあないか。」
「本当にね。」
「空の色だって普通じゃお目にかからないなぁ。」
先に入っていた二人がキョロキョロと周りを見渡しながら、この空間の異常さに驚いている。それもそうだろう。曇天よりも暗い空はところどころ赤紫に染まり、雲の切れ間から見えるのは青空ではなく半壊したホログラムのエフェクトだ。地面に目をやればコンクリートはひび割れて、時折亜空間の割れ目が口を開いている。建物には蔦が隙間なく生えていて、建物本体は赤茶色の錆をかろうじて確認する程度だ。
「いや、本当に異空間の廃墟って感じですね……」
赤紫に緑に茶色に黒。全体的に目に悪い世界を見回せば、後ろから先生がやってきた。
「ふむ、実に探索のしがいがありそうだね。」
「先生、今日はしんがりだからね。面白そうなもの見つけて飛び出さないようにな。」
「善処しよう。」
信用のならない返事を聞きながら、端末で地図を開く。さっきの予想通りで、右の建物が学生寮、左の建物が校舎のようだ。今回の調査目標は怪異の原因究明とその対処。少なくとも原因究明は確実にこなさねばならない。今はまだ被害者は出ていないが、この先出ないとも限らないのだ。きっちり責務は果たしておきたい。まずはどこを調査すべきだろうか。一入さんも携帯端末の資料を見ながら考えているようだ。
「とりあえず、七不思議の順に回ってみようか。何個かあるから、まあ、最後に寮の図書室行ってさ。」
「そうですね。やっぱり口頭伝承の疑惑は明確にしておきたいです。」
「じゃあ一校特有のものから攻めるのがいいかも。ほら、トイレの花子さんとかは王道すぎるじゃない?」
「確かに。」
そうなると調査の対象は絞られる。探索できるのは寮と校舎のみ。そして課長の資料と一入さんの言っていたことを合わせれば、さらに絞り込めるだろう。先日の音声記録の文字起こしを眺めながら検討する。
「僕はこれが気になるかな。」
後ろから先生の紺の袖口がぬっと伸びてきて、端末に表示された一文を指さす。
「夜のハ棟の呻き声?」
「そう。呻き声なんてどこにでも見られる話だけれどね。ちょっと引っかかる気がするんだ。」
「へぇ。俺にはわかんないけど刀剣男士にはわかることとかあんのかな。」
「確証はないけれどね。」
俺には霊力云々の才能はない。だから、霊力やら幽霊やらを探知することはできない。いつも先生とかわかる人にお世話になっている。きっと今回も先生の言うことはそんなに間違ってはいないのだろうと思い、その直感に従うことにした。
「ってことなんですが。どうでしょう。」
「うん。いいんじゃないかな。ハ棟ならちょうど真ん中あたりの棟だし、良いと思うよ。ね、大般若さん。」
「あぁ。あんたの見立てだ。よしとしよう。」
ふわふわと笑う一入さんに少しだけ、恐怖を覚えた。いつもの世界とは全く違うところにいるのに、いつもの笑顔を浮かべている。それどころか、隣の大般若長光に近寄ってニコニコと楽しんでいるようにも見える。こんな気味の悪い空間で。人を辞めてしまうと、感性も『そちら側』に行ってしまうのだろう等という考えを振り払うように、後頭部をわしゃわしゃと掻く。緩く結んだ髪の毛が、手にあたる。
「よしじゃあハ棟から行きましょう。資料によると……向かって右からイロハニなので三つ目の棟ですね。」
「うん。多分途中で浮遊霊みたいなのにも会うと思うし。」
「それでは大般若さん、先頭をお願いします。」
「拝命した。」
建物に入るには一番右ではなく、二番目のロ棟一階の大きな入口から行かねばならない。観音開きの大きめのガラス戸が三つ並んでいる。典型的な学校の昇降口だ。ガラス戸の奥には木製の靴箱がずらっと並んでいるのが見える。ガラス戸は表面に埃が付いていて、ほんのり黒い。ヒビが入っているものもあるが、経年劣化の域を出ない程度の損害だ。何かに荒らされたような形跡は見られない。一番左のガラス戸がほんの少しだけあいている。人が一人通れるくらいの隙間。大般若長光が戸の隙間から中の様子を探る。特に異常は無いようで、彼の行こうかという声とともに校舎に足を踏み入れた。
ぎぎ、と古い扉特有の錆びた蝶番の音がする。一段上がったところに靴箱があり、名札などは貼られていない。縦にも横にも大きい、学校特有の靴箱だ。使う人間がいないので、靴も無い。そっと触れてみれば指先に埃が付いた。本当に長い間放置されていたのだろう。いや、本来ならこの建物は取り壊されている。きっと取り壊される直前の建物が何らかの要因によって再現されている、もしくは移動してきたのだろう。昇降口を通り抜ければ、斜め前に同じ形のガラス戸があって、その奥は中庭があった。青々とした芝生が敷かれていたであろう地面は見る影もなく、枯れた植物の残骸と亜空間の割れ目が占領していた。周囲の安全が確認できたので、靴箱の森からひょいと顔を出す。右側にイ棟が、左にはハ棟に向かうであろう階段が見えた。手前は長い廊下で、校舎の各棟を一直線で繋いでいる。どうやらハ棟とニ棟は少しだけ高い場所にあるようだ。
「左に行けばいいんだな。」
「はい。ハ棟は向かって左の棟です。」
同じように周囲を見た大般若長光が、左の階段に向かって歩き始める。持ち込んだ測定器たちは声を上げない。我々はまだ、何とも出会っていないようだ。廊下には大きな窓が何枚もあって、光がよく入る設計になっている。そのおかげで、自然光ではない禍々しい光が長い廊下に乱反射する。紫、赤、黒。鮮やかというには些か無理がある色彩の先に、人の影を見た。気がした。
「は、」
「どうかしたかね。」
「今さ、あの階段のところに女の子居なかった?」
「……僕には見えなかったかな。ふむ、第一村人といったところかな。」
「村人って……」
一入さんにも意見を聞こうと、目の前の小さな背中に声を掛けようとした。その時、その背中が小刻みに震えているのに気が付いた。
「……一入さん?」
「あっ、えっと、な、何かな……?」
「なにか、感じますか。」
「……あ~、感じるというか」
何かを口にするのを避けている、そんな様子だ。ちらりとこちらを一瞥したかと思うとすぐに前を向いてしまう。後ろか。我々の後ろに、何か。
「確証はないんだけど、たぶん、多分だよ? 誘導されてる気がする。」
何かに導かれている、と。いったい何に。対策課に勤務して長いが、俺はお化けの類が得意なわけではない。誘導、道案内。その先に待つ結末を想像して、体温が下がった気がした。怪異が生身の人間を誘導するなんて、怨念とかそういう負の感情動機しかないのだ。絶対そうだ。それと同時に、疑問が浮かんでくる。
「……先生は何も見えなかったんだよな?」
「そうだね。見えないし、わからない。」
「一入さんは何かわかりますか。」
「……見えはしない。でも、なんていうかな、こう、レッドカーペットが目の前にひかれている感じ。露骨に、こう、矢印の看板が何枚も目の前に立ってるんだよ。ちょっと頭が痛くなるくらいに。」
両の手のひらでこめかみをぎゅっと押す彼女は、本当に頭痛を感じているようだった。強い誘導。とても怪しい。そして危ない。時折、怪異の中でも生身の人間を一等強く誘導するものが存在する。怪異や人ならざる者の動力は「意思」であり、「想い」である。信念と言ってもいいかもしれない。内容の良い悪いにかかわらず、想う力が強ければ強いほど怪異は強化される傾向がある。一種の信仰だ。また、生者との相性という問題もある。死んだ先祖が子孫の枕元に立つのと同じ原理だ。繋がりが強ければ強いほど、良く見えるし強く感じることができる。そして今回のケースは、両方だ。空間を捻じ曲げたり創り出してしまうしまうほどの執念に、かつての生徒。想いも、相性も完璧だ。環境が整っている。最悪の誘蛾灯。確か課長はそう言っていた。
「大般若さんはどうですか。」
「俺は何もわからないな。そっちの先生と全く同じだよ。」
刀剣男士にはわからない、けれど人間には何となくわかる。霊力が無いと判断された俺でも、だ。共通点はなんだ、人間か。脳内で怪異百覧のページを捲る。軽く息を吸ってから吐き出す。こういう時は冷静に焦らず、状況を見て判断をすべきだ。とりあえず、一入さんの体調を見てから進路を決めよう。今のところ、一入さんの体に付いている観測機たちに異変は無い。心拍数にも霊力にも異常は無いようだ。ならばこのまま進んでも問題は無いだろう。
「一入さん、このまま進もうと思いますが大丈夫ですか。」
「うん、体調は大丈夫。いけるよ。」
先ほど足先が見えた場所には何もない。このままハ棟に向かうことにする。軽く頷いて彼女の大般若長光に先導を頼む。音も立てずに黒い燕尾服が流れるように、角に姿を消す。数秒後に黒い手袋だけが手招きをしている。この先に異常は無いようだ。すぐさま一入さんと俺が続く。最後に後方を確認しながら先生が付いてくる。今いるのは、先ほど足が見えた地点だ。目の前にある階段を進めば、ニ棟がある。誰かが立っていたはずの場所には何もなかった。薄く埃をかぶった廊下には、静寂と異様な光だけが満たしていた。
「居ないな。」
大般若長光の低い声に頷くと、一入さんの「行こう」の声でそのままハ棟の方向に向き直る。よく見る学校の廊下であった。右側には大きな窓が何枚も並んでいて、蛍光色というには褪せてしまった光がよく差し込んでいる。左側が教室のようだ。一番手前には二階に続く階段、その並びには男子トイレのマークがある。完全に変色して壁の色を区別しづらいが、男性を意味するピクトグラムがうっすらと読み取れる。その横に教室と思しき扉が何枚か並んでいる。いたって普通の教室に見える。突き当りは壁ではなく、空間が途切れているようでホログラムの光が見えた。大般若長光がゆっくり進むのに合わせて前に歩みを進める。ひとつの教室に前後二つの引き戸。引き戸の上には教室名を書くための札のようなものが、廊下に突き出ている。アクリルのような素材でできてるのか、経年劣化で黄ばんでいるが、半透明というアイデンティティは保たれているようだ。勿論中に札は挟まっていない。廃校にされるタイミングで抜き取られたに違いないのだ。ふと、そのまま、飛び出た半透明の並びに目をやる。一入さんも同じように視線を動かした。
「おっと。」
前を静かに歩いていた大般若長光が片手を広げる。
「どうしたの大般若さん。」
「主人はあの札を見ていないね?」
「札って、あの教室名入れるあれ?」
「そうだ。」
「見てないよ。その前に大般若さんが遮っちゃったから。」
「そりゃ良かった。あれは見ない方がいい。」
「分かった。」
一入さんは聞き分けの良い子供のように、こくんとひとつ頷く。同時に低い位置で緩く結われたお団子が揺れる。長身の大般若長光にとって、成人女性の視界を遮るのには手のひらひとつで十分だろう。しかし俺は残念ながら成人女性ではないし、その程度の小柄な体は持ち合わせていない。なので大般若長光が見ない方がよいと言った札を、見てしまった。今も視界の中にその札がある。とはいえ、とてもじゃないが、俺には読めそうになかった。文字だというのは理解できる。でも読めない。単純なのに、読み取れない。どこかで見たことのあるような、けれど全く新しい。そんな印象を与える文字が四つほど並んでいた。例えるなら、まだ漢字を少ししか覚えていない子供が作ったような。絶対見たことがあるのに、未知の文字。背筋に冷たいものが走るのを感じて、こっそりと先生に声をかける。
「先生、あれ、何?」
「どれどれ。……おや、珍しいね。君もあまり眺めない方がいい。あれは倒語だね。」
「……サカシマゴト?」
「簡単に言えば逆から読むというあれさ。でもあの文字はちょっと違う。日本では古くから、本来の順番とはあえて逆にする倒語を使って、呪術にする、というようなことがあってね。今回はそっちの使われ方だろう。」
「わぁ……」
かつて呪術と呼ばれるものが、まだ体系的に整理されていない時代。言葉の順序を変えてしまうという根本のまじない。名を変える、歪めるという行為は簡単であると同時に強力だ。言霊という言葉もあるように、文字と音でできた名前というものは純粋な力なのだ。存在が、神から名前を与えられて、純粋な力を得るその前の力。それらすべてが数文字の記号のようなものに収束するのだ。ここまで考えて、この知識が候補生の時に習った授業内容の一節であったのを思い出した。確か霊力学基礎の言霊の範囲だった。候補生であれば一度は習ったことのある範囲だ。まぁ審神者のたまごがうじゃうじゃいた学校なのだ。基本知識を使ってまじないをかけていたとしても不思議ではない。指先にまで回った寒気を、軽く振って落とす。大般若長光と一入さんが再び歩き始める。極力距離を開けないようにして付いていく。そのとたんに、後ろからスイッチのような音と低めの電子音が聞こえた。この音は先生が持っている霊力測定器のものだ。霊力濃度が上がれば上がるほど、音が高くなる。
「近いかもしれないね。」
なにも見逃すまいと周りを見渡すが、変化はない。びかびかの光と霊力測定器の音が廊下に響くだけだった。このまま止まっていてもらちが明かない。前の大般若長光に視線で合図を送り、先へ進む。霊力測定器が鳴り始めたのは、二つ目の教室の真ん中あたりだった。この棟は五つの教室が並んでいる。残りは三つ。少し速度を上げた隊列が、教室の歪んだ窓ガラスに順々に写る。測定器の音は変わらない。残りの教室はふたつ。誰も声を上げることはない。隊列は進む。残りの教室はひとつ。目の前は突き当りのホログラムだ。
「何かあるとは思ったのだけれどね。」
言い出しっぺでもある先生の言葉に頷く。亜空間の裂け目の奥に何かあるようには思えないし、亜空間の裂け目に手を突っ込むほどの度胸も無い。ぐるりと周囲を見渡せど、異常があるようには見えなかった。このまま引き返すのは簡単だが、極力情報はあった方がよいと思い一入さんに声をかける。
「かつてここで何かあったとか、知ってますか。」
「ハ棟でしょ?ううん、何かあったかなぁ……あ、そうだ。」
「お、」
「この廊下の先って、大講堂になってたんだよ。こう、少し下り坂になってて、数段の階段があってね。今は無いんだけど。」
ここ、と指さした先にあるのはカラフルなホログラムだけだ。この先に、大きな講堂があったのだろう。目をつぶって、かつての学校を想像する。資料によれば、全校生徒が全員入る大きさの大講堂があったそうだ。内装がどのようなものかまでは定かではないが、一般的な学校にあるものと大差ないのだろう。
「その大講堂の前の階段でよく泣いてる子がいたよ。誰がってわけじゃないんだけど、講堂で試験の発表があったときとか、表彰式があった時とか。こう、隅っこにうずくまって。」
「あぁ、悔しくて……」
「そうそう。泣いてる後輩慰めたりしたなぁ。」
「あぁ、だから呻き声だったんだね。」
先生から納得したような声が聞こえる。この言い方は問題が解決した時の言い方だ。先生は呻き声に興味があったようだし、先生は原因が分かればそれでいいタイプの南海太郎朝尊だ。彼の興味は既にこの場を離れてしまったようで、視線を端末に落としていた。
ふと自分の腕時計を見ればここに来て十五分ほど経っていたようで、少々焦りが湧いてくる。特例を除き、現地調査は二時間の制限がある。今回もそうだ。残された時間はあと一時間四十五分。残りは四つの棟に学生寮だ。少しペースを上げようと腕時計から顔を上げた。その時やっと異変に気が付いた。目の前の亜空間の隙間から、桜の花びらが吹き込んでいる。
「な、なにこれ」
「さあ、俺にはさっぱり。」
「……おや、奇っ怪だね。」
同じように気づいた先生も驚きの声を上げる。亜空間の隙間の先は一切が不明だ。探索したものすべてがかえってくることができない未踏の領域。そこから吹き込む桜の花びら。満開の桜が散り際になって一斉に散り落ちるような、風によって吹き込む量も強さも変わっている。これはまるで。
「この先に桜があるみたい。」
「……その通りだ。場所がここじゃなかったらさぞ美しい光景だったろうな。」
「よく見たら桜じゃなさそうだよ。ほら。ほんのり灰色? 薄い桜の色じゃない。」
ワックスのとれた廊下に舞い降りた、ひとひらの花びらを一入さんが拾い上げる。彼女の掌を覗き込めば、普通の桜よりも色あせて黒く翳んだ花弁があった。
「ふむ、これは、うん、墨染の桜かね。」
「すみぞめ。」
「伝説上の桜だな。まぁ、故人を悼んで桜に墨染に咲いてくれと歌ったらその通りになったという逸話からきているはずだ。とどのつまり、存在しない桜だな。」
大般若長光の分かりやすい説明を聞きながら、亜空間から吹く嫌に清廉な風と桜吹雪に目をやる。先ほどとは何も変わっていないのに、妙に清々しい空気を感じて仕方ない。
「一入さん。」
「はい、なあに?」
「先ほど露骨に誘導されていると言ってましたが、今はどうですか?」
「今も誘導されてる。さっきはこのハ棟に誘導されてたけど、今はあっちに戻れって言われてる。なんか、風が背中を押してあっちに行けって言ってるみたい。……背中を押すっていうのはなんか変だね。もっと暗い意味の背中を押すなんだけど。」
「あぁ……」
我々は誘導されている。この空間に。この誘導に従うのが正しいのか、正しくないのかはわからない。でも、用意されたルートを避けて何かがあった時は本当に取り返しがつかない気がする。この時点で資料に記されている状態とは異なる。ならば。
「誘導に従ってみよう。」
「おや、主人が言い出すとは珍しいね。」
「うん、多分、多分なんだけど、この風と空気、懐かしい香りがするから大丈夫だと思う。」
「……一入さんがそういうなら、大丈夫だと信じます。」
「じゃあ行きましょうか。次はね、きっとイ棟だと思う。」
イ棟は一番北側の建物だ。ここから行くとすると、全ての棟を繋ぐ廊下を通ればすぐだ。絞り込んだものの中からイ棟にある怪異の逸話を端末で調べる。当てはまるのはコンピューター室のパスワードだ。この校舎のコンピューター室はイ棟の二階、階段を上がってすぐのところにあるようだ。長い廊下ということもあり、見晴らしの問題も無いだろう。安全に行ける範囲であることを確認して、列になる。順番はさっきと同じ。妙な風を背中に感じながら、古びた廊下を進む。廊下に響く音は、人数分の靴音と、風の吹き込む音、そして何かが揺れる音。いったい何が?疑問に思って本能的に音の原因を探す。
「何かが揺れる音がするね。」
先生が声を潜めて囁く。分かってたなら言ってくれと悪態を付く。心臓に悪い思いはしたくないのだ。隊列は左に曲がって、長い廊下に出るところだ。右側にはニ棟に行くための階段がある。先生の方に振り返っていたので首を前に戻す。そのとき視界に入ったのは、紐だ。新品同様のきれいな紐。どちらかというと縄に近い。茶色の縄。一定の太さがあって、階段の上の手すりからぶら下がっている。先端に目をやれば引きちぎれている。何か重いものでもぶら下げたかのようだ。亜空間から吹いてくる風によって左右に揺れている。ゆらゆら、ゆらゆら。花びらが舞い上がるくらいの強い風なのだから、本来ならばもっと揺れていいはずなのに、ふり幅は狭い。まるで何か重いものでもぶら下げて、引きちぎれて、しばらくたったような。そこまで考えて見るのを辞めればよかったのに、瞬間的に下を見てしまった。なにもなかった。
「何も見えないのにぶら下がっているように揺れるんだね、この紐は。」
ニコニコとした笑顔で事実を突きつけてくる先生に殺意が芽生えたが、ひとでなしと静かに暴言を吐いて終わりにする。まぁ僕は刀だからねなどという言い訳は聞かないことにする。自分が少し立ち止まっていたのもあり、前の一入さんと少し距離が開いてしまった。慌てて間を詰めれば、前の二人は横の縄に気がついていない様だ。……もしかしたら大般若長光が見せないよう隠したのかもしれない。この二人は少しいびつな気がする。人を辞めたにんげんと、人のような行動をするもの。互いに近しいようで対になる存在。歩み寄るように見せて反発しあう概念。本丸で共同生活をする以上、互いに寄って行くものだ。だというのにこの二人は、互いに歩み寄るのに塞ぎようのない、絶望的な差を感じる。まぁ、俺の勝手な感想でしかないので真実は闇の中だ。全ての棟を繋ぐように渡された廊下に出る。目に優しくないちかちかとした光が、鈍く乱反射している。生物の気配はない。コンピューター室のある棟は突き当りだ。迷うことも無いのでそのまま直進する。棟の間取りはすべて共通だ。左側に教室、右側が窓になっている。違うところと言えば、廊下を挟んで教室と同じ並びに別の部屋が存在している。亜空間でくっつけられたような状態ではなく、学校の元々の構造なのだろう。他の教室の札は倒語で書かれているのに、この部屋の札は日本語できっちりと「視聴覚室」と書かれている。視聴覚室の扉は鉄扉で重そうだが、ガラスが嵌めてあり中の様子が少しだけ見えるようになっている。軽く引っ張ってみれば、印象とは裏腹に音もなく簡単に開いた。とはいえ今は二階のコンピューター室が最優先事項だ。視界に入れる程度にとどめておこうと思っていれば、一番前の大般若長光から静止の合図が出る。慌ててイ棟の廊下を見れば、何かが居る。変に色鮮やかな通路に、人にしては大きすぎる影がひとつ。どうやら、こちらには気が付いていない様だが、気が付かれてからでは遅い。どうにかして身を隠さねばならない。背後には視聴覚の扉がある。中がどうなっているかはわからないが、目の前の化け物のようなものに見つかるよりはマシだろう。後ろの先生に視線で合図を送れば、頷きがひとつ返ってくる。
「大般若くん。後ろに。」
「……分かった。」
先生が視聴覚室の扉を開ける。鉄とガラスで出来ているようで、とても重い。隙間に体を滑り込ませ、それに大般若長光と一入さんが続く。突然引っ張られたからか、一入さんが慌てたように入ってくる。全員が体を収めたのを確認して、扉を閉める。ガタリ、と小さくも鈍い音が鉄扉から聞こえた。
「あ」
廊下の奥の影が動いたのが分かる。多分、気付かれた。全員どうにか視聴覚室に入ると、来た時と同じように扉を閉める。いつでも動ける態勢を取りつつしゃがんで、扉に付いたガラスから廊下の様子を伺う。一直線の暗闇から何か音が聞こえてくる。監視を刀たちに任せて、冷たい扉に耳を付ける。こつ、こつ、と靴音がこちらに近付いてきているのが分かる。普通の靴ではなく、女物のピンヒール特有の、鋭い音。こつ、こつこつ、こつこつこつ。よく聞けば様子がおかしい。普通の靴音ではない。二本の脚でこちらに向かってくるには、あまりにも足音が多い。一人、二人三人四人五人、いや、それ以上の人数だ。でもさっき見たときの影は、とてもじゃないが大人数には見えなかった。いたとしても、三人程度のものだろう。だというのに、聞こえる足音はざっと十人を超えている。もしかするとそれ以上いるかもしれない。脳裏に、訳の分からない怪異多数に追いかけられる図が浮かぶ。嫌な想像を振り払うように前を見れば、怪異の正体が分かった。脚だ。何本かも数えられないような、大量の脚。脚の中心には、黒いヘドロのようなものが塊になっている。図解するなら、趣味の悪い輪入道のような形状だ。そこから脚を生やし、ヘドロを垂れ流している。歩くたびにヘドロのようなものが、廊下を汚していく。脚は全てピンヒールを履いているようで、こつこつこつ、と尖った音と、ヘドロのぐちゃぐちゃという液体とも固体ともつかない粘着質な音が廊下にこだましている。表現しがたい気持ちの悪さがと生理的嫌悪が、胸いっぱいに広がる。この世の不条理がぐちゃぐちゃに詰められた、見たものを不快にするだけの存在。速さを求めて脚を大量に生やすという結論に落ち着いたのだろうか。目的が手段に置き換わってしまって速度は一切出ていない。流れ出るヘドロが連続する足音をさらに不気味なものにしている。隣で見ている先生に小声で尋ねる。
「なんですかあれ……」
「なんだろうね。悪意、というよりもっと無邪気な何かを感じるね。より質が悪いのだけれど。」
「これ以上気が付かれない方がいい?」
「確実に良くない。」
「分かった。」
大般若長光を見れば、一入さんの口を手のひらで塞いで廊下の様子を見ていた。
「大般若さん。」
「なんだい。」
「あれが通り過ぎるまで待機します。居場所を探知されたくない。」
「あぁ。分かった。主人、声を出さずにおとなしくできるかい。」
大般若長光の優しげな問いかけに、一入さんは首を縦に振って答える。自分も深呼吸をして、今の状態を整理する。目的地はイ棟二階のコンピューター室。この後は学生寮の調査も残している。極力音を立てないように、扉に背中を預けてずるずるとしゃがみ込む。後ろの怪異はゆっくりと近付いてきているようで、見つかるのも時間の問題だろう。
「一入さん。」
俺たちが居ることを悟られないよう、囁くような小声で彼女に問いかける。
「あのお化けに心当たりはありますか?七不思議に居たことがある、とか。」
ちらりと横を見れば首を左右に振る一入さん。彼女も俺と同じように小声で話す。
「ないと思う。多分……」
「そうですか……」
「……ヒールならひとつだけ心当たりがある。」
「というと?」
「……すごい怖い英語の先生が居て、その先生が毎日ヒール履いてるの。その先生が歩くとヒールの音が廊下に響いて、みんな慌ててた……」
「あぁ、学校あるあるですね。」
都市伝説でも怪異でも何でもないが、生徒の中では話題になるようなちょっとした身内話のようなものだろう。それとこの怪異に、どのような関係があるのかは分からないが、間違いなく原因は『ヒールの教師』にありそうだ。未解明の要素ばかりが積みあがっていく。心にある焦りに気が付かないふりをしながら、入った部屋を見渡す。視聴覚室は結構な広さがある。中高の教室というよりも、大学の講義室に近い形状だ。椅子が五列ほど弧を描いて並んでいる。椅子は木製で、座る時だけ座面を下げる映画館式のアレだ。黒板も普通の教室より大きく、上下に二枚あるのをスライドして使うタイプのものだ。高めの天井には、古い型のプロジェクターが設置されている。金具で天井に固定されているようで、埃はかぶっているものの故障の気配は無い。ふと、先ほど見た縄が脳裏をよぎる。あそこで首を吊れば失敗することは無かっただろうに。心の中でそう思う。自殺幇助みたいな考えだな、良くない良くないと視線を動かせば、ひとつの椅子が目に入った。座面が下がっている。あの形の椅子は、人が座っているか、物が置かれている以外で座面が下がることはまずない。しかし俺の目には下がった座面がある。誰かに使われているように見える。勿論物は置かれていないし、誰かが座っているわけでもない。透明人間でも座っているのだろうか。生者が透明人間になってるならそっちの方がありがたいかもしれない。異空間の廃墟に入り込める生者が居るのも嫌だが、なんて現実逃避をしている場合ではない。あの椅子は俺だけしか認知していないようだ。扉の外を観察している先生の方をそっと叩く。振り向いた先生にも見えるように、例の椅子を指さす。あちらにはばれないように、そっと静かに人差し指を向ける。先生もそれに気が付いたのか右の眉毛が上がった。それと同時に、ガタンと音がした。大きくも小さくも無い、されどこの部屋にいる全員に聞こえる程度の音。全員が音の方向を向けば、さっきまで使われていた椅子の座面が、ゆっくりと戻っていくのが見えた。金属のきしむ音がする。勿論、誰も座ってはいない。斜め上には、プロジェクターが設置されている。あの椅子に立って、天井の金具から紐を垂らして。そして勇気さえあれば。同じ考えが過ったのだろう。隣から小さく息をのむ音が聞こえた。自分の口から乾いた笑いがこぼれる。何か見えたような気がして、ゆっくりと視線を上げる。上げてしまったというのが正しいだろうか。プロジェクターの金具から縄がぶら下がっている。さっきは無かったのに。先端には丸い輪が作られていて、新品のように綺麗だ。使ってくれと言わんばかりの縄が、プロジェクターのところからぶら下がっている。ゆらゆらと揺れている。重いものがぶら下がっているように、ゆっくりと。階段で見たのと同じだろうか。あの時の縄は千切れてしまっていたというのに。
「ハ、ハハ。」
「ふむ、どうしたものかね。」
「……主人、この部屋はどんな部屋だったのかな。」
「えっと、確か吹奏楽部が使ってたかな、なんかオカルト的な話は無かったと思う、けど……」
与えられた情報から今の状況を見極める。部屋の外にはこちらにゆっくり近づく怪異。部屋の中には自殺現場のスターターキット。一入さんの話から考えると、かつての怪談、都市伝説がそのまま怪異に現れているわけではない様だ。実例が目の前に出てきているのだから、きっと間違いではないはずだ。元の逸話が強力ではないのに具現化しているというのは、少々気味が悪い。普通の怪異とは違って、別の要因があるのだろう。霊力を供給する、強力な何かが。審神者と刀剣男士と、同じような関係性の、なにか。扉の外からは無数の足音が聞こえる。
「なるほど。先生はどう見る?」
「特異な力が働いているとは思えない。……どちらかというと、プログラムされた機械のような印象を受ける」
「機械。」
「意思がない、指令をこなすだけの行動そのもの、といったところだろうか。ほら、見てごらん。」
先生の視線につられてガラスから廊下の様子を伺えば、足の怪異は我々の眼前にあった。よく見ればヘドロの真ん中には口が何個も付いていて、常に何かを唱えているようだった。輪入道の顔の部分が口で、車輪の部分が脚になっている。距離が近くなったからか、先生のポケットから低めの電子音が聞こえる。霊力が感知されたようだ。どうやらヘドロのようなものは、瘴気に分類されるもののようだ。突然の危機に身を反らすが、脚の怪異はそのまま廊下を曲がって別の棟に向かっていった。
「うわ……」
「多分あれは音がしたら廊下を辿る、生体反応があったら指定された順路を通る、とかね。」
「ということは、実害はなさそうだね。」
「断定はできないけれど、その可能性は大いにあると言って差し支えないね。」
「……じゃあ巻くことも可能?」
「さっきよりは可能性があるんじゃないかな。」
我々に残された時間は多くない。ならばすることはひとつだ。
「あの怪異を巻きます。そして少しでも早くコンピューター室に向かいましょう。長居は無用です。」
「そうだね。待っていても仕方ないだろうし。」
「大般若さんたちもそれでいいでしょうか。」
「構わない。それがいちばん安全だろう。」
一入さんに目配せをすれば、コクコクと頷いている。全員の意見が纏まったところで、扉の先を見る。脚の怪異は気味の悪い足音を立てながら他の棟に向かっていく。このまま離れていってくれれば良いが、別の階で鉢合わせる可能性もある。瘴気を纏った怪異に、浄化班無しで挑むのは無謀でしかない。極力合わないように、出会わないように動きたい。あの怪異が探知できるのは音だ。ならば。
「あの怪異が決まったところを回遊していると仮定して、コンピューター室や玄関から遠い場所に誘導します。」
「どうやってだい?」
「先生のことだから何かいいものを持ってると信じている。」
「ふむ、僕は罠の研究が好きなだけで常に罠を携帯しているわけではないのだが。」
「あれ、持ってない?」
「はい。朝尊式菲律賓爆竹流用型罠四号甲改二だよ。」
「あるんだ……」
「発売禁止になったものを参考にしているから、音の大きさは問題ないと思うよ。」
若干引き気味の一入さんを横目に、魔改造フィリピン爆竹を受け取る。これを、のんびり歩いている怪異の向こうに投げることができれば、誘導できるのではないか。次に必要なのは強力な肩だ。廊下の先に居る怪異の前にフィリピン爆竹を投げなければいけない。多分この中で一番強力な腕をお持ちなのは彼だ。赤い筒状の爆発物を大般若長光に手渡す。
「俺に?」
「フルスイングでぶん投げてください。」
「なるほどなぁ……」
「お願いします。」
ちょっと困ったような表情で笑う大般若長光は、一入さんの表情によく似ていた。ヘビースモーカーがこんなところで役立つとは思わなかった。金属でできた、重めのオイルライターをポケットから出して手渡す。笑顔で扉の奥を指させば、さらに眉が下がってやれやれといった顔だ。
「あんた、上司に似てきたんじゃないか?」
「恨み言なら後で聞きます。投げたらすぐ二階に上がりましょう。極力音を立てないようにひっそりと。」
「了解した。主人ははぐれないようにちゃんと付いていくこと。」
「はい…… !」
音を立てぬよう、慎重に扉を開ける。そっと様子を伺えば、あの怪異は我々が来た方向に駒を進めている。あちらは気が付いていないようだ。存外、索敵能力は低いのかもしれない。ジッ、とオイルライター特有の点火の音が聞こえる。大般若長光が顎で、行けと合図をする。滑るように出た先生を先頭に、我々も続く。視聴覚室と二階への階段は目と鼻の先の距離だ。そのまま流れで階段を上がる。後ろではぱちぱちと弾けるような音と、物が燃焼する独特の匂いがする。徐々に大きくなる音が、鋭い風切り音で消える。直後にバチバチバチとすさまじい破裂音が聞こえてくる。階段の踊り場からも聞こえるほどの大音量だ。
「……これ、大丈夫な奴?」
「有毒で発売禁止のものを更に強力にしたから、窓ガラスくらいは割れるかもしれない。」
「器物破損でお咎めがないといいなぁ……」
ガラスの割れた音は聞こえないが、砂塵が舞っていて怪異がどうなったかは確認できない。この様子だと危険は去ったと判断するほかない。大般若長光が合流したのを確認して二階に上がる。
「どうでした?」
「……あれ、爆竹じゃなくて爆弾と名乗った方がいいんじゃないか?」
俺もそう思うという意味も込めて深く頷く。先生はちょっと破壊力に重きを置きすぎな気がする。とりあえず難は逃れたようなのでコンピューター室に向かう。目的地はすぐであった。階段を上って廊下の様子を伺えば、トイレとその並びにコンピューター室の文字。イ棟の教室札は倒語にはなっておらず、日本語のままだ。直射日光を避けるために、廊下に面した窓には黒いカーテンが張られている。中が伺えるのは、扉のすりガラスだけだった。先生が偵察がてら扉の窓を覗く。その直後に容赦なく引き戸を開けた。
「ちょ、先生?!」
「捜査は迅速な方がよい。とっとと済ませてしまおう。」
幸い、進路は示されているようだよ。そう言う先生は、青白く光るひとつの液晶を見つめていた。
結果から言うと、コンピューター室ははずれだった。外部からの光が全て絶たれた部屋に、ひとつだけ灯るディスプレイというのは不気味であったが、怪異と思えばどうということは無かった。旧時代の古臭い厚みのあるモニターには、白黒の美しい桜の写真が写し出されていた。ちょっとしたコラムのようなものと共にログイン画面が表示されるのは、この時代から変わっていないようだ。パスワードが必要だと聞いていたが顔認証で解除されるタイプのものだし、この機械だけが最新式というわけでもない。この部屋のパソコンは皆同じ型のものであった。少し拍子抜けしてしまう。電気が通っているかも定かでない場所でのパソコンの挙動はわからないが、とりあえず右側にあるマウスをガチャガチャと動かしてみる。変化はない。持っているライトで自分の顔を照らしてみる。勿論顔認証ははじかれる。どうしたものかと考えあぐねていれば、一入さんから申し出があった。
「ねぇ、これ私が一回試してみてもいいかな。」
「あ、はい。逆にお願いします。」
埃をかぶった椅子から立ちあがり、一入さんに座るよう勧める。静音の為に敷かれたフェルトのようなカーペットの上を、安物のキャスターがカラカラと転がる音がする。大般若長光は扉から外の様子を伺っている。改めて、この部屋は異質だ。外はくどいほどに色で満たされているのに、ここは灰色一色で満たされている。物も、液晶も、空気でさえも。椅子に腰かけた一入さんが画面に顔を寄せる。暗いからか、反応は無い。自分がやったようにライトで彼女の顔を照らしてみれば、ようこその文字が表示された。同時に唸るような、低いモーターの音。
「お」
「つきました、ね。ありがとうございます。」
パソコンのデータやスペック確認の為に色々なタブを開く。勿論インターネットにつながってはいないし、型番号もいたって普通だ。ユーザー名だって集団管理特有の通し番号だと推測できる。デスクトップには何のファイルも置かれていないし、待ち受け画面だって初期画面で変なところは何もなかった。万が一、隠された情報があった場合に備えて本体データを、外付けメモリーに移動させる。差し込む方向を一度間違えてから、再度差し込む。現代に外付けメモリーなんて使わないが、持ってきて正解だった。パソコンは異常を訴えることも無く、ゆっくりとデータ移行の指令に従っている。どんよりとした室内に、大の大人が四人、動くことも無くじっとしているというのは妙な気分であった。大般若長光はずっと外を警戒しているし、先生はこの部屋に興味を失くしてしまったようだ。携帯端末から視線を上げる様子は一切見られない。一入さんも液晶画面をずっと見つめている。俺はデータ移行が完了するまで手持ち無沙汰だ。短い沈黙を破ったのは、小さな通知の音だった。画面の右端に完了の通知が表示されていた。
「終わりました。」
「ようやくだね。次はどこに向かうのかな。」
「先生は興味なくすのが早すぎんの。次は学生寮です。」
「ついにか。」
危ない怪異に追いかけられたりはしたものの、調査としては十分な収穫だ。その上で、学生寮でも新たな情報が得られれば、今回の調査は成功と言って差し支えない。外付けメモリーをひっこ抜いて、尻のポケットに突っ込む。
「学生寮に向かいましょうか。玄関から出て道路を挟んだ建物がそうです。」
「じゃあ僕の罠の効力も見れるということだね。」
「まぁ、そうなるね。……とりあえず行きましょうか。」
大般若長光に外の安全を確認してもらった上で、全員に声をかける。一入さんは、まだ液晶画面を見ていた。
「……一入さん?」
「っあ、もう行く?」
「はい。寮の調査をしようかと。」
「オッケー。もう寮くらいしか調べるところないもんね。」
「……他に気になる場所でもありますか?」
「ううん。ないよ。一番気になるのは寮だし。」
「そうですか。」
一入さんの反応が引っかかりながらも、来た時とは違って慎重にコンピューター室を出た。学生寮に行くには生徒玄関を通らねばならない。ということは、先生が爆破したであろう跡地を見ることになる。最後尾の先生が引き戸を閉める。がらがらと乾いた音が響いて、すぐに静寂が訪れる。先ほどの怪異の気配は無いようだ。来た道を辿るようにして階段を下り、廊下に出る。道中に変化は無かった。驚くほどに、無かった。怪異など元々存在していなかったかのようにそのままであった。窓ガラスも、靴箱も、刺激的な色彩も、変わっていなかった。ただ一つ、下足場を除いて。見た瞬間に、思わず声が出た。
「げ」
靴を履き替える一段下がったところに、みっちりと色とりどりのピンヒールが並べられている。赤黒茶緑紺に藍。赤が一番多いだろうか。ご丁寧に、踵をきれいに揃えて並べられている。異様な光景だ。あの脚の怪異が履いていたものにしては汚れていなさすぎるが、この場に大量のピンヒールが並んでいるこの状況を、あの怪異と結び付けないというのは無理がある。爆破の跡が一切見当たらない時点で、何らかの力が働いているのは分かっていたが、あまりにも共通点が見出せずにいる。脈略が無さすぎるのだ。とはいえ、考察や分析が主な仕事ではない。今しなければならないのは、この廃校の探索である。最優先事項を頭に叩き込んで、ピンヒールの川を跨ぐ。埃で黒ずんだガラス戸を押し開けば、相変わらず目に悪い極彩色の空が広がっていた。蔦に覆われた地味な建物が、不気味さに拍車をかけている。コンクリートの道を横断して、正面の建物に向かう。外から見ると、何の変哲もない三階建ての大きめのアパートといった印象を受ける。建物の周りには塀のようなものが張り巡らされていたのだろう。所々生垣が枯れ果てて途切れている。不法侵入し放題だが、こんな亜空間に入ってくるのは運のないやつか、命知らずだけだ。おかげで何の支障もなく寮の入り口にたどり着いた。ガラスで出来た観音開きの扉がある。少し上を見れば蜘蛛の巣が張っていたり燕の巣があったり、動物が居た形跡はあるというのに、生命の気配は一切ない。校舎と同じような見た目だというのに、纏っている雰囲気は正反対だ。何かが存在しているという感覚だけがある校舎に、生命の痕跡だけが残る学生寮。誰が、何のために、この空間を作成再現しているのかは分からない。とはいえ、それを理由に調査の脚を止める故はない。持っている機械たちが何の反応を示さないのを確認してから、扉を開ける。先頭の大般若長光からゴーサインが出される。静かに、誰にも気が付かれぬよう、慎重に足を踏み入れる。校舎よりも少し小さい昇降口に入れば、右側に小部屋、反対側には掲示板が張られている。靴や傘など日常生活で使われそうなものは一切置かれていない。一階は開けていて、広めの玄関ホールといったところだろうか。土足のまま上がり込めば、ホールの脇に何個かの部屋が見えた。読み込んだ資料を脳内で思い出す。自分の記憶が正しければ、右に風呂場と談話室。左には自習室と学生が生活する個室があったはずだ。しかし、目の前の光景は少し違っていた。先生も異変に気が付いたのか、不思議そうな顔をしている。こういう時は実際にこの寮で過ごした人に話を聞くのが賢明というものだ。掲示板のプリントを眺めている一入さんに声をかけた。
「一入さん、記憶と違うところとか、異変とかってありますか?」
「うぅん、そうだなぁ、とくには無いんだけど、えとね、これ見て。」
トントンと指先で叩かれた場所に視線を移す。そこには掲示板に張られた一枚のプリントがあった。学習委員が作成したプリントのようで、内容は期末考査が近いから対策をしましょうだとか、英単語の楽々暗記法だとか、学生らしいいかにもなものだった。日付は数十年前の師走を示している。
「たぶん解析班の人とかに調べてもらったらわかるんだけど、この年代って私が在学中なんだよね。」
「ぅえ?! ちょ、っと連絡して調べてもらいますね。」
驚きの事実を口にした一入さんは、そのまま話を続ける。
「うん。それで細かい話になるんだけど、この学生寮って一度改修工事があったんだよね。」
「改修工事、ですか。」
「建て替えとかそんな大きなものじゃないんだけど、生徒が増えた時期があって、その時に個室が足りなくなって、あの左奥のゾーンが改装されたんだよね。」
「あぁ、なるほど。」
つまり、今我々が見ているのはその増設工事前の学生寮ということになる。確かに、暗くて見えにくいものの、個室というには区画が大きすぎる。俺が持っている資料は、改装工事後のものということになるわけだ。ではなぜ資料と目の前の間取りが異なるのか。俺たちの上司課長殿が資料を書き間違える可能性は限りなく低い。迷い込んだ審神者の聞き取り調査も、課長のチェックと他の対策課の人員、そして情報の真偽を確かめる審査機械も通っている。ということは、目の前の状況の方が異常の側にあるということだ。
「私の方が寮にいた期間は長いだろうしね。」
「……説明をお願いしても?」
先生は既に一階の探索に出かけてしまったし、大般若長光は一入さんの護衛という立場を崩す気はない様だ。霊力測定器は反応しない。きっとこの状態であれば大丈夫と判断して、話の続きを促した。
「私の時代は審神者の適性がある子は半分誘拐みたいな状況で養成学校に入れられてたんだよね。私は中学校の体格測定ぐらいかな? で、適性があったからここに来たんだけど、その直後ぐらいからドンドン転校生が増えてきて、個室が足
りなくなったんだよ。」
「そんな背景があったんですね。」
「そうそう。それで生徒が自殺したのも工事の前。」
「……うちの課長は工事後の転校生ってことですか?」
「うん正解だよ。工事から一年後ぐらいの転校生だったかな。詳しくは覚えてないけど。」
だから彼女はあの部屋を知らないんだよ。一入さんの言葉で、脳内の疑問符が納得に変わった。調査前の「僕じゃ力不足」発言も、一入さんにだけ強い誘導があるのも、この一点に集約されている気がした。いくら審神者が人間離れしているとはいえ、一校出身で寮の工事前に在学していた、という特殊すぎる条件を満たす人はなかなか居ないだろう。じゃあ何故、その条件に合う人間を探しているのか。何のために一入さんを。
「まぁ、多分図書室に入ったら全部わかると思うよ。」
そういうと、一入さんは迷うことなく図書室に向かって歩き出した。校舎で大般若長光にくっついていた人とは思えなかった。慌てて後ろについていく。暗がりから現れたのは襖だった。プラスチックや金属の扉が並ぶ中、突然の襖は間違いなく異彩を放っていた。
「これは元々ですか?」
「うん。昔から襖だよ。」
怪異の影響ではないことに胸を撫でおろす。それと同時に図書室の襖が音もなく開かれた。寮全体が古いわけではないのか、襖は鳴くことなく滑らかに開いた。目の前に広がったのは十畳ほどの和室だった。物は一切置かれておらず、殺風景という言葉がふさわしい。窓はスライドするタイプのものだ。図書室というには不似合いな気がする。その疑問は一入さんにも伝わったようだ。
「前は本が直置きされててね、図書室みたいだったんだよ。寮の人だったら誰でも使えて本読み放題。だから通称図書室。」
「あぁ、通称なんですね。」
「そう。それで、この窓の外に死体があったんだって。」
「……死体って、自殺した生徒のですか?」
「そう。」
後ろの様子をチラリと見る。大般若長光は入口あたりで周囲の様子を伺っている。先生は一階の探索が終わったのか、図書室に今入ってきた。……これは何かが起こりそうな時の、俺のルーティンだ。周囲の安全を確認してから、一入さんが示した方向に目を向ける。指の先にあったのは、入口から一番遠い窓だった。窓からは寮の裏庭に植えられた、一本の桜の木があった。今、現世は夏のはずだ。肝試し代わりに派遣されたのだから間違いない。だというのに、裏庭の桜は満開だった。それはそれは美しくて、見事な桜だった。塀の外から見たときには、こんな見事な桜は無かった。もしかしたら桜の木自体はあったのかもしれないが、こんなに大きくて満開だったら確実に外からでも見えるだろう。風が吹いてそよそよと靡いて、何枚かの花びらが散っている。ふと、この桜の花びらに見覚えがあった。そうだ、ハ棟で見た墨染の桜。薄墨よりも儚く、純白とは言い難い、死者の色。我々が寮に入る間に何があったというのか。
「じゃ行こうか。」
「えっ、どこに……」
俺が引き留める間もなく、一入さんは窓ガラスを豪快に開けて、そのまま裏庭に飛び出していった。先生と二人で慌てて後を追う。地面は土で、お世辞にも肥沃とは言いがたい枯れた土地だ。なのにあの桜は満開だ。桜は裏庭の緩やかな丘の頂上に植えられている。一入さんはそのまま丘をぐんぐんと登っていく。後ろで大般若長光が来る気配もある。機械たちは一切の反応を示さない。この丘に、何が待っているというのか。彼女が止まったのは、桜の木の下だった。
「い、一入さん、いったい何を……?」
「この桜すごい満開でしょ? なんでだと思う?」
「ええっと……」
「……桜の木の下には死体が埋まっているから、かな。」
「正解!」
ぎょっとした。先生が正解を叩き出したことにも、一入さんが桜の木の下には死体が埋まっているということ、をさも当然のように話したことにも、だ。いったい誰が埋まっているというのだろうか。いや、見当は付いている。きっと自殺した生徒とやらだろう。この特殊な亜空間だ、その生徒に準じた何かが埋まっているに違いない。未だに声を上げない霊力測定器の小さなモニターを見る。エラーや不具合は起きていない様だ。改めて桜を見上げる。どこから吹いているのかわからない風が、桜に波を生み出す。極彩色の空を忘れてしまうほどの、墨染色。ここにも、色は無かった。
「じゃあ掘り起こそうか。」
「え?」
聞き間違いかと思った。
「掘ろう。ここに埋まってたらずっとかえれないよ。」
「え、本気で言ってますか?」
「本気だよ。ここに来てからずっと呼ばれてたし。早く来てって。」
やはり一入さんに誘導を仕掛けていたのはこの死体(仮)であったか。いやだからと言って掘り返すのは違うだろう。やめましょうと止めに入る前に、彼女はウエストポーチから園芸用のスコップを取り出して、土に刺していた。
「一入さん!」
「大丈夫すぐ終わるよ。」
先生も興味津々に一入さんの様子を見ている。よかった先生にスコップを持たせていなくて。お前の主を止めなくていいのか、という視線を大般若長光に投げかける。大般若長光は、静かに首を左右に振るだけだった。まぁ、彼女の近侍もこう言っていることだし、霊力測定器も何も言わないし、きっと大丈夫なのだろう。今回は彼女にしか見えないものが全てなのだ。年相応、それ以下のような子供っぽい行動に、少しだけ気味の悪さを感じた。そして、終幕が訪れるのは思ったよりも早かったようだ。
「あ」
何か固いのものが当たる音がした。時間から考えるに地面に近い場所に埋まっていたのだろう。小さめの穴に白い女人の手が消えていく。再び現れた時、その手には茶色い布で包まれた楕円型の物体が収まっていた。表面に付いた土を払いながら、布を一枚一枚剝がしていく。女性の両掌に収まりきらないような大きさだったものが、少しずつ小さくなって本来の形になっていく。最終的に彼女の掌にあったものは、古びたこけしだった。
「図書室の日本人形って、こけしのことですかね?」
「いや、どうだろう。私が居た頃はちゃんとおかっぱ頭の日本人形ってことになってたけど……」
「はぁ、じゃあこれは何なんでしょうね……」
「ちょっといいかい」
何かに気が付いたのだろう、先生がこけしに興味を示した。一入さんは小さく頷くと先生にこけしを手渡した。こけしは大きくも小さくもない普通のサイズで、不審な点は無いように見える。ぐるぐると回しながら、いろんな角度でこけしを眺める先生。何か見つけたのだろう。少し固まった後、こけしの胴体と頭を逆方向に捻った。キュウっ、と木材特有の乾いた音がして頭が外れる。胴体はくり抜かれていて、何かが入っている。
「おや。」
「紙ですね。」
出てきたのは何かが書かれたルーズリーフだった。中高生が良く使うサイズのルーズリーフ。四つに折られているので、開いて中の文字を読む。
「どれどれ。」
先生の優しくて落ち着いた声が、妙に耳に刺さったのを、覚えている。
好きなもの。丸しかないテストの答案、優しいおじいちゃん、ご褒美のケーキ、猫のミーコ。嫌いなもの。ケアレスミス、怒鳴り散らすおじいちゃん、何も知らない親戚、霊力適性検査、あいつら全員。みんな嫌いだ。審神者ってなんだ。国の為に戦うとか、時間遡行軍が攻めてきてるとか、正直よくわかんない。わかんない。何もわかんない。戦車とか使えよ。なんだよかみさまのお力を借りるって。小説でももっとマシだよ。おかしいよ。みんなおかしい。狂ってるんだ。学校もクラスメイトも先生もうちの家族も母さんもじいちゃんも。全員。私に霊力があるってわかった時はさぁ、そりゃ嬉しかったよ。だって友達と違う才能みたいな何かが私にあるってことじゃん。めちゃくちゃ嬉しかった。し、最初は反対してたけど家族も担当の人とじいちゃんの説明受けてめちゃめちゃ喜んでたじゃん。今更考えたら授業料全額免除が嬉しかっただけなのかもしれないけどさ。いざ養成学校に入ったらさ、普通の授業だけじゃなくてなんかよくわかんない講義すごいあるし、家帰れないし、ゲームできないし、隣の部屋の後輩は毎日泣いてるし、向かいの部屋の先輩は自分勝手だし。最悪だった。でもまだよかった。めんどくさいだけで、なんか普通でぜんぜん大丈夫だった。成績だって座学は完璧だった。覚えるだけだったし、計算とかほとんどなかったからマジで簡単だった。でも実技は無理。あんなのできるわけがない。何? 指先に紐が付いていて、それを操作しましょうって。何。本当に何。馬鹿なんじゃないの。そんなの分かる訳ないじゃん。って思ってたら、クラスメイトはほとんどできてた。みんなできてた。できてない奴もいたけど、二か月くらいでできるようになってた。できないのは私だけだった。それができるようになったら、実際に神様に触れて見ましょうとか、対話を試みましょうとか言われた。クラスメイトはどんどん段階を踏んで教科書が新しくなってる。私はずっと最初の教科書。ずっとずっとずっとずうっっっっっっと最初の教科書。今もそう。霊力があるって、審神者の才能があるって言ったのはそっちじゃん。なんだよ。できないじゃん。隣のクラスの新海は私よりテストの点数悪いのに顕現術が上手いから特進コースに居る。前の席の青山だって、私の点数の三分の一も無いのに来学期は特進コースに行けるかもとか言ってる。じゃあ私はどうなるんだよ。お前らよりずっと勉強できるのに。こんなの無理だって。母さんに相談したら帰っておいでって言ってくれたからさ、実家帰れたけどさ。実家は実家で狂ってる。あんなに優しかったじいちゃんは見る影もなくなった。帰ったら「顕現はできたか」「霊力の調子はどうだ」「審神者にはまだ成れんのか」とか嫌味しか言わない。そんなに審神者が大事? 孫の精神より? って一回、直接聞いた。そうしたら怒られた。「審神者になったら土公の家が栄えるんだぞ」だって。元々百点のテスト見せても何も言わない人だったけど、百点満点のテストじゃ満足しない人だったわけだ。お父さんも早くに死んだから、おじいちゃんがお父さん代わりで、すごい大好きだったのにさ、これって裏切られたってことでいいよね。母さんは優しいけどじいちゃんには逆らえないから萎縮しっぱなしだし、お前の教育が悪いから私がこうなったって喚き散らしながら母さんを殴るし。実家の帰るたびにそんなことされるから実家には帰らなくなった。だからと言って学校は快適じゃない。先生は優しいから何回でも補習してくれる。怒らないしアドバイスをくれる。すごい、惨め。なんで、親とか親族とか学校とか国とか、自分以外のためにこんな思いをしなきゃいけないんだろう。霊力測定とか霊力適性検査が無かったら、私は普通の女子高生だったはずなのに。なんだよ、過去改変って。世界の終わりだとか史上最悪の危機とかって言いたいだけじゃん。なんで私が、私だけがこんな目に合わなきゃいけないんだよ。なんか悪いことしたのかな、全部私が悪いのかな。周りがどんどん卒業していくのに私だけが教室に取り残されてる。当たり前だ。座学は完璧でも、実技試験は零点なんだから。保護者が呼び出された。母さんだけでいいのにジジイもついてきた。担任と校長と政府の職員と六人で面談した。卒業の目途が立たないって。勉学は申し分ないから、学校側から特例で普通の学校に転入させてくれるって。高校三年生だけもう一回やれば普通校を卒業できるって。私はそうしたかった。こんな生活嫌だった。でもジジイは許さなかった。頭を下げた職員さんに逆に謝って、この出来損ないをここに置いてやってくださいって言ってた。誰だよお前。そのあとの記憶はない。出来損ないって言われたことと、私はここから出れないってことしかわからなかった。そう思ったらなんかどうでもよくなった。ぜんぶどうでもいい。テストのケアレスミスも怒鳴り散らすジジイも何も知らないくせに私の悪口しか言わない親戚も嘘ばっかりの霊力適正検査もクラスも、どうでもいい。
滔々と読まれた手紙に、全てが詰まっていた。頭上の桜も、カラフル過ぎる空も、何も変わっていないのに、我々の心の色だけが変わっていた。風が吹いてそよそよと靡いて、何枚かの花びらが散っている。墨染の桜は手向けになるのだろうか。思春期の子供たちに背負わせるには、あまりに重すぎるものが、ここには埋まっていた。文体も、気持ちも、全てが等身大だった。誰も言葉を発しない。灰色の沈黙だけが、この場にはあった。桜が擦れる音が耳に優しい。
「……持って帰っていいものでしょうか。」
「いいんじゃないか。これは仕事だからね。」
「そうです、よね。」
申し訳なさを感じるが、また埋め直すというのは残念ながらお断りだ。心が痛むが、この手紙とこけしは持ち帰ることにする。自分のポーチから保管用の袋を出して、蓋を開く。
「あ!」
「っと、どうしました?」
「思い出した! その遺書書いた子! 隣のクラスだった!」
「へぇ、なんて名前の方だったんですか?」
「うん、名前は」
その時だった。沈黙を貫いていた霊力測定器が、けたたましく鳴り響いた。同時に突風が吹いて、墨染の桜を散らす。脳に響く甲高い音とぎゅいんぎゅいんと繰り返すうるさい警告音。この音が鳴るのは霊力が最高濃度、もしくはそれ以上の測定不可能状態の時だけだ。突然の出来事に体が硬直する。先生の掌にあるこけしは、顔と模様が抜け落ちて、ただのこけし型になっていた。逃げねば。それだけを考えた。胸ポケットに入れた緊急転送装置を作動させる。軽い電子音と共に緊急転送プログラムが立ち上がった。一入さんの腕をつかむより先に、大般若長光が転送陣に彼女を引き寄せる。転送まで五秒。墨染の桜が全て散って枯れた桜の木だけが残されている。四秒。大きな桜の枝には縄と頭がぶら下がっていた。三秒。木乃伊のような顔に生者の眼球が埋め込まれていた。二秒。その瞳は、間違いなく一入さんを見つめていた。一秒。大般若長光が、一入さんの両目を大きな掌でふさいだ。転送。我々は青白い光に包まれた。
最後、桜の木を見た一入さんはこう言っていた。土公さんは変わっちゃったね、と。
「俺納得いかねえよ。」
「何がだね。」
不貞腐れながら飲むジュースほど不味いものは無い。合成着色料特有の甘さが残った舌を出しながら、先生に悪態をつく。先日の現地調査はいつもとはずいぶんと違ったと思う。所謂怪異化物退治とひとくくりにしてはいけない問題な気がするのだ。
結局、あの場から持ち帰ることができたのはルーズリーフ一枚だけだった。こけし型は、先生が良くないものと判断した瞬間に宙を舞っていた。解析班調査班によれば、あのルーズリーフは間違いなく一入さんが学生時代のもので、書かれているペンの成分としても時間的不具合はないとのことだった。そして書いた本人の特定も完了した。土公有紀。かつての霊力適性検査により養成学校に転校してきた若者であった。何十年も前のことで情報はあまり残っていなかったが、課長と総務課のおかげで何とか特定することができた。炭酸の抜けた清涼飲料水を流し込む。今の俺の気持ちを飲んだら、こんな感じかもしれない。気が抜けていて、後味だけがべったりと不快感を残していく。空になったペットボトルをゴミ箱に放り投げれば、軽い音を立ててビニール袋に消えていった。
「お、ホールインワン。」
「君のごみ投げ技術は目を見張るものがあるね。」
「元バスケ部だったんでね。」
「して、今回の調査の何が不満なのかな。」
マグカップに並々と珈琲を入れながら問われる。何がと言われれば答えにくいが、腑に落ちないところなんていっぱいある。まず校舎の怪異と元凶と思しき元生徒の関係だ。結局何がしたかったかだって不明だ。それに一入さんを凝視していたのも気になる。分からないことだらけだ。
「全てを知ろうとするのは人間の利点だが、時には知らない方がいいこともあるんだがね。」
「先生も知らなくていいって言うんだねぇ。どこかの誰かさんみたい。」
「上司殿はこちら側だからねえ。」
まぁいいさ、聞かれたことには答えよう。あくまでも僕の仮説だがね。そういって先生は、俺の向かいのソファに腰かける。珈琲の湯気で眼鏡が曇っているのはご愛敬だ。
「結局元凶は土公さんで間違いないのかな。」
「ふむ。まず君は土公という名字の由来を知っているかね?」
「土公ね。聞いたことない。由来も分からない。」
聞いたことない名字だなとは思っていた。少なくとも多い名字だとは思えない。というか。土公という感じに聞き覚えが無い。
「ならばそこから説明しよう。土公というのは元々神の名前だ。」
「神。」
「我々よりももう少し民間信仰の気が強い神様だけれどね。」
先生の話はこうだ。土公神は陰陽道の神様で、文字通り土をつかさどる神様だそうだ。仏教にも同位体の神様がいるそうだが、今回はあまり関係ないらしい。重要なのはこの土公神の性質だ。季節によっている場所が違うという性質があるが、今回の場合はそこではない。この神様は土だけではなく、かまどの神でもある。そして火に関わる神はえてして潔白を好む。故に不浄を嫌う。ご多分に漏れず、土公神も不浄を嫌う。
「ここで問題だ老竹くん。」
「ハイなんでしょう。」
「僕たち刀は土公神に好まれると思うかい?」
「……刃物は不浄、なんだっけ?」
「正解だ。こけしの彼に霊力適性があったとして、審神者の適性が無かったのは何故だろうね。」
「……」
「祖父の反応を見ると、ただ単に家の力というわけでもなさそうだがね。まぁ、時代が違えば彼は死ななかっただろう。今は政府職員への道も開けているようだから、君のように。」
わざとかこの刀。思わず呆れた視線を投げてしまった。確かに俺は霊力測定で引っかかって養成学校に入った。そして審神者の適性は無かった。なので総務科に進んだ。審神者となって実際に戦場に立ち、刀剣男士に直接指示を送る指揮科ではなく、裏方の総務科に進学した。あの時代に総務科は無かったと聞く。俺はおかげで路頭に迷わずに済んだし、特別な圧を感じることも無かった。劣等感は、少しあったけど。学年が上がれば、本物の刀剣男士を顕現させて学校に来るやつが多くなる。廊下ですれ違うたびに、あいつとは違うんだなぁとモヤモヤとした気持ちを抱えていたのは、事実だ。自殺を考えるほどではなかったけれど。
「今回調査に協力してくれた女性と面識があってもおかしくない。」
「と言ってもなんでこのタイミングで。」
「ふむ、一校が廃校になって今年で何年だったかな。」
「一入さんによると六十年くらいだって。」
「ひとつの命が終わって生まれ変わるには最適な時間じゃないか。」
ぞっとした。まるで最初から仕組まれていたようではないか。本当の死体があの桜の元に植えられていたわけではないし、一校が廃校になるのが決定したのは自殺者が出てから何年か後の話だ。未来視の能力がある審神者もいると聞くが、自殺した生徒が本当にそのような能力を持っていて、その上すべてを計画できるほどの能力があったとしたら。
「ほら、知らなくてもいいことがあると言っただろう。それにね、もうあのこけし君はとっくのとうに人間じゃなくなってるんだよ。政府職員として働いている君とは、根本的に違う存在なんだ。あまり理解をしようとしない方がいい。君も人間として死にたいだろう。」
ふと、昔課長に言われた言葉を思い出した。人間というのは変化をする存在で、不変を選んだ妖と決定的に異なるのだ。変化は人間の特権であり、不変は人外の特権。変わらないということが良いのか悪いのかは、自分で判断したまえ、と。自殺した生徒は、心の中でどのような判断をしたのだろうか。変わることを望み、不変に石を投げたのだろうか。一入さんはどうなのだろう。彼女は、彼女の刀は、彼女の大般若長光は、変化を受け入れたのだろうか。それとも。
痛みを訴える頭を抱えてソファにだらしなく沈む。素知らぬ顔をした先生だけが、いつも通りだった。
顕現してからずっと、ずっとずっと、考えていたことがあった。分からないことがあった。名刀として、美術品として、貴重な歴史のひとつとして、想いを掛けられてきた。人の身を得て、其れとはまた違う想いを掛けられた。たったひとつでも、重くて、濃密で、そして今までの想いよりも、ずっと熱かった。名前にかけられた、銭六百貫とどちらが重かっただろうか。心の臓の音にも慣れぬ時期に投げられた熱い想いは、俺の心に、いっそ苦しいほどの痛みを齎した。例えるならば、焼き鏝で刻印を入れられるような、鮮烈で後を引く痛み。時が経てば、じくじくと爛れて膿んでどろりどろりと剝がれていく。服の下で膿んだ液体とも個体ともつかない俺の一部が、流れ流れて服に染みて、不快感をもたらす。自分の流れ出した心が疎ましい。自分の心が不快だ。自分のこころが嫌で仕方ない。流れ落ちて染みる様はさらさらとしているのに、感じるのはベタベタとした粘着の質感。感じる、というのはいったいどこで感じているのだろう。人の身を得て、五感を得て、第六感というものだって備わっているはずなのに。俺は自分のことが、主のことが、わからない。
「ヒェ」
隣の主人から変な音がする。先ほど、事務室に入ると同時に渡したのは手紙の束。万屋のセールチラシに通販のダイレクトメール、政府公式のちょっとした式典のお知らせなど。そして他にも現世からの手紙が一通入っていた。淡い桃色の封筒に金色の蝋で封がしてある。蝋の下には細いリボンが付いていて小洒落ている。確か現代ではシーリングスタンプというのだったなと思いながら、変な音の正体を覗き込む。
「どうしたんだ主人。」
「アッ、いや、これは、その」
主である少女の手の中には封を切った封筒があった。もの言いたげな視線を投げかければ、おとなしく封筒を差し出してきた。一見普通の封筒のように見える。中から出てきたのは同じ色のポストカードのようなものであった。二つ折りになっているタイプのいたって普通の結婚式の招待状だ。主にも結婚式を挙げるような年頃の友人が居たのかと感慨に耽っていると、恐ろしい言葉が聞こえてきた。
「この招待状、何処から届いたかわからないんです……」
「……つまりあんたは誰から届いたかもわからない手紙を開けたってことかい?」
長い沈黙の後に、ゆっくりと頷く頭が見えた。
「はぁ、まだ中身は見ていないね?」
「も、もちろん。」
うっかりというか、抜けているというか、何というか。まず何も確認せずに主に手紙を渡してしまった俺に非があるのも事実なので、致し方なく中身を確認する。審神者の業界ではたまに人ならざる者が怪しい文やら呪いやらを本丸に届けに来る。政府の方でも対策が取られているが、全ての届物に対応できているわけではない。ただでさえ怪異やらお化けやら妖怪やらが蔓延っている業界なのだ。多少は受け流すことも覚えねばならない。だというのに俺の主人ときたら化生の類を呼び寄せた上でほっておく趣味があるようで、そろそろ本丸がお化け屋敷になりそうな勢いだ。特別に害があるわけではないので、御神刀が動かない限りは大丈夫だろうから俺の出る幕はない。今やるべきことは目の前の招待状の確認だ。上質な二つ折りの紙をゆっくりと開く。呪詛のようなものの気配も無いので、軽く声に出して読み上げる。
「謹啓 早春の候 皆様におかれましては益々ご清祥のこととお慶び申し上げます。かねて婚約中の私たちは、このたび結婚式を挙げ新しい第一歩を踏み出すことになりました。つきましては 皆様により一層のご指導を賜りたく、ささやかではございますが 披露宴を催したく存じます。ご多用中誠に恐縮ではございますが、ぜひご出席をお願いいたしたく ご案内申し、あげ、ます……」
「だ、大般若さん?」
「いや、何でもない。何でもないよ。これはちょっと俺が預かろう。」
「でも何かあったら困るし、」
「いいんだ。これは俺に来た手紙のようだし。」
「大般若さんに……?」
可愛らしい封筒を慌ててジャージのポケットに潜り込ませる。主人にうまいことを言って、執務室を後にする。俺の主は大般若長光の言うことをよく聞くので、こういう時は大変助かるというものだ。後ろ手に閉めた障子の奥から声が聞こえる気がするが、今回ばかりは無視である。冷えた板張りの廊下を歩いて自室に戻る。いつもなら暖房を消して出たことを後悔するところだが、今日は違う。座布団に腰を下ろして、改めて招待状に目を通す。一般的な結婚式の招待状。異なる点は、新郎新婦の名前と会場の住所だ。新郎は俺になっている。大般若長光。どこの大般若長光なのかは分からないが、この招待状には大般若長光と印字されている。その下には新婦の名前が印字されているはずだが、滲んでしまっているのか読むことができない。その他の文字は綺麗に印刷されているというのに。そして住所の欄には見たことも聞いたことも無い地名と思しき単語たちが並んでいる。魂梨市胎山西二七五の十九。ホテル歯朶ノ華、拿杁の間。都道府県は書かれていない。一体全体どこに向かえば良いというのだろうか。こういうことは専門家に連絡するのが一番だ。ひとつため息をついて、携帯端末を取り出す。彼女に連絡をするのは緊急事態の時ばかりなので、気が向かないが致し方ない。対策課と表示された番号に電話を繋ぐ。無機質な呼び出し音が二回ほどなった後に、聞きなれた女の声が聞こえてきた。
『はいこちら怪異対策課って、君か。』
「やあ、久しいね。」
少し呆れたような声で電話に出たのは、怪異対策課の課長殿であった。彼女は政府のお偉いさんであるが、怪異を引き寄せる体質の主人が何度も世話になっている人であり、主人の旧友でもある。挨拶もほどほどにして事情を話せば、ふんふんと相づちを打ちながら聞いてくれた。
「あんたに婚儀の予定はないだろう?」
『まァ僕には無縁の話だね。』
招待状の真偽を尋ねれば、案の定といった答えが返ってきた。万が一を考えて、声を潜めて話す。この怪異に大般若長光という刀が関わっているとなれば、主人は自分から調査に立候補するだろう。佩刀の一振として、主を危険な目にあわせたくはない。仕えるものとしては当然の考えだ。
『あいつは大般若長光という刀全てが大好きだからなぁ。』
「愛されるのは嬉しいことだが、少し行き過ぎなのも否めないな。」
『違いない。まぁ事情は分かった。こちらで調べてみるとしよう。詳しいことはメールで……はダメだね。もしかしたら君に直接来てもらうことになるかもしれない。審神者が関わる場合は主人の方に連絡を入れる。いいね?』
「あぁ。助かるよ。前者であることを祈ろう。」
『そうしてくれ。では、また後日。』
手元の端末には、短い通話履歴だけが残っていた。張りつめていた気持ちを緩めるために、深く息を吸って、吐いた。改めて招待状を開いてみれば、先ほどと変わらぬ文章があった。そして新郎の欄には俺の名前。新婦の欄には主人の名前が記されていた。
「は」
さっきまでは滲んでいて読むことのできなかったものが、今は見知った文字を示している。審神者名として登録されている一入という文字が、この結婚式の送り主を物語っている。俺が招待状から目を離していたのは、通話のほんの五分だ。この間に手紙をどうこうできるというのは、間違いなく人の手ではない。やはりうちの主人は、怪異に好かれている。
霜月の終わりともなれば、身を刺すような風が吹く時期だ。政府本部の長い廊下にも、冬の足音が聞こえるようだった。灰色の廊下にぽっかりと空いた窓から見える中庭に、寒椿がほころび始めていた。初めて見たときは、仮にも戦地になんてものをと思ったが、花弁が一枚ずつ落ちていく様は見事なものだった。すれ違う職員に会釈をしながら、目的地に向かう。隣には俺の主人が居る。残念ながら。あの電話の後、連絡が届いたのは主人のメールボックスだった。招待状に主人の名前が書かれていた時点で察してはいたが、やはり怪異は俺の主を巻き込みたくて仕方ないようだった。見慣れた通路を行けば、見慣れた扉が現れる。主人が戸を叩いて返事が来るより先に開く。
「……君はノックの意味を知らないのかな。」
「だって呼び出してるんだからいるでしょ?」
扉を開ければ、やれやれといった様子で本革の椅子に腰かけている女が居た。何も言わずとも出てきた温かい珈琲とココアを見れば、付き合いの長さがうかがえるだろう。座ればいいじゃないか、と言わんばかりの視線に従って、ソファに腰を下ろす。机の上には飲み物の他に紙束とタブレット端末が置かれていた。
「今日来てもらったのは他でもなくメールの件についてだ。」
「そうだよ。大般若さんは私に何を秘密にしてたんですか!」
「……主人にはこれを見てもらおうか。」
少し皺が寄ってしまった招待状を主人に渡す。課長殿には既に写真を撮って送ってある。二つ折りの可愛らしい紙が開かれて、彼女の前にさらけ出される。読み進めるうちに手紙の異常さに気付いたのだろう、表情が少しずつ曇っていくのが見て取れた。
「エ、わ、わわ、私が、だい、大般若さんと、っけけ、けけけ結婚……?」
「なんでちょっと嬉しそうなんだこいつ……」
「だ、だって、け、けっこ、」
「だ~めだこりゃ。とまぁ元凶はこの招待状なわけだ。そして、はい。これ。」
机上のものとは別の冊子を取り出して、我々の目の前にドンと置いた。
「これは?」
「説明するより読んでもらった方が早い。読んでくれ。」
差し出された冊子を受け取る。主人は俺との結婚という単語の衝撃から帰ってこれていない。左上で止められた、十枚足らずの薄い冊子を捲る。一枚目は失踪した女審神者の個人情報だ。必要なところ以外は黒いテープで隠されている。失踪したのは八十年近く前。審神者失踪後に近侍も行方不明、本丸は解体。次の頁を見る。こちらも同じような失踪した審神者の個人情報だった。四十年ほど前に若い男の審神者が失踪、探しに行ったが行方不明。なるほど、少し読めてきた。再び紙を捲る。予想通り、三人目の失踪審神者の情報が乗っていた。概要はほとんど同じだが、唯一違うところがあるとすれば失踪した審神者が見つかっているという点だろうか。ただし変死体で。当時の様子は隠されているが、惨憺たるものだったのだろう。初期刀は審神者の生還を待ったが、亡骸を一目見て刀解を希望したそうだ。そしてこれら三つの失踪事件には共通点がある。全ての資料の備考欄に「宛先不明の手紙が届いた直後に消息不明になる」と書かれていた。なるほど、嫌なものを見た。隣を見れば、未だに招待状を握りしめる主人が居た。はやる気持ちを抑えて、再び頁を捲る。最後の頁は新聞記事であった。随分前の新聞だ。どこかのホテル跡地から小さなお社が発見されたという記事であった。ホテルの建つ前にも後にもお社があったという記録は無く、しょうがないので然るべき手順を踏んで移転をしたそうだ。
「ホテルか。」
「そう。ホテル。君が呼び出されたのは?」
「……ホテルの宴会場。」
俺が資料を読み終えてすぐの発言だった。主人もようやく結婚という言葉の衝撃から帰ってきたようで、俺の手元にある資料を読もうと頑張って覗き込んでくる。
「今のご時世で神社の移転と言えば、近所に別の神社が無い限り政府直属のところに祀り直されるわけだ。」
「へぇ、そんな仕組みがあるのかい。」
「そう。何があってもいいように。」
何があってもいいように。その言葉に少しだけ疑問を覚えた。主人も同じように思ったのだろうか、少し首をかしげている。課長殿は机上の幾許かの紙束を横にずらして、埋もれていた一冊のファイルを開いた。先ほどの冊子と違って何十枚もの紙が挟まれている。ペラペラと捲る手つきは玄人のそれで、一種の感心を覚えるほどであった。紙の流れが止まって、ひとつの資料が眼前に現れる。顔を寄せて覗き込めば、政府直属の神社で起きた事件をまとめたものだということが分かった。こちらも重要書類のようで黒テープだらけだが、数年前の一つの事件詳細と写真だけは見られるようになっている。指で文字を追いかける。決して長い文章ではないが、どうやらこの数行に俺たちの命運がかかっているようだ。内容としては実に怪異らしいものだ。政府直属の神社境内に突如、古びた矢印看板が現れたそうだ。右に行けば何処へ、左に行けば其処へというような単調で古典的な看板。異常だったのは、矢印の方向が左右ではなく下だったこと、そして看板に示された地名が存在しない地名だったこと。写真の看板は、確かに下の地面を指していて黒い文字で「魂梨市胎山西へはこちら」と書かれている。
「ははぁ、なるほどな。」
「仮説として、お社のあった住所を指していると言われているけど正しいことは分からなかった。でもね、君たちが受け取った招待状のおかげで、この矢印看板の正体が分かった。未解決事件がひとつ減りそうなんだ。」
「あぁ、じゃあ大般若さんが招待状を回収してくれたのはすごい良かったってことになるんだ。」
「結果的にね。大きな進歩だよ。もしかしたら、これでこの世の怪異がひとつ消滅するかもしれないという可能性が増加したんだからね。」
「ちょっと待ってくれ、俺たちにそのホテルに行けって言うのか。」
「行かなきゃ死ぬのかもしれないのに?」
「……」
「別に行かないというのなら一向に構わない。結構だ。この資料の審神者みたいに失踪扱いになるのかどうなのかは知らないが、未来は見えているようなもんだ。」
「でも行ったら行ったで、どうなるか分からない。あんたには人の心ってもんが無いのか。」
「人じゃないんでね。」
今のは完全に俺が悪かった。確かに目の前の女は人間じゃないし、彼女は口が達者だ。打てば響く、叩けば鳴る、当たれば砕くというのは彼女のことだ。無謀な勝負を挑んだ俺が悪い。とはいえ、ここで引き下がるわけにはいかない。どうにかしてこの調査協力(ほぼ強制)を回避しなければ。そう思ってふと隣を見た。主人が熱心に資料を読み込んでいる。俺の視線に気が付いたのか、目線が交わる。
「えっと、課長さんに呼ばれた時点で、調査に駆り出されるんだぁって、思ってたん、だけど……」
「あぁ、うん、そうだな、うん。そうかもしれない、な……」
まぁそうなるか。俺の読みがあまりにも浅かったというほかない。主人は大般若長光が大好きなのだ。大般若長光が巻き込まれていて、その上自分の大般若長光だというのなら彼女がやる気にならない訳が無い。大前提が抜け落ちていた。何のために課長殿に直接連絡をしたのだろうか。うっかりしていた、本末転倒だ、というよりも。
「あんた、謀っただろ。」
「さて、何の話かな。」
いけしゃあしゃあと茶を煽る彼女があまりにもさっぱりとした面持ちであったので、腹を立たせる気力も無くなってしまった。結局こうなるのか。
「詳しい資料はデータにして送るし、調査当日にも確認しよう。それに今回の調査は本当に簡易的なものだ。」
「というと?」
「調査場所の特定も済んでいるし、そこで気になる場所を見てきてくれればいい。勿論緊急時の脱出経路だって用意してある。その辺は君たちだって分かっているはずだ。」
実際に使ったんだから。確かに俺たちは主人の怪異引き寄せ体質のおかげで、何度か危ない橋を渡ったことがあるし、そのたびに政府の最新技術や対策課の職員にとても世話になった。対応や機器の性能に文句はない。あるとすれば課長殿の強引さくらいのものだ。深いため息をつく。こうなってしまっては、とんとん拍子に事が運んでしまう。上から目線な物言いではあるが、報酬の類はきっちりとしている課長殿だ、それ相応のものが用意されているのだろう。
「わかったわかった、その調査引き受けよう。」
「やったぁ!」
楽しそうに声を上げる主人には、もう少し危機感を持ってほしいと思う。きっと俺と出かける口実が増えた程度にしか思っていないのだろう。どうせ担当者が付いたりして安全に配慮した上で調査することになるんだ。俺が心配しすぎなのかもしれない。そんなことを考えていれば、前回の調査で担当だった政府職員の名前が浮かんできた。
「そういや彼は元気かい? ほら、老竹くんだったか?」
「ん? あぁ、老竹ちゃん? とっくのとうに死んださ。」
「しんだ。」
「三十三回忌も終わったよ。人間の命は儚すぎるからねぇ。」
そうだ、そうであった。人の命とは短くて儚くて、美しい。ほんの百にも満たない時間の中で、色を愛し情を慈しみ思いをやるのだ。永久に近い時を生きるものには至ることのできない、鮮やかな時間。それを生きるのが人間であった。いつからだろう、人間という存在が疎遠になっていたのは、時が緩やかに過ぎていくようになったのは。老いというには遅すぎる気付きであった。はて、本当のにんげんと話したのはいつだっただろうか。審神者が、主人が、ひとを辞めてどれ程の時間が過ぎ去ったのだろう。
「老竹ちゃんが無くなってからそんなに経つんだ。」
「君は七回忌の時来ただろ。」
「覚えてないよぉそんな前のこと。」
俺だって覚えていなかった。確か、法事に同行したのは俺だというのに。刀だった頃の記憶というものは、おおざっぱだ。ざっくりとしていて重要なことだけ知識として蓄えられている、というのが近いだろうか。きっとどの刀剣男士も同じようなものだろう。ならば、人の身を得てからの記憶はどうだろう。顕現された時の記憶、出陣時の血濡れの記憶、修行の記憶、そして主人との記憶。万屋で似合いそうだと買って帰ったが、男が女に送る意味を考えて躊躇ったまま、押し入れの奥に大切にしまわれている簪。主人が風邪を引いた時に枯れた声で話しかけられた時の、自分の喉が痛むような感覚。別の本丸の大般若長光を褒めたたえる彼女に「あんたは本当に大般若長光が好きだな」と言ったきり何も言えなかった時に感じた心の痛み。何年前の記憶かは覚えていない。でも確実に俺の脳に心に埋め込まれたような記憶がある。鮮明に、覚えている。
「大般若さん?」
主人が心配そうな面持ちでこちらを覗き込んでいる。どうやら突然黙り込んでしまった俺を不審に思ったようだ。どうってことないと一言伝えれば、不安が安堵の表情に変わる。少し感傷に浸ってしまった。課長殿からもっと詳しい話を聞かねば。
「続けてもいいかね。」
「あぁ。すまない。」
「今回行ってもらうのは異類婚姻の怪異だ。」
意外な単語にほう、と声が漏れる。異類婚姻譚と言えば、日本のみならず世界中に存在する、人と人ならざるものが結ばれる話だ。しかし何故この状況で異類婚姻譚の話になるのだろうか。結婚式の招待状が届いたからと言って、異類婚姻と結びつけるのは安直な気がしてならない。思わず怪訝な顔をしてしまう。主人は婚姻という単語に過剰に反応していた。
「まぁそんな顔をしないでくれ。これが最後の資料だ。」
先程とは違い、一枚の紙が机の上に差し出される。見慣れない様式の文章が印刷されていた。
「これって個人ブログ?」
「そう。何十年も前の個人ブログ。なんか民間伝承とか一部地域でしか知られてない宗教とかそういう類のものを調べて書いてたみたい。」
「へぇ、変な人。」
「ブログってのは日記みたいなものかい?」
「そうそう、そんな感じ。」
「うん。長文の日記だと思ってもらえればいい。自分の好きなことを定期的に書き記して、それを他人に見て貰えるようにしてあるのがブログだ。」
そんなものがあるとは知らなかった。感心を覚えつつも目の前の資料に目を通す。どうやらこのブログの作者は、宗教に関わらず信仰に興味があったようだ。家族内の規律のような小さな信仰から、集落の全員が信仰する大きなものまで、自分の手で情報を探り、見聞きし、ブログにまとめていたようだ。その中で資料として出されたのは、異類婚姻についての噂がある社の話だった。内容はこうだ。いつもの通り興味深い話を探していれば、とある山村の女性から珍しい社があると聞いた。女性によると、その社に供物を捧げれば望むものと縁を結んでくれるとの事だった。ただの縁結びの神様であればここで終わりだが、その神様は望むものが何であっても、縁を結んでくれるらしい。たとえそれが火や風、草といった概念であっても、楽器や筆といった物であっても、だ。異類婚姻伝説の残る神社は数多くあれど、異類婚姻に重きを置く神社は少ないと聞く。その上、神社としてではなく、社としてひっそりと祀られているらしい。なるほどこれは調査の余地がある。ならば行くしかあるまい。まずはその社の位置を詳しく聞くところから始めよう。との事だった。
「なにが面白いってこのブログ、この記事を最後に更新が途絶えてるんだよね。」
「えっ、怖い話してる?」
「してるしてる〜。」
ニコニコと笑いながら面白い、とこの話をする課長殿は、とても趣味が悪いと思う。しかし、確かに恐ろしい。ただ単にブログや調査に飽きたというのであればいいが、その社を訪れたことによってブログが書けなくなるようなことが起こったとなれば話は別だ。目の前に出された情報を、ひとつひとつ整理していく。ホテルにお社、ブログ、異類婚姻譚。共通点が少しずつ見えてきた気がした。
「もしかしてそのブログ、続きがあったりしたり?」
「お、君、鋭いじゃないか。でも違う。」
課長殿が携帯端末を操作する。端末に防禦庁の印刷が無いところをみると、彼女私用の端末なのだろう。空中にホログラムとして映し出されたものは、何かのグラフのようなものだった。よく見れば等高線が引かれた地図のようなもので、赤い点が置かれている。
「これはブログ作者がかつて行ったであろう場所を特定して地図に反映させたものだ。そして」
とある山岳地帯の地図を見せられる。真ん中には赤いバツ印が書かれており、左斜め下あたりには赤い点が書かれている。黒い手袋がバツ印を指さす。次に点を指す。
「ここが新聞記事になったホテル跡。こっちは作者が行ったと推測される場所。ちなみにこのブログのひとつ前で行ったところだと思われるので、話を聞いた山村とやらもこの辺りなんじゃないかな。」
「ブログの作者が聞いたお社とホテル跡地のお社は同じってこと?」
「その可能性が高い。まあ確証はないので何とも言えないがね。だからそれも含めて調査してきてほしい。もしかしたら何も得られないかもしれないが、それならそれで構わない。」
「とりあえず見てきてほしい、ということか。」
「そういうこと。」
確かに前々の調査よりも簡単そうである。通常の実地調査であれば対策課の調査隊が先行して調査に行くが、今回ばかりはそうもいかない。招待状が届いてしまえば時間がないようだし、致し方ない。俺たちが被害者兼第一人者になるほかないのだろう。
「百聞は一見に如かず。情報が無ければ始まらない。本来なら全て僕達がやるべきなんだが、今回は特例中の特例だからな。」
「元はこちらから持ち掛けた話だしなぁ。まあ与えられた仕事はちゃんとこなすさ。」
「ね、ちなみに持ち物とかある?」
「遠足じゃねェんだぞ……まぁ測定器の類はこっちで用意するし、そうだな、健康な心身とそれ相応の覚悟ってところかな。」
「そんな体育会系の部活みたいな……」
軽く笑ってどっちつかずな表情を浮かべる課長殿に、少しだけ違和感を抱いた。まだ何か裏があるのではないのか。まだ隠していることがあるのではないか。とはいえ、彼女にここで問いただしたところで素直に話してくれるような奴ではない。聞きたい気持ちを心の奥に押し込めるために、近くに置かれた資料を無意味に持ち上げて見たりした。そのあとは日程などを決めたりして小さな会議はつつがなく進み、終わった。俺の心に、僅かなわだかまりを残したまま。
枯れ枝同士が擦れあって、ばりばりと小さく乾いた音を立てる。師走の山は実に寂しくて、冷たい。周りを見回せば、枯れ木ばかりで寂しさに拍車がかかる。空も冬晴れとは程遠く、厚い雲が閉塞感を生み出している。はぁ、と息を吐けば白く煙る。隣の主人も指先が冷えるのか、何度も手のひらに息を吹きかけていた。そして何故俺はこんな所に主人と二人で来ているのだろうか。山から降りてくる風が冷たくて身震いをすれば、いつもは付けていない測定機器の類が音を立てる。霊力測定器だそうだ。俺たちはこの寒空の下、仕事をしなければならない。それも生命の危機に瀕するような。気を抜けばため息が出てきてしまいそうな気分だが、主人に不安そうな顔をさせない為にぐっと堪える。そうこうしていると、主人の携帯端末に一本の通信が来た。
『やぁ、十二月の山奥に放り出された気分はどうかな?』
「最悪だよ。」
「早く帰りたい。」
『そりゃそうだ。ならさっさと終わらせてしまおう。今回の概要は、目の前にある廃ホテルの調査だ。とはいえ取り壊されて長いというのもあって、ほぼ建物の壁と土台しか残っていない。だからぐるっと回って気になるところを見てきて欲しい。推測が正しければ、どこかに怪異レベルの霊力源があるはずだ。』
通信先の声に従って視線を横に向ければ、古びた建物の跡地のようなものが見えた。きっとビルのように縦に長い建物だったのだろう。建物の一階部分が半壊したような状態で残っている。政府の廊下と同じような無機質な灰色の建物だ。たしか混凝土と言うのだったか。この状態になって長く放置されていたようで、所々にヒビや錆が見られ、蔦植物が縦横無尽に生えている。地面は雑草が生え放題だ。
『必要になるかは分からないけど、当時の一階部分の地図を添付しておく。活用してくれ。』
「課長さん。質問です。」
『どうしたのかな一入さん。』
「なんで私達だけなんですか。」
『対策課のシフトミスにより担当が配置出来ず僕が通常業務と並行してやることになったからです。遠隔で大変申し訳ありません。』
「そうなんだろうとは思ってたけどさぁ」
いつもと違って、概要を説明されてすぐさま転送ゲートに押し込まれたなと思っていたがそういうことだったのか。言いたいことは沢山あるが、主人と二人だけで異界に飛ばされかけたこともあるし、政府の目があるだけまだ良い。そう思うことにしよう。隣の主人も同じように納得したのか、まぁまだマシかという顔をしていた。
閑話休題。目の前の仕事についてだ。俺が霊力測定器、主人には記録機器が付けられている。腕に取り付けられる程度の小さなものだが、霊力を探知すると音で知らせてくれる仕組みだ。霊力が強ければ強いほど、うるさく耳に残る音が鳴る。主人に付けられているのは、動画と音声記録ができる小型カメラのようなものだ。携帯端末を構え続けるのも面倒だろうと、耳に装着するものを対策課から貸与された。事前資料は携帯端末で見ることができるし、映像霊力測定器共に課長殿が観測を続けているので非常事態でも対応可能らしい。冷たい風が吹き抜けて、肩を竦める。俺はいつもの格好で大丈夫だと思っていたが、主人の言った通り、この寒さは流石に堪える。黒いコートに身を包んだ主人も寒そうにしている。
「立ち話するのもなんだから、始めてしまっていいかな。」
『そうだね。よろしく頼むよ。』
短いやり取りを終えれば、主人が携帯端末に届いた簡易的な地図を表示した。空中にホログラムとして現れた地図に不自然な点は無いように思えた。長方形の中に、トイレや店といった端的な言葉が並んでいる。ホテルの入口はちょうど中央辺りで、入るとすぐに小さめのホールとカウンター。大規模なホテルでは無かったようで、カウンターはひとつだけだった。いわゆるフロントというものだろう。建物は、玄関ホールを中心として左右に広がっている。左側には食堂と丸く階段という文字が書かれている。螺旋階段だろうか。右側には一機のエレベーターとロビー、スタッフルームがあったようだ。何階建てなのかは知らないが、不審な点は見当たらない。主人に聞いても、同意の言葉が返ってくるだけであった。
とりあえず、表示された地図と実際の跡地を見比べながら回ることにした。まずは入口だ。方角と残った壁を頼りに扉を探す。改めて見ると、中途半端な取り壊しという印象がある。一度壊そうとしたものの、何らかの事情によって工事を中断したような跡地だ。倒壊したのであれば、瓦礫などを取り除くついでに整地などをするものでは無いのか。何故一階部分だけが雑に残っているのだろう。寒さを堪えつつ歩けば、ホテルへの入口はすぐに見つかった。大きな施設にしか無い硝子の回転扉がひとつ。硝子は割れて枠組みの金属だけが姿を保っていた。長年放置されたために金属も錆びてしまって、回転扉は動く様子を見せない。主人を真後に付くように言ってから、建物に足を踏み入れる。ざり、と砂を踏んだような音がする。同時に腕の霊力測定器が低い音を発する。薄い霊力が、この廃墟を満たしているようだった。数歩進んで辺りを見回す。天井はところどころ崩れ落ちていて、その下には苔やカビのようなものが繁殖している。全体的に薄暗くて不気味だ。玄関ホールの真ん中にはフロントと思しき台が置かれていた。フロントのデスクはL字型と呼ばれるもので、長年放置されていたのだろう厚い埃の層が出来上がっている。左側には螺旋階段のようなものがあった。勿論壊れてしまっているので使うことはできない。右には丸いテーブルが数個倒れていた。近寄ってよく見てみれば、何かが長く置かれていたような跡があった。丸くくり抜かれたように、そこだけ苔が生えていない。テーブルの脚が円状なので、ここに長い間置かれていたに違いない。きっとここがロビーだったのだろう。ここでふと疑問に思うことがあった。外部から見た印象は中途半端な工事現場だ。しかし、室内に家具を置いたまま工事を始めるだろうか。ならばこの状態に至った原因は建物の老朽化からくる倒壊などになるのだろう。だとしても苔やカビが円状に生えている説明にはならない。置かれている状態で放置されれば、テーブルの下に苔が生えることはない。しかしテーブルは倒されている。最近この廃ホテルに誰かが来たのだろうか。何のために? 主人もきょろきょろとしながら、ロビーのあたりを観察している。
「あそこ、スタッフオンリーって書いてあるね。」
「あぁ、あの扉の奥がスタッフルームなのだろう。」
「じゃあ横の扉がエレベーターかな。」
「そのようだなぁ。でも扉が歪んで使い物にならなさそうだ。」
主人がエレベーターに近寄る。金属特有の光沢は見る影もなく、傷だらけの扉が中途半端に口を開けていた。霊力測定器に変化がないのを確認してから、灰色の箱の中を覗き込む。視界に入ってきたのは数々の瓦礫だった。天井は壊れているので光が差し込んでいる。ひらひらと宙を舞う埃が幻想的な雰囲気を醸し出している。そのせいか、主人が軽く咳き込んでいた。曖昧な景色に目を凝らせば、折れた木材や割れた混凝土、露出した太い針金など、建物に使われる資材の無惨な姿が見えた。工事の際に出た廃材だろうか。ますます工事現場のような光景に、疑問は深まるばかりだ。
「何か、見えるかい?」
「うぅん、特に何も……普通の廃墟って感じ。」
「そうだなぁ……とりあえず、他の場所も見に行こうか。」
小さく二回頷いた主人を見てから、扉に視線を移す。エレベーターの右隣には、また別の扉がある。送られてきた地図によれば、この部屋は従業員の控室らしい。既に壊れてしまっていて枠しか残っていないが、何とか扉として認識はできる。何も起こらないのをいいことに、薄暗い部屋を覗き込む。向かいの壁が大胆に壊されているせいか、一番に目に入ってきたのは枯れた森だった。室内は縦長で、両側にロッカーが置かれている。建物が壊される際にロッカーも被害を被ったのか、何個かは使い物にならなさそうである。それ以外のものは一切置かれていない。主人と共に入ってみたものの、ロッカーは全て空で何も入っていなかった。地面も苔と埃でロビーの状態と大差なかった。見落としているかもしれないが、何もないのなら他の場所を調査しに行くほかあるまい。左側の食堂に螺旋階段のようなもの、建物の裏手側。寒空の下、主人と練り歩いて調査をした。何もなかった。不自然なことは、何も。霊力測定器は常に低い音を発し続けているが、それ以外は何もなかった。廃ホテルをざっと三周して空を仰いでいた頃だろうか。
「……何も見つからないね。」
「そうだなぁ……どうしたもんか。」
「課長さんは調査中に口出ししない質だしなぁ。」
「調査に関してはそうだったな……」
困った。カウンターの机に凭れ掛かりながら腕を組む。横に立っている主人は、うっかりカウンターに手をついてしまったのか指に付いた埃と格闘している。他に見ていない場所はないだろうか、見落としている場所はないだろうか。もう、切り上げた方が良いのだろうか。
「あ」
「どうかしたかい?」
「いや、カウンターの内側、見てないかも……って。」
「一応机越しに覗いては見たが、確かにそうだな。」
「入ってみる?」
主人が指さしたのはL字の短い方にある隙間だ。人一人くらいは通れそうだ。机の上はすごい埃が溜まっていたので、無意識に行きたくないという気持ちが働いてしまっていたのかもしれないなどと思いながら、二人でカウンターの内側に入ることにした。とはいえ、珍しいものは見当たらなかった。内側から見ると、木製で上品で落ち着いた雰囲気の作りの机だった。後ろの壁には看板でも付けられていたようで、釘を打ち付けたような小さな穴が何個も確認できた。確かにこの程度の小さなものは、近くに行かないと気が付かないだろう。何か、情報が見つかればいいのだが。何故ここまで怪異の調査に一生懸命になっているのかは、自分でもわからない。刀は主人に似ると言われるが怪異を引き寄せる体質も、怪異に対しての警戒心が薄くなるのも勘弁したいものだが。くだらないことを考えていれば、机を調べていた主人が何かを見つけたようだった。しゃがみ込んでカウンターの下を見ている。
「何かあったかい。」
「うんとね、机の下に棚があるっぽくて、開けてみようかなって。」
「本当だ。それにしても随分と年季が、入りすぎているなぁ。」
年季が入っているというより古びているといった方が正しいくらい、ボロボロだった。使い古されているでは済まない。引っ搔いた痕や、何かをぶつけたような痕が残っている。それも真ん中の棚だけだ。両脇にある棚には、傷ひとつ付いていない。よく使われてたとしても、木の戸が削れるほど傷つくとは思えない。
「えい。」
前触れも、俺が止める間もなく主人が両開きの戸を、思いっきり開けていた。何かがあっては遅いというのに。まぁ、今回は免れたようだが。
「あんたなぁ……」
「えへへ、でも何もないよ。」
「真っ暗だな。」
「うん。すごく暗い。」
棚の中には暗闇が収まっていた。夜の帳よりも暗い闇であった。元々明るい場所ではないが、この棚の内側は輪をかけて暗い。どうしたものか。とりあえず、念のためと持ってきた小型照明で内側を照らす。棚は結構狭いようで、すぐ近くで木の板が見えた。しかし底が見当たらない。照明を下に向けてみても、暗闇は口を開いたままであった。どうやら、この下に空間があるらしい。課長殿に見せられた資料を思い出した。地面の下を示す看板、魂梨市胎山西という知らない地名、送り主不明の招待状。なるほど、俺と主人はこの奥に招かれているのか。
ホテルのカウンターの棚の穴を降りたら、石造りの地下通路がありましたなんて話、誰が信じるというのだろう。けれど真実なのだ。あの後、俺たちは人がやっと通れそうな狭い穴を降りて、地下通路にたどり着いた。垂直に作られた穴には、ご丁寧に梯子が付いていて何事も無く降りることができた。地上の廃屋とは違い、光は届かず閉鎖的で居心地が良いとは言えない。地上との共通点を上げるとするならば、埃っぽいというところだろうか。無論、課長殿にこの先に進んでよいか聞いてみたら速攻で許可が下りた。まあそうだろうな。俺の持っている小型の照明だけでは心もとないので、携帯端末の光を頼りに地下通路を進むことになった。それでも五尺ほどの足元しか照らせない。それほどまでに、暗い。そんな暗闇の中をかれこれ十数分歩いているが、終点は見えそうにない。暗い一本道をただひたすらに歩き続ける。周りを取り囲む石壁の様子も、霊力測定器の音も変化はない。ただただ進む。
一体どれ程の時間を歩いていただろうか、数分かもしれない、数十分かもしれない。あることに気が付いた。この道は一本道だが、緩やかな坂道になっている。進めば進むほど、深い場所に潜って往く。本当にここまで来てよかったのだろうか。いや、ここに来なければ主諸共死ぬ可能性だってあったのだ。間違っていないと自分に言い聞かせる。言葉はなくとも、ぴったりと張り付くようにあるぬくもりが、主人の無事を表す何よりの証拠だ。ざり、ざり、という二人分の靴と土が擦れる音と、いきものの呼吸の音と霊力測定器の音だけがここにあった。この世にはこの場にあるもの以外は存在しないのではないか、なんて考えがよぎるほどにこの地下通路は異常だった。どれくらいの深さにあるのかは分からないが、この道には動物はおろか虫一匹いない。石と土で出来ているというなら蚯蚓が転がっていたって不思議じゃない。なのに、この場にいる生き物は、俺と主だけのような気がしている。
「主人」
「なぁに」
「大丈夫かい?」
「何を今更。どれだけ暗くてもどれだけ埃っぽくてもどれだけ長くても、大般若さんとなら平気だよ。」
「頼もしいな。」
そうか、俺と一緒なら平気か。ありがたい話だ。長い時間を共にした主から、これほどまで信用されているというのは気分がいい。主人がいつも通りだからだろうか、平常心が戻ってきたような気がした。我ながら単純だ。
「大般若さんは怖い?」
「俺は夜目が利かないからなぁ、怖くないと言えば嘘になるな。」
「そうなんだ。」
「見えないのは怖いだろう。」
「そうだけど、大般若さんが居るから大丈夫。」
「あんたなぁ……」
少し呆れたような声を出してしまう。信用されすぎるというのも考え物だ。俺は主人にもう少し危機感を持ってほしいというのに。甘やかしすぎたか。こうして自分たちの話をすればするほど、この世界には二人だけのような気分になってくる。そして、このままでもいいのかもしれないと、そう思う。そんなはずは無いのに。本丸に帰れば多くの刀が居る。同僚も兄弟も居る。俺たちには使命がある。刀剣男士には使命がある。なすべきことがある。本当に? 戦争は長期化している。初めての審神者が出現してから何年が経ったのかなんて、忘れてしまうほどだ。少なくとも、付喪神が励起してもおかしくないくらいの時を、俺たちは戦争に費やしている。ずっとずっと、俺たち刀剣男士と審神者は戦い続けている。別に戦が嫌いなわけではない。刀として生まれた以上、肉を切り裂いて骨を折り、血を浴びることは本懐だ。でもこの戦は長すぎる。人の子の命には、長すぎる戦いだ。だったらこのまま。
そう思った時、視界の右隅に何かが入ってきた。主人も気が付いたようで、同じように右を見る。そこにあったのは資料で見た矢印看板だった。違うのは矢印の向きと、看板の数だ。古びた木製の看板に「魂梨市胎山西へはこちら」の文字。看板は下ではなく、この先の道を指していた。そして矢印看板の下に長方形の看板が付いていた。そちらの看板には、真新しい板に美しい文字で「ようこそ」書かれていた。歓迎、されている。忘れていた恐怖が体の奥から湧き出てくる。背筋に冷たいものが走っていった。何度考えても、俺と主人がここに呼ばれるのかわからない。呼ばれる理由も心当たりも無い。分からないことだらけで心が落ち着かない。落ち着く怪異調査も嫌だが。進むしかないのだ。主人の方をチラリと見れば彼女は俺の視線に気が付いて、左腕に両腕で抱きついた。
「私は大般若さんとなら、平気だよ。」
「そう、だな。」
拭えぬ恐怖を抱えながら一歩踏み出せば、狭い視界の端に変化があった。ずっと緩やかな坂道だった一本道は、看板の先から階段になっていた。一応警戒しながら、階段に近寄る。不揃いな大きさの石でできた階段は、歩きづらい。その上、先は見えない。見通しの悪い一本道に変わりは無いようだった。抱きつかれていては歩きにくいので、主人の手を取る。こうすればいざというときも支えることができる。俺より小さな手のひらと細い指を心の頼りにして、暗闇の中を進む。一段一段、階段を下りる。少しずつ深淵に近づいていくのが、肌でわかった。霊力測定器の音も、高くなった。最奥には水源があるのかもしれない。青々とした苔が岩の隙間に生えている。環境が、変化していく。終着点が近い。石特有のさりさりとした感触を靴越しに感じながらひとつひとつ、進んで往く。しばらく進めば、両脇に何かが立っている。照明を上に向ければ、木製の鳥居が見えた。見るからにボロボロで、手入れのなされていない鳥居だ。閉鎖空間で水気があるとなれば当然だろう。土台は苔むしているし、鳥居本体も腐敗が始まっているのか倒壊寸前といった様子だ。鳥居は境界。神の住む地と、それ以外を分ける道標。ここをくぐらねば最奥にはたどり着けないらしい。さしたる覚悟もないままに道標の下を通る。数歩歩く。鳥居が見える。くぐる。数歩歩く。鳥居が見える。くぐる。何度も繰り返した。千本鳥居には足りないが、何本もの鳥居をくぐった。いつの間にか、ちょろちょろと水の流れる音がしていた。石と石の隙間から水がしたたり落ちていた。霊力測定器の音は更に高くなっている。階段が終わるころには耳の奥に刺さるような音になっていた。久々の平地にホッとしている時間は無いようだった。視線を上げれば、新品同様の美しい朱塗りの鳥居と、その奥に小さなお社が建っていた。目を疑った。社にではない。鳥居にでもない。鳥居の下に、見知った顔があったからだ。膝ほどまである白い外套と、短い銀髪。足元には、血にも見劣りしない鮮烈な赤が顔を覗かせている。
「あんた、山鳥毛か?」
「おや、そうだが。」
声も、振り返った時に見えた深紅の瞳も、刀剣男士三鳥毛そのものであった。
何故ここにいるのかという疑問より、先に恐怖が来た。本当にこいつは俺たちが知っている山鳥毛なのだろうか。本体は佩いているし、気配や動作の類も知っている山鳥毛だ。刀剣男士の山鳥毛だ。主人の手を振りほどいて本体に手をかける。いつでも戦える。しかし相手に戦う意思はないようで、両手を顔の横に上げている。
「待ってくれ。私はあなたと戦うつもりはない。」
動作も声も山鳥毛そのものだった。服や装飾品も見たことがあるものばかりだった。彼の言葉は真実のようで、殺気は感じられない。刀剣男士には珍しいほどに、敵意が無い。それどころか、穏やかで戦などとは程遠い雰囲気を纏っている。でも、こんな場所に居るのは本当に刀剣男士なのか。後ろの社も鳥居も、全てが怪しい。主人を後ろに待機させて間を取る。
「何個か聞きたいことがある。答えてくれるかい。」
「構わない。私が知っていることなら答えよう。」
サングラスの奥から覗く赤い瞳に嘘はない。警戒を緩めることなく、言葉を選ぶ。変なことを聞いて気分を損ねられたら、聞けることも聞けなくなってしまう。この調査で有力な情報を落としてくれそうなのは、目の前の男ただ一人なのだから。
「あんたは山鳥毛で間違いないな。」
「あぁ。正真正銘の山鳥毛だ。」
「何故ここにいる。」
「それは難しい質問だな。気が付いたらここにいた、というのが正しい。私にもわからない。」
「そうか、じゃあここはいったい何なんだ?」
「ふむ。ここは昔からある神社の成れの果てだ。詳しくは私も知らない。」
「知らないこと多いなあんた……」
困ったように笑う様子から鑑みれば、彼は本当に知らない様だ。ここの住人だというならもう少し、詳しいことを知っていても良いと思うのだが。
「ところで、君は何の用があってここに?」
逆に質問をされてしまった。きっとこの山鳥毛に何を話したところで、大事にはならないだろう。勿論、細かいことは話せないが。
「招待状を頂いたのさ。ご丁寧なことに名前入りでね。」
「結婚式の招待状か。」
「……何故知っている。」
「その招待状は私が出したものだからね。」
「あんたが?」
なんだ、私のお客であったか、珍しいな、ようこそ来てくれた。その声と共に、差し出された右手は社の方を指している。目の前の社には何があると言うのだろうか。何のために。何故主に。疑問が流れるように出てくる。万が一、主人に危険を及ぼすようなことがあればいつだって斬り捨てられるように、柄に手をかける。
「己の主を守る気概があるのは良いことだが、そう燃え上がると見えるものも見えなくなってしまうぞ、大般若長光。」
「……あんたに言われる筋合いはない。」
「ふむ、まあいいさ。話をしよう。君は小鳥、いや、君の主人のことが好きだな。」
「関係ないだろう。」
「大いに関係あるさ。私はそういう強い願いを持ったものにしか手紙を送ることができないからな。」
「……どういうことだ。」
柄を握った右手に力が篭もる。主人のことが好き、か。勿論主として審神者として好いている。足りないところはあれど、戦争という血なまぐさい仕事を投げ出すことなく長年勤めているのは尊敬に値する。百を超えた刀の頭領として、全ての刀に親愛を持ち、情を注ぐ。並大抵の人間ができることではない。審神者と呼ばれたもの。そういう意味で言えば主人のことは大いに好きだ。しかし、目の前の山鳥毛が言う好きは、こっちの好きの話ではないことぐらい分かる。主人のことを、女性として、一人の女として好いているのか。そういう話をしようとしている。
「君は、主人のことを好いている。たとえ魂の形が歪んでも。」
「何が言いたい。」
「その隣に居る主人は人間じゃないな。」
山鳥毛が指さす方向を見れば、少し離れた場所で心配そうにこちらを見る主人が居た。試すように視線を戻す。だから何だというのだろうか。表情に出ていたのだろう。ふっと吹き出すように笑われて、生暖かい目を向けられる。どこまでも柔らかくて、善意の塊ような優しい瞳。だというのに、全てを見透かしているような自信や強さがにじみ出ていて、油断ならない。実に居心地が悪い。
「何度でも言おう。関係あるさ。きっとその主人は人間ではないし、元人間だったとしても人ではない時間の方が長い。あっているな?」
「……」
「続けよう。そして君は刀剣の付喪神だ。付喪神という存在は、神と言えど末席でしかない。所詮百年使われなければただの道具だ。とはいえ、道具ということは本質的な自然の神よりも人間に近い。考え方も、仕組みも、魂の形も、全て。ある意味天津神や国津神に勝る利点と言って差し支えないだろうな。」
「……」
「先に言っておくが私は戦えないぞ。」
「そのなりで何を。」
「まあ聞け。そう結論を焦る必要もあるまいよ。周りを見てみるといい。」
そういわれ、改めて周囲を見回す。ついさっきまで真っ暗で、俺たちが持参した照明しか光源は無かったはずだ。だというのに、社と鳥居に付けられた小さな燭台によって、地下通路全体が柔らかく照らされていた。社に備えられた蠟燭にも火が灯っている。いつの間に、と聞くのは愚直すぎる。先ほどまでは暗くてわからなかったが、この社の下には小さめの池があった。水底を確認するには至らないが、水たまりというには深い青が見えた。きっと途中で聞こえた水音はこの池だ。池の水分の影響か木製の社は今にも崩れそうだった。山鳥毛は優しい手つきで社の屋根の部分を撫でる。
「小さいがいいだろう。ずっとこのままだが、気に入っている。」
「そうかい。本体はご本尊にあるから戦えない、と?」
「まぁ、そんなところだな。」
嘘をついているようには見えないが、本当のことを言っているようにも見えない。この胡散臭い男は、本当に山鳥毛だろうか、と再び疑問に思う。俺の知っている彼は、もっと誠実できっちりかっちりした男だ。ただの個体差で片付けて良いものか。
「そんなに疑わなくったっていいだろう。私は君たちの手伝いがしたいだけなんだ。」
「一体何の手伝いだって言うんだ。」
「君たちの結納だよ。」
「は?」
目の前の男は何と言ったのだろうか。結納。本当に俺が知っている結納か? 本当に? まず俺に結納と何の関係があるというんだ。
「混乱を表に出すと戦場で足元を取られるぞ。」
「今は戦場じゃないとあんたが言ったんじゃないか。」
「それもそうだな。まぁ、説明しようか。君は時の政府が定めている、刀剣男士と審神者の結納方法を知っているか。」
もちろん知っている。刀剣男士と審神者の結納は、一応認められている。本丸側から担当職員を通して婚姻届のようなものを受け取り、記入し政府に提出すれば結納という形になる。かつてはこのような制度は無かったが、刀剣男士による神隠しや突発的な失踪事件が相次ぎ、原因が審神者と刀の恋愛関係にあると判明した際に制定された、らしい。実際、結納制度を取り入れてから、その類の事件は減ったらしい。課長殿に聞いただけなので定かではないが。それに結納関係にあれば、政府からご祝儀代わりに資材や小判といったものが支給される。その為、資源がもらえるというだけで結納する審神者も一定数いる。所謂ビジネスライクというやつだろう。それが、俺に何の関係が。
「結納と言えど所詮は契約。神との契約だとしても人間はそれを掻い潜るすべのひとつやふたつ、持ち合わせている。」
「話が読めないんだが」
「まあ聞くといい。そういう人間や刀剣男士は大体『その先』を望むのだ。この戦争が終わってしまったとしても、この生が終わってしまったとしても。」
本当に話が読めない。言いたいことは分かる。政府の用意した結納という制度では不満で、もっと共に居たいという気持ちがそうさせるというのも分かる。問題は何故この話をこの場でしているのかということだ。
「まだわからないか。」
「……分かってほしいなら丁寧な説明をするべきだろう。」
嘘だ。俺には事前資料というピースが用意されている。現在進行形でそのピースは増えて、そして繋がってひとつの絵画になろうとしている。結婚式の招待状、存在しない地名、いくつかの失踪事件、訳の分からない矢印看板、異類婚姻譚。そして人外の主人と付喪神の俺。言わんとすることは分かっている。だが、だが。
「……俺には関係ない、関係ないんだ。」
「そうか。そちらのお嬢さんは関係あるようだが。」
「っ、それ、は」
微動だにしない主人を見つめる。きっとこれは幻影だ。その証拠に蝋燭の火も、池の水面も微動だにしない。動くことができるのは俺と山鳥毛だけだ。きっとここは目の前の男の神域のようなものだろう。迂闊だったと言わざるを得ない。
「私はね、何人もの審神者と刀剣男士を見送ってきた。勿論刀剣男士だけじゃない。愛し合ったもの、壊しあったもの、一瞬を望んだもの。いろんな人間たちを見てきた。皆うつくしく、哀れだった。」
「何を」
「互いを想いあう気持ちは人も物も怪物も関係ないということだな。だけどこの世界はそれを許さない。人は人の世界を、物は物の世界を生きなければならない。悲しい話だ。むなしい話だ。ならば同じような存在になればいい。そうやって代償を払ってきた者たちは多い。そうだろう?」
「あんた、山鳥毛じゃないな。」
「神からすれば呼び名なんて些細なこと。好きに呼ぶといい。」
再び本体に手をかける。目の前の男が刀剣男士の山鳥毛じゃないとすれば、ご神体の話も嘘の可能性がある。ならば情けも容赦も無用だ。今ここで斬り捨ててしまっても。
「別に私を斬り捨ててるのは自由だが、そのあとに君と君の主人がどうなるかは補償できかねるが、いいかね?」
「どういうことだ。」
「そう、そうやって一度落ち着いて話をしよう。ふむ、そうだな一献、どうかな。」
長い外套の影から出てきたのは小さな酒甕だった。焼き物で出来ていて、日本号が携帯しているものに近い。まさかこのタイミングで酒を出されるとは思わなかった。いやこの状況であぁありがとうございますと酒を受け取る奴があるか。丁重にお断りした。
「残念だ。まあ構わないさ。」
左手に下げられた甕を軽くゆすって、そのまま一思いに煽る。喉仏が数回上下する。目の前の男の口から、透明な液体が零れ落ちる。落ちて落ちて、地面に落ちて、そのまま波紋ができて吸い込まれる。まるで地面が水面のように波打っていた。改めてここが異界であることを認識させられる。
「ここはあんたの神域かい。」
「似たようなものだ。付喪神とは仕組みが違う。その空間の主を斬り捨てれば、空間ごと消滅しかねない。君は私を殺せない。」
「脅迫のつもりかい?」
「まさか。提案だ。ただの提案。勿論断ってくれてもいい。断ったところで何か代償を求めるつもりもない。」
「随分と、虫のいい話だな。」
「優しいと言ってくれ。話を戻そう。君は愛するものと結ばれたくはないか。」
「愛するものって言ったってな……主人のことかい?」
「おや、愛していないのか。」
「そういうわけではないけども。」
なんで廃墟の地下通路で恋愛話をさせられているんだ。とてもじゃないが初々しい雰囲気ではないし、だからと言って初対面の人間に、主人と俺の関係をわざわざ話す理由にもならない。主人のことを愛していないわけではないが、少なくとも結納だとか結ばれるだとか、世間様の言うものとは違うと思うのだ。俺は主人のことが好きだ。確かに好きだ。でもそれは、主人が俺のことを好きだったからだ。全ては、それが原因なのだ。きっと。随分と昔のことを思い出して、ぎゅっと目をつぶる。
俺の主人は大般若長光が好きだ。大般若長光という刀が好きだ。それは自分の刀というわけではなく、他の本丸の刀でもよかったのだ。俺が顕現してから数年は、いたって普通の審神者と刀剣男士だった。主人も、淡い期待を抱くだけの少女だった。今更考えると、この時が一番幸せで正しい関係だったのかもしれない。数多の刀の中で、俺は、俺だけはちょっと特別だった。こちらを見るときの視線に熱が籠っているのに、当の本人は俺にばれないようにと振る舞う。その反応では火を見るより明らかだというのに。だから、俺もそれに付き合うことにしていた。主人が望まないのであれば応えない。主人がそれを望むなら、そちらを取る。ただそれだけの話だ。それだけの話だったはずなのだ。調子が狂ったのは、別の大般若長光が出てきた頃だろう。主人の友人の本丸にも、大般若長光が居た。一定期間審神者業務を続けていて、戦歴を上げていれば、大般若長光という刀は珍しくもなんともない。別の本丸に同位体が居るのは、何ら不思議ではない。だが、主人は、そちらの大般若長光にも、同じ視線を向けていた。俺には、熱い視線に思えた。主人が誰を好きになろうと関係ない、そう言いきれれば良かった。でも言いきれない自分が居た。所詮、あんたは大般若長光という刀にしか興味がないのかと罵れれば良かった。罵れるほど強くなかったし、弱くもなかった。この気持ちが色恋のものなのかは分からないが、主人を好いていることに、変わりは無かったのだ。それに余所の大般若長光は余所ので、図々しかった。目障り、というのは言いすぎだが、気に食わないのは事実だった。よく悲しむときに「胸が引き裂かれる」と言われるが、あれとはまた、何か違う痛みがここにあった。何年も、この気持ちを抱えて生きてきた。自分の中で一種の諦めが生まれていた気がする。転機が訪れたのは、心など辛いばかりだと思っていた頃だろう。詳細は省くが、主人が人間を辞めた。そして俺を選んだ。理由は単純。大般若さんとずっと一緒に居たいから、だ。俺は主人の意思を尊重する。だから俺と共に居る決心を、快く受け入れた。そう。受け入れたのだ。
「ふむ、君は本当にその選択を快く受け入れたのか。」
かけられた言葉で我に返る。なんだ今のは。確かに俺は、主人の選択について考えていた。なんだ、こいつは。俺の思考が読めるのか。いや、違う。この神域のようなものに入った時からそうだった。俺の言動だけでなく思考を読まれている。そんな心地になる。どこからでも見られているような、見透かされるような恐ろしさが、ここにはある。畏怖のような、何か。
「そう怯えてくれるな。まあもう伏せることもあるまい、自己紹介させてもらおうかな。僕は神だ。正真正銘のね。名前は特にない。僕には必要ないから。特技は魂の形を変えること。故に異類婚姻の思いをよく受け取る。たったそれだけの話だ。」
「……そんな神サマが何故刀剣男士の姿を装ったりするんだい。」
「都合がいいから。ここ何年かはみんな刀剣男士と審神者とやらだ。よくわかんないけどさ。僕に願われるのは審神者と刀の永遠の関係。刀は付喪神、審神者は人間。普通のルールじゃ来世どころか結ばれることだってできやしない。だから、俺に願いを託される。」
「縁結び役ってことか。」
「まぁそう思ってくれればいい。手紙だってそう。互いに結ばれたいと思う異類の二人が居れば届く。僕が意図的に出しているというよりも、信仰によって発現した権限が勝手に送ってる感じ。だから今回も君たちが来た。そうだろう?」
「そうだろう、と言われてもな。俺たちは望んでいるわけではないんだが……」
「本当に?」
得体のしれない神の顔がこちらにグイっと近寄ってくる。ずっと見ていたはずなのに、顔は山鳥毛のものから、少年のような顔になっていた。一体いつ変化を解いたというのだ。そして少年の硝子玉のような瞳が、俺の瞳を覗き込んでいる。感情のない、神の瞳。言葉という名前が付く前の、原初の力。あぁそうだ、俺は刀剣男士であって、人ではない。刀であって、人ではない。神であって、人ではないのだ。いつから、主人の横に立つために、自らを人として律していたのだろうか。俺は、人ではないのだ。何をしても、人には成れないのだ。思い出した。何十年と刀剣男士をして忘れてしまっていた神の記憶。埃をかぶっていた、末席の神としての矜持。
「お、随分神気が戻ってきたじゃないか。ここに来た時の君は、思考が人間に寄りすぎていて人間か付喪神かわからないくらいだったからね。優しさがなせる業なのかな。」
そういわれてハッとした。ここ最近はずっと時の流れが緩やかだった。恐ろしいくらいに緩やかだった。人間で言うトシか、なんて笑い飛ばしていたが、これは神気の問題だったのか。なるほど、なるほど。刀剣男士にも経年劣化はあるということだろうか。それならば、今までの思考にも納得がいく。
本当に? 本当にすべてが神気のせいだと? 脳内でガンガンと警告音が鳴り響く。二日酔いの頭痛にも似た浮遊感と痛みが脳を走る。この神の言っていることを信用していいのか。話が本当であれば、この神は、審神者と刀剣男士を行方不明にした元凶ということになる。そんな奴の言うことを本当に信用してもいいのだろうか。こいつの言っていることは信用に足るのだろうか。脳にかかった靄のようなものが晴れていく。鋭さを取り戻した思考でもうひとつ訊ねる。
「あんた、何をした。」
「おや、随分頑丈な魂だな。」
「そりゃ、どう、も」
未だに痛みを訴える頭を抱えながら、ペラペラとよく回る口から出てくる言葉を聞く。本人曰く、魂を捏ねているだけ、らしい。魂の形を変えれば身体にも影響が出るらしい。確かに思考や信念といった根源的な何かがぐちゃぐちゃとかき回されている感覚がある。魂をこねくり回されるなんて経験は中々にできないので、良い機会だと思うしかない。
「う~んわからない。何故拒絶する? ずっと一緒に居られるんだぞ。それでよくないか?」
「あんたなぁ、他人が嫌がっていることはしちゃいけないって良識ってもんはないのか。」
「? 嫌がっているどころか望んでいるだろう。」
どうにも話がかみ合わない。この自称神様には何が見えているというのか。俺は刀剣の付喪神以外になる気はないというのに。頭痛の引いてきた頭で考える。これ以上刺激して、主人に危害が加わるようなことは避けたい。どうにかして平和的解決に持っていきたい。どうしたものか。
「待て。待ってくれ。一度話をしようか。」
「僕はさっきからそう言っている。」
「それはまぁ、すまない。とりあえずあんたは何故こんなことをするんだ。」
「人間に望まれたから。神が存在するのにこれ以上の理由があるか?」
「いや、その通りだ。愚問だったな。あんたは魂の形を変えて何がしたいんだ。」
「何がしたいのかは僕が聞きたいくらいだけど。」
「じゃああんたは求められているからやっているだけだと?」
「そう。」
いたってなんてことないように、そっけなく答えられる。問答をすれば問答をするほどにわからない。袋小路に迷い込んでいく気分だ。俺とこの神に、何か、こう、決定的な認識の齟齬を感じる。前提条件が異なるような、違う根本の話をしているような。
「あんたの権能の発動条件は想いあっている二つの結ばれない存在が居る、ってことだろう? 確かに俺と主人が好き合っている、と解釈されるのはまぁ、しょうがないとはいえここまでされる筋合いはないのだ。」
「うん? ここまでと言ったって、君も、君の主だって既に手遅れなくらいじゃないか。」
「……というと?」
「君の主人は君を好いているから人外に堕ちた。君はそれを自分のせいだと感じている。主人が人を辞めてしまったのは自分のせいだと思って、後悔している。でも、本当は違う、そうだろう。違うか。」
声が出なかった。相手は神だ。縁結びをやっているなら尚更なのかもしれない。全てが見透かされたような、いや、とっくのとうにお見通しだったのかもしれない。数十年に渡って抱えてきたことが、目の前で言葉として紡がれていた。そう。顕現してからずっと、ずっとずっと、考えていたことがあった。分からないことがあった。名刀として、美術品として、貴重な歴史のひとつとして、想いを掛けられてきた。人の身を得て、其れとはまた違う想いを掛けられた。たったひとつでも、重くて、濃密で、そして今までの想いよりも、ずっと熱かった。名前にかけられた、銭六百貫とどちらが重かっただろうか。心の臓の音にも慣れぬ時期に投げられた熱い想いは、俺の心に、いっそ苦しいほどの痛みを齎した。例えるならば、焼き鏝で刻印を入れられるような、鮮烈で後を引く痛み。時が経てば、じくじくと爛れて膿んでどろりどろりと剝がれていく。服の下で膿んだ液体とも個体ともつかない俺の一部が、流れ流れて服に染みて、不快感をもたらす。自分の流れ出した心が疎ましい。自分の心が不快だ。自分のこころが嫌で仕方ない。流れ落ちて染みる様はさらさらとしているのに、感じるのはベタベタとした粘着の質感。感じる、というのはいったいどこで感じているのだろう。人の身を得て、五感を得て、第六感というものだって備わっているはずなのに。俺は自分のことが、主のことが、わからない。何故俺の為だけに、人という限られた生を捨てたのか。そこまでの情を持ち合わせているのに、俺のは受け取ってさえくれないのか。傲慢で、どうしようもないくらい一途で、人間的。俺の心を焼き切るには十分すぎるくらいだった。だから、俺は蓋をしたのだ。主人が人を辞めたのを、全て俺のせいにした。俺があんたを止めてやれれば。あの時そんなことをするなと言えれば。俺がもう少し、強かったら。本音を抑え込むために使った大きな蓋が、本音に張り付いて取れなくなる。いつしか、覆い隠された本音と張り付いた建前はひとつになって混ざりあう。ぐちゃぐちゃ、ぐちゃぐちゃ。粘着質な音を立てて、輪郭さえ失っていく。これが心というものなら放り投げてしまいたいと、何度思ったかわからない。でも俺は主人に顕現された刀剣男士だ。放棄は、許されない。主によって縛られ、主によってかき回される。あぁ、なんだ、俺だって主人のことを想っていたじゃいか。主人と、形が違うけれど。そう思ったとたんに体から力が抜ける。立っているのか、座っているのか、それとも寝ているのか、わからない。目の前の神が何か言っているが、それさえも聞き取ることはできなかった。
「お、やっと気が付いたか。そうだよ。そう。君は審神者のことを好いている。好きとかいう言葉には収まらないほどに。愛して、憎んで、恨んでいる。だけど結局、愛だけで人外に成ったほどの存在には勝てないんだなぁ。うん、気に入ったよ。またその内側が溢れそうになった時、ここに来ると良い。その時はちゃんと君たちを結んであげよう。だから愛情は注ぎ過ぎない方がいい。根腐れを起こすよ。お嬢さん。」
女は、倒れる大般若長光を不安そうに見つめていた。
ピッピッ、と規則正しい電子音が聞こえてくる。重い瞼を開けば、青いホログラムが目に入ってきた。これは見覚えがある。政府の救急対応室にある機械だ。周りを確認するために上体を起こす。右側には課長殿が本を片手に座っていた。起き上がろうとする俺を見て、ベッドの周囲に展開されていたホログラムを消す。
「お目覚めだな。気分はどうだい。」
「やあ。少し体が重いけれど、特に異常は無いかな。主人は。」
「寝ずに看病すると意気込んでいたが寝落ちして、昨晩近侍の山姥切長義に回収されていったよ。」
「じゃあ何か異常は無かったんだな。」
「ああ。君もあいつも全くの無傷だ。」
よかったと胸を撫でおろす。そろそろ見舞いに来るんじゃないかという声に安堵を噛みしめる。枕元の机には水と不格好な林檎が置いてあった。長いこと置かれていたのか、変色して黒くなっている。
「何個も聞きたいことがある。君の主人にはもう聞いたから、あとは君だけなんだ。いいかい。」
「あぁ、構わないさ。」
現場で見たこと、あったことを全て話した。廃ホテルから伸びた長い長い地下通路も、その先の問答も、魂の話も。課長殿は記録をしながら、こちらの様子を常に伺っていた。何か異変がないかと、目を凝らしていた。聞き取り調査が終わったのは、そこから十分ほど経ってからだった。
「ご協力感謝する。」
「ところで、普通だったら調査隊に異変があったら飛んでくるじゃないか。今回はどうしたんだ。」
「……こちらとしても駆けつけたかったんだがね、君たちがフロントの棚から地下通路に入っただろ。そのタイミングで外部接続が全て遮断されたんだ。大慌てで現場に行ったが、僕たちでは棚の存在を確認できなかった。」
「また呼ばれたのか。」
「まぁ、その説が一番有力だな。」
軽くため息をつけば、謝罪が聞こえてくる。いいのだ。怪異がうちの本丸に寄って来るのはもう慣れっこだ。慣れたくは無かったのだが。それよりも、彼女に聞きたいことがあった。主人の旧友である、彼女に。
「聞いてもいいかい。」
「なんでも。」
「主人が人を辞めた時、あんたはどう思った。」
「……」
彼女にしては珍しい、長い沈黙だった。
「別に。あいつの決めたことだ。僕には関係ない。けれど。人を辞めるのは修羅のごとき所業だ。それをする覚悟が、あいつにあるのかは、今でもわからない。しわ寄せが誰に行くのか、どうやって歪みが生じるのか。それを本当に理解したうえでやっているのか、わからない。純粋故だと思うがね。」
それが彼女のいいところだ。そう言い残して課長殿は部屋を出ていった。手元の端末から音がしていたから、主人が来たのかもしれない。俺は少し黒くなって、戻らない林檎を手に取った。大きさは不揃いで、表面はガタガタだった。ひとつ口に放り込めば、甘いだけの果実の味がした。