オリジナルウマ娘が登場する、俺による俺のための俺の怪文書です。
テキトー言ってるし辻褄合わないこともある気がしますが、大丈夫な方はどうぞ。
月一更新予定。
雲一つない晴天。抜けるような青空。レース場の観客席から見る空は、あまりにも大きくて、広い。長袖の制服は、暑いぐらいで。もうすぐそこまで、夏が迫っている。前日まで降っていた雨は朝早くに止んで、今日という日を祝福しているみたい。稍重だったバ場も乾いてきている。きっと、良いレースになる。私は信じていた。止まぬ喧騒に、沸き立つ観客たち。それもそのはず。今日は日本ダービー。何千人と生まれるウマ娘の、その世代の頂点を決める、一生に一度、その舞台に立つことだけで栄誉と言われる大舞台。私の友人で、そして最大のライバル。青く輝く太陽が、前人未踏の記録に挑む、そのプロローグ。私は、そう信じて止まなかった。意味も無く顔の横にある癖の付いた毛をくるくると指で弄る。緊張すると、出てしまう私の悪い癖だ。私が緊張しても意味なんて無いのに。唇をもごもごとさせながら広い東京レース場を見下ろす。
「っ、ねえ、あそこにいるのって、」
「え? ……あ、ルーナさんだ、やっぱり見に来てるんだ。」
「そりゃそうだよ。だって今年のダービーはティアラ路線のソレイユちゃんが出走するんだから。」
「でも桜花賞じゃ五バ身差で負けてたよね。」
「だってルーナさんの走り、完璧だったもん。あんなの誰も勝てないよ。オークスだって。」
「……ルーナさんに勝てないからダービーってこと?」
「それだけじゃないと思うけど。そうかも。」
なんにも知らない野次ウマの話が耳に入る。おかしくって仕方がない。呆れるような笑いが漏れる。ソレイユの真意が、何も知らない子たちにわかるもんか。一緒に走った事も無いのに。抑えきれなかった笑いが、ふふふふ、と走り出すみたいに零れていく。逃げたんじゃない。あの子は逃げるのは超苦手だ。挑みに行ったんだ。私にみせるために。その脚で、世界に魅せ付けるために。まだ見ぬ景色のために。視線をターフに移す。そのタイミングで、入場が始まった。熱気を煽るようなムービーと大喝采のその残響を耳にしながら、大きな画面を見つめる。
『三冠路線の中でも、一番の栄誉とされる日本ダービー。最大の幸運を手にするは一体誰でしょうか。冴えわたるような青空の下、十八人の優駿たちが集まりました。錚々たる顔ぶれの中、何と言っても今回の注目株は、朝日杯皐月賞を無敗で制し圧倒的一番人気を背負うライトイレクト。このまま二冠を手にすることはできるか。前哨戦青葉賞をレコードタイムで駆け抜けたグランドフォス。そして何と言ってもティアラ路線からの挑戦者、ホープフルステークスの勝者でもありますブラウソレイユ。その他にも重賞勝ちの名に恥じない、実力派の若駒たちが集まりました。』
解説の音声が、会場に響き渡る。ファンファーレが、良く響く。この間のオークスと同じかそれ以上に観客の入ったレース場は、異様な熱気と緊張感に包まれている。今年のダービーにはいろんなものが掛かっている。無敗の二冠ウマ娘、ジンクス破り、数十年ぶりティアラ路線のダービーウマ娘。それでも、私は彼女の勝ちを確信している。だって、彼女はとんでもなく強くて、幸運なウマ娘だから。正面の大きな画面に、出走ウマ娘たちの顔が写る。陽に当たると綺麗な青に染まる、美しい青毛のウマ娘。前髪に浮かんだ太陽みたいな流星が、目を引く。左の髪の毛だけを長く伸ばして、その他は肩よりちょっと上で雑に切られている。髪型にさえ気を使わない彼女の、勝利に掛ける思いは尋常じゃない。どこか不機嫌そうにあたりを見回す彼女を見て、安心する。いつも通りだ。その他のウマ娘たちも、仕上げてきているだろうけど、勝つのはあの子だ。
淡々と、それでいて徐々に上がるボルテージを感じながら、ゲート入りが進んでいく。六枠十二番。外目の枠を欲しがっていたから、運も味方につけている。あの子が負けることなんて、考えられない。でも、そう思っているのは私と彼女のトレーナーぐらいかもしれない。それくらいハイレベルなダービーだろう。
『さぁ全ウマ娘がゲートに収まりました。日本ダービー、スタートです!』
ガチャン、と音がして色とりどりの勝負服に身を包んだウマ娘たちが、鮮やかな緑に走りだしていく。途端に起こる大歓声。一番人気の子はバ群の中団、あの子は最後方。観客の声に後押しされながら、レースは淀みなく進む。出遅れた子も居なくて、あっという間に第二コーナーを回って向こう正面。ペースは例年より遅め。後ろの差し追込が不利とされるレース展開。バ群の中で、激しい位置取り争いをしている。でも、きっとあの子にそんなものは関係ない。熾烈な競り合いをしたまま、第三コーナーに掛かる。
『さあ大きな動きの無いまま第三コーナーを通過、おおっと! 動いた動いたブラウソレイユ! ロングスパートだ! 最後方から大外を回ってじわじわと位置を上げていく! それに釣られるように他の娘もスパートをかける! 先頭のグランドフォスはどこまで粘れるか! 第四コーナーを超えて最後の直線、さあダービーの栄光が近づいているぞ!』
レースが、一瞬で動いた。まるで、タラタラしてるんじゃねえぞ、と言わんばかりのスパート。小柄なバ体が、白いマントの勝負服が、大外の観客席側を回って、最後の直線に飛んでくる。耳の奥に、かつて聞いたマントの靡く微かな轟音が、今も響いていた。その姿が、私は見れなかったあの子の走る姿が、彗星のようで、眩しかった。強く握った拳に、更に力が篭もる。観客席が、騒ぎ出した。
『先頭はグランドフォス! グランドフォス粘るがブラウソレイユがあっという間に交わす! ヒュブリスユナク、グラウクスも併せウマで飛んでくるぞ、ここでやっと来たライトイレクト! 先頭ブラウソレイユ、ブラウソレイユ! 届くかライトイレクト、ぐんぐん差を詰めるがブラウソレイユも譲らない、どっちだ! どっちだ! あと百を切って強襲ブルジェモヒート、ヒュブリスユナクも来ている! だがしかし先頭は二人だ! 二冠か! 女傑か! 一体どっちだ! どっちだ! 縺れるように二人並んでゴールインッ!』
結果なんて見るまでも無い。私はそのまま踵を返そうとして、でも落ち着かなくて、顔だけを使ってもう一度ターフビジョンに目をやった。
『勝ったのは、ブラウソレイユ! ブラウソレイユです! ティアラ路線のウマ娘が、三冠路線のウマ娘を押しのけて堂々戴冠! 新たな王女の誕生です! 二着はライトイレクト、三着にヒュブリスユナク。無敗の皐月賞ウマ娘は、ここで初めての黒星となりました。』
口角が上がる。だから言ったでしょ、あの子は逃げたんじゃない。絶対に強い走りをして、勝つんだって分かっていた。何にも不思議なことなんて無かった。新王女の誕生に湧く会場を背にして、薄暗い通路に向かう。心臓が、どきどき言ってる。脚がうずうずしている。私も頑張らないと。次、一緒に走れるレースがいつになるかは分かんないけど。
「ルーナ。」
「あ、トレーナーちゃん。」
「もういいの? ウイニングライブは?」
「うん、だってソレイユが勝ったでしょ、それだけ分かればいいの。……でも、見に行っちゃおうかな。折角だし。」
「はは、そう言うと思った。……でも」
「でも?」
「すこし走っておいで、レース場、一週分ぐらい。」
「……なんで?」
「だって、走りたくて仕方ないって顔してるから。」
「……あはは、うん、うん、そうかも。いま、走りたくて仕方ない。ソレイユが勝ったから。楽しそうなレース、してたから。」
「相変わらずだね。よし、じゃあ無理しない程度にね。」
「ありがとうトレーナーちゃん!」
桜花賞、オークスを無敗で制し、トリプルティアラどころかティアラ全冠の呼び名も高いベルベットルーナ。私のこと。そして、そんなウマ娘に諦めることも憧れることもしない王女、ブラウソレイユ。今ターフでウイニングランをしている彼女のこと。一番の友達で、追いつきたい背中を持つウマ娘。あの子に負けたことはないけれど、私の前を、ずっと走り続けている。そう、今も。髪色も性格も脚質も、正反対。だけど、私はあの子にもっと勝ちたい。ちゃんと、勝ってみたい。きっとあの子もおんなじ。だから、あの子はオークスじゃなくてダービーを選んだ。まだ、隣で走るには遠すぎるから。
足を止めて振り向いて、大きな液晶画面に向けて呟く。絶対本人には聞こえてないし、聞かせてるわけでもないけど。
「ソレイユ、私、秋華賞勝つから。絶対勝つから。最高のレースにしてみせるから。ソレイユも、菊花賞負けないでね。そうしたら、また一緒に走って。約束だから。」
画面に写るソレイユは、鬱陶しいと言わんばかりの顔をして、首に優勝レイをかけていた。日本ダービーの文字が、きらきらしていた。
♦
「お疲れ様。凄いレースだったね。」
ウイニングライブまでのほんの少しの休憩時間。とある控室をノック無しに開けば、レース後のクールダウンで柔軟運動をしているウマ娘が居た。隣には鷹揚な座り方で椅子に腰かける女性。見知った顔だから、遠慮なんてしないで話しかける。
「ハナ差決着だからギリギリだったけど、ね。」
ブラウソレイユ。青い太陽の異名を持つウマ娘。そして、今年のダービーの栄誉を手にした最高に幸運なウマ娘。彼女は、こちらをチラリとも見ないで素っ気なく答える。夜の海みたいに深い青の髪の毛が、ゆらゆらと揺れている。その額には太陽みたいなまん丸の白い流星が一筋。名は体を表すというけれど、こんなに名前そのままな子は、なかなか居ないと思う。そう言うと、本人はアンタもそうだろ、と言ってくるけれど。水滴の付いたペットボトルを差し出す。彼女が愛飲しているメーカーのスポーツドリンク。さっき来る途中の自動販売機で勝ったから、キンキンに冷えているはずだ。あ、でもそうでもないかも。ここ最近は暑くて仕方ないから。今日だって、快晴で、太陽が燦々照りで、暑かった。やっとこちらを見た彼女が、ペットボトルを受け取る。そのまま蓋を開けて喉の奥に注ぎ込むようにして、飲む。首から垂れ下がる水色ベースで三角形の柄入ったのスポーツタオルで顔を拭いている。彼女のお気に入りみたい。あまり汗はかいていない。彼女の表情から、やっと安堵が顔を出す。
日本ダービー、オークス。クラッシック級のウマ娘たちが走った事の無い、未知の距離とも言われる二四〇〇メートル。そして芝左周り。初めて尽くしだったはずだけれど、彼女は何も気にしていないみたい。それどころか、桜花賞で一六〇〇メートルを走った後の方が、よっぽど辛そうだった。これが、彼女の唱える適性距離の差、かもしれない。
「アンタは? 今もう早めの夏休みだっけ?」
「うん。夏合宿から始動になるから、早めに。」
「そ。いいじゃん。」
「どうだった、ダービー。」
「短い。ダルい。もっと長い方がいい。」
「あはは、それ、他の子の前で言っちゃだめだよ。」
「それくらい分かってるよ。」
日本ダービー、またの名を東京優駿。日本中のウマ娘とトレーナーの夢の舞台。一生に一度、たった一度だけ立つことが許される、この上ない栄誉と名誉に溢れたレース。その場に立てただけで、誇れるような、そんな場所。ダービートレーナーになるのは、一国の宰相になるよりも難しい。そんな言葉があるくらいのレースを、彼女は制した。それも、ティアラ路線出身のウマ娘が。これが、どれ程の快挙か、分からない。ウオッカ先輩以来の、大大大快挙だ。だというのに、彼女はなんだか嬉しくなさそう。元々、表情が豊かな方じゃないのは知っているけど、こんなレースを制した後だというのに、彼女の顔は強張ったままだ。……それには、理由があるのを、私は知っている。彼女には、ダービーよりも勝ちたいレースがあるから。
「オークス走ってくれれば良かったのに。一緒に走りたかったな。」
あえてそのことには触れずに、別の話をする。私が走ったレース。ダービーと全く同じコースで競う、ティアラ路線の栄誉あるレース。
「っは、わかんないでしょ。アンタ、二四〇〇はギリギリそうに見えたけど?」
「辛かったよ! 長いよ二四〇〇は。もう走りたくないかも。」
茶化すように笑う。嘘じゃない。本当につらかった。びっくりするほど辛かった。最後の直線は、脚が重くて重くて仕方なかった。トレーナーちゃんと作戦を立てて、逃げを打っていて良かった。これでバ群の中で脚を貯めていたら、絶対に届かなかった。だから、オークスはハナ差の勝利だった。このダービーとほぼおんなじ。違うのは、差し切ったか、逃げ切ったかの差。
「冗談はやめて。勝ちタイム、今日のダービーより早い。コンマ二秒。」
「そうだっけ?」
「そう。アンタの方が二四〇〇を早く走ってる。僕よりも。」
ふぅ、と軽くため息をつくと、柔軟運動を辞めて、やっとこちらを向く。青と赤のオッドアイがこちらを見ている。青みがかった髪と尻尾を靡かせて、小柄な体をめいいっぱい使って、最後の直線で吹っ飛んでくるまん丸な太陽。私の、私のライバル。何もかもが正反対。それでも私は、彼女のライバル。一緒に走ったレースは一度しかないけれど。それでも、私はあのレースから、彼女のことをライバルだと思っている。きっとこれからずっと。
あれは一か月前の話。桜の花びらは満開を超えて、散りかけ。スタートのゲート前は最高のお花見スポットだった。桜花賞。ティアラ路線クラッシック戦の第一戦目。実力と瞬発力の問われるマイル。一番人気は、私ことベルベットルーナ。二番人気には彼女ブラウソレイユ。共にジュニア級のGⅠ勝ちウマ娘として注目を集めていた。ジュニア級でティアラ路線の子が参加するレースと言えば、阪神ジュベナイルフィリーズ。桜花賞と全く同じコースで競う、ジュニアの女王が決まるレース。彼女、ブラウソレイユはこちらではなく、ホープフルステークスを選んでいた。あとから聞いたら、抽選漏れしただけらしいんだけど、二〇〇〇メートルでしっかり勝ってきてるんだから、流石だ。ファンファーレが鳴って、ゲートに入って、ゲートが閉じられて。緊張感に満ちた数秒の沈黙の後に、目の前が開ける。スタートは得意だったから、ぽんっと飛び出して、無理のないコース取りで脚を運ぶ。好位に付けた。前から四番目、先頭の子が見えていつでも抜け出せる最高の位置。慣れた距離に知ってるレース場。怖いことなんて何もないと思った。でも、そうじゃなかった。クラッシックのレースは、違った。正確に言えば、あの子だけが、違った。後ろの方から感じる威圧感。本能に訴えかけるような恐怖。今から全員をなぎ倒すという強い執念。あんなの、初めてだった。たぶん、走ってる全員が感じてたと思う。だって、一番後ろから感じるんだもん。このまま、このままのペースで走ったら、絶対に追いつかれる。ちんたら走ってたら、確実に最後の直線で追いつかれて、差されて、負ける、私が。自信があった。慣れた距離に慣れたレース場、前も負かしたことのある顔ぶれが並んでいて、慢心、とまではいかないけど余裕があった。心のどこかで勝てると思っていた。そんなの、嘘だった。このままだったら負ける。そう思った途端に、脚が動いた。心臓が一気に音を立てた。私が得意なのは逃げ先行。先頭集団に取りついて、レースが終盤になったら好位から飛び出す。焦っていた。この私が焦るなんて、初めてだった。おかげでレースは早い時計で決着が付いた。平均よりも一秒以上早かった。勝ったのは私。二着はブラウソレイユ。五バ身の差が付いていた。すごく、驚いた。あんまり差をつけるのは好きじゃない。走るのはたのしい。だから、みんなと一緒に走りたい。圧倒的なパフォーマンスを見せすぎると、一緒に走ってくれるコが減ってしまうから。そうやって走ってきたから、自分が、五バ身も差をつけて勝つなんて、初めてだった。本当に、本当に心の底から驚いた。こんな気持ち、初めてだった。マイル戦で膝に手を付いて肩で息をすることなんて、初めてだった。後ろを振り向いたら、見たことが無いくらい不機嫌な顔をして、呼吸を乱さずに不貞腐れて立っているウマ娘が居た。変な子だと思った。一六〇〇走って息がすぐ入っているのも、心の底から不機嫌そうなのも、クッソ短ぇ、と呟くのも、全部面白くて、変だった。その時から、私はこの子と友達になろうと誓ったのだ。声を掛けれたのは、ウイニングライブが終わった、その後だったけど。
「……なにボーっとしてんの、そろそろ行くんだけど。」
「んっ、あ、そうか、そうだよね! ちょっと昔の事思い出してた!」
「ハァ、ババアじゃないんだからさぁ、感傷に浸るのも大概にしてよね。」
ため息をついて、しっかりとクールダウンした彼女がこちらに向かってくる。それと同時に、首に掛かっていたタオルが、こっちに投げつけられる。
「おわっ、」
「ライブ、行ってくる。センターで踊る僕のことでも眺めてなよ。」
こちらをチラリとだけ見て、そのまま控室を出ていく。彼女のトレーナーも、軽く手で謝るようにしながら、後を追って出ていく。ぱたん、と音がして、レース後特有の匂いが残った楽屋とタオルと、私だけが取り残された。ニヒルで、得意げな、いや~な笑顔を浮かべていた。本当に、ヤな奴だ。すぐに煽るし、なのに煽り返せないぐらいの実力で走り切るし、なんか同室の先輩ともあんまり仲良くないって聞いてる。でも、憎めない。友達のレースには絶対見に来るし、いつでも余裕があって、実は面倒見がいい、憎めないどころか、いい子だ。悔しい、たった二戦。彼女のレースを見せつけられたのは、たった二戦で、それも片方は私が勝ってるのに、隣を走っている気がしない。戦歴なら、私の方が強いのに。悔しい、悔しいけど悔しいから、追いかけたいと思える。あの余裕が、私をそうさせるのかも。これが、ライバルって言うんじゃないかな、だから、だから、私はあの子のことをライバルだって呼び続ける。これからも、この先も。
「あ! ちょ、ちょっと待ってよ!」
彼女のライブを見逃すわけにはいかない。ドセンターで踊る彼女を見たら、私も同じ場所に立ちたいって思える。あんなにライブは嫌いだとかぶつくさ文句を言うくせに、パフォーマンスは悔しいぐらいに完璧。ファンサも少ないし、愛想はないかもしれないけど、なんだか知らないけど完璧だ。……悔しいぐらいに。慌てて楽屋を出る。もうライブ会場の席は埋まってしまっているかもしれないけど、多分間に合う。トレーナーちゃんが席を取っておいてくれてるはず。誰も居ない廊下に響く音が楽し気で、我ながら笑ってしまった。私は、まるで彼女のことが大好きみたいだ。
「ハア、ッはぁ、」
夏の日差しは、痛いくらいに強くて、暑い。強くて暑くてあつくて、あつくて、暑い。くやしい。
「っはぁ、ッハアッハァ、」
己の荒い呼吸を耳にしながら、走る、はしる、走り続ける。暑い、暑い、熱い、あつい、悔しい、熱い、悔しい、くやしい。足の裏が熱くて、目の奥が茹だっているし、心臓はバクバク乱暴に動いている。猛暑の中、私の体は限界を訴えている。でも、何より、私の脚が、止まるのを拒んでいる。ここで止まったら、ここで目を瞑ったら悪夢みたいな後ろ姿が、脳の裏にこびりついて取れなくなる。寝ても醒めても、あの白いマントの後ろ姿が、ずっとずっとずっとずっと、ずっと、見える。最悪だ。そんなこと考えなくていいくらいになりたくて、走り込む。砂浜の柔らかさに足を取られて、舌打ちをする。私、ダートは走れそうにない。そう思ったら、何度目か分からない舌打ちが、零れるみたいに出てきた。しない方がいいのに。重い足を上げて、次の一歩を踏みだす。靴さえ遮れない程の暑さと容赦なく反射する太陽光に、クラっとする。あぁ、流石にちょっとやりすぎたかも。全身で砂の味を感じる覚悟をする。だけどそれは裏切られる。夏真っ盛りでも真っ白な腕が、喉の辺りに添えられて、グエ、と蛙が潰されたみたいな声がでる。
「そんなに追い込んでも、脚は速くならないわよ。やりすぎは良くないって、授業で習わなかったのかしら。」
「……ルシアン先輩。」
「やめてよ、先輩なんて。そんなの他人みたいで悲しいわ。」
私を止めたのは、ルシアンセフィド。真っ白いロングヘアーに真っ白な尻尾。睫毛まで白い、珍しい白毛のウマ娘。人呼んで『白い悪魔』。他人をおちょくるみたいなレースする、最悪のウマ娘。私が求めてる“方じゃない”、白いウマ娘。何故か、同じチームの、先輩だ。先輩は、真っ白いレースの日傘をさして、真っ白いワンピースで、モデル顔負けの高い位置から、私をさも下民のように見下ろしている。この先輩が何を考えているかなんて、予想もできない。先輩はそういうウマ娘だ。
「トレーナーも言っているわ。少しは休憩なさい、って。」
「……水分は取っています。今日からの夏合宿なんだから、明日に備えてるだけです。」
「ウォーミングアップで倒れそうになってたら本末転倒よ。そんな面白くないこと、止めて頂戴。あなたには面白く走ってもらわないと。そうじゃないと、退屈だわ。」
返事をする気力もわかない。この先輩は、私のことを玩具か何かと勘違いしている。重賞勝ちの先輩じゃなかったら、とっくに絶縁しているところだ。白い悪魔、本当に先輩に似合いの二つ名だと思う。膝に付いた砂を払いながら姿勢を正す。こんなところで、立ち止まってなどいられないのだ、私は。
「そんなに悔しいの、日本ダービーで負けたのが。」
……ほら、すぐこういうことを言う。
「当然悔しいですよ。」
「そ。面白いのね。」
「……普通の事でしょう。もう私をおちょくるのはやめて、セントライト記念の対策でも教えてください。先輩、去年勝ってるでしょう。」
「あら、随分と物知りなのね。そうね、まあ、いいわ。明日、教えてあげる。あなたはその前に休憩が必要よ。トレーナーの機嫌が悪くなる前に。」
「はぁ。」
呆れのため息をつく。トレーナーと先輩の言っていることは間違っていない。分かっている。でも、静かにしていられない。初日だからといって、楽しく海水浴をしている気分にはなれない。一度目を瞑る。脳裏に、ダービーの直線が浮かんでくる。先行する白い背中が近づいて、すぐそこまで迫っている。あと五十、嫌、十メートルあったら、ダービーウマ娘の称号は私の物だった。間違いなく、私があのレイをかけていた。無敗の二冠ウマ娘に、なっていた。悔しい、悔しい。死にそうなほど悔しい。初めての敗北がダービーで、それもハナ差だなんて。
「あんたたち! いつまでボーっとしてるの!」
「……アフサーナ。」
キンキンとした声を響かせながらこちらにやって来るのは、アフサーナ。学院指定の黒と深緑のジャージをはためかせながら、ぷりぷりと怒っている。同じクラッシック級で、同じチーム。ジュニア級の時はなんだか調子が良くなくてメイクデビューにも時間がかかったけれど、最近はいいみたい。ついこの間、二勝目を上げていた。
「夜のバーベキューの準備してるのあたしだけじゃない! 手伝ってよ! 場所さえ出来てないんだから!」
「あぁ、ごめん、今行くよ。」
「……」
少し離れた場所で、皺だらけの目を細めながらこちらを見る老婆が居る。チーム「アルルバ」、私たちのトレーナーだ。今居るウマ娘を全員然るべき場所へ送り出したら、トレーナー業を退くと公言している、名トレーナー。私たちが、あのトレーナーの最後になるのだ。彼女の為にも、欲しい冠がある。それは、私だけじゃない。ルシアン先輩もアフサーナも、そう。私たちには勝たなきゃいけない、走り続けなければいけない理由がある。ウマ娘って、きっとそういうものだ。長く息を吐く。こんなところで倒れている場合じゃないのは、私だけじゃないのだ。
「アフサーナ。」
「なによ。」
「秋の初戦はどこにするの。」
「そうね、この夏のうちにオープン入りして、そのままローズステークスに出る。そこで勝って、あの自慢げな女王サマをぎゃふんと言わせてやるの。無敗のティアラウマ娘だかなんだか知らないけど、秋華賞を取るのはあたし。……トレーナーに、秋華賞をプレゼントするのは、このあたしなの。」
「……そうだよね。お互い、秋は負けられないね。」
「そうよ。絶対に勝つ。最高のおはなしで、このクラッシックを沸かせて魅せるんだから。コスモスの冠が一番似合うのは、あたしなの。」
私だけじゃない。ウマ娘は、それぞれ色んなものを背負って走っている。私たちのトレーナー、三笠トレーナーは、クラッシック級の秋華賞だけ、取れていない。皐月賞もダービーも菊花賞も桜花賞もオークスも、持っている。かつては優秀な名門チームを率いていたトレーナーだ。当然だ。そんなトレーナーでも、取れないレースがある。何度挑戦しても取れないレースがある。GⅠのレースというものは、そういうものだ。
これから二か月ほど使う器具を手にしながら、夜の支度をする。夏合宿の初日は、懇談会も兼ねたバーベキュー大会だ。学年もチームも寮も関係なく楽しくニンジンと肉を焼いて食べる。初日じゃないと時間が無いし、この過酷な夏合宿を乗り切れない。秋に向けて集中して練習ができる機会だ、逃がせない。結構な重さがある器具を所定の場所に置く。額から汗が流れ落ちる。暑い。この場に居ない宿敵を脳裏に宿しながら、自分のバッグと目の前にある大きな真っ白いバッグを、仕方なく持ち上げた。
「おっも、なに入ってるんですかこのバッグ……」
「え? 本と服だけれど」
「重りとかじゃないんですか……」
「あら、紙の束でもいい重りになるのよ。ほら、頑張りなさい。」
「はぁ。」
うふふと笑う先輩に、少し呆れてしまう。気を取り直して、強い日差しを拒むように空に手をかざす。夏合宿は始まったばかりだ。
「やっぱあの先輩は目立つねぇ。」
「あの先輩? ああ! ルシアン、えっと、何だっけ、セ、セ……たしかルシアン先輩ね。真っ白だね。」
よっこらしょ、と掛け声をかけながら、自分の荷物を泊まる部屋に運び込む。夏合宿は今年が初めて。楽しみで、踊りだしちゃいそうなくらい。 いつもと違う大部屋に、楽しいイベント、そして海と練習。きっと、模擬レースもある。夏合宿は、楽しいことばかりだ。
「ネム、今年はビーチで寝ちゃだめだよ、熱中症で運ばれちゃう。」
「流石にもうしないよ! 寝るときはパラソルの下で寝るし!」
「外ならあんまり熱中症のリスクは変わらないんじゃない……?」
笑いながら自分の荷物と枕を運ぶウマ娘。同期であり、おんなじチームのネムマルヴェシアだ。こげ茶のロングヘアーに、真っ白くて太い流星がトレードマーク。ちょっとエクレアみたいで美味しそうなのは、ナイショ。いつも付けてる緑のベレー帽は、この暑い時期でも被りっぱなしみたい。走るとき以外は常に眠そうで、パドックでさえ眠気を隠していない。今も、半分ぐらい目が閉じている。だけど、この間の葵ステークスで見た走りは、目が冴えるような速さで、ビックリした。いつもあれくらいしゃっきりしていればいいのに、ともちょっとだけ、思う。
「やっぱりその枕じゃないと寝れないの?」
「うん、知らない枕だと寝れなくて、翌日に響くから。折角の夏合宿だし。秋はちゃんと結果出したい、し。」
ずっと合っていた視線が、ふい、と逸らされる。ネムはちょっと不思議なローテーションでここまで来ている。ジュニア級からスピードが自慢の走りで、ティアラ路線なのにホープフルステークスに出走して、四着だった。勝ったのは同じくティアラ路線のソレイユだったんだけど。マルの方はそのまま皐月賞に挑戦するローテーションとして弥生賞を選択、そして二着。無事に皐月賞の優先出走権を手にして、そのまま皐月賞で走った。でも、なんだかネムらしい走りが出来なくて、十二着だった。この頃は、私やソレイユよりも、ネムの方が注目されていたように思う。皐月賞に出るティアラ路線のウマ娘なんて、そう多くはないから。そのままダービーに出るのか、なんて噂もされていたけど、結局出たのは葵ステークス。いい結果になったから良かったと思うけど、本人はなんだか違うみたい。
「秋はどうするの?」
「ま、まだ決めてない。」
葵ステークスは芝の短距離レースだ。秋にはスプリント路線のスプリンターズステークスを目指すのが、よく見るローテーションだ。でも、ネムは二〇〇〇メートルも走れるし、選択肢はいっぱいある。もしかしたら、秋華賞で一緒になるかもしれない。
「はいはい、そんなところで止まってないで、行ってください。後ろが詰まってるよ。」
「あ、トレーナーちゃん。」
この暑いのにスーツ姿で登場したのは私たちのトレーナー、宮坂トレーナーだ。流石にジャケットとネクタイはオフだが、ポロシャツじゃなくてワイシャツを着ているあたり、今日も真面目に会議に出ていたのだろう。そんなトレーナーちゃんの隣には、チームの先輩が立っている。
「ブラン先輩! お疲れ様です!」
「お疲れ~。こっちもあっついね。」
へにゃへにゃの笑顔を浮かべているのはトレフルブラン。シニア級の先輩。お耳が小さくて、とってもかわいい先輩。その他にも何人かのウマ娘が、バスから降りてくるところだった。
「お~し、これで全員揃ってるかな。いちにい、さんよんご、ろく、なな。ヨシ、全員いるね。」
「トレーナーさん、とりあえず荷物だけ部屋に置いて、それから集合で良いですか?」
「うん、そうしよう、十分後ぐらいに、またここで。」
「了解です。じゃあ皆、そういうことで。」
先輩の指示を聞いた皆から、バラバラな返事が聞こえる。私とネムは早めの夏休みと称して、一週間前ぐらいから合宿のお宿でお世話になっている。今日到着するウマ娘たちは、つい最近までレースに出ていた子たちだ。ブラン先輩もそう。荷物を運びながら、ネムが先輩に声を掛ける。
「こないだの宝塚記念、お疲れ様でした! 強かったですね、ティンクトリアさん。」
「あ、あはは、そうだね、強かったなぁ。私なんて、全然敵わなかったよ。」
「でも、最後の直線、凄い脚で伸びてて、かっこよかったですよ。」
「ブラン先輩が来るんじゃないかって、テレビの前で叫んでたんですよ私たち、ね。」
こくこくと何度も首を縦に振るネム。宝塚記念に出れるなんて、凄くて最高なこと。実力だけじゃ出られない。ファンからの人気投票でしか出走が叶わないレース、グランプリ。一年の上半期を締めくくる宝塚記念と年末のお祭りみたいな有マ記念。ファンファーレだって特別。その二つのレースは、人気投票で上位に食い込まないと出走できない。そんなレースに出れるなんて、素敵なこと。私も、一度は出てみたい。でも、ブラン先輩は浮かない顔をしている。笑っているのか悲しいのか分からない、そんな表情だ。……ここ最近勝てていないから、かもしれない。先輩が最後に勝ったのは、札幌日経オープンだ。あれからそろそろ、一年が経とうとしている。先輩の少ししょげた耳を見ながら、ネムと見つめあう。少なくとも、この場では、私たちが先輩に掛ける言葉なんて無いのだと思う。特に、私は。負けたことのない私は。
そんな私たちの間柄なんて知らないと言わんばかりの勢いで、色んな子たちが合宿所に入ってくる。慌てて階段を上がる途中で、あるウマ娘と目が合ったような、気がした。気のせいかもしれない。でもなんだかこちらを確実に見ていたような気がしたのだ。ペルシカリア。薔薇の一族のその末裔で最先端。ティンクトリアの姉。ターフの妖精と謳われるほどの容姿と、その実力。昨年のティアラ路線を賑わせ、ヴィクトリアマイルを制した、女王。そのウマ娘と、目が合った。きっと私が、この先ティアラ路線を歩むとしたのなら、避けることができない女王同士のレース。その、終着点に居るウマ娘。左側に掛けた一房の前髪を整えながら、こちらを見ている。薄い藤色の瞳が、こちらを見ている。
不思議と、プレッシャーは感じなかった。妖精みたいなウマ娘だな、と思った。線が細くて色素が薄くて繊細で美しい。透けるような羽が生えていても不思議じゃないな、と思った。あと、夏の似合わないウマ娘だ、とも思った。トレーナーちゃんの声が聞こえた。私たちを呼んでいるみたい。視線を逸らしてしまえば、数秒間の邂逅は終わる。見つめあうのもなんだか違う気がして、視線を動かす。あっちも、既にこちらには興味がないみたい。会釈も何もない初対面。たぶん、この先一緒に走ることがあるのだから、その時に聞けばいい。ウマ娘なら、ターフで走ってる時の方が、よく分かり合えるのだから。
♦
走るのが好き。ひとりでひたすらに走るのも、レースで隣のコの様子を伺いながら走るのも、両方好き。息を整えて、一歩踏み出して、そうしたらそのまま勢いに任せるだけ。周りの風景が歪んで、後ろに流れていっていなくなる。顔に当たる風が鋭くなって、ちょっと痛い。前髪がバサバサと乱れる。少し前に倒した上半身でバランスが崩れる。そのまま倒れ込まないように、踏み出した脚とは逆の脚を出す。なんだか焦ってるみたいにもなる感覚。ふかふかの芝を蹴り上げて、逆の脚に力を込める。そしてまた重心が移動して、逆の脚。地面を踏みしめる感触が、足の裏から伝わってくる。焦るようにそれを繰り返す。でも全然いやなことはなくって、夢中になってしまう。ふと顔を上げてみれば、前に進む景色が変わる。ただひたすらにそれを繰り返しているだけ、それが、何よりも楽しい。もしかしたら、ゴール板なんていらないのかもしれない。いや、ゴール板が無いとずっと走ってしまうから、やっぱりだめ。ゴールはあった方がいい。
「……二分十八、うん、いいね、いい感じだ。」
ぴ、と乾いた音がして、ストップウォッチのボタンが押される。二〇〇〇メートルで砂浜を走ってるとしては悪くないタイムだ。あくまでも練習だから、負荷をかけ過ぎない程度の調整としては、うん、十分なタイムだと思う。夏の時点でこの状態なら、悪くは無いはず。そんなことを考えながら息を整えていれば、トレーナーちゃんからタオルとドリンクを渡される。つめたいものが手のひらに当たって、なんだかきもちいい。顔の汗を拭いて、首の後ろにペットボトルを当てれば、体全体の温度が下がっていくような気がした。ちょっとしてから蓋を開けて、流し込む。キンキンに冷やされたドリンクは乾いた喉にはご褒美みたい。ぷは、と息を吐いて、じりじりと肌を焼く太陽から逃げるように、テントの日陰に入る。
「紫苑ステークスに出るコ、もう全員揃った?」
ポチポチとタブレットを触るトレーナーちゃんに声を掛ける。一応、次出るレースの話は聞いておきたい。紫苑ステークス。ティアラ三冠の終着点秋華賞に挑むためのトライアルレース。中山レース場の二〇〇〇メートル右回り。本番に限りなく近い条件での前哨戦。優先出走権が取れるのもあって、有力なティアラ路線のコが集まるレース。ここを走らなくても秋華賞には出走できる。オークスからの直行も考えた。でも、この夏合宿でどれくらい鍛えられたかを見るいい機会だし、それに夏の上りウマ娘、という言葉もある。春ではあまり結果を出せなかったけれど、夏でしっかり鍛えて一気に実力が付くタイプのウマ娘。どんな走りをするのか、気になるじゃない。
「うう~ん、まだ完全には出そろってない。出走表明をしてる子もいるけど、確定ではないかな、抽選もあるし。」
「そっか。」
素っ気ない返事をしてしまったけど、とっても楽しみだ。次のレースが早く来ないかと思って、瞼を閉じる。色んなレースを走ってきた。メイクデビューに勝ち上がり戦、阪神ジュベナイルフィリーズ、オークス。そして桜花賞。やっぱり、一番楽しかったのは桜花賞。この先も一生忘れられないレースになると思う。負けるかも、なんて思うレースは後にも先にも、きっとこれだけ。たぶん、今のところ、だけど。楽しく走れればいい。そう思って走ってる。走るのは楽しいし。だから、負けたくないって思ったことも、無い。だから、負けても楽しいと、おもう。思ってた。から、あの時、負けるのは怖くて恐ろしいことだって、初めて感じた。必死に走る他のコたちの気持ちが、ほんの少しだけ分かった。同じ気分になりたいわけじゃない。でも、もう一度、あんなレースがしたいと思ってる。怖い、怖い。負けてしまうかもと感じるのは、怖い。でも同時に、なんだか楽しい。わくわく、ともちょっと違う。心臓がバクバクいって、本当に心が躍ってるみたいになる。前だけ見ていたはずの視界に、影が映り込んでくる。流れる景色に黒が差し込まれる。楽しいだけだった世界に暗闇が飛び込んでくる。こんなの楽しくない、嬉しくないと思うのに、心はドキドキする。いつもより脈が跳ねて、脚が回る。のんびり走ってたはずなのに、いつの間にか周りの風景が見えないくらいの速さに達している。たのしい、たのしい、最高! って、心の中の私が叫んでいる。最高のレース。最高の走り。私はそんなレースに一度しか出会えていない。
「次はマルのタイム測定だから、ルーナは一回休憩です。」
「は~い。みんなのタイム測定終わったら並走?」
「そうだね、併せウマで行こう。並走相手は、誰でもいいな、模擬レースじゃないし。ブランは、ああ、今調整にランニングに出てるか。どうしようかな、」
「じゃあ休憩がてら誰か探してくるよ、きっと誰か暇してるだろうし!」
ペットボトルの残りをグイっと飲み干してから、大きく伸びをする。砂浜では多くのウマ娘がそれぞれの練習を頑張っている。その隙間を縫うように歩く。パワーを強化する子、スピード育成をする子、スタミナの為に長い時間走る子。十人十色だ。この夏合宿でどうにか結果を出さなければと思って、必死になってる子も多い。そんなコたちを見ると、なんだか遠い世界の住人みたいな気がしてくる。私は、そういう感じじゃないから。口にしたら、凄い怒られそうだけど。楽しく走れたら、それでいい。G1レースとか、そういうのはあんまり。トレーナーのためにとか、一族のために走るってウマ娘も居るけど、あんまり分からない。そういうのは、無いから。だから、ああやって必死に走るのも、よくわからない。良いと思う、でも、分からない。
ぽーっとしながら歩いていれば、見知ったチームが併せウマを始めるところだった。チーム「アルルバ」、名門チームで有名。それ以上は、何とも言えないけど。ピッ、っとホイッスルの短い音がした後に、凄い勢いで三人のウマ娘が駆け抜けていく。砂埃が上がって、思わず腕で顔を覆う。早い。ゲートが開いた瞬間に飛び出るスタートダッシュを決めるのは、位置取りを有利にするために必要不可欠。早くしないと、最高の位置が取れなくなる。先行と差しを選択するなら尚更。
「はやい、」
その中でも群を抜いて早いコが、一人。明るいオレンジ色のおさげが揺れる後ろ姿の、ウマ娘。
「女王様が偵察かい?」
背後からの声に驚いて、振りむく。立っていたのは老齢の女の人だった。知っている。トレーナーやその周りの関係に詳しくない私でも知っている。三笠トレーナー。歴戦のウマ娘たちを輩出したチーム「アルルバ」最後のトレーナー。
「あ、えっと、偵察とか、そんなんじゃなくて、ちょっと並走相手を探してて……」
突然のエンカウントに、少し驚いてしまう。声を掛けられるとは思ってもいなかった。おどおどして、どう返事をしていいのか分からない。でも隠すようなことはないから、そのまま正直に話す。
「へぇそうかい! じゃあちょうどいい、ウチのと走りな。」
「え、」
「ウチのもそろそろ並走しなきゃいかんでなぁ。付き合ってくれんか、秋華賞を目指しとるウマ娘だ。稽古つけてやってくれ。」
「秋華賞……」
「アンタの、ライバルになるウマ娘さ。……アフサーナ!」
ライバル。ライバルってなんだろう。私のライバルって。私がうだうだと考えている間に、三笠トレーナーは並走のお相手を呼んでいた。一緒に走るのは、全然大丈夫。大歓迎で楽しいぐらいだけれど、なんだかライバルという言葉だけが、引っかかる。だって、私のライバルだっていうなら、それは。
「何、トレーナー。次は並走でしょ。」
「紹介しよう、ベルベットルーナさんだ、アンタの並走相手だ。」
「ど、どうも……」
「……はァ?」
どうしていいか分からなかったから、とりあえず挨拶をしておく。アフサーナと呼ばれたウマ娘は、怪訝そうな顔でトレーナーを睨んでいる。というより、不機嫌にぷりぷりと怒っている、って感じかも。私が紹介された途端に、目が見開かれていく。信じられない、って感じの表情。そして元よりも、さらに険しい目つきになる。……そんなに変な顔をしてるかな、私。
「このウマ娘するの、この後の並走。」
「そうだ。いいだろう、視察を特等席で出来るんだ。全部盗んで来い。」
「そうだけど……」
「不満か。」
「……」
こちらをちらり、と見ている。アフサーナ、と呼ばれたウマ娘。普通のウマ娘よりも、低い位置に見える瞳。たぶん、結構小柄な子だ。脚も頑丈そうには見えない。ひょろっとしていて、どんな走りをするのか想像がつかない。でも、こちらを見る視線は強い。
「いい、やる。練習だからって負けたりしないから。」
「よおし、それじゃあ十分の休憩、その後あっちの芝コースに集合、十五分後には開始。それでいいかい?」
「あ、はい、大丈夫です」
「じゃあそれで、あんたのトレーナーにも伝えておいておくれ。ええと、何だっけか、」
「チームミラ、宮坂トレーナーです。」
「……嗚呼、宮坂のところの息子か。こっちからも一応連絡を入れておくさね。」
「わ、かりました、よろしくお願いします。」
「おう、他に並走したいやつが居たら連れてきな、こっちからも一人行くかもしれないから。」
「は、はい。」
トントン拍子に決まる今後の予定に、少し戸惑う。すぐに決まったのはいいんだけど。とりあえず。三笠トレーナーが、今は中々見なくなったガラケーでどこかに電話をかけているのが見えたから、トレーナーちゃんにはメッセージを送っておこう。そうしたら見てくれるだろうし。ジャージのポケットに入れておいたスマホを取り出して、トレーナーちゃんとの会話記録を呼び出す。
「並走相手が見つかりました、十五分後に芝コースです、っと……」
送ったらすぐに既読とスタンプが返ってきた。特に指定も無いし、そのまま芝のコースに向かえばいっか。そう思って、そのまま砂浜を後にした。
芝コースは海辺じゃなくて、合宿所の近くにある。土地柄もあって、この辺はウマ娘合宿のために環境が整えられている。徒歩十分圏内に大体の練習施設はあるし、ちょっと歩けばコースだってある。初めて来た日は興奮しながら、ネムといろんなところを見て回った。砂浜を抜け出して、コンクリートで出来た階段を上がる。そこから海岸線が綺麗に見える道を数分歩いて、横道にちょっとだけ逸れればいい。視界がパッと開けたと思うと、夏らしい青い芝のコースが広がっている。中央レース場と比べるとちょっと狭いけど、合宿中の模擬レースぐらいなら十分すぎる広さのターフ。勿論、ダートコースもウッドチップのコースもある。今も、結構な人数のウマ娘が練習に励んでいる。辺りを見回してもトレーナーちゃんはまだ来ていない。当然、アルルバの子たちも来ていない。私が一番乗りだ。約束の時間までまだちょっとある。柔軟運動をしておけばいいだろう。そう思ってポケットに手を突っ込む。その拍子に空のペットボトルがカラカラと音を立てて落ちる。あ、そうだ。飲み切っちゃったんだ。忘れてた。水分補給は大切。練習中休憩中に限らない。走る前には水分を取りすぎないほうがいいとか言われたりもするけど、この暑さならしょうがない。倒れる方がいやだ。自販機のスポーツドリンクのボタンを押そうとして、迷って、水にする。安いし、カロリーも無い。減量してるわけじゃないけど、体重管理も実力のうち。心掛けるくらいはしておかないと。がこん、と大きな音を立てて落ちてきたミネラルウォーターを、手に取る。ああ、本当にあつい。ちょっと外にいるだけで、汗がだばだば流れてくる。まだ午前中だからいいけれど、この後はもっと暑くなる。今のうちにウォーミングアップを終えておかないと、夕方まで練習できなくなっちゃう。体育館とかジムもあるけど、やっぱり走らないと合宿の意味はない。……そんなに必死に練習する意味なんて、私にはあんまり分からないんだけど。
少し下に向いた視線を、わざと上にあげる。空の一番上で輝く太陽が、私たちのことを見下ろしていた。眩しくて、思わず目をつぶる。それでも、まだ眩しかった。
「お~いルーナ」
「……トレーナーちゃんだ。」
声の元を辿るみたいにして視線を動かせば、見知った人たちが近寄ってきているのが分かった
「お疲れ、クールダウンはした?」
「うん、バッチリ。」
「よっし、じゃあ柔軟運動するか。」
「そういわれると思ってしてま~す」
手首をこきこきと鳴らして見せる。柔軟運動をサボると怪我に繋がる。怪我は嫌だ。走れなくなるから。ウマ娘にとっての怪我は、間違いなく死活問題で、走り続けるなら一緒に考えなきゃいけないもの。私はあんまり怪我をしないから良かったけど、脚が弱かったり内臓が悪かったりすると、全然レースに出れずにそのまま引退、なんてこともあり得る。確か、うちの寮長はそのタイプだ。大柄な体に対して足が弱すぎて、三戦三勝、そのままドリームトロフィーにも参加せず引退。未完の大器、なんて呼ばれていたっけ。
「並走はルーナと、あっちチームのアフサーナ、後は誰か来るかも、って感じか。」
「万が一来なかったらわたしが走るよ。」
トレーナーちゃんの後ろからひょっこりと顔を出したのは、ネムだ。
「あ、ネム来てたんだ。」
「うん、見学がてら。この後並走しなきゃいけないし。」
「全員で走ってもいいかもなぁ、三笠トレーナー次第だ。」
トレーナーちゃんが手持ちの端末を日よけにするように持って、どこか遠くを眺めている。追いかけるみたいにしてそちらを見れば、ちょうどチーム「アルルバ」の面々がコースに降りてくるところだった。三笠トレーナーにアフサーナ、その隣に居るのは誰だろう。でも、どこかで見たことがあるような。トレーナーちゃんがそちらに移動し始めたので、付いていく。
「三笠トレーナー、今日はよろしくお願いします。」
「はいよろしく。お父上は元気かい。」
「はい、相変わらず新聞とテレビを占拠してウマ娘の番組ばかり見ていると聞いています。」
「アッハハ! 本当に相変わらずだねぇ! まあいいさ、他に走るやつはいるかい、コイツも一緒にと思っているがね。」
コイツ、と引っ張り出されてきたのは、ライトイレクトだ。昨年の最優秀ジュニアウマ娘に選出され、今年の皐月賞ウマ娘で、ダービーはソレイユに鼻差の二着。あのソレイユに、一番近付いたウマ娘だ。少し疲れているみたい。だけれど、じっとこっちを見る視線は、やっぱりG1ウマ娘って感じがして、少しドキドキする。
「……ライトイレクトです、よろしくお願いいたします。」
「ライトさん、でいいのかな、皐月賞の走り最高でしたね! 今日はよろしくお願いします。」
「……」
「じゃあ、とりあえずは三人でやりましょうか。ネムは次で大丈夫?」
「うん、ブラン先輩もいるし。」
「よおし、じゃあ少し打ち合わせだ。アンタらは準備運動してな。アフサーナ、アンタは特に念入りにするんだよ!」
「わかってる!」
釘を刺された本人は、吠えるように言い放ってからフン、と鼻を鳴らして準備運動を始めている。なんだか、トレーナーとウマ娘、というよりも親子みたいで、ニコニコしてしまう。私が笑っているのが伝わったのか、鋭い声が飛んでくる。さっきの三笠トレーナーにそっくりの唐突具合だった。
「ベルベットルーナ、よね。」
「ぅえ?! そ、うだよ、です? 私はベルベットルーナ。」
「あたしはアフサーナ。秋華賞を目標にしてる。」
「……じゃあ、レース、一緒に走るんだね。」
「そういうことになる。」
オレンジ色の三つ編みが二つ、左右に揺れている。念入りな柔軟運動からは、身体能力の高さが伺える。ああ、この子は多分強いのだろう。この後の並走で分かることだけれど。
「秋華賞を勝つのはあたしだから。あんたじゃない、あたしが勝つの。」
丸い飾りのついた髪飾りが揺れている。アフサーナ、熱砂の物語を冠するウマ娘。その上を遡っていけば、同じく熱砂の物語を持つ者と、魔女がいる。間違いなく、良血のウマ娘。そしてトレーナーは、秋華賞だけを持ちえない。タイムリミットが迫っている。彼女自身が、最後の願いで希望。この子の背中には、色んなものが背負いこまれている。そんなに重いものをいっぱい背負ったら、はやく走れないと思うのに。
「……あんた、思ったより強くないわ。」
並走の練習が終わった途端に投げられた言葉。思わず、全身の動きが止まってしまう。
「ぅえ?」
併せウマが終わった。三人で追って、最内を私が、真ん中をアフサーナ、一番外をライトイレクト。内側の私からスタートして、階段状になったところをバ群の真ん中から抜け出して差し切る練習。ライトイレクトは、あくまでもペースメーカーとして一定の速さを保って走ってくれたから、とても走りやすかった。そしてアフサーナ、彼女は本当にスタートが上手い。合図が出た瞬間に勢いよく飛び出してくる。私もスタートは下手じゃないと思っていたけど、それ以上だった。道中も仕掛けどころまではしっかりこちらをマークして圧をかけてくるし、最後の直線でこちらが抜け出すためにスパートを掛けたら、ちゃんとくらいついてくる。結局縺れるようにゴールしたけど、どっちが勝ったかは分からない。練習だから、勝敗は関係ないんだけど。
そんな相手に、驚くような言葉を投げかけられた。別に褒めて欲しいわけじゃないし、楽しく走れたから、全然いいんだけど。寝耳に水、って感じだった。首筋に流れる汗が、冷汗に変わっていく気がした。誤魔化すみたいに、タオルで拭き取った。
「えっと、ごめん、ね?」
「……あんたは何のために走ってるの。」
「え、」
なんか、読めない子だ。ウマ娘は個性派ぞろいだけど、その中でも何を考えてるのか分からない。先の読めない子だと思う。
「なんで。」
「ええ、ええと、う~ん、た、楽しいから……」
「……」
「走るのって、楽しいじゃ、ない?」
様子を伺うように、探り探りで、言葉を選んで会話をする。ほぼ初対面の相手に、なんでこんなことになってるんだろう、てのは考えないことにしている。それに、私には、そういうのは、無い。背負うものは、あんまりない。超良血って家系でもないし、至って普通の親だし、トレーナーも新人だし。正直、一生懸命に走る意味も分からない。なんていうべきか分からなくて、なんだか歯切れの悪い言葉しか出てこない。頬をポリポリと掻く。彼女の黄色い瞳がこちらを見てから、逸らされる。
「なんだ、女王だって言われてるけどそうでもないじゃない。拍子抜けだわ。」
「あ~、あはは、まぁ、女王って勝手に呼ばれてるだけだし……」
何の強さもない答えしか返せない。だって、本当のことだから。私には、そういうのは、何も。
「そうじゃないんだけど。フン、いいわ、結構。アンタがそんな腑抜けなら、秋華賞は間違いなくあたしのもの。」
「……」
宣戦布告、かも。そう思った。
「その目で見てなさい。このあたしが、魔法みたいに夢みたいに、まるで御伽噺みたいに、月を盗んでやるわ。」
こちらをまっすぐじっと睨みつけてくる視線は、貫かれるんじゃないかと思うほどに強烈。夜の暗闇さえ引き裂ける、ほうき星みたい。このコが、秋華賞に来る。私は、このコと走る。ライバル候補、私の。本当に、私のライバルに、なれるのか。このコが。私に、負けを突き付けるのか。このコが。
「覚悟して。無敗のトリプルティアラなんて取らせないから。」
走りを、見るしかない。秋華賞本番の走りを。一緒に走るしかない、G1レースの大舞台で。どんなに信じていても、願っていても、ターフの上では早い方が強い。先にゴールしたウマ娘が勝ち。単純で、最高に楽しいルール。私たちの間を縛るのは、それだけ。そして、それがいちばん楽しい。
「次はどのレースに出るの?」
「……ローズステークス。」
「じゃあ、一緒に走るのは秋華賞本番ってことだね。」
「そうよ。トライアルレースをきっちり勝って、本番も勝つから。」
さっき三笠トレーナーが言った言葉を、口の中で音にはしないで呟いてみる。アンタの、ライバルになるウマ娘さ。ライバル。ライバルってなんだろう。わからない。そんなの。このコに、ソレイユを超えるくらいの走りができるのか、分からない。でも、今の私が言えるのは。これだけだ。
「楽しいレースにしようね。」
「……勝つわ、あたしが。」
とびっきり、楽しいレースに。このコが、魔法みたいに夢みたいに、まるで御伽噺みたいに、まるで月を盗むみたいに勝って見せるというなら。私は、一番上で堂々と走り切って見せるしかない。魔法も追いつかない御伽噺に。月とする追いかけっこが楽しいってことを、分かってもらえるぐらい、楽しいレースに。
♦
例年よりも観客の多い京都レース場。その二階から、ターフを見下ろすように立つ。一階はもう隙間が無いくらいギチギチに観客が詰まっている。それを見てげんなりする。ほんの十数人のバ群でさえ嫌だというのに、あの中でレースを見物するなんてまっぴらごめんだ。それに、あんな思いをしてまで見に来る理由が分からない。どうせ、今日も面白くないレースになるに決まっているのだ。
「偵察にしちゃあ熱心に眺めるねぇ。」
「……別に。」
声の主はいつも通り軽薄で呑気そうだ。ブロンドのロングヘアーを乱雑に纏めた女。僕の担当トレーナーだ。どうせ担当ウマ娘のレースを見るより、レース場名物のもつ煮を啜るのに忙しい。そういう女だ。ちらりと横目で確認してみれば、案の定何かを食べている。たぶんスジ煮込みだ、あれは。匂い的にそう。十中八九そう。
「ユーの分も買ってあるよ。」
「さすがはトレーナー! 僕の担当なだけある! 最高!」
パッと手のひらを返して、彼女の左手にあるレジ袋をうやうやしく受け取る。僕の食い意地が尋常じゃないのは把握しているから、毎回食料は大体多めに買ってきてくれる。有難い限りだ。ポケットマネーだからもう最高である。夏合宿で体重はしっかり適性にしてあるし、どうせこの間の神戸新聞杯でまた減った。ここでどれだけ食べたとて、障害には成り得ない。何の問題もない。少々行儀が悪いが、立ったまま紙のカップを持って、口で割りばしを咥えて割る。右手に箸を持って、まだ湯気が立っているスジ煮込みを、口に運ぶ。美味い。関東では食べれない関西の味噌の味と、レース場特有の絶妙にジャンクな味がする。両方が上手いこと合わさって、とても美味しい。わざわざ京都まで来た甲斐があるというものだ。
「座って食べなさいよ。」
もしゃもしゃとスジ煮を頬張っていれば、背後から声を掛けられる。くるりと振り返って手すりを背もたれにして席に目をやると、トレーナーの隣に同じチームの先輩が座っていた。手にはカレーパン。珍しい。先輩が揚げた炭水化物を食べるなんて。揚げたてサックサクで美味しそうだ。一区切りついたら自分で買いに行くか。ああでも、このレースを見終わったら売店は大体閉まってしまうしなぁ。悩ましい。
「ティンク先輩、わざわざ僕の都合についてこなくても良かったんですよ。再来週でしょ、天秋。」
「別に。口の減らない後輩が見たいレースがどんなものか確認したいだけよ。……ンっふ、」
カレーパンをかじる。熱かったみたいでハフハフと口元でパンを持て余している。自慢の御髪にカレーが付かないように必死に食べているみたい。少し冷ませばいいのに、と思ったけど口にはしないことにする。
「そうですか。面白くないと思いますよ。」
「どうして。ローズステークスからくる子も中々だと思うけど。」
「ああ、あの子。いやぁ、どうでしょうかね。どう思う、トレーナーは。」
「ワタシ? う~ん、まぁあの女王様が勝つんだろうねえ。」
同じ意見が返ってくる。僕たちはウマ娘だ。尻尾と耳、そしてこの脚を持つ。前を見て、光に憧れて、風を追い越すために走る存在。走るために生まれてきたと言ったって過言じゃない。そういう体に生まれたのだから。だから、一緒に走った奴の強さは、忘れやしない。
「完成度が違う。」
マシンスペック、というべきだろうか。やはり、性能差というものはある。同じウマ娘だったとしても。それが適性距離だとか脚質に出るんだったらまだいいが、純粋に走りの結果に出てくると、話が変わってくる。それが、女王と呼ばれる彼女の強さだ。完成度が、違いすぎる。早熟と呼ばれる類のものとも、また違う。クラッシック戦線にあの完成度のウマ娘が現れるとは思わなかった、そう呟くトレーナーを何人も見た。実際に走ってみて理解した。彼女はセンスで走っている。第六感、虫の知らせ、その類の。それであの走りが、王道の走りができるのは、やはり他と一線を画している、としか言いようがない。当の本人に自覚は無いようだけど。だから、今年の秋華賞は面白くないレースになる。一番人気がそのまま勝って、無敗のトリプルティアラが誕生する。デアリングタクト先輩に続いてURA史上二人目の、偉業が成される。何の捻りも無い、当然の結果が待っているに違いないのだ。
「でも、レースに『もしも』と『絶対』は無いのよ。」
「それをやってのけると思われるから女王なんですよ、あいつは。」
「……」
残りのスジ煮を口いっぱいに頬張って、モゴモゴとしながらターフに向き直る。十月中頃、クラッシックティアラ路線の終着点。無敗で桜花賞オークスを制し、前哨戦も王道の走りで完勝。距離も脚にも不安はなく、完全な一強ムード。とはいえ、他のウマ娘が黙っちゃいない。ローズステークスは上位三着までがレコードタイムの超高速決着。紫苑ステークスも果敢に食い下がって半バ身差でゴール。負けちゃいない、負けちゃいない、が。戴冠か、それとも。
ターフでは本バ場入場が始まっていた。少しずつ、レース場の空気がじりじりと尖っていく。緊張というには些か弱い。聞きなれたファンファーレが、レース場に鳴り響く。
『京都十一レース、天気は晴れ、バ場状態は良の発表となりました秋華賞G1。二〇〇〇メートルでフルゲートとなりました。一枠一番、マジックギャザー。十一番人気。堅実派のウマ娘が虎視眈々と頂点を狙います、G1レース初出走の戴冠なるか。』
「調子悪そうだなあいつ……」
「あ~、あのこ、緊張に弱すぎるからねぇ、気負い過ぎるなとは言ったけど。」
「あ~……まぁ、自分らしい走りができればいいんじゃないかしらね……」
同じチームのウマ娘も走るが、話にもならない。あいつの本格化はもう少し先なのだろう。まぁ、このチームは別にクラッシックに重きを置いちゃいない。出れただけで十分なのだ、G1レースというものは。とはいえ、その程度の気持ちじゃ勝てるわけないであろうが。この大舞台に備えた勝負服が、緑のターフに咲いていく。ひとつ、ふたつ、みっつ。正面スタンド前に設置されたゲートに、収まっていく。そんな中で、ひと際大きな歓声が上がる。
『二枠四番一番人気、ベルベットルーナ! 二人目の無敗トリプルティアラが掛かります、女王としてその名を歴史に刻むことができるか。』
ワァァァと、割れんばかりの歓声が木霊している。建物自体が揺れてるんじゃないかと思うほどに。史上二人目、そして観客の前で達成される初めての無敗トリプルティアラ。その偉業は、想像以上に観客を喜ばせているみたいだ。何をそんなに、と思う。レースは、勝ち続けなければ意味がない。無敗で三冠をティアラを制したとて、次のレースで、来年のレースで、三年後のレースで、勝てるとは限らない。オーディエンスは残酷だ。歴史に名を刻んだとしても、忘れられていく。諸行無常。盛者必衰の理。春の夜の夢のみたいに。栄華な戦歴というものは、そういうものだ。勝ち続けなければならない。かつて名優と言われたウマ娘が居るように。クラッシックの路線関係なく、多く勝ち続けたウマ娘が居るように。長くながく永く走り続けたその先に、歴史と記録を変えるまで勝ちを積み重ねたウマ娘が居るように。僕たちは、過去を越えねばならない。今を走るウマ娘として。クラッシックの勝ちは、間違いなく栄誉だ。それもトリプルティアラで、さらに無敗となれば。でも、だとしても。そこで終わっていてはいけない。ベルベットルーナ。彼女にはそれができるのか。彼女は、一体どこまで走るつもりなのか。
『最後の、大外八枠十八番ネムマルヴェシアがゲートに、入って……さあ、全員がゲートに収まりました。秋華賞…………スタートです!』
肩で息をする。悲鳴のような大歓声が、耳に突き刺さる。空気を震えさせるぐらいの狂気が、このレース場をいっぱいにしている。
呆気ない。ビックリするぐらい呆気の無いレースだった。もう一回、大きく息を吸う。走った後特有の心臓の脈が落ち着いて、視線を上げる。ゆっくりと、観客席の方を眺める。大興奮、狂喜乱舞。今のレース場を表すなら、そんな感じだと思う。今日のメインレース秋華賞は、歴史に残る一幕としてゴールインをした。無敗のトリプルティアラが誕生した。私が勝ったから。会場のボルテージはMax。喜びの声、私を称える声、二着以下の子を励ます声。それらから離れていくかのように、私の胸は冷めていく。興奮冷めやらぬ脚とはうらはらに、どんどんどんどん、心の奥から温度が抜けていく。こんな、こんなレースが、クラッシック戦線の終着地点だって言うのだろうか。こんなレースが。
『見事に決めましたベルベットルーナ! 有無を言わせぬ走りで他のウマ娘を完封! 強く逞しく、美しい! 名実共に見事な女王が、今誕生しました!』
本気で走った。手なんて抜いてない。どのレースでもそうだ。桜花賞は怖かった。焦りに身を任せるみたいな、かっこよくないめちゃくちゃな走りだった。でも、一番走った後に楽しいと思えた。オークスはギリギリで、自分との闘いだった。動かない脚、今にも爆発しそうな心臓、後ろから迫ってくるいくつもの足音。視界が真っ赤に染まっちゃいそうな感覚。全部振り切っての一着。今日のレースは、何もなかった。怖さも焦りも悲しみも、楽しさだって。最初から最後まで、何にもなくて面白くない。緊張感のない、呆気ない淡白なレース。私のクラッシックが、ここで終わってしまう。一生に一度、出走するだけでも難しいと言われるクラッシック戦線のティアラのレースが。こんな、こんな終わり方で。少し、足元がおぼつかない気がした、立ち眩みとか、低血圧とか、そんな感じ。
観客は、呆然としている私を、別の意味で見ている。たぶん。こんなにすっからかんの伽藍洞の私を、観客は見てない。私はこんなに満たされていないのに。それでも。——私は無敗のトリプルティアラウマ娘だ。まだ一度も負けを知らない、前を走り続けたウマ娘。私以外から見た私は、それでしかない。覚悟を決めて、大きく息を吸う。そして、なんだかわからない覚悟を決めてから、左手を思いっきり振り上げる。満面の笑みで、この結果に満足しきっているように。このレースが最高だったと思えるように。下がっていたオーディエンスのテンションが、再び最高潮になる。ぐわんぐわんと反響するぐらいの超大歓声。そろそろ新月だ。私は今日初めて、観客席に嘘を付いた。
イヤモニを取り外して机に置く。今回のライブも無事に終えることができて良かった。ホッとした。今日はいつもよりアンコールが多かったから、いつにも増して汗だくになった。身体も重い。両肩両足にずっしりと疲労感が圧し掛かってくる。控室に置かれた差し入れのクッキーをひとつ、口の中に放り込む。ほろほろ系のクッキーが解けて、口内の水分を奪っていく。やらかした、慌てて隣に置かれたスポーツドリンクで口を潤す。口の中が甘くて仕方ない。甘ったるいのが広がって、ベタベタしている気がする。身体も汗でべたついている。このまま何も考えず、疲れに身を任せて、泥のように眠ってしまえたらなぁと思う。そうはいかないんだけど。
はっきりしたノックの音が聞こえる。どうぞ、と言えばトレーナーちゃんが入ってくる。いつもしっかり着込んでいるスーツが、しわくちゃになっている。たぶん、ウイニングライブの時に客席でもみくちゃになったんだと思う。
「ルーナ! お疲れ様、おめでとう。」
「……ありがとうトレーナーちゃん。さっきも言ってくれたじゃない。」
ライブが終わっても、なんだか胸のつっかえが取れなくて、中途半端な笑顔を浮かべることしかできない。本当なら、喜びでいっぱい! みたいなリアクションができるはずなのに。その、予定だったのに。
「……ルーナ?」
トレーナーちゃんの声を聞いて、バッ勢いよく顔を上げる。こちらを覗き込むように、様子を伺ってくる。眉毛をほんの少し下げて不安げな表情。
「体調悪い? 痛いところあったりする? 暑かったし、大丈夫? ちょっとでも異変があったら、」
「だ、大丈夫! ちょっと、疲れちゃっただけだから。……あと、まだ実感がわかなくて。」
「トリプルティアラの?」
「……うん。」
「そっ、か。あっという間だったもんね、秋華賞。」
ウマ娘が二〇〇〇メートルを走るのに必要な時間は、約二分。今までの練習の成果を出し切るのに必要な時間は、たったの二分。一瞬って言っていいぐらいの全力勝負。私たちは、そこに全てを賭けている。そうだって、いうのに。強張っていた体から力を抜くように、長く息を吐く。脱力感と一緒に、瞼を下ろす。パイプ椅子に全身を預けて俯く。もう、土も芝も何も付いてない、きれいな靴が目に入る。私が走った、走りたかった秋華賞は、何処にあったんだろう。
「つかれた。疲れちゃった、けど、走り足りない。」
全然、走り足りない。全然満足してない。もっと、楽しく走りたかった。
「流石だなぁ。もう次のレースのこと考えてるんだ。じゃあ、次走について、話し合おっか。」
「……うん。」
ポケットからスマホを出して、今シーズンで走れるレースを調べ始めるトレーナーちゃんを横目で見ながら、小さくため息をつく。全然流石なんかじゃない。勤勉さとか、真面目とか、よく言われるけど、そんなんじゃない。ただ、私は楽しく走りたいだけなんだ。
ぴかぴかと光るスマホの画面を眺める。秋華賞が終わった今、私が走れるレースはシニア級と同じものになる。先にレースを走っていた先輩たちとのレース。既に今シーズンは二戦しているし、わざわざ前哨戦を挟む必要もない。たぶん、G1レースから選ぶことになると思う。シニア級のG1レース。どんなメンバーで、どんな走りが見られるんだろう。いつもの私なら、目を輝かせていたと思うのに、今日はなんだかそんな気分になれなくて。でも、ここで放っておいたら、ずっと選べなくなる気がして、膝を抱えながら小さな画面を覗き込んだ。
出れそうなレースは、エリザベス女王杯、ジャパンカップ、マイルチャンピオンシップ、有マ記念の四つ。トリプルティアラを取ったウマ娘たちは、大体、ほとんどジャパンカップに向かう。真の女王を決めるエリザベス女王杯ではなく、三冠路線もシニア級も世界のウマ娘も集まるジャパンカップに出走することが多い。そしてほとんど好成績を残してくる。だから
「俺は、ジャパンカップがいいと思う。」
「……」
やっぱり。
ジャパンカップ。左回りの二四〇〇メートル、東京レース場で行われる国際レース。百戦錬磨の先輩方と正面切ってぶつかるレースになる。走れるかと言われれば、走れる。走り切る自信はある。勝ち負けに食い込む自信だってある。先輩だから、三冠路線だから、と弱気になるつもりは無い。緊張はするだろうけど。負けるために出走してるわけじゃないから。でも、だからって走りたいか、と言われれば、それは違う。それでもいい、構わないけど。でも、それがいいと思えない。どのレースに出ていいのか、イマイチよくわからない。クラッシック級ではなくなってしまったから、もう、出るレースさえ自由だ。
「……ソレイユは、どこで走るんだろう。」
口をついて、とあるウマ娘の名前が出てくる。あの子は、次はどこにいくんだろう。
「ソレイユって、コペルニクスの、ブラウソレイユ?」
「うん、そう。今年のダービーウマ娘の。」
骨ばった手がスマホの液晶画面をこつこつと叩いて、滑る。ソレイユの次走は、来週行われる菊花賞だ。結局、秋華賞で一緒に走ることはできなかったけど、来週は、京都レース場であの子が勝つ。前哨戦の神戸新聞杯を六バ身差で圧勝、後ろの子たちをタイムアップギリギリにするくらいの圧倒的な走りだった。本番前だけど完全に一強ムードが漂っている。
「う~ん、菊花賞より後の予定は発表されてないみたいだ。」
「そうだよね。」
あの子がジャパンカップに出るというのなら、私だって出たい。楽しいレースになるのが決まっているようなものだから。
「ルーナは、どのレースがいい? どんなレースに出たい?」
「……」
じっとスマホの画面を眺めながら考え込む。どんな、レース。そんなの、決まってる。楽しいレースににたい。楽しく走りたい。心が躍ってうずうずして、ずっと走っていたいのに、ゴールがすぐそこまで迫っているような、そんなレースを走りたい。今日みたいな、つまらないのじゃなくて。
何も言わない私に痺れを切らしたのか、トレーナーちゃんがジャパンカップではないレースのデータを見せてくる。
「あとは、エリザベス女王杯、かな。ペルシカリアが出走を決めている。」
「エリザベス女王杯……」
春のヴィクトリアマイルと秋のエリザベス女王杯。ティアラ路線の更にその先、強いだけじゃない、優雅で華麗で艶やかな、真の女王を決めるレース。そこに出走を決めているのがペルシカリア。チーム「アルキオーネ」所属の妖精さんみたいなウマ娘。そういえば、夏合宿の時に見かけたのを思い出した。雰囲気のあるウマ娘だった。
「レース場は京都と東京。両方走った事があるし、エリザベス女王杯は二二〇〇でジャパンカップは二四〇〇。距離もまぁ心配ないと思う。……ペルシカリアは、マイル中距離までは間違いなく強い。この間の宝塚記念、見たよね。」
ひとつ頷く。夏前の宝塚記念では、王道のレース運びで四着だった。上位のウマ娘が完璧なレースをしたというのもあるが、十分に強いウマ娘であることは分かる。オークスは取り逃しているがトリプルティアラを取れると期待されていた過去もある。
「基本的には先行の王道な走りだけど、差しの脚も使える。強い相手だ。何より、」
「何より?」
「……新旧女王対決になる。」
「女王対決、かぁ。」
確かに。昨年から力を見せ続けている女王ペルシカリアと、トリプルティアラを取ってきた新たな女王ベルベットルーナ。私がエリザベス女王杯に出ると、そういう構図になる。そしてペルシカリアは、観客の為に走っていると言われるほど、人気が高い。ティアラ路線は出走するレースで全て一番人気。それ以外のレースでも、三番人気以下にはならない。誰よりも注目された、アイドルみたいなウマ娘。
きっと楽しいレースをさせてくれるんだろう、そう思う。それでも、やっぱり。もう一度目をつぶる。脳裏に響くのはあの時の重くて大きくて、何より怖い、蹄鉄が大地を蹴る、あの音。桜花賞、最終コーナー。緩やかなカーブを曲がって直線に向かうその前の長い坂。ドン、と大きな音がして、右後ろを一瞬だけ振り向いて、そのまま前に向く。一秒にもならないあの時間が、私をずっと何かに縛り付けている。
「トレーナーちゃん、」
「……」
「来週、来週まで待って。来週には決める。間に合う、よね。」
「間に合うよ、どっちだとしても大丈夫。」
タオルで顔を覆う。私の秋華賞は、こうして幕を閉じた。
♦
しっかりと、靴の紐を結ぶ。途中で解けたりすることが無いように。足裏に付けられた蹄鉄の確認も怠らない。走ってる間に落鉄なんて嫌だから。
「ッよし。」
「準備できたか、ライト。」
「できました。」
白髪の老婆が、杖をつきながらこちらに近寄ってくる。小さな控え室に居るのは、一人のトレーナーと一人のウマ娘だけだった。深い皺の刻まれた手が、自分の両肩に置かれる。優しいけれど、ずっしりと重みを感じた。
「悔いなく走って、戻ってきなさい。あんたは強い。自信をもって走ってきなさい。」
「はい、トレーナー。無事に、強いウマ娘として、かえってきます。」
目じりにも刻まれた皺が、ぎゅっと深くなる。二度、肩を叩かれる。チーム「アルルバ」のレース前ルーティンと言っていいものだ。老いたトレーナーからの最後の鼓舞を受け取って、ターフに向かう。薄暗い地下バ道から大歓声轟くターフに向かう。今日は、菊花賞だ。秋華賞はアフサーナが惜しくも二着だった。一着のベルベットルーナから一バ身半差の二着。惜しかったけど、確実に負けの二着。私たちは、結局三笠トレーナーの悲願を達成することはできなかった。菊花賞に、そんな重さはない。三笠トレーナーからしたら、かつての教え子が取ってくれたレースだし無事に戻って来るだけで喜んでくれるだろう。でも、私にとってはそうではない。菊花賞は、勝たねばならない。ダービーは取れなかった。無敗の皐月賞ウマ娘として挑んだダービーは、鼻の先を掠めて逃げていった。あの、ティアラ路線出身のウマ娘によって。ブラウソレイユ。あいつを、負かさなければいけない。何としてでも。ダービーの借りを返す時だ。無理はしたくない。トレーナーが悲しむ顔は見たくない。でも、どんなことをしてでも、菊花賞に勝ちたい。勝ちたいんだ。覚悟を決めて、緑のターフに出ていく。
大歓声が、私を包み込む。
『豪脚の皐月賞、無念のダービーを超えて、最後の冠に轟け、四番ライトイレクト!』
おおきく、おおきく、息を吸う。長くて、厳しいレースになるだろう。分かっている。……本当は向いていないレースなのも、分かっている。勝ちに行くなら、天皇賞・秋に向かった方が良かった。それでも、私には譲れないものがある。それは、この菊花賞にしかない。
『前例も常識も必要ない、偉業と異様の参戦となりました、今年のダービーウマ娘、堂々の一番人気、六番ブラウソレイユ。』
今日一番の大歓声。フードを被ったままの大きなマントを靡かせて、入場してくる。まるで他人には興味がないみたいな顔だ。誰にも聞こえないぐらいの舌打ちをする。でも、いい。あのウマ娘に勝つためだけに、私は鍛錬を積み重ねてきたのだから。
スタンドから一番遠い、バックストレッチからのスタート。未知の距離三〇〇〇メートル。何が起こるかなんて分からない。それでも、勝たねばならない。勝たねば、勝たねば。私が、一着で。先頭でゴール板を駆け抜けてみせる。胸のあたりを手のひらで二回、強く叩く。開かれたゲートに入る。もう少し、もう少しで始まる。何度も深呼吸を繰り返す。勝てる、勝てる。大丈夫。不安なことなど何もない。ガチャンガチャンと、ひとつずつゲートが閉じられる。
『ゲートイン完了、十七人、菊の栄光へ、今スタート!』
——脚が、重い。まだ、まだゴールは先だというのに。そろそろ二回目の坂に差し掛かるところ。後方に控えているけれど、まだ先がある。いつもの末脚が出せる気がしない。京都レース場を約一週半。こんなに、こんなに遠いのか。バ群の中、このコースに居る全員が自分と戦っている。ギリギリの消耗戦、目減りしていく体力、自分が走れなくなっていく感覚、もしかしたら勝てないかもという疑惑。これは、己とのレースだ。荒い呼吸を自覚したまま、機会を伺う。内ラチには一人、外側には三人。このまま内側から徐々に位置を上げていければ。
『第三コーナーに入ってあぁっと! 動いた動いたブラウソレイユ! 最後方から徐々に位置取りを上げています! 最後の坂を駆け上がりますこのまま喰らいつくか!』
レースが、動く。
外に出たい。レースの全容が確認したい。でも、上り坂が辛い。でもまだいける、限界ではない。バ群全体の回転が速くなる。後ろの焦りが手に取るように分かる。
『坂道登り切って先頭はドゥベスペクター、少し空いてバーバヤーガとクィンスメナデル、横にはニュートパーズ、そして来ていますブラウソレイユ、あっという間に五番手まで来ています、さぁ下り坂に入って後方勢が動き出すぞ!』
視界の端を、白いマントが横切っていく。私を、置いて。
負けられない、負けられない負けられない、負けられない。絶対に負けられない。誰かの為とかじゃない。あの時から、ダービーでほんのハナ差で交わされたあの時から、この気持ちを忘れたことなんてない。絶対に負けない。応援してくれてる観客とか、私のことを全力で後押ししてくれるトレーナーとか、まわりの為じゃない。私が負けたくない。誰よりも何よりも、私が、私自身が、このレースに負けたくない。勝ちたい。この日の為に努力した。今までにないぐらい、努力した。長距離を走れるようにフォームの研究も、早く脚を回せるように基礎練もこなした。いつもの何倍も苦しかった。それでも諦めるつもりなんて、ハナから無かった。絶対絶対勝つ。勝つ、負けない。幸運ではないかもしれないけど、速くて強いウマ娘という称号を手にする。私が。誰でもない、私が、私自身の為に。
長い長い道中を超えて、六回目のコーナーを回るその瞬間。左前方。見えた。微かな隙間。一人がどうにか通れるかどうかの隙間が、空いた。この私が、見逃すわけがなかった。約四〇〇メートルの直線に差し掛かるそれまでに、バ群を一瞬で抜け出して、そして前に居る全員を差し切る。最後の直線で、全員撫で切りにしてやる。いつもの私で、勝って見せる。二冠ウマ娘になるのは、この私だ。早鐘を打つ心臓を鼓舞する。地面を叩きつけるように、強く強く踏み込む。重心を左の前にして、そのままの勢いで一気に外に出る。
「っ!」
観客席の声援が、クリアになる。大外に、出た、ならばあとは、やることはひとつだけ。スパートをかけるために重心を前に前にかける。前に居る全員を。思いっきり振り上げた右腕の、右手のその先に、私の真ん前に、光り輝く後ろ姿があった。白い大判のマントをはためかせた後ろ姿。マントの内側に付いた星の装飾が、光っている。何度も何度も見返した、恨めしいほどに白い後ろ姿。ブラウソレイユ。ブラウソレイユが、バ群の先頭に居た。逃がさない。絶対に逃がすもんか。全員、全員全員全員全員、あんたも全員!
「あ、ああああ、あああああ!!!」
ラストスパート。脚は残してある。行ける、行けるんだ。私の持ち味と努力を全部出せば、届いて交わして、まっすぐに、躍り出て!
『先頭バーバヤーガ第四コーナーに入ってきたがその外からブラウソレイユ! 交わしてブラウソレイユ先頭! 追うようにマルティノヴィッチ! その後ろにはクィンスメナデル、ライトイレクト!』
前の白との距離がすこし縮まって、そして、揺らめく。特徴的なフォームが、さらに一段階下に落ちる。バランスを崩して転ぶんじゃないかと期待するほどに。次の瞬間、風を切る音がした気がして、一気に距離が開いた。たった一歩、踏み出した瞬間に。
『ブラウソレイユ! 先頭ブラウソレイユ加速していく! 全員交わしただけでは飽き足らず、どんどんどんどん差を広げていきます! 突き放す! バ群とは二バ身、三バ身、あっという間にリードを取る! 残りは二〇〇を切って先頭変わらずブラウソレイユ! 早い、速い、後続を置いてまだまだ伸びる! ここでやっと来たかライトイレクト! どうだ、届くか!』
届かない、届かない。それどころか、どんどん突き放される。離される。気を抜いてるとか、そんなんじゃない。これは、届かない。地面スレスレを飛ぶように走る後ろ姿を、どんどん小さくなる白い後ろ姿を、見ることしかできない。行けると思った距離が、残していると思った脚が。どんどん追い越されていく、回らなくなっていく。知らない、彼女があんな走りをするなんて。一歩一歩踏み出すたびにぎゅんぎゅんと加速していく。こっちの脚は、一歩ごとに重くなってるっていうのに。あんなのって、ない。目の前に大きい壁があった。適性距離という壁、スタミナの壁、そして何よりも、光り輝く太陽。秋晴れの柔らかい空気に似合わないぐらい、強烈な光。白く輝く、強くて強くて、前が見えないぐらいの光。悔しい、悔しい。でも、まだレースは終わっていない。最後まで足掻く。足掻いてみせる。諦めたりなんかしない。ひとつでも、一人でも追い抜かして、あいつに、あんたに近付いて。
負けが分かっているのに走り続けるのは、こんなに、こんなにも。辛い。辛くて仕方がない。前なんて見れない。鉛よりも重くて回らない脚を無理やり前に出す。心臓が限界を叫んでいる。全身の骨が軋んで壊れてしまいそう。
『二番手はニュートパーズ、しかし届かない! 残り百! 脚色は衰えない! どこまで行くのかブラウソレイユ、ブラウソレイユ止まらない! 最高のパフォーマンスと偉業を見せつけてブラウソレイユ、先頭で、今、ゴールッ! 圧勝、圧勝ですブラウソレイユ! 後続に六バ身差をつけての圧勝です! 史上二人目、ティアラ路線の菊花賞ウマ娘! 二冠ウマ娘の誕生です! 誰も、誰にも追いつかれることなく、青い太陽が今、京都レース場に燦然と輝いています!』
負けた。完敗だった。私は、負けた。一着の彼女から三秒以上の差を付けられた、十一着で、私はゴール板を通過した。彼女の背中さえ、拝めなかった。菊花賞は、土の味がした。
「すっごぉ……」
隣に立つネムが、感動とも畏怖ともつかぬ声を上げる。当然だと思う。こんな、こんなレースを目の前で見てしまったのだから。六バ身差の圧勝。長距離レースは適正とスタミナの差が出やすくて、着差も出やすいというけれど、あと一歩間違えたら仕掛けが少し変わっていたら、大差がつくところだった。圧巻のレース。大歓声の中、たった一人でゴール板の前を駆け抜ける彼女の姿は、誰よりも楽しそうで、誰よりも、強かった。長距離を走る彼女は、あんなに楽しそうに走るんだ。
「凄いね、すごい、レースだったね。」
「うん、凄く強くて、つよい、レースだった……」
見るものを魅了させる、のとはまた違うような。圧倒的な強さと速さで、捻りつぶすような、才能を感じさせるレース。圧倒的で心が躍ってカロリーの高い、最高の一戦。ダービーの時とは全然違う強さ。そして、まだ先があるんだと感じさせるほどの余裕。まだ、彼女の本気はここからだと思わせるぐらいの底知れなさ。私の同期は、とんでもない。これは、とんでもないウマ娘だって、分かる。言葉にはできないけど、耳が尻尾が、脚が、そうと叫んでいる。あの距離をあのスパートで。あのバ群をあの距離で。G1の大舞台で、完璧にいっそつまらないほど、強く。
走りたい。あのターフを、あの青々とした芝の上を。この脚で踏みしめて蹴り上げて。誰よりも速く、先頭でゴール板を通り抜けたい。手すりを握る手に力が篭もる。凄い、本当にすごいレース。だって、私をこんな気分にさせる。同時に悔しい。なんで。悔しい。めっちゃくちゃに悔しい。ソレイユが、あんな楽しそうに走るところを初めて見た。いつもどこかダルそうで、不機嫌で、低電力モードって感じなのに。桜花賞の時もそうだった。私と走った時も、そうだったのに。菊花賞のソレイユは、太陽みたいだ。きらきらを超えて、ギラギラして、誰も寄せ付けない唯一無二の走り。いっそ、恐ろしくなるぐらいの輝き。ひとは、人智を超えたものには恐怖を覚えるというけれど、ウマ娘にとっての人智を超えたものは、これだ。この走りだ。そんな走りができるのに、出来るようになったのに。
「はしりたい」
「……ルナちゃん?」
「私、ソレイユと走りたい。」
次走は、やっぱりソレイユと同じところがいい。絶対にそう。あの子と一緒に走りたい。あそこまで早く回る脚を、隣で見たい。肌で感じたい。桜花賞とは違うレースになる。絶対にそう。私も、それなりに強くなったと思う。ソレイユも、春とは比べ物にならないぐらい強い。どうなるか分からない、そんなどきどき満載のレース、したいに決まっている。秋華賞を走り切った時よりも、今の方がずっとどきどきしている。今日の菊花賞みたいなレースを、私も走りたい。はらはらして、バクバクするレースを。
「あっ、勝利インタビュー始まるよ。」
スタンド前に設置されたスクリーンを、ネムが指さす。大きなスクリーンに、いつもの面白くなさそうな顔のソレイユが映っていた。もう既に息は入っているみたいだ。興奮気味のアナウンサーが、マイクを押し付ける勢いでインタビューをしている。
『菊花賞優勝おめでとうございます!』
『ありがとうございます。』
『異例となるティアラ路線からの菊花賞挑戦、そして勝利ということになりますが、如何ですか?』
『まぁ、別に、長距離の方が走りやすいとは思っていたので、予想通りです。』
『今後はシニア級のウマ娘と鎬を削っていくことになりますが、今後の予定など決まっているのでしょうか。』
『有マ記念に直行の予定です。その後は、天皇賞・春です。皆さん投票と応援をお願いします。』
観客がざわめいている。サラッと流すように言ったが、インタビューではなかなか聞かない台詞だ。菊花賞からの有マ記念直行はよくあるローテーションだと思う。同じ長距離だし。でも、その後の予定まで決めているのは、予想外というか。決まっていたとしても、菊花賞インタビューのタイミングで宣言するのがなんだかソレイユらしい。天皇賞・春。国内で行われるG1の中では最高距離の三二〇〇メートルを走り切る、伝統のレース。そこを目指して彼女は走っているみたいだ。インタビュー中も彼女はどこを見ているかよくわからない。勝つとか負けるとか、そんなの気にしてないみたい。
「有マ記念、かぁ。」
私はソレイユみたいにちゃんとした目標なんてない。それでも、レースにかける思いは人一倍、いや、そうでもないのかも。でも、でもでも、やっぱり最高のレースを走りたい。この身でこの脚で、感じたいし走りたい。そう思ったら、次走の予定は決まったようなものだった。
「うん、うん、決めた。」
「何を決めたの?」
「次走。私、有マ記念に出たい。」
迷ってる暇なんてなかった。中山レース場、芝、二五〇〇メートル。一年を締めくくるグランプリレース。ファンの投票で出走が決まる、みんなの夢を乗せたレース。そんな場所で、あの子との再戦が叶うというなら、それは、それは。まだ興奮冷めやらぬ観客席で、目を閉じてから深呼吸をする。レースの、熱いレースの匂いがする。やっぱり、私はこれが好きだ。この特有の匂いが、雰囲気が、温度が。
秋晴れの、どこまでも続くような青空の下で、私はこれからの希望で満たされていた。ダービーの時と似たような風景だった。ブラウソレイユというウマ娘は、間違いなく、青い太陽なのだ。私にとっても、観客にとっても。
♢
「あら、やっぱり来るんだわ。」
「へぇ、誰が来るの?」
シルクのヴィオレに深淵を写し取ったようなヴェールの輝きを重ねた長髪が、表情を隠す。ちょこんと付いて上向きの小さなピンク色の鼻が、その隙間から垣間見える。陶器と見紛うほどの肌とほんのりと染まった頬が、現実離れした可憐さを演出している。その隣に座るウマ娘は、長い睫毛を伏せながら、銀糸の髪を指で遊ばせて尋ねる。
「新しいオヒメサマ。」
「ああ、あのトリプルティアラの。ボクと同じクラス。」
「じゃあ情報収集でも頼もうかな。」
「我らが妖精の王女様の思いのままに……って言いたいところだけど、もう調べてるんでしょ。ボクの出る幕なんてないよ。」
「さらに調べてくれたっていいのに。素敵なお月さまだって、貴方の手に掛かれば骨抜きにできるでしょう?」
銀糸のウマ娘はカラカラと笑う。まるで、劇中の演出のように。
「あはは! 多分無理だなぁ、あのコ、レース以外には興味なさそうだから。」
「そっちのタイプかぁ。」
「うっかり敵に塩送っちゃったなぁ、ごめんルーナ。」
トワイライトのウマ娘が、声のトーンを下げてどこかに謝罪の言葉を浮かべる。その間も、ヴァイオレットのウマ娘は、手元の端末をじっと見つめていた。エリザベス女王杯の過去データを左手に、右手には先週に行われた秋華賞の映像。好位をキープしてタイミングを逃すことなく、最高の位置をキープしたままロス無く抜け出してくる。圧勝と言っていいレース。間違いなく、レース運びが上手い。ウマ娘の走り方としては、教科書に載るくらいの完成度だ。ペースも悪くない。流れる時は先頭集団の真ん中で三番手から五番手をキープ。ちょっとスローの時は、自分が先頭に立ってレースを引っ張る。本当に、完成度の高い後輩だ。
「才能があるって、ほんとうにすばらしいよね」
夜と昼の間隙みたいな色を湛えた瞳が、王女から逸らされる。薄い唇が何かを言いたげに開いて、少しの間止まって、そして閉じられる。
「…………そうだね。」
桜花賞、秋華賞、ヴィクトリアマイル。この王女の頭上には、三つのティアラが輝いている。オークスは勝てなかった。適性というものは残酷だ。いくら可憐な女王だとしても、適いはしない。それでも歩みを止めることはない。彼女は、次のティアラを求めて走る。プリンシパルに相応しいのは私以外在り得ないと、そう云うかのように。
「新旧女王対決、ふふ、楽しそう。いいね。」
心の底から楽しそうに、ころころと笑う、鈴の音を転がしたように、ころころと。
「どっち応援しようかな。」
「いじわる。」
「ははは」
「どっちでもいいの。主人公は私。お姫様はヴィルトゥオーソ。ワルツを踊って、大喝采を浴びるのは私。グラン・コーダ・ジェネラーレは独り占めしちゃうの。」
うたうみたいな声が、小さな部屋に響く。シンデレラの王子だけが、それをずっと見つめていた。ずっと、ずっと、遠くをずっと。
「じゃあ、次は有マ記念か、うん、悪くはないと思う。ファン投票も問題ないだろうし。少し挑戦的だけど、いいと思う。期間も空いてるからね、しっかり休めば疲れも取れるだろうし。」
「え、次はエリザベス女王杯だよ。」
「……うん?」
「次走はエリザベス女王杯。」
「……え?」
激動のクラッシック戦線を終え、今は今後の打ち合わせ中。作業用デスクの向かい側で、いつも通りフルーツティーを飲んでいる、担当ウマ娘を見る。何を驚いているんだと言わんばかりの表情だ。
「え、エリザベス女王杯に出て、その後に有マ記念に出る、ってこと?」
「? うん、そのつもりだけど。」
何か問題が? とでも言いたげなベルベットルーナ。午後のチーム部屋。冬の気配を感じる涼しい風が、網戸越しに木々を揺らしている。秋華賞を完勝、無傷のトリプルティアラを達成したベルベットルーナと俺は、次走についての相談をしていた。
問題、しかない。好きなレースに出たらいい、と言ったのは自分だ。彼女のトレーナーとして、彼女の意思は尊重したい。でもそれは、現実的で可能でリスクがないというのが前提だ。エリザベス女王杯に出てから有マ記念に出るウマ娘も、そりゃいる。だが、彼女は既に今シーズン二つのレースを走っている。紫苑ステークスと秋華賞。そこからエリザベス女王杯と有マに出るというのなら、四戦走ることになる。未勝利やオープン入り前で必死にレースに出なければいけないならまだ分かるけれど。ひとつのレースを走ることで受けるダメージは大きい。回復にも一定の時間を要する。勿論、個体差はあるけど。ベルベットルーナは、G1を四勝、そして無敗だ。一度の敗北も無い。無敗のトリプルティアラ。それが、どれ程稀な記録であることか。それだけじゃない。エリザベス女王杯とヴィクトリアマイルを勝てば、ティアラG1完全制覇になる。逆に言えば、これ以上のG1勝利を求める必要は、無い。ティアラ路線のウマ娘は、今後のことを見据えて移籍や引退が早いこともある。この後がどうなるにしろ、そんな記録と背景を持ったウマ娘が、連戦する必要なんてない。万が一怪我なんてしたら、それは最早ウマ娘界全体の損失だ。それは何としても避けたい。
「う、う~ん、ちょっ、と、そのプランは考え直さないか?」
「どうして?」
未だにきょとんとした表情のルーナに、事情を説明する。俺としては、どちらかにして欲しい。それか、ジャパンカップか。
手元のタブレットに映った、かつてのトリプルティアラウマ娘のデータを見る。トリプルティアラのウマ娘は、ほとんどがそのままジャパンカップに進む。それが強さを示すことになるから。かつては、三冠路線のウマ娘が強く、ティアラ路線はその下。そんな風に考えられていた時期もあった。それは昔の話。強いウマ娘は、強い。どこを走ろうと、どんな路線に進もうとも。
「有マ記念もエリザベス女王杯もいいと思う。ただ、トレーナーとして言っておきたいことが何個かある。」
「うん、なに?」
少し迷ってから、でもはっきりとした声を心掛けて話す。
「まず、ルーナは多分、大回りコースの方が得意だ。自分でも分かってると思うけれど。」
「……うん。」
タブレットを操作すれば、トラッキング機能を活用して出されたデータの映像が出てくる。
「これはオークスの時。東京レース場はバ場も広くて大回りだ。その分外からの差しが決まることも多いけど、この時は内々を回って経済コースで最終コーナーに入ってきた。」
大舞台で経済コースを走り切れることの、なんと素晴らしいことか。ロスはどんな時も少ない方がいい。圧倒的な瞬発力や爆発力、超が付くほどの良バ場巧者でない限りは、内ラチ沿いを走り続けて、好機を見て位置取りを調整。そしてスパートをかけてゴール。これが最適と言われる走りだ。逆に言えば、この走りが出来なければ、間違いなく二着のフェアリィドロップの差しが届いていた。ハナ差でも勝ちは勝ちだ。本当に、オークスのルーナは完璧な走りだった。誰が見ても完璧。他のトレーナーから、参考として映像をくれないかと声を掛けられたほどに。逆に言えば、カーブがきつくレース場自体が狭いところだと、彼女の真価は発揮しにくいと思う。現に、阪神や東京、京都レース場のレースばかりを選択している。どうしても、カーブのところで外に膨らんでしまうから。遠心力で外に振られるのは皆同じだが、そこで得意不得意の差が出てしまう。手元の端末をタップして、桜花賞のレース映像を再生する。
「……最終コーナーに入る、ちょうどここ。ほんの少しだけど、体が外に持ってかれてる。その後に外に向かって、ちょっと斜行してる。まぁ、結局は末脚で突き放せたけどね。」
有マ記念は、中山レース場の内回りコースで行われる。国内G1でも屈指の急カーブ、そして急勾配。短い直線に急な坂があることによって、一気に速度が落ちる。そこで踏ん張り切れるエンジンとスタミナが無いと、有マ記念は話にならない。
彼女の走りはスピード型だ。無尽蔵のスタミナで他のウマ娘に圧をかけるような走りではない。ゲートを出るのに難が無く、折り合いもつく。バ群に揉みくちゃにされるのは得意じゃなさそうだが、多少は我慢が効く。そして、大きめの体格とストライド走法から繰り出される長く良い脚。良バ場に対応するスピード、マイルから中距離のクラッシック戦線を走り切れる程度のスタミナ。何よりも、センスがいい。抜群のレース勘とセンス。レースを走るウマ娘として、完璧と言ってもいい。苦手なことが無いわけではないが、それを差し引いても、最高の才能だ。近代ウマ娘の最高傑作だ。……少なくとも、俺はそう、思っている。トリプルティアラだって、通過点だ。この子なら、間違いなく、もっと高みに行ける。目指せるなんてそんなんじゃない、行ける、たどり着ける。
「中山レース場は小回りのレースになる。」
問題は、レース間隔とレース場。二五〇〇だって、鍛え方次第では走り切れる。だが、疲労とレース場ばかりはどうしようもない。トレーナーの力ではどうしようもないのだ。
「……俺個人の意見としては、有マ記念とエリザベス女王杯に出るんだったら、ひとつに絞ってジャパンカップに行くべきだと思う。これ以上疲労を貯める必要はないし、初めて当たるシニア路線のウマ娘、それも三冠路線の子だって来る。ルーナは速い。でも、一歩間違えたら、一着と二着はすぐにひっくり返ってしまう。」
タブレットを握る手に、力が篭もる。ベルベットルーナは、チームミラにとって、奇跡だ。創立三年目、G1ウマ娘どころか重賞ウマ娘も居ない歴史の浅いチーム。それを仕切るのは、かつて天才と呼ばれいくつもの勝利を手にし華々しい結果を残し続けたまま衰えを見せることなく引退していった、宮坂トレーナー、のひとり息子。まだ、言われたことはないけれど、親の七光りに近い。父親のおかげで、ウマ娘の人員には困らなかった。なんとかチームを結成することができたし、優秀な子が多く入ってきてくれた。それでも、初めの一年は勝利が遠かった。いや、たった一年しか悩んでいないんだ。二年目の途中で入ってきたベルベットルーナとネムマルヴェシア。デビュー前のウマ娘でフォームも荒くて、ペースも理解していない。そんな二人だったけれど、脚は本物だった。メイクデビューを快勝し、先輩ウマ娘であるトレフルブランよりも先に重賞に挑んだかと思えば、あっと言う間にオープンまで駆け上がってしまった。それどころか、G1まで勝ってしまった。G1は、ウマ娘にとってもトレーナーにとっても特別だ。世代の頂点、同年代の中で一番速いことを見せられた。勝利の味は、格別だった。だから、だからこそ、
「俺は、ベルベットルーナが、勝つところを見たい。」
ゴール板を先頭で駆け抜ける姿が。誰よりも早くゴールを横切るベルベットルーナが、みたい。そして何より、俺というトレーナーが彼女にできることは、これだけなのだ。最適なレースを見つけ、輝かしいティアラを頭上に君臨させ続ける。何も言わずにじっと端末を見ているルーナを、これまたじっと無言で見つめる。
「……でも、ジャパンカップはやだ、かも。」
「ど、どうして?」
「う~ん、何となく?」
「な、んとなくかぁ~」
らしい理由に、気が抜ける。何を考えているか分からない、分からないけれど、走りにも表れるその自由さが、奇跡を起こしているに違いないのだろう。顔をふい、と逸らしてどこか遠くを見ている横顔を見る。そう言えば、確か。
「ブラウソレイユと走りたいんだっけ。」
「……うん、ソレイユはジャパンカップじゃなくて有マだって言ってたし。」
「……」
ルーナは、どうにも同世代のダービーウマ娘に興味があるみたいだった。彼女のレースは必ず現地に見に行っているし、あんまり得意じゃないと言っていたレース分析もしている。ふと、なんでこんなに気にしているのかと、疑問に思った。確かに、ブラウソレイユは強いし速い。だが、現状としてはルーナの方が強いように見える。下バ評を見ても俺の考えは間違っていないだろうし、比べる必要も無いような。今まで特に友好関係を深く聞くことは無かったけれど、彼女の走るエネルギーになるというのならば、把握しておきたい。折角の機会なので聞いてみることにしよう。俺はまだ、ベルベットルーナというウマ娘のことを、知り尽くしてはいないのだから。
「ブラウソレイユとはどういう関係なの? 寮の同室とか?」
「ううん、同室はティンクさん。」
「え、じゃあ、幼馴染、とか?」
「いや、入学前のガイダンスで初めて会った。」
「……うん?」
「正式なレースで一緒に走ったのは桜花賞が初めて。」
「え、そうなの?」
うん、と軽い調子の返事を聞いてから改めてルーナに向き直る。ルーナは、再びタブレットに視線を落としている。
「入学前ガイダンスの後に体格検診あるじゃない? 身長体重とか、タイム測定とか。その時ちょうど隣のゲートがソレイユで。」
「それが初対面?」
「そう。オッドアイの子なんて、あんまり見ないじゃん?」
魚目。──さめ、と読むらしい──瞳の瞳孔の部分だけが暗い色で、その周りが水色や青白い色に変色するものだ。視力的には何の問題も無いらしいが、あまり見ない目の持ち主だ。確かに、ブラウソレイユは魚目だ。向かって左側の目が、青白くなっている。俺も、資料でしか見たことが無かったから、最初はまじまじと見てしまった。
「珍し~、とか考えながらチラチラ見てたらそのまま出遅れちゃった。出遅れることなんてあんまりなかったから、すっごい覚えてる。」
机に溶けるように突っ伏しながら、つまらなさそうに爪を眺めている。あんなに気になる相手の話だというのに、興味があるようには見えなかった。
「そのまま出たら、隣の子の方がずるずる位置を下げていくからほんとに驚いたの。」
入学前のタイム測定。ダートと芝から選択して一六〇〇メートルのコースを軽く走る。ここで大体の適性距離や脚質、得意不得意を観察する。ジュニア級を担当する可能性があるトレーナーは参加推奨だったので、その場に居た記憶がある。年齢も適性もバラバラで走るから、ほぼ通過儀礼のようなものだが。
「入学前まで居たクラブだと、先行とか逃げで早めに先頭集団に取りつくのがいいって習ってたから、ほんとにびっくりした。知識としては知ってたんだけど、実際にあんなに位置取りを下げる子がいるんだ~と思って。結局その測定は別の子が勝ったんだけど、なんかすごい印象に残ってた。」
ここ最近のレース教室では、先行のスピードを重視するところが多いと聞いていたが、本当みたいだ。確かに日本のウマ娘レースはスピード重視の高速バ場だ。芝も短めダートも乾いていて、速さが出るようなコース作りがなされている。逆に欧州はスタミナやパワーを必要とすることが多い。未だに日本のウマ娘が凱旋門の扉をこじ開けられていないのは、そこに原因があるというのが有力な説だ。
「確かになぁ。先行先行と言われたら、差しの子はあんまり見ないか。」
「居ない訳じゃなかったけど、勝率はあんまりよくなかったから、気にしてなかった、かな。」
大きく息を吐く。それもそうだろう。かつてルーナが所属していたウマ娘クラブの成績を覗いてみる。どう考えても、ルーナが頭一つ分抜けていたのは明白だ。きっと、つまらないレースを繰り広げていたんだろう。
「そこからソレイユとはチームも違ってクラスもおんなじじゃなかったから、しばらくは見てなかったんだけど、確か、年末のホープフルの中継見たら、勝ってたの、ソレイユが。」
「ああ、そう言えばそうか。」
年末にルーナが阪神ジュヴェナイルフィリーズを勝って、ブラウソレイユがホープフルステークスを勝ったものだから、来年のティアラがアツい! と騒ぎ立てられたものだ。実際に、この二人でほぼすべてのクラッシック戦線を取ってしまったのだが。
「その時の映像見た?」
「見たよ。凄い末脚だったね。」
中山の短い直線を大外一気で見事に差し切ったあの脚、そう忘れられるものじゃない。それも年末のレース場開催最終週。内はボコボコ、外も雪で良バ場とは言い難い。そんな中で、シニア級の第一線のウマ娘にも負けず劣らずの末脚。万が一、桜花賞に彼女が出てくるとしたら、ルーナはこの脚に勝てるのか、と焦ったのが記憶に残っている。
「同じくらいの速さで追い込んでくるウマ娘はデビューしてから見たけど、同世代の、それも一緒に走った事がある子が、あんなに走れるのかって、すっごくドキドキした。もう一回一緒に走りたいなって思った。」
「ああ、なるほどなぁ……」
ルーナは、天才と呼ばれる側のウマ娘だ。たぶん、いや、確実に。今までの公式戦では負けたこと等無く。かつてのスクールでは飽きるほどに勝って。そんな子が、唯一見つけたライバルのような存在があの太陽だというのなら。同じくらいに強烈で、苛烈なウマ娘とやりあえるレースがあるのならば。トレーナーとして、担当ウマ娘の無理を通すのも、仕事の内だ。
ほんの数秒、もしかしたら十数秒。鼻の下に手を当てて考える。既に答えは出た。
「……分かった。次走はエリザベス女王杯、その次は有マ記念でいこう。」
「ほんとに良いの⁈」
「ただし!」
あえて声を張って言う。驚いたままの顔のルーナが、こちらを見ている。
「エリザベス女王杯を勝った上で、体調に一切の不安と疲れが無かったら、有マに出よう。いい?」
「え~……」
「故障は絶対に避けたい。少しの不安要素も見逃せない。……ルーナは、無敗のトリプルティアラだ。この世に二人しかいないウマ娘の片方なんだ、そのことを、よくわかって欲しい。」
ルーナの肩にポン、と手を置く。どうか伝わってくれと強い気持ちを込めながら。
「……わかった」
少しの不服さが混ざった表情で、渋々の了承を引き出した。何も言わずにひとつ頷く。ルーナの次走が決まった。エリザベス女王杯。既に出走を決めているウマ娘、出走予定のウマ娘をリストアップしよう。彼女の願いの為にも、この古風なティアラを手に入れなければ。
♦
授業中は、暇だ。話を聞かなくちゃいけないのは分かっているけど、そんなことより走りたい。窓際の席なのがいけないのかな、どうしてもグラウンドのコースを走るウマ娘を目で追ってしまう。黒板にチョークが当たるコツコツという音を聞きながら、パタパタと落ち着きなく動く自分の脚を見る。色んな所を走った。晴天の下も雨の中も、歓声の海だって。走るのは好き。思いっきり脚を前に出したら風を感じて、心が躍りだす。そうなったら、もう行くところまで走るしかない。腕を大きく振って、大股で地面を踏んで、ゴール板が近づく。なんか寂しくて、もう終わっちゃうのかって悲しくなるけど、それでも踊りだした脚は止まらなくて。童話に赤い靴を履いた女の子が、踊り続けてしまう話があった。私は、その女の子と一緒だ。靴は赤くないけど。今はくたびれた上履きしかない。だからなのかな。最近はなんだかおもしろく無い。秋華賞なんて、ほぼ覚えてない。楽しかった、楽しかったはずなのに、気が付いたらゴールだった。拍子抜け、って言うんだと思う。オークスとか桜花賞のドキドキが、全然なかった。単純に走る時のドキドキとは違う。走る時のドキドキは、きらきらしててトキメキ、って感じがする。レースの時のドキドキは、もっと熱くて、怖い。心臓が破裂しちゃいそうなくらい音を立ててるのに、脚を動かすのがやめられない。それでいて、走ってる、今走ってるんだ、と思える何か。それが、最近全然感じられなくなっちゃった。
「はぁ」
ため息だって出ちゃう。一応理由は分かってる。たぶん。私は楽しく走りたいだけなのに、私の走ったレースがそれを許してくれない。この間の秋華賞は『完勝』だったらしい。最高のパフォーマンス、今年のクラッシック戦線最強の呼び名も高い。街の本屋さんに置かれた新聞に、そう書かれていた。私にとっては楽しくない、何の思い出にもなりそうにないティアラの終着点だったのに。
「今日はここまで。明後日に宿題回収するからな」
ベルが鳴って、授業が終わる。前半で取る気を無くしたノートは、下半分の空白が物語っていた。
「ルーナ。今日も上の空だったみたいだね。」
視界の隅に、きらきらと輝く銀の糸がカットインしてくる。
「……なに、レイちゃん。今日もノート貸してくれるの?」
容赦なく私の机に腰を下ろすウマ娘、シルヴァーレイス。またの名を、学院の王子様。光の当たり方によって変わる睫毛と瞳を見るたびに、王子というより雪の精霊みたいだな、なんて考える。
「ノートは貸してあげるさ。」
「お、やっさし~!」
「その代わりにちょっとお願いがあるんだけど、どうかな。」
「あれ、珍しいね。」
同じクラスで、同じクラッシック級。違うのは練習のチームとレースと寮の部屋くらい。授業に集中できない私と違って、レイちゃんはいつもとてもしっかりしている。授業どころか、教室で突っ伏しているところなんて見たことが無いし、成績だって優秀。優等生、っていうやつだと思う。だけど、レースはちょっと違う。彼女は王道の三冠路線、ではなく、短距離マイル路線に舵を切ったウマ娘のひとり。多くのクラッシック級のウマ娘が三冠かティアラかを選ぶ中で、最初から短距離とマイルを選択していた、面白いクラスメイト。その上、下級生や彼女を慕う子たちを「ポニーちゃん」なんてキザっぽい呼び方をするから、この学院でシルヴァーレイスは王子様と呼ばれている。そこも含めて、とっても面白いウマ娘だと思う。
「……並走、付き合ってくれないかな。」
「……」
思わず、だらーっと力を抜いていた背筋を伸ばしてしまう。レイちゃんに走ることで頼み事をされるのは初めてだ。同級生のよしみでちょっとした世間話したりとか、ノートを見せて貰った代わりにお菓子をおすそ分けしたり。そんな感じの友達だったから、並走に誘われるなんて思わなかった。
「珍しいね、ほんとに。」
「だって、今をときめく無敗の女王様が同じクラスに居るんだ。一緒に走ってもらいたいじゃないか。」
「……本音は?」
「悲しいな、本音だよ。心からの本心。」
「……ほんとは?」
「……」
「……」
じっと見つめあう。別に疑ってるわけじゃないけど、この学院の、『みんなの王子様』が、私個人に練習の相手を申し込むなんて、考えにくい。チームを介してならまだ分かるけど。
私が所属しているのは、チーム「ミラ」。トレーナーは宮坂トレーナーだけで、割と少人数で和気藹々と楽しく練習している。勿論、レースで勝つことがいちばんだけど、実りあるレースにするのが大事だって、トレーナーは言っていた。レイちゃんが所属しているのは、チーム「アルキオーネ」。このトレセン学院でトップの勝率、一番のG1勝利数を誇る、伝統と結果で構成された、超強豪チーム。トレーナーも代表はいるけれど、他にもサブのトレーナーが何人かいて、万全の態勢でチームのトップを張り続けている。そんなチームに居るウマ娘が、私に並走を?
「……分かった、ごめんよ、少し刺激が欲しくてさ。チームメイトと走るのも悪くないんだけど、どうしてもね。いつも通りになっちゃうから。本番も近いし。」
「次は、やっぱりマイルチャンピオンシップ?」
「勿論。」
にっ、と悪戯っ子のように彼女の口角が上がる。みんなの王子様は、王子様であると同時に、とある場所を支配する王様でもある。一六〇〇の王者。一六〇〇メートルでの敗北はたったの一回だけ。その一回も、年末のG1朝日杯フューチュリティステークス。ジュニア級の頂点を決めて、来年のクラッシック級を占う歴史あるレース。無敗の皐月賞ウマ娘となるライトイレクトとの一騎打ちで、ハナ差負け。最終直線は肩をぶつけあいながらお互い一歩も譲らず死闘を繰り広げて、ファンの語り草になるレースだった。NHKマイルカップでは、同じクラッシック級の子たちを末脚だけで蹴散らした上で、レコードタイムに迫る速さでの勝利。現役最強マイラーと言っても過言じゃない、らしい。そう、トレーナーちゃんが言っていた。実際に彼女の走りを見たことは無い。けれど、映像で見ても目の覚めるような走りをする。この子は、王子様で王様で、何より観客のことが大好きな演出家なんだろうなと思う。
「前哨戦はしっかり勝てたし、ギア入れていかないと。シニア級の先輩方と戦う初めてのG1レースだしね。あ、そうだ。そんな大切なレースの前に、強い相手と走ってしっかりと負荷をかけたい。ど? 真面目な理由でしょ?」
「今考えたんじゃなくて?」
「あはは、そうかも。本心ではあるよ。でも面白く走っていたい。おんなじチームの子もいいんだけど、ね。」
面白くなくて。
言外に仄めかされた単語が、確かに聞こえた。淡く濁ったオレンジの目が、じっとこちらを見ているような気がした。表情は笑っているのに、目の奥は別のことを考えてるみたい。腹に一物抱えてるって、こういうことを言うんだと思う。でも、面白くないのは、つらい。だって、今の私は苦しいから。楽しく走れないし、なんだか気が乗らない。もしおんなじ気持ちだったら、似た者同士で走ったら、何か変わるかも。それに、G1を勝ったウマ娘と走れるなんて、良い機会だ。楽しいレースがしたい、楽しく走りたい。ただそれだけなのに、そうできない原因が分からなくて退屈していたから。
「……いいよ。いつにする?」
「早い方が嬉しいかな。」
「じゃあ、今日?」
「いいね。放課後の練習時間にしよう。そっちはチームの練習は無いのかな?」
「ん~、今日は無いの。チームの全体練習は週に三回だし。トレーナーちゃんとの打ち合わせも明後日だし……」
机の上に置きっぱなしになっていた教科書とノートを、スクールバッグにしまう。ジャージは更衣室のロッカーに予備が置いてあるはずだから、後で取りに行くとして。放課後までは、まだしばらくある。四限目の授業に昼休み。折角楽しい予定が入ったっていうのに、それが遠く感じて、またため息をつきそうになる。でも、今日の練習で何かがつかめたら。また、全力で楽しく走れる気がする。
次のエリザベス女王杯まで、時間はそんなにない。心に風が、すーすー吹いている。傷ついたって言うのとも違う。でも、考えこんでいたって変わんない。楽しく走りたい。だったら、無理やりにでも走るしかないんだ。勉強だってレース論理だって得意じゃない。走るのが楽しいだけでここまで来ちゃった。だから、私の答えは多分、レースにしかない。走るしかない。脚を動かすことでしか、この寂しさは埋められないんだと思う。だからこそ、有マ記念の前に、エリザベス女王杯を選んだんだから。
ティアラ路線の女王が集う、シニア級限定戦。ここで初めてシニア級の先輩たちと走る子も多い。実際に私もそう。今まではずっと世代限定戦を走ってきたから。距離もコースも、あまり不安は無い。秋華賞の延長戦、と言っていいと思う。違うのは、優秀な先輩が出てくること。ジャパンカップだってそうなのは分かっている。でも、あの先輩とは、一度でいいから走っておきたかった。ペルシカリア。妖精さんみたいなウマ娘。夏合宿でちらっと見かけただけだけど、多分、走るウマ娘だと、思う。私の直感がそう言っている。ああ、そう言えば、目の前の彼女とその先輩は同じチームだった。少し、ペルシカリアというウマ娘の事を聞きたくて、顔を上げる。
「そっか、じゃあ問題ないね。」
羽が舞うみたいな身軽さで、机から降りて、身を翻す。引き留める間もなかった。
「じゃ、また後で。」
完璧なウインクと、リップ音が聞こえそうなほど完成された投げキッスが飛んでくる。廊下で観察していたであろう親衛隊の子たちから、黄色い悲鳴が上がる。うちのクラスの日常風景だけれど、何回見ても凄い光景だなと思う。
「……胃もたれしそう。」
嫌、ではないけれど、なんだか口をもごもごとしてしまいたくなる気分。流石にもう慣れたけど、真正面から喰らうと、大変かも。颯爽と別の教室に向かう後ろ姿を眺めながら、次の授業の準備をする。同じクラスだから、おんなじ授業なんだけどね。
柔軟運動を疎かにしちゃいけない。助走をつけるように勢いよく動くんじゃなくて、ひとつひとつ、筋肉の部位に力が入ったり抜けたりするのを確認しながら、ゆっくりと動かす。練習もレースも、しっかり準備しないと、ほんのちょっとのアクシデントで台無しになる。メイクデビューの前に、走りたい気持ちが先行して柔軟を雑にこなしたら、その後のチーム全体併せウマで、脚の肉離れを起こした。バ群から抜け出すときに、ちょっと無理やり通ろうとしただけなのに。たったそれだけなのに、肉離れで一週間ぐらい走るのを我慢しなきゃいけなかった。それからは、運動前の柔軟は、しっかり気を使ってやるようにしてる。それは、王子様も一緒みたい。私よりもずっと丁寧に時間をかけて、足首の関節の可動域を確認している。ビックリするぐらいに、丁重に。彼女の左脚には、白い包帯のようなものが常に巻かれている。勝負服で走ってる時も付いているから、衣装なのかなと思っていたけれど、違うみたい。あれは、ちゃんとした包帯だ。シルヴァーレイス、学園の王子様、マイルの王者。そして、硝子の脚。彼女は、本当にいろんな名前で呼ばれている。本名よりも、あだ名で呼ばれることの方が多いんじゃないと思う。丁寧過ぎるくらいに、慎重に慎重に柔軟運動をする彼女を見る。
「ふふ、そんなに見つめないでよ、照れちゃうな。」
気が付かないうちにじっと見つめてしまっていたらしい。ごめんごめんと零しながら、脚の裏側を伸ばす。練習コースに集まってから十分も経っていないというのに、コース脇には観客が何人も来ている。公開練習でもないのに。同じクラスの友人の人気には、いつもビックリする。寮の前とか終礼後とか、場所なんか関係なく親衛隊の子に囲まれている気がする。ずっと囲まれてて疲れないのかな。レ―ス後のインタビューだってだるい私からしたら、全然分かんない感覚だ。
「何メートルでやる? 一六〇〇?」
走る距離を決めていなかったのを思い出して、聞いてみる。正直何メートルだっていいけれど、レースにならない、なんてシチュエーションは避けたい。なら、相手の得意な距離にするのがいいと思った。
「ボクが勝っちゃうよ。」
「すごい自信。」
即答されて、また驚く。確かに、彼女はマイルの王様だけれど。
「あはは! それくらいの誇りはあるよ。この脚に賭けて。でも、それだと君の練習にならないじゃないか。次走はどこなんだい?」
少し口が強張って、言い淀む。中途半端に開いた口に、新鮮な空気が入り込む。
「……一応、エリザベス女王杯。」
「へぇ! ティアラのテッペン取りに行くんだ、いいね。」
いいこと、らしい。他のウマ娘から見たら、エリザベス女王杯に出ることは、いいことらしい。いや、レイちゃんのことだから、否定しないだけかも知れない。何も分からないまま、靴紐を結ぶ。いつも通り。解けないぐらいの強さで結んで、つま先の様子を見る。うん、大丈夫。練習用の、ちょっとだけ重い蹄鉄が付いたトレーニング用の靴。数回跳んでから、足首の柔軟運動をする。
「じゃあ、間を取って二〇〇〇でどうかな。悪くないんじゃない?」
「本当に間を取るなら一八〇〇メートルだけど、いいの?」
「一八〇〇ならギリギリマイルだよ。ボクが勝っちゃう。」
「本当にすごい自信……別に勝つ必要ないんだよ? 練習なんだから。」
「あは、練習でも負けるのは悔しいじゃないか。」
「……レイちゃんって、思ったより負けず嫌いだよね。」
「バレちゃった? 内緒にしといてくれよ。」
再び、音の聞こえそうなウインクを受け取る。少しげんなりしながらも、スタートの位置に向かう。そういえばストップウォッチ持ってこなかったな。スタートのホイッスルか旗も持ってきてないや。うっかりしてたな。
「あ、」
「どした?」
「スターター係。」
「あ。」
「忘れてたね。」
二人して走ることばかり考えていたから、記録係のことをすっかり失念していた。もしかしたら持ってきているかも、と思ってポケットを漁ってみたけど、無かった。残念。レイちゃんが遠くを見渡してから、大きく手を振って、声を上げる。視線の先には、レイちゃんの走りを見に来たであろう親衛隊の子たちが詰めかけていた。すごい情報収集力だ。大声でしゃべってたわけでもないのに、場所まで特定されてる。……もはやストーカーなんじゃ。
「お~いそこのポニーちゃん! ちょっと二人ぐらい手を貸してよ!」
その瞬間、きゃあ~! と凄まじい悲鳴のような歓声が上がる。さっきまでじっと固まっていた集団に、嵐が来たみたいになっている。ごちゃごちゃとした十数秒の押し合い圧し合いを制した(押し出された)二人のウマ娘が、こちらへ小走りでやって来る。目にハートマークが浮かんでる幻さえ見える。そんな感じ。
「ありがとう、良かったらスターターと記録係をお願いしていいかな。スマホのタイマーで良いからさ。」
親衛隊の子は、返事さえあやふやになっているけど、本当にスターター出来るのかな。タイマー押し損ねるとか、ありそうだけど。まあ、でもいっか。走れるならそれでいいや。タイムはどうでもいいし。靴底をぎゅっぎゅっと押し付けるようにして、芝の感覚を掴む。今日は割と乾いてる。雨が降った日の翌日なんかは、ぐちゃぐちゃで走りたくないぐらいだ。土と言うより泥って感じだし、芝が捲れあがってバンバン飛んでくる。乾いててもキックバックはあるけど、土と泥じゃ全然違う。乾いてる時の方が走りやすいし。なんかこう、弾むみたいに走れる。足首に気を使わなくていいし、やっぱり乾いたバ場の方が好きだ。だから今日は、気分良く走れる気がする。良い練習になりますよーに、と祈りながら、未だに親衛隊の子と話しているレイちゃんを見て、もう少しかかりそうだと思った。
いい天気だな~とかそんなことを考えながら、パッと視線を上げた。雲一つない青空ってわけじゃないけど、秋晴れの気分が上がるような空だ。コースを一望できるように作られたスタンドには。、ぽつぽつと人が座っている。担当ウマ娘の練習を見ているトレーナーに、練習見学のウマ娘。メイクデビューを終えて二戦目とか、ジュニア級の重賞狙いの子が増える時期だから、ギャラリーは割と多い。そんな中に、小さな人影が見えた。体の割に耳が大きくて、しっかり目立つ。どこかで見たような気がするシルエット。何処だっけ。記憶の引き出しを総当たりしていれば、そのウマ娘と目が合う。
そうだ。ペルシカリアだ。夏合宿で一瞬だけ見かけたウマ娘だ。夏の匂いと一緒にあの時の記憶が蘇る。あの時は確か、少し高い場所からあのウマ娘を見ていた記憶がある。何処だったかな。なんでここに居るんだろう。レイちゃんの練習を見に来たのかな。おんなじチームだし。そう思って、そのまま、ふい、と視線を逸らした。言葉を交わしたことはない。学年が違って寮の部屋も違うから、話す機会なんて本当にない。同じレースを走るとかしないと。そういえば、あの先輩の次走はエリザベス女王杯だと言われているのを思い出した。じゃあ、おんなじレースだ。もう一度、さっきと同じ方向を見つめれば、あの先輩も違うところを見ているみたいだった。なんか、タイミングの合わない先輩だ。
「ごめん、待たせたね。」
親衛隊の子と話を付けたレイちゃんが、小走りで戻ってくる。スターターの子も一緒だ。
「ううん、全然。準備できそう?」
「うん、協力してくれるコも見つけたから、後は走るだけだね。」
「そうだね。」
もう一度、彼女の居た方向を見る。つられてレイちゃんも同じ方向を見ている。
「あれ、ペルシカリアだ。来てたんだ。偵察かな。」
「偵察?」
「だって君、次のレース一緒だろ?」
「あ、そっか。」
偵察。確かに。次に一緒に走るウマ娘がどんな走りをするのかは、作戦を練ったりするのには必要かもしれない。トレーナーちゃんはいっつもいろんなウマ娘の走りを研究観察してるし。ウマ娘も、同じかも。どんなウマ娘かは気になるけど、でも走りは一緒に隣で走ってみないとわかんないし。少しふわふわになっていた集中力を取りもどすように、頬を叩く。準備はばっちりだ。横に立つレイちゃんをチラリを横目で見れば、あっちも準備万端みたいだ。お互いに軽く頷いてから、ゲートへ進む。
「じゃ、始めよっか。」
簡易ゲートに二人で入って、スタートの体勢を取る。練習だし、わざわざ閉める必要もない。一秒にもならない静けさの後になったホイッスルとゲートの音を連れ立って、私たちはターフに飛び出した。
スタートはまあまあ。前を走るのは当然私。少し離れた後方にレイちゃん。手のひらで風の形をなぞるみたいにして走る。ウマ娘が走る時の手をなぞって動いた軌道上に色を付けたとしたら、きっと綺麗なんだろうなって思っていた。今もそう思ってる。走るのは、やっぱり楽しい。勝敗関係なく、楽しい。思わず鼻歌を歌いたくなるぐらいのフワフワな気持ちで、緑のターフを走っている。夏を超えて秋になった芝は、種類が変わるのか、踏みつけた時の音も感触も匂いも、全部違う。秋華賞の時には感じられなかった秋の走りを、思いっきり感じながら走った。後ろから聞こえるのは、香りと同じくらい軽やかな足音。さっさっ、と芝が捌かれるような微かで風みたいにさらさらした音が、速さを感じられていい気分になる。速いんだろうな、レイちゃん。お腹の底に響く重い足音も好きだけど、こういうのも好きだ。風みたいな光みたいな、レイちゃんらしい走り方だと思う。前半は変化の無い位置取りとペースで進む。ちょっと遅いぐらいだけど、練習なんだから当然だ。本番はここから。レイちゃんの武器は最終直線の末脚。追いつかれないように距離を稼いでおかないといけない。でも、なんだかそれだとつまんない気がして、少しだけスパートを遅らせることにした。味わってみたい、無類の速さを。いち、に、さんよん、そこから一拍おいて、五歩。いつもよりちょっとだけ遅れたスパートをかけるために、つま先に重心をかけてから加速する。ふくらはぎの筋肉にぎゅっと力が篭もって、つま先が地面を離れると同時に、解放。顔に当たる風の音が変わって、痛みが増す。周りの風景が形を無くしていく。後ろの細やかな音が遠のいていく。どれくらい離れてるかなんて確認しない。あっという間に残りは六〇〇メートルを切った。普通だったらラストスパートをかけなきゃ追いつかない。でも、音は変わらない。どれくらい離れているんだろう、このままでは私が勝っちゃう。何の面白みも無く先着してしまう。ゆっくりとコーナーを回って最後の直線が見えてくる。本当のレース場だったらもっと長いんだけど。残り三〇〇を切った。まだ、まだ来ない。音は変わらない、気配も変わらない。まだ私は加速できる。もっと速く走れる。シルヴァーレイスは、負けず嫌いだ。残り二五〇。その印を右前に確認した次の瞬間。ヒュッ、と何かを斬るような音がした。来た。風を切る音よりももっと鋭くてはやい音が、隣でする。音速よりも速いと称される、無類の末脚。ちらりと横に目をやれば、シルヴァーレイスの灰交じりの尻尾がたなびいているが見えた。
「はや」
笑うように呟いてしまうほどに。音はしない。パワーもスタミナも感じない。ただただ速いだけ。それがどれくらい強くて凄いことなのか、ウマ娘だったら分かる。なんであの子があんなに速いのかは分からなくても。シルヴァーレイスが強いことぐらい、分かる。一瞬で私を置き去りにした音速の背中を見つめる。差は約三バ身。ほんの数秒でこれだけ差を付けられるなんて、本当にすごい。すごいけど、余裕だ。残りは一〇〇。キレッキレの脚は無いけれど、トップスピードを保つのは、私の方が多分得意。上半身を少し倒して、脚を前に前に出す。もっと遠くに行きたい、はやく、ゴールのその先に。そんな気持ちをいっぱい込めて走る。レイちゃんとの距離が一歩ごとに縮まって、背中が少しずつ大きくなる。彼女は本人の言う通り、マイルまでだ。ペースが徐々に落ちてきている。残り五〇。差は半バ身。私は、まだ走れる。最後の最後で、大きく、体から一番遠くを通るように腕を振る。ぎゅんぎゅん音がしそうなほどに風がうねっている。体中を流れる血もおんなじ音を立てている。最後の一〇メートル。視界にあるのはゴール板と誰も居ないターフだけで、宝石箱みたいにきらきらしていた。
――併せウマでは、私が先にゴールに辿りついた。
駆け抜けた瞬間に力を抜く。すぐに止まろうとすると足に負担がかかるから、だらだらと力を抜くだけ。無理やり止まろうとはしない。レイちゃんも、少し遅れてゴールに飛び込んできてから、同じようにスピードを落としていた。トントン、トトン、とリズムを刻むみたいに止まった彼女は、膝に手を添えながら、息を切らせて話しかけてきた。
「ッハァ、ルーナは速いな、負けちゃったよ。」
眉毛を八の字にしながら少し上目遣いでこちらを見ている。こんな顔をするんだな、親衛隊の子が見たら倒れちゃいそう、なんて思いながら返事をする。
「んふ、一七〇〇メートルとかだったら負けてたよ。」
「あはは、まあね。でもスパート遅らせたの、わざと?」
ばれちゃった。一緒に走っていれば分かるとは思っていたけど、まぁ、隠したいわけでもないし、嘘なんてつかなくてもいい。緩んだ口のまんま頷く。
「うん、わざと。」
「やっぱり。」
「だって、レイちゃんがどれくらい速いのか見たかったんだもん。」
「ルーナは意地悪だなあ。もう。」
くすくすと笑う彼女を見て、良かったなと思った。レイちゃんの走りが見れて楽しいレースが出来て、実りのある練習だったから。本番でもこんなレースがしたい。誰かの走りを見て強いな、はやいなって感じながら、自分ももっと走りたい、はやくはやく、一歩でも前に前にって思えるようなレース。楽しかった。やっぱり、こういうのがいい。
「ルーナさ、今から出走登録変えない? エリ女じゃなくてマイルチャンピオンシップ来てよ。短い距離も楽しいよ?」
すっかり息の入ったレイちゃんが、腰に手を当てながらそう聞いてくる。彼女の言葉に、ほんの少しだけ揺らぎそうになる。きっと、マイルチャンピオンシップに出たら、本気のレイちゃんと走れる。でも、もうトレーナーちゃんと決めたことだし。何よりも、私が走りたい相手はレイちゃんじゃない。勿論、本気のレイちゃんとも走りたいけど。
「やだ。私は有マ記念目指してるんだもん。」
「あちゃ~、振られちゃった。みんな有マ行くんだよね、ライトもそうだって言ってたし。」
額に手を当てて少し大仰にリアクションを取るレイちゃん。その口から出てきたのは、夏合宿で併せてもらった同期の名前だった。真っ黒の髪の毛とメッシュみたいに入ったジグザグの金色が、思い浮かんだ。
「ライトって、ライトイレクト?」
「そう、ライトイレクト、皐月賞勝った子。」
「へぇ~、ライトちゃんも有マなんだ。あれ、親しかったっけ?」
ふと湧いてきた疑問を何の考えも無く口にする。レイちゃんの動きがちょっとだけ止まって、一拍おいてから、じっと何かを試すみたいにこっちを見てくる。
「……ボクらの代の朝日杯の勝ちウマ娘は?」
「え? ライトイレクト?」
「正解。そしてボクの朝日杯の順位は?」
「えっしらな、あ。」
歴史に残るほどの大接戦。残り三ハロンを二人のウマ娘が、その二人だけが勝利に向かって走っていた、と言われるほどの名勝負。写真判定にまで持ち込まれたハナ差の明暗。その一着がライトイレクトで、二着が目の前にいるシルヴァーレイスだ。つまり、シルヴァーレイスがマイルのG1で唯一負けたことがある相手が、ライトイレクトということで。負けず嫌いのレイちゃんにとって彼女は、
「因縁の相手、ってやつだ。」
「フフ、そう。でもアイツ、がっつりクラッシック戦線走ってたし、シニア級は中長距離戦線に行くみたいだからなぁ。一緒に走れないかも。もう一回でいいから、一緒に走って決着付けたいんだけど。」
「やっぱり、一回負けた相手とはもう一回やりたいよね!」
元気よく頷く。心の中では、本当に首が取れちゃいそうなほど頷いていた。でも、レイちゃんはきょとんとした顔をしていた。
「ルーナって公式戦で負けたことあったっけ?」
「え? いや、無いと思う。……うん、無いよ。」
今まで走ったレースを指折り数えてみる。メイクデビューにプレオープン、阪神ジュヴェナイルフィリーズ、桜花賞、オークス、紫苑ステークスに秋華賞。七戦七勝で全部勝ってる。ああ、そうだった、私って今、無敗なんだった。そうすると、負けたって言い方はちょっと変なのかも。
「なんていうか、こう、勝った気がしないレースがあって。」
「もしかして秋華賞?」
「……どうしてそう思うの?」
「う~ん、あまりにも完勝だったから。ルーナは面白いレースが好きでしょ?」
「うーん、正解!」
「お、やった。」
間違ってはいない。だから正解。秋華賞はあっという間に終わっちゃったから。今でも信じられないぐらいだ。みんな、私のことを無敗のトリプルティアラって呼ぶから、ちゃんと事実なんだろうけど、実感はない。呆気なく、本当に呆気なく終わってしまったから。秋華賞のメンバーが違ったら、なんてことも考えたくらい。良くないことだって分かってるけど、そう思っちゃうぐらい、印象に残らないレースだった。
いけない、あんまり暗い顔はしたくない。自分の口角が変に下がってるような気がして、気を引き締める。楽しい走りの後なんだし。そう思ってレイちゃんの方を見ると、なんだか私の後ろを見て、ぴくぴく耳を動かしている。誰かがこっちに近付いてきている。さくさくさく、と芝を踏む音がする。誰だろう。親衛隊の子でもいるのかなと思って後ろを振り返る。
「お疲れ様、シルヴァ。そしてベルベットルーナさん。」
リン、と鈴が鳴るみたいなかわいい声。さらさらの黒髪に、アメジストみたいなきらきらの瞳。やっぱり、何度見ても妖精さんみたい。私の後ろに立っていたのは、ペルシカリアだった。
「初めまして、じゃないよね?」
「あ、はい、何回か……多分、一方的に。」
「ふふっ、そんなに緊張しなくて大丈夫。私も一緒。少しお話したかっただけだから。」
たれ目がちの瞳がちょっとだけ細められて、お人形さんみたいな笑顔を浮かべている。顔に掛かった一筋の髪の毛を脇に寄せながら、じっとこちらを見ている。
「こんにちは、私はペルシカリア。素敵な走りをする後輩だって聞いていたから、一度ちゃんと見て見たかったの。お話しできてうれしい。」
どこかのご令嬢みたいな雰囲気に、なんか気圧されてしまう。私よりもずっと小さい背丈に、目立つ大きな耳。手も足も、私よりも小柄なのに、なんとも言い難い大きさがある。なんか、体よりも一回り大きい。威圧感って言うのかな? でも、バ体を大きく見せるのは重要だってトレーナーちゃんも言ってたし、そういうのが得意なウマ娘も居るから、多分そういうタイプなんだと思う。たぶん。
「こ、こちらこそ、お話出来て嬉しいです。」
握手し始めそうなくらい堅苦しい挨拶しか返せなくて、ちょっと口をもごもごとさせる。まるで英語の授業みたい。
「噂通り、楽しそうに走るんだね。」
「……そうですか?」
思わず目を見開く。初めて言われた気がする。楽しく走りたいってずっと思っているし、そうやって走っているけど、他の人からもそう見えるんだ。トレーナーちゃんからは技術の話とかはされるけど、印象とかイメージみたいな話はあんまりされないから、気が付かなかった。私って、楽しそうに走るんだ。
「あら、貴方、本当にレースの事しか考えないタイプ?」
「えッ、あ、え?」
聞かれたことが分からなくて、しどろもどろになってしまう。レースで、レース以上に大切なものって、何があるんだろう。か、勝ちたいって気持ちとか? 負けたくないって意地とか? もしかしてそういう話じゃない?
「ペ~ル、そう意地悪しないでよ。困ってるだろう?」
「んふふふ、ごめんね。」
何が何だか分かっていない私を見かねて、レイちゃんが助け舟を出してくれたみたい。やれやれと言った様子のレイちゃんを見ると、これがこのウマ娘の平常運転だってことが、何となく分かる。何が何だかわかり切ってない私を置いて、ペルシカリアさんは話を続ける。
「私、みんなの為に走るのが好きなの。」
隙のない完璧な笑顔のままで、目の前のウマ娘はそう話す。
誰かの為とかみんなの為とかそういうのがよくわからなくて、悩んでいたのをふっと思い出した。そういえば。霧で包まれていた心臓の穴が、もう一回顔を出してきたみたい。
「次はエリザベス女王杯ね。貴方も、そうでしょ?」
「は、はい。そうです。」
おずおずと、出方を伺うみたいに同意する。私の次走はエリザベス女王杯だ。そして、トレーナーちゃんの情報が正しければ、このウマ娘も。
「ふふ、じゃあ、一番人気は私だわ。」
華奢な手が胸に添えられて、ぎゅっと口角が上がっている。その動きさえも、作り物みたいに美しくって、背筋がスッと冷えていった。
この先輩、宣戦布告に来たんだ。雷に打たれたみたいな衝撃が、私の体の中を音もなく走って行った。アフサーナとは訳が違う。同じ重さの宣戦布告でも、この先輩は、ずっとずっとしぶとくて、重くて、嫌な感じがする。レースで、ウマ娘で、こんな気分にさせられるのは初めてだ。でも、背中がぞわぞわするけど、それ以上に不思議だった。なんでこんなことをするんだろう、って。この先輩は、エリザベス女王杯を勝ちたそうには見えない。なんなんだろう、この先輩。このウマ娘は、なんでこんなことをするんだろう。
答えを出しあぐねていたけれど、時間切れみたい。放課後のチャイムが鳴り響いた。食堂に行かないと、ご飯が無くなってしまう。
「もうこんな時間、変な事言ってごめんね! ちょっとトレーナーと話さなきゃいけないから、戻るね。ルーナさん、ターフで会いましょう! そっちの方が楽しいわ!」
ペルシカリア先輩は、来た時と同じきゃらきゃらと鈴を鳴らすみたいな声を響かせながら、校舎の方に走って行った。その後ろ姿は、ただの小柄なウマ娘でしか無くて、さっきの落差に驚いてしまう。なんだったんだろう、アレ。無意識のうちに体に力が入ってた見たいで、不思議な脱力感を覚えた。
「……ごめんねルーナ。あの王女サマ、いっつもああなんだ。」
気が強くって困っちゃう。そう言いながら、申し訳なさそうな声のレイちゃんがこれまた申し訳なさそうな表情でため息をついている。レイちゃんが謝ることなんて何にもない。全然平気だ。初めての経験だったけど。
そっか、誰かの為に走ると、あんな風になるのかな。それとも、あの先輩が特殊なだけなのかな。やっぱり、まだ、私にそう言うのは無いけど。でもひとつだけ確信を持って言えることがある。
「……全然大丈夫。多分、私の方がはやいから。」
エリザベス女王杯で負けるなんて、これっぽっちも思えなかった。あの先輩よりも、私の方がはやく走れる。自分でも不思議に思うぐらい、揺らがなかった。ちょっと前まで風をつかまえていたはずの手のひらを、握ったり開いたりする。レイちゃんとのレースの感覚を忘れたくなかった。あの感覚で走っていたかった、けど、そうはいかないみたい。不安はないけど、何処か満たされない気持ちで深呼吸した。肺を叩く空気がいつもより冷たくて、ちょっとだけ後悔した。
「……今から走り込み?」
同室の後輩が学院指定のジャージを羽織っているのを見て、少し眉を顰めながら聞いてみる。腕時計を見れば、寮の門限までは一時間とちょっとしかない。ジャッっと音を立ててジッパーを胸元まで上げてから、足首の調子を確認している。完全に走りに行くときの動作だ。
「師匠が来てるんで。」
こちらを見ることも無くぶっきらぼうに言い放ったその答えを聞いて、ため息を鼻に逃がす。行先は近所の河川敷だろうけど、呑気に歩いていたら往復で一時間かからないぐらいだ。近所というにはちょっと遠いと常々思っているけど、この後輩にとってはどうってことない距離なんだろう。どうせ走って行って、走りを見てもらって、そして走って帰ってくるのだ。
「門限までにはちゃんと帰ってきてよ? 連帯責任で私まで雑巾がけしなきゃいけなくなるんだから。」
「分かってます。……じゃあ行ってきます。」
「……行ってらっしゃい。」
一分一秒が惜しいと言わんばかりに部屋を出ていく。扉の閉まる音を聞いてから、鞄をぽいと投げて、自分の体もベッドに投げ込んで、瞼を下ろした。そしてすぐに開く。顔を横に向ければ、扉の近くに口を閉じたゴミ袋が転がっている。あの袋の結び方は、私じゃなくてソレイユだ。意外なところで几帳面だからなぁ、あの後輩。出しておいてあげよう。
同室の後輩はブラウソレイユ。今をときめく説明不要の大物ウマ娘。そして今日話したのは、それよりも強いとされている無敗トリプルティアラのベルベットルーナ。そして私は、その新しい女王に真の女王は誰かを示すために立ちはだかる旧き女王、ペルシカリア。みんなは、こういうのは好きだろうか。好きだろうな。きっと盛り上がる。勝っても負けても、視聴率は鰻上りに違いない。レース場を満員にできる素敵なシナリオ。だったら、これで決まりだ。
「よし。」
上体を起こして、ベッドから立ち上がる。キキキ、と錆付いた音を出す椅子に座らず、引き出しから一冊のノートを取り出す。使い古されていて、鉛筆とボールペンとサインペン交じりの紙面はぐちゃぐちゃだ。読めるのは私だけ。まだ何も書いていないページを開いて、手元のペンを握って走らせる。
理想の走りをしよう。観客が喜んで、盛り上がれて、最高だったと感動に浸れるレースを。美しく、可憐で、艶やかな走りをしよう。舞台の幕引きのその最後まで、指先の爪の先まで磨き上げられた私の、ペルシカリアの走りを、お見せしよう。女王の政権交代は、まだ先だってちゃんと見せてあげないといけない。観客にも一緒に走るウマ娘にも、ベルベットルーナにも。手加減なんてしない。そんな生温い走りをするウマ娘じゃないことはずっと分かっていたのだから。今日だってそう。そこら辺のオープン級の子だったら、たとえ二二〇〇だったとしてもシルヴァは負けない。あの子は、とってもはやい子だから。でも、難なく負かしていた。適性があると言っても、あの末脚を内側から更に差し切るなんて。私も勝てたことが無いのに。正真正銘、一線級のウマ娘だ。
「私も出ようかな、有マ記念。」
誰も居ない部屋でそう呟いた。トリプルティアラにダービー菊花賞の二冠ウマ娘。それに可愛い可愛い妹と、皐月賞ウマ娘だって出走を決めている。年を締めるに相応しい顔ぶれが揃うみたいだから、そこに私が出たら、もっと楽しいことになる。口の中で高揚感が踊りだしそうになっている。この先のレースのことを考えたら、なんだか落ち着かなかった。すっと背中を伸ばす。足は一番、腕はブラバー。ゆっくりと持ち上げてアンナバンを通してアンオー。同時に浅めのドゥミプリエ、最後は大きく伸びてからアラベスク。筋肉の隅々まで伸びて、心地がいい。
「楽しいレースにしよう。」
私は妖精女王、ペルシカリア。ひとの願いが、歓声が、私を速くする。私なら、きっと月まで飛んで往ける、きらきらと輝く妖精の粉が、ひとつまみあれば。
♦
本番まで一週間を切った。今日は公開練習がある日。重賞レースの前になると、新聞社の人やテレビ番組の取材の人達が学院まで来て、練習風景を撮影取材していく。まぁ、重賞レースなんて毎週のようにあるから報道陣には毎日会ってる気がするけど。レース人気には見栄えも大事だから、グラウンドに出る前にしっかりと服装や髪形を整える。前髪はオッケー。後ろもちゃんと結べてる。体操服にシミ無し、シワも寄ってないと思う、多分。大丈夫。最後の仕上げとして練習用ゼッケンをつける。大きく書かれた通し番号の下には星の刺繍が四つ。G1レースを勝つと、練習用ゼッケンに星の刺繍が付くようになる。そうか、四つになったんだ。先日の秋華賞を勝って、G1四勝目。増えていく星とは裏腹に、軽くなっていく心が何だかやるせない。今日もまたちょっとした取材があるんだろうな、なんて答えたらいいんだろう。いっそのこと、最近はあんまり楽しくない、とか言っちゃおうかな。でもそんなこと言ったら、スポーツ新聞の見出しにおっきく書かれちゃいそうで嫌だな。別に、目立ちたいわけじゃないし。何処に向けるでもないモヤモヤを、そっとしまって、ゼッケンをつける。ただの四つの刺繍の星が、なんだか重いようで、それでいて価値なんてこれっぽっちも無いような気がした。
暗い気分を引きずってたら楽しく走れない。気分を入れ替えていかないと。最後の最後で服装を確認してから、グラウンドに出る。トレーナーちゃんはどこに居るんだろう。そう思ってキョロキョロと辺りを見回す。スタート地点から離れた場所に見慣れた後ろ姿と、カメラを持った人たちが見えた。あそこだ。バランスを取りながら芝の斜面を滑り降りる。あんまりやるなって言われてるけど、わざわざ階段を使って遠回りするのはちょっとめんどくさい。
「トレーナーちゃん!」
「おお、来たか。丁度いいところに。」
手招きされて近寄ると、カメラとマイクを抱えた人たちの視線が私に注がれるのが分かった。その圧みたいな熱気みたいなものに押されるような気分になって、後ずさりしてしまいそうになった。左脚をぎゅっと踏み込んで何とか堪える。どこかきらきらした目とマイクを向けられる。
「ベルベットルーナさん、少々お時間よいでしょうか!」
「エリザベス女王杯に向けてコメントを頂きたいのですが!」
「エリザベス女王杯に直行されるとのことですが、何か作戦があるのでしょうか。ローテーションについて何か伺え」
「ス、ストップ! ストップストップ! 一回落ち着いて! 一人一回ずつ、俺が答えらそうなものは俺に聞いてください、練習の時間がありますから。」
トレーナーちゃんが割り込むようにして取材陣を制する。おかげで何とかなりそうだけれど、今までとかちょっと違う空気にやっぱり押され気味だ。こんな風に取材を受けたのは初めてじゃない。G1の時はいつも記者の人が来るから、それなりにインタビューとかは受けている。でも、こんなに熱心な感じはしなかった。みんな、私のことを今まで以上にすごく知りたがっている。無敗のトリプルティアラって、本当の本当にすごいことらしい。史上二人目で珍しいことなのは分かる。私からしたら、たまたまだ。ただただ楽しく走っていたらなんかいっぱい勝てただけ。速く走れた、それだけなのに。何か特別なことをしたわけでも不思議な出来事があったわけでもない。インタビューは元々得意じゃないけど、今日のはいつもよりずっと疲れそうで小さくため息が出る。……ずっとこのままだったら、インタビューもレースも苦手になっちゃいそうで、嫌だ。何とか受け答えできるようにしないと。そう思って隠した左手にぎゅっと力を入れた。
「ルーナ、行けるか、時間は区切るよ。」
トレーナーちゃんへの質問が一通り終わったみたいで、少し身を屈めながら私の顔色を窺っている。トレーナーちゃんは私がインタビューとか取材が得意じゃないのを知ってる。だからちょっと不安げな表情をしている。次は私の番。心配はかけたくない。心の中でえい、と掛け声をかけてからひとつ頷いた。それを見たトレーナーちゃんがどうぞという感じで記者の人たちに促すと、取材の人たちが待ってましたと言わんばかりの様子でカメラとマイクを向けてくる。
「それでは私から。週刊ウマ娘の根岸と申します。秋華賞優勝おめでとうございます。次走のエリザベス女王杯まで中二週ということでタイトなローテーションとなっていますが、様子はどうでしょうか。」
「ええと、疲れとかは無いです。大丈夫だと思います。」
そうですか良かったです、なんてにこにこ言いながら次の人と交代する。
「テレビジョン阪神の福島です。次走はエリザベス女王杯ということで、初めてシニア級とのレースとなります。何か対策などされているのでしょうか。」
「と、特には……」
口をもごもごとしながら言い淀んでしまう。ついでにアイコンタクトでトレーナーちゃんに救援信号を送る。対策とかプランとか、そういうカンジなのは全部トレーナーちゃんに任せている。全部が全部丸投げってわけじゃないけど、座学とか分析とかは得意じゃない。出たいレース、試してみたい走り方をトレーナーちゃんに伝えれば、いい感じの戦略とかプランとかローテーションを組んでくれる。レース中は自分で考えながら走るけど、それでも頭脳派とか呼ばれるウマ娘よりは、気楽に走ってるんだと思う。だから、そういうのはトレーナーちゃんに聞いてほしい。というか、もう聞いたんじゃないの。私からのヘルプを感じ取ったトレーナーちゃんが、代わりに話を始める。
「シニア級と当たるからと言って特殊な練習などはしていません。彼女の走りができれば、十分に勝ちに行けると思っています。」
堂々と言い切るトレーナーちゃんの横でおもちゃみたいにコクコクと頷く。……本音を言ってしまえば、先輩たちと走って勝てるとか優勝争いに食い込めるとか、そんなことは思ってない。私は。絶対勝てると思って走った事なんて一回も無い。ただ、自分の足が速いのは分かるし、同じくらいの足を持ってるウマ娘が誰なのかも分かる。野生の勘、みたいなものなのかも。だから、自分よりも遅いウマ娘もなんとな~く分かる。何となくだけど。でも、じゃあずっと私が勝てるのかって言ったらそれは違う。本番は、レースの本番は走り終わるまで分からないから。だから、私が勝ち続けられている理由は、私自身が一番分からない。はやいから、強いから、運がいいから。全部なのかも。全部持っているのかもしれないけど、私には分からない。
「エリザベス女王杯には同じティアラ路線の先輩であるペルシカリアさんが出走を決めていて、新旧女王対決と言われていますが、意気込みなどありましたらお聞かせください。」
次の記者さんの声でハッと我に返る。意気込み。なんて答えるのが正解かなぁ。絶対に勝ちますなんて言えないし、勝てるかどうかわかんないですとかバカ正直に言ったら「無敗の女王に不安か」とかって見出しにされちゃう。本当に問題なくここまで来ている。疲れも無い、怪我も無い。だから。大丈夫なはず。意気込みってなんだろう。中途半端に口を閉じたり開いたりしながら、当たり障りのない言葉を選んで発した。
「……シニア級の先輩と走ることになるので、今までよりもっと集中していい走りができるように、頑張りたいです。」
どこか満足げに、私の言葉を手元のメモに書き取りながら頷く記者の人に、なんだか申し訳なくなった。本当はそんなこと全然思ってません、なんて言ったらびっくりしちゃうだろうし、多分これが正しい。トリプルティアラとは別の重圧が、ずしっと背中に伸し掛るような気がした。
「それでは時間なので、このへんで。」
トレーナーちゃんの一言で報道陣が離れていく。それと同時にグラウンドにホイッスルとゲートの音、それと一秒にも満たない僅かな時間の後に、轟音に近い大きなキックバックの音が響く。みんなの視線がそちらへ吸い寄せられるように動く。音の元は一番内側のダートコースからだった。
ダートコースで追切をしているのは、チーム「コペルニクス」の面々だった。見覚えのある後ろ姿が、風と一緒に去っていく。最高のスタートを切ったのはティンクトリア先輩。
「抜群のスタートと先行力ですね、G1連勝は伊達じゃないなぁ。」
「ジャパンカップも期待できそうだ。」
記者の人がそう呟いた。ティンク先輩は、今年の宝塚記念を制した後、先週末の天皇賞・秋を快勝。次走はジャパンカップだって寮で聞いた。確かそのまま秋シニア三冠目指して走るって言ってたような気がする。いつも通り、指の先からつま先まで気を配った綺麗なフォームだ。ティンク先輩に食らいついているのは誰だろう。白と赤のツインテールみたいな髪の毛に見覚えがないからジュニア級のコかも。そうだとしたら、凄いウマ娘だ。ジュニア級でシニア級のティンク先輩と先行争いが出来るだなんて。大柄なバ体を大きく動かしているからか、すごくダイナミックな走りをするウマ娘だ。
そして二人の後ろをトロトロと追走しているのがソレイユだ。六バ身ぐらいは開いているだろうか。今でも欠伸をして寝っ転がりそうな勢いでやる気がない。
「……いやぁ、相変わらずですねぇ」
「あれで本番勝ってくるんだからたまったもんじゃないよなぁ……」
本番前の追い切りはこうやってインタビューとかで公開されるから、ファンの人気を左右する。あまりにも元気がないとか走り方がイマイチだったりすると、本番で人気が一気に下がる。勝つのが一番だとしても、人気が出るのはなんだかんだ嬉しいし、色んな理由から人気を上げて注目されたいってウマ娘もいる。だから普通は公開練習とか公開追い切りの時は、嫌でも頑張ったりするのもなんだけど。一応、六バ身差を保ったまま追走している。でも、そろそろ追い上げないと追いつかない距離だ。
「……ルーナ?」
「あっ、えっと、」
トレーナーちゃんに声を掛けられてから、練習が始まっていることに気が付いた。行かなきゃ。人気が欲しいわけじゃないけれど、期待されているみたいだからそれ相応の走りは見せたい。不甲斐ない走りはしたくない、だけど。それができたとしても、楽しくないのなら。バッと旗の上がる音がして、コペルニクスの面々がゴールした。先頭はティンク先輩で最後はソレイユだと思う。次は私たちの番。報道陣の後ろを通って、スタートラインに向かった。
元気よく飛び出していったウマ娘を見る。全員いいスタートだ。一番本番が近いのはベルベットルーナ。今週末にはエリザベス女王杯への出走が決まっている。ネムマルヴェシアに先行させてその後ろに張り付くように付けるベルベットルーナ。風を避けつつ体力を温存させる作戦だ。その外には、トレフルブランが蓋をするようにマークしている。最後方には今年の有力ジュニア級ウマ娘、ルースルチアが付けている。既に重賞を勝っているから、年上とぶつけても特段見劣りはしない。今日は本番前最後の追い切りであり、メディアに露出する練習機会になる。だから、レースを見るであろう観客へのアピールも含めていつもよりも少しだけ力を入れて走ってもらう。今回はしっかりと負荷をかけて追ってもらう。
今年のエリザベス女王杯は強敵揃いだ。同世代からは、オークスや秋華賞でも戦ったアフサーナ、フェアリィドロップ、他にも実力のあるウマ娘がやって来る。上の世代からは、路線を問わず活躍し重賞四勝の古豪サガラローズ、長距離戦線にも名を連ねる実力派ヴァイディリュートも駒を進めてくる。そして目下の課題となるのは、やはりペルシカリアだろう。昨年のダブルティアラウマ娘。オークスは取り逃したとはいえ今年のヴィクトリアマイルは完勝と言える走りで無事優勝。G1を三勝している実力は本物だ。だから今回はペルシカリアを意識した練習メニューを組んだ。彼女が中距離を走る時、瞬発力勝負を仕掛けたがる。中団で脚を溜めて最後の直線で前の集団を差し切る戦法。それに対抗するのなら、それ以上の脚で差し切る、もしくは追いつかないくらい差をつけた上で二の脚を使って振り切るかの二択だ。ルーナならどちらも対応できるとは思うものの、彼女の最大の武器は大きなストライドから繰り出される長く良い脚だ。加速ラップを刻みながら、速度をキープしたままゴールまで走り抜けられる。王道の走りをすれば、誰にも負けないだろう。ベルベットルーナというウマ娘は、そんな速さを見せてくれる。だから今日の練習は、逃げ先行が得意な二人に協力してもらってペースは早め、バ群に揉まれる想定でしっかりと脇を固める。後半からじわじわと速度を上げてそのまま押し切る。この展開に持ち込めれば、本番も勝てるだろう考えている。
——ベルベットルーナは、歴史になる。言い切ってもいい。こんなウマ娘に出会えたことは、トレーナーの誇りだと言っても過言じゃないと思っている。恵まれた身体能力、どんなペースも対応してみせる卓越した走りのセンス。そして何よりも、と思ってから少し頭痛がした。上手いこと来ている、過度な疲労も一度の怪我も無くここまで来ている。だが、懸念点が無いというのは嘘になる。
追い切りは最後の直線に入るところだった。ハナを主張していたネムマルヴェシアが少しバテて位置を下げてくる。その隙を見逃さず外からトレフルブランが進路を潰す。一番後ろからルースルチアが差しの準備を着々と進めている。良い感じだ。ルーナはバ群に揉まれるのは得意じゃない。その上で、差し切られそうになるレースが多々あった。オークスに秋華賞、今回のレースの理想とするのは桜花賞の再演。二着に五バ身差を付けて勝利した、あのレースがもう一度できたのならどんなウマ娘も彼女の敵じゃない。遠心力でバ群が膨らむところに鋭く切り込んで、掬うように内ラチに寄せる。京都レース場想定だからできる芸当だが、横に広がる傾向のあるエリザベス女王杯だからこそ、この作戦が効いてくるはずだ。指示通りに内側に進路を取ったベルベットルーナが加速する。負けじとトレフルブランも加速をするが、スピード勝負では少々分が悪い。難なく交わして先頭に躍り出る。残り一〇〇。ルースルチアが後方一気で差を詰めに掛かる。成長分を加味しても本番で襲い掛かってくる先輩方の方が一枚上手だとは思うが、それでもルースルチアの末脚を凌げるのならば、十分すぎる出来だ。タブレットを持つ手に力が入る。ルースルチアがベルベットルーナに並ぶ、そして加速。見事な二の脚を見せたのはやはりベルベットルーナだ。ゴールと共にストップウォッチが、ぴ、と音を立てる。
「……いいタイムだ。」
表記されたタイムを見て、噛みしめるようにそう言った。本番よりずっと短い距離だが、これだけの時計が出せるのならば勝負は決まったようなものだろう。さっきの取材でもう少し吹かしても良かったな。いつもより浅い呼吸をしながら戻ってくるウマ娘たちに声を掛ける。
「お疲れ様、いい時計が出ている、いい感じだ。」
「届かなかったぁ……」
「はは、後で確認するが、ルースもいい末脚だったな。」
「届かなきゃ意味ないし。本番はもっと切れる脚使いたい。」
「ネムはとりあえず息入れて、ブランは……平気そうだな。」
流石はステイヤーと言ったところか。トレフルブランはすぐに息が入っていてケロッとしている。逆にネムマルヴェシアは二〇〇〇メートルでもすぐには呼吸が戻らない。発汗もしている。適性距離や体質の差だろうか。現にネムマルヴェシアは、秋華賞からは休養に入り、次のレースは年明けになるだろう。来年からはシニア級だし、マイルや短距離戦線も視野に入れてローテーションを組まねばならない。ルーナはというと。
「……ルーナ?」
どこか上の空のベルベットルーナに声を掛ける。元々どこかフワフワとしたウマ娘だったが、最近は輪をかけてふわふわとしている。集中できていない、そんな感じだ。でも、練習に顔を出さないとか走りに悪影響が出ているだとか、そんな様子は一切ない。いや、集中は出来ていないのかもしれないが、よそ見をしていても勝てるようなポテンシャルがあるウマ娘だ。心配は、心配はしていない。本当だ。信じている。でも、あの状態で全部の力を出し切れるのか、本当に疲れが残ってはいないか、不安ではある。勝ってくれるだろうという予感が本人の状態で不安に変わる。
「あ、えっと、なんか、だめなとこあった……?」
「いや、特には……」
タイムもフォームも問題は無い。上々といったところだ。本当に、驚くぐらい問題は無い。
「脚の様子は? ちょっとした違和感でも言って欲しい。」
「んー……特には無い、かな。全然いつも通り。」
足首をぐりぐりと回しながら様子を見るルーナをじっと見るが、やはりいつも通りだ。ただ単に、本番前の緊張やらなんやらで俺がやられているだけなのかもしれない。心配事の九割は起こらないなんてことも言われているし、気にしないのが一番か。閉じた口の端から息を吸って、吐く。トレーナーがこんなに不安がっていたってしょうがない、しょうがない。練習を終えたウマ娘たちに休憩の指示を出してから、コース脇のベンチに戻る。太陽の熱でほんのり温まったプラスチックの椅子がギュギ、と変な音を立てた。
「不安そうな顔をしているねぇ。」
頭上から声がかけられる。煙草で掠れたであろう特徴的な声だから、間違えるはずがない。
「……紫苑さん」
「んふふ、そんな顔してたらウマ娘にも伝わっちゃうよ。」
「ッス……」
「何がそんなに不安かな。」
やれやれといった様子で二つとなりの椅子に腰を下ろしている。手元にはデータを見るためのタブレットではなく、缶コーヒーが握られている。だらだらとクールダウンをしている担当ウマ娘をじっと眺めているようだ。
別チームのトレーナーに心配されるほど、顔に出ていただろうか。本当に些細な事なのだが、俺はどうにも気になって仕方ないらしい。やりにくいような気持ちが伝わらないように、ぐいと話題を変える。
「……紫苑さんのところの子、結構ムラありますよね。」
「うん? あぁ、ソレイユの事?」
「ええ、まぁ……」
ブラウソレイユの練習もそうだが、それ以上にコペルニクスはなんというか、キャラが濃いというか、なんというか。現に、一緒に併せていたジュニア級のウマ娘——名前は確かピースオブケイク——は、既にマイル短距離路線に専念する予定でローテーションを組んでいると聞いた。今日は来ていないが、アンバークレイルもダート戦線とはいえ、早い段階からクラシックディスタンスではなく短い距離で走っていたような気がする。割と強気に出ることで知られているティンクトリアが常識人の優等生に見えるぐらいのチームだ。
「今年クラシック走ったのってブラウソレイユだけですよね?」
「そうだったかな、うん、多分そうだね。」
さもなんてことの無いような声色の返事が返ってくる。やっぱりトレーナーが変だと集まるウマ娘も変、一癖あるのが集まってくるのだろうか。紫苑さんが一流のトレーナーだということは身をもって理解している。第一、G1戦線に担当ウマ娘を送り出せる時点ですごいチーム、実力のあるトレーナーなのだ。だけれど、本人の希望であったとは聞いているもののティアラ路線を走っていたブラウソレイユを勝敗になるかもわからないのにダービーに出したり(結果が伴ったから良かったが)、早々に芝に見切りを付けてダートや野良のハードル走に転向させたりしている。判断が早いのは良いことなのだろうが、その早さには些か疑問が残る。三冠もティアラも、一生に一度のレースだ。走れるならば、走れる機会が才能が脚があるのならば、出ないという選択肢はない。芝でもダートでも、クラシックは一度だけ。そこを目指すのがウマ娘の宿命であり、トレーナーの定めなんじゃないのか。少なくとも、俺はそう思う。
「できるなら、クラシックは取りたいもんじゃないですか。」
だから、ダービーと菊花賞を取ったブラウソレイユとそのトレーナーである紫苑さんがこんなにフワフワと呑気にしていられる理由が分からない。ダービーだけじゃない。宝塚記念と天皇賞・秋で連勝を飾ったティンクトリアだって。元々G1で好走していた有力ウマ娘だから。と言われればその通りだが、やはり読めない。練習をしていないとか管理が出来ていないと言いたいわけではない。だが、「アルキオーネ」のように頂点を目指すようなモットーを掲げているわけでもない。純粋に不思議なのだ。どうして実績が出るのか。
「そうかぁ? そりゃ、まぁトレーナーとして取りたいレースが無いわけじゃないがね、走るのはアタシじゃないからね。」
「そういう、モンですかねえ。」
どうにも腑に落ちない。でも、皆が同じ考えではチームは成り立たないし、これでいいのだろう。強めの屁理屈みたいな感じでどうにか納得したことする。肩からちょっとだけ力を抜いて、腕時計に視線を移す。休憩が終わるまであと五分。本番のレースまであと数日。俺には、言いようのない不安を解消できないまま当日を待つことしかできない。それが不甲斐なくて下を向いてしまいそうになる。トレーナーによって、ウマ娘の走りは変わる。それは、彼女らの人生を左右することになる。トレーナーとウマ娘は二人三脚でレースを走り抜けていかなければならないのだ。トレーナーとして優秀であった父も、同じことを考えていたはずなのだ。きっと。解消したい、この不安を消し去りたい。俺の担当しているベルベットルーナというウマ娘が、とても速くて強いのだと示すために。誰よりも、ルーナの為に。組んだ両手に力を込める。手の甲に筋が浮かんでいる。俺が下を向いている場合じゃない。何も分かっていないのに。でも、分からないなら分からないなりに歩いていかなければ。隣の人は、俺の事なんか気にせずに缶コーヒーを飲み干していた。俺をじっと見下ろしているだなんて、知らずに。
♦
『真夏を彷彿とさせるような突き抜ける青空の下、煌びやかなティアラを求めて有力ウマ娘が揃いました。』
『少し午前中の雨が響いてますね。バ場状態は稍重ですか、これは紛れがあるかもですね。』
『そうですね~、人気や実力だけではなくレース運びなどが重要な一戦になりそうです。さあ、そんなエリザベス女王杯ですが今のところの一番人気は……ここは譲れなかったか、一番人気ペルシカリア。』
『そうですかそうですか、ということは二番人気にベルベットルーナですか。』
『そのようですね。ですがその差は僅か、女王対決になるとの予想、楽しみになってきました。』
『面白いレースを期待しましょう。新旧女王対決!』
『——さぁ、京都第十一競走、出走ウマ娘入場です。G1エリザベス女王杯はフルゲート、十八人で争われます。』
つい最近も聞いたおなじみの曲が耳に入ってくる。つま先で二回ぐらい地面を叩く。靴の裏に付いた蹄鉄がコンクリートとぶつかってコンコンと音を立てた。レース中に外れることはなさそうだ。毎回ちゃんとチェックはしているけど、万が一が無いとは言い切れない。取材の時よりもずっときれいに皺を伸ばした勝負服の裾を撫でる。指先だけで分かる高級な生地が、なんか嫌になりそうだった。
やる気は、出てない。無いわけじゃないけど、最高のコンデションの時と比べるとダメダメ。秋華賞の方がずっと良かった。でも、ここまで来ちゃってるんだから、走るしかない。走るなら、ちゃんと走りたい。それに、ここでモヤモヤしてたら有マ記念で勝負なんてできない。そう思う。ほっぺを両手で軽くはたいてから前を向く。出走するウマ娘の後ろ姿が、ひとつずつ光の中に消えていく。
『花は何度でも。一枠一番、一番人気ペルシカリア。』
どこか遠くに聞こえるアナウンスと同時に、凄まじい歓声が地下バ道にまで響き渡る。すごく人気があるとは聞いていたけど、実際にレース場で感じると本当にすごい。しっぽの毛がぞわぞわとするくらいの大歓声。こんな歓声は初めてだ。心の底から感心していると、ありったけの一を背負ってペルシカリアさんがターフに出ていく。その後ろ姿を眺めていれば、少しずつ光が近づいてくる。大きく深呼吸をして気合を入れる。レースが始まるんだ。幾ら調子が上がらないからと言って暗い顔をしていたらウマ娘失格。レース前にしか感じない緊張のぴりぴりが混ざった空気をめいっぱい吸ってから、歩き出す。
『二枠四番、女王は二人もいらない、新たな歴史をターフに刻め。二番人気ベルベットルーナ。』
いつもよりも強めなキャッチコピーと大歓声を聞きながら脚に力を込めて、ぎゅ、と緑の芝生を踏みしめる。ペルシカリアさんとはまた違う感じの声が、私に向かって降りかかってくる。これを聞くと、やっぱりレースって感じがして、すきだ。気が引き締まるってことかも知れない。その場でぴょんぴょんと二回跳ねてみてから、改めて走り出す。あくまでも軽く、負担にならないように。この後のレースに影響が出ないように、入れこまないように。一カ月ぶりのレース場の感触を靴底から感じながら、ゲートに向かう。エリザベス女王杯はスタンド前での発走だから、レース前からテンションが上がりやすい、らしい。私の場合は、レースってなるとすぐにわくわくしちゃうからあんまり関係ないかもしれない。奇数番のウマ娘たちがゲートに収まっていくのをじっと眺める。カラフルで個性がいっぱい詰まった勝負服が視界に入ってきて、心が勝手に楽しくなっていく。走るんだ、この子たちと。もうクラシック級じゃない。シニア級の先輩たちと、それさえも退けてきた同期たちと、走れるんだ。きっと、きっと楽しい。楽しいレースになる。そうに違いない。一強じゃない。私よりも速くて強いウマ娘がひしめき合うレース。面白くないなんてこと、絶対にない。喉の奥に何かつっかえるような違和感を掻き消すみたいに、胸のあたりをドンドンと叩く。まるで、自己暗示みたいなことをしている自分に気が付いて、口の端に力が入った。なんでだろう、私の脚はこんなに走りたがってるのに、私の気持ちはなんだか目の前のターフを素直に受け入れてくれない。それでも、手を抜くなんてことは出来そうになかった。最後の深呼吸をする。係の人に促されて、私もゲートに入る。周りから金属の重い音と、レース前のビリビリとした息使いが聞こえてくる。細く息を吐きながらゆっくりと構える。いつでも飛び出せるようにじっと前を見る。ゲートの隙間から漏れ出る光が目に突き刺さるみたいだった。スタンド前とは思えない静けさがやってきたら、レースが始まる。外側で誰かがゲートに収まった。いち、に。さん
『エリザベス女王杯、スタートです!』
『——さぁ、京都第十一競走、出走ウマ娘入場です。G1エリザベス女王杯はフルゲート、十八人で争われます。』
「ユーは見ないの?」
大きめのモニターに映るのは京都レース場のスタンドとターフ。音響は良くないが、レース映像を見る以外に使われることは無いのだから、これで充分だ。年季の入った革製のソファーに腰を下ろしながら、担当ウマ娘に言葉をかける。返事は分かっているが、コミュニケーションというものはウマ娘の指導の中でも大事だし、ちょっとした世間話だ。
「何をです?」
「エリザベス女王杯」
「ああ。今日か。見ませんよ。誰が勝つか分かりきってるレースなんて。」
「ははは、大層自分の予想に自信があるんだね、ユーは。」
可愛らしい返答をするブラウソレイユとは違って、今の言葉にモノ申したいと言わんばかりの表情でこちらを睨みつけるウマ娘が居る。ワタシとは別のソファーに座りながらビシビシと鋭い視線を投げつけてくるのはティンクトリア。先週の天皇賞・秋は見事な走りで勝利。G1二勝目をマークした。そして今日のエリザベス女王杯には、彼女の姉(双子の姉だから、同級生で同い年ではあるのだが)であるペルシカリアが出走している。それだけではなく、彼女の同室の後輩でもあるベルベットルーナの、シニア級の初陣でもある。とまぁ、彼女にとっては大注目のレースなわけで、そんなレースにこれっぽっちの興味も無いと言わんばかりの態度を取られると……という感じなのだろう。この生意気な後輩をどう扱き下ろしてやろうかと画策しているのが顔に出過ぎている。
「クーもそんな怖い顔しないで、お姉さんとカワイイ後輩の雄姿を見届けようよ。」
「……ふん」
ちらりと後輩ウマ娘を盗み見る。何処かに走り込みにでも行くのだろう、念入りに柔軟運動をしている。日曜日は学校も無いから休みなんだけど、練習を休みにするという選択肢は無いらしい。走りに真剣なのは良いことだ。
「ユーはどっちが勝つと思うの?」
「ベルベットルーナ。」
「ワオ、即答。」
「……」
クーの視線がまた鋭くなる。トレーナー、何か言ってやって。と言いたいのがよくわかる。どっち、と尋ねたワタシが悪かったのかもしれないが。ワタシがフォローを入れるよりも先に声が飛んでくる。まるで、突き刺さる硝子の破片みたいに。
「レースに絶対なんて無いのよ。」
彼女が、後輩であるブラウソレイユを嗜める時の言葉は毎回これだ。吐き捨てるような口調で。ティンクトリアは、どうにも『絶対』が好きじゃないらしい。クーは人気するウマ娘だ。名家のウマ娘で姉もクラシック級から結果を出している。でも、それでもクラシックの栄光には手が届かなかった。だからこそ、彼女の言う『絶対』は重い。それを察したうえで、この後輩ウマ娘はいつも同じ答えを出す。
「それを現実にしてくれそうだから応援されるんでしょ。」
これまた放り投げたような言葉。そして毎回同じ。仲が悪いわけじゃないが、まあ、方向性の違いという奴だろうな。ワタシとしては、ちゃんと走ってくれればそれでいいし。
「またギスギスしてるんですか?」
「お、アン。」
「エリザベス女王杯、始まっちゃいますよ。」
栗色の毛とまあまあな大きさのビニール袋を揺らしながらやってきたのは、アンバークレイル。ダート短距離に活路を見出した琥珀のウマ娘。なんだかんだとうちのチームの有力株が揃ってしまった。日曜日だというのに。人差し指で差し示された画面からは、入場のアナウンスが流れていた。
「どこ行ってたんだい?」
「……ちょっと、買い物に。あと実家から送られてきたものがあったので取ってきました。」
「そうか、じゃあここで見ていくといいよ。パンでも食べながら。ああそうだ、冷蔵庫に入ってるよ、炭酸水のストック。」
「ありがとうございます。……分かってたなら言ってくれてもいいんですよ。はい、お土産です。小さいですけど。ソレイユさんの分もありますよ。」
効果音が見えるんじゃないかという速さでユーの顔がこちらを向く。匂いで分かっていたとは思うが、自分の分があると分かるとこれだ。ちょろいな本当に。各々が場所を決めてソファーに体重に預ける。ゲートの閉まる音が静まって、およそ二秒。
『エリザベス女王杯、スタートです!』
静寂と大歓声の隙間で、新旧女王対決の幕が切って落とされた。ユーの予想通り、予定調和じみたレースになるのだろうな、と思っていた。
『宣言通りにハナを行くのはディソーダー、その後ろにサガラクッキーがぴったりと付けています。四バ身空いてベルベットルーナ。一番人気ペルシカリアは中団待機の姿勢。』
心臓の奥から音がするような錯覚。私は今、レースに出ているんだって脳みそじゃないところで分かる。前目三番手で先頭集団の外側。前も見れるし後ろの状況も分かる。良い位置を取れた。スタートはばっちり決まったから、コース取りは難しくない。最内を選ぶことも多いけれど、京都レース場だったら無理はしなくていいから、本当にいい位置だ。秋華賞の時みたいにマークされるかと思ったけど、それはペルシカリアさんの方に行ったみたいだ。後ろの方から、なんだかがちゃがちゃとした忙しない音が聞こえてくる。後ろを見る余裕は無いから想像でしかないけれど、中団では壮絶な位置取り争いが起こってるんだと思う。それに巻き込まれなくてよかった。向こう正面に入る第二コーナー。京都レース場はここからが長い。でもじっと我慢。ソレイユみたいにスタミナ勝負の真似事は出来ない。だからこそペースは絶対に崩さない。トレーナーちゃんは私らしく走れって言ってた。考えることは少ない、いつも通りに。だから、このまま、このまま。脚を振り下ろす度に伝わってくる感触、というよりも衝撃、が私の走りを誰よりも教えてくれる。自由に走っていいって言っている。平坦なターフに、前を走るウマ娘の勝負服がバタバタ音を立てながら靡いている。ここまで響いてくる歓声が、嫌なことを振り払ってくれるような気がした。
足に掛かる力が変わる。上り坂に入った。ここからがレースの後半戦で勝負所。一瞬の判断ミスが決定的な差につながる。集中力を切らさないように、真剣に走る。視界の右端に内ラチを入れて、膨れ過ぎないように、でもギリギリになりすぎないように調整しながら坂を駆け上がる。後ろはまだごちゃごちゃしているみたいで、荒い息使いと激しい足音がずっと聞こえている。バ場の内側はやっぱりちょっと荒れている。もう少し外に出た方がいいかも。第三コーナーを曲がるときに上手いこと出られたら。カーブの奥に小さくハロン棒の端っこが見えた。ってことは、残り千メートルを切っている。後ろの音がちょっとずつ近づいてくる。緩んでいたペースがスピードを増す。ゴールに向けてみんなが動きだす。私も前の二人を交わせるように、距離を詰める。でも追い越さない。仕掛け時まで風よけになってもらわないと困る。第三コーナーをスムーズに曲がり終えると、急な下り坂が待っている。レースが動く。でも焦っちゃだめだ。ここでスパートをかけると、差し切られる気がする。秋華賞の時にトレーナーちゃんがなんか戦略みたいなことを喋っていた記憶があるけど、よくわからない。でも、脚がここじゃないって言ってるような気がする。だから、落ち着いて坂を下る。バ群全体のペースが上がる。前から順番に、ジェットコースターに乗ってるみたいに加速していく。下り坂は、上り坂よりずっと短い。ここでの勘がレースを左右する。だから、ちゃんと見なきゃ。前は変わらず二人。差は半バ身とちょっと。交わせる。ただ、いつ交わすか、そのチャンスはいつ来るのか。見極めなきゃ。第四コーナーに差しかかるまであと何メーターあるだろう、あ、右前の子がダレた。右後ろの内ラチ沿いの子たちが、上がってくる音がする。だったら、このまま、バ群が本当の群れのように左に広がる。その、ほんの少し前に。
「……ッ、ここ!」
早いかも、でもここからなら誰も追いつかれずに逃げ切れる、自信がある。たとえ上がり三ハロン最速で飛んでくるコがいても、行ける。京都レース場の直線は長め。私の脚が使えるならいける、たとえ誰が飛んできたって。下り坂が終わるそのほんの少し前。前方の二人に並んだ瞬間にスパートをかける。風の音が変わってビリビリ痺れちゃいそうな音色が聞こえてくる。もっと前に、もっと速く、光みたいに、風みたいに。思いっきり脚を前に出す。後ろの蹄鉄の音がどんどん遠くなっていく。まるでここには私だけしかいない、そんな気分になる。最終直線に一人で切り込んでいく。空気が私に当たって二つに分かれていく。たのしい、きもちがいい。一番新しい風を割っていくこの感覚が、何よりも好きだ。バ群の中で閉じこもっていたところから、バッと開けるこの感覚。大歓声さえ遠くなるくらいの風の音。ごうごうと音が強くなるにつれて、自分の脚も音を立ててスピードアップしていくのが分かる。前に大きく開いて後ろ足をもっと前に出して。それをただ繰り返しているだけなのに、風景が後ろに溶けて、音が風にかき消されていくこの感じ。たのしい、本当に、楽しい。視界の端にハロン棒の赤い文字がカットインしてくる。残りは二〇〇メートル。あとちょっと。
——残り二〇〇メートル? それは、それって。終わってしまう。エリザベス女王杯が。もうあと二〇〇メートルで。あとほんの十秒ちょっとで、このレースが終わってしまう。なのに、
誰も、きてない
「うそでしょ」
後ろの音が遠い。誰かが追い込んでくる音はするけれど、このままのはやさで走っていたら。
誰かに冗談だって言って欲しかった。あの時と同じ思いはしたくないと、それだけは絶対に嫌だって思っていたのに。だから走ったのに。ここに来たのに、どうして、どうして。このまま、このまま走っていたらゴールしちゃう。私が先頭で、何の面白みも無くゴールしちゃう。最悪の可能性が頭を駆けまわっている。顔に当たる風が気持ち悪い。歓声が渦巻いてるみたいで気分が下がる。こんな、こんなレースに何を狂っているんだ、見ている人たちは。
『残り二〇〇を切って先頭ベルベットルーナ、ベルベットルーナだ! 二番手にルビーノ、しかし差が開く離すベルベットルーナ! ディソーダーが内から盛り返すが、来た! 上がってきたぞアフサーナ! バ群の外から鮮やかにアフサーナ!』
でも止まれない。こんなところで。ターフの真ん中でなんて、止まれるわけない。
体が、乾いている。カラッカラに乾いている。あんなに楽しかった道中が夢みたいに思えて嫌になる。なんでウマ娘は走るのを止められないんだろう、いやだ、嫌だ。軽かった脚が重い。でも、重くても動かせる。走れる。このまま、走り切れちゃいそう。なんで、どうして。これは、これだけは嫌だったのに。ごちゃ混ぜになる気持ちとは裏腹に、全くスピードが落ちない走りをしている自分の姿が見えた。これが客観視ってやつかも。このレースで一番見られてるはずなのに、今誰よりも注目の的のはずなのに、妙に冷静で置いていかれてて、ちっともかっこよくも可愛くも綺麗でもなかった。誰にも見られたくなかった。
『アフサーナすごい脚で突っ込んでくるが先頭ベルベットルーナ! ベルベットルーナ一着でゴールインッ! 大仕事をやってのけましたベルベットルーナ! 二着争いは大接戦、シモクノリーナかアフサーナが並んで入線、写真判定となりました。今しばらくお待ちください。……勝ったのはベルベットルーナ。ファインモーション、ダイワスカーレットと名ティアラウマ娘に次いで名前を刻みました、史上四人目、秋華賞から連戦連勝ベルベットルーナ! これは歴史に残る器、見事、見事ですベルベットルーナ! 真の女王の座を新時代の訪れを、傷ひとつ付けることなく、その脚で魅せつけました!』
「なんで」
腕を上げることもせずにその場に立ち尽くす。すっからかんの脳みそにはハテナマークがぎゅうぎゅうに詰まっていて、それ以外の言葉をしゃべれそうになかった。勝ったのに、心がとげとげしている。とげとげを超えて、ずきずきする。本当ならニコニコ笑顔で手を振って、お辞儀とか、そういうのをした方がいいって分かってる。今までのレースはそうしてきた。だけど今日は無理かも。ダメだ、なにも考えられない。なんで、どうして。そればかりが降り積もってどうしようもない。身動きが取れない。
ハッとして、一番人気の先輩を思い出す。あのウマ娘は、どこに居たんだろう。今どこに居るんだろう。肩で息をしながら芝生を見つめているウマ娘たちを縫うように視線を這わせて、藤紫の勝負服を探す。バレエの衣装みたいな勝負服を必死で探す。あの先輩は、レースでどこを走っていたんだろう。
彼女の色があったのは、だいぶ後ろの方だった。はるか後方、と言ってもいいぐらいの、後ろ。ゴールインしてからの順番だから、着順はまた違うのは理解しているけど、それでも遠いんだろうなって思えてしまった。ずっと、私の後ろを走っていたんだってことだけは、直感で理解できた。華奢な肩が、大きく揺れている。黒い髪の毛がカーテンみたいになって視界を遮っているから、どんな顔をしているのかは見えないけれど、多分いつものペルシカリアさんではないんだろうなって思った。どうしようも無いぐらいその姿を見たくなくて、視線を観客席に戻した。私の勝利とペルシカリアの惨敗に、スタンドは大騒ぎだった。私は、手を上げずにひとつ礼をして、ターフから移動した。いつものお礼をするような気力は、もう残っていなかった。息が入るのが早くて、気力がドンドン無くなっていった。
地下バ道を歩きながら思った。私の予感は当たってたんだ。嫌だな。当たって欲しくなかったのに。私よりも速いウマ娘が存在するってこと、証明してくれても良かったのに。
♦
「そこを、そこを何とか~!」
「ダメ! ダメなもんはだぁめ! あたしゃ引退の御隠居なんだ、もうデビュー前のウマ娘なんて見やしないって決めたんだから! ダメなもんはダメ! 帰んな!」
「やだやだやだ~! いやだ! ウチはアルルバじゃないとヤなの~ッ!」
「……あの金髪の子、元気すぎない?」
「ルーナもそう思う? 俺もそう思う。」
不完全燃焼のエリザベス女王杯が終わって数日後。いつもの日常が戻ってきた。
エリザベス女王杯の後、あまりにも様子がおかしい私を心配してくれたトレーナーちゃんを横目に何とかウイニングライブを終わらせて、帰りの新幹線の中で、色んなことを話した。正直、放心状態に近い感じだったから、ちゃんと話せてたかは分かんないし何を話したかあんまり覚えていないけど、秋華賞ぐらいから走るのが楽しくないこと、レースが面白くないこと、気持ちが脚と離れていくことを、自分なりに話した。すごく悲しくて寂しいはずなのに、涙なんて出てこなくてびっくりした。この気持ちには、悲しい寂しい以外の別の言葉が付くんだと思う。トレーナーちゃんと話したおかげで、ちょっとは楽になったけど、解消されたわけじゃないから、やっぱり不完全燃焼ってかんじ。どうしたらいいのか分からないまんま、私の心の隅っこに放置されてる。
結局、一度休んでメンタル的な問題も含めて病院に行って診てもらうことになった。元々秋シーズンは連戦の予定だったから、区切りのいいタイミングでしっかり検査しようって約束してて、それに話し合いが追加になっただけ。疲れてはいるけど脚の調子は問題ないし、多分有マ記念にも出られると思う。心の問題も、なんか時間とレースが何とかしてくれるみたいなことを言われたから、大丈夫だと思う、たぶん。不安は拭えてないけど、だからって走るのを止めるようなことはしたくない。エリザベス女王杯で分かった。やっぱり私は走るのが好き。それで、もっと速く走るウマ娘に出会いたい。ただ、それだけなんだ。
それで、今日は病院から検査の結果が届く日。トレーナーちゃんのところに届いているはずだから、こうやってトレーナーの共同室にお邪魔している。雰囲気は教員室とおんなじかんじで、居座りたくなってしまう。……別のトレーナーさんの机が騒がしくてちょっと気になるけど。
「呼び出したのは、病院からの結果が届いたからなんだけど……」
「そうだと思った、変なところあった?」
この検査結果によって、ローテーションが決められる。予定では、このまま有マ記念に行く。ソレイユとの直接対決。私がずっと出たくて仕方なかったレース。距離はちょっと不安だけど、だからって回避するようなことはしたくない。たとえ、勝てなかったとしても、無敗のティアラから何かが取れちゃったとしても。視線をスマホに落としたまま机を指でリズミカルに叩いた後、トレーナーちゃんが口を開く。
「軽症だけど、左足首に炎症がある。」
「え」
「……その上で、全体的に筋肉の疲労が見える。」
トレーナーちゃんと目が合う。
「……有マ記念は回避だ。」
年に一回見るか見ないかぐらいの真剣そのものの顔。それを見て、へらへらと笑っていられる状況じゃないことを理解した。
「ベルベットルーナ、これだけは本当に譲れない。万が一このまま出走して、酷い結果に……いや、着順は重要じゃない。もう二度と走れない脚になる可能性だって否定できない。」
「で、でも、軽度だって、」
トレーナーちゃんの顔が左右に振られて、今まで見たことが無いくらいの真剣な表情でこう言った。
「ウマ娘の体にはまだ未解明なところが多い。だからこそ、小さな異変を放っておくような真似は出来ない。これは俺個人としての意見でもありトレーナーとしての意見でもある。……担当ウマ娘が、担当してる子だけじゃない。夢中になって走るウマ娘が脚を引きずって戻ってくるシーンなんて、トレーナーもファンも、ウマ娘だって、誰も見たくないんだ。」
そう、そうだ。私もウマ娘だから分かる。友達とか先輩とかが、辛そうにスピードとは無縁の状態でゴールにさえたどり着けないシーンなんて、絶対に見たくない。ちょっとの期間だけ走るのを休むのと、一生スピードに乗れなくなるのを比べたら、そんなの、絶対。
「……約束、だっただろ。」
どこを見たらいいか分からなくて、でもトレーナーちゃんの顔は見れなくて、なんか窓の外と机の間みたいな曖昧なピントの合わない風景みたいな場所をぼおっと見つめながら、ひとつ頷く。有マ記念出走は、私のワガママから始まった。半年で二レースしか走らないようなウマ娘が居る中で、私は既に三つのレースを走っている。その上で年末の長距離グランプリに出ようとしている。だから、体調に何の問題も無かったら、有マ記念に出ようって、そう決めてた。秋華賞が終わった時から。ハードなローテーションだとは分かってる、分かってるけど。出れると思っていた。疲れとかあんまり溜まらないタイプだったし、連戦も苦手じゃない、と思ってた。小さい頃から怪我とは無縁の生活だったのに、このタイミングでなんて。ウマ娘の女神様は、残酷だ。だって、トレーナーちゃんが言うことは何にも間違ってなくて、一生走れなくなる可能性がある脚のまま、それ以外の不安も全部抱えたまま、有マ記念になんて出られない。勝ち負けとか、そういうレベルに持っていけないかもしれない。
「有マ記念はクラシックじゃない。来年も再来年だってある。それに、俺は……ルーナは有マだって勝てると思ってる。だから、今年は……」
私はじっと膝を見つめながら、ひとつ頷いた。私の手もトレーナーちゃんの手も、膝の上で力いっぱい握られてて、ちょっと白くなっていた。別のテーブルで騒いでいた人たちはもう居なくなっていて、静かな騒めきが横にあった。痛くも無い脚に八つ当たりしそうになる。断腸の思いで、私は休養に入った。
早めすぎる冬休みが始まってから少し。ちゃんと言うなら一週間とちょっと。休養が初めてってわけじゃないけど、こんなにつまらない休養は初めてだったから何をしていいか分かんない。チームの練習に顔を出してもウォーミングアップのジョギングでペースメーカーとか道具の準備みたいな雑用とかしかできない。走りのカンを鈍らせない為には丁度いいってトレーナーちゃんが言うからやってるけど、全然楽しくないし面白くない。汚れてないジャージを眺めながらトボトボと歩く。このまま寮に帰ってもいいけど、なんだかそういう気分にはなれなくて、行く当てもなくただフラフラと歩き続けていた。街でお出かけしていたコが戻ってきている。寮の門限まではまだ時間があるから、練習を終えて外周に向かうコたちとすれ違う。こういうのを見ると、なんだかどっと疲れる。なんにもしてないのに、足が重いような気がしちゃう。オレンジ色が視界一杯に広がって眩しくて目を細める。そろそろ夜が来る。だけど練習を続けるウマ娘は多い。当然だ。トゥインクルシリーズの秋は、毎週のようにG1があるし土曜日にも重賞があったりして大忙しだ。先週はマイルチャンピオンシップがあった。シニア級の強豪がひしめき合うすごいレースだったのに、レイちゃん——マイルの貴公子、シルヴァーレイス——が最後の直線一気で勝利を掴んでいた。その前には秋の天皇賞で、同室の先輩であるティンクさんが勝っていた。今週末にはジャパンカップがある。海外のウマ娘もやって来る国際色豊かなレース。他にもジュニア級の重賞が本格的に始まって来年のクラシックの予想が出来るようになったり、ダートやナイターのレースも盛んになってきたりする。秋は、ウマ娘もファンもトレーナーもみんな大忙しだ。だからこそ、何もできないのが悲しい。手持無沙汰で見ているだけ。レースを見るのは好きだけど、隣に走りたいって気持ちがあるから、どうしても走りたくなっちゃう。だから、今は逆効果になりそうで見られない。
後ろから蹄鉄の音が響いてくる。誰かが外周とか河川敷に走りに行くんだろう。いいな、羨ましいな。そんな気持ちが漏れないように、口の周りに力を入れてキュッとする。体の右側を誰かが通り抜けた後の風が通ったのと同時に、視界の隅に見知った青色が駆けていった。その、今にも小さくなってしまいそうな後ろ姿を見て、思わず声をあげる。ほんとうに、無意識のうちに。
「ッ、ソレイユ!」
ハッとしてから、手で口を覆った。なんで呼び止めちゃったんだろう、話すような話題も無いのに。世界を橙色に染める夕焼けに照らされてもなお青い髪の毛が揺れてから止まる。ジャージ姿のブラウソレイユが立っていた。
「ルーナじゃん。どうしたの。」
「あ、」
口を一度開いてから、何もせずにそっと閉じる。用事があるわけじゃない。特別話したいことも無い。どうして声を掛けたのか、自分でも分からない。左の指の先が、ジャージの袖口に触れたから、そのままぎゅっと掴んだ。ソレイユは、そんな私を見て首を傾げている。……なんで、呼び止めちゃったんだろう。さっきとおんなじ後悔が脳みその中を染め上げていく。それを知ってか知らずか、目の前の青いウマ娘が世間話の延長線みたいな至って軽いノリで声を発した。
「今から河川敷に走りに行くけど、来る?」
一も二もなく頷いた。それを見たソレイユは何も言わずに正門の方へ走って行った。その背中を慌てて追いかけるみたいに脚を動かした。蹄鉄が規則正しい足音を立てて、風を切る鋭い音が耳に入る。速さ自体はそんなに出ていないはずなのに、顔を撫でる風がさらさらしていて気持ちがいい。
こうやってソレイユと走ることも練習をすることも、始めてだった。ずっとこのウマ娘の背中を追いかけてきたような気がしていたけど、実際に彼女の背中を見ながら走るのはこれが初めてだった。ウォーミングアップのランニング。速度を出すためじゃなくて体に走る感覚を定着させて思い出させるように走る。コンクリートと蹄鉄の音はびっくりするぐらい一定で、まるで機械が動いてるんじゃないかと思うぐらい。私は、ソレイユのことをなんにも知らない。同室でも同じチームでも同じクラスでも、幼馴染でもなんでもない。たった一回、桜花賞で走っただけの同期でしかない。こんなに完璧なペースで走れることも、どんな顔をして走っているのかも分からない。なのに、なんでこんなに目が離せないんだろう。このウマ娘の何が、こんなに私の視線を奪うんだろう。私はこの子のなんなんだろう。左右に揺れる長いしっぽを見つめながら、ただひたすらに走った。息が上がりすぎることも無く、淡々と、黙々と走った。自分の呼吸の音と足音しか聞こえなくて、なんだか静かだった。
どれくらい走っていたか分からないけど、河川敷だから多分十分ぐらい。やっとソレイユが止まった。堤防から川を見下ろせば、きらきらと輝く水面と練習するウマ娘の姿が眩しかった。ソレイユは何回か屈伸をしたかと思うと、そのまま階段の無い草だらけの川岸の斜面に腰を下ろした。
「で、なんか用?」
ぶっきらぼうに言い放ったみたいな声だった。視線は合わない。ソレイユが膝の裏を伸ばしながらそう問う。やっぱり、用事は無い。事務連絡はもちろん無いし、約束しているわけでもない。本当に話すことなんて何にもないんだ。でも、私はソレイユに何か言いたくて仕方ないんだと思う。何が言いたいかは、分かってる。それを言ったところでどうなるかなんて、わかんないけど。本当に分からないことだらけで嫌になる。でもこうやって何かを抱えたまんまでいるのも好きになれない。なら、言ってしまった方がいいのかもしれない。勇気というには小さすぎる何かを振り絞って、そっと言葉を口にした。
「有マ記念、出れなくなっちゃった。」
「あぁそう。ま、しょうがないね。」
開いた口が塞がらない。ぽかーんと開いた口がそのまんまになってる。友人から発された言葉はあっけらかんとしていて、その上で即答。私は目を丸くするしかなかった。まるで、私の出走取消に興味なんてない、そんな感じ。なんか、こう、もう少しないのかな、こう、さ。でもそう思ってるのは私の勝手だし。柔軟運動を続けるソレイユの横で立ち尽くす。
「……」
「いいじゃん、別に。勝つ機会が失われたわけでもないんだから。来年出てくれば。」
どこか投げやりでどうでもいいって感情がにじみ出てるような。嫌がってるカンジじゃなさそうだけど、彼女にとってベルベットルーナの出走回避は、どうってことない出来事なのかもしれない。ソレイユの横にそっと腰を下ろす。体育座りした脚の、膝と膝の間に顔を沈み込ませるみたいにして顔を隠す。そのまま言い淀みながら、言い訳染みた言葉がぼろぼろと出てくる。
「……でも出たかったし、走りたかったし。有マ。」
だってソレイユと一緒に走れたのに、とはあえて言わなかった。多分、拗ねてるんだと思う。もう少し、いい感じの反応が欲しかった。ええ~! とか言って驚いてほしかった。でもソレイユの事を考えたらそうならないのは当然。子供っぽいなって、自分でも思う。でも自分の機嫌に首輪が付けられなくて、言葉の端にうじうじした気持ちが乗ってしまう。
「だって、有マ記念、ソレイユは本気で走るんでしょ」
「勿論。」
被せるみたいな即答。分かってた答えだ。菊花賞を勝った後のインタビューで、有マに直行するって言ってた。その後は春の天皇賞。長距離G1を連戦する予定らしい。そのローテーションのまま進んだとしたら、私とソレイユが次に一緒に走れるレースはいつになるんだろう。大阪杯とかヴィクトリアマイルに出てきてくれるとは思えない。天皇賞の後はどこに出るんだろう、宝塚記念とか、出るのかな。それとももっと別の、例えば海外とか、行くんだろうか。
「僕が一番欲しいタイトルだから、本気で勝ちに行く。」
キラキラと黄金色に輝く水面を見つめる横顔を、盗み見るみたいにして見つめる。ふと、疑問が湧いてきた。
「……ソレイユってお祭り大好きだっけ。」
「別に。とくには。何なら嫌い。」
「だよね?」
じゃあ何で。有マ記念は年末のグランプリ。ファンや関係者の人気投票で選ばれたウマ娘たちだけが出走できるレース。それに一年の最後を締めくくるG1レースでもある。ただの長距離レースってわけじゃなくて、イベントみたいな雰囲気の強い華やかなレース。ソレイユは、そういうの好きじゃなさそうなイメージがある。ダービーとか菊花賞とかクラシックの大舞台で優勝したら、泣きながらインタビューに応じるウマ娘もいるぐらいだ。でもソレイユはなんてことないです、みたいな涼しい顔でレース回顧というよりも今後の事ばかり話していた気がする。だから、多分大きなイベントごととか、華やかま栄光みたいなは好きじゃないんだろうなと思っていた。だけど、有マ記念は好きみたい。一番欲しいタイトルだって。なんでだろう。そんな疑問が顔に書いてあったみたいで、こっちを一瞬だけ見たソレイユが話し出す。
「中山開催でシニア級のG1レースは、有マ記念とスプリンターズステークスぐらいしかない。僕は、中山レース場のG1を勝ちたい。」
「……」
「超えたい師匠が、いるんだ。」
あの、あのソレイユの目に水面の以外の輝きが灯る。何かを反射するんじゃなくて、内側から光る強い光が、彼女の瞳の中に存在していた。そんな姿を見たのは初めてで意外だったけれど、きらきらと輝いているその瞳が本物の太陽みたいで、目が逸らせなかった。師匠とかいう人が羨ましくなった。ちょこちょこ名前を聞く師匠というひと。雑誌やテレビのインタビューでも名前が挙がるから、ソレイユの尊敬する人なんだと思うけど、その正体は何なのか知らない。ウマ娘なのかトレーナーなのかもわかんないけれど、ソレイユに大きな影響を与えた存在らしい。
「勝ちたいんだ。そのレースに、僕が。」
声が一段、柔らかくなる。奥底に忍ばせた刃を、気が付かせるまいと、隠すように。何かを懐かしむみたいに上を向いて、夕焼けの空をじっと見据えている。その顔の表情は、やっぱり分からない。だけどまだ、満足していない。それだけは分かる。ブラウソレイユというウマ娘は、ダービーと菊花賞という栄誉をもってしても尚、満たされていない。キラキラの青と赤の輝きを持ったウマ娘は、現在地なんか見ていない。ずっと遠いどこかを見ている。私が無敗ですべてのティアラを掲げても、このウマ娘は私の事なんか見ていないんだと思う。眼中にないのかもしれない。
——やっぱり、私はこの子の背中しか見れてない。横に並び立つことさえ出来ていない心地になる。世間からすると、この二冠ウマ娘に五バ身差をつけた無敗トリプルティアラの私は、とんでもない逸材で稀代の名ウマ娘だって言われてる、らしい。でも、全然そんなんじゃない。桜花賞がたまたまだとは言わないけど、五バ身差はたまたま。偶然。もしも私たちが一緒に走ったのが桜花賞じゃなくて皐月賞だったら、五バ身差を付けられていたのはきっと私だった。隣で話しているのに、遠い。ソレイユが遠くて仕方がない。ずっとずっと前を走っている。初めて会った、あの模擬レースの時から。ぎゅっと目を瞑る。距離を感じる。でも、嫌いじゃない。この距離が、なんだか嫌いじゃない。いい意味でもわるい意味でも、観るものから最も遠い場所にいるウマ娘。だからこそ、ソレイユの走りは、私をウマ娘じゃなくて観客にしてしまう。私たちは目が離せなくなる。本当に、このウマ娘は青い太陽なんだって、ひしひしと感じる。心の底がとげとげしている。この距離を詰められない私自身と、この強いウマ娘を私以下と評価する私じゃない観客たちが。ジ、とソレイユを見る。とっても羨ましい。きらきらの瞳に、次に目指すモノがしっかり映り込んでいるように見えて、羨ましかった。私はどこを目指して走ったらいいんだろう。眩しくて、そっと視線を落とす。
「アンタは休養でしょ。」
顔をあげる。知ってたんだ。他人のそういうのには興味なさそうだから知らないとばかり思ってた。
「そう、ちょっと脚が腫れちゃって。」
「ああ、それはレースなんて出てる場合じゃないね。」
「……」
おしゃべりって、こんなに難しかったっけ。テーピングされた脚を見ながらそう思う。何を話していいか分からないから頭の中で次の言葉を必死に探していると、無言の時間が長くなっちゃって、次の言葉の勇気が必要になっちゃう。友達とのおしゃべりってこんなんだっけ。
「焦らなくてもいいでしょ。」
「……え?」
「別に、焦らなくったっていいと思うけど。」
心と気持ちがジェットコースターみたいにぐるぐるしてごちゃごちゃする。もしかして、おしゃべりが得意じゃないのは私じゃなくてソレイユなのかも。だって、ソレイユはいつだって突然で脈略が無くて何を考えてるか分からない。じっと彼女の言葉を待つ。
「僕は有マ記念に出るよ。観客の為とかファンの為じゃなくて、僕だけの為に。有マ記念に出る。そして、勝つ。この僕が、師匠の忘れ物を取りに行く。誰にも、絶対誰にも譲らない。証明する。この脚が、絶対であるところ。飛び越えてみせる。どんな障害も、歴史も、記録も、憧れだって。」
だから。そう言ってから少し、本当に少しだけ黙ったかと思うと、そのまま何事も無かったみたいに話が紡がれていく。
「来年も出る。再来年も出る。僕はまた有マを走る。機会はまだある。それに、まだ確定じゃないけど、他のレースだって走る。アンタもそうでしょ。」
「……うん、走るよ、いっぱい。」
走るのをやめるつもりは無い。今は休憩中なだけで、もっといろんなレースに出たいしいろんなウマ娘と走りたい。それは変わらない。ウマ娘として走り出した時からずっと。初めてトゥインクルシリーズのレースを走った、あの日からずっと。
「ならいいじゃん。今年じゃなくったって。」
ばちんと大きな音がしたような気がした。赤と青のオッドアイ、魚目が、私をまっすぐに見据えている。そうだ、そうだ。そう、なんだけど。さっきとは違って言いたいことはいっぱいあるのに、言葉にするにはあやふやで、きれいな輪郭を探すのに手こずってしまう。ぼろぼろぐちゃぐちゃの気持ちのまま、なんとか言葉にする。
「じゃ、じゃあ、走ってくれるの、いつかのレースで。」
「うん? 走るも何も、多分いつかかち合うことになるんじゃないの、どっかのレースで。いつになるかは分からないけど。ベルベットルーナとブラウソレイユのレースは日本中のファンが期待してるはず。多分。」
「そっか、そうかも……」
史上二人目無敗のトリプルティアラと、ティアラ路線出身の二冠ウマ娘。それが、同世代に。近い未来で私たちが激突することがあったとしたら、それはきっと三冠ウマ娘が三人集まったあのジャパンカップと同じくらい凄いレースになるだろう。その可能性が存在している。そのことを、ソレイユが近い未来のこととして語っている。そのレースが来ると思っている。
「僕はまだ完成していない。最盛期とは言えない。この脚には、まだ可能性がある。こんなもんじゃないよ、僕は。」
そう言いながら足首を動かす。それだけで柔軟性が見て取れるようだった。
「だからまぁ、なんだ、その、見てなよ、有マ記念。僕がどんな走りをするのか。」
「……見る。見るよ、ちゃんと。」
私が出られなかったレースを、ソレイユがどんなふうに走るのか。見逃さないように、ちゃんと見る。だから、だから。その代わりに。
「約束してほしいの。」
追いつきたい、太陽に。まだ完成していない太陽の、全てが見たい。あの底の無い走りの全てを体感したい。この身に浴びたい。一緒に走ったウマ娘だけが分かる、あの恐ろしさの正体を、見極めたい。ソレイユに、ライバルだって言って欲しい。ずっと探していたものが、そこに在る気がするから。
「いつか、いつか絶対私と全力のレースをして。」
身を乗り出すみたいにしてソレイユの瞳をまっすぐ見据える。さっきされたことをそのまま返すみたいにして。耳の奥でぱちぱちと何かが弾ける音がする。この感覚は初めてじゃない。いつだっけ、いつ感じたんだっけ。何かが始まるような予感と、何かが儚く消えるみたいな予感が一緒にする。この音。微かは恐れとそれを掻き消すみたいな期待でパンパンになった心が跳ね回る。そんな心地がする。ソレイユの返答なんて、どうでもよかった。でも、どんな答えが返ってくるのかは分かっていた。太陽の一瞥がひとつ、そしてすぐに正面に向き直る。
「分かった。約束ね。」
想像よりもずっとずっと軽い声色で返された答えに、笑ってしまいそうになる。それと同時に、私の中で何かの答えが出たみたいだった。崇高な目標とか目指したい背中とか、そういう素敵な理由みたいなのは無い。でも、なんかもっと透明で透き通った、なんて言うんだろう、純粋な何か。少しだけ、走るのが楽しくなりそうな予感がした。そっと深呼吸をする。さっきまでオレンジ色に染まっていた世界は、いつの間にか群青色が支配していた。一番星の横に月が輝いていた。草の掻き分ける音と共にソレイユが立ち上がる。ほぅ、と息を吐けば、それは白く染まった。
「まぁどっちにしろ出走しなくて正解だと思うよ。」
「なんで?」
背中をぐっと伸ばす後ろ姿に声を投げかける。
「僕が勝つから。」
「……わぁ、ビックマウス。」
「誰にも譲る気なんて無いからね。」
自信に満ち溢れたというよりも、勝つのが当然みたいな態度。それを裏打ちするみたいにぼろぼろになった練習用シューズ。ソレイユは、本当の本当に、有マ記念に向けて仕上げてきたんだ。やっぱり、そんなレースを走れなくなったことは悲しいし悔しい。本気のレース、正真正銘の真剣勝負の場に出れない寂しさを拭いきれはしない。でも、ここに来る前よりは落ち着いた、ような気がする。今回だけじゃない、次のチャンスがある。それは、なんて素敵な事なんだろう。思い返せばずっと一生に一度しかないレースを走ってきた。阪神ジュヴェナイルフィリーズも桜花賞もオークスも秋華賞も。エリザベス女王杯とか有マ記念は、来年も再来年もきっとある。きっと、ソレイユは毎年完璧に仕上げて有マ記念に出走するんだろう。一年ごとに完成度をあげて。
「待ってるね。」
「うん? 何を?」
「ソレイユが一番強くなるの。」
しみじみ呟くみたいにそう言った。魚目がこちらを向いてひと際大きく開かれたのを見て、なんだかいい気分になった。どっちが上がとか分かんないけど、G1の数で言えば私の方が勝ってるし、有マ記念の人気投票中間発表の順位も私の方が上。クラシック級の順位付けをしたら、多分私が一位になるんだろう。だから、ソレイユが完全体になるまで待っていようと思う。焦らずに。
「……よく言うじゃん。」
「あはは、ソレイユの真似!」
「……しない方がいいよ、ウマ娘から怒られるから」
「あ、やっぱり怒られるんだ。」
「ライトイレクトとかね、キレられたよ。」
「あはは!」
笑いながら口を手で覆う。来た時とは違う気持ちで同じことをした。少し、ちゃんと休養できそうだなと思った。辺りはもう冬の夜で満たされていて、凍えるような風が川を渡るみたいに吹き付けていた。有マ記念まで、あともう少しだった。
♦
すみませーんすみませんと小さく声をあげながらバ群、もとい人混みを捌く。レース場の人混みは片手でチョップしながら進めば割れるからとっても助かるけど、レースのバ群はとてもじゃないが片手ひとつじゃ捌けない。それにしても、人が多い。観客もそうだけど、ウマ娘の比率も高いような気がする。たぶん、ほとんどの人が有マ記念を見に来ているんだと思う。ちょっと失敗したかも、年末のグランプリをちょっと甘く見ていたみたい。想像よりもずっと人口密度の高いスタンドに、何を買うにも並ぶ売店。やっとのことで手に入れたモカソフトは、暖房とコートと人口密度が相まって一瞬で食べきってしまった。もう一個買っても良かった気がする。そう思いながらパドックに向かう人たちと逆の方向に向かう。出走までは少し時間があるけれど、そろそろ席を取りに行かないとレースなんか見れたもんじゃない。いつも一緒に来てくれるネムは実家に帰省しちゃったから、どうにかしないと。よし、と小さく覚悟を決めてから、最前列を目指してもう一度人混みに足を踏み入れる。押し合い圧し合いを制して、なんとかコースの近くまで行く。なんか、ウマ娘だと前に行かせてくれる人が多いんだよね。最前列とまでは行かずともそれなりの位置まで来ることが出来たからオッケー。最終直線の攻防を見れる位置に陣取れた。ここで暫く待機。もうちょっとしたらもっと人が集まってきて、ギチギチのぎゅうぎゅう詰めになる。そんな覚悟を決めながら、腕時計をチラリと見る。丁度パドックで周回が始まったぐらいの時間だ。手に持ったマフラーをそっと握りながら、スタンド前の掲示板に視線を移した。パドック映像の横で、ついこの間行われた阪神ジュヴェナイルフィリーズのレース映像が流れている。小柄なウマ娘が汗だくになりながら先頭でゴール板を駆け抜ける、その勝利のシーン。ああ、そうか、私が初めてG1を取った時から一年が経ったんだ。あの時はこうなるとは思ってもなかった。無敗のままトリプルティアラを制して、エリザベス女王杯も勝って。何処か自分の話じゃないみたいだ。他の誰かがこんな成績だったら、とっても凄いなって感心しちゃうけど、自分の成績って言われると、なんか、実感が湧かない。こんなもんか、みたいな乾いた気持ちが心の端っこにあって、寂しいというか、なんというか。私の心は、ずっと涼しいまんま。ため息をひとつ吐く。白い息が空に消えていく。パドック周回もそろそろ終わりそうな気配がする。そうしたら、有マ記念が始まる。ふわふわとした気持ちをかき集めるみたいにして、目の前のレースに集中しようとしていたら、聞き覚えのある声がした。
「あら、ルーナちゃん?」
振り向いてみれば、帽子を深めに被ったペルシカリアさんが立っていた。胸のあたりで小さく手を振りながらこちらに近付いてくる。周りも彼女がウマ娘だからか、それともペルシカリアさんだって分かってるからか、おのずと周囲のスペースが開いていた。海割りみたい。
「ペルシカリアさんも来てたんですね。」
「ふふふ、ペルでいいよ?」
「えと、じゃあ……ペル、さん」
「うふふ」
かわいいコートにかわいいショルダーバッグ。流石はモデルを兼業しているだけある。ペルシカリアさんが妖精女王って呼ばれてる理由がちょっぴり分かるような私服だった。
「有マ記念を見に、ですか?」
「うん! 今年最後のG1レースだもの、出来るなら現地で見ないと。」
「そうですよね、私も前から必ず現地で見るぞって思ってて。本当なら、走りたかったんですけど……」
「エリザベス女王杯は面白くなかったから?」
「えっ、」
聞こえた言葉が信じられなくて、声の主をまじまじと見てしまう。今、なんて。ペルシカリアさんはなんてことないみたいに優しく微笑んでいる。私はどういう反応をすべきなのか、したらいいのか分からなくて、同じ体勢のまま固まってしまう。ペルシカリアさんが口元を抑えながらくすくすと笑う。
「ごめんね、イジワルしちゃった。……貴女を困らせたくてこんなこと言ったんじゃないの。ほんとだよ?」
「は、はぁ、えっと、」
こちらを見ていた瞳がふい、と逸らされてターフを見ている。
「エリザベス女王杯が終わってね、自分でも思ったの。ビックリするぐらい面白くないレースをしてしまった、って。」
「……」
「初めてだった、二桁順位なんて。一緒に走ってくれたウマ娘に、何よりも見てくれてる観客の人たちに悪いことをしちゃったって思うの。」
もちろん貴女にもね。付け加えるように言われた言葉がどうにも腑に落ちなくて、どうしたらいいものか考え込む。きっと今の私は変な顔をしていると思う。そんな私のことなど気にしないみたいに、ペルシカリアさんの話は進んでいく。
「久しぶりだったな~、一番人気で負けるの。」
スタンドのざわざわとした雰囲気の中でも、彼女の声は妙によく聞こえた。響くとか通る声では無いのに、はっきりと私の耳に入ってきた。ペルシカリアさんの横顔をじっと眺めながら、次の言葉を待った。
「舐めてたんだと思う、レースそのものを。」
「……」
「誰が出るからとかティアラ限定戦だからとか、そういうのじゃなくて、走ることそのものを舐めてたんだって思う。やっと気が付いたの。遅いよね。」
「……」
「そのことに気が付かせてくれたルーナちゃんには感謝してるの。」
彼女のお話に強制参加させられているような気分になった。なんて言ったらいいのか分からないけど、勝手に登場人物だって言われて彼女の舞台に腕を引っ張られて無理やり演者をさせられているみたい。でも、やっぱり彼女が何を言いたくて、私はこの場で何を言うべきなのかが探り切れなくて、じっとしていることしかできなかった。じっと、待った。彼女の視線が、私に戻ってくる。
「みんな勝つために、ひとつでも上の順位に行くために走っているのにね。いつの間にか忘れちゃってたの。……走るのに真剣じゃなくなってたんだ、私。それを教えてくれたのは貴女。」
「……そ」
んなことないです、と迷った末に吐き出した言葉は、大歓声にかき消された。二人で同時にターフビジョンを見上げた。パドックの周回はいつの間にか終わっていて、歴代の有マ記念の映像が映し出されていた。三冠では物足りずにグランプリを制したウマ娘、不遇な秋シーズンを耐えて花開いたウマ娘、古い歴史の再演のように勝利を掴んだウマ娘。今年の勝者は、誰だ。観客の熱狂を更に煽るようなPVと実況が、画面いっぱいに映っている。ああ、始まるんだ。
「始まるね。」
しみじみと呟いたペルシカリアさんに、ふとひとつの疑問が浮かぶ。
「ペルシ……ペルさんは誰を応援しに来たんですか?」
「う~ん、特定の子を応援、ってわけじゃないけど、そうね、ティンクには頑張ってほしいわ。」
そういえば、ティンク先輩はペルシカリアさんの双子の妹だったっけ。有マ記念に向けてすごい頑張ってたから、応援する理由もわかる。
「じゃあ、誰が勝つと思いますか?」
他意の無い、本当に世間話みたいな気分で聞いた質問だった。ティンク先輩とか、後は、ブラン先輩とかの名前が返ってくるんだろうなって思っていた。ティンク先輩は一番人気だし、ペルシカリアさんは、こう、なんとなーくだけどなんか一番人気とか、好きそうだし。
「そうだなぁ、ソレイユ、かな。」
ぐるんと首を回してペルシカリアさんを見た。ペルシカリアさんは至って普通の表情でターフビジョンを眺めていた。まさか、先輩の口からソレイユの名前が出てくるとは思わなかったから。もしかしたら。もしかしたらだけど、私とペル先輩は、似たようなものが見えているのかもしれない。そう、そう思えた。
今日のレース場の興奮は、年末の寒さを吹き飛ばすような勢いで上がっていく。レース直前は、精神安定に努める。今更関節の確認とか、そんなものはしない。だって、体は今までのわたしが作ってくれているから。今のわたしがすることなんて、平常心を保つことぐらい。深呼吸を十秒してから前を見る。一番人気にグランプリ連覇。ジャパンカップは惜しかったけど、秋の天皇賞だって勝った。中山のコースも苦手じゃない。有マ記念ウマ娘の栄誉に一番近いのは、わたしだ。ニコニコと前を見て歩けるほど余裕ではないけれど、いいレースが出来る自信はある。そう思って一歩、踏み出す。つめたい風が、頬を撫でて去ってゆく。
『曇天の空、天気は崩れることなく何とか持ちこたえました。良バ場で迎える年末のグランプリ、有マ記念。芝、二五〇〇メートル右回り。人気投票で決まった強豪十六人のウマ娘が、中山レース場に集まりました。出走ウマ娘を紹介しましょう。狙うはグランプリ連覇、もう妹の方とは呼ばせない、秋の天皇賞制覇を果たし、王道路線に勝ち名乗り。勢いに乗ったウマ娘、三枠五番一番人気ティンクトリア。』
新雪を踏みしめるみたいな丁寧な足取りでバ場をチェックする。やっぱり、最終週だからちょっと荒れてる。緑がかったブルーのオーガンジーをあしらったお気に入りの勝負服が、視界の端でフワフワと揺れている。それと共に耳に入ってくるのは割れんばかりの大歓声。流石だわ。同じグランプリでも、宝塚記念とはまた違う熱気がわたしを包み込んでいる。二年連続二回目の出走。昨年は先輩方に譲ってしまったけど、今年は一番人気。このレースで、わたしが勝つって信じてくれてる人が一番多い、と言うこと。ファンの為にもここまで連れてきてくれたトレーナーや仲間の為にも、不甲斐ない走りは出来ない。何よりも、シニア級で最も強いのはわたしであると、証明したい。今年のグランプリ全てを制して最強の名を冠すに相応しいのは、このティンクトリアだって。……姉さまではなく、このわたしだ、って。小さく軽く息を吐いてから、ゲートへ向かう。位置としてはちょっと内側の枠を引いてしまったけど、これぐらいは大丈夫だと思う。先行力はある方だと思うし。不利を受けにくい上に他のウマ娘をブロックできる、前目の外側。わたしの走りを発揮できる好位。スタートも、きっと大丈夫だ。有マ記念のゲートは、スタンドから一番遠い第三コーナーのそのまた奥にある外側コースに置かれている。緩いカーブからのスタートになるから、出遅れると大変。それを考えると、今日の一番の脅威は、やっぱりあの子かしら。タイミングよく紹介のアナウンスがレース場に響く。
『四枠七番からのスタートとなりましたライトイレクト。ダービー、菊花賞と敗北を喫するも、無敗を誇った皐月賞と同じレース場で逆襲を目論みます! 初めてのシニア戦、雷撃の末脚を武器に、有マの栄光へ向けてまっすぐに、堂々発進! 二番人気です。』
ゲートの中でスタートを待つ、黄色のメッシュが入った黒髪の後ろ姿に視線を移す。そう、二番人気なの。今年の皐月賞ウマ娘であり、ダービー二着の実力を持つウマ娘、ライトイレクト。菊花賞は残念だったけれど、彼女は中山レース場を得意としている。絶対に油断できない相手だ。トレフルブランも良く見張っておかないと。一緒に走った事があるから分かる、あの子のスタミナは唯一無二だと思う。前で離れて粘られたら勝ち目はない。でも、切れ脚勝負になったらわたしの方が上。だからあの子よりも前に付けて、展開を伺うしかない。あとは、ルシアンセフィドとか。何度か一緒に走った事があるけれど癖のある走りだから、ペースを乱されないように注意しなきゃ。でもまぁ、彼女は後ろに付けるだろうからもしかしたらあんまり関係ないのかも。
『八枠十五番からの出走となりました、今年の二冠ウマ娘、そして史上三人目となるクラシック級ティアラ路線での有マ記念制覇を狙います。偉業尽くし、前人未踏、挑み続ける女王、ブラウソレイユ。枠番の不利さえも撥ね退けられるか、四番人気。』
ひと際大きな歓声が上がる。あぁそうだ、あのナマイキな後輩も出走するんだった。今日は先輩として、彼女にしっかりと勝者の背中を見せつけないと。大判の白いマントとその裏に付けられた星の飾りがチャラチャラと音を立てている。可哀想に。大外八枠十五番。その枠番から有マ記念をスタートしたウマ娘は、今まで一度も勝ったことが無い。運の無い子。彼女が弱いとは言わないけれど、運も実力の内。少なくとも、今日はわたしの敵じゃない。有マ記念のレイは、誰にも譲らないもの。ターフを睨みつけるみたいにして、ゲートに入った。出走前特有の静けさの中で、ゲートの閉じる音とウマ娘の呼吸の音が、肌に突き刺さるみたいだった。小さく息を吸って、構える。最後のひとつが閉まる音がした。誰も逃がさない、追いつかせない。わたしが、勝つんだから。
『——グランプリ有マ記念、スタートしました!』
『スタンド前を超えて向こう正面に向かいます十六人。先頭は変わらずエイメンが引っ張ります、二番手にアーベント、フォーティナイザー、スペランサ、少し途切れてトレフルブラン。一番人気ティンクトリアはここに居ます。後方集団はトロイア、サガラパラベルム、ライトイレクトが並んでその後ろサガラマッキンリー追走。最後方にブラウソレイユとルシアンセフィドが控えています。全員一団となりやや詰まった状態で進みます有マ記念。』
レースの最中に聞こえる音なんて、地鳴りかと思うほど暴力的な足音と、荒い呼吸の音。そして遠くから微かに聞こえる大歓声のかけら。それだけしかない。一緒に走ってるのは全員敵で、仲間なんて居ない一人ぼっちの勝負。自分の心臓の音と蹄鉄から響く感覚を頼りに、三回目のコーナーを曲がる。ち、と舌打ちをしそうになりながら走る。良バ場発表とはいえ、内側の方はボコボコしてるし最高のバ場って感じじゃない。だからといって大外を回されるのはイヤ。小回りコースとはいえ最後の直線で外を回されるのは効率的じゃない。幸いなことに、わたしが居るのは前から五人目の外側より少し内目。外には誰も居ないし、進路を邪魔されることも無さそう。まだ脚は残っているし、内側で揉まれることも無い。好位に付けられた。前に居るトレフルブランの大きな背中を視界に入れながらそう思う。ペースは速くも遅くも無いミドルペース。先頭の子は、多分逃げて差す、を狙ってるんだと思う。そんなこと、させないけど。ちらりと目だけで後ろの様子を伺う。後方はちょっとごちゃついているみたいで、慌ただしい感じがする。まぁ、わたしには関係ないみたいだけど。じっと前を見据える。向こう正面、遠いスタンド。ここからは後半戦だ。削れた脚と体力でどこまで持っていけるかの勝負が始まる。いつだれがスパートをかけたっておかしくない。緩やかな坂を下る。中山レース場はいくつもの坂があって起伏の激しいコース。だからこそ、仕掛けるタイミングはしっかり見極めなきゃ。少しずつ重くなる脚を動かしながら、その時を待つ。まだ、まだよティンクトリア。この谷を越えて坂の頂上辺りで、前の子たちがバテ始めるはず。先頭の子やブランは別だとしても、絶対に隙が生まれるはず。その一瞬を見逃がさない。絶対に。いつでも動けるように前方のウマ娘たちの配置を確認した。その直後、後ろで動きがあった。同時に、微かだけれどここまで大歓声が聞こえてくる。バ群が動いた。誰かが仕掛けたんだ。なら、わたしも。ちょっとずつちょっとずつスピードを上げる。前との距離が少しずつ詰まっていく。前の子たちも気が付いたみたい。縦長だった隊列がぎゅっと縮んで一塊になっていく。ここでバ群に埋もれたら、ダメだ。先頭に立たなくてもいいから、ちょっとだけのリードを保たないと。でも後ろの足音たちはどんどん近づいてくる。そろそろ緩やかな坂も終わる。そうしたら最後の直線までは割と平坦。だから、そこまでは耐える、耐え忍ぶ。焦らずにじっと我慢。追いつかれるかもしれない、かわせないかもしれない。そんな恐ろしさが付きまとうけど、焦っちゃだめ。苦しくなる呼吸に気が付かないふりをしながら、谷を越えて、坂を駆け上がる。ふたつ前の子が、スタミナ切れで体勢を崩す。——今だ。蹴り上げる脚に力を入れて速度を上げる。掻き分ける風の音が変わって、背景が溶けていく。同時に、聞こえなかった歓声が耳に届くようになる。ゴールが、近い。まだ遠いけれど、最後が近づいてきている。レースの、有マ記念の終わりが、一歩一歩近寄ってきている。バ場の真ん中、走りやすいところ選びながら、ひとりふたりとかわしていく。先頭の子は苦しそうに首をあげながらも、まだ粘っている。諦める気は無さそう。やっぱり逃げて差す気だ。そっちがその気なら、徹底抗戦よ。真後ろのそのちょっと左横にピッタリとついてマークする。ダレたら、かわしてやるわ。絶対に逃がさない、逃げ切りなんて許さない。徐々に大歓声が、わたしたちに迫ってくる、いいえ、逆。わたしたちが、大歓声の中に飛び込んで行ってる。第三コーナーを抜けて、最後のコーナーへ。いい、いい調子、いい感じだ。前の子はまだ粘る気みたいだけど、風よけにしたのもあって脚はだいぶ残ってる。かわせる。前のひとりをかわせば、私が先頭だ。絶対、絶対に捉えてみせる、そう思ってスパートをかけようと思った。外から、差そうと思っていた。外から抜こうと、体重を左に掛けたその一瞬だった。視界の端に、白い何かが映り込む。それが何か理解できなくて、思わず横目で確認する。
「なッ!」
白いマントがわたしの右側を、ラチとわたしの間を、バリバリと音を立ててすり抜けていく。顔を見る暇もない速度で、並ぶことも無く、低い位置を駆けて行った。——内側、内側だって! いつの間に! 悪態をつくほどの余裕なんてない。気配が無かった、気が付かなかった。マークされてただなんて。はしれ、走れ、もっとはしって、早く、走って! あれに追いつかなきゃ勝利はないんだから。もう一度スパートをかけるために加速しようと前を見る。でも、白いマントと黄金の星たちは、もうそこには居なかった。一フレームごとに遠くなる背中に追いすがる。ああ、そうか。あの子はわたしと何回も並走してるから、わたしの走りの癖だって分かってる。中山レース場は小さめで、コーナーでわたしが外に進路を取るのを分かってたんだわ。それも、最後のコーナーの前でそれを狙うだなんて。ああ、もう、やられた。あの子は本番には滅法強い。一か八かの賭けだったはずなのに。ああ、もう。早く、はやくあの背中に追いつかないと。もうちょっとで最後の直線に入る、そこで、そこでどうにか追いついて、併せウマに持ち込まないと。務めて丁寧に、でもスピードを落とさないように最終コーナーを回って、直線に躍り出た。ここからよ、もう一回。まだ、まだ届く。遠いけれど、まだ届く。重くて仕方ないけど、太腿を思い切り上げて加速の体勢に入る。差す、差し切る!
次の瞬間、外を、雷鳴が走った。轟音だった。とんでもない衝撃と速さだった。黒い稲妻が走っていった。ライトイレクトが、すごい形相で先頭を目指していた。とんでもない瞬発力。さっきのブラウソレイユよりもずっと速い速度で遠ざかっていく。ここ、結構な急勾配の坂なのに、そんなのものともせずに加速してく。この日の為に、今日の為に、有マ記念の為に、どれだけ走ったんだろう。一完歩が、遠い。視界にカットインしてくるその姿だけで、脳みそと脚が理解していた。ああ、わたし、あの子たちに届かないんだわ。あのこたち、わたしよりも、ずっと速いんだわ。
『最後の直線、内を突いたのはブラウソレイユ! 捲って捲って最初に飛んできた! 短い直線の攻防、ティンクトリアも追いすがるが離す、離す! 後ろからルシアンセフィドも来ているぞ!』
完璧には程遠い乱暴なコース取り。慣れた後方待機から慣れた捲り。先頭集団に取りついたかと思ったらラストスパートで最短距離を選んで先頭に押し出る。そんな選択、私なら絶対にしない、出来ない。というか、普通ならしない。ティンク先輩が先頭の子に張り付いて最終コーナーで外を選ぶって分かってないとできないコース取り。全部、全部わかってたんだ。あのティンクトリア先輩を、ペースメーカーにしちゃったんだ。すごい、すごいな。全然寒くない、熱気で倒れちゃいそうなスタンドで鳥肌が立つ。全部全部目に焼き付けたくて、瞬きさえ忘れてソレイユを見る。
『だがしかしブラウソレイユ止まらない、まだ離す、一バ身二バ身、これはセーフティーリードか! 来た来た、来たぞ中団から飛んできたライトイレクトとサガラパラベルム! ああ~っとこれはすごい脚、すごい脚だライトイレクト! 追い比べを制して単身で上がっていく!』
誰が見ても目を奪われるほどの鮮やかで強烈なスピード、外から全員を撫で斬りにする黒い雷が、中山レース場のど真ん中を貫いていく。ずっとソレイユだけを見ていたのに、一瞬で奪われてしまうぐらい、強い走り。
『残り一五〇を切って前に届くかライトイレクト、先頭はブラウソレイユ、二人で後続をドンドン突き放していくぞ、トレフルブランも追い上げるがこれは届かない! 完ッ全に二人の一騎打ちだ! 最後の直線はこの二人だ!』
レース場が揺れている。皐月賞ウマ娘の復権を見に来たひとが、二冠ウマ娘の優勝を見に来たひとが、そしてそれ以外のひとが、あの二人を見ている。あの二人の勝敗が見たくて叫んでいる。怒号にも似た声が飛び交うスタンドで、私は惚けていることしかできなかった。もし、あの場に私がいたのなら。私が今日の有マ記念に出走できていたら。あの二人と一緒に走っていたら。
『ライトイレクト迫る、かわすか、差が無くなって苦しいかブラウソレイユ、ライトイレクト、ブラウソレイユ、揃って並んで残り一〇〇! グランプリの栄誉はすぐそこだ!』
二人の走るシルエットが隙間なくピッタリ重なる。ライトちゃんは、強くてはやい。普通のウマ娘なら、差し切られる。でも、でも。
『内にソレイユ! 外にライト! わずかに外ライトイレクトか、いやッ! ブラウソレイユ盛り返した! まだ、まだ伸びるぞブラウソレイユ!? ブラウソレイユ全く落ちない、しかしライトイレクトも上がってくる! どっちだ、どっちだ! ダービーの再演か、それとも皐月の執念か、残り五〇、離す、離す、ブラウソレイユが差を開いていくぞ、ライトイレクト追いすがるがここまで! ブラウソレイユ譲らない、行った行った!』
今日一番の大歓声。なんにも、なんにも不自然な事じゃないのに。驚きが隠せていない実況を不思議に思う。ソレイユが、負けるはずない。今日のこの舞台で、ブラウソレイユが負けるはずなんてないんだ。あの子が有マ記念にかける情熱は生半可じゃない。私は、知ってる。だから、ソレイユが勝つって信じられた。上体を低くしたソレイユの走りが、この先を物語っている。有マ記念の残り五〇メートルと、その更に先を。もうゴールしちゃうけど、多分、ソレイユはあそこから更に伸びる。もっともっと早く走れる。
『なんと内から差し返したブラウソレイユ! 年末もこの娘で決まりだ! ライバルに半バ身差を付け、ブラウソレイユ、先頭で、今ッ、ゴールインッ! やったやった、やりました! 史上三人目、クラシック級ティアラ路線での有マ記念制覇、G1三連勝! ダービー菊花賞と見せた走りは本物、枠番も、規則も、ライバルも! 何もかもをねじ伏せました! 彼女の頭上に輝くのはティアラではなく日輪でしたブラウソレイユ! 二着にライトイレクト、差が開いた三着にトレフルブランが残りました。ティンクトリアは掲示板がやっとか。』
さっきの歓声を更新する大歓声。とんでもないデットヒート。一年を締めくくるに相応しい最高のレース。目の前の大きな画面に、優勝したウマ娘の姿が大きく画面いっぱいに映し出されている。満面の笑みで拳を高く上げている。今までに見たことないぐらいの、笑顔。菊花賞の時よりもずっと楽しそうで嬉しそう。そんな顔、出来たんだ。コースに出てきたトレーナーさんと喜びを分かち合う姿も、ターフビジョンに映されている。すごいレースを見たなって思う。ソレイユにとっての有マ記念って、本当のほんとうに特別だったんだ。ライトちゃんもブラン先輩もティンク先輩も、全員強くて速いいい走りをしてたって思う。でも、ソレイユが一番速かったんだ。いいな、いいなぁ。あの速さを、一番近くで感じられたんだ。私も、あのターフで一緒に走れていたら。スタンドでレースを観戦するのも嫌いじゃない、むしろ好き。でも、走りたいって気持ちに蓋は出来ない。友達の優勝を心の底から喜んでいるのに、嬉しいはずなのに、どんよりした気持ちが消えてくれない。そのままの状態でぼーっと特大ディスプレイを眺めていれば、いつもよりずっとテンションの高いソレイユの優勝インタビューが始まった。
『有マ記念優勝、おめでとうございます!』
『ッ、ありがとうございます、』
『ダービーから重賞四連勝、G1三連勝と連勝街道ですが、走り終えてみて如何ですか?』
『今まで走ったどのレースよりもいい状態で臨めたので不安はありませんでした、勝つ以外のこと考えてなかったので……』
『流石ですね! 道中はどのようなことを考えながら走っていたんでしょうか。』
『スロー過ぎたら困るなと思っていましたが、それなりに流れましたし、コース取りも上手くできたので良かったです。』
『それでは最後にファンの方々へコメントをお願いします!』
『はい、有マ記念は一番取りたいタイトルで、勝てて本当にうれしいです。来年も再来年もこの場所に立ちたいので、これからも応援よろしくお願いします。』
“この場所”と言いながら下を指さすソレイユを見て、拍手よりも先に笑いが込み上げてくる。次もその次も、有マ記念に出て勝つ気なんだ。どこかにやにやして喜びを隠し切れない表情だけど、出てくるビックマウスは変わらないみたい。観客たちも、笑ったり野次を飛ばしたりしながらインタビューを眺めている。
「相変わらずね。」
隣からの声にハッとする。そうだ、隣にペルシカリアさんが居たんだった。レースに夢中になっていてすっかり忘れてしまっていた。相槌を打つか迷っていれば、ペルシカリアさんの薄紫の瞳がわたしに向いていた。年下を見つめるみたいな優しそうな、しょうがないな、みたいな表情だった。
「え、えっと、相変わらず、って」
「レースのこと、大好きなんだなって。」
「……え、ええと、まぁ、はい。」
「私、決めた。」
「……?」
「ヴィクトリアマイルに来たらいいわ。」
「……ヴィクトリアマイル?」
五月中頃に行われるティアラ路線のマイルG1レース。華やかな乙女の中から、速さと強さを兼ね備えたレースの女王を定めるレース。それは分かるけど、頭の中が疑問符で埋まっていく。ヴィクトリアマイルって、来年の話? 来たらいい、って言ってるからそうじゃないとおかしいけれど。少しずつ人が居なくなるスタンドでペルシカリアさんと向き合う。
「私、来年のヴィクトリアマイルに出走する、そしてドリームトロフィーリーグに移籍する。」
「エッ」
「正真正銘最後のレース。妖精女王ペルシカリアの引退レース。そこに貴女も居て欲しいの。いいえ、居て貰わないと困る。」
なんだか、今、衝撃情報を投下されたような気がする。引退とか、移籍とか。公式から発表されたら、全てのSNSのトレンドが一色に染まっちゃいそうなほどの重大発表が、なんか、あったような気がする。今しがた。他に誰か聞いていないか心配になって、きょろきょろしてしまう。
「今日の貴女を見て改めて分かったの。私ってば本当に不甲斐ないレースをしちゃったんだって。あんな負け方、初めてしたの。悔しかったんだから。」
「わ、私?」
「うん、だって今日の貴女の横顔、見たことないぐらいきらきらしてた。ちっちゃな子供みたいに夢中になってた。」
「……」
そう、かも。自分で走ったレースよりも、今日の有マ記念の方が、ずっと。彷徨っていた視線が、自分の脚元に落ちていく。
「許せない。私が走ったレースで、歓声が驚愕に変わるのが。」
だって私に相応しいのは、大歓声しかありえないから。
下がったはずの視線が、一瞬で戻される。言葉を失う。いつものにこにことした笑顔とは違って、きゅっと閉じた口がへの字に曲がっている。なんて、なんて高慢なんだろう。ソレイユもプライドが高いタイプだけど、それよりももっと高飛車で鋭い。誇りとか矜持とか、そういうアレだと思う。この先輩、本当はこんなウマ娘だったんだ。全然知らなかった。
「初めて話した時のこと、覚えてる?」
「……レイちゃんと練習してた時の、」
「そう。あの時ね、実は結構緊張してたの。」
「緊張?」
「うん、緊張。一つ下の無敗のティアラ路線の子。……私の位置まで登りつめてくる可能性のある子。女王の立場を脅かすかもしれないウマ娘。だから、ドキドキしながら話しかけたの。」
「そう、なんです、か」
じ、と身を固くしながらオロオロと言葉を探す。なんか、緊張とはまた違う居心地の悪さがある。この先輩とお話するときは、いっつもこうだ。なんでだろう。
「私ね、レースが大好き。走るのが好き。でもそれ以上に、観客の人たちの歓声を聞くのが好き。だから、勝敗ってあんまり気にしてなかったの。でも、そんなこと、そんな気持ちで走ってたら、観客の人たちに見透かされちゃうんだ。……観客は、本気で走るウマ娘が好きだから。命を燃やしてたり、心の底から楽しそうだったり。」
「それは」
観客だけじゃない。ターフを走る私たちも、そういうウマ娘が好きだと思ってる。少なくとも、私はそういう子の方が好き。ティンク先輩だってライトイレクトだって、ソレイユだって、そういう走りをするから。思わず脚が動き出して走っちゃいそうになる、そんな胸のすく走り。でも、ペルシカリアさんは違うみたい。
「忘れてたの。さっきも言ったけど、忘れちゃってた。ウマ娘が何で走るのか。だから、最後ぐらいファンの求める最高の私でありたい。だから私、貴女に勝つわ。G1の大舞台で。」
「……」
「……女王としてファンの人気に応えるために。そして何よりも貴女への借りを返すために。貴女を、ただの観客にしてみせる。」
前に話した時よりも、ずっとずっと本気の宣戦布告。前のも重くてしぶとくてめんどくさそうだなって思ったけど、今日の言葉はそれ以上だ。エリザベス女王杯の宣戦布告よりも、ずっと、レースに勝ちたがってる感じがする。誰よりも速く走って、いちばん最初にゴール板を駆け抜けたい。そういう気持ちが、言葉のいたるところにちりばめられてるような気がする。
そっか、この先輩は別に勝ちたいわけじゃなかったんだ。観客が好きだって言ってた。きっと、大きなレースに出て大歓声をめいいっぱい感じるのが好きだったんだ、たぶん。ウマ娘がレースを走る理由なんてみんな違うし、それでいいと思う。G1をいっぱい勝ちたい子もいれば特定のレースを勝ちたい子、もっと曖昧な目標を掲げてる子もいる。だから、先輩のことをどうとも思わない、思わないけど、エリザベス女王杯があんなレースになっちゃったのは、少し寂しかった。あれだけ新旧女王対決とか真の女王を決める世紀の一戦とか言われてたのに、私があっさり勝っちゃったんだもん。宣戦布告みたいなことしたんだったら、もっと楽しいレースになるようにして欲しかった。何も持っていない手を、きゅっと握る。それと一緒に、真冬の冷たい空気を鼻から吸って、吐く。
「……分かりました。トレーナーちゃんと相談してからですけど、行きます。ヴィクトリアマイル。」
本当だったら、大阪杯とか、天皇賞・春とかに行ってもいいのかな、とか思ってた。適性は無いかもしれないけど、走りたいレースを走りたいって思ってる。でも、ペルシカリアさんが、ペルシカリアというティアラ路線の実力者が真剣な顔でこう言ってる。なら、きっと面白いレースになる。もう一回、その言葉を信じてみようって思う。
「次は私に、楽しいレースをさせてください。」
「うん、勿論。もう逃がさないから。勝ち逃げなんてさせないから。」
ちょっと声が震えた気がした。大口叩くの、私にはちょっと向いてないかもしれない。