東 屋

章 縁談

 源右大将は常陸守の養女に興味は覚えながらも、しいて筑波の葉山繁山を分け入るのは軽々しいことと人の批議するのが思われ、自身でも恥ずかしい気のされる家であるために、はばかって手紙すら送りえずにいた。ただ弁の尼の所からは母の常陸夫人へ、姫君を妻に得たいと薫が熱心に望んでいることをたびたびほのめかして来るのであったが、真実の愛が姫に生じていることとも想像されず、薫のすぐれた人物であることは聞き知っていて、この縁談の受けられるほどの身の上であったならと悲観を母はするばかりであった。

 常陸守の子は死んだ夫人ののこしたのも幾人かあり、この夫人の生んだ中にも父親が姫君と言わせて大事にしている娘があって、それから下にもまだ幼いのまで次々に五、六人はある。上の娘たちには守が骨を折って婿選びをし、結婚をさせているが、夫人の連れ子の姫君は別もののように思って、なんらの愛情も示さず、結婚について考えてやることもしないのを、妻は恨めしがっていて、どうかしてすぐれた良人を持たせ、姫君を幸福な人妻にさせてみたいと明け暮れそれを心がけていた。容貌が十人並みのものであって、平凡な守の娘と混ぜておいてもわからぬほどの人であれば、こんなに自分は見苦しいまでの苦労はしない、そうした人たちとは別もののように、もったいない貴女のふうに成人した姫君であったから、心苦しい存在なのであると夫人は思っていた。娘がおおぜいいると聞いて、ともかくも世間から公達と思われている人なども結婚の申し込みに来るのがおおぜいあった。前夫人の生んだ二、三人は皆相当な相手を選んで結婚をさせてしまった今は、自身の姫君のためによい人を選んで結婚をさせるだけでいいのであると思い、明け暮れ夫人は姫君を大事にかしずいていた。守も賤しい出身ではなかった。高級役人であった家の子孫で、親戚も皆よく、財産はすばらしいほど持っていたから自尊心も強く、生活も派手に物好みを尽くしている割合には、荒々しい田舎めいた趣味が混じっていた。若い時分から陸奥などという京からはるかな国に行っていたから、声などもそうした地方の人と同じような訛声の濁りを帯びたものになり、権勢の家に対しては非常に恭順にして恐れかしこむ態度をとる点などは隙のない人間のようでもあった。優美に音楽を愛するようなことには遠く、弓を巧みに引いた。たかが地方官階級だと軽蔑もせずよい若い女房なども多く仕えていて、それらに美装をさせておくことを怠らないで、腰折歌の会、批判の会、庚申の夜の催しをし、人を集めて派手に見苦しく遊ぶいわゆる風流好きであったから、求婚者たちは、やれ貴族的であるとか、守の顔だちが上品であるとか、よいふうにばかりしいて言って出入りしている中に、左近衛少将で年は二十二、三くらい、性質は落ち着いていて、学問はできると人から認められている男であっても、格別目だつ才気も持たないせいで、第一の結婚にも破れたのが、ねんごろに申し込んで来ていた。常陸夫人は多くの求婚者の中でこれは人物に欠点が少ない、結婚すれば不幸な娘によく同情もするであろう、風采も上品である、これ以上の貴族は、どんなに富に寄りつく人は多いとしても、地方官の家へ縁組みを求めるはずはないのであるからと思い、姫君のほうへその手紙などは取り次いで、返事をするほうがよいと認める時には、書くことを教えて書かせなどしていた。夫人はひとりぎめをして、守は愛さないでも自分は姫君の婿を命がけで大事にしてみせる、姫君の美しい容姿を知ったなら、どんな人であっても愛せずにはおられまいと思い立って、八月ぐらいと仲人と約束をし、手道具の新調をさせ、遊戯用の器具なども特に美しく作らせ、巻き絵、螺鈿の仕上がりのよいのは皆姫君の物として別に隠して、できの悪いのを守の娘の物にきめて良人に見せるのであったが、守は何の識別もできる男でなかったからそれで済んだ。座敷の飾りになるという物はどれもこれも買い入れて、秘蔵娘の居間はそれらでいっぱいで、わずかに目をすきから出して外がうかがえるくらいにも手道具を並べ立て、琴や琵琶の稽古をさせるために、御所の内教坊辺の楽師を迎えて師匠にさせていた。曲の中の一つの手事が弾けたといっては、師匠に拝礼もせんばかりに守は喜んで、その人を贈り物でうずめるほどな大騒ぎをした。派手に聞こえる曲などを教えて、師匠が教え子と合奏をしている時には涙まで流して感激する。荒々しい心にもさすがに音楽はいいものであると知っているのであろう。こんなことを少し物を識った女である夫人は見苦しがって、冷淡に見ていることで守は腹をたてて、俺の秘蔵子をほかの娘ほどに愛さないとよく恨んだ。

 八月にと仲人から通じられていた左近少将はやっとその月が近づくと、同じことなら月の初めにと催促をして来た時、守の実の子でなく、母である自分一人が万事気をもんできた娘であることを言い、その真相を前に明らかにしておかねば婿になる人は、そんなことでのちに失望をすることがあるかもしれぬと思い、夫人は初めから仲へ立っていたその男を近くへ呼んで、

「今度お相手に選んでくださいました子につきましては、いろいろ遠慮がありましてね、こちらからお話を進める心はなかったのですが、前々からおっしゃってくださいますのを、先が並み並みの方でもいらっしゃらないためにもったいなくお気の毒に思われまして、お取り決めしたのですが、お父様の今ではない方なのですから、私一人で仕度をしていまして、そんなことで不都合だらけでお気に入らぬことはないかと今から心配をしています。娘は何人もありますが、保護者の父親のあります子は、そのほうで心配をしてくれますことと安心していまして、この方の身の納まりだけを私はいろいろと苦労にして考えていまして、たくさんの若い方をそれとなく観察していたのですが、不安に思われることがどこかにある方ばかりで、結婚にまで話を進められませんでしたのに、少将さんは同情心に厚い性質だと伺いまして、こちらの資格の欠けたのも忘れてお約束をするまでになったのですが、私の大事な方を愛してくださらないようなことが起こり、世間体までも悪くなることがあっては悲しいだろうと思われます」

 と語った。

 仲介者はさっそく少将の所へ行って、常陸夫人の言葉を伝えた。すると少将の機嫌は見る見る悪くなった。

「初めから実子でないという話は少しも聞かなかったじゃないか。同じようなものだけれど、人聞きも一段劣る気がするし、出入りするにも家の人に好意を持たれることが少ないだろう。君はよくも聞かないでいいかげんなことを取り次いだものだね」

 と少将が言うので仲人はかわいそうになり、

「私はもとよりくわしいことは知らなかったのですよ。あの家の内部に身内の者がいるものですから話をお取り次ぎしたのです。何人もの中で最も大切にかしずいている娘とだけ聞いていましたから、守の子だろうと信じてしまったのですよ。奥さんの連れ子があるなどとは少しも知りませんでした。容貌も性質もすぐれていること、奥さんが非常に愛していて、名誉な結婚をさせようと大事がっていられることなどを聞いたものですから、あなたが常陸家に結婚を申し込むのによいつてがないかと言っていらっしゃるのを聞いて、私にはそうしたちょっとした便宜がありますとお話ししたのが初めです。決していいかげんなことを言ったのではありませんよ。それは濡衣というものです」

 意地が悪くて多弁な男であったから、こんなふうに息まいてくるのを聞いていて、少将は上品でない表情を見せて言うのだった。

「地方官階級の家と縁組みをすることなどは人がよく言うことでないのだが、現代では貴族の婿をあがめて、後援をよくしてくれることに見栄の悪さを我慢する人もあるようになったのだからね。どうせ同じようなものだとしても、世間には、わざわざ継娘の婿にまでなってあの家の余沢をこうむりたがったように見えるからね。源少納言や讃岐守は得意顔で出入りするであろうが、こちらはあまり好意を持たれない婿で通って行くのもみじめなものだよ」

 仲人は追従男で、利己心の強い性質から、少将のためにも、自身のためにも都合よく話を変えさせようと思った。

「守の実の娘がお望みでしたら、まだ若過ぎるようでも、そう話をしてみましょうか。何人もの中で姫君と言わせている守の秘蔵娘があるそうです」

「しかしだね、初めから申し込んでいた相手をすっぽかして、もう一人の娘に求婚をするのも見苦しいじゃないか。けれど私は初めからあの守の人物がりっぱだから感心して、後援者になってほしくて考えついた話なのだ。私は少しも美人を妻にしたいと思ってはいないよ。貴族の家の艶な娘がほしければたやすく得られることも知っているのだ。しかし貧しくて風雅な生活を楽しもうとする人間が、しまいには堕落した行為もすることになり、人から人とも思われないようになっていくのを見ると、少々人には譏られても物質的に恵まれた生活がしたくなる。守に君からその話を伝えてくれて、相談に乗ってくれそうなら、何もそう義理にこだわっている必要もまたないのだ」

 少将はこう言った。仲人は妹が常陸家の継子の姫君の女房をしている関係で、恋の手紙なども取り次がせ始めたのであったが、守に直接逢ったこともないのだった。

 仲人はあつかましく守の住居のほうへ行って、

「申し上げたいことがあって伺いました」

 と取り次がせた。守は自分の家へ時々出入りするとは聞いているが、前へ呼んだこともない男が、何の話をしようとするのであろうと、荒々しい不機嫌な様子を見せたが、

「左近少将さんからのお話を取り次ぎますために」

 と男が言わせたので逢った。仲人は取りつきにくく思うふうで近くへ寄って、

「少将さんは幾月か前から奥さんに、お嬢さんとの御結婚の話でおたよりをしておいでになったのですが、お許しになりまして、今月にと言ってくだすったものですから、吉日を選んでおいでになりますうちに、そのお嬢さんは奥さんのお子さんであっても常陸守さんのお嬢さんでない、公達が婿におなりになっては、世間でただ物持ちの余慶をこうむりたいだけで結婚したと悪くばかり言われるでしょう。地方官の婿になる人は私の主君のように大事がられて、手に載せるばかりにされるのを望んで縁組みをする人たちがあるのに、さすがにその望みも貫徹されず、あまり好意をも持たれぬ一段劣った婿で出入りをされるのはよろしくないとまあこんなふうな忠告をある人がしたのだそうです。それはその人だけでなく何人となく皆同じことを言ったそうで、少将さんは今どうすればいいかと煩悶をしておられます。初めから自分は実力のある後援者を得たいと思って、それに最も適した方として選んだ家なのだ。実子でないお嬢さんがあるなどとは少しも知らなかったのだから、初めからの志望どおりに、まだ年のお若い方が幾人かいらっしゃるそうだから、そのお一人との結婚のお許しが得られたらうれしいだろう、この話を申し上げて思召しを伺って来いと申されたものですから」

 などと言った。常陸守は、

「そんな話の進行していたことなどを私はくわしく知りませんでした。私としては実子と同じようにしてやらなければならない人なのですが、つまらぬ子供もおおぜいいるものですから、意気地のない私は力いっぱいにその者らの世話にかかっていますと、家内は自身の娘だけを分け隔てをして愛さないと意地悪く言ったりしたことがありまして、私にいっさい口を入れさせなくなった人のことですから、ほのかに少将さんからお手紙が来るということだけは聞いていたのですが、私を信頼してくだすっての思召しとは知りませんでした。それは非常にうれしいお話です。私の特別かわいく思う女の子があります。おおぜいの子供の中に、その子だけは命に代えたいほどに愛されます。申し込まれる方はいろいろありますが、現代の人は皆移り気なふうになっていますから、娘に苦労をさせたくない心から、まだ相手をよう決めずにいます。どうにかして不安の伴わない結婚をさせたいと、毎日そればかりを思っていましたが、少将様におかせられては、御尊父様の故大将様にも若くからおそば近くまいっていた縁もありまして、身内の者としてお小さい時からおりこうなお生まれを知っておりましたから、今もお邸へ伺候もしたく思いながら、続いて遠国に暮らすことになりましてからは、京にいますうちは何をいたすもおっくうで参候も実行できませんでしたような私へ、ありがたいお申し込みをしてくださいましたことは返す返す恐縮されます。仰せどおりに娘を差し上げますのはたやすいことですが、今までの計画を無視されたように思って家内から恨まれるという点で少しはばかられます」

 とこまごまと述べた。さいさきがよさそうであると仲人はうれしく思った。

「そんなことまでもお考えになる必要はございませんでしょう。少将さんのお心は、お母様はとにかく、お嬢さんのお父様お一人のお許しが得たいと願っていらっしゃるのでして、お年は若くても御実子のお嬢様で、たいせつにあそばしていらっしゃる方と御結婚の御同意が得られますことで十分満足されることでしょう。御実子でない方と連れ添って、まがい物の婿のようになることはしたくないと仰せになりました。人物はまことにごりっぱで、世間の評判もたいした方ですよ。若い公達といいましても、あの方だけは女に取り入ろうと気どることなどはなさらない。下情にもよく通じておられます。領地は何か所もおありになるのですよ。現在の御収入は少ないようでも、貴族は家についた勢いというものがあるのですから、ただの人の物持ちになっていばっているのなどその比じゃありませんとも。来年は必ず四位におなりになるでしょう。この次の蔵人頭はまちがいなくあの方にあたると帝が御自身でお約束になったんですよ。何の欠け目もない青年朝臣でいて妻をまだ定めないのはどうしたことだ、しかるべく選定して後見の舅を定めるがいい。自分がいる以上高級官吏には今日明日にでも上げてやろうとそう帝は仰せになるのですよ。だれよりもいちばん帝の御信任を受けていられるのはあの少将さんなのですよ。実際御性格だってすぐれた重々しい人ですよ。理想的な婿君ではありませんか。幸いあちらからお話があるのですから、この場合にぐずぐずしていずに話をお定めになるのが上策でしょう。実際あちらには縁談が降るほどあるのですからね。あなたの躊躇して渋っておられるのが知れましたら、ほかの口の話をお定めになるでしょう。私はただあなたのためにこの御良縁をお勧めするのですよ」

 仲人が出まかせなよいことずくめを言い続けるのを、驚くほど田舎めいた心になっている守であったから、うれしそうに笑顔をして聞いていた。

「現在の御収入の少ないことなどはお話しになる要はない。私が控えている以上は、頭の上へまでもささげて大事にしますよ。決して足らぬ思いはさせません。いつまでもお尽くしすることができずに中途で私が亡くなることがあっても、遺産の領地は一つだってあの娘以外に与えるものではありませんから、御安心くだすっていいのです。子供はおおぜいおりますが、あの娘にだけ私は特別な愛情を持っているのです。真心をもって愛してくださる方であれば、大臣の位置を得たく思いになり、うんと運動費を使いたくおなりになった時にも事は欠かせますまい。現在の帝がそれほど愛護される方では、もうそれで十分で、私などが手を出す必要もないくらいのものでしょう。帝の御後見以外のものは少将さんのためにも私の女の子のためにもたいした結果になりますまい」

 守がおおげさに承諾の意を表したために、仲人はうれしくなって、妹にこの事情も語らず、夫人のほうへも寄って行かずに帰り、仲人は守の言ったことを、幸福そのものをもたらしたようにして少将へ報告した。少将は心に少し田舎者らしいことを言うとは思ったが、うれしくないこともなさそうな表情をして聞いていた。大臣になる運動費でも出そうと言ったことだけはあまりな妄想であるとおかしかった。

「それについて奥さんのほうへは話して来たかね。奥さんの考えていた人と別な人と結婚をしようというのだからね。私の利己主義からそうなったなどと中傷をする人もあるだろうから、このことはどんなものだかね」

 少し躊躇するふうを見せるのを仲人は皆まで言わせずに、

「そんな御心配は無用です。奥さんだって今度のお嬢さんを大事にしておられるのですからね。ただいちばん年長の娘さんで、婚期も過ぎそうになっている点で、前の方のことを心配して、そちらへ話をお取り次ぎになっただけのものですよ」

 と言うのであった。今まではその人のことを特別に大事にしている娘であると言っていた同じ男の口から、にわかにこう言われるのを信じてよいかどうかわからぬとは少将も思ったが、やはり利己的な考えが勝ちを占めて、一度は恨めしがられ、誹謗はされても、一生楽々と暮らしうることは願わしいと処世法の要領を得た男であったから、決心をして、夫人と約束をした日どりまでも変えずにその夜から常陸守の娘の所へ通い始めることにした。

 夫人は良人にも言わず一人で姫君の結婚の仕度をして、女房の服装を調べさせ、座敷の中などを品よく飾り、姫君には髪を洗わせ、化粧をさせてみると、少将などというほどの男の妻にするのは惜しいようで、憐むべき人である、父宮に子と認められて成長していたなら、たとえ宮のお亡れになったあとでも、源大将などの申し込みは晴れがましいことにもせよ、受け入れなくもなかったはずである、しかしながら自分の心だけではこうも思うものの、ほかから見れば守の子同然に思うことであろうし、また真相を知っても私生児と見てかえって軽蔑するであろうことが悲しいなどと夫人は思い続けていた。どうすればいいのであろう、婚期の過ぎてしまうことも幸福でない、家柄のよい無事な男が今度のように懇切に言って来たのであるから与えるほうがいいのであろうかなどと、結局そのほうへ心が傾いたというのも、仲人が守へ言ったと同じようなよいことずくめの話に、まして女の人はやすやすと欺かれたからであるかもしれぬ。もう明日か明後日になったかと思うと、心が落ち着かず忙がしく、どこにもひとところにじっとしておられず夫人がいらいらとしている所へ、外から守がはいって来て、長々と雄弁に次のようなことを言った。

「私を除け者にしておいて、私の大事な娘の求婚者を自分の子のほうへ取ろうとあなたはしたのか、ばかばかしく幼稚な話だ。あなたのりっぱな娘さんを入り用だと思う公達はなさそうだね。卑賤な私風情の女の子をぜひ妻にと言ってくださるので、うまく計画をしたつもりだろうが、それは初めの精神と違うと言ってほかの縁談を定めようとされていたから、それなら思召しどおりこちらの子のほうにと言って私は定めてしまった」

 何の思いやりもなく守はこの奇怪な報告を得意になって妻へした。夫人はあきれてものも言われない。そんなことであったかと思うと、人生の情けなさが一時に胸へせき上がってきて涙が落ちそうにまでなったから、静かに立って歩み去った。

章 常陸介

 姫君の所へ行ってみると、可憐な美しい姿でその人はすわっていた。夫人はなんとなく安心を覚えた。どんな運命がここに現われてきても、この人がだれよりも不遇で置かれるはずはないと思われるのである。姫君の乳母を相手に夫人は、

「いやなものは人の心だね。私は同じようにだれも娘と思って世話をしているものの、この方と縁を結ぶ人には命までも譲りたい気でいるのだのに、父親がないと聞いて、軽蔑をして、まだ年のゆかない、でき上がっていない子などを、この方をさしおいて娶るというようなことができるものなんだねえ。そんな人をまた婿にすることなどは絶対にもう私はいやだけれど、守が名誉に思って大騒ぎしているのを見ると、それがちょうど似合いの婿舅だと思われるよ。私はいっさい口を入れないつもりよ。私はこの家でない所へ当分行っていたい」

 こう歎きながら言うのであった。乳母も腹がたってならない。姫君が軽蔑されたと思うからである。

「いいのですよ奥様。これも結局お姫様の御運が強かったから、あの人と結婚をなさらないで済むことになったのですよ。そんな人にはこの方の価値はわかりますまい。お姫様はものの理解の正しい同情心の厚い方にお嫁がせいたしとうございます。源右大将様の御風采をほのかにしか拝見いたしませんでしたが、まるで命も延びそうな気がいたしましたよ。親切なお申し込みもあるのですから、御運に任せてあの方を婿君になさいましよ」

「まあ恐ろしい。人の話に聞くと、長い間すぐれた女性とでなければ結婚をしないとお言いになって、左大臣、按察使大納言、式部卿の宮様などから婿君にといって懇望されていらっしゃったのを無視しておいでになったあとで帝の御秘蔵の宮様を奥様におもらいになった方だもの、どんなにすぐれたように見える人だってほんとうに愛してくださるものかね。あのお母様の尼宮の女房にして時々は愛してやろうとは思ってくださるだろうがね。それはごりっぱな所だけれど、そんな関係に置かれているのは苦しいものだからね。二条の院の奥様を幸福な方だと人は申しているけれど、やはり物思いのやむ間もないふうでおありになるのを見ると、どんな人でもいいから唯一の妻として愛してくださる良人よりほかは頼もしいもののないことは私自身の経験でも知っている。お亡くなりになった八の宮様は情味のある方らしく見えて、美男で艶なお姿はしていらしったけれど、私を軽いものとしてお扱いになったのが、どんなに情けなく恨めしかったことだったろう。守は言語道断な情味の欠けた醜い人だけれど、私を一人の妻としてほかにはだれも愛していないことで、私は絶対な安心が得られて今日まで来ましたよ。何かの時に今度のような、ぶしつけな、愛想のないことをするのはしかたがないがね、物思いをさせられたり、嫉妬を覚えさせられたりすることもなく、よく双方で口喧嘩はしても、しかたのないと思うことは、またよくあきらめてしまうのが私ら夫婦なのだ。高級のお役人、親王様と言われて、優美に、高雅な生活をしていらっしゃる方を対象としていても、こちらに資格がなくてはつまらないものよ。すべてのことは自身の世間的価値によって定まることなのだと思うと、この方がどこまでもかわいそうに思われるがね、どうかして人笑いにならない幸福な結婚をさせたいと思う」

 二人は姫君の将来のことをいろいろと相談し合った。

 守は婿取りの仕度を一所懸命にして、

「女房などはこちらにいいのがたくさんあるようだから、当分あちらの娘付きにさせておくがいい。帳台の帛なども新調しただろう、にわかなことで間に合わないから、それをそのまま用いることにして、こちらの座敷を使おう」

 西座敷のほうへもそんなことを言いに来て、大騒ぎに騒いでいた。夫人が感じよくさっぱりと装飾しておいた姫君の座敷へ、よけいに幾つもの屏風を持って来て立て、飾り棚、二階棚なども気持ちの悪いほど並べ、そんなのを標準にしてすべての用意のととのえられているのを、夫人は見苦しく思うのであるが、いっさい口出しをすまいと言い切ったのであったから、傍観しているばかりであった。姫君は北側の座敷へ移っていた。

「あなたの心は皆わかってしまった。同じあなたの子なのだから、どんなに愛に厚薄はあっても、今度のような場合に打ちやりにしておけるものでないだろうと思っていたのはまちがいだった。もういいよ。世間には母親のある子ばかりではないのだから」

 と守は言い、愛嬢を昼から乳母と二人で撫でるようにして繕い立てていたから、そう醜いふうの娘とは見えなかった。今が十五、六で、背丈が低く肥った、きれいな髪の持ち主で、小袿の丈と同じほどの髪のすそはふさやかであった。その髪をことさら賞美して撫でまわしている守であった。

「家内がほかの計画を立てていた人をわざわざ実子の婿にせずともいいとは思ったが、あまりに人物がりっぱなもので、われもわれもと婿に取りたがるというのを聞いて、よそへ取られてしまうのは残念だったから」

 と、あの仲人の口車に乗せられた守の言っているのも愚かしい限りであった。

 左近少将もこの派手な舅ぶりに満足して、夫人のほうもやむをえず同意したことと解釈をし、以前に約束のしてあった夜から来始めた。守の妻と姫君の乳母はあさましくこれをながめていたのであった。ひがんだようには見られまいと夫人は世話に手を貸そうとも思っていたが、それをするのも気が進まないままに、二条の院の中の君へまず手紙を送ることにした。

 用事がございませんで手紙を差し上げますのもなれなれしくいたしすぎることになり、失礼かと存じまして、御機嫌はどうかと始終気にいたしながらお尋ねも申し上げませんでした。あの方に謹慎の日がまわってまいりまして、しばらくどこかへ所を変えさせたいと思うのでございますが、そっとおそばへまいらせていただいていてはどんなものでしょう。人目につかぬお部屋が拝借できますれば非常にうれしいことと存じます。つまらぬ私には十分の保護もできませんで、あの方を苦しい立場に置きますことのしばしばある悲しい世でございますのに、お助け所と考えられますのはまずあなた様だけでございます。

 泣きながら書かれたものであるこの手紙を、中の君は哀れと思ったが、父宮が、あくまで子とあそばさなかった人を、父や姉の異議の聞きようのない世になって、自分が姉妹としてつきあうのも気のとがめることであるが、また自分がかまわずにおいた結果、低い女房勤めなどをするようになることも心苦しいことに思われるであろう、自分の計らい方一つから姉妹がちりぢりになってしまうことも父宮のためにお気の毒なことであると思い悩まれるのであった。常陸夫人は大輔のところへも姫君についての心苦しさをやや強く書いて言って来たのであったから、

「何かわけがあることでございましょう。冷淡に断わっておしまいになってはいけません。ああした劣った人から生まれた方が姉妹の中に混じっておいでになることは、どこにも例のあることでございます。先方が無情だと思いますような処置をおとりになってはなりません」

 などと夫人に取りなして、

それではお居間から西のほうに目だたぬ場所をこしらえましたから、いいお座敷ではありませんがごしんぼうをなさいますならしばらくお預かりになろうとおっしゃいます。

 と昔の朋輩の中将へ返事をした。その人はうれしく思ってさっそく姫君を二条の院の夫人へ預ける決心をした。姫君も姉君と親しみたくてならぬ心であったから、かえって少将の問題が機会を作ったのを喜んだ。

 常陸守は婿の少将の三日の夜の儀式をどんなふうに派手に行なおうかと思案をしたのであるが、高尚なことは何もわからぬ男であったから、ただ荒い東国産の絹を無数に投げ出し、酒肴も座が狭くなるほどにも運び出すような歓待ぶりをしたのを、卑しい従者らは大恩恵に逢ったように思って喜んだから、主人の少将もけっこうなことに思い、りこうな舅の持ち方をしたと喜んだ。常陸夫人はこの儀式のある間は外へ出て行くのも意地の悪いことに思われるであろうと我慢をして、ただ父親がするままを見ていた。婿君の昼の座敷、侍の詰め所というような室を幾つも用意するために、家は広いのであるが、長女の婿の源少納言が東の対を使っていたし、そのほかに男の子も多いのであるから空室もなくなった。今まで姫君のいた座敷へ四日めからは婿が住み着くことになっていては、廊座敷などという軽々しい所へ姫君を置くのはどうしても哀れでしんぼうのならぬことと夫人に思われて、考えあぐんだ末に中の君へ預けようとしたのである。だれもが八の宮の三女として姫君を見ないところから、私生児として軽蔑するのであろうと思い、お認めにならなかった宮の御娘の女王の所を選んでしいて姫君の隠れ場所にしたのであった。

 姫君には乳母と若い女房二、三人がついて来た。西向きの座敷の北にあたった所を部屋に与えられた。長い間遠く離れていた間柄ではあるが、母方の血縁のある常陸夫人であったから、来た時には中の君も他人扱いにはせず、顔を見せずに隠れて話すようなこともせず、親王夫人らしい気品を持って、若君の世話などをする様子も近く見せられるのを、わが娘に比べて常陸夫人がうらやましく思うのも哀れである。自分も八の宮夫人と家柄の懸隔のあるわけではない、叔母と姪だったのではないか、女房になって仕えていたという点で、自分の生んだ姫君は宮の女王の一人に数えられず私生児として今度のように、露骨に人から軽侮の態度をとられることにもなったと思う心から、こんなふうにしいて親しみ寄ろうとするのも悲しい心である。

 その一室には物忌という札が貼られ、だれも出入りをしなかった。常陸夫人も二、三日姫君に添ってそこにいた。以前の訪問の時と違い、今度はこんなふうでゆるりと二条の院の生活を昔の中将は観察することができた。

 兵部卿の宮が二条の院へおいでになった。好奇心から常陸夫人は物の間からのぞいて見るのであったが、宮は非常にお美しくて、折った桜の枝のような風采をしておいでになった。自身が信頼して、強情で恨めしいところはあっても、機嫌をそこねまいとしている常陸守よりも姿も身分もずっとすぐれたような四位や五位の役人が皆おそばに来てひざまずいて、いろいろなことを申し上げたり、御意を伺ったりしていた。また年若な五位などで、この夫人にはだれとも顔のわからぬお供も多かった。自身の継子の式部丞で蔵人を兼ねている男が御所の御使いになって来た。こんな役を勤めながらも、おそば近くへはよう来ない。あまりにも普通人と懸隔のある高貴さに驚いて、これは人間世界のほかから降っておいでになった方ではないかという気が常陸の妻にはされた。こんな方に連れ添っておいでになる中の君は幸福であると思った。ただ話で聞いていては、どんなりっぱな方でも女に物思いをおさせになってはよろしくないと、憎いような想像をしていた自分は誤りであった、このお美しい風采を見れば、七夕のように年に一度だけ来る良人であっても女は幸福に思わなくてはならないなどと思っている時、宮は若君を抱いてあやしておいでになった。夫人は短い几帳を間に置いてすわっていたが、その隔ての几帳を横へ押しやって話などを宮はしておいでになるのである。またもない似合わしい美貌の御夫婦であると見えるのであった。八の宮の豊かでおありにならなかった御生活ぶりに比べて思うと、同じ親王と申し上げても恵まれぬ方、恵まれた方の隔たりはこれほどもあるものかという気のする常陸夫人だった。几帳の中へおはいりになったあとでは乳母などと若君のお相手をしていた。伺候した者の集まって来ていることが時々申し上げられても、疲れていて気分がよろしくないと仰せになって、夫人の室から宮はお出にならなかった。お食膳がこちらの室へ運ばれて来た。すべてのことが気高く高雅であった。自身が姫君の生活に善美を尽くしていると信じていたことも、比較して見ていた目は地方官階級の趣味にほかならなかったと常陸夫人は思うようになった。自分の姫君もこうした親王とお並べしても不似合いでない容姿を備えていると思われる。財力を頼みにして父親がお后にもさせようと願っている娘たちは、同じわが子であっても全然そうした美の備わっていないことを思うと、これからは姫君の良人を謙遜して選ぶ必要はない、自重心を持たなければならぬと一晩じゅういろいろな空想を常陸夫人はし続けた。

 朝おそくなってから宮はお起きになり、病身になっておいでになる中宮がまた少しお悪いとお聞きになって御所へまいろうとされ、衣服を改めなどしておいでになった。心が惹かれてまた常陸夫人がのぞくと、正しく装束をされたお姿はまた似るものもないほど気高くお美しい宮は、若君へお心が残るようにいろいろとあやしておいでになる。粥、強飯などを召し上がり、この西の対からお車に召されるのであった。今朝からまいっていて控え所のほうにいた人々はこの時になってお縁側へ出て来て何かと御挨拶を申し上げたりしている中に、気どったふうを見せながら平凡でおもしろみのない顔をし、直衣に太刀を佩いているのがあった。宮のおいでになる前では目にもとまらぬ男であったが、

「あれがあの常陸守の婿の少将じゃありませんか。初めはあの姫君の婿にと定められていたのに、守の娘をもらってかばってもらおうという腹で、女にもでき上がっていない子供を細君にしたのですよ。そんなことをこちらなどで噂する者はありませんがね、守の邸に知った人があって私はその事情を知っているのですよ」

 とほかの一人にささやいている女房があった。常陸の妻が聞いているとは知らずにこんなことの言われているのにもその人ははっとして、少将を相当な風采をした男と認めた以前の自身すらも、残念に腹だたしく、あの男と結婚をさせれば姫君の一生は平凡なものになってしまうのであったと思い、あれ以来軽蔑はしているのであったが、いっそうその感を深くする常陸の妻であった。若君が這い出して御簾の端からのぞいているのに宮はお気づきになって、またもどっておいでになった。

「中宮様の御気分がよろしいようだったら早く退出して来よう。まだお苦しいふうな御容体だったら今夜は宿直しよう。この人がいては一晩でもほかにいる間は気がかりで苦しくてならない」

 こう女房へお言いになりながらしばらく若君をお慰めになってから出てお行きになる宮の御様子は見ても見ても飽くことのないほどお美しかったのが、行っておしまいになったあとに物足りなさと寂しさを常陸夫人は感じた。

章 感嘆

 昔の中将が言葉を尽くして宮の御容姿をほめたたえているのを聞いていて、夫人はこの人も田舎びたものであると思って笑っていた。
「奥様にお別れになりましたのはお生まれになったばかしでございましたから、どうおなりあそばすことかとわれわれも不安でなりませんでしたし、宮様も御心配あそばしたものでございますが、あなた様は御幸運を持ってお生まれになったものですから、宇治のような山ふところでごりっぱにお育ちになったのでございます。ほんとうに残念でございます。大姫君のお亡れになりましたことはあきらめきれません」
 などと泣きながら常陸の妻は言う。中の君も泣いていた。
「人生が恨めしくばかり思われて心細い時にも、また生きていれば少し慰みになる時もあって、そんなおりおりに、生まれた時にお別れしたお母様のことは、そうした運命だったのだからと、お顔を知らないのだからあきらめはつくのだけれど、お姉様のことはいつも生きていてくだすったらと思われて悲しいのですよ。大将さんが今でもまだどんなことにも心の慰められることがないとお悲しみになるほどの、深い愛をお姉様に持っておいでになったことがわかると、いっそうお死にになったのが残念でね」
 と中の君は言った。
「大将様はあんなに、例もないほど婿君として帝がお大事にあそばすために、御驕慢になってそんなふうなこともお言いになるのではありますまいか。大姫君が生きておいでになっても、そのために宮様との御結婚をお断わりあそばすとも思われませんもの」
「まあお姉様だって、だれもが逢っているような悲しい目は見ていらっしゃるだろうからね。かえって先にお死にになってよかったかもしれない。すべてを見てしまわないためによい想像ばかりをしておられるようなものだと思うけれどね。でもね大将はどういう宿縁があるのか怪しいほど昔の恋を忘れずにおいでになってね、お父様の後世のことまでもよく心配してくだすって仏事などもよく親切に御自身の手でしてくださるのですよ」
 と中の君は、感謝している心を別段誇張もせずに常陸夫人へ語って聞かせた。
「お亡れになった姫君の代わりにほしいと、物の数でもございません方のことさえも宇治の弁の尼からお言わせになりましてございます。私はそんなだいそれたことは考えもいたしませんが『紫の一本ゆゑに』(むさし野の草は皆がら哀れとぞ思ふ)と申しますように、大姫君の妹様というだけでお思いになるのかとおそれおおい申しようですが、哀れに思われますほどな真心な恋をなすったのでございますね」
 などと常陸夫人は話したついでに、姫君を将来どう取り扱っていいかと煩悶しているということを泣く泣く中の君へ訴えた。細かに言ったのではないが、二条の院の女房らの間にまで噂をされるようになっていることであるからと思い、左近少将が軽蔑したことなどをほのめかして言った。
「私の命のございます間は、ただお顔を見るだけを朝夕の慰めにして、そばでお暮らしさせるつもりでございますが、死にましたあとは不幸な女になって世の中へ出て苦労をおさせすることになるかと思いますのが悲しくて、いっそ尼にして深い山へお住ませすることにすれば、人生への慾は忘れてしまうことになってよろしかろうなどと、考えあぐんでは思いついたりもいたします」
「ほんとうに気の毒なことだけれどそれは一人だけのことでなく父を亡くした人は皆そうよ。それに女は独身で置いてくれないのが世の中の慣いで一生一人でいるようにとお父様が定めておいでになった私でさえ、自分の意志でなしにこうして人妻になっているのだから、まして無理なことですよ。尼にさせることもあまりにきれいで惜しい人ですよ」
 中の君が姉らしくこう言うのを聞いて常陸夫人は喜んでいた。年はいっているがりっぱできれいな顔の女であった。肥り過ぎたところは常陸さんと言われるのにかなっていた。
「お亡くなりになりました宮様が子としてお認めくださらなかったために、みじめな方はいっそうみじめなものになって、人からもお侮られになると悲しがっておりましたが、あなた様へお近づきいたしますのをお許しくださいまして、御親切な身のふり方まで御心配くださいますことで、昔の宮様のお恨めしさも慰められます」
 そのあとで常陸さんはあちらこちらと伴われて行った良人の任国の話をし、陸奥の浮嶋の身にしむ景色なども聞かせた。
「あの『わが身一つのうきからに』(なべての世をも恨みつるかな)というふうに悲しんでばかりいました常陸時代のことも詳しくお話し申し上げることもいたしまして、始終おそばにまいっていたい心になりましたけれど、家のほうではわんぱくな子供たちのおおぜいが、私のおりませんのを寂しがって騒いでいることかと思いますと、さすがに気が落ち着きません。ああした階級の家へはいってしまいましたことで、私自身も情けなく思うことが多いのでございますから、この方だけはあなた様の思召しにお任せいたしますから、どうとも将来のことをお定めくださいまし」
 この常陸夫人の頼みを聞いて、中の君も、この人の言うとおり妹は地方官級の人の妻などにさせたくないと思っていた。姫君は容貌といい、性質といい憎むことのできぬ可憐な人であった。ひどく恥ずかしがるふうも見せず、感じよく少女らしくはあるが機智の影が見えなくはない。夫人の居室に侍している女房たちに見られぬように、上手に顔の隠れるようにしてすわっていた。ものの言いようなども総角の姫君に怪しいまでよく似ているのであった。あの人型がほしいと言った人に与えたいとその人のことが中の君の心に浮かんだちょうどその時に、右大将の入来を人が知らせに来た。居室にいた女房たちはいつものように几帳の垂れ絹を引き直しなどして用意をした。姫君の母は、
「では私ものぞかせていただきましょう。少しお見かけしただけの人が、たいへんにおほめしていましたけれど、こちらの宮様のお姿とは比較すべきではございますまい」
 と言っていたが、女房たちは、
「さあ、どうでしょう。どちらがおすぐれになっていらっしゃるか私たちにはきめられませんわね」
 こんなことを言う。中の君が、
「二人で向かい合っていらっしゃるのを見た時、宮はうるおいのない醜いお顔のようにお見えになった。別々に見れば優劣はない方がたのように見えるのだけれど、美しい人というものは一方の美をそこねるものだから困るのね」
 と言うと、人々は笑って、
「けれど宮様だけはおそこなわれにならないでしょう。どんな方だって宮様にお勝ちになる美貌を持っておいでになるはずはございませんもの」
 などと言うころ、客は今下車するのであるらしく、前駆の人払いの声がやかましく立てられていたが、急には薫の姿がここへ現われては来なかった。
 待ち遠しく人々が思うころに縁側を歩んで来た大将は、派手な美貌というのではなしに、艶で上品な美しさを持っていて、だれもその人に羞恥を覚えさせられぬ者はなく、知らず知らず額髪も直されるのであった。貴人らしく、この上なく典雅な風采が薫には備わっていた。御所から退出した帰り途らしい。前駆の者がひしめいている気配がここにも聞こえる。
「昨晩中宮がお悪いということを聞きまして、御所へまいってみますと、宮様がたはどなたも侍しておられないので、お気の毒に存じ上げてこちらの宮様の代わりに今まで御所にいたのです。今朝も宮様のおいでになるのがお早くなかったので、これはあなたの罪でしょうと私は解釈していたのですよ」
 と大将は言った。
「ほんとうに深いお思いやりをなさいますこと」
 夫人はこう答えただけである。宮が御所にとどまっておいでになるのを見てこの人はまた中の君と話したくなって来たものらしい。
 いつものようになつかしい調子で薫は話し続けていたが、ともすればただ昔ばかりが忘られなくて、現在の生活に興味の持たれぬことを混ぜて中の君へ訴えようとするのであった。この人の言っているように長い時間を隔ててなお恋の続いているわけはない、これは熱愛するようにその昔に言い始めたことであったから、忘れていぬふうを装うのではないかと女王は疑ってもみたが、人の心は外見にもよく現われてくるものであるから、しばらく見ているうちに、この人の故人への思慕の情が岩木でない人にはよくわかるのであった。この人を思う心も縷々と言われるのに中の君は困っていて、恋の心をやめさせる禊をさせたい気にもなったか、人型の話をしだして、
「このごろはあの人、そっとこの家に来ています」
 とほのめかすと、男もそれをただごととして聞かれなかった。牽引力のそこにもあるのを覚えたが、にわかにそちらへ恋を移す気にこの人はなれなかった。
「でもその御本尊が私の願望を皆受け入れてくださるのであれば尊敬されますがね。いつも悩まされてばかりいるようでは、信仰も続きませんよ」
「まあ、あなたの信仰ってそれくらいなのですね」
 ほのかに中の君の笑うのも薫には美しく聞かれた。
「では完全に私の希望をお伝えください。御自身の一時のがれの口実だと伺っていると、あとに何も残らなかった昔のことが思い出されて恐ろしくなります」
 こう言ってまた薫は涙ぐんだ。

見し人のかたしろならば身に添へて恋しき瀬々のなでものにせん
(亡き人の形見ならば、いつも側におき、恋しい気持ちの折々のなでものとしよう)

 これを例の冗談にして言い紛らわしてしまった。

「みそぎ河瀬々にいださんなでものを身に添ふかげとたれか頼まん
(禊河の瀬々に流し出すなでものを、いつまで側に置いておくと誰が期待するでしょう)

『ひくてあまたに』(大ぬさの引く手あまたになりぬれば思へどえこそ頼まざりけれ)とか申すようなことで、出過ぎたことですが私は心配されます」
「『つひによるせ』(大ぬさと名にこそ立てれ流れてもつひの寄る瀬はありけるものを)はどこであると私が思っていることはあなたにだけはおわかりになるはずですし、その話のほうのははかない水の泡と争って流れる撫物でしかないのですから、あなたのお言葉のようにたいした効果を私にもたらしてくれもしないでしょう。私はどうすれば空虚になった心が満たされるのでしょう」
 こんなことを言いながら薫が長く帰って行こうとしないのもうるさくて、中の君は、
「ちょっと泊りがけでまいっている客も怪しく思わないかと遠慮がされますから、今夜だけは早くお帰りくださいまし」
 と言い、上手に帰りを促した。
「ではお客様に、それは私の長い間の願いだったことを言ってくだすって、にわかな思いつきの浅薄な志だと取られないようにしていただけば、私も自信がついて接近して行けるでしょう。恋愛の経験の少ない私には、女性の好意を求めに行くようなことなどは今さら恥ずかしくてできなくなっています」
 薫はこう頼んで帰って行った。姫君の母は薫をりっぱだと思い、理想的な貴人であると心でほめて、乳母が左近少将への復讐として思いつき、たびたび勧めたのを、あるまじいことだと退けていたが、あの風采の大将であれば、たまさかな通い方をされても忍ぶことができよう、自分の娘は平凡人の妻とさせるにはあまりに惜しい美が備わっているのに、東国の野蛮な人たちばかりを見て来た目では、あの少将をすら優美な姿と見て婿にも擬してみたと、くちおしいまでにも破れた以前の姫君の婚約者のことをこの女は思うようになった。
 よりかかっていた柱にも敷き物にも残った薫のにおいのかんばしさを口にしては誇張したわざとらしいことにさえなるであろうと思われた。おりおり見る人さえもそのたびごとにほめざるを得ない薫であったのである。
「お経をたくさん読んだ人に、その報いの現われてくることの書いてある中に、芳香を身体に持つということを最高のものに仏様が書いておありになるのも道理だと思われますね。薬王品などにも特にそれが書いてありますね。牛頭栴檀の香とかこわいような名だけれど、私たちは大将様にお近づきできることで仏様のお言葉に嘘のないことをわからせていただきました。御幼少の時から仏勤めをよくあそばしたからよ」
「でもこの世だけの信仰の結果とは思われませんね。どんな前生を持っていらっしゃったのか、それが知りたくなりますわ」
 などとも言って口々にほめるのを、常陸夫人は知らず知らず微笑して聞いていた。中の君はそっと薫に託された話をした。
「一度お思いになったことは執拗なほどにもお忘れにならない、まれな頼もしい性質でね。それは今はまあ御新婚された時などで、めんどうが多い気もあなたはするでしょうけれど、あなたが尼にさせようかなどとも思っておいでになるのなら、その気で試みてごらんになったらどう」
「つらい思いも味わわせず、人に軽蔑もさせたく思いません心から、鶏の声も聞こえませぬような僧房住まいをおさせする気になっていたのですが、大将さんをはじめてお見上げして、ああした方にはたとえ下仕えにでも御奉公できますことは生きがいがあることと思われましてございます。年のいった者でもそう思うのですから、まして若い人はあの方に好感を持つことだろうと思われますものの、相手がごりっぱであればあるだけ卑下がされまして、物思いの種を心に蒔かせることになりはしないでしょうかと苦労に考えられます。身分の高低にかかわらず、女というものはねたましがらせられることで、この世のため、未来の世のために罪ばかりを作ることになるものだと思いますと、それがかわいそうでございます。しかし何も皆あなたの思召し次第でございます。どんなにでもお定めになって、お世話をくださいませ」
 と常陸夫人の言うのを聞いていて、中の君は重い責任を負わされた気がして、
「今までの親切な心を知っているだけで将来のことは私に保証ができないのだから、そう言われるとどうしてよいかわからない」
 と歎息をしたままでその話はしなくなった。
 夜が明けると車などを持って来て、常陸守の帰りを促す腹だたしげな、威嚇的な言葉を使いが伝えたため、
「もったいないことですが、万事あなた様をお頼みに思わせていただきまして、あの方をお手もとへ置いてまいります。『いかならん巌の中に住まばかは』(世のうきことの聞こえこざらん)とばかり苦しんでおります間だけを隠してあげてくださいませ。哀れな人と御覧くださいまして、教えられておりませんことをお教えくださいませ」
 などと、昔の中将の君は夫人に泣きながら頼んでおいて帰って行こうとした。姫君は母に別れていたこともない習慣から心細く思うのであったが、はなやかな貴族の家庭にしばらくでも混じって行けるようになったことはさすがにうれしかった。

章 危機

 常陸夫人の車の引き出されるころは少し明るくなっていたが、ちょうどこの時に宮は御所からお帰りになった。若君に心がお惹かれになるために御微行の体で車なども例のようでなく簡単なのに召しておいでになったのと行き合って、常陸家の車は立ちどまり、宮のお車は廊に寄せられてお下りになるのであった。だれの車だろう、まだ暗いのに急いで出て行くではないかと宮は目をおとめになった。こんなふうにして人目を忍んで通う男は帰って行くものであると、御自身の経験から悪い疑いもお抱きになった。

「常陸様がお帰りになるのでございます」

 と、出る車に従った者は言った。

「りっぱなさまだね」

 と若い前駆の笑い合っているのを聞いて、常陸の妻は、こんなにまで懸隔のある身分であったかと悲しんだ。ただ姫君のために自分も人並みな尊敬の払われる身分がほしいと思った。まして姫君自身をわが階級に置くことは惜しい悲しいことであるといよいよこの人は考えるようになった。

 宮は夫人の居間へおはいりになって、

「常陸さんという人があなたの所へ通っているのではないか、艶な夜明けに急いで出て行った車付きの者が、なんだかわざとらしいこしらえ物のようだった」

 まだ疑いながらお言いになるのであった。人聞きの恥ずかしい困ったことをお言いになると思い、

「大輔などの若いころの朋輩は何のはなやかな恰好もしていませんのに、仔細のありそうにおっしゃいますのね。人がどんなに悪く解釈するかもしれないようなことにわざとしてお話しなさいます。『なき名は立てで』(ただに忘れね)」

 と言って、顔をそむける夫人は可憐で美しかった。そのまま寝室に宮は朝おそくまで寝んでおいでになったが、伺候者が多数に集まって来たために、正殿のほうへお行きになった。

 中宮の御病気はたいしたものでなくすぐ快くおなりになったことにだれも安心して、まいっていた左大臣家の子息たちなどもごいっしょに碁を打ち韻塞などしてこの日を暮した。

 夕方に宮が西の対へおいでになった時に、夫人は髪を洗っていた。女房たちも部屋へそれぞれはいって休息などをしていて、夫人の居間にはだれというほどの者もいなかった。小さい童女を使いにして、

「おりの悪い髪洗いではありませんか。一人ぼっちで退屈をしていなければならない」

 と宮は言っておやりになった。

「ほんとうに、いつもはお留守の時にお済ませするのに、せんだってうちはおっくうがりになってあそばさなかったし、今日が過ぎれば今月に吉日はないし、九、十月はいけないことになるしと思って、おさせしたのですがね」

 と大輔は気の毒がり、若君も寝ていたのでお寂しかろうと思い、女房のだれかれをお居間へやった。

 宮はそちらこちらと縁側を歩いておいでになったが、西のほうに見馴れぬ童女が出ていたのにお目がとまり、新しい女房が来ているのであろうかとお思いになって、そこの座敷を隣室からおのぞきになった。間の襖子の細めにあいた所から御覧になると、襖子の向こうから一尺ほど離れた所に屏風が立ててあった。その間の御簾に添えて几帳が置かれてある。几帳の垂れ帛が一枚上へ掲げられてあって、紫苑色のはなやかな上に淡黄の厚織物らしいのの重なった袖口がそこから見えた。屏風の端が一つたたまれてあったために、心にもなくそれらを見られているらしい。相当によい家から出た新しい女房なのであろうと宮は思召して、立っておいでになった室から、女のいる室へ続いた庇の間の襖子をそっと押しあけて、静かにはいっておいでになったのをだれも気がつかずにいた。

 向こう側の北の中庭の植え込みの花がいろいろに咲き乱れた、小流れのそばの岩のあたりの美しいのを姫君は横になってながめていたのである。初めから少しあいていた襖子をさらに広くあけて屏風の横から中をおのぞきになったが、宮がおいでになろうなどとは思いも寄らぬことであったから、いつも中の君のほうから通って来る女房が来たのであろうと思い、起き上がったのは、宮のお目に非常に美しくうつって見える人であった。例の多情なお心から、この機会をはずすまいとあそばすように、衣服の裾を片手でお抑えになり、片手で今はいっておいでになった襖子を締め切り、屏風の後ろへおすわりになった。

 怪しく思って扇を顔にかざしながら見返った姫君はきれいであった。扇をそのままにさせて手をお捉えになり、

「あなたはだれ。名が聞きたい」

 とお言いになるのを聞いて、姫君は恐ろしくなった。ただ戯れ事の相手として御自身は顔を外のほうへお向けになり、だれと知れないように宮はしておいでになるので、近ごろ時々話に聞いた大将なのかもしれぬ、においの高いのもそれらしいと考えられることによって、姫君ははずかしくてならなかった。乳母は何か人が来ているようなのがいぶかしいと思い、向こう側の屏風を押しあけてこの室へはいって来た。

「まあどういたしたことでございましょう。けしからぬことをあそばします」

 と責めるのであったが、女房級の者に主君が戯れているのにとがめ立てさるべきことでもないと宮はしておいでになるのであった。はじめて御覧になった人なのであるが、女相手にお話をあそばすことの上手な宮は、いろいろと姫君へお言いかけになって、日は暮れてしまったが、

「だれだと言ってくれない間はあちらへ行かない」

 と仰せになり、なれなれしくそばへ寄って横におなりになった。宮様であったと気のついた乳母は、途方にくれてぼんやりとしていた。

「お明りは燈籠にしてください。今すぐ奥様がお居間へおいでになります」

 とあちらで女房の言う声がした。そして居間の前以外の格子はばたばたと下ろされていた。この室は別にして平生使用されていない所であったから、高い棚厨子一具が置かれ、袋に入れた屏風なども所々に寄せ掛けてあって、やり放しな座敷と見えた。こうした客が来ているために居間のほうからは通路に一間だけ襖子があけられてあるのである。そこから女房の右近という大輔の娘が来て、一室一室格子を下ろしながらこちらへ近づいて来る。

「まあ暗い、まだお灯も差し上げなかったのでございますね。まだお暑苦しいのに早くお格子を下ろしてしまって暗闇に迷うではありませんかね」

 こう言ってまた下ろした格子を上げている音を、宮は困ったように聞いておいでになった。乳母もまたその人への体裁の悪さを思っていたが、上手に取り繕うこともできず、しかも気がさ者の、そして無智な女であったから、

「ちょっと申し上げます。ここに奇怪なことをなさる方がございますの、困ってしまいまして、私はここから動けないのでございますよ」

 と声をかけた。何事であろうと思って、暗い室へ手探りではいると、袿姿の男がよい香をたてて姫君の横で寝ていた。右近はすぐに例のお癖を宮がお出しになったのであろうとさとった。姫君が意志でもなく男の力におさえられておいでになるのであろうと想像されるために、

「ほんとうに、これは見苦しいことでございます。右近などは御忠告の申し上げようもございませんから、すぐあちらへまいりまして奥様にそっとお話をいたしましょう」

 と言って、立って行くのを姫君も乳母もつらく思ったが、宮は平然としておいでになって、驚くべく艶美な人である、いったい誰なのであろうか、右近の言葉づかいによっても普通の女房ではなさそうであると、心得がたくお思いになって、何ものであるかを名のろうとしない人を恨めしがっていろいろと言っておいでになった。うとましいというふうも見せないのであるが、非常に困っていて死ぬほどにも思っている様子が哀れで、情味をこめた言葉で慰めておいでになった。

 右近は北の座敷の始末を夫人に告げ、

「お気の毒でございます。どんなに苦しく思っていらっしゃるでしょう」

 と言うと、

「いつものいやな一面を出してお見せになるのだね。あの人のお母さんも軽佻なことをなさる方だと思うようになるだろうね。安心していらっしゃいと何度も私は言っておいたのに」

 こう中の君は言って、姫君を憐れむのであったが、どう言って制しにやっていいかわからず、女房たちも少し若くて美しい者は皆情人にしておしまいになるような悪癖がおありになる方なのに、またどうしてあの人のいることが宮に知られることになったのであろうと、あさましさにそれきりものも言われない。

「今日は高官の方がたくさん伺候なすった日で、こんな時にはお遊びに時間をお忘れになって、こちらへおいでになるのがお遅くなるのですものね、いつも皆奥様なども寝んでおしまいになっていますわね。それにしてもどうすればいいことでしょう。あの乳母が気のききませんことね。私はじっとおそばに見ていて、宮様をお引っ張りして来たいようにも思いましたよ」

 などと右近が少将という女房といっしょに姫君へ同情をしている時、御所から人が来て、中宮が今日の夕方からお胸を苦しがっておいであそばしたのが、ただ今急に御容体が重くなった御様子であると、宮へお取り次ぎを頼んだ。

「あやにくな時の御病気ですこと、お気の毒でも申し上げてきましょう」

 と立って行く右近に、少将は、

「もうだめなことを、憎まれ者になって宮様をお威しするのはおよしなさい」

 と言った。

「まだそんなことはありませんよ」

 このささやき合いを夫人は聞いていて、なんたるお悪癖であろう、少し賢い人は自分をまであさましく思ってしまうであろうと歎息をしていた。

 右近は西北の座敷へ行き、使いの言葉以上に誇張して中宮の御病気をあわただしげに宮へ申し上げたが、動じない御様子で宮はお言いになった。

「だれが来たのか、例のとおりにたいそうに言っておどすのだね」

「中宮のお侍の平の重常と名のりましてございます」

 右近はこう申した。別れて行くことを非常に残念に思召されて、宮は人がどう思ってもいいという気になっておいでになるのであるが、右近が出て行って、西の庭先へお使いを呼び、詳しく聞こうとした時に、最初に取り次いだ人もそこへ来て言葉を助けた。

「中務の宮もおいでになりました。中宮大夫もただ今まいられます。お車の引き出されます所を見てまいりました」

 そうしたように発作的にお悪くおなりになることがおりおりあるものであるから、嘘ではないらしいと思召すようになった宮は、夫人の手前もきまり悪くおなりになり、女へまたの機会を待つことをこまごまとお言い残しになってお立ち去りになった。

 姫君は恐ろしい夢のさめたような気になり、汗びったりになっていた。乳母は横へ来て扇であおいだりしながら、

「こういう御殿というものは人がざわざわとしていまして、少しも気が許せません。宮様が一度お近づきになった以上、ここにおいでになってよいことはございませんよ。まあ恐ろしい。どんな貴婦人からでも嫉妬をお受けになることはたまらないことですよ。全然別な方にお愛されになるとも、またあとで悪くなりましてもそれは運命としてお従いにならなければなりません。宮様のお相手におなりになっては世間体も悪いことになろうと思いまして、私はまるで蝦蟇の相になってじっとおにらみしていますと、気味の悪い卑しい女めと思召して手をひどくおつねりになりましたのは匹夫の恋のようで滑稽に存じました。お家のほうでは今日もひどい御夫婦喧嘩をあそばしたそうですよ。ただ一人の娘のために自分の子供たちを打ちやっておいて行った。大事な婿君のお来始めになったばかりによそへ行っているのは不都合だなどと、乱暴なほどに守はお言いになりましたそうで、下の侍でさえ奥様をお気の毒だと言っていました。こうしたいろいろなことの起こるのも皆あの少将さんのせいですよ。利己的な結婚沙汰さえなければ、おりおり不愉快なことはありましてもまずまず平和なうちに今までどおりあなた様もおいでになれたのですがね」

 歎息をしながら乳母はこう言うのであった。

 姫君の身にとっては家のことなどは考える余裕もない。ただ闖入者が来て、経験したこともない恥ずかしい思いを味わわされたについても、中の君はどう思うことであろうと、せつなく苦しくて、うつ伏しになって泣いていた。見ている乳母は途方に暮れて、

「そんなにお悲しがりになることはございませんよ。お母様のない人こそみじめで悲しいものなのですよ。ほかから見れば父親のない人は哀れなものに思われますが、性質の悪い継母に憎まれているよりはずっとあなたなどはお楽なのですよ。どうにかよろしいように私が計らいますからね、そんなに気をめいらせないでおいでなさいませ。どんな時にも初瀬の観音がついてあなたを守っておいでになりますからね、観音様はあなたをお憐みになりますよ。お参りつけあそばさない方を、何度も続けてあの山へおつれ申しましたのも、あなたを軽蔑する人たちに、あんな幸運に恵まれたかと驚かす日に逢いたいと念じているからでしたよ。あなたは人笑われなふうでお終わりになる方なものですか」

 と言い、楽観させようと努めた。

 宮はすぐお出かけになるのであった。そのほうが御所へ近いからであるのか西門のほうを通ってお行きになるので、ものをお言いになるお声が姫君の所へ聞こえてきた。上品な美しいお声で、恋愛の扱われた故い詩を口ずさんで通ってお行きになることで、煩わしい気持ちを姫君は覚えていた。お替え馬なども引き出して、お付きして宿直を申し上げる人十数人ばかりを率いておいでになった。

 中の君は姫君がどんなに迷惑を覚えていることであろうとかわいそうで、知らず顔に、

「中宮様の御病気のお知らせがあって、宮様は御所へお上がりになりましたから、今夜はお帰りがないと思います。髪を洗ったせいですか、気分がよくなくてじっとしていますが、こちらへおいでなさい。退屈でもあるでしょう」

 と言わせてやった。

「ただ今は身体が少し苦しくなっておりますから、癒りましてから」

 姫君からは乳母を使いにしてこう返事をして来た。どんな病気かとまた中の君が問いにやると、

「何ということはないのですが、ただ苦しいのでございます」

 とあちらでは言った。少将と右近とは目くばせをして、夫人は片腹痛く思うであろうと言っているのは姫君のために気の毒なことである。

 夫人は心で残念なことになった、薫が相当熱心になって望んでいた妹であったのに、そんな過失をしたことが知れるようになれば軽蔑するであろう、宮という放縦なことを常としていられる方は、ないことにも疑念を持ちうるさくお責めにもなるが、また少々の悪いことがあってもぜひもないようにおあきらめになりそうであるが、あの人はそうでなく、何とも言わないままで情けないことにするであろうのを思うと、妹はどんなに気恥ずかしいことかしれぬ、運命は思いがけぬ憂苦を妹に加えることになった、長い間見ず知らずだった人なのであるが、逢って見れば性質も容貌もよく、愛せずにはいられなくなった妹であったのに、こんなことが起こってくるとはなんたることであろう、人生とは複雑にむずかしいものである、自分は今の身の上に満足しているものではないが、妹のような辱しめもあるいは受けそうであった境遇にいたにもかかわらず、そうはならずに正しく人の妻になりえた点だけは幸福と言わねばなるまい、もう自分は薫が恋をさえ忘れてくれて、以前の友情でつきあって行けることになれば、何も深く憂えずに暮らす女になろうと思った。多い髪であるから、急にはかわかしきれずにすわっていねばならぬのが苦しかった。白い服を一重だけ着ている中の君は繊細で美しい。

 姫君はほんとうに身体が苦しくなっていたのであるが、乳母は、

「そんなふうにしておいでになっては、痛くない腹をさぐられます。何か事のあったように女王様はお思いになっていらっしゃるかもしれませんから、ただおおようなふうにしてあちらへいらっしゃいませ。右近さんなどには事実を初めからお話しいたしますよ」

 と言い、しいて促し立てておき、夫人の居室の襖子の前へまで行き、

「右近さんにちょっとお話しいたしたいことが」

 と言った。出て来たその人に、

「御冗談をなさいました方様のために、お姫様は驚いて気もお失いになるばかりなのですよ。ほんとうのひどい目にでもおあいになった人のように苦しいふうをお見せになるのでお気の毒でなりません。奥様から慰めてあげていただきたいと私はお願いに出たのでございます。過失もなさいませんでしたのに、恥ずかしくてならぬように思召すのもお道理でございますよ。異性のことがよくわかっておいでになる方であれば、これは何でもないことだとおわかりになるのでしょうが、そうでないところに純粋なところも持っていらっしゃるのだと拝見しています」

 と言っておき、姫君を引き起こして夫人の所へ伴って行くのであった。人のするままに任せて、他人がどんな想像をしているだろうと思うことに羞恥は覚えるのであるが、柔らかなおおよう過ぎたほどの性質の人であったから、乳母に押し出されて夫人の居間の中へはいった。額髪などの汗と涙でひどく濡れたのを隠したく思い、灯のほうから顔をそむけた姫君は、夫人をこれ以上の美人はないと常にながめている女房たちが見て、劣ったふうもなく、貴女らしく美しい、宮がこの方をお愛しになるようになったら気まずいことを見ることになろう、これほどの人でなくても、新しい人をお喜びになる宮の御性質であるからと、夫人に侍していた二人ほどの女房は、姫君の隠しきれない顔を見て思っていた。中の君はなつかしいふうで話していて、

「あなたの家と違った所だとここを思わないでいらっしゃいよ。お姉様がお亡れになってから、私は姉様のことばかりが思われて、忘れることなどは少しもできなくてね、自分の運命ほど悲しいものはないと思って暮らしていたのですがね、あなたという姉様によく似た人を見ることができるようになって、ずいぶん慰められてますよ。私にはほかにあなたのような妹はないのですから、お父様の御愛情を私から受け取る気になってくだすったらうれしいだろうと思います」

 などとも夫人は語るのであったが、宮から愛のささやきをお受けした心のひけ目がある上に、よい環境に置かれていなかった人は、姉君に応じて何もものが言えないというふうがあって、

「長い間とうていおそばなどへまいれるものでないと思っていましたのに、こんなに御親切にいろいろとしていただけるのですもの、どんなことも皆慰められる気がいたします」

 とだけ、少女らしい声で言った。夫人が絵などを出させて、右近に言葉書きを読ませ、いっしょに見ようとすると、姫君は前へ出て、恥じてばかりもいず熱心に見いだした灯影の顔には何の欠点もなく、どこも皆美しくきれいであった。清い額つきがにおうように思われて、おおような貴女らしさには総角の姫君がただ思い出されるばかりであったから、夫人は絵のほうはあまり目にとめず、身にしむ顔をした人である、どうしてこうまで似ているのであろう、大姫君は宮に、自分は母君に似ていると古くからいる女房たちは言っていたようである、よく似た顔というものは人が想像もできぬほど似ているものであると、故人に思い比べられて夫人は姫君を涙ぐんでながめていた。故人は限りもなく上品で気高くありながら柔らかな趣を持ち、なよなよとしすぎるほどの姿であった。この人はまだ身のこなしなどに洗練の足らぬところがあり、また遠慮をすぎるせいか美しい趣は劣って見える、重々しいところを加えさせるようにすれば大将の妻の一人になっても不似合いには見えまいなどと、姉心になって気もつかっている中の君であった。話し合って夜明け近くまでなってから寝んだのであるが、夫人はそばへ寝させて、父宮についてお亡れになるまでの御様子などを、ことごとくではないが話して聞かせた。聞けば聞くほど恋しく、ついにお逢いすることがなく終わったことをくやしく悲しく姫君は思った。

 昨夜のできごとを知っている女房たちは、

「実際はどんなことだったのでしょう、おかわいらしいお顔をしていらっしゃるあの方を、奥様はあんなに大事にしておいでになっても、もう泥土に落ちた花ではありませんか、気の毒な」

 と一人が言うのを、右近は、

「そこまでは進まなかったのでしょう。あの乳母が私をつかまえて、放すものかというようにもしてこぼしていた話にも、そこまでも行った御冗談だったとは言ってませんでしたよ。宮様も近づきながら恋を成り立たせえなかったような意味の詩を口ずさんでおいでになりましたもの。けれどもそれはわざとそうお見せになろうとするためか私は知りませんよ」

 やや釈明的にも言い、二人は姫君に同情した。

章 三条にて

 乳母は車の拝借を申し出て常陸様の所へ帰って行った。常陸夫人に昨夜のことを報告するとはっと驚いたふうが見えた。女房たちもけしからぬことだと言いもし、思いもするであろう、夫人はまたどんなふうに思うことか、嫉妬の憎しみというものは貴婦人も何もいっしょなのであるからと、自身の性情から一大事のように思い、じっとはしておられず、その夕方に二条の院へまいった。宮のおいでにならぬ時であったから常陸の妻は気安く思い、
「まだ幼稚なところの改まりません方をおそばへ置いてまいりましたものですから、あなた様にお任せして安心はさせていただいていながら、気がかりでならぬような思いもいたされまして、いっこう落ち着いてもいられないふうでいますものですから、下品な人たちに腹をたてられたり、怨まれたりもいたしましてございます」
 と昔の中将の君は言いだした。
「そんなにあなたが言うほど幼稚な人でもないのに、気がかりでならぬように言って興奮しておいでになるから、私はおこられるのではないかと心配ですよ」
 と笑った夫人の眼つきの気品の高さにも常陸の妻は心の鬼から親子を恥知らずのように見られている気がした。胸の中ではどんなに口惜しがっておいでになるかもしれぬと思うと、あの問題には触れていくことができないのであった。
「こうしておそばへ置いていただきますことは、長い間の念願のかないました気が私もしまして、世間の人に聞かれましても、あの人の名誉になることと存じますが、しかし考えますれば、あまりにも無遠慮なことでございます。尼にして深い山へ入れてしまいましたほうが賢明ないたし方だったのでしょうが」
 と言って泣くのも中の君にはかわいそうで、
「ここにお置きになって、何もあなたが気がかりに思う必要はないのですよ。十分のことはできなくても、私が愛していないのなら不安は不安でしょうが、そうではありませんよ。悪い癖をお出しになる方が時々ここへはおいでになるけれど、女房たちだって皆知っていて警戒をしますから、あの人の迷惑になるようにはしないだろうと思いますけれど、あなたはどんな想像をしておいでになるの」
 こう言っていた。
「あなた様の御愛情を疑うということは決してございません。昔の宮様があの方を子にしてくださいませんでしたことも、あなたへお恨みする筋はないのでございます。それは別にいたしましても、あなた様と私とは血縁があるのでございますから、それだけでおすがりもいたすのでございます」
 などと真心を見せて言ったあとで、
「明日と明後日があの方のために大事な謹慎日なのでございますが、こういたしましたお出入りの人の多い所でない場所でその間を過ごさせまして、またおつれいたしましょう」
 と常陸夫人は言い、姫君をつれて行こうとするのであった。中の君はこれを本意ないことに思ったが、とめることはできなかった。あのできごとに心の乱れている女であったから、あまり長く話もせずに去った。
 姫君のための何かの場合に使おうと思い、この人は家をかねて一つ用意させてあった。三条辺でしゃれた作りの家なのであるが、まだまったくはでき上がっていず、行き渡った装飾がされているのでもなかった。
「あなた一人で苦労が尽きない。薄命な自分などは、明日というようなものを頼みにせず早く死んでおればよかったのですよ。自分だけは生まれた家にもふさわしくない地方官の家の中にはいって、一生をしんぼうもしよう、ただあなたをそうした人と同じように扱わせることが忍ばれないことに思われましてね、お姉様をおたよらせしてやったのですが、醜いことがそこで起こればいっそう世間体の恥ずかしいことになります。いやなことですよ。不都合な家でもこの家に隠れていらっしゃい。だれにも知れないようにしてね、私はどんなにでもしてあなたのためによくしてあげますから」
 こう言い置いて常陸の妻は娘のところから帰ろうとした。姫君は泣いて、生きているだけでさえ人迷惑な自分らしいと気をめいらせているのがかわいそうに見えた。親の心にはまして不憫で、もったいないほど美しいこの人を、その価値にふさわしい結婚がさせたいと思う心から、二条の院でのできごとのようなことが噂になり、その名の傷つけられるのを残念がっているのであった。聡明な点もある女ながらすぐ腹をたてるわがままなところも持つ女なのである。守の本宅のほうにも隠して住ませておくことはできたのであるが、そうしたみじめな起居はさせたくないとして別居をさせ始めたのであって、生まれてからずっといっしょにばかりいた母と子であるため、双方で心細く思い、悲しがっているのである。
「ここはまだよくでき上がっていないで、危険でもある家ですからね、よく気をおつけなさい。宿直をする侍のことなども私はよく命じておきましたけれど、まったく安心はできない。でも家のほうで腹をたてたり、恨んだりする人がありますから帰りますよ」
 泣く泣く母は帰って行った。
 婿の少将の歓待を最も大事なこととしている守は、妻がいっしょに家にいてしないのを怒るのである。夫人は不愉快で、この少将のために姫君の身に災難も降りかかることになったと、だれよりも愛する子のことであったから、反感ばかりがその男に持たれて、気を入れた世話などはできなかった。二条の院の宮の御前でみすぼらしく見た時から軽蔑する気になった夫人であったから、姫君の婿として大事に扱ってみたいなどと好意を持ったことは忘れていた。家ではどんなふうに見えるであろう、まだ自家の中で打ち解けた姿をしているところを自分は見なかったと思い、少将がくつろいでいる昼ごろに今では守の愛嬢の居室に使われている西座敷へ来て夫人は物蔭からのぞいた。柔らかい白綾の服の上に、薄紫の打ち目のきれいにできた上着などを重ねて、縁側に近い所へ、庭の植え込みを見るために出てすわっている姿は、決して醜い男だとは見えない。娘は未完成に見える若さで、無邪気に身を横たえていた。母の目には兵部卿の宮が夫人と並んでおいでになった時の華麗さが浮かんできて、どちらもつまらぬ夫婦であるとまた思った。そばにいる女房らに冗談を言っている余裕のある様子などをながめていると、この間のように美しい気もない男とは見えないため、二条の院でのぞいた時のは他の少将であったかと思う時も時、
「兵部卿の宮のお邸の萩はきれいなものだよ。どうしてあんな種があったのだろう。同じ花でも枝ぶりがなんというよさだったろう。この間伺った時にはもうすぐお出かけになる時だったから折っていただいて来ることができなかったよ。その時『うつろはんことだに惜しき秋萩に』というのをお歌いになった宮様を若い人たちに見せたかったよ」
 と言うではないか。そして少将は自身でも歌を作っていた。あの利己心をなまなましく見せた時のことを思うと人とも見なされない男で、はなはだしく幻滅を感じさせた男に、ろくな歌はできるはずもないと母はつぶやかれたのであるが、そうまでも軽蔑してしまうことのできぬふうはさすがにしているため、どう答えるかためそうと思い、

しめゆひし小萩が上もまよはぬにいかなる露にうつる下葉ぞ
(囲いをしていた小萩の上葉は乱れもしないのに、どんな露で色が変わった下葉なのでしょう)

 と取り次がせてやると、少将は姑を気の毒に思って、
「宮城野の小萩がもとと知らませばつゆも心を分かずぞあらまし
(宮城野の小萩のもとと知っていたならば、露も心を分け隔てなかったでしょう)

 そのうち自身でこの申しわけをさせていただきましょう」
 と返事を伝えさせた。八の宮のことを聞いて知ったらしいと思うと、いっそうその娘が大事に思われ、どうして他の子などといっしょに扱われようと考えられる母であった。理由もなくこの時に薫の面影が目に見えてきて、心の惹かれる思いがした。同じように美貌でおありになるとは宮を思ったが、こうした憧憬を持って思うことはできない。娘を侮って無法に私室へ闖入あそばされた方であると思うとくちおしいのである。大将は娘に興味を持っておいでになりながら直接に恋の手紙を送ろうともせず、表面はあくまで素知らぬ顔で通しているのも階級的な差別に因づくと思われるのはつらいがりっぱな態度であるなどと、母親は薫にばかり好感の持たれる自分を認め、若い姫君はまして二人の貴人を比較して見て大将に心の傾くことであろうと思われる。姫君の婿にしようなどと少将のような無価値な男を思ったことが自分にあったのが恥ずかしいなどと母は姫君についての物思いばかりをし続け、ああもして、こうもなってとよいほうへと空想を進めるのであったが、また反省してみて、自分の願いは実現が困難なことである、あの高貴さと、あの風采の備わった大将は、もっともっと資格の完全な人を愛するはずである、顧みられる価値が姫君にあるかどうかは疑わしい。世間を見ると、容貌と性情は尊卑の階級によって自然に備わるものらしい。自分の子供たちの中に、だれ一人姫君に近い容貌を持つ者がないではないか、少将は家ではすぐれた美男のように良人などは見、自分ももとはそう思っていたのが、兵部卿の宮とお見くらべした時に、つまらなさを知ったということからでも推理していくことができるのである。現代の帝王の御秘蔵の内親王を妻にしている人の、いま一人の妻に姫君を擬してみるのは恥ずかしいと、こんなことを考えていくと、しまいには頭も茫としてくるのであった。
 仮り住居にいる姫君は退屈していた。庭の草も目ざわりになるばかりできたないし、東国なまりの男たちばかりが出入りする人影であったし、慰めになる花はなかったし、落ち着かぬ所に晴れ晴れしからず暮らしている若い姫君の心には、宮の夫人が恋しく思われてならなかった。闖入しておいでになった宮の御様子もさすがに思い出されて、内容はこまごまともわからなかったものの身にしむお話しぶりでいろいろと自分へお告げになったことがあった、お帰りになったあとで周囲に残っていたかんばしいにおいがまだ今も自分の身に残っている気がして、恐ろしい思いをしたことさえ姫君は追想された。母のほうからはしみじみと情のこもった手紙が送って来られた。こんなにも愛してくれる母に心配ばかりをかける自身の運命が悲しくて姫君は泣いてしまった。
馴れないあなたの日送りはどんなにつれづれかと思います。しばらくしんぼうをしていらっしゃい。
 とも書かれてあった、返事に、

退屈なことなどはなんでもありません。かえって今が気楽でよいという気もします。

ひたぶるに嬉しからまし世の中にあらぬ所と思はましかば
(一途に嬉しいことでしょう。世の中で別の世界だと思えるならば)

 と姫君は書いた。この歌の幼稚な表現にも母の夫人はほろほろと泣いて、こんなに漂泊人のようにさせておく親の無力さが悲しくなり、

うき世にはあらぬ所を求めても君が盛りを見るよしもがな
(辛い世ではない所を求めてでも、あなたの盛る世を見たいものです)

 歌らしくもないこんな歌をよみ、親子はそうした贈答を心の慰めにした。

章 道行き

 例年のように秋のふけて行くころになれば、寝ざめ寝ざめに故人のことばかりの思われて悲しい薫は、御堂の竣成したしらせがあったのを機に宇治の山荘へ行った。かなり久しく出て来なかったのであったから、山の紅葉も珍しい気がしてながめられた。毀ったあとへ新たにできた寝殿は晴れ晴れしいものになっているのであった。簡素に僧のように八の宮の暮らしておいでになった昔を思うと、その方の恋しく思われる薫は、改築したことさえ後悔される気になり、平生よりも愁わしいふうであたりをながめていた。当時の山荘の半分は寺に似た気分が出ていたが、半分は繊細に優しく女王たちの住居らしく設備われてあったのを、網代屏風というような荒々しい装飾品は皆薫の計らいで御堂の坊のほうへ運ばせてしまい、そして風雅な山荘に適した道具類を別に造らせて、ことさら簡素に見せようともせず、きれいに上品な貴人の家らしく飾らせてあった。小流れのそばの岩に薫は腰を掛けていたが、その座は離れにくかった。

絶えはてぬ清水になどかなき人の面影をだにとどめざりけん
(涸れないこの清水に、なぜ亡き人の面影だけでもとどめておかなかったのだろう)

 と歌い、涙をふきながら弁の尼の室のほうへ来た薫を、尼は悲しがって見た。座敷の長押へ仮なように身体を置いて、御簾の端を引き上げながら薫は話した。弁の尼は几帳で姿を包んでいた。薫は話のついでに、
「あの話の人ね、せんだって二条の院に来ていられると聞いていましたがね、今さら愛を求めに歩く男のようなことは私にできなくて、そのままにしていますよ。やはりこの話はあなたから言ってくださるほうがいい」
 人型の姫君のことを言いだした。
「この間あのお母様から手紙がまいりました。謹慎日の場所を捜しあぐねて、あちらこちらとお変わらせしていますってね。そして現在もみじめな小家などにお置きしているのがおかわいそうなのですが、もう少し近い所ならお住ませするのにそちらは最も安心のできる所と思いますが、荒い山路が中にあることを思うと躊躇がされて実行ができませんと、こんなことを書いて来ておりました」
「私だけはだれも皆恐ろしがるその山道をいつまでも飽かずに出て来る人なのですね。どんな深い宿縁があってのことかと思うのは身にしむことですよ」
 例のように薫は涙ぐんでいた。
「ではその小さい簡単な家というのへ手紙をやってください。あなた自身で出かけてくれませんか」
 と言う。
「あなた様の御用を勤めますことは喜んでいたしますが、京へ出ますことはいやでございましてね、二条の院へさえ私はまだ伺わないのでございます」
「いいではありませんか、いちいちあちらへ報告されるのであれば遠慮もいるでしょうが、愛宕山にこもった上人も利生方便のためには京へ出るではありませんか。仏へ立てた誓いを破った人の願いのかなうようにされることも大功徳じゃありませんか」
「でも『人わたすことだになきを』(何をかもながらの橋と身のなりにけん)と申しますような老朽した尼が、ある事件に策動したという評判でも立ちましてはね」
 と言い、弁が躊躇して行こうとしないのを、
「ちょうどそんな仮住みをしているのは都合がよいというものですから、そうしてください」
 例の薫のようでもなくしいて言い、
「明後日あたりに車をよこしましょう。そして仮住居の場所を車の者へ教えておいてください。私が訪ねて行くことがあっても無法なことなどできるものではないから安心なさい」
 と微笑しながら言うのを弁は聞いていて、迷惑なことが引き起こされるのではなかろうかと思いながらも、大将は浮薄な性質の人ではないのであるから、自分のためにも慎重に考えていてくれるに違いないという気になった。
「それでは承知いたしました。お邸とは近いのでございますから、そちらへお手紙を持たせておつかわしくださいませ。平生行きません所へそのお話を私が独断で来てするように思われますのも、今さら伊賀刀女(そのころ媒介をし歩いた種類の女)になりましたようできまりが悪うございます」
「手紙を書くことはなんでもありませんがね、人はいろいろな噂をしたがるものですからね、右大将は常陸守の娘に恋をしているというようなことが言われそうで危険ですよ。その常陸の旦那は荒武者なんだってね」
 と薫が言ったので弁は笑ったが、心では姫君がかわいそうに思われた。
 暗くなりかかったので大将は帰って行くのであった。林の下草の美しい花や、紅葉を折らせた薫は夫人の宮にそれらをお見せした。りっぱな方なのであるが敬遠した形で、良人らしい親しみを薫は持たないらしい。帝からは普通の父親のように始終尼宮へお手紙で頼んでおいでになるのでもあって、薫は女二の宮をたいせつな人にはしていた。宮中、院の御所へのお勤め以外にまた一つの役目がふえたように思われるのもこの人に苦しいことであった。
 薫は弁に約束した日の早朝に、親しい下級の侍に、人にまだ顔を知られていぬ牛付き男をつれさせて山荘へ迎えに出した。荘園のほうにいる男たちの中から田舎者らしく見えるのを選んでつけさせるように薫は命じてあった。
 ぜひ出てくるようにとの薫の手紙であったから、弁の尼はこの役を勤めることが気恥ずかしく、気乗りもせず思いながら化粧をして車に乗った。野路山路の景色を見ても、薫が宇治へ来始めたころからのことばかりがいろいろと思われ、総角の姫君の死を悲しみ続けて目ざす家へ弁は着いた。簡単な住居であったから、気楽に門の中へ車を入れ、自身の来たことをついて来た侍に言わせると、姫君の初瀬詣での時に供をした若い女房が出て来て、車から下りるのを助けてくれた。
 つまらぬ庭ばかりをながめて日を送っていた姫君は、話のできる人の来たのを喜んで居間へ通した。親であった方に近く奉公した人と思うことで親しまれるのであるらしい。
「はじめてお目にかかりました時から、あなたに昔の姫君のお姿がそのまま残っていますことで、始終恋しくばかりお思いするのでしたが、こんなにも世の中から離れてしまいました身の上では兵部卿の宮様のほうへも伺いにくくてまいれませんほどで、ついお訪ねもできないのでございました。それなのに、右大将が御自分のためにぜひあなたへお話を申しに行けとやかましくおっしゃるものですから、思い立って出てまいりました」
 と弁は言った。姫君も乳母もりっぱな風采を知っていた大将であったから、まだあの話を忘れずに続けて申し込んでくれることに喜びは覚えたのであるが、こんなに急に策を立てて接近しようと薫がしていたことには気づかない。
 夜の八時過ぎに宇治から用があって人が来たと言って、ひそかに門がたたかれた。弁は薫であろうと思っているので、門をあけさせたから、車はずっと中へはいって来た。家の人は皆不思議に思っていると、尼君に面会させてほしいと言い、宇治の荘園の預かりの人の名を告げさせると、尼君は妻戸の口へいざって出た。小雨が降っていて風は冷ややかに室の中へ吹き入るのといっしょにかんばしいかおりが通ってきたことによって、来訪者の何者であるかに家の人は気づいた。だれもだれも心ときめきはされるのであるが、何の用意もない時であるのに、あわてて、どんな相談を客は尼としてあったのであろうと言い合った。
「静かな所で、今日までどんなに私が思い続けて来たかということもお聞かせしたいと思って来ました」
 と薫は姫君へ取り次がせた。どんな言葉で話に答えていけばよいかと心配そうにしている姫君を、困ったものであるというように見ていた乳母が、
「わざわざおいでになった方を、庭にお立たせしたままでお帰しする法はございませんよ。本家の奥様へ、こうこうでございますとそっと申し上げてみましょう。近いのですから」
 と言った。
「そんなふうに騒ぐことではありませんよ。若い方どうしがお話をなさるだけのことで、そんなにものが進むことですか。怪しいほどにもおあせりにならない落ち着いた方ですもの、人の同意のないままで恋を成立させようとは決してなさいますまい」
 こう言ってとめたのは弁の尼であった。雨脚がややはげしくなり、空は暗くばかりなっていく。宿直の侍が怪しい語音で家の外を見まわりに歩き、
「建物の東南のくずれている所があぶない、お客の車を中へ入れてしまうものなら入れさせて門をしめてしまってくれ、こうした人の供の人間に油断ができないのだよ」
 などと言い合っている声の聞こえてくるようなことも薫にとって気味の悪いはじめての経験であった。「さののわたりに家もあらなくに」(わりなくも降りくる雨か三輪が崎)などと口ずさみながら、田舎めいた縁の端にいるのであった。

さしとむるむぐらやしげき東屋のあまりほどふる雨そそぎかな
(戸口を閉ざすほどむぐらが茂っているためか、東屋であまりに待たされて雨に濡れることよ)

 と言い、雨を払うために振った袖の追い風のかんばしさには、東国の荒武者どもも驚いたに違いない。
 室内へ案内することをいろいろに言って望まれた家の人は、断わりようがなくて南の縁に付いた座敷へ席を作って薫は招じられた。姫君は話すために出ることを承知しなかったが、女房らが押し出すようにして客の座へ近づかせた。遣戸というものをしめ、声の通うだけの隙があけてある所で、
「飛騨の匠が恨めしくなる隔てですね。よその家でこんな板の戸の外にすわることなどはまだ私の経験しないことだから苦しく思われます」
 などと訴えていた薫は、どんなにしたのか姫君の居室のほうへはいってしまった。
 人型としてほしかったことなどは言わず、ただ宇治で思いがけぬ隙間からのぞいた時から恋しい人になったことを言い、これが宿縁というものか怪しいまで心が惹かれているということをささやいた。可憐なおおような姫君に薫は期待のはずれた気はせず深い愛を覚えた。
 そのうち夜は明けていくようであったが、鶏などは鳴かず、大通りに近い家であったから、通行する者がだらしない声で、何とかかとか、有る名でないような名を呼び合って何人もの行く物音がするのであった。こんな未明の街で見る行商人などというものは、頭へ物を載せているのが鬼のようであると聞いたが、そうした者が通って行くらしいと、泊まり馴れない小家に寝た薫はおもしろくも思った。宿直した侍も門をあけて出て行く音がした。また夜番をした者などが部屋へ寝にはいったらしい音を聞いてから、薫は人を呼んで車を妻戸の所へ寄せさせた。そして姫君を抱いて乗せた。家の人たちはだれも皆結婚の翌朝のこうしたことをあっけないように言って騒ぎ、
「それに結婚に悪い月の九月でしょう。心配でなりません、どうしたことでしょう」
 とも言うのを、弁は気の毒に思い、
「すぐおつれになるなどとは意外なことに違いありませんが、殿様にはお考えがあることでしょう。心配などはしないほうがいいのですよ。九月でも明日が節分になっていますから」
 と慰めていた。この日は十三日であった。尼は、
「今度はごいっしょにまいらないことにいたしましょう。二条の院の奥様が私のまいったことをお聞きになることもあるでしょうから、伺わないわけにはまいりません。そっと来てそっと帰ったなどとお思われましても義理が立ちません」
 と言い、同行をしようとしないのであったが、すぐに中の君に今度のことを聞かれるのも心恥ずかしいことに薫は思い、
「それはまたあとでお目にかかってお詫びをすればいいではありませんか。あちらへ行って知っている者がそばにいないでは心細い所ですからね。ぜひおいでなさい」
 と薫はいっしょにここを出ていくように勧めた。そして、
「だれかお付きが一人来られますか」
 と言ったので、姫君の始終そばにいる侍従という女房が行くことになり、尼君はそれといっしょに陪乗した。姫君の乳母や、尼の供をして来た童女なども取り残されて茫然としていた。
 近いどこかの場所へ行くことかと侍従などは思っていたが、宇治へ車は向かっているのであった。途中で付け変える牛の用意も薫はさせてあった。河原を過ぎて法性寺のあたりを行くころに夜は明け放れた。若い侍従はほのかに宇治で見かけた時から美貌な薫に好意を持っていたのであるから、だれが見て何と言おうとも意に介しない覚悟ができていた。姫君ははなはだしい衝動を受けたあとで、失心したようにうつ伏しになっていたのを、
「石の多い所は、そうしていれば苦しいものですよ」
 と言い、薫は途中から抱きかかえた。薄物の細長を中に掛けて隔ては作ってあったが、はなやかに出た朝日の光に前方も後方もあらわに見えるようになってからは、弁は自身の尼姿が恥じられるとともに、薫を良人として大姫君のいで立って行くこうした供をする日を期していたにもかかわらず、その女王は亡くなってしまい、長生きをした咎に意外な姫君と薫の同車する片端にいることになったと思われることで悲しくなり、隠そうとするのであるが悲しい表情の現われて、泣きもするのを侍従は憎らしがった。縁起を祝う結婚の初めに、尼姿で同車して来たのさえ不都合であるのに、涙目まで見せるではないかと蔑んだ。弁の感情がどう細かに動いているかも知らず、老人は泣き虫であるからしかたがないと思うからである。薫も姫君を愛すべき人とは見ているのであるが、秋の空の気配にも昔の恋しさがつのり山を深く行くに従って霧が立ち渡っているように視野をさえぎる涙を覚えた。外をながめながら後ろの板へよりかかっていた薫の重なった袖が、長く外へ出ていて、川霧に濡れ、紅い下の単衣の上へ、直衣の縹の色がべったり染まったのを、車の落とし掛けの所に見つけて薫は中へ引き入れた。

かたみぞと見るにつけても朝霧の所せきまで濡るる袖かな
(形見だと思って見るにつけても、朝露が狭いところまで涙に濡れることだ)

 この歌を心にもなく薫が口に出したのを聞いていて尼は袖を絞るほどにも涙で濡らしていた。若い侍従は奇怪な現象である、うれしいはずの晴れの旅ではないかと不快がっていた。おさえ切れぬらしい弁の忍び泣きの声を聞いていて、自身も涙をすすり上げた薫は、新婦がどう思うことであろうと心苦しくなって、
「長い間この路を通って行ったものだと思うと、なんということなしに身にしむものが覚えられますよ。少し起き上がってこの辺の山の景色なども御覧なさい。あまりに引っ込んでばかりいるではありませんか」
 と、慰めるように言って、しいて身体を起こさせると、姫君は美しい形に扇で顔をさし隠しながら、恥ずかしそうにあたりを見まわした目つきなどは総角の姫君を思い出させるのに十分であったが、おおように過ぎてたよりないところがこの人にはあって、あぶなっかしい気がされなくもなかった。若々しくはありながら自己を護る用意の備わった人であったのをこれに比べて思うことによって、昔を思う薫の悲しみは大空をさえもうずめるほどのものになった。
 山荘へ着いた時に薫は、その人でない新婦を伴って来たことを、この家にとまっているかもしれぬ故人の霊に恥じたが、こんなふうに体面も思わぬような恋をすることになったのはだれのためでもない、昔が忘れられないからではないかなどと思い続けて、家へはいってからは新婦をいたわる心でしばらく離れていた。女は母がどう思うであろうと歎かわしい心を、艶な風采の人からしんみりと愛をささやかれることに慰めて車から下りて来たのであった。
 尼君は主人たちの寝殿の戸口へは下りずに、別な廊のほうへ車をまわさせて下りたのを、それほど正式にせずともよい山荘ではないかと薫は思ったのであった。荘園のほうからは例のように人がたくさん来た。薫の食事はそちらから運ばれ、姫君のは弁の尼が調じて出した。山中の途は陰気であったが山荘のながめは晴れ晴れしかった。自然の川をも山をも巧みに取り扱った新しい庭園をながめて、昨日までの仮住居の退屈さが慰められる姫君であったが、どう自分を待遇しようとする大将なのであろうとその点が不安でならなかった。薫は京へ手紙を書いていた。
未完成でした仏堂の装飾などについて、いろいろ指図を要することがありまして、昨夜はそれに時を費やし、また今日はそれを備えつけるのに吉日でしたから、急に宇治へ出かけたのでした。ここまで来ますと疲れが出ましたのとともに、謹慎日であることに気がついたものですから、明日までずっと滞留することにしようと思います。
 というような文意で、母宮へも、夫人の宮へも書かれたのである。
 部屋着になって、直衣姿の時よりももっと艶に見える薫のはいって来たのを見ると、姫君は恥ずかしくなったが、顔を隠すこともできずそのままでいた。母の夫人の作らせた美服をいろいろと重ねて着ているが、少し田舎風なところが混じって見えるのにも、昔の恋人が着古したものを着ながらも貴女らしい艶なところの多かったことの思い出される薫であった。姫君の髪の裾はきわだって品よく美しかった。女二の宮のお髪のすばらしさにも劣らないであろうと薫は思った。そんなことから、この人をどう取り扱うべきであろう、今すぐに妻の一人としてどこかの家へ迎えて住ませることは、世間から非難を受けることであろうし、そうかといって他の侍妾らといっしょに女房並みに待遇しては自分の本意にそむくなどと思われて心を苦しめていたが、当分は山荘へこのまま隠しておこうと思うようになった。しかし始終逢うことができないでは物足らず寂しいであろうと考えられ、愛着の覚えられるままにこまやかに将来を誓いなどしてその日を暮らした。八の宮のことも話題にして、昔の話もこまごまと語って聞かせ、戯れもまた言ってみるのであったが、女はただ恥ずかしがってばかりいて、何も言わぬのを物足らず薫は思ったが、欠点らしくは見えても、こうしたたよりないところのあるのは、よく教育していけばよいのである、田舎風に洒落たところができていて、品悪く蓮葉であれば、人型もまた無用とするかもしれないのであると思い直しもした。山荘に備えつけてあった琴や十三絃を出させて、こうしたたしなみはましてないであろうと残念な気のする薫は一人で弾きながら、宮がお亡れになったのち、この家で楽器などというものに久しく手を触れたことがなかったと、自身の爪音さえも珍しく思われ、なつかしい絃声を手探りで出し、目は昔の夢を見るように外へ注いでいるうちに、月も出てきた。宮の琴の音は、音量の豊かなものではなかったが、美しい声が出て身にしむところがあったと思い、
「あなたが宮様もお姉様もおいでになったころに、ここで大人になっていたら、あなたの価値はもっとりっぱになっていたでしょうね。宮様の御様子は子でない私でさえ始終恋しく思い出されるのですよ。どうしてあなたは遠い国などから長く帰れなかったのだろう」
 薫のこう言うのを恥ずかしく聞いて、手で白い扇をもてあそびながら横たわっている姫君の顔色は、透くように白くて、艶な額髪の所などが総角の姫君をよく思い出させ、薫は心の惹かれるのを覚えた。ほかの教育はともかく、こうした音楽などは自分の手で教えて行きたいと薫は思い、
「こんなものを少しやってみたことがありますか。吾が妻という琴などは弾いたでしょう」
 などと問うてみた。
「そうしたやまと言葉も使い馴れないのですもの、まして音楽などは」
 姫君はこう答えた。機智もありそうには見えた。この山荘に置いて、思いのままに来て逢うことのできないのを今すでに薫は苦痛と覚えるのは深く愛を感じているからなのであろう。楽器は向こうへ押しやって、「楚王台上夜琴声」と薫が歌い出したのを、姫君の上に描いていた美しい夢が現実のことになったように侍従は聞いて思っていた。その詩は前の句に「斑女閨中秋扇色」という女の悲しい故事の言われてあることも知らない無学さからであったのであろう。悪いものを口にしたと薫はあとで思った。
 尼君のほうから菓子などが運ばれてきた。箱の蓋へ楓や蔦の紅葉を敷いてみやびやかに菓子の盛られてある下の紙に、書いてある字が明るい月光で目についたのを、よく読もうと顔を寄せているのが、食欲が急に起こったように他からは見えておかしかった。

やどり木は色変はりぬる秋なれど昔おぼえて澄める月かな
(宿木は色が変わった秋だけれど、昔が思い出されて澄んだ月ですね)

 と古風に書かれてある歌の心に、薫は羞恥を覚え、哀れも感じて、

里の名も昔ながらに見し人の面がはりせる閨の月かげ
(里の名も昔のままで、昔の人が面変わりしたかと思われる閨の月光です)

 返事ともなくこう口ずさんでいたのを、侍従が弁の尼へ伝えたそうである。

今回のあらすじ

娘の良縁を願う浮舟の母

浮舟が継子だと知り、常陸介の実娘を所望する左近少将と左近少将に満足する常陸介

浮舟から常陸介の実娘にのり換える左近少将と破談する浮舟

乳母と共に破談を嘆きと浮舟を匂宮邸に連れ出す浮舟の母

中君へ娘の不運を訴え、薫を見て感嘆する浮舟の母と薫に浮舟を勧める中君

娘に貴人の婿を願い、中君に娘を託す浮舟の母と二条院に帰り、浮舟に言い寄る匂宮

困惑し右近、中君に急報する浮舟の乳母と宮中から使者が来て、危機を脱出する浮舟

娘を三条の隠れ家に移し、薫のことを思う浮舟の母と三条でわび住まいを送る浮舟

三条の隠れ家の浮舟と逢う薫

宇治へ出発する薫と浮舟

宇治に到着後、京に手紙を書く薫

東屋和歌集

・見し人のかたしろならば身に添へて恋しき瀬々のなでものにせん

亡き人の形見ならば、いつも側におき、恋しい気持ちの折々のなでものとしよう

・みそぎ河瀬々にいださんなでものを身に添ふかげとたれか頼まん

禊河の瀬々に流し出すなでものを、いつまで側に置いておくと誰が期待するでしょう

・しめゆひし小萩が上もまよはぬにいかなる露にうつる下葉ぞ

囲いをしていた小萩の上葉は乱れもしないのに、どんな露で色が変わった下葉なのでしょう

・宮城野の小萩がもとと知らませばつゆも心を分かずぞあらまし

宮城野の小萩のもとと知っていたならば、露も心を分け隔てなかったでしょう

・ひたぶるに嬉しからまし世の中にあらぬ所と思はましかば

一途に嬉しいことでしょう。世の中で別の世界だと思えるならば

・うき世にはあらぬ所を求めても君が盛りを見るよしもがな

辛い世ではない所を求めてでも、あなたの盛る世を見たいものです

・絶えはてぬ清水になどかなき人の面影をだにとどめざりけん

涸れないこの清水に、なぜ亡き人の面影だけでもとどめておかなかったのだろう

・さしとむるむぐらやしげき東屋のあまりほどふる雨そそぎかな

戸口を閉ざすほどむぐらが茂っているためか、東屋であまりに待たされて雨に濡れることよ

・かたみぞと見るにつけても朝霧の所せきまで濡るる袖かな

形見だと思って見るにつけても、朝露が狭いところまで涙に濡れることだ

・やどり木は色変はりぬる秋なれど昔おぼえて澄める月かな

宿木は色が変わった秋だけれど、昔が思い出されて澄んだ月ですね

・里の名も昔ながらに見し人の面がはりせる閨の月かげ

里の名も昔のままで、昔の人が面変わりしたかと思われる閨の月光です