研究の背景
自然環境は、光・温度・水分といったさまざまな要因が絶えず変化する“変動的”な世界です。こうした環境の変動は、植物にとって大きなストレスとなり、ときに成長を妨げ、生存さえも脅かします。これを私たちは「環境ストレス」と呼んでいます。しかし植物には、“動く”という選択肢がありません。芽生えたその場所で、光が強すぎても、寒くても、乾いていても、そこにとどまり、じっと耐え、生き抜き、そして子孫を残さなければなりません。この「動けない」という宿命を背負った植物たちは、進化の過程で高度な環境適応能力を獲得してきました。その結果、自然界の植物は、ちょっとしたストレスにはびくともしない、たくましい生存戦略を持っています。
ところが、私たち人間が利用する農作物となると話は少し変わってきます。長年の品種改良によって、おいしさや収量といった望ましい形質が強化される一方で、それと引き換えに環境ストレスへの適応力が低下している場合が少なくありません。これが、気候変動や天候不順による収量低下の一因となっており、農業生産にとって大きな課題となっています。
このような背景のもと、私たちは植物が環境ストレスにどう対応し、どのように「生死」を決めているのか、その分子メカニズムの解明に挑んでいます。特に注目しているのが、活性酸素や抗酸化物質が関わる「レドックス(酸化還元)制御」です。そして私たちの最終目標は、こうした基礎研究を足がかりに、農作物の環境適応性をバイオテクノロジーで強化すること。つまり、植物の“生き方”を深く理解し、その知見を未来の農業へと還元することを目指しています!
レドックスと酸化ストレス:活性酸素とビタミンC
レドックス(Redox)とは、「還元(Reduction)」と「酸化(Oxidation)」を組み合わせた言葉で、「酸化還元」を指します。レドックス反応は、生命を支える基本的かつ不可欠な化学反応であり、光合成、呼吸およびストレス応答といった、あらゆる生命活動の根幹に関わっています。
私たちが特に注目しているのは、酸化剤としての活性酸素種(ROS)と、還元剤としてのビタミンC(アスコルビン酸)の関係性です。 植物がストレス環境にさらされると、細胞内ではROSが大量に発生します。ROSには、過酸化水素(H2O2)、スーパーオキシド、一重項酸素およびヒドロキシルラジカルがあり、いずれも非常に反応性が高く、タンパク質、脂質およびDNAといった生体分子を酸化し、傷つける能力を持ちます。このようなROSによる障害が「酸化ストレス」です。それに対抗するために、植物はビタミンCを中心とした高度な抗酸化システムを進化させてきました。
従来、ROSは単なる“毒”として排除すべきものと考えられてきましたが、近年の研究によって、ROSは単なる害悪ではなく、ストレス応答、成長および発達の制御において重要なシグナル分子でもあることが明らかになってきました。たとえば、植物に適度な濃度のH2O2を前もって処理すると、その後に強いストレスを与えても枯れにくくなります。これは、H2O2が「ストレスの予告信号」として働き、植物の耐性を高めているからです。このように、ROSは「細胞毒」と「シグナル」という、相反する二面性を持っているのです。では、植物は一体どうやってこのバランスを取っているのでしょう? ROSが「毒」として働く閾値と、「シグナル」として機能する濃度の境目はどこにあるのでしょう?さらに、アスコルビン酸のような強力な抗酸化剤がROSシグナリングを「打ち消して」しまう可能性はあるでしょうか?そうだとすれば、なぜ植物はアスコルビン酸を高濃度で蓄えているのでしょうか?
私たちは、こうした根源的な問いに迫るべく、「植物の生死決定機構」と「レドックス制御」をつなげながら研究を進めています。具体的には、「植物特有の高性能なアスコルビン酸代謝システム」と「ROSシグナリング」の分子機構および生理学的意義について、この二つを統合的に解析しています。また、アスコルビン酸とROSの関係について、植物進化の背景からも追求しています。
1)植物特有のアスコルビン酸代謝の分子機構、生理学的意義、そして進化
1-1 アスコルビン酸生合成 〜光による制御〜
植物におけるアスコルビン酸(ビタミンC)の合成は、「Smirnoff-Wheeler pathway(スミルノフ経路)」と呼ばれる独自の代謝経路を通じて行われています。この経路の特徴の一つは、光によってその活性が制御されているという点です。特に、高照度(強光)条件、つまり活性酸素(ROS)が発生しやすい環境では、アスコルビン酸の生合成が活発になります。このプロセスにおいて中心的な役割を果たすのが、「GDP-L-ガラクトースホスホリラーゼ(GGP/VTC2)」という生合成酵素です。光環境に応じてVTC2の活性が調節されることで、植物はROSの発生に備えてアスコルビン酸の合成量を柔軟にコントロールしていると考えられています。私たちは現在、VTC2の活性化機構の解明に取り組んでいます。さらに最近、アスコルビン酸を高濃度で蓄積する新しい突然変異体を見出しました。この突然変異の原因遺伝子は、アスコルビン酸生合成の制御に関わっている可能性が高く、新たな調節因子の発見につながると期待されます。私たちはこの変異体を手がかりに、植物がどのようにしてアスコルビン酸量を制御しているのか、そのメカニズムの全容に迫ろうとしています。
→アスコルビン酸生合成調節に関する英語総説:
・Maruta, B. B. B., 2022(Link)
・Maruta et al., J. Exp. Bot., 2024(Link)
1-2 アスコルビン酸ペルオキシダーゼ 〜H2O2を操る鍵〜
アスコルビン酸は、スーパーオキシド、一重項酸素、ヒドロキシルラジカルといった強力なROSに対して非常に効果的な抗酸化剤です。しかし一方で、H2O2とは直接反応しにくいという性質があります。 そこで登場するのが、アスコルビン酸ペルオキシダーゼ(APX)という酵素です。APXは、アスコルビン酸を電子供与体として使い、H2O2を分解する反応を触媒します。この酵素は、光合成を行う真核生物に特有の存在であり、植物が進化の過程でこの酵素を獲得したことで、アスコルビン酸の使い道がさらに広がったと考えられています。
高等植物では、APXは葉緑体、ペルオキシソームおよびミトコンドリアなど、活性酸素の発生源となる細胞小器官だけでなく、細胞質にも存在し、細胞内のH2O2レベルをきめ細かく制御しています。 私たちはこれまで、特に葉緑体型APXおよび細胞質型APXに注目し、それぞれの生理学的な役割や重要性を明らかにしてきました。 最近ではさらに一歩踏み込み、APXのもう一つの側面、すなわち「アスコルビン酸を酸化する酵素としての機能」にも注目しています。つまり、単なる「H2O2消去酵素」としてではなく、アスコルビン酸の代謝そのものに関わる酵素として、APXの新たな役割を探り始めています。この視点の転換が、ストレス応答の理解に新しい風を吹き込むと期待しています。
→APXに関する英語総説:Maruta et al., Plant Cell Physiol., 2016(Link)
1-3 アスコルビン酸再生 〜アスコルビン酸を分解から守る仕組み〜
植物は、アスコルビン酸を中心とした高度な抗酸化システムを発達させることで、環境ストレスに伴って発生するROSを迅速に消去しています。しかしその反面、アスコルビン酸は急速に酸化されやすいというリスクも抱えています。酸化されたアスコルビン酸(デヒドロアスコルビン酸、DHA)は非常に不安定で、放置すればすぐに分解されてしまいます。つまり、還元型アスコルビン酸の濃度を高く保つには、酸化されたものを還元型へと「再生」する仕組みが不可欠なのです。
植物はこの「アスコルビン酸再生」のために、複数の経路と酵素群を備えています。それらは互いに冗長性(バックアップ性)を持ちつつ協調し、非常に頑健な再生システムを構築しています。この仕組みのおかげで、植物はストレス環境でも安定してアスコルビン酸を維持し、細胞を酸化ストレスから守ることができているのです。実際に、これらの再生経路を複数同時に機能不全にすると、アスコルビン酸の維持ができなくなり、植物はストレス下で細胞死を引き起こすことがわかってきました。このことは、アスコルビン酸再生系が植物のストレス耐性にとって極めて重要であることを示しています。さらに最近の私たちの研究から、アスコルビン酸再生系が単なる「還元型の維持装置」にとどまらず、アスコルビン酸の濃度とは独立した、まったく新しい生理的機能を担っている可能性が示唆されつつあります。現在、私たちはこの未知の機能に焦点を当て、その解明に取り組んでいます。
→アスコルビン酸再生に関する英語総説:
・Maruta et al., J. Exp. Bot., 2024(Link)
1-4 アスコルビン酸の分解 〜夜に失われるアスコルビン酸の謎〜
ROSとの反応により、アスコルビン酸は酸化型へと変化します。この酸化型アスコルビン酸は非常に不安定で、放置されると不可逆的な分解が始まります。特に、過度な酸化ストレスがかかると、酸化の速度が再生の速度を上回り、アスコルビン酸の“崩壊”が進行してしまいます。
さらに興味深いのは、夜間や長期的な遮光環境において、アスコルビン酸の分解が非常に活発になるという点です。これは、収穫後の野菜や果物でアスコルビン酸が減ってしまう原因のひとつとも言われています。 では、なぜ植物は、日中に一生懸命蓄えたアスコルビン酸を、わざわざ夜に分解してしまうのでしょうか? この問いに対する明確な答えは、まだ見つかっていません。 これまで、アスコルビン酸の分解は、酸化と再生のバランスが崩れることで起こると考えられていました。ところが私たちの最近の研究により、遮光条件でのアスコルビン酸分解は、従来知られていなかった“新しい仕組み”によって制御されている可能性が見えてきました。 この未解明の仕組みを明らかにすることは、アスコルビン酸分解の生理的な意味を理解するだけでなく、ビタミンCが分解されにくい農作物の育種にもつながると期待されます。私たちは、アスコルビン酸分解が抑制された新規の突然変異体を発見しており、現在その原因遺伝子の同定を進めています。
さらに、アスコルビン酸の「その後」にも注目しています。アスコルビン酸の分解によって生じるL-トレオン酸という分子の機能や代謝経路は、まったく解明されていません。私たちはこのL-トレオン酸に着目し、その代謝に関わる遺伝子を見つけました。現在は、その生理的な役割を追求しており、アスコルビン酸の「前駆体」としての新しい機能の解明に取り組んでいます。
2)酸化ストレス応答:ROSシグナリング
2-1 酸化ストレス誘導性プログラム細胞死
2-2 葉緑体から核への逆向性H2O2シグナリング