沿革

1975(昭和50)年 真鍋二丁目の誕生

1975(昭和50)年 土浦市住居表示整理事業により、今まで真鍋町の南区(なんく)と呼ばれていた地域が、真鍋一丁目と真鍋二丁目に分かれました。当時の二丁目はまだ、町内固有のお囃子がありませんでしたので、二丁目だけは樽で作られた手製のおみこしを子ども達が担いで真鍋鹿島神社例大祭に参加していました。

1976(昭和51)年 金丸町から「乱舞」を伝授。真鍋二丁目若獅子連の結成

1976(昭和51)年 当時町内に在住していた多田光男氏(茨城県石岡市金丸町出身)が町内の子ども達が楽しめるように、子ども達が金丸町関係者から石岡の獅子舞囃子である「乱舞(らんぶ、らんまい)」を教わる機会をつくって下さいました。そのときお囃子を教えてくださった師匠は、次の方々です。


そして、町内のお囃子を手に入れたことにより、真鍋二丁目子ども会が中心となり「真鍋二丁目若獅子連(現・真鍋二丁目獅子舞保存會)」を結成しました。そして、多田光男氏の長男・多田光成氏や多田俊彦氏を中心とした約15名の子ども達により、太鼓や獅子舞のお囃子が行われるようになりました。


真鍋二丁目が獅子舞囃子をもって真鍋鹿島神社例大祭に参加することとなった最初の年は、町内としてお囃子道具を一切持っておりませんでした。しかし、石岡市山王台に住んでいた光男氏の弟・多田利男氏を通して、山王台の方々が獅子小屋や獅子頭などのお囃子道具全てを二丁目に貸して下さったため、二丁目はお祭りに獅子舞で参加することができました。

上の写真は、二丁目の現・株式会社宇田川コーポレーション本社の裏にある駐車場にて撮影したものです。小屋正面幣束は3枚であり、由来は不明。

また、二丁目が真鍋鹿島神社例大祭に参加し始めてから数年間は、二丁目で獅子舞を行う人手が足りませんでした。そこで、すいじゅ会会長であった中田氏の声掛けにより、ろくしん会の皆様が来て下さいました。ろくしん会の会長は、当時石岡の十七屋履物店(現・国府3丁目。中町。平成15年に国登録 有形文化財 建造物に指定)を営んでいた十七屋(じゅうしちや)氏でした。

その後、当会初代会長である宇田川仁氏(当時、宇田川コーポレーション社長)を筆頭に、町内の篤志(中野芳夫氏、小松崎幸一氏、小松塚芳雄氏、大和田氏、鈴木氏、大塚氏、多田氏など)により、中型獅子頭や太鼓などを寄付していただきました。

1979(昭和54)年 泰輔流撒喜利「二丁目ばやし」の完成

1979(昭和54)年 当会は篠塚和夫氏(当時泰輔はやし連)の指導を受けながら、撒喜利(さんぎり)を完成しました。そのため、当会の撒喜利は正式には「泰輔流撒喜利」ですが、篠塚氏から「二丁目ばやし」と称しても良いという許しを受けました。このお囃子は、勇壮味というよりも、祭特有の華やかさと哀調があるのが特徴です。山車のお囃子だと「ばやし」ではなく、「はやし」を使うところが多いかもしれませんが、二丁目は山車(ひょっとこ、おかめ、きつねなど)ではなく獅子舞なので、「ばやし」にしたそうです。多田俊彦氏によれば、篠塚氏は同時期に真鍋三丁目のお囃子稽古にも顔を出していたとのことです。

上の写真は多田邸にて撮影されたものです。1枚目で小太鼓を叩いている中田氏の半纏には「すいじゆ」、右の男性には「茂里横(横の左上は廿となる外字か?)」、ねじり鉢巻きをして大胴を叩く篠塚氏には「泰輔」と書いてあります。笛を吹いているのは泰輔はやし連の川又政吉氏です。当会現顧問・多田俊彦氏が大切に使う篠笛は、多田氏が成人を迎えたときに、川又氏がプレゼントで渡したものとのこと。ひょっとこは、石岡金丸(かねまる)の田中氏だと思われます。集合写真で中央に映る赤ネクタイの男性が多田光男氏です。

1980(昭和55)年 土浦七夕まつり(現・土浦キララまつり)に初出場

それから、連続で18年間出場しました。保存会のみで滝の広場(現在では滝の広場は無くなっています。土浦セントラル前の広場のことです。)でステージ発表も行いました。

また1980(昭和55)年2月28日に、石岡囃子連合保存会が管理する「石岡ばやし」が茨城県指定無形民俗文化財となりました。土橋町の獅子舞もこの「石岡ばやし」に含まれます。 ※茨城県教育委員会HPより

1981(昭和56)年 土橋獅子舞保存会との出会い。土橋の「乱舞」を3年かけて学ぶ。

1981(昭和56)年 それまでの当会が実績を積み、獅子舞の完成度を上げたことを篠塚氏が認めてくださり、石岡市の土橋獅子舞保存会で当時会長を務めていた川崎秀昭氏、土橋町の獅子舞部門の親方であった川崎輝夫氏を紹介してくださいました。さて、土橋町の獅子舞は茨城県指定無形民俗文化財に登録されていて、許可が無い限り、獅子舞の真似をすることや、町内以外の人へ獅子舞を教える事を禁じています。川崎氏らは、当会に対して手取り足取りで教える訳ではなく、お祭りの最中、土橋町の獅子小屋について回り、お囃子を学ぶことを許されただけでした。多田氏らは、当時は笛や鉦も幌(ほろ)の中で奏していたため、外から笛の演奏方法を見ようとしても、暗くて到底見ることができませんでした。そこで、多田光男氏の息子・多田俊彦氏と当会の有志で獅子舞を追いかけて何度もお囃子を聴き、お囃子を学びました。笛の運指も見ることができないため、多田俊彦氏が耳で聞いて運指を解読しようとしました。その期間は3年に及びました。当時当会のお囃子担当は次のとおりです。

・中野 正芳(まさよし)氏(当会二代目会長): 小太鼓、大太鼓

・田村 立(りゅう)氏: 獅子舞

・多田 光成(みつなり)氏: 獅子舞

・多田 俊彦(としひこ)氏: 笛、大太鼓、小太鼓

1983(昭和58)年 【当番町】土橋に「乱舞」の技量を認められ、総社宮にて「昇殿の舞」を学ぶ。

その後、当時・土橋獅子舞保存会会長であった川崎秀昭氏が二丁目のお囃子稽古場へ来て下さりました。その際、当会は土橋から見て聴いて学んだ乱舞を川崎氏の前で披露したところ、その成果・技量を認めて下さいました。川崎氏は、「この短期間で乱舞をそこまでできるようになったのであれば」ということで、土橋獅子舞保存会の「昇殿の舞」を石岡市の常陸国総社宮の舞台にて、総社宮大祭のときと同じ形で特別に見て聴いて学ぶ機会を当会に与えて下さいました。ちなみに、総社宮の舞台を借りることができたのは、多田光男氏当時総社宮の役員であった小野満(みつる)氏と知り合いであったという縁が背景にありました。

同年、真鍋二丁目は真鍋鹿島神社例大祭にて当番町を引き受けました。この年から、二丁目の「乱舞」は金丸から伝授した形から、土橋から学んだ形に移行しました。また、祭礼では鹿島神社の本殿前(つまり鳥居をくぐった上)で、土橋の川崎氏が見守る中、当会の「昇殿の舞」を公の場で初めて披露しました。ただし、昇殿の舞の篠笛を正しく奏するには相当の技術を要し未完成のため、この時は篠笛なしでの披露となりました。

1985(昭和60)年 茨城県教育委員会に招致を受け、「つくば科学博覧会」へ出場。同年、真鍋二丁目若獅子連から「真鍋二丁目獅子舞保存会」へ移行。

1985(昭和60)年 遂に県からお声かけいただき、つくば科学博覧会へ出場することができました。このときに、真鍋二丁目若獅子連から「真鍋二丁目獅子舞保存会」へ移行し、その名で保存会の初代半纏を作成しました。この他にも、土浦市の実施する各種イベントに多数お声かけいただき、獅子舞を披露してきました。

1989(昭和64年~平成元年) 二代目半纏の作成。会の名称を「真鍋二丁目獅子舞保存會」へ移行。

多田俊彦氏は当時16歳ぐらいでした。完成した二代目半纏は、稽古後の休憩中に仲間に配ったようです。

1992(平成4)年 【当番町】獅子頭を初代獅子頭(中獅子)から二代目獅子頭(大獅子)へ移行。

多田俊彦氏らは高校2年生の頃、会得した昇殿の舞をより格好良く行うために、初代獅子頭よりも、土橋のような大きな獅子舞を欲しくなりました。そこで、多田光男氏が友人であるスヤ氷店(藤枝氷店。石岡市国府6丁目の国道355号沿いのNTTの左隣で営業していた。)の藤枝ひでお氏に、土橋のような獅子頭を作ってくれるように頼んだところ、引き受けてくださいました。実は、俊彦氏が当時通っていた取手○高の園芸科には、小菅先生という方がいらっしゃたようです。俊彦氏は小菅先生とよく知った関係でした。俊彦氏は、小菅先生に、自身がお祭りをやっていて、今獅子頭を作っているということを話していると、小菅先生のお姉さんの旦那さんが藤枝ひでお氏だということが分かり、お互いに驚いたようです。そのような奇跡的な縁があり、獅子頭を彫るにあたって、藤枝氏はまず1頭目を彫ってくださったようです。しかし、多田氏が獅子頭の顔に納得がいかなかったため、藤枝氏は2頭目を彫ってくださったようです。このとき、藤枝氏が「土橋の獅子頭を借りたほうが早いだろ」と言い、茨城県指定有形民俗文化財の獅子頭(平成4年1月に指定)の複製(現・土橋が祭礼巡行中に使用しているもの)を彫った篠塚建材店に言って借りたような、借りていないような話とのことです。できあがった2頭目の獅子頭は、土橋によく似た形となりました。特に歯の並びを見ると、上の歯数は奇数であり、人間のように中央に2本あるのではなく、1本が中央にある形です。この歯並びまで土橋と同じにした獅子頭は、藤枝氏はその後一切彫っていないようです。この獅子頭が、二丁目が現在もんでいる獅子頭です。

藤枝氏は、石岡の獅子頭をつくるお弟子さんを多くもっていたそうです。さて、土浦市西真鍋では、彫刻家の一色五郎が有名です。昭和5年、世界恐慌の最中、一色氏が世界平和を祈願し雌雄一対の獅子頭を彫ったようです。後に、雌の獅子頭が満州国皇帝に献上され、雄獅子は一色の出生地である西真鍋に寄贈されました(出典:「真鍋のまつり(その五)」昭和59年8月 西真鍋区長宮本善博氏、編纂者 近藤修氏他、編集読売新聞他)。多田氏によれば、その雄獅子の複製(現・西真鍋が祭礼でもんでいるもの)を作成したのが、前述の藤枝氏とのことです。

2010(平成22)年 【当番町】三代目(会長・多田俊彦氏)から四代目(会長・名和毅)へ代替わり。

2011(平成23)年 東日本大震災

2019(令和元)年 【当番町】

令和の時代、幕開けの年、真鍋鹿島神社例大祭にて当番町を引き受けました。※当番町は、真鍋9町内で順番に回しています。順番は、空から真鍋を見下ろしたとき、時計回りに回ります。つまり、二丁目の前の年は一丁目が当番町であり、このとき二丁目は一丁目が神輿で明神様を鹿島神社にお迎えする際の露払いをつとめます。

2020(令和2)年~ 新型コロナウイルス感染症の流行 祭礼での余興巡行なし

2022(令和4)年 真鍋鹿島神社例大祭での町内巡行を実施

コロナでしばらく祭りをできていませんでしたが、マスクをつけての状態ですが、久しぶりに祭り仕度をして、皆で二丁目内で獅子小屋を巡行しました。ちなみに、真鍋地区で町内巡行したのは二丁目のみでした。

202(令和)年 4年ぶりに真鍋鹿島神社例大祭余興に全町内参加

熱中症対策などのために、山車・獅子小屋の巡行ルートの変更がありました。二丁目は全町内を巡行することはせず、午後の暑くなる時間帯は一度各自自宅に戻るなどして休憩を取りました。