高野悦子とヒルマ・アフ・クリントの間のスピンになりたい-20歳の原点と10の最大物-
高野悦子とヒルマ・アフ・クリントの間のスピンになりたい-20歳の原点と10の最大物-
1 模写—20歳の原点
2 模写—10の最大物
3 鑑賞—20歳の原点—エッセイ
4 鑑賞—10の最大物—エッセイ
5 鑑賞—20歳の原点—記憶
6 鑑賞—10の最大物—散歩
7 制作—20歳の原点と10の最大物
8 クッション—20歳の原点と10の最大物
本は、本の顔をしているから、本でなくなる。本でなくなったから、あるひとりの人生についての文字を読むことができる。
大学1年生、高野悦子の「二十歳の原点」を読んだ。
大学院1年生、ヒルマ・アフ・クリントの「10の最大物」を知った。
この世界に、新しいものなんてないと思っている。成長とは仮りそめの言葉であると思っている。手放してしまったものたち、見捨ててしまった棘を、他者の人生を通じて再認識していく。
私とあなたは、あまりに目が合わない。けれど、だから、不意に同じ空気を吸い、肩が触れる。それは、手放したはずの私がかえってきたということ。未熟であることを認めるのが、いちばんの成熟であり、余生であるはずだから。
自身を見つめ続けた彼女、
自然を見つめ続けた彼女、
私はきっとどちらでもない。
美術を、本として読んでいるから。
美術に、美術という本を授けること。私は、やっと地面に足が着き、スピン(栞紐)のように、そのまま、手が届く限り何処へでも、くるくると、生きていける、読むことが、見ることができるのかもしれない。
—ヒルマ・アフ・クリントは、スウェーデンの画家、神秘主義者であった。20世紀初頭、カンディンスキーやモンドリアンより早く、独自の手法で抽象絵画を描いていたが、生前、これらの作品を公表することなく、また、死後20年間はそれを世に出さないように言い残した。「10の最大物」は人間の成長過程を描いた、No.1~No.10にわたる連作であり、それぞれ幼児期、青年期、成人期、老年期と題されている。
—高野悦子は、1969(昭和44)年、20歳、線路上で自死した。立命館大学文学部史学科の3年生であった。下宿には、大学ノートに十数冊の横書きの日記が遺され、その日記は父親高野三郎の編集によって同人誌「那須文学」に掲載され、後に新潮社にて「二十歳の原点」として刊行された。タイトル「二十歳の原点」は、1月15日の日記の「独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である」という一節から取られている。
(参考:
高野悦子著『二十歳の原点』1971、新潮社
映画「見えるもの、その先に ヒルマ・アフ・クリントの世界」日本語版パンフレット 2022、トレノバデザイン)
模写—10の最大物
10の最大物」の10作品から、それぞれ私の選択により抜粋したフォルムを、過去に鎖編みした毛糸を壁に虫ピンで一部固定して形作りました。鎖編みした毛糸の終わりには<編んだ日付・場所・時間帯>を記しています。また、フォルムを形成した後、そのメモやスマートフォン内の写真、歩数をもとに思い出したことを正方形の付箋に記し、毛糸の起点のそばに押しピンで貼りました。
模写—20歳の原点
「二十歳の原点」の表紙をもとに、毛糸により文字を紡いでいます。ここにある詩は、自殺の2日前である6月22日、日記の最後に書かれたものです。サイズは「10の最大物」の絵画のサイズと対応させています。
鑑賞—20歳の原点—記憶
大学ノートの右ページに20歳以前に起こったこと、左ページに20歳以後に起こったことを記しています。
鑑賞—10の最大物—散歩 (12分)
日々歩いている時間のなかでヒルマ・アフ・クリントに見えたものを撮った写真をスライドショー形式でスマートフォンにて再生しました。
一部抜粋
クッション—20歳の原点と10の最大物
アトリエで使っていたクッションの上に布を被せたものです。
制作—20歳の原点と10の最大物 (19分44分)
ヒルマ・アフ・クリントのドキュメンタリー映画「見えるもの、その先に ヒルマ・アフ・クリントの世界」を観たことをきっかけに、映画の字幕を形式としてオマージュし、主題「高野悦子とヒルマ・アフ・クリントの間のスピンになりたい」についての言葉を綴っています。自身の言葉を印刷したものをペンでなぞった文字、穴あきパンチで作った丸で構成したものをスキャンし、映像にして、プロジェクターによって投影しました。近くに、制作におけるメモやドローイングを置きました。