この世界には、円ばかりある。
23歳、はじめてフラフープができるようになった。
20歳を超えた自分、あとはこの世の隙間にとってなだらかになっていくのみだと思っていたけれど、フラフープをまわしていると、幼い頃の私と繋がっていられる気がした。泳ぐこと以外、身体の動かし方が何もわからなかった、声を出せなかった、あの頃の私と。この腰で回るフラフープは、私の目と同じ回り方をしている。
ここにある花みたいな形は、私の腰を支柱にしてできあがる。
布に、たくさんの大きな絵を描いた
布は畳めるからよい。自分の手で持てるからよい。ただの糸かもしれないから、よい。
大きい絵はよい。私の一手が何でもなくなる。
毛糸で、このあなたの大きさを織ること、結ぶことで、
考えずに布に描いたあの時間を、取り戻している。
ある人とたくさん会いたい。
たくさん会えば、大きい絵のように、小さな行為をいくらでも積み重ねられる。
特別なひとこと、特別な一手を求めようとするのは、あまりに怖くて、だから、自分を覆い尽くすほど大きくて長い何かが必要なのかもしれない。それとも、この偶然に、必然が帰ってくるのかもしれない。
私は、ある人の、ある親についてふと考えることがある。この人は、もともと白紙でなんでもなくて、産んだ親がいるということを、何気ない瞬間に気付かされる。その瞬間は、愛情が生まれる時か、興味がすっかり失せた時、あるいは両方。彼女を手にとったあの一瞬を、瞼を閉じると思い出せる。私は、あの瞬間にあなたが生まれたのだと、どこかでそう自惚れている。
そして、出会いの瞬間が事実である必要はなく、必然みたいな嘘でいい。
私は、日記が書けない。
日記という存在に、ひどく惹かれる
幼い頃からしばらくするまで、絵が上手いと言われてきた。
一番になるのが怖かったし嫌だったけど、一番になりたかった。人に褒められたかった。勉強も頑張れば出来るほうだったけど、頑張りたくなかった。点数がでるのが怖かった。恥ずかしくて怖くて大きい声が出せなかったし、身体は、何も思うように動かない。内気なくせに性格も悪かったから、人から愛されないし、どんな絵を描いているのかを見られるのが怖い気持ちをかき消すように、様々な欲望が溢れてくる。
日記が書けない。
日記を描いていると、誰かに監視されている心地になる。だから、日記でも、嘘をついてしまう。それにやっぱり、私も、私から出てくるものも、気持ち悪くて仕方がない。絵や字をかいていて、急に自分の手から離れる瞬間がある、鏡で自分を見た時によく似ている。なぜ、私たちは、人と目が合うのだろうか。相手がこちらを見ている時、私もあちらを見ているのだと、今まで、あまり分かっていなかったみたいだ。
嘘をつきたくないと、泣いたことがある。
素直に生きたい
素直に生きたい、死にたい
けれど、
求めていたものは
案外、真実でなくて
形、だったのかもしれない
ぐちゃぐちゃの本棚のなかに
必然のピースをはめてやる
もしくは 秩序の中に、てきとうを埋めてみる
すると動き出す
すると文字になる
シュークリームと、
スピーカーは一緒
りんごと
地球が球だと気付くことは一緒
嘘をついてしまうという、嘘
自分の変化を受け入れられずにいるから
わたしはわたしのことを
嘘つき扱いするのかもしれない
今日も、空が丸い
寒い日は 空が綺麗だから好き
心の底から、絵を描きたいと、何かを作りたいと思う。でも、なにかを表現したいだとか、良いものを生み出したいだとか、作品に自立して欲しいだとか、人に見られて嬉しいだとか、どうしてもそういう風には思えない。
でも、誰かが生み出してしまったものを、ひどく愛おしく思う。
私は私であると思う。
生活、生活の中の、何の理屈も通っていない、ただそこにあるだけの確信。
私は、自然とは生活であると思っている。
生活を見つめていると、その先にこれっぽっちの自我があって、フラフープをしながら、部屋の本棚を眺めていると、点と点が繋がりはじめる、ある仮説に、無理やりな必然が流れる、私は星座の名付け親であり、食物連鎖の底辺なのかもしれない。命を宿すのが、支えるのが、底、そこにいる者の役目であるから。
イワシに、鰯になりたい。私という存在が、鰯の群れでありたい。
そして、ピラミッドの頂点に君臨するシャチ、その鯱を見て、あの月のことを思い出したい。他者の命に依存することによってしか生きられないから、だから、鯱はあんなにも強くて、賢く、綺麗で、特別なんだろう。鯱を見上げながら、海の底にいる星たちと、この大きな三角形、鯱の、世界の、犠牲になりたい。
自分を見つめることは、足元を見渡すこと。
自然を見つめることは、怯えること。