インドのジャンヌ・ダルクなんかじゃない?
「インドのジャンヌ・ダルク」として有名なラクシュミー・バーイー。しかし、彼女の一生を振り返ると、その境遇はジャンヌ・ダルクとは大きく異なっている。敵国イギリスの将軍に「インドのジャンヌ・ダルク」と呼ばれた彼女の生涯を改めて振り返ろう。
元々彼女は「ラクシュミー・バーイー」ではなかった。生れた時の彼女の名前は、マニカルニカである。マニカルニカは「宝石のついた耳飾り」という意味だが、ガンジス川の別名でもある。そのガンジス川が悠々と流れるヴァーラーナシーの街で、マニカルニカ、愛称マヌは誕生した。(現在、ヴァーラーナシーで有名な火葬場のあるガートは、マニカルニカ・ガートであることを思い出す人もいるだろう)
1834年、彼女はインド西部マハーラーシュトラを起源とするマラーター族の高位カーストであるブラフミンの家庭に生まれた。父親はモロパントゥ・タンベ。母親はバハギラティ。ともにマハーラーシュトラからヴァーラーナシーへやって来た。マヌが生まれてすぐ、父親はビトゥールを治めるバージ・バーオ2世に仕えるため、一家でヴァーラーナシーからビトゥールへ移り住む。
ところで、どうしてマヌの一家は、インド西部マハーラーシュトラからインド中央部に来ていたのか。1674年にデカン地方でマラーター王国が誕生すると、多くの覇権争いや同盟を経て、インド中央部の東西に跨ぐ形でその領土を拡大。それに伴い、多くのマラーター藩王やそれに仕える人々が、各地へ赴いていた。
争いに勝つため、次第に、インドに拠点をおいていたイギリスをも巻き込む事態へと発展していく。マヌが誕生した頃には、イギリスがマラーター諸藩王国らから領土を譲り受けるようになり、栄華を極めたマラーター一族が、大英帝国の手中に落ちていくさ中にあった。マヌの父親が仕えていたバージ・バーオ2世も、イギリスに領土を没収され、イギリスから年金とビトゥールを領地として与えられて生活するようになっていた。
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