暦本 純一, 竹内 雄一郎, シナパヤ ラナ, 柏 (Staff)
年明け、海外のフォーラムでこんなブログエントリーが話題になっていた。書いたのはカナダの大学の先生で、最近は学会が小粒なイノベーションを量産するシステムになってしまっていて、その原因がpeer reviewやそれに紐づいた数値的な評価指標(論文数とか引用数とかh-indexとか)の濫用にあるって主張してる。最近はこういう意見よく見る気がする。
私が彼(Daniel Lemire)の記事を読んで思ったのは、査読者は適当すぎるという問題にたいして、プロ査読者がいればサイエンスの世界がどう変わるのかな?と思った。本も絵も音楽も、アートの世界では査読者はちゃんとした仕事をしている。有名な映画監督が、無料で雑誌で他人の映画を査読して、評判が悪ければ上映されないなんて想像できない。バイアスの問題を置いておいて、監督のうまい人が査読もうまいとは限らない。
スポーツの世界でも「名プレーヤーが必ずしも名監督ではない」というのはよく言われますよね。
査読などのプロセスも含め、研究のやり方自体を変えていこう、というのはラナさんの一つの研究テーマかと思いますが、いまはやはり、同分野の専門家による査読が主流ですよね。
そう。その今の仕組みの中で、数値的な評価指標を得なければならない...というプレッシャーの中で生きてる人はやはり多いと思う。おもちゃみたいなHCIガジェットをひたすら作り続けてる人とか。そうやって、論文数とか数値的指標は立派だけど結局何がしたいのかわからない人が出来上がったりするわけだから、もったいない感じはするけど数値的な評価が重要視される場所で生きていくなら仕方ないのかなと思う。
こういうのを見ると、今の時代、やりたいことが明確にあるのならアカデミアの仕組みにこだわりすぎるのってうまいやり方じゃない気がする。特に情報系は恵まれた分野だから、アカデミアみたいな既存のシステムに自分を合わせるって生き方だけじゃなくて、自分のやりたいことがベースにあって、それをあらゆる手段を使って実現する、という生き方を頑張れば選択できる時代になってると思う。比較的自由に技術開発をやらせてくれる企業も多いし、簡単ではないけど自分で起業するという道もあるし、最近だとPatreonで結構なお金を集めてオープンソース開発やってる人もいる。
エンジニアリングの領域は昔から、「既存の仕組みに入らず、他人からお金をもらってやりたいものを開発する」というやり方はあったと思う。開発がうまくいった場合は儲かるので、ベット(かけ)みたいにお金を集めることができる。その代わり、いいアイディアかどうかより、お金になるかで判断されて、お金になるけど社会に悪いみたいなダメなプロジェクトでも大変人気になる。
Patreonやkickstarterのようなプラットフォームは、ベットというより寄付的にお金をあげるだけなので、Daniel Lemireが言っている「研究を使う人だけが研究を評価するべき」というルールが守られている。私は5年間で卒業するタイプのエンジニア学校の卒業生だが、どちらかというと物作り・開発ではないものがこれからどうなるかが心配。Basic research, applied researchの一部、serendipity-based research, 開発の一段階前の研究は中々マーケティングしづらいせいで、一人の力でお金を集めるのは難しい。そう考えると、物理学は本当にすごい。えらい高い機械を作って、すぐには「売り物」にならない研究を大勢でやっている。
昔、Andy Warholが「Art is what you can get away with」って言ってて、それは優等生的に権威に認められなくても、けもの道を進むようなやり方でも、自分の作りたい作品を継続的に作って発表できてアーティストとしての活動を成立させることができればそれが勝ちだという話だけど、研究者も同じで「Research is what you can get away with」だと思う。
今回のお題が「研究室としてのユートピア」ということで、そういう「けもの的」な生き方をしてでも「人生をかけてこれがやりたい」と言い切れる人が集まってる場所がユートピアかなという気がする。個人でも自分の目的に向かって突き進めるようなパワーのある人が、所属することでさらに活動をスケールアップできたり加速できたりする場所という感じ(あるいは若手の視点からすると、所属することでそういう「けもの力」を高めていける場所)。
私にとってのユートピアは、「研究者は、自分の得意なことのみに集中できて、みんなに役に立つことをやっていたら、いい給料がもらえる」という世界かも知れない。課題を考えるのが得意な人、仮説を生成するのが得意な人、実験する、解析する、査読する、発表する、グラントを書く…これら全てが優れる人というのは、殆どいないので、それぞれの得意領域を活かすことができることが望ましいと思う。
先ほどもプロ査読者の話をしたが、科学以外の他の仕事は、どんどん細分化され、「プロ化」される。例えばお医者さんだったら、「なんでもやる医者」は1840年からどんどん消えていって、現在目医者、歯医者など色々いる。私のユートピアには「プロの研究者」がいる。
私はスタッフなので、「プロの研究者」がいる場所がユートピアという話を聞くと、やはりそこには「プロのスタッフ」っていうのが必要なんだろうな、といつも思います。それを考えている中で、ひとつロールモデルというか、勝手ながら参考にしているのは、マイクロソフトリサーチ(MSR)のOutreach Managerの公野さんという方。2017年の寄稿で少し古いのですが、主な活動として、「社内の各部署(エンジニアリング, セールス,マーケティング,法務,人事,広報 他),外部のステークホルダーとの連携全般」「具体的な活動は主に三つのカテゴリに分けられる.共同研究,人材育成,学術交流」と挙げられています。
ちなみに最近だと、たとえばMSRでインターンをしていた人に記事を書いてもらうというイベントを企画していたりしていて、こういうのは新しいインターン候補の学生に魅力を感じてもらううえで必要なことだなと思ったりしているので、こういう非公式な発信もやっていきたいですね。
医者でも、アートでも、他の研究機関でもそうだけど、身の立て方とか、アントレプレナーシップとか効果的な情報発信のやり方とか、個人としても組織としても、いろいろ参考にして学んでいくことが重要だと思う。そういうノウハウを組織として溜め込んでいきたい。我々の目的は世の中を変えることで、そのためにあらゆる手段や選択肢を駆使できるようになるべきだと思う。
先ほどの「けもの的な」話にちょっと追記すると、実は一番「けもの」っぽい人ってアニリール・セルカンとかああいう詐欺師系の人だったりするから、「けもの」っぽさだけありがたがってちゃダメだと思う。詐欺とかオカルトとか輸入学問とかじゃなくて、嘘のない正しい研究、世界に通用するオリジナリティのある研究だけが行われることを保証できる仕組みが(そういう研究ができる人をうまく発掘できる仕組みも)研究所内に構築できてないといけない。
暦本さんは「研究室としてのユートピア」と聞くと、何を思い浮かべますか?
「ユートピア」ということで、そもそも論としてトマス・モアの「ユートピア」で描かれている世界を振り返ってみます[1, 2]。これが今の感覚からすると「理想社会」とは程遠いものなのですね。皆兵制度と厳しい家父長制度に基づいた社会で、奴隷制度もあり戦争も辞さないという、むしろオーウェル の1984を彷彿させるような全体主義的な雰囲気すら持っています。ぱっとイメージするとアップルの1984年CMに出てくるこんな感じでしょうか?
この世界の何が気持ち悪いかと言うと、全てのルールが固定化されていて変化が全く存在しない(認められない)超安定化社会だからではないでしょうか。アップルの1984年CMでは、この社会をひっくり返す象徴的存在としてMacintoshが登場するわけです。
ここから類推すると、ユートピア的な安定解としての研究所の状態、というのはあまり目指すべきものではないと思います。素敵なハコを作ったからといってよい研究が出てくるというわけではない。さら言えば、そういう素敵なハコが天下りに存在していて、自分では変えることができなのは閉塞感につながると思います。研究はゲームチェンジャーでありルールブレイカーなので、むしろ、常に何か足りないことがあって、それを修繕しつづけながら走っている研究所のほうが結果的に新しいものを生み出すのではないでしょうか。
歴史的にみても、インパクトのある成果は必ずしも安定した環境からは生まれていません。大きなプロジェクトの失敗の後(UnixはMULTICSという巨大OSプロジェクトが失敗した後に生まれた)、ゲリラ的に動いた結果(青色発光ダイオード)、メインストリームではないところで低予算で地道にやった(トロント大学・ヒントンの深層学習)、新規立ち上げ研究室(iPS細胞)、そもそも研究とはみなされていなかった(Webの発明)、異業種からの参入(Xerox PARC) などの例が挙げられます。ただ、Xerox PARCでも上層部に理解を得ることはなかなか大変であったらしく、Alan Kayの「未来を創造することによって予測する」という有名なquoteは、技術のトレンド分析やレポート作成に固執するXerox上層部に業を煮やして言い放ったものが元だそうです[3]
トマス・モア「ユートピア」岩波文庫
小松左京「ユートピアの終焉 -- イメージは科学を超えられるか」DHC (1994)
Alan C. Kay “The Early History of Smalltalk”, ACM SIGPLAN Notices 28:3 (1993). [URL]