「つぎ、とまります」
誰かが降車ボタンを押したのだろう、聞き馴染みこそあれ名前は知らない女性の声が流れる。
奥の方から、サラリーマンであろう男性が前方へ向かっていき、面倒そうにICカードをタッチして出ていった。ご苦労様です、などと心の中で思いつつ、再びバスが走り出す。
現在、夜の10時15分。市街と少し離れた地域を結ぶこの路線は、朝はなんだかんだ混雑するのだが、夜も遅くなってくると人はまばらである。
ちらりと後ろを振り返ると、僕の他には五名ほどが乗っていた。この時間には流石に子供はいない、というわけでもなく、今日はいないが時折塾おわりの子供が乗り込んでくることがある。当時の自分との温度差で風邪をひきそうになる。
ゆらり、ゆらりと。眠たい目を擦りながら、バスに揺られている。もうほとんど闇の中を走行するバス。ゆらり、ゆらりと……
「……次は、西山町(にしやままち)、西山町……」
目が覚めると、僕の降りるバス停の直前だった。もう僕の他に乗客はいなかった。終点の霊園まで行ってしまったら夜中の墓地という季節外れの肝試しクエストが始まってしまう。
「つぎ、とまります」
バスは木々の生い茂る、住宅街の入り口で停車した。
「ありがとうございました」
少しだけ頭を下げ、ICカードをタッチする。運転士や店員に丁寧に挨拶するのは僕の数少ないモットーだ。
外に出ると、おや、となった。さっきまで降っていなかったはずだが、ぱらぱらと雨が降っている。
……が、僕が一番気になったのは、そこのベンチに制服姿の女……女の子……?が座っていたことだった。その子がバスに乗ることはなかった。
さっき、霊園のことなんて考えたからだろうか。人ならざる者を呼び寄せてしまったというのだろうか。
肩まで……いや、腰の近くまで伸びた長い長い髪の毛と、あまりに細い手指は、夜の暗さも合わさってとても異様なものに見えた。
ブロロロ……と言わんばかりに車がものすごいスピードで過ぎていく。そのライトが、彼女の顔を照らす。その顔は、 笑っていた。ただし、不気味な笑みだった。
考えれば考えるほど寒気がしてくる。僕は逃げるように家へと帰った。
翌朝、そのバス停には何人かがバスを待っていたが、その女の子はいなかった。そして昨日の荒天が嘘のように、雲一つない青空が広がっていた。
そして、その夜のこと。
「ギリギリ……」
今日友人とダラダラとラーメンを啜っていたら、終バスがギリギリになってしまった。
夜11時をとうに回り、人気もなく、静まり返る道路。
「つぎ、とまります」
3つ目のバス停を過ぎた頃、僕は不意に昨日のことを思い出した。
……いや、違う。ずっと覚えていたけど、夢だと思って忘れたかったんだ。あんな話、誰に言ったら信じてくれるんだ。オカルトサークルでもうちにあれば話は別かもしれないが、そんなものは意外と無い。
考えるだけ無駄なことなのだと、そのために無理やり友人を誘ってまで大学付近に、あのバス停から遠く離れた場所に、長くいたかった。
「つぎ、とまります」
徐々に近づいてくる。近づいているのは僕の方だというやかましいご指摘は捨て置き、心臓の拍動がそのご指摘よりやかましく音を立てる。
バスの中の人数もどんどんと減っていき、つぎはあのバス停だとなった時には、昨日と同じく、僕一人しかいなかった。
震える指で降車ボタンを押す。
「つぎ、とまります」
こちらの緊張感を無視する平常運転の音声。一歩間違えれば、つぎにとまるのは僕の心臓だったかもしれない。
スッと眼を閉じる。見たくないものから眼を背けたい、それだけだ。
「西山町、西山町です」
運転士の抑揚のない声が響く。
人生で初めて、運転士の会釈を無視した。それどころではなかった。
降りてみると、朝とは打って変わって土砂降りの雨であった。しかし、昨日とは違って、今日は駅に着いた時点で雨は降っていたのだ。
果たして、その女の子はそこにいた。夜半に大声で叫ばなかったことを褒めてみる。
僕が見ていようが、お構いなくその女の子は動こうとはしない。長い髪は雨に濡れて、どこかから漏れる光で不思議な雰囲気を纏(まと)っている。制服も、このままでは使い物にならなくなるのではないかと思うレベルだ。
「ゆ……」
その4文字は口に出せなかった。このままでは、彼女が何者か一切わからない。どうすればいいのか……
その時、僕の脳にある天才的なアイデアが浮かんだ。後から考えれば、一生分の勇気を使っても再びその行動はできないようなとんでもないアイデアであった。
もし彼女が霊的な何かなのだとしたら、触れようとしても触れられないのではないか?
徐に彼女の濡れた髪に手を伸ばす。
ふわっ
「きゃっ!?」
果たして、手応えはあった。
「ご、ごめん」
この一瞬の間に、三つの感情が僕の脳内を駆け巡った。
触れられるということは、幽霊ではなく、彼女は間違いなく人間だ、という安心。
では、幽霊でもなく、この後バスがやってこないこのバス停に、なぜこうして座っているのか、という疑問。
そしておそらく未成年であろうしかも女の子に触れるという行為はどの法に抵触するのだろうか、という恐怖。
どの感情から精算すべきなのか。
しかし、まず何よりもすべきことがある。
「なぜ、こんな日、こんな時間に、こんな場所にいるんだ?」
まずは疑問を精算することにした。
「……居場所が無いから」
「居場所?」
「この世界に、私の居場所なんてない」
そう言って彼女は静かに笑った。
彼女の感情がわからない。僕ごときには、考えても無駄なのだろう。
「……太陽も、月も、私だけを照らしてくれるわけじゃない。でも、雨の一粒一粒は私だけに降ってくれる。だから、私がこの世界に存在している証拠が欲しくなったら、こうやって雨に打たれるんです」
暗くてよく見えないからの可能性もあるが、彼女の眼からは光が見えなかった。
「こうしていれば、間違いなく、私がいるって、わかるので」
ザアザアと降り続く雨は、半袖の制服では守りきれない彼女の肌を水滴で包んでいく。
「こんなところにいたら、風邪を引く。家に帰った方が……」
「居場所は無いって、言いましたよね。家になんて、あるわけない」
「だから帰って。あなたには、帰る場所があるだろうし。私のことなんて見なかったことにすればいいんだから」
「だけど……」
「もう帰ってください!!」
さっきまでの様子から一転、夜中には不釣り合いな大声で彼女が叫ぶ。
「私の居場所を、これ以上奪わないで!!」
彼女は泣いていた。彼女の涙が雨と混じり合う。
何も言えなかった。何もできなかった。
何度振り返っても、彼女と目が合うことは無かった。傘をさすことすら忘れ、家までとぼとぼと歩いて帰った。
*
「ただいま」
どうせ誰もいない家に形式だけの挨拶をする。家族なんて、いつごろの昔話なんだろうか。
――あなたには、帰る場所があるだろうし――
帰る場所はある。ただ、あるだけだ。
ここを彼女が僕の居場所と呼ぶなら、そう呼べばいい。人のぬくもりを喪(うしな)って長く、無駄に広いこの空間をそう呼べるなら。
奥の部屋の扉を開き、寝床を整える。風呂は……シャワーでいいか。
ふわあ……と、僕のあくびが暗い室内に響いた。
雨は止む気配がなく、ただただ私の身体を濡らしていくだけだった。身体の芯まで冷え切って、そのまま意識を失って死んでいく。それでもいいな。とうとう、車も通らなくなった。私と雨だけの永遠の時間。
「意気地なし……」
死にたい死にたい言って、言い続けて、死ぬ勇気もないカスだ。この世の空虚を語りながら、この世に、生にしがみついている。
「三春(みはる)……」
今は亡き親友の名を呼ぶ。
「私も、そっちに行けないのかな」
雨はやむどころか一層勢いを増し、私の惨めさを浮かび上がらせるように打ちつけた。
翌朝、6時半。大学に向かうため始発で最終のバスに乗り込む。使うバス停はあのバス停ではない。屋根も外れて字も消えかけている、さびれたバス停。
「斧山(おのやま)、斧山……」
昨日のバス停には、流石に彼女はいなかった。そのことにホッとした自分がいた一方で、所詮はその程度かと落胆した自分がいたことに驚いた。
――ほら、結局君にも居場所があるんじゃないか。――
彼女を嘲笑うようにそう思った自分に無性に腹が立った。人間として道を外したようにすら思った。
外の景色から目を逸らし、特に面白みもないスマホを見る。
今日の天気は、曇り。 のち、雨。
*
「はあ……」
中途半端な暗闇の中で一人ため息を吐く。あれだけびしょびしょになっていた制服も、思いのほか乾いてきている。
私が夜中にどこに行っていても、誰も怒ることはない。信頼されているというよりは、見捨てられているというほうが正しいのかもしれない。病気だとか、おかしくなったとか騒いでいたのも、もう今となっては滑稽でしかなかった。病気なんかで片付けられてたまるか。もし病気なら、一生ものの不治の病だろう。
この"病気"とは、かれこれ8年くらいの付き合いだ。もう、一番付き合いの長い"友人"かもしれない。
最初は、なにか心の中に空洞ができて、それを埋められない、そんな気分から始まった。少し気分が悪くなったりするくらいで、そこまで気に留めていなかった。
だけど、こいつは歳を重ねるごとにひどくなっていった。家にいても、学校にいても、吐き気や頭痛が止まらなくなった。それを無理やり抑え込んでいたけど、ある日、耐えられなくなった。
高校一年生の夏の日のことだ。普段通り、苦痛を抑え込みながらようやく学校を終え、バスに乗って帰ってきて、あのバス停に下車した瞬間、今まで感じたことのないくらいの気分の悪さに、道端に倒れ込んでしまった。
さらに運悪く、その日は夕立だった。雷は私のそばを何度も通過し、激しい雨が私に打ちつけた。
「なんで私だけ、こんな目に……」
そう言って目から涙がこぼれそうになったその時、
トゴォォン!!
雷が私のおよそ2、30メートルの地点に落ちた。その瞬間、とんでもない雨の塊と光と音の爆弾が私を包み込んだ。
「うわぁ!!」
光と音が静まり、ゆっくりと目を開けると、驚くことに、私の気分の悪さと頭痛は消え去っていた。家に帰っても、完全にゼロではないものの、これまでと比べると全然平気で、治ったんだと私はよく考えもせずに喜んだ。
だけど、翌日当たり前のようにそれはやってきた。頭痛と気分の悪さはすっかり元通り。
あれは、一日だけの夢、楽園だったのかな。
そんなことを考えた。でも、一度楽園を知ってしまった私に、元に戻れというのは不可能なことだった。
次の日から、あらゆる方法を試した。中学校で習った、対照実験というのをプライベートで初めてやった。雷、雨、時間、バス……すべてのパターン、できる限り。その結果、一つの結論にたどり着いた。
【夜、あのバス停で、雨に打たれること】
自分でも、嘘だと思った。医学的見地もないどころか、余計に健康を害するだけのことだと思った。でも、実際そうだったんだからしかたない。
その夏、雨が降っていて、特に気分のすぐれない日は、夜中に家を飛び出して、雷もガンガンとなる中、土砂降りの雨に打たれていた。その時、制服を着た理由は、一つは初めの日にできる限り近づけようということ、二つは学校のモヤモヤを洗い流したいというのがあった。
でも、夏休みに入ると、お母さんが家にいる時間が長くなり、結果二人での時間が増えた。私は家族に対しても言葉では説明しがたいモヤモヤを抱えていたので、その時間は苦痛なだけだったけど。
その習慣を続けていたある日。その日は朝からまるでダメだった。吐き気が止まらなくて、お母さんが作ってくれたご飯はほとんどのどを通らなかった。夜まで持ちこたえるのがやっとだった。
その夜。いつも通りにこっそりと家を出ようと扉を開こうとしたとき、急に玄関の電気がつけられた。
「栞(しおり)……なにしてるの……!!」
お母さんが、怒りと困惑が混じったような顔でこっちを見ていた。
私の顔が急激に温度を失っていく。言い訳も出てこなくて、口をパクパクさせることしかできない。
「どこへ行くの!?なんで制服なんて着てるの?」
「いや……その……」
「とにかく、こっちに来なさい!!」
玄関からリビングに引き戻され、あれこれ説明させられた。
まずお母さんが疑ったのは、簡単に言うと性的なトラブル。これは否定した。だって、ほんとに違うんだから。まあ、よくよく考えたら疑われるのは無理もないな。
一つの疑いが晴れたら、じゃあなんで?となるのは、当然の流れ。でも私は、答えなかった。言いたくなかった。私がだんまりを貫いていると、お母さんはあきらめたように寝室に入っていった。しばらくその場から動けずにいると、寝室からお母さんの泣き声が聞こえてきた。
わだかまりはあったにしろ、流石に申し訳なさが出てきて、その日は外には出なかった。出られなかった。
それでも次の日は、それを抑えることができなかった。その次、そのまた次の日も。そんな私を見て、お母さんは病気だ、頭がおかしいと罵った。でも、慣れてしまったのか、いつのまにか、何も感じなくなっていった。そうするうちに、お母さんは何も言わなくなって、親子の会話もまったくなくなった。お母さんは、平日にはご飯だけ作ると仕事に行って夜まで帰ってこず、休日も私の顔は見たくないとばかりにどこかへ行ってしまう。そんな歪な家族の関係が、いつしか当たり前に変わっていった。
たった一つ、お母さんがかけてくれた言葉がある。
「なんで、あなただったのかしらね」
駅へと向かうバスは、木々の間を抜けて、再び住宅街に入る。
*
果たして予報通り、夕方から雨が降り出した。初夏の雨は雷を伴い、稲光が大学の窓からよく見える。おもむろにスマホから、個人チャットを開く。
【谷本です 本日の活動はお休みさせていただきます】
【今日は演奏会前だから、確認とかするけど、大丈夫?】
【すみません どうしても今日は外せないので】
【大翔くんが大丈夫ならいいけど ほんとに大丈夫?】
【はい なんとかします】
部長に今日のサークルを休むと連絡。サークルとしては大事な時期だと理解しているが、今日はそんな気分ではない。
僕は、軽音サークルで、ギターを弾いている。入るまではほとんど弾いたことは無かったが、部長曰く「天才的」らしく、一、二ヶ月でかなり弾けるようになった。メンバーたちにもチヤホヤされて、少なからず嬉しかった。だが、
「お前のギターの音が、冷たい。感情が見えない」
4年の先輩が、そんなことを言った。機材の準備をしている最中に、ぼそっと。
「俺の、音が……?どういうことですか?」
「腕は、一ヶ月とは思えないほど、上手い。だけど、お前が何を考えているのか、音から伝わってこない。まるで、機械音声みたいなんだ」
そう言って、先輩は首を傾げた。
その先輩は、昔からギターをはじめ音楽について右に出る者がいないくらいの人らしい。で、その先輩曰く人にはどんなに気をつけても自分の気持ちが音に影響を与えてしまうとのことで、それが『味』だという。
が、僕にはそれが見えなかった。ある意味、音を正確に掴めているとも言えるものの、それが冷たい印象を与える、とのことだった。
その後の練習はどうもギクシャクして、音も間違えるし返事が遅れたりとか全部がボロボロになっていた。
「大翔、大丈夫か?今日、調子悪いのか?」
同期が、心配して声をかけてきた。
「……ん、ああ、今日、寝不足でな」
「無理するなよ、休みたい時は休めよ」
「俺は大丈夫だ。とりあえず、次いこうぜ」
だが、結局その日は一日中うまくいくことはなく、彼らとの誘いも断って一人でさっさと帰った。
帰っている途中も、僕の頭の中はあの言葉でいっぱいだった。
先輩のあの一言を聞いた時、僕はそれを聞いた時、憤るでも、悲しむでもなく、こう思った。
バレてる。
表面だけ取り繕った明るいキャラクター。"俺"の僕。ハリボテで他人は騙せても、自分は騙せていなかった。
その違和感を心の中に押し込んでこれまで過ごしてきたのに。
彼女は、それを許さなかった。
「君のせいだ」
あの子にさえ出会わなければ、自分にバレバレの嘘をつきながらでも、生きていけたはずなのに。
雨が強さを増してくる。電車はまもなく、駅に着く。
「つぎ、とまります」
雨は全く止む様子がない。最終下校時刻まで図書室に篭っていた私は、図書委員に追い出される形で家に帰った。
あのバス停に帰ってくると、あの日の男の人が私の定位置に座っていた。
「私の真似ですか?」
何も答えない。
「そんなことして、私が何か変わるとでも?」
「…いだ」
「え?」
「お前のせいだ!!」
がっと肩を掴まれる。
「きゃっ!?」
「お前が……!僕の嘘を……誤魔化してきた過去を……!」
真っ赤に血走った眼で私を睨む彼。
「ちょっ……!やめっ……!」
足を取られて転びかける。バス停があって助かった。
「やめてください!」
ハッとしたように彼が止まる。
「何を……どういう……?」
「君が、僕の余計な記憶を思い出させた。忘れておけば、思い出さないようにしておけば、どれだけ楽だったか」
「は?」
「僕には……」
ほんの数秒、でも永遠にすら感じる沈黙が流れる。
「君が言うような、居場所なんて、無い」
「僕の家族は、とっくの昔に死んだ」
淡々と彼が語る。まるで、他人事のように。
「な……!」
「交通事故だった。そうだな……」
ちらっと、バス停の奥を見る。少し先に、かなり大きなカーブがある。見通しは非常に悪い。
「そこだ。あの坂道で、対向車とぶつかって、両親は死に、僕だけが生き残った。祖父母もまもなく亡くなって、僕はずっと一人で生きてきた」
隠す必要がなくなった毒を、全て吐き出す。彼女にとっては不快かもしれないが……
「相手も家族は皆亡くなったと聞いた。なんで僕だったんだろうなと、毎日のように悩んだ」
「相手の名前は確か……平岡さんだったかな」
ぼそぼそと、伝えたって仕方ない情報を並べていくだけだったが、急に彼女が血相を変えて叫んだ。
「ちょっと待ってください。それ……いつですか……?」
突然の彼女の変容に、こちらも困惑する。
「8年前の、6月だ」
彼女の顔が真っ青になる。
「あなたが……三春を……」
*
――8年前の6月。あの日は朝から親友の三春と、その家族とでお出かけしようという話だった。
「しおり!ピクニック、楽しみだね!」
「うん!久しぶりだね、お出かけ」
「そういえば、お弁当、自分で作ったって聞いたよ。すごいね」
「ママと一緒に、おにぎりと卵焼き、頑張ったんだ!いっしょに食べようね」
この時間が、永遠に続けばいいな。そう思っていた。
「私ね、レストランのシェフになるのが夢なの」
「三春なら、絶対なれるよ」
「危ない!伏せて!」
三春のお父さんの慌てた声が響く。次の瞬間、ものすごい衝撃と音に、私は気を失ってしまった。
気がついた時には、私は病院のベッドの上で寝かされていた。
「栞!」
ぎゅっと抱きしめられる。
「……お母さん?」
「良かった、あなただけでも助かって」
「……わたし……だけ?」
記憶が鮮明になっていく。考えたくもない記憶が。
「永里栞さん」
お医者さんだろう男の人に声をかけられる。そして、決定的な事実をわたしに告げた。
「交通事故で、あなたはこの病院に搬送されていたのです」
「同乗されていた、3名は、残念ながら……」
「……三春……も……?」
「……」
何も答えはなかった。でも、幼い私にも、その沈黙の意味は十分理解できた。
「三春……!!三春……!!嘘だよね!?嘘だって、言ってよ……!!誰か!?」
私の声が、虚しく病室に響いた。
「三春……平岡三春。私の親友。三春は、最後、私を庇うように亡くなっていたって、後で聞きました」
「あなたの車が……あなたたちが、三春を……!」
私の心を、憎しみが支配する。この人自身に罪が無いと、わかっていても。
「……っ……人殺し……!」
今は、ただ、目の前にいる男に叫んだ。
*
人殺し、か。
「じゃあさ」
彼女に笑いかける。
「今僕が死んだらさ、君も人殺しだね」
笑いが止まらない。楽しくなんてないのに。
ガードレールにもたれかかって、中途半端にまだ雨が降り続く空を見上げる。青空ではないが、どことなく味のある空だ。ゆっくりと、後ろを向く。
「それじゃ」
「待ってください!!」
私は思わず、その男の手を掴んだ。
「……なんでだ。君が僕を人殺しだというんだから、その人殺しがさっさと消えればそれでいいだろ」
「わからないです……けど!」
私はまだ、この世界を嫌いになれないらしい。捨て切れないらしい。運命に抗ってみたいらしい。
「あなたは、死なせてはいけないと……そう思うので」
さっきと同じような……いや、どこか違う笑みを浮かべて彼が口を開く。
「相変わらず、不思議な人だな、君は」
「わかった。約束はしよう。だが、もう会うことはないか。会いたくもないだろ?」
「……あなたといると、嫌な記憶がフラッシュバックする……けど、私は真実を知りたいんです」
「だから教えてください、あの日の、あなたの記憶を」
「はぁ……」
俯きながら、彼はゆっくりと語り始めた。
*
あの日、僕は家族と祖父母の実家に帰ることになっていた。あんなことになるとは、当然予想しているはずもなかった。
「じいちゃんたちに会うの楽しみ」
「大翔、お小遣いもらえるといいな」
「お父さん、そんなこと言わないの」
家族団欒。僕の家族の中にも、確かにあったもの。そう、あった。その時までは。
「ここのカーブ、死角になりやすいんだよな……」
父がボソッと言ったのを覚えている。そして、
ヌッと車が現れた。
「危ない!」
キュッと急ブレーキ、そして父は右側にハンドルを切った。だが、とても間に合うはずもなかった。
ドカンと衝撃音がしたのち、2台の車はガードレールを破って崖下に転落した。
そこで記憶は途切れている。そのあとは、君が語ったのと同じように、病院のベッドの上で目覚めて、両親が死んだと聞かされた。
その後の夏休みは、祖父母の家で過ごすことになった。嫌な言い方だが、遅れはあっても、予定は遂行されたんだと言えるのかもな、と思う時もあった。
二、三年が経つと祖父母も亡くなり、僕は本当に一人になった。
8年も経ったのに、未だに僕はこの崖をまともに見ることができない。バスに乗るたび、目を逸らしている。
*
「ごめんなさい。あなたの気持ちを考えずに、色々言ってしまって……」
駅方面のバスがやってくる。もうだいぶ長い間喋ってしまっているみたい。
「はあ……もういい。で、終わりでいいか?」
「……はい。……あ、もし良かったら……」
*
「結局、来るんですね」
彼女がボソッと言う。
「乗り気ではないが、約束してしまったものは仕方ない」
あの日の夜、彼女は最後にこう言ったのだ。
『今年の命日、一緒にお墓参りに行きませんか?』
複雑な気持ちではあるが、断るほどの理由もないので承諾したのである。
しかし、人殺し、とまで言った男にこんな提案をできるとは、つくづく不思議な人間だなと思う。
あのままなら、僕は当然死んでいたわけだから、彼女は命の恩人とまで言える存在なのかもしれないが、そうは簡単には思えない。家族を奪った車に乗っていた人物であり、僕を狂わせた張本人だ。
「別に、信頼したとか、そんなつもりではないですけど」
彼女がそう言う。僕らの距離感を示すように、ガラガラの車内で座ることもなく、中途半端に離れて立っている。
「つぎ、とまります」
終点なので、押す必要はないが、いつもの癖でつい押してしまう。ここに来たのは、去年の今日以来か。……いや、多分今年の四月に寝過ごした時以来だな。
「ありがとうございました」
いつもの運転手だ。そしていつも通り、会釈をしながら出ていく。バスを見送り、さて、とばかりに振り返る。
ちょっとした丘の上に並ぶたくさんの墓石。そのうちの一群に、二人で入っていく。初めて知ったのだが、我々のそれぞれの目的地はそう離れていなかった。
まずは、僕の方から。毎年来るたび、花を供えるだけ……でも、毎回泣いてしまう。
僕も大学生になりました。なんだかんだ生きてますよ。
あの頃の記憶が戻ってくる。一日中、なんでも心から楽しめていたあの頃。失ったものは戻らない。
彼女の方では、三本の綺麗な花を目の前の墓石に供えていた。それと、ショートケーキをひとつ。イチゴが一つ、可愛くトッピングされた、シンプルだが美味しそうなケーキだ。
「三春は、お菓子が、特にここの店のケーキが好きだったから」
僕が聞くまでもなく、答えを教えてくれる。
「……思い出しました。私の夢」
ポツリと言う。ただ、これまでどこかにあった弱々しさは消え。芯がこもって聞こえる。
「料理人になること。三春の夢を、私が叶えたい。いつのまにか、忘れていました」
彼女もいつのまにか泣いていた。でも、瞳には、再び夢を取り戻した彼女の未来を象徴するように、輝きが戻っていた。
*
天気は下り坂。雨もいつのまにか降り出して、バスのガラスに水滴が浮かび始めている。
「つぎ、とまります」
あの子をバス停で見送ったあと、ふと、あの子の名前を聞いていないことに気づいた。
……まあ、いいか。
僕も彼女と同じように、いつの日か希望を見つけることはできるんだろうか。
それからあと、雨の夜に彼女がバス停にやってくることは無かった。でも僕は、雨が降った日にはいつも、彼女のことを思い出す。
雨音の響く停留所から、僕は今日もバスに乗り込む。
バスの扉が閉じて、その停留所からバスは離れていく。
「つぎ、とまります」