絵の具のついた筆を持ち、真っ白なキャンバスをただ眺める。放課後の美術室は嘘のように静かだが、外の世界がその静寂を破壊する。風が窓にぶつかる音。運動部の掛け声。夕方を告げる烏の声。耳から入るそんな雑音を脳までたどり着かせることはなく、僕はある一つの音を待っていた。筆の絵の具が乾くまで、いつまでも。そして、ついにその時は訪れる。
鈴の音。甲高い音が廊下にこだまし、間断なく響く。その音を聞いた瞬間、僕の心臓は跳ね上がり、他の何事も手につかず、筆を持つ手が完全に固まる。それに付随した足音が段々とこちらに近づき、僕のいる美術室の前で止まる。少しの間を置き、扉が引かれると、一人の女子生徒が顔を出した。
「こんにちは。おや、今日は君だけかい?柴崎くん」
鈴の持ち主であり、あの日の出会いから今日に至るまで、僕を惑わしている張本人。飯塚蓮実先輩が、やってきた。
先輩との出会いは一か月前の新入生歓迎会だった。
「三年二組の飯塚蓮実。美術に関する経験はゼロ。よろしく頼むよ」
簡潔に事実のみを述べる。三年から新しく部活に入るという常識外れな行動も、経験ゼロの新入部員とは思えない毅然とした態度も確かに目を引いた。 しかし、そんなことよりも僕の興味を引いて離さなかったのは。ありきたりに言えば、ミステリアス。僕の全身全霊をもってしても、到底解読できるような人ではない。美術部新入生とは、この人の持つ何番目の仮面であり、そして、一体何個のそれを剝いでしまえば、僕は飯塚蓮実という人間に出会えるのだろうか。そんな風に感じた。
部員として馴染めるだろうかとか、上手く絵を描けるだろうかとか、直前まで僕を取り巻いていたくだらない不安など、先輩の手により、一瞬にして消え去られてしまったのだ。要するに、ひとめぼれである。気になってしまい、気に入ってしまったのだ。この、何とも知れない先輩のことを。
「それで?そっちは順調?」
僕の前のキャンバスを指さし、小首を傾げながら問う。
「・・・あぁ、えっと、はい。ぼちぼちです」
まだ何も描かれていない純白を前に、若干の気まずさを含みながら曖昧に応える。少し落ち着きだした心臓を制し、絞り出すかのように続けて言葉を紡ぐ。
「・・・題材は決まったんですけど、それをどう表現するかが難しくて・・・」
先輩と会ったあの日から、僕は絵が描けなくなってしまった。題材とはほかでもない。
飯塚蓮実を理解し、絵に落とし込め。
僕の脳はそんな無理難題を僕に指示し、強要する。僕はなんとかしてそれに応えようとするも、線の一本すら引くことは叶わず、日を改める。それの繰り返し、繰り返し。しかし、なぜか、筆につける絵の具は、いつも決まって黒だった。
「へぇ、その題材っていうのは?」
「いや、そのぉ、口では言いづらいといいますか・・・」
あなたです、と言えるほどの胆力はなく、曖昧にごまかす。幸いにもそこに関して深堀する気はないらしく、興味なさげに次の話題に移る。
「まぁ、いいや。それで話は変わるんだけどさ、この前私があげたあれ、まだ持ってる?」
「・・・あれ?・・・あぁ!」
なんのことかと逡巡したが、すぐに思い当たり、返答する。そのままカッターシャツの胸ポケットに手をやり、あれを取り出す。
「はい、もちろん持ってます」
既に絵の具の乾きだした筆をパレットに置き、かわりに右手で取り出したのを左手に持ち替え、得意げに見せる。
「ねぇ、柴咲くん。突然だけど、これを貰ってくれない?」
新入生歓迎会の次の日のことである。今日のように絵を描こうとしていた放課後、飯塚先輩は僕のほうに歩み寄り、開いた手のひらを見せてきた。
「これは・・・お守り?・・ですか?」
その手に乗っていたものとは、薄いピンク色を基調とし、中央には赤い文字で大願成就と書かれたお守り。どこの神社にも売っていそうなものだ。
「これを、僕にですか?でも、なんで・・・」
「大願成就。そこに書いてある通りだよ。私は、君にこそこの言葉が似合うと思った。他の人には、あげていないよ?」
顔にほのかな笑みを浮かべ、半ば無理矢理に僕に持たせる。言っていたことの意味はよく分からない。それでも、あの飯塚先輩からものを貰った。僕だけが。それだけで十分であり、今日に至るまで肌身離さず持っておく理由となりえた。
お守りの存在を確認した先輩は安堵したように見えたが、すぐに調子を変える。目尻と眉を少し下げ、反対に口角は上げた、申し訳ない、と言うような表情である。
「そう、それなんだけどね・・・返してくれない?」
「え・・・?」
思考が止まる。少し遅れて、逡巡。なにか気を悪くさせるようなことをしただろうかとかいったネガティブな想像が頭をぐるぐると回り、行き場を失った
不安が音として口から漏れ出す。
「あ、返す?いや・・・もちろん、構いませんけど・・・」
貰った本人に返せと言われれば、それを断ることはできない。とはいえ、若干のしこりは残る。それが憧れの先輩からのものであれば、なおさらだ。
「勘違いさせてたらごめんね。最初っから返してもらうつもりだったんだよ」
そう言って僕からお守りを取り上げると、上についた口を広げ、中に入っているものを取り出した。お守りの中身といえば、その神社で作られた神聖なお札や護符が一般的だ。しかし、先輩が取り出し、僕に見せたそれは一般的とは言えなかった。黒く、小さく、薄い。お札でも護符でもない、それはなにか、機器のようだった。
「これは心音を記録する機器だよ。ドラマとかでよく見るでしょ?寝てる人にコードがつけられて、その横のモニターで波として表示されるやつ。小型化するのに苦労したんだよねー。それに、本来は脈の分かる場所に皮膚一枚越しに使うものだから、それを布越しでも測れるようにするのも難しくてぇー。まぁ、そこらへんは私の努力の賜物かな」
僕の感情をよそに、先輩は流暢に説明を続ける。なにを言っているかはよくわからない。なにが起きているかもわからない。何故お守りの中にそんな機器を入れていたのか、何故それを僕に渡したのか。かろうじて得ることのできた情報が合わさり、尽きることのない疑問と不安として僕に襲い掛かる。
「あー、いきなりいろいろ言われてもよく分からないよね。うん、君には説明を聞く権利がある。ちょっと長くなるけどいいかな?」
依然として理解できていない僕を察したのか、先輩は僕の斜め前にある椅子に座り、一呼吸ついてから話しだす。
「柴咲君はさ、パブロフの犬って知ってる?」
「パブロフの犬?・・・えーと、まあ、なんとなくは」
脈絡のない単語に少し驚き、不安げに返答する。犬に餌を与えるときにベルの音を鳴らすようにすると、犬はベルの音=食事と認識し、その音を聞くだけで唾液腺の活動が活発になるようになる。そんな、生物の思い込みに関する実験だったはずだ。まず日常会話で聞く言葉ではないが、未だにここが日常であると思っているほど、僕は楽天的ではなかった。
「知ってるね。じゃあ説明は省くよ。私はね、あれについては懐疑的だったんだよ。いや、あれに限った話じゃないか。自分の目で見たものしか信じない、そういうタイプ。ネットに書いてる情報をそのまま信じ切るなんて、もってのほか。あれで見ただけじゃ、知識とは言えないよね」
理解できる。というより、イメージ通りという感じがした。外野には一切惑わされない。たった一人、飯塚蓮実としてこの世に君臨する。そんな僕が勝手に抱いていたイメージが、本人によって証明されたのである。
「だからさ、自分でやってみることにしたの。パブロフの犬」
理解できない。すでに疑問は尽きないが、行動の理由に関してはさっき説明していた。自分の目で見たものしか信じない。ただそれだけだろう。そんなことを考えているうちに、先輩は自分の鞄に手を突っ込み、一台のパソコンを机に持ち出す。学校で配布されるようなものとはスペックも値段も二回り程違いそうな、明らかに私物と分かるノートパソコン。それと先ほど僕が返却したお守り、もとい、心音計をコードでつなぎ、何やら操作を始める。目は液晶を向きながらも、語りは止まらない。
「と言うかさ、君も同じタイプなんじゃない?知りたくて、理解したくて、難題に挑む。分からないから、自分で考えてみる。私の目には、そう写ったけど」
珍しく、先輩の言葉尻が少し沈む。またしても、何が言いたいのかよく分からなかった。先輩は僕の何を見て、感じて、そんなふうに評したのだろうか。
「まあ、そのことはいいや。話を戻すよ。やっぱり一番大切なのは犬だよね。これがなきゃ始まらない。だから、入学式の日から探してたんだよ。ちょうどいい感じの、サンプルになってくれそうな人。そんなとき、偶然君を見かけた。ビビーっときたんだよね。彼こそ、私の実験を成功に導いてくれる人物だと。だから、まあ、お守りを渡したのには願掛けの意味もあるんだよ。ほら、たまにいるでしょ?受験合格祈願で筆箱にお守り入れてる人。あんな感じ」
我ながら非科学的だけど、などと言いたげに苦笑いしている。ここにきて、あの言葉の意味を理解する。大願の正体と、それが成就するための、条件。
「で、実験対象を君に決めたんだよ。そこが決まれば後は簡単。ばれないように君を尾行し、美術部に入部したのを見たら、私も続けて入部し、心音計入りのお守りを渡す。ちゃんとポケットに入れたまま持ち歩いてくれるかは懸念点だったけど、君は私の計画通りに肌身離さず持っていてくれた。それに、入部後に少しずつ君にアプローチをかけて私のことを気にかけてもらおうと思ってたんだけど、どうやら新歓の時点でもう私のことを気に入ってくれたみたいだし。ほんと、理想の実験体だよ」
まるでそれが最大級の賛辞かのように先輩は言う。
「あぁ、そうそう。これを忘れちゃ駄目だよね」
片手でパソコンを操作しながら、もう片方の手をスカートのポケットにやり、例の鈴を見せる。鈴はそんな僅かな動作でも音を放ち、その音で僕の胸を刺激する。いや、今に限ったことではない。美術室の入り口から僕のいる机まで、そんな数メートルの移動。たったそれだけの距離でもいちいち声高に存在を主張し、僕の思考を邪魔する。なおも片手でのパソコン捌きを続ける先輩だったが、唐突にそれは終わり、画面を凝視し始める。こちらからは画面を見ることはできないが、先輩の一瞬の表情から写っている内容を察することはできた。衝撃を受けた。思えば、この人の笑顔を見るのは初めてかもしれない。いつもニコニコとしているイメージはある。しかし、そんな偽りの作り笑いとは違う、心からの、笑顔。
僕は、邪悪という言葉を知っている。たとえ知らなくとも、インターネットで検索すれば、誰でも知ることができるだろう。先輩が先ほど言った言葉を思い出す。ネットで見ただけの情報を知識とは言えない。なるほど、どうやら一理あるようだと、僕もその思想を受け入れる。今の先輩の顔を見ずに、邪悪などと、誰が語れるだろうか。この世で僕以外の誰が、邪悪という言葉の意味を、知っているのだろうか。得体の知れない感情が蠢きだす。今まで感じたことのないような、大きななにか。それを理解しようとリソースを割いていた僕の意識は、パソコンを勢いよく閉じる音によって現実に引き戻される。 先輩はそのままの勢いで席を立ち、先ほどまでよりも口を大きく開け、声高に語る。
「この音を鳴らし続けることこそが、最重要!ああそうだ、パブロフの犬でいう、ベルの役割を果たす。これを常に持ち歩き、君の意識に深く刻み込み、そして!この鈴の音イコール私、飯塚蓮実であり!それが聞こえたら、君は私に会うことができる!」
先輩のギアが急に数段上がる。もはや僕への説明ではなく、この世界への宣言であるかのように高らかに語りを続ける。なんらかの闘争によって勝ち得た権利を、その概要を、民衆に周知し、誇示するように。
「そして!この音を聞いたときの君の心拍を記録し、平常時のそれと比較する!この一か月間、君は鈴の音を聞くたびに私を想起し、視界にはいない私を思い!心拍数を上げた!ベルの音を餌の予告だと認識した、かの犬のように!」
この唐突なハイテンションの理由が分かった。どうやら、実験は成功らしい。いや、そんなこと、最初から分かっていた。ただの波に情緒を狂わされ、どこにもいない人を想い、脈動する。僕こそがそんな哀れな犬、張本人なのだから。
「実験は成功・・・ってことですね」
久方ぶりに声を出した気がした。依然として、なにかが渦巻いていることは認知していた。それでも今は、一旦自分への理解を諦め、事の顛末を見届けることに注視しようと思った。先輩の話を聞き続ける。遠回りなように見えて、それこそがこの感情を理解するための最短経路のように思えたからだ。
「そうなるね。後はこれをレポートとしてまとめるだけだ」
僕の質問を聞き少し冷静になったのか、先ほどからのテンションを抑えて喋る。その姿はいつもの、いや、僕がいつもと認識していた飯塚先輩そのものだった。
「本当にありがとう、柴咲君。君の協力が無ければ実験を遂行することはできなかった。・・・ああ、そういえば、もう一つ頼みたいことがあるんだ。これを部長さんに渡しておいてくれるかい?今日は来ていないみたいだからね」
そう言って鞄から一枚の紙を取り出し、僕の机に置く。その内容について確認する間もなく、先輩はパソコンや心音計を勢いよく鞄に詰め込み、チャックを閉め、肩に掛ける。帰ろうとしているのだ。この人は。
「それじゃあ、柴咲君。ここらで失礼させてもらうよ」
扉を引き、廊下に片足を出しながら首だけをこちらに向けて別れの挨拶をする。
「さようなら」
何か言いたかった。言ってやりたいことも、伝えたいこともあった。でも、結局、何も声は出ず、扉を閉める音だけが僕一人の美術室に響いた。少しの静寂の後、どこかから聞こえる誰かの笑い声で我に返った僕は、先ほど先輩に渡された紙に目をやる。 退部届。角ばった明朝体が、ただ事実のみを伝える。
「・・・ああ、まぁ、そっか・・・ふふっ」
困惑やら怒りではなく、納得。少し遅れて、笑みが零れる。あの人はもう、ここには来ないのだ。そして、おそらく、二度と僕の人生には現れない。そんな気がした。
「・・・よしっ」
誰かに言ったわけではない、自分への宣言。ここで区切りをつけよう。一旦、全てに、蓋をしようと。黒が固まり、かぴかぴになった筆を洗い、改めて絵の具を付ける。少し迷ったが、色はやっぱり、黒。懇切丁寧に、あの人自身が教えてくれたのだ。飯塚蓮実という人間について。あの人の全てを知ったなどと、おこがましくて到底口にはできない。それでも、昨日までとは違う。そのとき、ずっと僕の中を這いずっていた感情について理解する。なにかについて知りたいという、人間の原初の欲求。それが満たされたことへの、よろこび。たとえそれが、あの人の爪の先の、ほんの一部であったとしても、僕はその情報を全身で受け止め、全力で咀嚼する。嚙み切れずに、あふれてしまった分は、ぶちまける。ずっと間違っていた。理解したことについて、描こうとしていた。でも、それでは意味がない。こんなにも簡単なことだったのだ。
「うん、今なら、描けそう」
どこかで烏が鳴いた気がした。筆を持ち直し、キャンバスに向かって焦点を合わせる。
どこかで鈴が鳴った。心臓が少し、高鳴った。