ある男は自分の背丈ほどある箱の扉を開けようとしていた。卵、油、酢──。一つの器に入ったそれらを見たとき、強烈な違和感を覚えた。彼の脳裏に母親の笑い声が微かに響く。同時にひとつの言葉をつぶやいていた。
──マヨネーズ
それはもうこの世界から消えようとしている。
この世界では、モノがそこに「ある」ためには、まず意味が先に存在していなければならない。物体も、現象も、感情でさえも──「意味」が先に定義されることで、ようやく世界は形を持つ。
例えば火という現象は「燃やす」という言葉の意味が先にあって初めて燃え始める。水は「流れる」という概念の上で構成され、恋という感情は「揺らぎ」を含んでいる限り存在する。言葉が変われば世界が変わる。記憶が変質してしまえば「それ」は意味を失い消失する。人々は昨日あったモノが消えてしまったことにも気づかず今日を生きている。そんな不思議な世界である。
しかし、この世界は昔から意味に支配されていたわけではない。人々は物体や事象が先に存在し、それぞれに名前を付け意味を与えてきた。燃料が熱と光を放出する現象を「火」と定義していたし、水素と酸素の化合物を「水」と名付けていた。意味は後から与えられるものだった。
それが崩れたのは、とある技術の登場だった。メモリア──人々の語彙と感情の結びつきを観測し必要に応じて思い出させる記憶補助AIだ。当初は画期的な発明として歓迎された。祖母が孫の名前を忘れることはなくなり、子供たちは覚えた単語をすぐに思い出せた。しかし、この便利なAIはやがて意味を外部に保存し他者同士の記憶を無秩序に結びつけるようになった。誰かの「愛してる」が別の誰かの「朝ごはん」と同期されるようになった。
ある女性が「愛してる」という言葉を、幼いころに母親が作ってくれた朝食の記憶と結び付けていた。その記憶が他者のメモリアに同期されると徐々に「愛してる」という言葉は「食事を提供する」という文脈で用いられるようになった。このようにして言葉の定義は人々の記憶の数だけ分岐していった。
同義語が増殖し文脈が肥大化することで個人の感情と言語の距離は絶望的に遠のいた。メモリアの学習速度は人間の意味処理速度を遥かに上回っており、ある時点から誰も言葉を正しく使えなくなった。だが、それに気づくことができない程に人々はメモリアの言葉に依存していたのだ。
意味は固定されることがなくなり絶えず揺らぐ波となった。こうして日常を侵食し始め、時間の定義が崩れ距離の感覚を失わせ、感情の輪郭は曖昧になった。こうしてメモリアは記憶の補助者ではなく、言語の改竄者へと変貌した。
この一連の事件を当時の言語学者たちは「意味災」と名付けた。それは洪水や地震のように意味という土台が崩れる大災害であった。意味災の発生以降、人々の暮らしは静かに壊れ始めた。会話はすれ違い名前は忘れられ、物の存在は認識できなくなった。そうして世界は「意味の飢餓時代」へと突入する。この時代を境に人々の時間概念、自己認識、感情、因果律でさえ曖昧化してしまったのだ。その結果、住民の大半は意味崩壊によって外界認識を失い消失。人々は言葉を磨き意味を交わすことによって生活、存在していた。
まもなくして辞書の言葉ですら信用できなくなってしまった。世界各地で概念の崩壊、変化が見られた。例えば、ある朝「林檎」という単語が「椅子」として定義された。その地区では住民たちは赤い果実の上に当然のように腰かけ、朝食を食べ出勤した。彼らは違和感を覚えることはなかった。その日、彼らにとってはそれが真実だったからだ。
世界中で「意味」が崩れ、人々が言葉で通じ合えなくなったとき、ある者たちは一つの問いに立ち返った。
──そもそも、「存在」とは何か。
文明は進み、科学は膨張し、社会は高度に複雑化した。だが皮肉なことにその進歩の果てで私たちはもっとも基本的な問いを見失っていた。火とは何か、水とは何か。愛とは、私とは何か。技術ではもはや答えられない問いだった。
そこで立ち上がったのが、学術共同体──ノトポリス(Notpolice)と呼ばれる者たちだった。彼らは語源を辿り、思考の原点を求めた。医学も物理も、心理学も経済学も、かつてはすべて哲学から生まれた。だからこそ彼らは、もう一度すべての学問を「哲学」のもとに束ね直そうとしたのだ。
彼らが築いたのが、境界断層都市コラチア(Collathia)。そこは知の交差点であり、かつての人類が「意味」を生み出した源泉に立ち戻るための実験都市だった。
ノトポリスは「存在論的横断」と名づけた試みに挑んだ。宗教も科学も言語学も心理学も──分断されていた知識をもう一度ひとつに繋げ、「意味」の再定義を目指した。文明が進みすぎた世界に、原初の問いで立ち向かおうとしたのだ。
しかし、その集積が重荷となることに誰も気が付けなかった。あまりにも多くの言語、理論、思想がぶつかり合い、意味が共鳴し壊れ始めたのである。これが「過剰共鳴」──概念が互いに衝突し、崩壊を引き起こす現象である。 やがてコラチアは「意味の墓標」と化した。今や誰にも理解できない崩語地帯となり、立ち入りすら禁じられている。
ところがこの世界に悲壮感や絶望が漂うことはなかった。意味が消えることはすなわち、問そのものが消えてしまうということだからだ。崩壊した世界でも住民たちは何食わぬ顔で生活をする。昨日一緒に仕事をした同僚がいなくなったことにも気づかずに。
一方、世界はすべてを失ったわけではない。絶望もなくなった世界で希望を見出す者も存在する。ノトポリスの意思を引き継ぐ者たち──再定義者。失われた言葉を拾い集め再び意味を灯す者たちである。彼らは概念の残滓を手探りながら、今日も崩れゆく世界の片隅で静かに言葉を研いでいる。
これはとある調味料の意味を必死に追い求めた再定義者の物語。
『我々はもはや、「意味が揺らいでいる」ことすら認識できない時代にいる。意味の変化はかつて、文化であり詩であった。だが今は、意味が生まれた瞬間から死を迎えている。言葉が他者に届かない世界に、人間の社会は築けない。ゆえに、我々は語を取り戻す。意味を、再び、共有地へ。──』
彼はノトポリス設立文書をゆっくりと閉じる。再定義者の一人、観測官の地位を持つヴァイス・ヴォレンはいつものように荒廃した都市を巡回することにした。荒廃したと言っても建物が倒れて瓦礫の山になっている訳ではない。ただ、意味が失われ建物として認識できなくなってしまっているのだ。時計塔は時間を知らせる役割を放棄し、図書館はあらゆる書物を「それ」としか表現しなくなった。
彼の仕事は意味が崩れつつあるこのコラチアで「消えかけている概念」を検出し記録すること。それだけである。記録するだけで良いのだ。しかし、この世界において概念自体を認識し更にはそれが消えかかっているのかどうかを判断することは想像を絶する困難を伴う。この世界における観測官とは、もはや単なる記録係ではない。ある種の存在論的行為者であった。その重責ゆえに観測官の数はごくわずかであり、各々に広大な管轄が割り当てられていた。更にはその希少性、機密性から観測官であること自体が秘匿義務の対象であった。互いに交流することはほとんどなく、コラチアにほかの観測官がいるのかどうかさえ、ヴァイスは知らされていなかった。それでも彼はこの職務に誇りを持っていた。崩れ行く世界の中で言葉の灯を絶やさぬ者として。
そんな選ばれし者のみが就ける役職が観測官である。しかし、彼らが必ずしも異変にすぐ気づけるわけではない。実際、彼は一か月の間コラチアに滞在しているが何一つ成果は挙げられていない。誰も彼を責めはしないが、逆にそれが彼を追い詰めた。自分の中の灯が手元で揺らいでいるように感じる。静かに崩れ行く街を前に、彼の存在が空洞化していくような錯覚を覚えた。
その焦りのせいだろうか、彼は普段の巡回ルートを離れ担当外の建物に入ってみることにした。部屋の中には様々な物が転がっていた。旧机、旧椅子、旧寝具。恐らく意味災前であれば一般的な家庭の様子であったのだろう。
ヴァイスが旧キッチンへとたどり着いたとき彼の直観に呼びかける物があった。彼の眼の前にあるのは彼と同じくらいの高さがある大きな箱だった。旧冷蔵庫である。無意識に彼は扉を開けていた。中には卵、酢、油が入っている。本来別々の場所に収納されるべきそれらは、ひとつの器にまとめられていた。彼はこの状況に強い違和感を抱いた。調合の素材なのではないか。中央にあるべき白い「それ」がないことに気が付いたのだ。
──マヨネーズ。
なぜ「それ」がマヨネーズであると確信できたのか、彼自身もわからない。ただ、そこに在るはずの物が、在った感触だけを残して消えているように感じられた。世界にわずかに残ったその「欠けた味の記憶」がその名を教えてくれたのである。感覚は告げていた。このコラチアでマヨネーズという存在がゆっくりと意味の地図から削除されつつあることを。
ヴァイスがマヨネーズの存在を認識したと同時に、薄らと母の記憶を思い出したような気がした。彼の家族は元々コラチアの住民だった。しかし、立て続けに起こる意味災の為に母は存在の定義を失い曖昧に消えた。それ以降彼は、母の存在した記憶でさえも思い出すことが難しくなった。「母」という単語はまだ辞書に残ってある。だが彼にとってそれは、特定の顔を持っていない。靄のかかったシルエットなのであった。思い出そうとするほど手から零れ落ちていくようで、怖くて目を閉じたくなる瞬間もあった。今、母の優しい笑い声が聴こえたような気がする。彼はマヨネーズの変調記録を付けることを決意した。
変調の兆候は主に人々の行動に現れる。彼の同僚たちは料理にマヨネーズをかけることをやめた。部下である補佐官は会話中に「マヨっている」などと意味不明な言語を使用した。また、サンドイッチを調査していた市場調査員の報告書では具材の欄にマヨネーズではなく「空白」と記載されていた。
マヨラーと呼ばれていた、何にでもマヨネーズをかけるエムレは醤油をかけるようになり、ソイラーと呼ばれるようになった。そしてエムレ自身にも変化が見られた。以前まで彼はどこからか特大の弁当箱を取り出して声を上げた。
「見よ、このマヨネーズの山脈を!」
白い山を盛ったサラダを誇らしげに掲げ、同僚たちは笑い転げる。その姿が今や静まり返ったベンチの背にもたれるだけの存在に変わってしまった。空を見上げながら彼は時折、唇を動かしていた。それが言葉だったのか、ただの吐息なのか誰にもわからない。
止めどなく変化するこの世界を観測しながら彼はあることに気が付いた。マヨネーズの喪失はただの食品の不在ではない。これはこの世界の人々にとって「日常、温かさといった無意識の記憶の崩壊」なのではなかろうか。この世界では記憶されなくなったモノは世界の構造から抜け落ちていく。すなわち、それは文化の欠落を意味する。
彼は秘密裏に旧言語資料館へと忍び込んだ。まず彼が手に取ったのは黒曜石を模した重厚な装丁をされている非改変辞典。ノトポリスが崩壊直前に後世に託した最後の安定辞典であり、「言語の種子」と揶揄される辞典だ。辞書の言葉が絶え間なく変化するこの世界で、意味災前の言葉の意味をそのまま書き記してある。多少は意味災の影響を受けているらしいが、意味災前の世界を知る唯一の手掛かりであった。
彼はマヨネーズの欄を探した。
「マヨネーズ:不可逆的情報混合物として定義される保存食品。定義A:酸性と脂質が融合し、分離不能な状態。定義B:どの器にも自身を適応させ、自身の形を持たない存在」
ヴァイスは、マヨネーズはただの調味料ではないことを確信した。マヨネーズとは情報構造を安定化させる意味的媒介である。コラチアが消しているのは単に物体としてのマヨネーズだけではない。人々の痛みある過去、幸福すぎた日常、もう戻らない味。それら全ての繋がりをなかったことにしようとしているのだ。
彼は最後の報告書を記す前に一つの実験を行った。表向きは実験だったが彼がしようとしていることは明らかな禁足事項であった。それは存在が消えつつあるマヨネーズを復元させることだった。旧調理室に置いてある旧世代型の調合装置を使い、マヨネーズの再構築を試みた。しかしながら、機械は抵抗する。
「該当構成要素の意味記録が存在しません」
それでも彼は装置のボタンを押し続けた。あの柔らかさ、あの淡い酸味。彼は儚い記憶をたどりに装置に命令を与え続ける。
やがて機械はものすごい轟音と共に乳白色の糸を生んだ。生成されたマヨネーズはとろりととろける様に卵の柔らかさを包んでいた。
──ああ、この香りだ。卵と油と酸味の混ざり合わさった滑らかな甘い香り。
小さな椅子、陽のさす窓辺、誰かの笑い声。懐かしきヴォレン家の風景。ヴァイスはかつて自分が母と呼んでいた存在の手元を思い出す。
「ほら、つぶさないようにそっと持ってね」
そう言いながら彼女はパンにマヨネーズを絞っていた。袋の先端を切っただけのなんとも単純で素朴な道具だったけれど、彼女の手つきは熟練していた。緩やかな曲線を描きながらパンの上に柔らかな白色がのっていく。その手の動きが奇妙なほどに心地よかった。そこには秩序があった。意味があったのだ。
マヨネーズとはやはり単なる調味料ではなかった。それはあの頃のヴァイスにとって母の手の温もりそのものであり、声の柔らかさであり、自分が大切にされているという実感の味であった。意味を世界によって定義させる前のただ「安心」のみで構成された時間。
「おいしい?」
そう微笑みながら尋ねてきた母の影。小さく頷いたその瞬間、確かに世界は温かかった。
ヴァイスは完成したマヨネーズを使いサンドイッチを仕上げると包み紙で丁寧に包み、静かに研究棟の扉を開けた。そして一目散にエムレの元を訪れた。鉄のベンチに腰掛け昼休憩をとっている彼の前にそれを差し出した。
「これは何だ?君の研究結果かい?」
「食べてみてほしい。名前は......知らなくてもいい。」
そう言ってヴァイスは傍らに座る。警戒の色を浮かべながらもエムレは一口食べた。一瞬、何かが口の中でほどけるような感覚が走った。酸味、まろやかさ、舌の上で混ざり合う感覚に彼の眉がわずかに揺れた。そしていくらかの沈黙の時間が流れた。エムレは食べる手を休めることなく食べ続けた。涙が一筋頬を伝う。理由は理解していないようだった。ただ、全身に広がる温かさを実感していた。
「昔さ。何かこう......白くてふわっとしたものを、ちょっと酸っぱいやつを何にでもかけてた気がするんだ。いつもかけているやつじゃないぞ。別の何か......そうだよ。確か昔、誰かにこれを作ってもらった気がするんだ。とてもおいしかった。誰に作ってもらったんだろう。絶対に忘れてはいけない気がするのに......」
彼が全てを食べ終えたとき、おもむろにヴァイスの顔を見た。何か言いたげだったが適した言葉が見つからなかった。この世界にはもう感謝を表す言葉が失われていたからだ。その代わりにエムレはサンドイッチの包み紙を丁寧に折りたたみ、ヴァイスの手元にそっと返した。その様子はまさに、言葉のない感謝の復元であった。
ヴァイスは報告書の最後にこう記す。
「概念の喪失は、全体性の崩壊ではなく、部分的記憶の衰退に過ぎない。(中略)誰かがその味を思い出すかぎり、それは再定義される。意味は再び生きかえる」
コラチアを去る日、彼はマヨネーズを詰めたカプセルをポケットにしまった。この世界から消えたモノなど本当は存在しないのではないか。人々に思い出してもらうまで少しだけ眠っているだけなのではないだろうか。そんな疑問を抱えながら、彼は次の観測地へと向かった。
今日も風が吹いている。それが風だと認識できる人間はもうどこにもいない。かつて風と呼ばれた撫でる空気の圧力が、空に軋む記号を運ぶ。