ある渓谷の端に、悪魔が住む町があった。
二本の捻れた角、鋭い前歯、真っ黒な羽を持つ彼らは、天敵に追いやられ続け、安住の地を求めていた。そして、天敵たちが「地獄の入り口」と忌避して近づきたがらない渓谷の近くに、自分たちの家を作った。
遮るものが何も無く、冬は厳しい寒さに見舞われるその町は、当然春の訪れとともに祭りを開く。
四月と五月の境。今年もまた、燃えるような灯りに包まれる時節がやってきた。そして、彼女にとってこの祭りは二度目だった。
「よ、待たせちまったか?」
呼びかけられて彼女が振り返ると、気さくそうな悪魔の青年が立っていた。彼は、彼女がこの町に降りてすぐ出会い、彼女に町での暮らし方を教えてくれた。
「大丈夫。祭りの様子を見てたから」
「フードをそんなに深く被った状態で見えるのか?」
「うん。慣れればね」
「その調子じゃあ、今後も俺はお前の素顔を拝めそうにないな」
後ろめたさと申し訳なさで、彼女は少し目線を落とす。
彼からすればいつもの軽口だが、彼女にとってその言葉は自分の欺瞞を指摘されているようなものだった。
だからせめてもの誠意として、ごめん、と彼女は口を紡ぐ。
「いやいや、ただの冗談だって。ほら、行こうぜ。橋の方はすぐ混むから」
青年は自然に彼女に手を差し出した。
「迷子の心配はしなくていいよ。私もこの町で一年過ごしたんだから」
本当は合わせたかったが、彼女にはそれは出来なかった。
蝋燭、屋台、火の粉。闇を賑やかす、色とりどりの熱のかたまりが、祭りの夜を彩る。多くの露店が立ち並び、たくさんの人影が笑いさざめいて、通り過ぎていく。
彼らは皆例外なく悪魔だ。しかし、悪魔がこれほど穏やかに笑えることを、一年前の彼女は知らなかった。人間にただの一人として同じ存在がいないように、結局のところ、悪魔も一様に邪悪ではないという明白な事実でしかない。
橋へ向かう道中、青年はいろんなことを話してくれた。
あそこの屋台の焼き蜥蜴は美味いとか、彼の母親が彼女から羽の手入れの仕方を教えて欲しがっているとか、そういう他愛のない話。
彼はいつも通り饒舌で、彼女も静かに聞いている。
去年の彼女はただの見物人で、今年は住人だ。
町に紛れ込み続けて一年。最初はぎこちなかった言葉遣いも、今ではよく口に馴染む。彼らの思想や文化も理解できるようになった。だから、このとりとめのない会話はいつもの通りの光景。
けれど、彼女だけが彼との違いを悟っていた。いくら慣れても、どうしても誤魔化せない所が彼女にはあったから。
「ああ、やっぱりここが一番賑わってるな」
たどり着いた橋の上で、住人たちは皆空を見上げていた。
夜空には、地上で飛び交う火の粉と競い合うように、大きく浮かぶ光の輪。彼女が町にやってきたのと同じ夜、同じ光景。
不意に、隣に立っていた青年が口を開く。
「なあ、お前はなんで花火の形が輪しかないか知ってるか?」
「・・・え、ううん。知らない」
唐突に質問を投げかけられ、彼女は狼狽えながらも首を横にふる。
言われてみれば妙な話だと彼女は思う。花火は作り方次第で様々な模様を打ち上げることができることは知っている。であれば、なぜこの祭りではリング状の花火しか打ち上げられないのだろう。
「春の到来を祝うだけなら、花火の形にこだわる必要はないだろ? 実はもう一つ意味があるんだ」
「…それは?」
青年はニンマリと笑い、秘密を共有するように小さな声で囁く。
「天使さ」
ドクン、と彼女の心臓が強く跳ねた。
その動揺に気づくことはなく。青年は言葉を続ける。
「今は随分対立も落ち着いて、本物の天使を見たことのない奴もいる。かくいう俺もその一人だ。ただ、この町は、天使の粛清から逃げてきたご先祖様た
ちが作ったものだからな。当時の風習が今も残っているんだ」
「…じゃあ、あれは光輪を意味してるの?」
「そうそう、連中の頭上にあるピカピカした輪っか。知ってるか? 天使は死んだとき、光輪が消えるんだってさ。昔の殺し合い殺され合いの中で、ご先祖様たちもただやられず、返り討ちにしたこともあった。その時に輪の花火を打ち上げたんだ。天におわす神に、アンタの従順な使いは輪っかだけになっちまったぞって皮肉で嘲笑うためにな」
そう言い終えた青年の顔は、嘲笑とは程遠い無邪気で得意げな、覚えたての蘊蓄を披露した子供のように笑っていた。
「ま、何十年も前の話だ。とっくに形骸化してる。今でも老人たちは天使を嫌ってるが、復讐が叶う前に葬式の方が先だな」
彼女は、笑えなかった。
けれど、黙っていた。黙るのは、この一年でだいぶ上手くなった。
その時、突然人混みに押され、彼女は体制を崩した。
「危ない−−−」
咄嗟に青年が彼女を支えようと腕を動かす。
「待って、駄目−−−」
彼女が言ったときには遅かった。
青年が彼女の体を受け止める。
一年間外すことのなかったフードは呆気なくその下の素顔を晒し、彼女はなぜか、割れるガラスを幻視した。
光が彼女とその周囲を包み、一瞬で消え失せる。
青年が目を開けたとき、そこには変わらず彼女がいた。ただ、信じ難い現実と共に。
鳥のような純白の羽。汚れを知らない肌。そして、絶えず煌々と輝く光の輪。
それは、彼が生まれて初めて目にした「天使」だった。
世界が止まったような静寂の中、悪魔と天使はお互いを直視するしかなかった。
一方は、目の前の現実を嚥下できずにいた。ずっと見たいと思っていた素顔に、まさかこんな魔法のような真実が隠されていると思わなかったから。
もう一方は、混乱の中、停止したがっている頭を必死に巡らせていた。この後に来る現実から逃げ延びるために。あるいは、目を逸らすために。
誰かが「天使」と言葉を漏らした。
次の瞬間、「天使」は、もはや無意味になったフードを被り直し、一目散に人混みを掻き分けて行った。
「待て、お前は逃げなくていいんだ−−−!」
その言葉は、彼女の足が止まりかけるほど甘美だった。
しかし、彼女は見てしまったのだ。
魔法が解けて、本当の彼女を知った彼の目に染み出した恐怖の色を。
彼女は制止も聞かず、祭から逃げ出す。
魔法が切れたフードを必死に掴みながら走る。
「せっかくのお祭りなのに。どうしよう、追い出されてしまった。どうしよう、怖がらせてしまった。」
どうしよう、が頭を支配する。
悪魔だけの祭りに、不倶戴天の敵である天使が紛れ込んでいたという事実に、周囲の悪魔は悲鳴をあげる。あるいは天使への罵詈雑言を吐く。彼らは新入りの彼女の隣人として親しくしていた者達だった。
人混みを一心不乱に駆ける中、背中から怒号が飛ぶ。
「騙していたのか」
「あいつ、天使だったのか」
逃げるほど、世界が崩れていくようだった。
しかし、もう足が止まることはなかった。
渓谷に住み続けるためではなく、そこに住む悪魔たちを思って天使は悪魔たちの前から姿を隠す。
気づけば橋のもう片方の入り口がすぐ近くだった。けれど、そこから先は野獣が跋扈する荒野だ。逃げ出しても野垂れ死ぬだけ。
それなら、と彼女は橋の手すりに足をかける。
橋は町と荒野を繋ぐ道。下は底なしの渓谷。
彼女はこれ以上なく綺麗な羽をはためかせ、そして–––。
*
ある“上”において、天使として彼女は欠陥品だった。
白くて、整っていて、皆が同じように歌い、同じように飛んでいた場所で、彼女だけがズレていた。
羽も光輪も、みんなと同じ色と形なのに、彼ら彼女らにはそつなくこなせた「仕事」が上手くできなかった。賛美歌の歌い方も、羽を使った飛び方も周りとは違っていた。
その、じわりと広がっていく差が苦しかった。
励まし、肩を押してくれる仲間がいてくれたから、一層自分が惨めだった。みんなは歩いて、自分は走っているのに距離はどんどん遠ざかる。
やりたいことは大層な事じゃなく「ただ置いていかれたくない」だけだったのに、彼女はそんな当たり前もできなかった。
自分だけが、異物で偽物みたいだった。
ある時、下界での仕事がまた散漫な結果に終わってしまった帰り道。
自己嫌悪で朦朧とした頭のまま、へたくそに飛んでいた天使が見たのは、渓谷から打ち上げられる、自分の頭上にあるのとそっくりな形をした花火。
光に釣られる蛾のようにふらふらと町を覗き込むと、燦々と見える、蝋燭と花火の輝き。それに、天使は憧れた。
「特別、悪魔に憧れていたわけじゃない。天使が嫌いになったのでもない」
嫌いなのは、いつも仲間外れの自分だけ。
「けど、その光はあまりにも雑多で、眩むほど綺麗だったから。自分のような仲間外れがいても、誰も気にしないだろうって」
清潔で、整然で、純白な天界に、自分はいられないと思っていた天使にとって、町の煌びやかさに憧れた。ただ、悪魔になれば町にいられるから、悪魔のふりをしたのだ。
「−――――」
長い夢を見ていたことを、彼女は痛みとともに自覚する。そして、自分がいつの間にか渓谷の底まで落ちていることに気がついた。
星の光も届かない暗闇の中、体が冷たくなる喪失感だけを味わう天使は、そこで、先ほど見ていた回想が走馬灯であることも理解した。
指先が泥に沈む。羽根の感覚は、もう分からない。
最後に見えたのは、輪の花火。
遠く、頭上で炸裂し、空に大きな円を描いた。
その光に照らされて、自分の姿が浮かび上がる。
羽根は泥まみれ。輪は色を失い、薄くなっていく。
「…そう、だよね。天使だって気付かれちゃいけない、から、ずっと飛ばないようにしていた、のに、今日だけ上手く飛べるわけ、ないよね」
町に来てから少しはうまくやってきたつもりだったが、結局は何もかも夢。
最初から最後まで、間抜けな仲間外れ。天使にも悪魔にもなりきれない半端者。
血と涙で滲んでいく視界で、彼女は自分の遥か上で打ち上げられたリングの花火を見上げた。
花火の明かりに照らされ、彼女はようやく自分の体を眺めることができた。純白の羽は泥と土に揉まれてどす黒くグジャグジャ。光輪は消えかけの篝火のようにチカチカ。
けれど、彼女は嬉しげにはにかんだ。生涯の夢が叶ったかのように。
消えゆく意識の最期になったのは、手を繋ぎたくても繋げなかった彼の背中。
「やっと・・・お揃いになれたよ、真っ黒の、羽」
輪が、消えた。
夜空にはまた、新たな輪の花火が咲いていた。