5月某日、具体的に言えば連休とは名ばかりの4割が普通の平日だった、食べ物に例えるならば口に入れて「クチャッ♡クチャッ♡」と人によってはやや不快感を覚えないでもない柔らかいテクスチャを持つ食品特有の咀嚼音を辺りに木霊させながら噛むこと数分、最初は強い風味で我々を悦ばせた糖衣の甘みもなりを潜め、旨みが感じられるようなそうでもないような微妙なフェーズに差し掛かってきたガムのような満足感だったゴールデンウィークもとうに終わりを告げ、5月もいよいよクライマックスを迎えようかという五月三週目の昼下がりのことだった。
大した旨みもなかった連休だったにもかかわらずしっかりと生活リズムをぶち壊した結果、「ずぶッ♡ずぶッ♡」と五月病に片足を突っ込んだような生活を送っていた私は、今日も案の定大寝坊をしてしまい、本来朝早くから授業があったはずのところ、最後のコマの授業だけでも受けるべくしぶしぶ昼から家を出、こうして昼下がりのうららかな日差しの下、電車を待っているのであった。
前言撤回。全然うららかではない。慎ましくもたおやかに流れていた春を、せっかちにも横から原付バイクでかすめるようにして追い越し、そのままでっちりと居座り始めた脂ぎった夏は、さっそく自身のそのド厚かましいまでの暑苦しさ、輝きを、何年も前に卒業したくせにたびたび母校を訪れては年下の後輩たちを相手にイキるОB・ОGのごとく振りかざさんとしていた。
まだ5月のくせに、なんでこんなに日差しがきついのだ。イライラする。
そんなことを考えながら、ぼーっと向かいのホームを眺めていた。
高校生たちが楽しげにしゃべりながら、ぞろぞろと降りてくる。
自分にもあんな風に青春を謳歌できるルートがどこかにあったのかもしれない。どこにあったのだろう。何を間違ってこうなったんだ。わからない。チクショウ。チクショウ。
暑さとコンプレックスが最悪の業務提携をはじめ、いよいよ嫌になってきたそんなとき。
「できたて🌫️✨の!!!!!!!アップルパイ🍎🥧はいかが!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?」
突然そんな声が聞こえた。
振り向くと、背後にはおばさんが立っていた。背丈は180cmはあろうか、ガタイもかなり良い。自己流のおしゃれに目覚めた女児のような奇抜な色と柄のファッションを妙にしっくりと着こなし、この世の穢れをまるで知らないようなきれいな瞳で、こちらをじっと見つめてくる。そして繰り返す。
「できたて🌫️✨の!!!!!!!アップルパイ🍎🥧はいかが!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?」
意味が分からなかった。
まずこのおばさんは誰だ。同じ時間の電車に乗り込まんとしているのにはまず間違いないのだが、話しかけてくる意味が分からない。ひょっとして、私が忘れているだけで知り合いなんだろうか。否。私の知り合いにこんな人はいない。というか私には知り合いも友人もほとんどいない。並の避妊具になら余裕で圧勝できそうなほど薄い私の人間関係を侮ってはいけない。
というか、さっきから何度も繰り返し叫んでいるが、「できたてのアップルパイ」とは何だ。
私はアップルパイが好物だ。市販のものは進んで買うし、自分でも時々作って食べる。だから、「できたて」という言葉はこの状況下以外でならとてつもなく蠱惑的で強大な引力をもってして私をレジあるいは売り場へと誘ったことだろう。 しかし、今の状況はどうだ。ここは駅のプラットフォームで、大声で一定のワードを叫びつづけるおばさんと一緒である。
確かに、おばさんは両手にラップにぐるぐるに包まれた何かを抱えている。見たところ本当にパイ生地様の何かである。 しかし、ラップにこれでもかと厳重に包み込まれたそれは、見たところ作られてから結構な時間が経過しており、中のフィリングの水分を吸ってしまったのか、心なしかくたっとしてしまっている。そのせいか、形もいびつで、「できたて」然としたホカホカと温かな湯気も、香ばしい香りをあたりに漂わせんとするようなあの初々しさも、驚くほどに全くない。少年の心をすり減らし、身も心もすっかりくたびれた老人のような有様のアップルパイ。
特に「できたて」というわけではない以上、「できたて」という連体詞を使うのはどうなんだろう。そこはせめて
「アップルパイ🍎🥧はいかが!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?」
とするのが妥当ではないだろうか。
もしかすると、このおばさんは何らかの文法にのっとって言葉を紡いでいるのかもしれない。
あっ、まさか、「できたての」は「アップルパイ」という語の枕詞だったのか?「あしひきの」に対する「山」、「青丹よし」に対する「奈良」的な。
もしそうであると仮定したならば、この明らかにできたてではないアップルパイをつかまえて「できたてのアップルパイ」と称しているのにも納得がいく。
高校時代、もっとまじめに古典の授業を聞いておけばよかった。
まともに授業を聞かず、電子辞書で下ネタ英単語ばかりを探して遊んでいた自分が心底恨めしい。一丁前に文学部の学生として大学に入学したくせに、古典の文法なんかろくすっぽ覚えちゃいない。
入ったゼミも資料をすべて作ったのに発表本番に欠席してしまい、留年とマッチレースを演じる羽目になる可能性に怯えている。
なぜ自分はこんなにダメな人間なのか。数年前まではいくらかマシだったのに。
あぁ、苦しいなぁ。何もかも投げ出してどこかに遁走してしまいたい。
そんな風に自己嫌悪に苛まれつつある私を尻目に、なおもおばさんは繰り返す。
「できたて🌫️✨の!!!!!!!アップルパイ🍎🥧はいかが!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?」
おばさんが腹から声を出すたびに、彼女の身体を包む豊満な肉衣がプルリン、プルリン、と上下左右に楽しげに踊る。そしてそれに連動して、おばさんが着ている鮮やかな濃いピンクのTシャツの生地の上に田舎の年末年始の親戚の集まりもかくやというほどギチギチに密集する形でプリントされた猫たちの顔が一斉にクシャッとひしゃげる。 あたかも笑うことを強要されているかのように。
紙幣に印刷された偉人の顔を、紙幣をうまいことひしゃげさせて無理やり笑ったような顔にするというネタがある。紙幣の偉人たちは画一的に横にひしゃげるのでじわじわとくる面白さがあるが、Tシャツ上の猫たちは実際の猫よろしく、四方八方にてんでバラバラ勝手気ままにひしゃげるため、面白くはない。多様性は時として面白さを犠牲とするのだ。
リンゴといえば、高校時代一時的に友人だった彼女はいま元気にしているだろうか。彼女はよくリンゴをモチーフにして特徴的なタッチのイラストを描いていた。
私はとうとう最後まで彼女の絵のタッチのとりこになることも、彼女の価値観に共感を寄せることもできなかった。
彼女と疎遠になってから、なんとなくリンゴを見ると彼女のおぼろげな残像(具体的な顔つきはもうほぼ覚えていないので、全体的な背格好や髪形などのざっくりとしたイメージ)が脳裏をよぎり、妙に居心地が悪いので食指が遠のいてしまった。
皮をむくのも面倒だし、何よりフルーツは高い。 そうこうしているうちにも、なおもおばさんはしつこく叫び続ける。
「できたて🌫️✨の!!!!!!!アップルパイ🍎🥧はいかが!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?」
「できたて🌫️✨の!!!!!!!アップルパイ🍎🥧はいかが!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?」
最初は清廉で美しく見えた瞳も、今は若干充血して赤みを帯びてきている。血走った眼をこれでもかと見開き、同じ文言を壊れたスピーカーのようにしきりに繰り返す。なぜこの人はこんなに必死なんだろう。
先程も言ったとおり、アップルパイは好きだ。しかし、今回はその限りではない。
手作りのアップルパイ。赤の他人の手作りのアップルパイ。
小生意気に聞こえるかもしれないが、私には若干潔癖症の節がある。なので、あまり人が手づから作ったものを食べたいとは思わない。
友人が作ったものなら食べるが、今回はどうだ。赤の他人の作である。嫌すぎる。絶対に食べたくない。できたてじゃないし。
断ろう。
かといって、相手は体格に恵まれた得体の知れないおばさんだ。きっぱり「いらないです」などと言って、激昂して襲い掛かられでもしたらたまらない。
そして場所が場所だ。あと十センチもないようなところに線路がある。もみくちゃにされた弾みに転落したら大変だ。なので努めて穏便に断る。
そうだ、もうあと数分もすれば電車も来る。それに、電車の車内で何かを食べるのはマナー違反だったはずだ。しめた。断る口実の確変状態である。助かった。
意を決しておばさんの方をしっかりと向き直り、口を開いたその刹那。
「ちょっと🤏いいトコ☺見てみたい👀!!!!!!!!!!!!!!!!ソレ‼️イッキ!!!!!!!!!!イッキ!!!!!!!!!!!!」
なんとまあ強引な。
断られることを事前に雰囲気で察知したのか、なんとおばさんは先制攻撃といわんばかりに目にも留まらぬ物凄いスピードで異様に頑強そうに見えた厚いラップの装甲を素早く剥がし、少し開いた私の口に、おもむろにふにゃふにゃのアップルパイをねじ込んできたのであった。
とっさに口を閉じ、すでに口に入ってしまった分はともかく、それ以上のおばさんアップルパイの侵入を防ぐ。自分を支えるおばさんの手を失い、私の口にも侵入を拒まれ、行き場をなくしたアップルパイたちが、「ぐちゃっ」とも「べちゃっ」ともつかない情けない音を立てて地面に落ちる。
ぬちゃり。
口を閉じることで口腔内へのアップルパイの侵入を最小限に食い止めた私であったが、あろうことか無意識にそれらを咀嚼してしまった。
サクッ、フニャリ。
やはり何とも言えない微妙な食感。
しっかりと焼き上げられ、きつね色になったパイ生地は、でき上った当時はさぞかしさっくりとしたテクスチャをしていたのだろう。表層こそ当初のさくさくとした質感を保っていたものの、やはり中核部に近づけば近づくほどフィリングの汁気を吸いに吸い、フニャフニャとした質感へと変貌を遂げてしまっている。しかし、意外と悪くない。
外側を覆うパイ生地は、どうしても甘いフィリングと比べて少し味気ないと感じられがちであるが、時間の経過とともにじっとりとフィリングの甘い汁が染み込んだ結果、パイ生地が本来持つバターの香りと風味にフィリング汁の甘みが相まって癖になるおいしさを作り出している。
つゆだくパイ生地の立役者である「このパイ生地の規模に対してこのフィリングの量はさすがに...」と飽和を心配せざるを得ない、宇宙世紀ならば間違いなくコロニー移住計画が立案されていたであろうと思われるほどぎっしりと詰め込まれたフィリングは、煮詰められる過程でしっかりと過熱され、かつオーブンでさらに火を通されたはずなのに、しんなりとした中にまだどこかシャキシャキとした歯ごたえを残した不思議な食感をしている。味付けも、レモンの酸味がよく効いており、フィリングがただ甘ったるく、くどい味わいになることを防ぎ、絶妙な甘酸っぱさが後をひくおいしさとなっている。
隠し味として加えられたシナモンは、その特徴的な香りが人を選ぶが、このパイのシナモンはやたらと自信の存在を主張しすぎることなく、ちょうどよい塩梅で悠然とパイの中に一介の構成員として馴染み、主役のリンゴを邪魔することなく献身的にサポートに徹している。
おいしい。おいしすぎる。
不本意とはいえ一口食べただけでこの衝撃。私はすっかりこのパイの虜となってしまった。いったいどんなレシピで作られているのか。知りたい。そのためにも、もっと食べたい。
思わず先刻地面に落としたパイに手が伸びそうになる。 しかし、ここではっと我に返り、おばさんの方を仰ぎ見る。おばさんは、微妙なほほえみを浮かべながらこちらをじっと見つめている。 そして、どこから取り出したのか、手には、また、ラップ、に、ぐるぐるに、包まれたアップルパイを、持っている。 かばんも何も持っておらず、明らかに手ぶらだったのに、本当にどこから出したんだ。奇妙だ。
まあそんなことは今はどうでもいい。今はただあのアップルパイのおかわりが欲しい。あまりにも欲しすぎる。もう一度、いや、今度はしっかり丸々1個きちんと味わい尽くしたい。
おばさんのアップルパイが、欲しくてたまらない。食べたい。今すぐに。あのくったりとして、どこかけだるげな雰囲気を醸し出す連休明けのような食感のパイ生地を歯で食い破り、その胎中にぎっしりと詰まった他人の学生時代の恋愛エピソードのごとく甘酸っぱいフィリングを汁一滴も残らぬ程、食べて、食べて、食べて、味わい尽くしたい。
どこか恋に似た強烈な感情が、私の心の1Kトイレ風呂別家電付きの六畳間を瞬く間に埋めていくのが分かった。
「スゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ……」
そこそこの厚みのあるボール、例えるならばバランスボールから空気が抜けていくときのような、なんとも名状し難い音をたてて、おばさんが息を吸い込む。また例のセリフを叫ぶのだろう。息を吸っているはずなのに空気の抜けるような音が出る。これ如何に。
おばさんが口を開く。
「でk」
「いる!!!!!!!!!!!!!!!!」
先ほどの意趣返しも兼ね、強引におばさんの手からラップにくるまれた「それ」をふんだくる。
荒々しく包みをはぎ取ろうと頑張る。どんな包み方をしてるんだか、面白いほど包みが剝がれない。しばらくパイのあちこちを触り、ラップの切れ端探しに邁進したが、どうにもならない。おばさんはあの短時間で何をどうしたんだろう。
仕方ないので、表面のラップを無理やり歯で食いちぎる。当然だが、ラップは味がなく、まずい。手が唾液と吐き出したラップのカスでべっとりと濡れる。実家で買っていた猫は、よく家族がもらってきた頂き物の甘いお菓子を人目につきにくい場所に持って行ってはフィルムごと噛みしだいてお菓子をめちゃめちゃにしていた。今なら彼女の気持ちが少しわかるかもしれない。
おばさんは、感情の読めない微妙な微笑みをたたえてこちらを見ている。 もう顎が疲れてきた。疲れによって、空前のパイブームの熱から少し目覚める。
そういえば、自分は『赤の他人の手作りなど論外、死んでも食べない』というポリシーの人間だった。 それがなぜ、こんな得体のしれないおばさんのアップルパイによって何かに取り憑かれたようになり、躍起になって表面のラップを食いちぎっているんだ? そんな疑問がふと脳裏をよぎり、なんとなくアップルパイから視線を上げ、おばさんの方を見る。
おばさんは、相変わらず感情の全く読めない微妙な微笑みをたたえてこちらを見ている。
一瞬、おばさんの体が大きくつぶれ、横に長い大きな楕円形になったように見えた。
突然のことに驚き、思わず二度見した。 しかし、おばさんは先ほどと全く変わらぬプロポーション、たたずまい、表情をもってこちらを見つめている。
どうやら気のせいだったようだ。
やっとの思いで表層のラップに穴を穿つことに成功した。空いた穴に指を突っ込み、力任せにラップ引きちぎる。そのはずみで、パイ生地が敗れ、中身がこぼれる。
あぁっ!しまった!急いでまろび出たフィリングを啜りつつ、押し広げた穴からパイを齧っていく。
五百円玉くらいのサイズの穴しかあけられなかったため、小出しにしか食べられないのがもどかしい。少しずつフィリングを啜り、外側のパイ生地を食べながらラップを引きちぎっていく。
そんなこんなで、なんとかパイを食べ切った。結局フィリングの方を先にあらかた吸い尽くしてしまい、申し訳程度に残った汁を頼りに残ったパイ生地を食べる羽目になった。もっときれいに食べたかった。味わい尽くすつもりでいたのに、これではまるでダメだ。
ままならないなあ。汚い大きな穴の開いた、パイ生地の残ったのがこびりついた唾液まみれのラップの残骸を見ていると、自分の人生の縮図を見ているようで、胸が悪くなった。
気分が下がるとともに、徐々に先ほどの自分の行いに戦慄する。
ラップを...???????食いちぎった...!?!?!?!?!?!?
最悪だ。あのおばさんがこれまで何を触ってきたのか分かったものではないのに。トイレに行った後きちんと手を洗わない、あるいはきちんと手を拭かずに自然乾燥に任せるタイプかもしれないのに。 それだけではない。奴(やっこ)さんがこのパイを作った調理場の衛生状況も未知数だ。仮に手が清潔だったとしても、ラップを敷いたテーブルあるいは調理台がきれいだったという保証はない。そんなラップを、私は、私は。
さらに気分が下がる。 というか、私がこの一連のアップルパイ騒動に巻き込まれてからかれこれ小一時間は経過しているはずだ。それなのに、電車はおろかほかの乗客がやって来る気配すらない。いったい何なのだ、この状況は。
先ほどのアップルパイの件も相まって無性に腹が立ってきて、前に立っているはずのおばさんを睨みつける。
おばさんは、相変わらず私の前に立っている。 しかし、何かがおかしい。
おばさんの表情は、先ほどから全く変わらず謎の微笑のままである。しかし、彼女はあたかも風にあおられててんやわんやする凧のごとく、上下左右に激しくビヨビヨと体を震わせていた。
えぇ、急にどうしたんだろう。倒れられたらどうしようかしら。
そんなことを考えながら観察していると、突如おばさんの謎の挙動がぴたりと止まった。
そして、まっすぐこちらを見据えながら、タガが外れたラジカセのように
「生体認証、成功!プログラムを起動します。」
という文言を繰り返し始めた。
あぁ、もう最悪だ。授業にも間に合わないし、変なおばさんに絡まれて得体のしれないパイを食わされるし。もしここが異世界、かつ「黄泉(よもつ)竈食(へぐい)」が適用される場所なのだとしたら、私はパイを食ったからその時点でアウトなんだろうな。あーあ。まあいいや。そんなはずないし。帰ろう帰ろう。バカバカしい。
そうして踵を返しておばさんに背を向けようとしたその時。
あかいりんごにくちびる寄せて♫ だまって見ている青い空♪
背後で、突如爆音の「りんごの唄」が流れ始めた。音がデカすぎて、盛大に音割れしている。ガビガビの音質が、聞くに堪えない。
びっくりしておばさんのほうをふり向くと、おばさんは歌に合わせて徐々に姿を変えていた。
縦にも横にも雄大だったおばさんの肉体は、横の大きさに特化するかのようにゆっくりと1/2ほどの高さを失ってゆき、やがてデカいベイブレードのような形になった。
そして、デカいベイブレード状のフォルムへと変化を遂げたおばさんは、手足をどうやったのか胴体のどこかへしまい込み、その姿のままWordに挿入した画像の大きさを変えるがごとくスルスルと巨大化していった。「りんごの唄」一番が流れ終わるころには、おばさんはちょっとしたハイエースぐらいの大きさになっていた。
そう、もはや彼女はデカいベイブレードなどではなかった。れっきとした未確認飛行物体、「UFО」に成ったのである。
人型だったころに着ていたTシャツの色に準拠してなのか、ボディの色は目がチカチカするほどけばけばしいショッキングピンクに塗られ、おばさんの頭頂部には猫耳が生えていた。
いや、頭はしまわねーのかよ。てか、そこはリンゴのヘタとかじゃねーのかよ。 と思いながらのんきにUFОおばさんを眺めていた私は、この時UFОおばさんが絶賛私を自分の乗り手として起用しようとしているとはつゆほども気づくことができなかった。
私はスマートフォンを構えて何枚かの写真と動画を録りつつ、変わっていくおばさんを見て、「スピードも曲がりやすさも低そ~...(笑)😓」などとマリオカートの観点から彼女を偉そうに評価していた。ちなみに、依然頭はむき出しのままだった。頭を守らなくていったい何を守るんだろう。
そんな考えが伝わったのか、それともたまたまなのかは分からないが、ちょうど変化を一通り終えてホカホカの新車UFОと化したおばさんと目が合ってしまった。
おばさんは人型だった頃とうって変わって、異様ににこやかに、そして豊富な語彙を手に入れたと見えた。
新車UFОおばさんは、私を見つめてからニッと笑い、
「ワシが、令和の、リンゴスターじゃい!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
とひと声叫んだかと思うと、かつて腹部だった部分に新設されたハッチを勢いよく開いた。
勢いがよすぎて、ハッチは盛大に地面にぶつかり、鈍い音を立てた。プラットフォームのコンクリートの地面に、大きく縦にヒビが走る。おばさんは苦悶の表情を浮かべている。
よっぽど痛かったのか、ここでようやくおばさんは猫耳の付いたファンシーかつ奇怪な頭部を、ニュルリと亀が甲羅に頭をしまい込むかのように胴体に格納した。 残ってんだ、痛覚。マジか。
開いたハッチからは、背丈120cmほどのおびただしい人数のミニおばさんが走り出てきて、私はすっかり囲まれてしまった。 おばさんたちは口々に
「Apple Payで払います!!!!!あッ!ポイントカードありました!!!ポイントをつけてください!!!!!!!」
「売掛金を回収するとき、売掛金の項目は貸方に移動するわよ~ん♡」
「波動を浴びてオーラを浄化しましょう🌳」
「『蜜入り』ってなんかエッチな響きですよね。。。」
「エェ~ッッッ!?ディズニー行ったことないのォ!?!?絶ェ~ッ対人生損してるよォ~~~~~~~~!」
「便蓋の男、便GUY」
「アラアラ、🤭🤭🤭🤭🤭カワイイ猫ちゃん💖🐱うちの子🐈かと思っちゃいました(笑)😆😆😆😆😆😆😆😆(何も似ていない猫の写真を掲げながら)」
ざっと聞き取れたものだけでもこの調子。どのミニおばさんもめいめいに自分が話したいことだけを口々に話している。フリーダムすぎる。何しに出てきたんだよ。
「やかましいっ!お黙り!!!!!!!」
ミニおばさんのボスと見える、根元まできれいに染め上げられた暗めのブラウンの髪を緩く巻き、胸元のやや開いた、高価そうな白っぽい花柄のワンピースを身にまとったミニおばさんが怒号を上げる。
ミニおばさんの織り成すカオスが、一瞬にして終焉を迎え、辺りには水を打ったような静けさが広がる。静かだ。宇宙はきっとこんな感じに違いない。
静まり返ったミニおばさんの群衆の間を、高いヒールのカツカツとした神経質そうな音を高らかに上げながら、つかつかと元締めミニおばさんが歩み寄ってくる。ディオールの香りも近づいてくる。
元締めミニおばさんが口を開く。
「お見苦しいものをお見せしちゃってごめんなさいね。それはそうと、あなたに少しお話があります。」
「は、はぁ...」
「単刀直入に言うわね。あなたはこの女型飛行船『須田久醬穂(すたーくじゃんぼ)』のパイロットに選ばれたの。あなたには、これからこの須田久醬穂に乗って全国津々浦々でのアップルパイ配布業務に従事してもらいます。」
「えっ」
「驚くのも無理はないわね。ごめんなさい。でも、あなたにしか頼めないの。これは、私たち『(株)улыбка☺Applepieカンパニー』地球事業所日本エリアの進退をかけた一大プロジェクトなの。私たち、営業として地球に配属されてきたんだけど、ほら、私たちってこの通り地球人の基準に照らし合わせたらちょっと、いいえ、かなり小柄じゃない?ここに来た数年は私たちも交代で営業業務にあたってたんだけど、やっぱりこの体躯と言葉の壁に阻まれて、実績を積むことはおろか、通報されること幾度。ついに私たち全員が地球人に「地域のヤバいおばさん」のレッテルを貼られてしまって、人に声をかけることすら憚られる状態に陥ってしまったの。だから、ここ1,2年は本来飛行船としての勤務だった須田久さんに無理を言って日本語を勉強してもらって、営業に回ってもらってたんだけど、須田久さんったら、めんどくさがって営業の定型文しか覚えなかったのよ。ホントやんなっちゃうわよね。」
「えぇ」
「で、ついに須田久さんにも徐々にヤバおばさんのイメージが付き始めちゃって、もうどうにもなんないから、あたし達言ったのよ、「アップルパイが好きそうな人が来たら、その人をスカウトして業務を手伝ってもらいましょ!ヤバいおばさんばっかりじゃらちが明かないわ。ネイティブの力が必要よ!」って。」
「で、私が選ばれた、と。」
「そういうことになるわね。」
「あの、パイロット、要るんですか?皆さん、大勢いらっしゃるんですから、誰かしら操縦できるでしょ。私、免許持ってないですし。というか、私は学生です。あと最低でも2年、大学に通って所定の単位を取得する責務があるんです。その責務を放棄してまで、あなた方の抽象的な業務の手助けをする気には到底なれない。どうか考え直してはくれませんか。「アップルパイ好き」が選考条件なのなら、私よりももっとマジな人はいるはずです。もう一度、じっくりと真剣に選考し直すべきです。」
「言っていることは至極全うだわ。でも安心してちょうだい。この『須田久醬穂』には免許の概念はないわ。厳密にはあるけれど。この星の規定に沿えば無いようなもんよ。あとは時間の概念についてだけれど、あなた、さっきから2時間以上電車が来ていないのには気づいているわよね。」
「えぇ、はい。」
「つまり、そういうことよ。この女型飛行船『須田久醬穂』に接触している間は、時間の流れは地球の1/1000000、つまり、もし仮に3日間こうしてくっちゃべってたとしても、現実時間だと1秒経ったかな?ぐらいにしかならないってこと。」
「なるほど」
「もうすぐうちの専属パイロットをしてくれてた大林さんが任期満了で本国に帰っちゃうのよ。新しい人が派遣されてくるらしいんだけど、こっちに着くまでに2週間ぐらいかかるらしいのね。だからせめて、せめて2週間、14日間だけあたしたちを助けてちょうだい。現実の時間の流れに換算すれば、だいたい103秒、1分43秒ってところよ。どうかしら。あなたさっき一本電車逃したから、次のが来るまで15分はあるわよね。今までに経過した時間を合算しても、全然次の電車に間に合うわ。」
「なるほど。」
「風呂トイレ洗濯機完備よ。元の時間に戻った時に電車でスメルハラスメント爆弾になる心配はないわ。」
「ちなみに、14日間の間に発生する給料とかは...」
「えっ...あ~...時給2000リンゴでお願いするわ。」
「え、リンゴ、ですか?JPY、ではなく???」
「うち、日本円持ってないのよ。ごめんなさいね。」
「お断りします。」
「えっ?」
「お断りします。」
「え、そんなぁ!どうして!?2000リンゴって、めちゃくちゃ高時給よ!?!?」
「いや、そちらの星ではそうかもしれませんけど、貨幣はおろかとても消費できない量の生の果物を大量に渡されて、2週間も実質無償で拘束されるなんて、労働力の搾取でしょう。嫌ですよ。勘弁してください。」
「ぐぬぬ」
「ぐぬぬじゃないですよ。もう行っていいですか。」
「…」
「まだ何かあるんですか?」
「ワsdfhygtジュhクlジイイイイ!!!!!!!!!!!!!!!!!!;レtrytフyギウjbvhgchfxhbyd!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!(うるせーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!!黙って乗れええええええええええええ!!!!!!!!!!)」
元締めおばさんがついに本性を現した。ゆるく巻いた髪を連獅子のごとく振り回し、意味不明な言語をもってこちらに飛び掛かってくる。
ボスの声に呼応するかのように、下っ端フリーダムミニおばさんたちもわらわらと私にまとわりつく。
あっという間に全身をおばさんに包まれ、あれよあれよとおばさんUFО、もとい『須田久醬穂』に運び込まれてしまった。
須田久醬穂の船内は、シャネルの香りがした。元締めはディオールの匂いなのに。なんで?
内装は、恐らく元締めミニおばさんの趣味なのだろう。白や花柄を基調としたおしゃれな家具に統一されていた。部屋の中央に据えられたガラス張りのローテーブルの上には、Wiiのマリオカートのコントローラーのような形状の環状の物体が置かれてある。え、マジでマリオカートなの?てか、コクピットこれ?ただのリビングじゃない。もっとロボットアニメ然とした感じを期待していたのに。
それはそうと、これはえらいことになった。
得体のしれない薄めた「精神と時の部屋」みたいな元おばさんUFОに連れ込まれてしまった。
そして、何よりも問題なのは、「私はマリオカートをほぼやったことがない」ということである。
下手したら墜落させてしまうかもしれない。何てこった。
いや、待てよ。これはチャンスだ。
この「須田久醬穂」にはおそらく五感がある。三半規管の機能も恐らく残っているだろう。そこにつけ込もう。
ふうふうと息を切らせた元締めミニおばさんがやってきて、再び話し出す。
「取り乱してしまってごめんなさい。でも、本当に困っているの。わかってちょうだい。さあ、そこのソファに座って、ハンドルを握って。とりあえずこのプラットフォームから出ましょう。ホラ、早く。」
至極強引かつ手前勝手な態度にたいへんイライラするが、とりあえず従う。
ソファに腰掛け、コントローラーを手に握る。テーブルの前の壁に設置されたデカいモニターには、見慣れた地元の駅前の景色が映る。
Aボタンを押さえる。
ふわりとした感覚とともに、須田久醬穂が地面から浮上した。十字キーの上部分を押しながらプラットフォームの屋根すれすれのところを潜り抜け、ロータリーへと滑り出る。
見慣れたはずの駅前ロータリー。上から見るのは新鮮だ。
すぐに地上に戻らん事を。
覚悟を決め、コントローラーに備えられたありとあらゆるボタンをガチャガチャと押しまくる。Lボタン、Rボタン。BボタンにXボタン。それはもうガチャガチャと。
私がめちゃくちゃにボタンを押すたび、須田久醬穂は大きく揺れ、無意味にくるくると旋回してみたり、上下に浮いたり沈んだりする。
「えっ!?ちょ、ちょっとあなた、やめなさい!」
元締めミニおばさんが叫ぶ。
「須田久さんが酔っちゃうでしょ!やめて!」
構うものか。続ける。
「お願いだからやめてってば!ねえ!」
おそらく須田久さんのものであろうと思われる「うっ」といううめき声がどこかから聞こえる。もう一押しだ。
「ちょっと大林さん!大林さーん!もう操縦替わってやって!この人に操縦任せらんないわ!」
「大林さん」と呼ばれたミニおばさんが走ってくる。急がないと。
その時。
コクピットとは名ばかりのエレガントな白まみれのリビングが、突如 赤、ピンク、黄色、緑、水色、青、紫の極彩色に順番に照らされていく。須田久さんにはいよいよ限界が来たようだ。異常や危険を知らせるためのものなのに、ランプの色がポップすぎる。
「エラーコード:吐き気 ハッチを開きます。」
「ううううううう…..」という苦しげな声とともに、「ハァ、ハァ」と苦しげな喘ぎ声が聞こえる。心なしか、船内が寒い。冷や汗をかいているのだろうか。
そして、ついに。
キュルキュルキュルキュル……
ちょっと調子が悪い時の自転車のような音を立てながら、ハッチが開く。今だ。
コントローラーを地面に投げ出す。ボッという音とともに、投げ下ろされたコントローラーが床に着地する。幸いなことに、ふかふかのじゅうたん張りの床がコントローラーの破損を防いだのだ。周りにいるおばさんたちを肩で突き飛ばし、足を踏みつけながら、出しうる限りのスピードでハッチへ向かう。
「ういjgfghcbgんvbkjふ、ぴおぃkjghfgんbfv!!!!!!!!!!(おい何ボサッとしてんだ、捕まえろ!!!!)」
私のタックルをもろに受け、尻もちをついた元締めミニおばさんが金切り声を上げる。 しかし、墜落の危機と突然の捕虜の蛮行に慄き、呆気にとられた下っ端ミニおばさんたちはフリーズしてしまい、動かない。
難なくハッチの前までたどり着けたが、ここで重大な問題に気付く。 パラシュートが、ない。 頭に「転落死」の3文字がよぎる。しかし、ぐずぐずしていたらまた捕まってしまう。
ええい。ままよ。 意を決して飛び降りる。体がフワッと宙に浮き、内臓が跳ね上がる。あぁ、こりゃ死んだな。
ガタガタガタッ!
自分が発した騒音に驚き、目を覚ます。
辺りを見渡すと、周囲の学生が怪訝な顔でこちらを一瞥し、また各々の作業に戻っていった。
そう。ここは塾の自習室。私は、いつの間にか眠ってしまっていたようだ。よかった。私は堕落した大学生などではなく、謎のおばさん集団に拉致されかかってもいない。まだギリギリ夢と可能性にあふれた高校生だ。二重に嫌な夢を見ただけだった。助かった。
いやはや、妙な夢を見たものだ。 すっかり気まずくなったので、続きは家でやろうと荷物をまとめ、自習室を出る。
塾の受付に立っていた塾長に軽く会釈をし、塾を出る。
帰路につき、自転車を走らせること10分。右手に、シャトレーゼが見えてきた。アップルパイを宣伝するのぼりが風に吹かれてひらひらと踊っている。
そういえば、久しくアップルパイを食べていない。久しぶりに食べたいなあ。
学生の少ない所持金では、アップルパイ一つ買うにも結構な躊躇を要する。あーあ。ひもじ~い。 そう思いながら、のろのろと自転車を走らせる。
家まではあと5分。
トイレに行きたい。