薄暗い使われていないだろう部屋。恐らくは離婚した夫が生活をしていたその部屋の奥の隅。本が山積みになった空間の隅、金庫ほどの空間に少女が一人で蹲っていた。
その痩せ細った小さな体躯を、更に小さくして、誰にも見つかるまいとするようにそこにただ存在していた。小さく揺れる肩と震える手足は彼女の弱さを無情にアピールしている。
私が他の職員を制して、目の前に屈んだとき、彼女は身体の震えをより一層強めた。まるで自分が認知されることを恐れているように。
彼女が頭を持ち上げ、その双眸がこちらを向く。空虚な眼だった。私はふと兎を思いだす。
アリスと名付けられたその兎は私の通った小学校で飼われていた。真白でふわふわとした体を私たちに寄せて眠る、可愛らしい兎だった。
或る日、同級生がアリスに餌を与え忘れた。確かサッカーかバスケットの上手い彼だった。そいつは担任からこっぴどく怒られたが、次の休み時間には元気に校庭でドッジボールをしていた。それを眺めながら、私はアリスに餌を与えにいった。弱りきって隅で横になっているアリスの身体は生命の器にしては些か小さいように見えた。
私は少女の隣に座った。おもむろに、アリスにしていたように背中を撫でた。自分の掌より少しだけ温かい彼女の身体も器としては小さいようだった。
上司に少女の存在を報告するととりあえず連れてこいとのことだった。警察は向こうで呼んでくれるらしかった。
同僚が少女を乗せるための車を取りにいっている間、彼女を撫でていた。名前を千紗ということは、さっきの上司との会話で聞かされていた。「千紗」と呼ぶと、彼女は幾分か警戒を解いてくれたようで他の幾つかの質問に答えてくれた。身長に対して長すぎる程の後ろ髪を眺めながら、考え事をしていた。
彼女はどれほどの間一人だったのだったのだろうか。どんな思いでここにいたのだろうか。
*
「すぐ戻るからね」
千紗はその言葉の真意を朧げに理解していた。もう二度と会えないであろうことは理解していたが、そのことを指摘するだけの胆力は彼女にはなかった。母との別れは純粋そうな子どもを演じる他なかった。
学校を休んだ日、千紗は父の残していった本を読んで日々を過ごしていた。彼は本をコレクションだと思っていたのか、様々な本を自室の床に積んでいた。その山の中から彼女は面白そうな本を幾つか取り出して、リビングのソファに座って読んだ。彼女は様々な家庭のテンプレートをその中で吸収した。母との別れはその数あるテンプレートの一つだった。そして最も嫌いなものだった。
幸いなことに父の残したコレクションの中にはレシピ本が含まれていた。このコレクションを正しく使えたら、父親は家にいられたのにと千紗は下手くそな料理をしながら思った。
父の部屋に並べられた辞書のカバーの中にへそくりが隠してあった。大切なものだから触れるなといっていたが、今となってはそれを咎める者はいない。使う方法もなく貯まるばかりだった小遣いが食費に潰えたので今後はへそくりに手を出す他なかった。
千紗の小遣いは父の財布から出ていた筈だった。母が私を棄てたことを父は知らない。きっと光熱費も未だに父が払っているのだろう。或いはまだ止められていないだけだろうか。
千紗の家は性別分業制が採られていた。
父は会社へ出て働き、給料の八割を家庭に納めていた。残りの二割は部下との飲み会や趣味に使われていたらしかった。それと千紗の小遣いも。
母はいつも父に文句をいっていた。家事が如何に大変であるかを語り、父親が手伝おうとしないことを非難していた。
数ヶ月もすれば千紗の生活はルーティンが出来上がり。幾分かの時間的余裕ができた。そういった自由時間、千紗は決まって父のコレクションを読んでいた。千紗はそのように本と触れ合う中で本来は親から学ぶべきことをそれらから吸収した。
そして、時々キッチンの隅で嗚咽した。
*
或る日、上司に呼び出された。曰く、私の担当するエリアに子どもが一人で住んでいるらしいとのことだった。結論こそいわないものの、こういうときは往々にして、見に行ってこいという意味であることを経験と教えから理解していた。
近年の複雑化する家庭の事情もあるために、あまり直接見に行けといってはいけない。と、やはり彼も更に上の上司からの教えらしかった。
私はまるで興信所のように、バレないように監視をする必要がある。それが寧ろ怪しいように思えてならなかった。周囲に相談するとスパイのようだと憧れられる。するとその瞬間は確かにそうだと、気分が良くなって、やっぱりこのままで良いやと思ってしまう。しかし、翌日になるとそれはただの興信所であって、スパイのする張り込みとは違うのだと気付く。
特に人通りのない道を歩いていると、私の存在が消えてしまうように思える。もしもここで急に倒れてしまったら、例えば心筋梗塞で倒れてしまったら、次に私を発見するのは誰だろうか。一人暮らしをしている、とても若いらしい少女だろうか。
だとしたら、それは私にとって、ミイラ取りがミイラになるみたいな、そんな話になるのかもしれない。それは少しだけ嫌だなと思いながら、道を進む。
彼女の住んでいるらしい場所は上京した苦学生が住むような見た目のアパートだった。しかし、それよりも少しだけ広いようだった。家賃は父が払っているとのことだ。それで何が問題なんですかと問うと、若すぎるのだといわれた。
一時間程家の前に張ったが、変化は何も無かった。メーターを確認するも動いていなかった。仕方なくインターホンを押すも音は鳴らず、私は誰もいないのだと結論づけた。
それから数ヶ月後のことだった。サイレンの音が煩いなと思いながら仕事をしていた。
突如として携帯に着信があった。近くで聞きなれない音楽が鳴ったと思ったら、私の携帯だった。それは重畳する書類の下敷きになっていた。充電器が刺さったままでよかった。
警察からだった。真面目そうな声だったが、ひどく焦っているようだった。息が切れていた。
曰く付近で強盗があったらしい。先ほどのサイレンはそれのせいかと腑に落ちた。でもどうして私に?
「実は容疑者には家族がおりまして、その子の所在がどうにも貴方の担当エリアらしいのです。」
「分かりました」
「え?」
流れるように電話を切ってしまった。内容を聞いていないことに気がついたのは、外に出る準備する最中のことだった。
インターホンを鳴らしたが、音は鳴らなかった。仕方なくドアを叩く。反応は無かった。小さな声で自己紹介をする。
「初めまして、助けに来ました」
空気が少しだけ変わったのは、後輩が笑ったからだろうか。
ガチャリと音がした。ドアを少しだけ開くと向こうへ走る人影が見えた。お邪魔しますと話しかけて、足を踏み入れる。
*
千紗の父親に電話をかけた。
黄昏どきくらいだった。何度かコールを繰り返して不安そうな女性が応対した。
千紗さんについて話がありますというと、微かに足音が聞こえた。暫くして思い出したかのように保留のメロディーが鳴った。
更に暫くして不機嫌な男の声に変わった。私が名乗ると向こうも不承不承名前を名乗った。当然であるが千紗と同じ苗字だった。
「娘さんのことでお話が」
「あー、好きにしてください」
「奥様と生活をされていたようですが」
「あー捕まったんですよね」
「えぇ、それで」
「好きにしてください」
「……え?」
「だから、好きにしてください」
それだけいうと、ツーと音がした。通話を切られたようだった。
あぁ、駄目だったな。
*
ここでの生活にも慣れてしまった。私のかつての生活はここでは重宝されるようだった。頼られたことで友達も何人かできた。あの生活も悪くなかったと思える。パパには助けられてばかりだ。けれど、多分、今の方が幸せだと思う。それに、私はどこかでどうしようもないことを悟っていたのだ。
私は自分でもどうして鍵を開けたのか分かっていなかった。だから、ガチャリという音が聞こえたとき、私は自分でも驚いた。そうして、反射的に部屋に戻っていた。バレない筈がないことは分かっていた。けれど、私は隠れてしまった。
怖かったのか。
或いはこの八方ふさがりの状況から抜け出したかったのだ。そのためには見つけられる必要があったのだと思う。
*
千紗を。
私には彼女を救えなかった。
贖罪、ではないが私は偶に彼女の下を訪れるようにしていた。そして時々話を聞いている。最初こそ不安そうだったが、最近は楽しそうにしている。
最後に訪れたときも、彼女は小さい女の子に引っ張られていった。
震える彼女にアリスを投影したことを覚えている。けれど、今は、私の胸で眠っていた兎とは異なる少女の姿が見えた。
それは寂しいけど、それ以上に、少しだけ良いことだ。