【新聞記事からの抜粋】
今月六日午後六時頃、長野県中野市の桑馬山中腹で、倉西浩司さん(三七)の遺体が発見された。
倉西さんは約一か月前から行方が分からなくなっており、家族から県警へ行方不明者届が出されていた。発見したのは倉西さんの叔父にあたるSさん(五三)で、現在警察はSさんが遺体を発見した経緯を詳しく聞いている。また、遺体発見場所から約五百メートル離れた場所に倉西さんのものと思われる自動車が半焼した状態で見つかった。これに対し警察は、遺体の状態からして当時倉西さんが自分の意志で移動できた可能性は低いと考え、今後は事件と事故の両面から捜査を続けていくとした。
*
私の住む山に人間がアスファルトの峠道を敷いてから今年で六十年になる。
最近、私の姿を視認できる人間は少なくなった。いつの日かそんな人間は存在しなくなるのではないかと割と真剣に考えている。
私の持つ最も古い記憶は、人間の猟師に右肩を火縄銃で撃たれた恐怖と痛みだった。えらく青ざめた顔と怯えきった声でその猟師は私に尋ねた。
「何だ、お前は。口減らしで山に捨てられたのか? いや違うな、それにしてはお前の纏う空気はやけにおぞましい。さして思いつく恨みも必要もないが、ただ俺はお前のような奴を殺さなきゃならん気がしてならない」
肩の痛み、そして何者なのかという問い。私はこの両方に対する適切な解が即座に頭にあがらず、結局は苛立ち、湧き上がった衝動のまま目の前の猟師を殺し彼の肉を食った。
これが思いのほか、まずかった。
これ以降私は山姥として猟師の肉を食えなくなった。
私は私のことを何者なのかいまだに判定できていない。唯一私は私だということしか確かな知識もない。だから、私が自分のことを山姥と呼ぶのは最初からそう名乗っていたわけではなく、人間が勝手にそう呼んでいたからいつの間にか自分の紹介にその呼称を使い始めたのだ。
山姥とは見た目は人間の婆であり、怪力や神通力を駆使し、場合によって人間を食う存在を指すらしい。なるほど私のことだ。
しかし、私のことを山姥と呼ばない人間もいる。
「クボウ」なる人物が、平和な時代を築いて数十年経ったころ、大きな夕霧の中で迷子になっている女児がいた。食ってやろうかと思ったが、体躯が小さく可食部もあまりないように見えて、もう少し太らせた方がよいと判断した。
私は彼女の肩に手を置いて尋ねた。
「捨てられたのか?」
女児はかぶりを振った。
「はぐれたのか?」
女児は頷いた。
「来なさい」
私は何も見えない霧の中を彼女の手を引いて、山麓まで導いてやった。すると、その行動がたいそう人間たちの心象を良くしたようで、その頃から彼らは私のことを山神様と呼び、山の中腹に祠を立て、たまに穀物を置いていった。そんなことをされたとて、私は人間を食うことをやめるつもりはないが、少なくとも私を山神と呼ぶものに対しては危害を加えず、場合によっては助けてやろうという不思議な気持ちが湧いた。
そんなふうに人間と私の関係を思い返してみると、私は彼らに対して並々ならぬ関心があったのだと今更ながらに気づくのだ。
思い出すのは人間との記憶ばかりである。感情が大きく揺らされた出来事にも大抵は人間がかかわっている。加えて私の姿は人間そのものだし、飲まず食わずでも生きていけるはずなのに人間を捕食したいという欲求は絶えずあった。このことを踏まえると、彼らとは何らかの切れぬ縁で結ばれているのかも知れないとすら思えてくる。
それなのに最近はその人間と距離を感じるばかりで、私の生活は至って空虚なものになった。たとえば登山客の肩をたたいたり、耳元で大声を立てたりしても彼らは何の反応も示さなくなった。まるで私がいないかのようにふるまう。いや、疑うまでもなく彼らの世界には私の存在が考慮されていないのだ。
かくのごとく私のことを人間が知覚しなくなり始めた時期は、アスファルトの峠道ができた時期と重なる。その道ができてからというもの、四輪の鉄の塊が疾走し、忙しなく東西を行き来するようになった。かつて特別な意図をもってこの山に踏み込んでいた人間の姿はどこにもなく、私の山は彼らにとって単なる通り道と化したようだ。
そんな峠道ができてから十年後のある日、奇妙な女が私の山に入ってきた。
その女は恐ろしく整った顔立ちと、異性を魅惑するためにあるような肢体を持っていた。肌は白くそれでいて肉付きもよく健康なのが分かった。皮と骨だけで構成されているかのような私とは対照的である。
さて、その女性の何が奇妙なのかというと、素っ裸で歩いてきた事だった。人間は動物のくせに服がないと恥ずかしがるという特徴を持っている。だというのに、そいつは堂々とすべてをさらけ出し歩いてきたのだ。
私はどうせこいつにも自分の姿は見えないだろうと高を括り、好奇心から彼女に近づいてみた。しかし、予想に反して彼女は不思議そうに私を見つめてきた。その様子は明らかに私を認識していて、私が右に動けば彼女の首も右に動き、上下、もしくは左に動いても同様であった。
「見えるのか?」
私が尋ねると。
「それはそうでしょう。目の前にいるのだから」と当然のように答えた。
「何故裸なのだ?」
「裸で生まれたから」
「どこで生まれた?」
「この山」
その後詳しく聞くと、彼女はふと目が覚めると裸で山麓の林の中に倒れていたそうで、それ以前の記憶はさらさらないという。近くまで来てみて気が付いたことだが、彼女はどことなく我々と同じ側の存在であるように思えた。つまり人間が妖と呼ぶ存在特有の匂いがした。
私は彼女に今まで食ってきた人間の服をいくつか差し出し「その見た目で生まれたからには服を着ていないと具合が悪い」と教えた。
その後、彼女を連れ立って、この山で最も物知りで私よりも遥かに永く生きている河童の許へ向かった。彼は中腹の渓流に居を構えている。
「河童」
私がそう呼ぶと、そいつはタポンと音を立てて水面から顔を出した。
「何だ、五年と七日ぶりじゃないか、山姥」
「知恵を借りたい。こいつは何者だ?」
私は今までの経緯を話した。すると河童は首を傾げ「まだ、分からんよ」と答えた。彼に分からないなら私にわかるわけがない。落胆しながら、「どうして分からないのか?」と聞くと、「いいか、山姥。俺もお前もそうだったように、生まれたばかりの奴は何者でもない。そいつがどう呼ばれる存在なのかはこれ以降そいつが生きていく中で発見されるものだよ。お前だって、未だに何者でもないだろう?」などと分かるようで分からないことを言い出した。
「私は山姥だ」
「それは便宜上そう言っているだけで、お前自身は山姥の自覚なんてないはずだ。俺だって便宜上お前に河童と言わせているだけで俺自身は川に住んでいる俺以外の何者でもない。だからな、山姥。今のそいつは何者でもないのだよ」
「それもそうだ。分かった。そういう事にしよう」
「お前は素直だな。話していてつまらんよ」
「しかし、河童よ。今の文脈だと少なくともコイツには呼称を与えたほうが良い気がする」
「ウンとかスンとか好きに呼べばいいじゃないか」
「じゃあ今日からお前はスンだ」
「やよ、そんなの」
女のような何者かはそう言うと、すんとそっぽを向いた。
かくしてこの女のような何者かはこの山に暫く住んでいた。
私はやはり便宜上、彼女の承諾を得ず「スン」と呼んだ。
スンは私と同じで飲まず食わずでも問題なく過ごし、神通力らしき不思議な能力を有しているが、違う部分も当然ある。それは見た目であったり、性格であったり、人間との関係性であったりした。
ある日、男女二人組の登山客が私の山に入ってきた。私はいつものように、姿が見えないことを利用して登山客にいたずらを働いた。例えばその日はたまたま、彼らのフードの中に虫をいくつか忍ばせて遊んでいた。
「そんなことして何が楽しいの?」
私の行動が奇怪に思えるようで、彼女は私に問うた。しかし、聞かれて改めて考えるとどうして自分が人間にこんなことをしているのか明確な理由がないことに気が付いた。いやあるのかもしれないが、自分でそれを意識していなかったのだ。
答えに窮する私を尻目に、彼女は何を思ったのか憮然とその登山客の前に出ていった。すると、男の登山客は目を白黒させ、泡を食ったように口をあんぐりと開けた。そんな彼の様子を不思議そうに見たのは、今目の前に現れたスンでも私でもなく、一緒に歩いてきた女性登山客だった。どうやら彼女にだけはスンが見えていないようだった。
「どうかしたの?」
怪訝な顔で彼女が口にしたその質問に、男は目の前の奇妙な存在を指さして、何かを言おうと口を動かしていたが、結局何も言わず腕を下げた。
「もう何なのよ」
そう言う不機嫌そうな女性登山客に男は「ああ」「ごめん」「いやぁ」など答えにならない音だけ返し、魂を抜かれたような顔でまた歩き出した。
この出来事からも分かる通り、スンは人間の男にだけ視認されうるようだ。
以降、彼女は私と一緒に何度か登山客にちょっかいを出した。
転ばせたり、殴ったり、耳に息を吹きかけたり、持ち物をくすねたり、時にムカつく顔をしたやつが来たら樹海に引きずり込み食らった。そのたびに何が起きたのか分からずしどろもどろしている人間の姿は滑稽で、見ていて愉快になった。
そうだ愉快だ。私は楽しみたかったからこんなことをしていたのかもしれない。
しかし、愉快な思いをしたくて人間にちょっかいを出したのか、何となくしていた行動が愉快なことへ変化したのかは定かではない。
彼女と過ごした時間の中で印象に残っていることは他にもある。
ある時私が、殺した人間を背負って根城に運んでいる時のことだ。
「なんであなたっていつも死体を寝床に持って行くの?」とスンが聞いてきた。
「カゲザラシが来るからな」
「何それ?」
「この山に死体を一晩放置すると、翌朝には忽然と消えてしまうのだ。河童と私はそれをカゲザラシと呼んでいる」
「それって妖怪なの?」
「分からん」
「あ、そう」
スンは死んだ登山客のバックの中を漁りながら「そういえば、あなたって何歳だっけ?」と聞いてきた。
「三百年以上は生きているはずだ」
「そんなに長い間、ずっとこの山に住んでいるの?」
「ああ」
「どうして?」
「……スン。お前はあれだな。何かにつけて理由を見つけたがるのだな?」
「え? ないの?」
「あるかもしれないし、ないかもしれない」
「何それ。どういうこと?」
「さしあたり私に言えるのは、この世のすべての事柄に理由やら因果やらがあるとは限らない、という事だ」
スンはびっくりしたように私のことを見ていた。そして、しばらくの間の後、はたと何かに気が付いたように上ずった声で「そうね」とだけ残して、あとは何も言わなかった。
私がこの時の記憶を鮮明に覚えているのは、スンの態度がおかしかったからだけでなく、自分の口にした言葉が巨大な矛盾を抱えているような気がしたからでもあった。
さて、スンが私の山に住み始め、六年が経過したある春の日に事態は変化した。
いつも通り私たちが登山客にちょっかいを出すため、登山道のわきに身を潜めていると、荒い息遣いが聞こえてきた。近づいてくる速度から考えて、対象は走っているようだ。そして姿を現したのは、小麦色の肌をした美男である。目鼻立ちのはっきりとした顔を持ち、右の眉毛に小さな切り傷があるのが特徴的だ。加えて背が高く、運動着からはみ出る二の腕と脚は引き締まっており、彫刻のような鋭い美しさをもっていた。
ゆっくりと歩いている奴ならともかく、あんな風にあくせく走っている奴にちょっかいを出すのは少々骨だ。次の奴にしようか、とスンに言おうとして彼女の方を見たとき、私は初めて明確な異変に気が付いた。
ゾクリと背中が冷えるほどに、その時の彼女からは猛々しい寒気があふれていた。目は他のものなど一顧だにせず例の美男を見つめ、柳腰は震え、口が不気味に歪んでいた。痛みに耐えているとも、笑っているともとれるその表情に、私はとっさに彼女の腕をつかんだ。
「やい」
「……」
反応がないため、さらに腕を揺さぶる。力を入れ過ぎて、スンの腕の骨をペシャンと曲げてしまった。
「やい! 聞いているのか!」
そこまで来て彼女はようやく振り向く。そして深く沈み切った声で「イタイ」と言った。
その翌日、彼女は忽然と姿を消した。
あまりに突如のことで、それから一年間はずっとスンを探し回り、疲れてきた頃、河童に聞くとなぜか彼女はコイツにだけは別れの挨拶をしていったという。
「ああ、飛縁魔なら一年ぐらい前に俺のところに来て二、三質問した後に山を下っていったよ」
「飛縁魔? 誰だ?」
「あの女のような何者か、だよ」
「アイツは何者かになれたのか?」
「知らんよ。俺の中でアイツが何者なのかの規定が終わっただけで、あいつの中ではその問題は生きているだろうさ」
「お前の言っていることはいちいち分かりにくい」
「それはお前がバカだからだよ」
「すまん。それで、彼女はお前に何を質問したのだ?」
「まず、ある人間の男の顔が頭から離れないのですが、これは一体どのような現象なのでしょうか、と聞いてきた」
言わずもがな例の美男のことであろう。私は彼女が纏っていた雰囲気からして二つの推論をした。
「それは恋か怨恨のどちらかではないか?」
すると河童が眉をひそめた。
「山姥、怨恨も恋のうちだよ」
「それもそうだ」
スン、いや飛縁魔は人間に恋をしたようだ。
何となく私は人間のことを見下しているので、恋愛感情というものを彼らに感じたことがない。人間で例えると犬や猫を異性として意識しているような気色悪さを覚えてしまうのだ。
「次いで、人間とともに暮らすにはどうしたらよいか、と聞いてきた」
「何と答えたのだ?」
「山を下りればよいと答えた」
「他には?」
「……もうない。それだけだ」
「なるほど、色々ありがとう河童」
「いいよ」
河童はいつもより素っ気なくチャッポンと音を立て水面から消えた。
もやもやした寂しさを抱えながら、私は自分の根城がある山の中腹に向かい、道中ふと気が付いた。
「飛縁魔とはどういった意味だろう?」
そうだ。それを聞きそびれてしまった。河童の中の知識と彼女が含有する何らかの要素とが紐づけされた結果として、河童は彼女を飛縁魔と呼ぶことにしたはずだ。では、その名前は一体どこから出たのか。どんな意味を持っているのか。
もう一度河童を訪ねようか、と思い踵を返そうとしたが、やめた。先ほど河童が見せた素っ気ない態度が、私の追及を拒んでいるように思えたからだ。
*
冬になると北の空から狗鷲が降り立つ。
そいつは眼光鋭く物腰柔らかで、周囲を静寂させるような支配的な空気も纏っていた。
オスだったので彼と呼ぶことにする。
冬場の日課として私は山頂近くの岩の上に行き、日光を浴びる。そうする理由がこの狗鷲と会話するためだった。
飛縁魔が山を下りて二年が経つ頃。その日もぼんやりと空を眺めていると羽をすぼめた狗鷲がふわりと私の隣に降り立った。
「今年もいるのか、お前は」
彼は挨拶もせず、そう言った。私は狗鷲の生態を詳しくは知らない。ただ渡り鳥とは違い、同じ土地に居座っていることぐらいは知っている。二十年ぐらい前から彼(正確には彼ら)は私の山とその周辺を生息域とし、冬場は決まって私の山に来た。
「いてはならないのか」
「……お前と一緒にいた女はどうした?」
「アレは、山を下って今は比野という人間と暮らしているらしい。たまにかえってくるよ」
飛縁魔と私の縁は完全に途切れたわけではなく、彼女は不定期的に私の山に訪れた。そして人間社会に溶け込んだおかげで得た数々の知識や体験を私に聞かせてくれた。石油とやらが不足して危機的状況にあるだとか、ジュウカガクコウギョウのオートメーションが何たらと、たまに分からない言葉もあったが大半は面白く聞くことができた。
「お前は、どうなのだ?」
狗鷲が聞いた。
「どうとは?」
「人間の世界に入り込んでみたいとは思わないのか?」
「それは、どうにもしてはいけない事のように思う。やはり、私が私であるためには、私が山で暮らしているという事が何より大切だと思うのだ」
「なるほど、分かるぞ」
狗鷲は嬉しそうに笑った。
「オレも今よりも楽な生き方があったとしても、ソレが納得のいくものでない限り受け入れなれない。オレの今の生き方の中にはオレの魂の核があるように思う。それを捨てる選択肢は浮かばん」
「それは、つまり鷲としての誇りというやつか?」
「……違う。誇りというのは過去を美化することで手に入れるものだ。今言っていることはだな、つまり、現在の俺に対する恐怖から作られる執着のようなものだ」
「河童みたいなやつだ。簡単に言えんのか?」
「難しい言葉は難しいままだから意味があるのだ。簡単にしたら真意が薄れるだろう?」
「……お前も私が馬鹿だと言いたいのか?」
「そうじゃない。それにお前は自分の思っている通りの馬鹿ではない――」
そこまで話し、彼は忙しなく動いていた視線を止め「野兎だ」と山麓の方へ飛び去った。
目が痛くなるほどでたらめな青空と、枯れた草木を覆い尽くす混じりけのない雪が視界いっぱいに広がっている。その質素な色合いのおかげで狗鷲の狩りは容易に観察できた。
音もなく上空から標的の位置をとらえ、警戒される限界まで近づき彼は滑空した。天敵の存在に気が付いた野兎が慌てて駆け出す時には、彼の蹄が食い込んでいた。途端に大きく広げた翼が滑空時の勢いを殺し、野兎と一緒にふわりと地面から離れた。風圧で周囲の粉雪が舞い上がり、その小さな煙幕が落ち着くころには彼は私のところまで戻ってきていた。
着地と同時に岩にたたきつけられた野兎は、首をひしゃげ、口をぱっかりと開いたまま動かず、狗鷲も何も言わず険しい顔のままじっと獲物の死に顔を見ていた。一方的にあっさりと狩られただけに見える野兎と、狩りとって帰ってきただけに見える狗鷲。この二匹の間には確かに間接的に等価である命同士の戦いがあったことがその情景から見て取れた。
何か誉め言葉でもかけてやろうとしたとき、それを遮るように彼は険しい表情を崩して、いつもの重厚で無感情な声で話しかけてきた。
「下の方にガキが一人いたが、アレは大丈夫なのか?」
「一人? それはおかしいな。服装はどうだった?」
「さあな、人の服装なんかいちいち気にしないからな」
「もう一度見てきておくれよ」
「お前、俺にそんなことをする義理があるとでも思うのか?」
「それもそうだ」
私はひょいっと岩から降りると、山麓の方に足を向けた。
「食うのか?」
狗鷲がそんなことを聞いてきた。
「さあ、見てから決める」
そうして私はそのガキを見つけるべく歩きだした。
私が歩きだすと同時に空は曇り、雪が降り始めた。
温もりだけかすめ取るような風が後ろから背を押し、私の髪を乱暴にかき混ぜた。揺れる前髪の隙間からは雪で覆われ完全に輪郭の分からない道が延びている。もはや道といえぬ道を私は長年の経験から適切に踏み抜いていった。足の裏でギュッと雪を潰す感覚に飽きてきたころ、微かに誰かが叫ぶ声が聞こえた。私はそこでしばらく立ち止まり耳を澄ませると、間違いなく誰かが呼吸をしている音がする。ここまで一時間。狗鷲が下の方といったから山麓のあたりだと思い込んでいたが、そこは山の中腹で丁度今年の秋口に地元の林業組合が伐採したばかりの視界の開けた樹林であった。
私はこの樹林に入り、吐息の聞こえる方へと脚を動かし続け、ついにその少年を見つけた。
寸法の明らかにあっていない手袋を両手に付け、それをすり合わせながら彼は歩いていた。唇が渇き、端の方から血が出ている。マフラーの隙間から赤くなった耳が外に露になっていた。
その少年の行動一つ一つを観察していて気が付いたのは、彼が何かを探している、という事だった。何度も周囲を見回しながら、声を出そうとしている。寒空の下、もう何度も大声をあげたため喉から血の味がしているのだろう。息を吸うたびに苦い顔をしていた。
歳はどうか? 肉付きはどうか? 見る限り彼は食べごろである。
私はゆっくり少年の背に忍び寄った。しかし、予想外のことが起きた。私が雪を踏む音が聞こえたらしく、彼は動きを止め振り返った。そして、わなわなと震えながら尻もちをつき、かけていた眼鏡がずれた。
「見えるのか?」
いつかと同じ質問を彼に投げかける。すると彼は大きくかぶりを振った。
「嘘をつけ、見えているから返事をしたのだろう?」
少年ははっとして、口をおさえた。
「口などおさえてどうする?」
「………………」
少年は口をおさえたまま私を見つめ、じっと動かなくなった。
「声を出さねば、食ってしまうぞ!」
山の隅々まで響き渡るような声で脅してみた。空気が痺れ、周囲の樹木が一斉に根元から真二つに割れた。
怪奇現象を目の当たりにし少年はようやく、口元から手を放し、「おばあさんは誰?」と震える声を出した。
「私は……いや、お前が当ててみろ。私は何者だ?」
少年は戸惑ったように頭をもたげ、呟いた。
「仙人様?」
仙人……そうか仙人か。
山神と呼ぶのなら食うのをやめ、山姥とか化け物と呼ぶのなら食い散らかすつもりでいたが、仙人は困った。どっちだ?
「お前、私が怖いか?」
少年は青ざめ、おびえた顔で首を何度も横に振った。
「私は嘘つきが嫌いだ」
少年が「ひぃ」と小さな悲鳴を上げ眼に涙をためた。
「これから私の言う事に正直に答えるのならお前を見逃してやろう」
「本当ですか?」
「本当だ。私は嘘がつけない。それで、お前はここで何を探していたのだ?」
「……猫です。うちで飼っている黒い猫。あ、右耳だけ白いのだけど……ですけど」
「その猫がこの山にいるのか?」
「はい、きっと」
「どうしてそう言える?」
「え、クラスの子がそう言っていたから」
「……お前は馬鹿だな。人に飼われている猫が何を好き好んで雪まみれの山に来るというのだ」
「……あぁ、そうですね。よく言われます」
少年からその歳に似つかわしくない疲れた嘲笑が漏れた。
「奇遇だな。私もよく馬鹿だと言われるよ」
「仙人なのに?」
「せんに……うーん。そうだ。仙人なのに馬鹿なのだ。悪いか?」
「ごめんなさい」
「何故謝る」
「気を悪くされたのかな、と」
「……もういいぞ。どっかいけ。食う気をなくした」
私が彼に背を向け歩き出すと、後ろで鼻をすする音が聞こえた。それがだんだんと嗚咽に変わり、やがて彼は大声で泣き出した。
「何だ、どうした? 何故泣く?」
「……」
少年は答えることなく、その場で泣き続けた。私は途中まで本当に放っておこうと思いその場を立ち去ったのだが、夕日が山陰に近づく頃になっても泣き止まないのでしびれを切らし少年の許に戻った。
「どうした、なんで泣いている。訳を言え。うるさくて山が迷惑している」
少年は充血した目で私を見つめた。
「本当は……ぼくだって分かってる。猫なんかもういないって。だってもう一週間も帰ってきてないし、ふらふら外に出かけるような奴だったからきっとどこかで轢かれたのかもしれない」
「そうか」
「でも、『見かけたよ』って誰かに言われたら、そりゃ、いるわけないって思ってても探しに来ちゃう……から……ぼ……馬鹿だか……」
少年は訥々と何かをしゃべり続けたが、寒さに震えた声ではそれ以上は何をしゃべっているのか判定できなかった。
山肌をすべる風が徐々に痛くなってきていた。空気が次第に白くなり、数歩先すら見えない。私と少年以外誰もいないような錯覚を覚えた。彼はその場にうずくまり、震えるばかりでちっとも動かない。
「もう道も何も見えないだろう。手を引いてやるから早く帰りなさい」
「うん」
私は彼の手を引き、何とか歩かせようとしたが、途中で「もう歩けない」と言い出すものだから、仕方なしにおんぶをしてやった。
「だまされたんだなぁ……いやだなぁ」
少年は他人事のように感情の抜けた声でそうつぶやいた。
「友というのは、そうやすやすと嘘をつくものなのか?」
「ううん。友達じゃない」
「じゃあなんだ?」
「同い年の知り合い。僕友達いないし」
「何故だ?」
「多分、いつも頓珍漢なこと言うからだと思う。みんなからもよく不気味だって言われる」
「そうか」
すると、少年の腹の虫が、ぎゅう~、と泣き出した。
「お腹すいた」
「我慢しろ」
「眠い」
「我慢しろ。寝るな」
私は何度か雪の上に彼を放り投げ、眠気を霧散させた。七回目で「もういいです。我慢しますから。これ以上はよしてください」と言い出したのでまた彼を背負い歩き出す。
「なんでお腹って空くんでしょうね」
「生きるためだろ」
「いや、そうなんですけど。その、食べるとか、寝るとか、息をするとか、生きるためにそうしなきゃいけないのは分かってるんです。でも、それって僕らが決めた事じゃなくて、生まれたときからそうなんですよね?」
「そうだな。そう決められている」
「そう。それなんですよ。親が決めたのでもなく、僕自身が決めたわけでもないけど、そういうルールが最初からあるんです。これっておかしくないですか?」
「お前がそう思うなら、おかしいんだろうな」
「……」
「……」
「……お腹空いてるだろうなぁ」
「何が?」
「猫です」
「死んだのだろう?」
「まだ死体を見てないので、諦めてません」
「さっきあんなに泣いていたじゃないか?」
すると、少年が暴れ出し、私の背中から飛び降りると何か不機嫌そうに歩き出した。
「少年」
離れる小さな背に呼びかける。足が止まり、丸いレンズ越しに純粋な目が私をとらえた。
「私との約束を守るなら、猫が今どこでどんな状態になっているのか探ってやる。私の千里眼なら分かるはずだ」
「ん?」
うまく聞き取れていないようだったので、彼の近くに寄り、もう一度同じ言葉を伝えた。
「そんなことできるならなんで今まで黙ってたんですか?」
相変わらず不機嫌な顔で少年が言った。
「……どうなんだ?」
私は顔をより近づけ真っすぐ彼の眼を覗き込んだ。気おくれしたように彼は唾をのんだ。
「約束って何ですか?」
「山の中腹にある岩屋を知っているか?」
「うん」
「毎年元旦にその岩屋の前に五つ餅をおいて行け」
「死ぬまでですか?」
「そうだ」
「猫が死んでいても死んでいなくても」
「そうだ」
少年は唸りながら地面を見つめた。彼は意を決したように勢いよくこちらに向き直り、途端に決意が抜けたようにしょぼくれ、また俯くという挙動を幾度も繰り返す。そんな数十分に及ぶ逡巡の末、ようやく条件をのんだ。
私は彼の額にそっと手を当て、彼の思い出を覗き込む。
父親が大嫌いなこと、年の離れた姉がいること、最近弟ができたこと、動物の絵を描くのが好きなこと、それを母親以外に喋っていないこと、気になる女の子がいること、などの思い出が見えた。その中に右耳だけ白い黒猫が確かにいた。
少しも可愛げがなく、人間から施しを受けるのが当り前だと思い込んでいるようないけ好かない猫だ。
「少年。その猫はお前の村……今は町か。お前の町の北東部にあるヤギ小屋の傍にいる。工事中の道路の隙間に挟まって動けないようだ。早く行ってやれ」
少年は静かに両の目から涙をこぼしていた。
「おばあさん。仙人じゃなかったんだぁ」
「まあな。……私が怖いか?」
「分かんない」
「では何故泣いているんだ?」
「分かんない」
「何も分からんのだな」
「僕子供だもん」
彼は手の平で涙をぬぐいながら「ありがとね、おばあさん」と呟いた。
その時上から、ピュロピュロ、と狗鷲の鳴き声が聞こえた。
声を追うように上空を見ると、やはりそこには狗鷲が飛んでいた。不思議なことに、彼が飛んだそばから、その軌跡をなぞるように紫色の空が姿を現した。彼はそのまま、この白い世界を切り裂くようにまっすぐと山麓に向かって飛んでゆき、その行く先からは真っ赤な太陽が照りつけていた。やがて視界は完全に開け、普段夕焼けからは感じられぬような、何かの始まりを予兆させる開放的な雰囲気がそこにはあった。
「もうこんな下まで来てたんだね」
少年がそう口にした。我々のいる場所はすでに登山道の入り口からずっと下であった。
さらに十分ほど歩くと、町と山の境につく。そこで夕日を背に仁王立ちする人影があった。耳の裏あたりでバッサリと髪を切り落とした男のような女だ。初見でその人物を男だと思わなかったのは彼女が少年の記憶の中に幾度も登場していたからである。彼女は少年の姉であった。
「あ」と呟いた少年がその場で足を止めた。
仁王立ちしていた女はわたしたちの方にずかずかと歩を進め、目の前に立つと少年をじっと睨んでいた。どうやら彼女には私が見えないらしい。
「何処におった?」
泣きそうな顔で怒っている。そんな表情で彼女が聞いた。
「……山」
半泣きになりながら少年がそう答えた途端、女は言葉にならない音をギャーギャー出しながら少年の耳たぶを引っ張り、町の方へ歩き出した。
「さ、さよなら!」
少年は最後、苦痛に顔をゆがめながら私に手を振った。その様子を見ていた女が振り返り、私の方を見ながら首を傾げた。
「何に手ぇふってんの? 誰もいないじゃん」
気味の悪い物でも見るかのように、女は少年に視線を向けた。それに対して少年は誤魔化すようにへらへら笑うだけだった。
*
あの冬の日に助けた少年の名は外村四郎という。四郎という名前なのに彼は長男である。この山は代々林業が盛んだ。そして、ふもとの町の林業組合を取り纏め、町長も兼任するのが彼の父である。質実剛健で、曲がったことを何より嫌い、座右の銘は「考えるより動け」である。頑固で屈託など一切なく、表情は息子を叱るとき以外は常に鉄板のようであった。
一方で四郎は何かにつけて色々なことに「何故?」と考え、納得できぬなら動かない。そんな捻じれ曲がった性格であった。しかも運動は苦手だし、声は小さいし、虫は嫌い。さらに身の回りのあらゆることを悲観的に受け取る癖があり、最近で言えば「もうすぐ世界は核戦争で崩壊するに違いない。ノストラダムスがそう言っている」と同級生にふれ回り、父に「馬鹿をさらすな、恥知らず」と罵られ殴られていた。
この父子はすこぶる折り合いも仲も悪かった。
父はというと、四郎が何か自分に都合の悪いことをするたびに「四郎はお前に似てしまったのだな。なよなよして、女みたいだ」と妻に向かって言っていた。それに対して妻、四郎の母は「へいへい、そうですね」と言っていつもへらへらしていた。
四郎も父が嫌いである。父の掲げる座右の銘が前時代的だと思っていたし、直接自分をなじるのではなく、母まで批判するというのは、その方が女々しいではないかと思っていたわけだ。
こんな話を何故私が知っているのかというと年に一度、四郎が私の根城に来た際に世間話をするから、というのもあるし、町にいるカラスどもに世情を聞いているからでもあった。
カラスというのは世間話が上手だ。それはきっと彼らが並々ならぬ好奇心をもち、人間という多様な情報を持つ輩と多くの生活空間を共有していることに起因するのだろう。
彼らは夜になると山麓の林、つまり飛縁魔が生まれた場所へ眠りに来る。
何かある度私にあれこれ聞いてもいないことを話してくれるので便利な奴らだった。
さて、そんな四郎が元旦に餅を持ってくるようになってから十二年が経つ頃、彼は私に「そういえば私ね、結婚することになったんですよ」と言ってきた。それに対して「そうか、いい人だといいな」と返すと、彼はキョトンとした顔で「どういうことですか?」と聞き返した。
「見合い相手が、良い奴だといいなと言ったんだ」というと、なぜか四郎はクスクスと笑いだす。
「何がおかしい?」
「だって、ヤダなぁ、おばあさん。今は恋愛結婚の時代ですからね。お見合いなんて品のあるところしかしませんよ」
「そうなのか」
「ええ、そういうもんです」
「して恋愛結婚とはなんだ?」
「子の結婚に対して親がうるさく口を出さないって事ですよ」
「なるほど」
「しかしねぇ、結婚なんて口にするとどうも、肩やら腰やらが重くなったみたいで」
「病気か? 治してやろうか?」
「いえいえ、そうじゃなくて気持ちの問題ですよ。これから色々と背負い込むものが多くなるわけですから」
「分からんな、そういうのは。私はずっと自分のことしか背負ってこなんだから」
その後しばらく話したのち四郎は「そろそろ行きますね」と腰を上げた。そして「また来年。生きてたら来ますね」といって歩き出した。
するとその先でタバコをふかしながら歩いてくる女性とすれ違った。
「あ、駄目ですよ。山ん中でそんなもの」と四郎が注意するが、女性は振り返り彼を一瞥すると興味をなくしたようにまた前を向いて歩きだした。女性のその態度に若干四郎はむすっとしたが、腕時計に視線を落とし、ため息を一つつくと急ぎ足で山を下っていった。
女性、飛縁魔は私の前まで来ると、既に誰もいない背後を見ながら「何アイツ」と不機嫌にこぼした。
「久しぶりだな。何年ぶりだ?」
「十年と……四年ぐらいじゃない? お互い老けないわね」
「私はこれ以上どう老けたらよいかわからんよ」
「確かにね」
ほっと息をつくように笑みをこぼすと、飛縁魔はさっき四郎が座っていた場所に腰を下ろした後「元旦に山の中で人に会うとは思わなかったわ」と不思議そうに言った。
「アレは私に会いに来たのだ」
「え? ああ、そうなのね……。それはそうとあなたに頼みたいことがあるのよ」
「何だ?」
「申し訳ないんだけど、私そっくりの死体とか用意できない?」
「そんなものを用意して何に使うのだ?」
「知ってどうするのよ? あなたにとってそれって意味のある事?」
「ないだろうな」
「ならなんだっていいじゃない」
「意味もなく知りたいのだ」
飛縁魔は、はぁ、と重く息を吐くと、「あなたはそうよね」と言い空を見上げた。
「人を一人殺しちゃったのよ。まあ、直接じゃないんだけど」
「つまり死んだと思わせたいのだな」
「話が早いのね。そっくりと言わず、もう一人の私をつくるぐらい精密に造ってほしいのだけど。まあ、見た目と歯並びだけでもそろえてもらえば――」
「分かった、分かった。作ってやる」
そしてその二日後、私の作った死体を背負い飛縁魔は山を下っていった。
なんだか妙に疲れたから気晴らしに日光浴に向かうと、その日も狗鷲がいた。
しかし、その時の彼はどうもいつもより覇気がなく、顔が険しかった。
「よう。狗鷲よ」
私がそう話しかけると、「お前か」とぶっきらぼうな声が返ってきた。どこか準備していたような声色である。
「どうした、妙に元気がないじゃないか?」
私がそう聞くと、狗鷲はたいそう奇妙なものを見るような眼を私に向けた。
「それはお前もだな」
「私が?」
「気が付いていないのか? なんてことだ。もう少し自分に頓着したほうがいいぞ」
「それもそうだ。反省するよ。で、お前は何なんだ」
「……実は最近、オレの片割れが死んでしまったのだ」
「それは……つがいの一方が死んだということか?」
「まあ、その言い方は好かんが、その通りだ。鹿の死体が線路の傍にあってな。それを獲ろうとしたら列車にはねられたらしい」
「馬鹿だな」
「ああ、馬鹿な奴だ。しかし、あいつが死んでから、なんだか身が軽くなったように感じるのだ」
「良いことではないのか?」
「良いわけがない。しっかりとこの世に体があるという感じがしないのだ。こんなにも心地が悪いのは初めてだ。胸も擦り傷ができたようにキリキリと痛い。しかし……とにもかくにも、このままというわけにもいくまい。私はこの後もう少し東に居を移すことにしたよ」
「……そうか」
「お前とは長い付き合いだから、何も言わず去るのもどうかと思ってな」
「わかった。ありがとう。さようなら」
「ああ、じゃあな」
狗鷲はそう言うと言葉通り東に向かって飛んでいった。
*
狗鷲が飛び去ってから、三十年が経つ頃、とある猫が私の岩屋に訪れた。
「誰かいませんか?」
猫は何度も暗闇に向かってそう言った。最初は無視しようと思っていた私だが、流石に忍びなくなって「なんだ」と声だけ返事をした。
「あなたが千里眼を持つ老婆ですか?」
「だったらなんだ?」
「少し探してほしい人間がいるのです」
私は寝ていた体を起こし、岩屋を出た。
そこにいたのは金色の眼に白い毛並みを持った猫であった。
「はて、どこかであったか? 私はお前なんぞと話した覚えはないが、何故お前は私のことを知っているのだ?」
「僕は、あなたに救われたことがあるのです」
「私はそんなことした覚えはない」
「お忘れですか? 一九七六年の暮です。あなたはその千里眼で僕の居場所を言い当てたと聞いています」
「おかしな話だ。あの時の猫は黒色だった。お前は度が過ぎるくらい白いではないか」
「猫には八回の生がありますから」
「なるほど。では、お前は今何回目なのだ?」
「ちょうど八回目です」
「お前は前世で私に恩があるわけだが、そのお前が重ねて私に何をさせようというのだ?」
「……人を二人ほど探してほしいのです。一方は大切な人です」
「飼い主か?」
私はその猫が付ける首輪を見ながら聞いた。
「はい」
「お前の飼い主は、何も言わずに去ってしまったのか?」
「……はい。最後はひどい有様でしたから。僕のことなど思慮の片隅にもない様子でした」
「そんなひどい奴をわざわざ探してくれと? しかもこの期に及んで大切な人だと言うのは何故だ」
すると猫ははっと何かに気が付き黙ってしまった。
不思議な動物である。どうしてここまで人間のために動けるのか。
「探すのは構わんが、具体的にどんな顔をしたやつなのか知る必要がある。そのためにお前と私で記憶を覗き合わなければならんが……私はこれがあまり好きではない」
「そうですか。それは困りました。思い出を覗かれるのは僕の最も忌避したいところですから」
「ではどうする?」
「諦めはしませんが、あなたに頼むわけにはいかなくなりました。仕方のないことです。都合よく考えていた僕が悪かったのです」
猫は途端に悄然として私に背を向けた。
「そろそろカラスどもが山麓の林に戻ってくる。彼らは何かと世情に詳しいから聞いてみると良い。私も為になりそうなことがあったらお前に知らせるよ」
猫はそれを聞き、去り際コクリと頷いた。
それから一ヶ月ほど経った春の夜。
私が岩屋の外に出て星を眺めていると淀んだ空気を孕んだ飛縁魔が訪れた。
「相変わらず老けないのね」
「お互いにな」
飛縁魔は何も言わず私の隣に座った。そしてそのまま大きな岩の上にのっぺりと仰向けに寝た。
「この山から見える星は綺麗ね」
「星なんぞ何処から見たって綺麗だろう」
「そんな事ないって。都会の空は濁ってるし」
「……今日はどうした。また私に頼み事でもあるのか?」
彼女は寝返りを打ち私から顔を背けた。彼女の首元からほのかに花の香りがした。
「今日は何も」
「本当か?」
「ええ、私嘘はつけないから」
彼女は消え入りそうな声で、誰もいない森に向かってそう言った。それから「暫く森にいることにする」と呟いた。
「その口ぶりだとまた人間と一緒に暮らす気か?」
「ええ」
「どうしてそこまでする? 別に山を下りなければ死ぬわけじゃないだろう」
「死ぬよ、多分」
反射的に口に出したであろうその言葉には不吉な暗みがあった。その瘴気にあてられたように木々が活力をなくし、さざめきが一瞬止まった。
暫くの静寂の後に、彼女は重いため息を吐き、白々しい声で続けた。
「あなたが山で生きるように、私は人間と一緒に生きる。きっと生まれる前からそう決まってる。人が息を吸ったり寝たりするのと同じよ」
飛縁魔はそう言いながら上半身を起こし、タバコに火をつけた。
「火事になるぞ?」
と注意したが一向に取り合わない。澄んだ空気にくすんだ煙がほどけていった。
「前来た時より、だいぶ少なくなったんじゃない?」
気まずそうな顔で飛縁魔が言った。
「何が?」
「人。街は老人ばっかりで子供は少ないし」
「べつに。お前が生まれる前はもっと少なかったさ」
「へぇ~」
私は彼女の横顔を一瞥した。彼女は景色を眺めているものの、景色のどこも見つめてはいなかった。
「この前は、ありがとね。たすかった」
死体づくりのことだろう。
「いいさ、あのくらい」
「あのくらい? あなた死体を作っている時だいぶ険しい顔してたよ?」
「……そうなのだろうな。狗鷲にも同じようなことを言われた。しかし自分でもどうしてだか分からん。最近はこんな事ばかりだ。自分の感情が勝手に動いて、でもその原因はなんだか分からない。奇妙な塊が胸の中に埋まっているようだ」
「そんなものじゃない、心なんて。あなたは純粋すぎるのよ。ちゃんと汚れたほうがいいわ」
飛縁魔は人差し指で岩肌にタバコの灰を落とした。
「汚すなよ。灰は持ち帰れ」
「やよ」
「四郎はいつもそうしてる」
「……誰それ?」
「お前も一度すれ違ったことがあるだろ?」
「さぁ、覚えてないけど」
飛縁魔は思案顔で上を向き、煙を二、三度吐いた後「ああ、アイツね」とこぼした。
すると突如、遠くから甲高い馬の泣き声のようなものが轟いた。さらに続けて硬い物同士がぶつかる無機質な音がした。それに驚いて森から一斉に小鳥が飛び立ち、遠くからカラスの不機嫌な鳴き声が聞こえた。
「事故かしら」と飛縁魔が言った。
「私は見に行くがお前も来るか?」
「どうして行かなきゃいけないの?」
「それもそうだ」
*
カーブが続く峠道。その一角で、ガードレールが千切れていた。曲がり切れず衝突した車がそのまま崖下に落下し、衝撃で車体が燃えたようだ。樹海の一部に引火していた。
私はこのままではいけないと思い、雨を降らせ、火を沈下した。すると半焼した自動車が姿を現した。よく見ると黒く変色した車体の中に男性が一人いる。
浅黒い肌で、身長は高く痩せている。体はしわだらけのスーツに包まれ、強い酒の匂いがした。車の中はあまり火が廻ってなかったようで、男にはまだ息があった。自分の体にしつこくへばりついていたシートベルトを外し、外に出ようとしている。しかし、自分の左足があらぬ方向に曲がり、腹部から大量に出血しているのを確認するとすぐに諦めたように笑った。それからふと前を見ると、私に気づいたようにぴたりと首を止めた。
「見えるのか?」
何となく、聞いてみると、
「ええ、見えますよ。目の前にいるんだから」と返ってきた。
湿気を孕んだ空気が重くぬめる中でボンネットにあたる雨の音だけ軽快だった。
雨で土が緩くなったせいか、先端から地面に突き刺さるようにして安定していた車体が、再び横に戻った。男は「うっ」とうめいたが何事もなかったかのようにまた平然と死を待ち始めた。私はそんな彼の様子をただじっと見ていた。彼の最期の瞬間に私が積極的に干渉するにしても、今がその時宜ではないように思えたからだ。
すると彼は何か思い出したように、私に聞いてきた。
「あなたは誰ですか?」
「……お前が当ててみろ。私は何者だ?」
何がおかしいのか男に笑みがこぼれる。
「はは……えぇ、そうだなぁ、仙人様、とか?」
「お前は私が怖いか?」
「今の僕にとって怖いものなんて数えるほどしかありません。そしてそれは間違いなくあなたのことではない」
「そうか」
淀みきった静けさの中で、彼は目を閉じた。
割れた車窓から入り込んだ大粒の雨水が血のにじんだ彼の肩を濡らした。置物みたいにだらんとして動かない彼からは存在感は感じられないが、それでもすがるものなく転げ落ちる命の灯がちらちら輝いているようにも感じられた。
「助けてやろうか?」
口をついてそんな言葉が出たが男は驚いた様子も見せず「勘弁してください」と言ったきり、くしゃくしゃに泣きながら死んだ。するりと男の体から何かが抜け落ち、入れ替わるように冷気が充満した。その有様になぜか総毛立った。
私は死体に近寄るのを憚ったままその場に暫く立ち尽くしていた。
何時間もたった後、恐る恐る近寄って、頬をたたいてみた。当然動かない。
食うにしても少々味が悪いだろう。酒の入った死体はあまり旨くない。眉根を寄せたまま男の持ち物を漁っていると、後ろから「食べちゃうの?」と飛縁魔の声がした。
「なんだ、結局来たじゃないか?」
「……ねえ、食べるの?」
彼女の若干の苛立ちを孕んだ語気には有無を言わさぬものがあった。
「……」
「……」
「……食べないよ」
私は彼のポケットに入っていた光る板を眺めてそう言った。数字と一緒に見覚えのある白い猫が映っていた。
「食べてもおいしくなさそうだものね」
「何故そう思う?」
「見るからに空っぽじゃない。そいつ」
飛縁魔は憮然と男に近づくと、懐からライターと財布だけ抜き取った。そして物のついでと言うにはやけに真剣に男の顔を眺め、ぽつりと聞いてきた。
「どんな死に様だった?」
「つまらん死に様だった」
「ふ~ん」
私は車内から死体を引きずり出し、背負った。当然飛閻魔は不思議がった。
「食べないんじゃないの?」
「ああ。でも、このままにはしておけんのだ」
「はぁ?」
彼女は納得いかない様子だったが、私が淡々と死体を背負ったまま歩くのを見て、深い追及を諦めた。
雨降る森の中。死体を背負う老婆と、若い女が並んで歩きだす。
「コイツ、あの男に似ているな」
歩きながら改めて思ったことを彼女に聞いた。
「あの男って?」
「お前が最初に恋した男だ。山からいなくなった時の」
それを聞いた飛縁魔は、ぷッ、と吹き出し腹を抱えて笑い出した。そしてひとしきり笑った後は息を整えながら答えた。
「へへぇ、何それ? 可愛い言葉使うのね、あなた。アレは恋なんかじゃないって」
「じゃあなんだ」
「……さぁ、しいて言うなら執着なんじゃない?」
濡れた前髪をかきあげながら「惨めなものよ。そういうのに突き動かされるのって」としみじみと吐露した。
「私にも、あなたにも、他の誰にだってあるはずじゃない。ここから先飛び越えたら自分が自分ではなくなるような勝手に決められた臨界域が」
「分かるよ」
「ちょうどその淵に立っていただけよ。恋なんかじゃない。だから……」
「だから?」
「……」
飛縁魔はふと話すのをやめ重いため息を吐いた。何かに嫌気がさしたように見えた。
そしてしばらく黙って歩いていると思い出したように突然こんなことを聞いてきた。
「ねえ、あなた。今まで子供とか生んだことある?」
「ない」
「へー、ほんと?」
「ああ」
「山姥って安産の神でもあるのよ?」
「そうか。じゃあそもそも私は山姥じゃないのかもしれんな。……で、何故そんなことを聞く?」
「私何度試してもできないのよね」
「何が?」
「決まってるじゃない。子供よ」
「お前子供が欲しいのか?」
「悪いの?」
「悪いというか不思議なだけだ。人が子供を欲しがるのはおそらく本能だが、お前が欲しがるのも本能なのかと思ってな。人じゃないくせに」
「人は本能で子供を作りたがるものなの?」
「昔、四郎がそう言っていた。人が子供を欲しがるのはなぜか、と聞いたことがある。本能でしょう。頭で思いつくような理由はない、ときっぱり答えたよ、あいつ。まあ結局子宝には恵まれなかったみたいだが」
そう話すと後ろで飛縁魔の足音がやんだ。振り向くと何かに裏切られたような悲愴な顔をした美女が立ち尽くしていた。
*
翌日。死んだ男の物らしき名刺をもって私はカラスたちのもとを訪れた。
「街に全身白色の猫がいるはずだ。これを渡して、そいつに探していた奴を見つけたと伝えてきてくれ」
私がカラスたちにそう言うと、嫌悪せずとも軽蔑したような眼で彼らは私を見つめた。
「自分で行けよ」
「何故だ?」
「その依頼には必然性が感じられない。思うにあんたは、自分がやりたくない事を俺たちにやらせようとしてるんだ。違うか?」
ぐうの音も出ない私にカラスは続けた。
「お前の決めた筋だろう?」
「……それもそうだ」
諭された気になって、私は黒い猫に変化し町へ降りることにした。老婆の姿のままでは、万が一にでも私の姿を視認できる人間がいた場合、都合が悪いのだ。
山の西側から、町の西側に入る。私はあの日覚えた白猫の匂いをたどって歩いた。
十五分ほど歩くと大きな屋敷にたどり着いた。表札に「外村」と書かれている。四郎の家である。なぜあの猫が四郎の家にいるのか。……なんだっていい。関係のない話である。
私は高い塀を飛び越え、中庭から屋内に侵入した。
屋敷には述べ十四もの部屋があり、さらにその一番奥に書斎に白猫がいた。彼は窓からすぐ外の渓流を眺めていた。
そこには白猫だけがポツンといるのではなく、傍には大きな犬とまだ片手で数えられるぐらいの年端もいかないガキもいた。幸いそのガキは犬の横で眠っている。ガキ以外の二匹の動物は空気みたいに存在感がなかった。
静かに近づき、私は白猫に話しかけた。犬は私の存在に気が付いたものの、関心を示さず目を閉じた。
「探していた奴を見つけたぞ」
白猫は窓の外へ向けていた首をゆっくりこちらに向けた。
「本当ですか?」
「コイツだろ?」
私は咥えていた名刺を彼の目の前に落とした。七回も生きた猫なら文字ぐらい読めるだろうとの算段だ。
猫はしばらく、名刺を眺め、渋い顔で口を開いた。
「どこにいるのですか?」
「昨日死んだ。今は私の根城に死体がある」
「……」
猫は何も言わずじっと名刺を見つめ「そうですか」と呟いた。
すると興味なさげにしていた犬が、ふん、と息を吐くと「やはり、ろくな死に方はしなかったのねぇ」と呆れたように言った。
「やはり、とは?」
私がそう聞くと白猫が睨んできた。犬はやっと目を開けると、私の方を見て続けた。
「体から女の香水の匂いがしてるんだもの。あれでバレないと思ってるんだ。バカだよ」
「何だ、ただの浮気か」
「ああ、ただの浮気だ。何も特別な苦労もしてないくせに、女に逃げるような奴だ。死んだほうが世のためだ」
犬は鷹揚に頷きながらそう言った。
すると「アレは違うでしょう」、と白猫の凛とした声が響いた。白猫は、この一見面白くない痴情のもつれに対して他の言い分があるようだ。
「何が違うというのだ?」
犬は、仕方がないな、とあやすような口調で猫に問うた。
「だって、あの女の持つ淀んだ引力は人間の持つようなものじゃなかった」
「特段色気があったという話だろ? 不思議なことでもない」
「勿論僕だって、何もかも始末に負えない事だと釈明しようとしているわけではない。それでも人にはどうしてもあらがえないものがあるはずだ。あの女はまさにその類だった」
犬がのっそりと首を上げた。その老成した瞳にいら立ちがにじんでいる。
「あの女あの女というがね、本当に誰のことなんだ?」
犬のその発言に、猫は毛を逆立て、今までの辛うじて知性をにじませた口調を一変させる。
「お前も見たはずだ。何度か塀の外から僕たちの家の中を覗いていた。あの寒気を感じなかったとは言わせない」
そんな猫の言葉に今度は犬が、尻尾を上げた。
「感じなかったから言っているのさ。何度も言うがね、お前が勝手に幻を見ただけだ。あたしには何も見えなかったよ」
「いたでしょう! 若い女が!」
「でたらめ言うな!」
犬が大きく吠えたことによって、ガキが驚いて泣き出した。
遠くから、「ど~したの~?」という女性の声と足跡が近づいてきた。
「私はそろそろ行くぞ」
白猫にそう言うと、「待ってください」と止められた。
「もう一つ聞きたいことが――」
「件の女か? それについてなら請け負わんぞ。つまらん話に巻き込むな」
「でも彼女は貴方と同じ側の存在でしょう?」
「……」
「ご存じないですか」
「……」
「比野という女性です」
パタンッ、とふすまが開いた。そちらに目を向けると髪の毛を肩のあたりで切りそろえた中年女性が私を見ていた。いや、私ではなく私の背後にいるガキを見ていた。ぱっちりとした二重の瞼と太い眉毛のせいか、やけに眼力が強い女である。
彼女は「どうしちゃったのよぉ」と言いながらガキを抱きかかえた。犬も猫もそれを静かに見守っている。私はそのすきに書斎を離れ、中庭へ出た。
コンッ、と鹿威しの音がした。最近手入れが疎かになったような中庭である。中央の池の上には冬に置き去りにされた枯れ葉たちが漂っていた。それをぼんやり眺める少年がいた。歳は書斎で寝ていた奴より少し上だろう。私はその少年を見て咄嗟に「おい、四郎!」と呼んだ。それほど瓜二つであった。しかし、その四郎もどきには私の呼び声は猫の泣き声にしか聞こえなかったらしい。私の方を咄嗟に振り向き、首を傾げた後、また池の水をぼんやりと眺め始めた。
「ちょっとすいませんね」と言って中庭に面した茶の間から、本物の四郎が困惑顔で出てきた。丁度そこに泣いたガキの手を引いた中年女性が歩いてきた。初老となった四郎は、後ろ髪を掻きながら「あれ、さっきだれか私のことを呼びませんでしたか?」と彼女に聞く。
「さあ、私には聞こえませんでしたよ?」
「そう……ですか。あれ~聞こえたんだけどなぁ」
四郎は首に手を置いたままあたりを見回しそう言った。
すると突然、先ほど彼が出てきた茶の間から、すすり泣く女の声が聞こえた。
それを聞いた途端に二人は、そっと息を殺し、下を向きながらそろって泣き声から離れた。
*
四郎の家を出て、町の中を猫の姿で全力疾走し、森に入れば山姥の姿に戻り、同じように全力疾走した。
目の前にある樹木も岩もすべてを粉砕し、一直線に最短で寝床に戻ると、毛を逆立てて力いっぱいに叫んだ。
「スン! スン! スンはいるか!」
返事はなかった。私の声が幾重にも暗闇で反響するだけだ。もう一度声を張り上げた。
「いないのか!」
返事はなかった。代わりに空が黒く変色し、豪雨が生じ、雷鳴がとどろいた。遠くから「おい、山姥の仕業だろ! 勘弁してくれよ!」とカラスどもの声が聞こえる。
黒い雲がぐるぐると山のてっぺんで渦を描く。私の心情を具現化したように混沌としていた。
雷が私の背後に落下した。一瞬岩屋の中すべてが照らされた。そこには横たわった人影が一つ。それ以外何もなかった。
そうだ。いつだったか、飛縁魔が何も言わずこの山からいなくなった時も、河童にだけは挨拶していた。
私はまた駆け出し、河童の住処へ向かった。
「やい、河童。いるか?」
するといつものようにそいつは水面から顔を見せた。
「おい山姥。この天気はお前のせいだろ?」
「そんなことはいい。飛縁魔を知らんか?」
「何だよ、突然」
「知っているのか、知らないのか!」
「知らないよ」
「本当か?」
「本当だ。……どうしたよ。まるで世界のすべてからそっぽ向かれたみたいに悲しい顔をしているぞ」
全て見透かしたように河童がそんなこと言いだすので、冷静さを取り戻し、私は川べりに座った。流れのはやい河川は、灰色と黒色をまだらに混ぜたような暗い色をしていた。表面は荒々しく流れているもののその下ではずっしりと重い流れがあるように感じられる。
まるで大きな影が流れているようだった。
川を眺める私に河童が探るように声をかけた。
「何かあったのか?」
果たして自分に何が起こったのか。河童に話しかけられて初めてそのことを考え始めたが、容易に答えは出そうにない。ただ胸中がもやもやするだけだった。
「さぁ」
「さぁ?」
「分からんのだ。最近こういうことばかりだ。理由は良く分からないが、勝手に心が動く」
「こういう時は一歩引いて整理するべきだ。お前は今何を感じているんだ? 怒りか?」
「ああ、怒っている」
「悲しいか?」
「違う。悲しくはない」
「嬉しいか?」
「違う」
「退屈か?」
「違う」
「楽しいか?」
「違う」
「では感じているのは、怒りだけか?」
「……違う。もっと複雑で重厚なものだ」
「う~ん」
河童は自分の頭の皿をぺしぺしと叩きながらしばらく考え、ポンと鼓を打った。
「そうだ。きっとお前はね、寂しんだ」
「寂しい。それはあるかもしれない」
寂しい、という言葉は不思議と私の心に納得を湧かせた。
「じゃあ、なんで寂しいんだ?」
「さぁ」
河童はねっとりと私の顔を眺め始めた。
「…………君が怒りを感じているのはきっと飛縁魔のせいだろう。彼女が君にとって都合の悪いことをしたのだ。じゃあ都合の悪いことって何だろう? 俺には分からない。けどお前と少なくとも飛縁魔にはそれが分かるはずだ。現に彼女はお前が怒ることを予期してこの山を去ったのだろうから」
河童は、そんな風に語りながら、だくだくと流れる影を横切り私の近くに寄ってきた。
「そう……なんだろうな」
「寂しいという言葉は、虚しいという言葉とほぼ同義だ。自分の手の内にあったものがふと消えて無くなった。そんなとき芽生える感情だ。くだらん。変に執着するから、そんなふうに傷つくのだ」
温度のない声で河童は続けた。
「山姥。君は一体いつから何に執着していたんだ?」
「何が言いたい?」
「怖い顔するなよ。心配しているだけだ」
黒々とした渓流が速度を増す。日は完全に隠れ、雲越しに感じられていた微かな温もりすらその場から消え去った。
「つまり河童。お前は、何にも執着するなと言うんだな?」
「そうだ。少なくとも僕はそうしている」
「なあ、分からんよ。何かに執着することはそんなにいけない事なのか?」
「別に俺は規範を問うているわけじゃない。俺たちはそういう態度で世界に向き合うには向いていない存在だと言っているんだ」
「何故だ?」
「寿命がないから。正確にはこの世界が終わるまで死ねないからさ」
「それの何が問題なのだ」
「気づかないのか、山姥。寂しさを甘く見てはいけないよ。平穏に近いようで実は最も暴力的な感情だからね。終わりまで抱えていくには重すぎる」
「寂しさはまぎれると言うが」
「それは人の場合だ。俺たちは違う。君も俺も、独りぼっちだ」
独りぼっち。それを聞いて私は飛縁魔を思い出した。そうだ。彼女はきっと孤独を感じていたのだ。鈍感な私よりも早く河童の言う寂しさに気が付いたに違いない。
「山姥。もう考えるのはやめよう。僕らはただ息をしているだけでいい。孤独であることは自由の証でもある。どんな生き方をしても誰も僕らを咎めることはない。無駄な縁はこの際切り捨ててしまおう」
「人と縁を切れば、それで何もかもうまくいくのか?」
「いかないよ。何もかもどうでもよくなるだけだ。しかしこれ以上苦しまなくて済む」
ふと、納得したくないと思った。たとえその諦観が苦痛を取り除くとしても肯定したくはなかった。胸の中で、ピュロピュロ、と何かが気高く鳴いた。
「河童。それは違う」
「……」
「人間も私たちも同じだ。寂しさを抱えている限り生きていると言えるのではないか? 苦しみがあるからこそ些細なことに喜べるのではないか? お前が切り離せと言う苦しみや寂しさは、本当は愛すべきものなのだと思う」
「捉え方の問題だ」
「いや、意志あるもの全てにとって普遍的な問題だ。私はお前のような生き方は選べない。お前は寂しさを捨てたようで寂しい生き方をしているだけだよ」
「……」
上空を覆っていた雲が次第にほどけ、いつの間にか塵尻になった。雨がやみ、月光が差し込み、周囲から虫の声が聞こえ始めた。
河童はずっと私を闇の中から見つめていた。
それは私の生涯四度目の恐怖だった。この時の河童は明らかに私に対して敵対的な感情を抱いていただろう。私が何か言葉を出さなければ、この世の終わりまで動かない雰囲気を漂わせていた。
「なあ、人とつながりを断ち切って、その時の私は生きていると言えるのか? それは死にかけているだけじゃないのか? お前みたいに」
河童は相変わらず、私を睨んだ。その下で影が弱々しく揺らめいている。
「山姥。いつから君はそんな愉快な奴になったんだ?」
「そんな怖い顔をするな。私は心配しているだけだ」
「まあいいさ。お前もそれから飛縁魔も、もう少し長生きすれば分かるさ」
彼は最後、脅すようにそう言った後、あっけなく水面から消えた。
その翌日、四郎が私の根城に横たわる死体を見つけた。あの白猫がどうにかして彼を動かしたのだろうが、言葉も通じぬ相手をどう動かしたのかは定かでない。
*
翌年の元旦。四郎が例年通り私のところへ来た。この時の四郎は県議員を務めている初老で一見しゃんとした男であった。私の姿を見た四郎は、白い吐息を漏らしながら渋い笑みを見せた。
彼の話によると私が見つけた男は四郎の姉の子。つまり甥らしい。
「筋だけは通す奴だったのですが、人間どう転ぶか分からんものです」
四郎は彼に対しそう評価していた。甥は地元の専門学校を出た後、町から逃げるように上京し、数年後結婚したらしい。結婚相手は身寄りのない女性で、頼る伝手が夫の親戚だけだったようだ。
「甥の子供なら見たぞ。若い時のお前にそっくりだった」
「ええ、みんなそう言いますよ」
四郎はかけていた丸眼鏡を外すと、鼻根を指でつまんだ。
「……あの子ねぇ。私の家で暮らすことになりそうです」
「どうして? 姉は?」
餅を頬張りながら聞いた。
「ちょうど去年他界しまして。その夫もだいぶ前に」
「そうか。大変だな」
「まさか。私よりあの子の方がつらいでしょう」
四郎は冷たくそう言いきる。何に対して腹を立てているのか分からないような混濁した感情が透けて見える言い草だった。
「いかんなぁ。僕はきっと他よりも生きるのに向いていないんですね」
その言葉の真意はつかめなかったが、その汚いものを吐き出すような姿には何か私だけが気づける彼自身の本質が含まれているように思えた。
「……今まで気を使わせて悪かったな」
ふと、無意識からそんな言葉が現れた。
四郎が訝しむような顔になった。
「急にどうしたんですか?」
「最近ようやくお前が泣いていた意味が分かったのだ」
「え?」
「お前と初めて会った日のことだ」
「あぁ」
「自分ではなかなか気が付けない自分自身を他者は当たり前のように知っているものだ。だからな、お前が知らなくとも私や周りの人間が知っていることも当然ある」
四郎は後ろ髪を掻き気まずそうに視線を逸らした。
「私たちは、何はなくとも生まれてしまった存在だ。腹をくくって生きることがせめてもの気高さだろう」
「おばあさんの言う事は難しすぎて分かりません」
「それはきっとお前が賢いからだな」
四郎は悲しみと喜びが混じったような顔を私に向けた。
その時、彼の背後から「おじさん?」と呼ぶ声がした。声のした方を向くと例の四郎もどきが立っていた。走ってきたのだろう。浅い呼吸を繰り返し肩が上下していた。雪の世界で傘を一本だけ持って佇む姿は四郎が過去から抜け出してきたようにも見えた。
「誰と話しているの?」
少年は恐る恐る聞いてきた。
四郎はその問いにしばらく悩んでから「友達だよ」と振り返ることもせず答えた。