レディ・イン・ザ・ボックス
「どうだい。夜遅くに訪ねてきた甲斐があっただろう?」
新井の声はあくまでも冷静だったが、その中には隠しきれない自賛の念があった。
だが、私はその声に反応している余裕など、その時持ち合わせてはいなかった。彼の声を聞き取ることに使う意識を、その声色を解き、読み取る思考を目の前の彼女に使っていたかった。
私の眼前にいるのは裸体の女だった。
彼女はガラスケースの中で、古い木製の椅子に座っていた。新井がどこかの骨董品店で買ってきたものなのだろう。彼は骨董品収集を趣味としていた。
若い女だ。しかし、少女ではない。その女は欠けていなかった。完全だった。だからだろうか、この女は全くと言っていい程官能的ではない。彼女は触れることすら躊躇われる一種の神聖さすら持ち合わせていた。
その理由の一つは、まず間違いなくその女の肌だ。白い。人のものとは思えないほどに白い。それでいて、やけに艶めかしい。きっとこの箱の中は真空なのだろう。私はぼんやりとそう思った。
「新井……これは、これはなんだ?」
「人形だよ。僕が作った」
新井が言う。今度は言葉に滲む自賛の念を隠そうともしていなかった。
「上手く出来ているだろう?」
彼は、もう一度彼女を見るよう視線で私に指示をした。
人形──。もう一度彼女の裸身を見る。──成程、それでか──。私の中で声がした。──だから、この女は欠けていない──。新井には、病的に神経質な部分があった。彼が人形を作るとしたら、一片の欠けも起こりえないだろう。
しかし……。私は女が人形だという事実を認めることは出来なかった。彼女は、確かに生きているというにはあまりにも完璧だ。だが、作り物であるというにはあまりにも自然だ。
「でもね、実を言うと彼女、失敗作なんだ」
私は驚いて新井を見た。
「彼女のどこに失敗がある……完璧じゃないか」
「それが問題なんだよ」
新井は冷たい目線を女に投げかけた。
「僕が目指しているものはずばり骨董品でね。彼女はそれに届いていない」
「どうして。彼女は完璧だ。変わらない。彼女が座っている椅子と同じだろう?」
私の言葉を聞いて、新井が堪えきれないといった風に笑い出した。
「君。本気で言っているのかい? 不変こそが骨董の価値だとでも?」
私は首肯した。
「馬鹿を言っちゃあいけないよ。骨董の面白みというのはね、昨日まで我楽多だったものが次の日には国宝に変わっている……もちろんそのまた逆も然りだが、とにかく、その虚ろな部分にあるんだよ。その椅子だってね。ほんの数十年前まではどこにでもあったような品だ。決して今のような骨董では無かった」
「だったらなんだ? 君が作りたいものは、時と共にその価値を増していく……そんなものなのかい?」
「違う」
新井は断言した。
「いいかい。僕が作りたいものはね、時と共にその価値……この場合美しさと言っても構わないが、それが移ろっていく作品なんだよ。この人形なら、ある時は神聖に、ある時は卑俗に、またある時は悲壮に……そういった具合だ。しかし、彼女を見てみろ」
女は、変わらずその場に佇んでいた。姿勢も、髪の一本すらも動いていない。
「……これが変わると思うかい」
否定出来なかった。女は、あまりにも完全で、完璧だった。非の打ちどころ、付け入る隙が一つたりとも無い。
「……でも、処女作にしちゃあ上出来だろ? だからわざわざ君を呼びつけて見てもらったって訳さ。ま、供養みたいなものかな」
「供養?」
「ああ。これは明日にでも捨てる」
私は明らかな動揺を覚えた。いなくなる? この女が?
「……この箱の中に座らせたのが良くなかったのかな。素材も変えてみるか……」
新井は、言うべきことは言い終わったとでも言うように、女を前にして何やら独りごちている。
その時だった。私は予感した。女についてだ。新井は彼女を人形と言った。私はそれを認めることが出来ずにいる。ならば、この女は生きているのか? これも違う。今度は確信だった。生きている女がああも動かないはずがない。それにあの中で人間は生きることは出来ない……。あのケースの中は真空なのだ。私はこの時初めて、女の顔を見た。豊かな黒髪、あどけなさの抜けた顔、閉じた目──。
人を模した作り物でも、人間そのものでもないのなら──答えは一つしかない。
この女は死体なのではないか。
*
伊豆だったろうか。最早忘れてしまったが、とにかく、海のある所だった。私達は三人で旅行に来ていたのだ。私と、新井、そして──。
「先輩方、待ってくださいよ」
少女だ。そのとき彼女は女ではなかった。成熟していなかった。確か名前は、岸と言った。
「何だい岸君その言い方は。それだとまるで僕達が悪いみたいじゃあないか。君が僕達に合わせるべきだと思うけどね。君、そう思うだろ?」
私はこの時酷く新井を軽蔑したことを覚えている。
「新井先輩以外骨董品店なんて誰も行きたがりませんよ。私はもう旅館で休みたいのに……あ、そうだ」
彼女は私の腕を不意に掴んだ。
「……何だい?」
「人質になってください。先輩」
悪戯っぽく笑うと、彼女は力強く宣言した。
「新井先輩。私、このまま先輩と旅館に行きますね。先輩が今回買おうとしてるのって、確か陶磁器でしたよね。ええと、ペントクチン産の」
「……景徳鎮だよ」
新井がうんざりした顔で訂正した。
「まあ何でもいいですけど、陶磁器ってことはきっと重いですよね。大変じゃないですか? 歩いて行けないこともないとはいえ、そんな荷物抱えて山道を登るのは」
成程、そういう脅しか。この面子の中で自動車を運転できるのは私だけだった。そして、旅館までの道のりも、調べた限りでは中々骨だった。
「ああいいよ。勝手にすればいい」
しかし、新井は何の躊躇もなくそう言い放った。
「疲れは一日寝れば飛ぶ。何しろ僕はまだ若いからな。でも景徳鎮の磁器は待っちゃあくれない。他に買い手がついたらもう消えちまう。明日でもいいや、なんて思った瞬間負けなんだよ」
新井はにべもなく言うと、私達のことなど知らないように歩き出そうとした。
「おい、新井」
私は一応、友人として呼び止めた。
「……何だい」
「本当に行くからな」
新井は心底雑に手をひらひらと振ると、歩を進め始めた。
*
「信じられませんよ、新井先輩」
彼女は、怒り心頭といった面持ちだった。
私と彼女は、車で宿に向かっている最中だ。発車してからというもの、彼女は新井を責め続けている。
「私はともかく……先輩のことまで知らん振りするなんて」
「気にしなくていい。あいつはそういう奴だよ」
「なんで先輩あんな人に付き合ってるんですか」
「……楽だからかな」
私は少しばかり考えて、言った。
「楽?」
「ああ。あいつは私と縁が切れても、きっと気にしない。友人というか人間関係に大した特別性を見出してないからな。多分、『世界には七十億も人間がいるんだから代わりなんていくらでもいる』なんて言い出す。そんな人間にはむしろ気を置かなくて良い」
彼女は、私の話を一通り聞くと、おもむろに呟いた。
「きっと、多分」
「何だい?」
「何でもないです」
彼女は私の腕を掴んだ時のような悪戯っぽい笑みを再び浮かべていた。
*
新井は私達より一時間遅れて旅館にやってきた。
「本当なら三十分もあれば来れたんだが……他にも色々と掘り出し物があってね」
肩で息をしながら、彼は古めかしい箱に入れられた品々を丁寧に部屋の隅に置いて行った。
「岸君はどうしたんだい?」
「今はまだ風呂だと思うよ」
「ああ……。彼女、時間かかるからな」
「ところで、夕飯はどうする? 下の食堂に行くかい?」
「この部屋でも食べられるのかい?」
「ああ」
「それじゃ、そうしようかな」
どうやら余程疲れているらしい。新井は横になると、すぐに眠り込んでしまった。こうなったら彼は中々起きない。私は退屈しのぎにテレビを点けた。今は夕方五時。画面に映ったのはニュース番組だった。報道しているのは最近問題になっている不正受給問題についてだった。つまらない。チャンネルを変える。地元密着型のニュース番組に切り替わった。縁もゆかりもない観光地のニュースになど興味はない。再びチャンネルを変えようとしたが、テレビに映った文字を見てその手を止めた。海岸で、死体が発見されたらしい。
その後、何か月かして知ったのだが、その死体の身元は岸という名字の女性だったらしい。私は、帰りの車の中で彼女がいたかどうかを覚えていない。それどころか、この旅行の記憶自体曖昧なものになりつつある。しかし、それから死体という語を目にするたび頭の中に湧くのは左足の欠けた女のイメージだ。
とにかく、その後彼女と会ったことはない。これだけは事実だ。
レディ・イン・ザ・マーダー
「岸……」
「岸君? また懐かしい名前が出たものだね」
無意識に彼女の名前が口を突いて出ていたらしい。
「久しく会っていないな……何をしているんだろうねぇ、彼女」
新井は懐かしげに言った。
私は、ガラスケースの後ろに回った。もしこの女が死体ならば、後頭部に裂傷があるはずだ—──私が漠然としたあの記憶からなんとか導き出した確信だった。
しかし、彼女の後頭部には傷一つなかった。ただ完璧な後頭部がそこにはあった。
「どうしたんだい。彼女のうなじでも見たくなったのかな?」
からかうように新井が言った。私は彼の言葉には何も返さず、再び彼女の正面に向かった。彼女の左半身を見るようにして、だ。彼女に継ぎ目はなかった。──やはり、欠けていない──。
私の記憶の中には岸というあの少女の姿はない。ただ、曖昧模糊とした彼女の存在があるだけだ。私は新井を見た。新たな人形のことを考えているのだろう。その視線は女に向かっており、私には少しも注がれない。
(新井が岸を殺したのではないか?)
ありえない話ではない。条件さえ整えば──。
証拠が無いこともない。まずアリバイ……新井が骨董品店に行っていたという時間、私は彼女の動向を把握していなかった。つまり、彼女と新井が出会っている、という可能性は十分にある。凶器は……そうだ。陶磁器だ。彼が部屋の中で開陳した品々の中にそれらしきものが果たしてあっただろうか? ……いや、岩場に頭を打ち付ければそれで死ぬのだから凶器は問題ではない。動機については……考える必要もない。そうなるべき理由があったのだ。この男ならその段になって迷うことはないだろう。
もちろん、そうでない可能性も十二分にある。まず、あの時の死体が私達と共にいた岸であるという保証はどこにもない。岸なんてありふれた名字だ。それに第一、私は彼女の容貌も、死体である岸の容貌も何一つ覚えていないのだ。大体、それが真実だとして何になる。彼女が岸だとでも言うのか? ──女は欠けていないじゃないか──。そもそも、女が本当に死体で、新井が殺したのだとすれば、私がこの場に招かれているのもおかしな話である。
「──馬鹿げた話だ」
「何がだい?」
「いや、何でもないよ」
新井は、それ以上は追及してこなかった。何やら不自然な態度にも思えたが、次の瞬間には首をもたげたその疑念は泡となって消えていた。
──完璧な女だ──。
私は最早この女から目を背けることが出来なかった。目を開けてくれないだろうか。彼女の瞼の裏にある瞳は果たしてどんな色をしているのだろう。想像もつかなかった。黒、青、緑……様々な色が私の脳裏を駆け巡った。水晶が埋まっているのかもしれない。そんな突飛な想像も浮かんだ。──駄目だ。女が欠けてしまう──。
あるいはこれが新井の狙ったことだったのだと思った。ミロのヴィーナスと同じだ。腕が欠けているからこそ、未知があるからこそ美しい。──美しい訳がない──。
不意に、このガラスケースの中にあるものが女でなければどうだろうという疑問が頭に浮かんだ。ヴィーナスでなく、ダヴィデなら……。瞬間、電流のような閃きが私の脳髄を襲った。
説明がついてしまう。新井は、この女のことをそもそも失敗作と断じていた。それに……素材だ。「素材も変えてみるか」……彼はそう言っていたではないか。
彼は私を素材にするつもりだ。私は直感した。やはりこの女は死体なのだ。誰のものかは分からないがとにかくそうなのだ。そうでないと、この女が有機と無機の狭間に佇んでいる事実に対しての説明がつかないではないか。
なら、いつだ? いつ新井は私を──。彼の方を見た。彼は顎に手を当て、何も呟かず女を見つめている。動く様子はない。私が視線を送っていることにも気づいていないようだ。
私はひとまず胸を撫でおろした。まだ猶予はある。だが、その時になれば私はもう……。
逃げてしまおうか。私の頭は極めて冷静に作動していた。何しろ、私は新井についてのことなら何にも増して知っているのだ。今逃げてしまえば彼は私を手に掛けることはない。それどころか、追ってくることもないだろう。これは確かだ。新井はそういう人間なのだ。来るべき時に一切の迷いもなく、そうでない時には余計な寄り道をすることはない……そういう人間だ。
だが、私は逃亡を選択することが出来なかった。女がいたからだ。彼女はもう間もなく捨てられてしまう運命にある。もう、彼女をこの目で見ることが出来なくなる?
……許されることではない。
この女から離れずに、かといって殺されることもなく、この場に居続けるには……。
さて、この部屋に置時計などあっただろうか。私は思案し始めた。
*
「彼女はあの中だよ」
新井は目の前のコンクリート製の建造物を指差して言った。
奇妙な建物だった。窓が一つもない。それどころか、ドアも見つからない。ただの立方体のコンクリート……それは森林の中にあるということも相まって、異質さを周囲に振りまいていた。
「あれは?」
「アトリエだよ。ようやく建てられた」
「何故窓が一つもないんだ?」
「おいおい……日光はあらゆる芸術の大敵だ。締め出すに決まっているだろう?」
何を今更。声が聞こえてきそうだった。
「ドアも見当たらないが」
「この角度からじゃ見えないってだけだよ」
新井はそう言って歩き出した。夜の森というのは冷える。かなり厚着をしてきたつもりだったが、それでも体の芯が冷えていった。
「……それにしても、君はどうしようもない奴だな。彼女だけじゃ満足できなかったのかい?」
「……もう彼女はいないだろう?」
新井は、困ったように肩をすくめた。
確かに、ドアはあった。私達が見ていた面の丁度反対側だった。重厚な鉄製の扉だった。
「開けたら、出来る限り早く閉めてくれ。外気が入ってきたら困るんでね」
新井はドアを開けるや否や、滑り込むようにして中に入った。私も慌てて後に続く。
ドアを閉めた。重い音が部屋の中に響く。部屋の中は完全な闇に包まれていた。
「少し辛抱してくれ。すぐに照明を点ける」
少しして、安っぽい照明が部屋を照らした。急な光に、私はしばらく目を慣らす努力を強いられた。そして、目を開けたその瞬間、私は部屋の中央にいるものに目を奪われた。
──完全な女だ──。
その女は円柱型のガラスケースの中で立っていた。長い茶色の髪を垂らし、目を閉じている。体は全体的に未成熟だった。
だが、何よりも目を引くのは彼女の両手足に刺された長大な杭だ。
「素晴らしい……」
私は瞬き一つせず、その女を見つめていた。口を突いて出た言葉には、恍惚とした響きが混じっていた。
「そう言ってもらえると嬉しいね」
新井は、私の隣で得意げに言った。
「しかし君、僕にはいまいち君がこれに惚れ込む理由が分からないんだよ。前の時もそうだったが……出来れば説明してくれるかい?」
私は驚いて新井を見た。その軽薄そうな顔には本当に疑問の色が浮かんでいる。
「……逆に訊いてもいいか?」
「どうぞ」
「何故理解できない?」
新井は楽しそうにケラケラと笑った。
「すまないね。別に君の嗜好を笑っているわけではないんだよ。そうか、『何故理解出来ない』か。ふむ……」
新井は、いつものように顎に手を当てて考えた。
「はっきり言うと……これを言ったらまた君は僕を問い質すだろうが……釘だね。あの両手足に昆虫標本よろしく刺さっているあの釘だ。……いや、違うな。あの釘自体は構わないんだ。あの女が突っ立ったまま釘を刺しているのが気に食わない。そうだな。これだ。せめて十字架に掛けられていれば……それはそれでつまらない出来にはなるが、理解は出来るだろう? 僕にとっても、君にとっても」
なんて無粋な。私の内に激情が巻き起こった。十字架に掛けるなど。それではこの女に意味が与えられてしまう。女は完璧でなければならないのだ。完璧であるのに余計な装飾など不必要の最たるものだ。
もう一度、女を見る。──やはり、完璧だ──。肌は雪の様に白い。しかし、それ故に、だろうか。生命を感じさせた。釘の刺さった両手足をじっくりと眺める。今にも血が滲みそうだった。
「新井、この中に空気はあるかい?」
ふと、私は新井に尋ねた。
「いいや。真空だ。本当は水も中に入れようとしたんだが……やめたんだ」
当然だ。水を入れては彼女は浮き上がってしまう……動いてしまう。彼女は人魚ではないのだ。
「素晴らしいな……」
うわ言のように私は言った。
「……不思議だねぇ」
新井が、私の隣で呟いた。私は、視線を彼に向ける。
「実を言うとね、君のことは今でも理解出来ないんだよ」
彼は、告解でもするかのように滔々と話し始めた。
「別に僕は理解が不可欠なものだ、なんて思っちゃあいない。別に理解など無くとも利害があれば人は共にいられる。実際、君との関係だってそうだ」
私もそれには納得する。彼との関係があったからこそこのような素晴らしいものを見ることが出来ているのだ。
「でもね、君との関係は利害だけでは済まないような気がするんだよ。君はどうだか知らないが、少なくとも僕にとってはそうだ。その証拠がこれだ」
彼が女を指差した。
「僕の好みで造形すれば、こんなものはここに無いはずなんだよ。そもそも、女になるかも怪しいもんだ。僕はミロのヴィーナスよりはダヴィデが好きだからね。でもねぇ、これを君が見ると思うと、自然にこうなったんだ。自分でも理解が出来ないものになった。だけれど、いや、だからこそ──」
新井はそこで言葉を切った。しかし、私の耳には、はっきりと続きが聞こえた。
──愛しいんだよ。
レディ・イン・ザ・パスト
箱を壊してしまおうか──。
私はそう思い立った。そうだ。そうすれば──。
ゆっくりと立ち上がる。そして、新井の方を見る。彼は意外そうな顔でこちらを見た。
「新井……置時計は……いや、重ければ何でもいい。何かないか」
「……君、何か乱暴する気じゃあないだろうな」
新井は身体を強張らせ、警戒した様子を見せる。
「……どの道、失敗作なんだろう?」
彼はどこか呆れたように溜息を吐いた。
「とにかく、僕のコレクションには手を出さないでくれよ……金槌なら奥の倉庫にあるから、それを使ってくれ」
私は素直にその言葉に従った。薄暗い倉庫から、金槌を手探りで探す。
あの箱を壊せば、彼女は動き出す。
ドライバー、ペンチ、ニッパー……あった。これだ。
私は、鈍く光る金槌を手に取った。これなら、あの箱を粉々に砕くことが出来るだろう。
浮足立った歩調で、私は女の前へと戻った。さながら気分はマジシャンだ。手にはステッキ、目の前には閉じ込められた女……彼女は私の手によってこの檻から抜け出すのだ。
クルクルと金槌を回し、大きく振りかぶって、檻へと振り下ろす──。
「……君はまたそうするんだな」
新井の声がした。金槌はガラスケースの眼前で止まる。私はゆっくりと新井の方を向いた。
「言っておくけれど、彼女は動き出さないよ。これは僕が微に入り細を穿ち作った人形だ。そんな仕掛けはしていない。保証するよ」
「……そりゃあ、お前にとっては屍肉の塊なんだから、そうなんだろう」
「何?」
「お前はこの女を殺したんだ。背後から一刺し……丁度椅子に隠れている部分をな」
新井は驚くでもなく、ただ私を見ていた。
「なんだその面は。予想通りって訳か」
「いいや……ただ哀れだと思ってね」
新井は私に背を向けた。
「ほら、どうした。壊すんだろう? 早くやればどうだ?」
言われなくとも。私は手に持った金槌を見た。──そうだ。まずは金槌だ……そうでないと、骨は砕けない。肉は切れない──。
私はガラスが砕け散るその瞬間を想像した。派手な音がするだろう。もしかしたら彼女はそれで目が覚めるかもしれないな。ガラスの破片には気を付けなければ。彼女が傷ついてしまう。……新井が背後から刺したんだったか? この際それはどうでも良いな。大体、彼は何者だ?
プレゼントの包みを剥す子供のような気分で、私は金槌を振りかざした。何故だろう、時間がやけに遅く過ぎていくように感じる。頭の中を記憶が駆け巡っていく。女、新井、岸、新井、女、新井、新井……。
体は止まらなかった。悲鳴のような音がする。ガラスが割れた。女に破片が降り注いだ。その一つ一つに女が映る。黒髪、白い肌、閉じた瞳……。
花びらのように舞い降りていくガラス片。そこに映る女は刻一刻と変わっていく。角度が? ──否。
目の前の女を見た。その女からは、血が──。
*
「……性癖というものは、色々とある。世界で最も多様なものと言ってしまっていいかもしれないね」
私は、彼の言葉を無視して、作業に没頭していた。
いつの話だったかは、最早分からない。だが、そこがとある教室で、やけに赤い光が差していたということだけはくっきりと頭に残っている。
「しかしまあ……。君のようなケースは初めて見たよ。いや、こんな状況に陥れば、こうなる人間は相当数いるのかな?」
彼がまるでコメディの狂言回しでもするかのように言う。その間、私は作業の手を全く緩めていなかった。体と脳が各々独立して動いているような感覚。気分が良かった。
私の目の前にあるのは少女の死体だった。生きている、というにはあまりに静かで、人でない、というにはあまりに自然すぎる。私は現在、死体の左腕を切り落としている最中だった。
何も、特別な道具が必要な訳では無いのだ。少しコツさえ掴めば──要するに、ハンマーでいかに細かな破片を生み出すことなく骨を砕けるか。そして、その地点をいかに早く捉えるかということだ──作業は早く済む。音もしなくていい。
実を言うと、私がこの作業に取り組んだのはこれが初めてのことだった。それにも関わらず、私はこの作業の神髄までも既に掴んでいた。手に取るように……いや、実際にどこかで手にしていた。そのような実感があった。
「どの道、君はこれでお終いだよ。聞こえるかい? サイレンだ。救急車だね。この娘を運びに来たのかな」
──それはいけない──
私は無意識的に呟いていた。
──これでは欠けたままだ──
私には、完全なものが見えていた。人間誰しもが美しいと思う黄金比のような……。しかし、その完全を理解できるものは私だけなのだ。それでいいと思った。私の中だけにある絶対の美……それはこの世全ての芸術家が挑み続け、終ぞ到達し得なかったものではないか。
「欠けたまま……? 成程。それでか。それで切らずにはいられないのか。ははは、馬鹿げてる」
彼は笑って私を見下ろした。私が完全な形に近づけていく少女に、彼は目もくれない。やはりこの美を理解出来る人間は、私だけなのだ。
「完敗だなぁ……」
理解が出来ない。そう言って、彼は少女を一瞥した後、私にある相談を持ちかけた──。
■■■・■■・■■
今の記憶は……何だ?
私の手から金槌が滑り落ちた。
「私は……」
頭を抱える。思考を続ける。思考を──駄目だ。
どれだけ考えても、記憶が複数あるという事実を否定できない。
おまけに、記憶の境界線までもが曖昧だった。四人の女……彼女達を私は……。
「なんだ。ついに限界かい?」
新井が冷たい声で尋ねた。
「だから勧めはしなかったのに、彼女に手を加えるなんてこと。挙句の果てに女が動くなんてとんだ勘違いをしやがった」
彼は呆れたように呟くと、頭を掻いた。
「……新井」
私は新井を呼んだ。……この男は本当に新井なのだろうか?
「何だい? 先に言っておくけれど、そのガラスの掃除は君がしてくれよ。それと、もう女を見なくていいのかい? 君の言によると、僕が付けた傷があるらしいが……」
「私は狂ったのか?」
新井は再び私の方を向いた。
「……僕は人間には大なり小なり狂っている点があるものだと思うね。だから一概に君が狂っているとは断言出来ないな」
「……狂っていないとすれば、私の中に浮かぶこの記憶は一体何なんだ?」
新井の目から光が消えた。その瞬間、私は言い表しようのない恐怖を覚えた。彼の一言次第だ。一言次第で……私には死よりも恐ろしい羽目に遭う。それを確信する。
「──いや、止そう」
新井は何かを言いかけたが、すぐに口を噤んだ。
「そもそも、今の人生自体、僕にとってはおまけみたいなものだしな。君から何かを得られるかもしれない。君もそろそろ諦めたらどうだい? 今のままじゃあ、君が欲しているものは永遠に掴めないよ」
無味乾燥な声でそう言うと、新井は部屋を出て行った。
「どうすれば……」
今にも消えてしまいそうな声が私の喉から漏れた。部屋に残っているのは私と散乱したガラス、そして今も変わらず佇み続ける女だけだった。
私の意識は再び霧の中へと隠れてしまった。先程までの違和感……自分が複数あるという、見方を変えれば自分が無いとも言える感覚は、最早実感として体に残るのみだ。
私は無意識的に頬を拭っていた。濡れている。涙だ。先刻まで死よりも恐ろしいものを突き付けられていたのだ。無理もない。震えすら起こらない。それ程までに安堵していた。
だが、私はその地獄に落ちる機会すら失ってしまったのだ。砂漠の真ん中に羅針盤も無しに放り出されたようなものだ。
「最後だ」
誰に言うでもなく、呟いた。視界の端には、女が映っている。
「この女を──」
どうするのか? 決まっている。弄ぶのだ。触れても良いし、背中の傷を確認するのも良いだろう。あの椅子から動いてくれるだろうか。もしかしたら剥製なのかもしれない。そうなら……。
とめどなく、頭の奥底から湧き出る事実を掻き消すように、思考が溢れた。
誰とも知れない女の前に立つ。彼女の目が開くことはない。
もう一度、彼女の顔を見てやろう──。ガラスが足に刺さるのも構わず、私は女の前に跪いた。
女は酷く平凡に思えた。
ゆっくりと、視界が暗くなっていく。胸の内の狂騒は、今やすっかり収まっていた。