私たち広島県の放送部代表の一行は、全国大会が行われている和歌山県のかつらぎ総合文化会館に来ている。そしてたった今、私は高校最後の朗読を終え、ホールを出た。
これで終わり。この夏の大会を境に三年生は引退する。
ロビーには同じ広島の代表の生徒やその後輩、各学校の先生たちが集まっていた。
「川村、おつかれ。よかったよ」
私の方を見て顧問の竹井先生が言う。ホールを中継しているテレビの映像から私の読みを聞いていてくれたようだ。私が広島勢の輪の中に加わると、みんなが竹井先生の方に身体を向けた。
「これで広島県代表の、番組作品、アナウンス部門三人、朗読部門三人の発表が終わりました。まずは大舞台をやりきった自分自身を褒めてやってください」
竹井先生や各学校の先生たちの話が終わると、生徒は一旦解散ということになった。この後は実行委員の生徒を中心に地域交流会があって、その後に表彰式があるらしい。後輩たちは強制参加だが、三年生は結果が発表される表彰式までは自由にしていいと竹井先生に言われた。共に競い合ってきた同じ広島の三年生で思い出にひたるもよし、一人で心を落ち着かせるもよし。
大会のパンフレットを眺めていたら、竹井先生に声を掛けられた。
「どうだった? 最後の朗読は」
「どう、ですか……」
少し考えてから答えた。
「楽しかったです。でも、私にとってあれがベストな読みだったとは思いません」
「最後に出たのがあの読みなら、川村のベストはあれだったんよ。出たものがすべてなんじゃけえ」
正論だ。ぐうの音も出ない。
「川村に心残りがあるんなら、それはお前が次のステージで輝いて晴らすしかない。今はまだ惜しい気持ちがあると思うけど、わかるな?」
「はい」
「今日はまだええ、でも明日からは部活に固執するわけにはいかん。お前なら次の目標に向かって頑張れるはずじゃ」
竹井先生はそう言って、どこかに行ってしまった。
私にとっての「次」。考えるまでもなく受験のことだ。この大会の結果が出て部活生でなくなってしまったら、目をそらすわけにはいかなくなる。もう三年生の八月上旬だ。真剣に大学受験を考え出す時期としては遅すぎる、ということを私は分かっていた。現実的な志望校や学部を決めなければいけない。模擬試験では県内の国立大を第一志望ということにしているが、数学が壊滅的にできない私には絶望的だった。
高校のクラスメートは、私と違い、既に受験モードに切り替えていた。彼らにとって受験はただの通過儀礼であるらしい。勝手にやってくるその時期に向かって勝手にやる気が出てきて、勝手に頑張れるもの。仲の良い友達が次々にやる気を出している様子を見て思う。私のやる気はいつになったら出てくるのだろう。部活はやる気が勝手に出てきた。しかし受験や将来のことについては考えるだけで頭が痛くなってくる。やりたいことなんかない。所謂「いい大学」に行きたいというモチベーションもない。ならどこでもいいのではないか、というと親や担任がそれを許さないし、自分自身、熱意の無い自分が嫌いでどうにかしたいような気がする。気がしても受験や将来についてやる気は出てこない。
明日からは部活を言い訳にすることもできなくなる。思い返せば濃い部活生活だった。週七日、朝と夕方、土日は一日中部活に出て、取材して、番組を作って、発声練習をして、三日に一日は竹井先生に怒鳴られて……。受験生だというだけで、そんなに簡単に決別して割り切れるようなものじゃない。
地面に座って考え込んでいると頭上から声がした。
「川村さん、緊張しとるん?」
声を掛けてくれたのは羽田さんだった。顔を上げると広島の三年生の出場者計四人(私を入れたら五人)が全員揃っていた。広島の読みの代表は全員で六人だが、二年生の山口くんは交流会に参加しているのだろう。
「そうかも。なんか疲れたんよね」
「うちらもよ。じゃけえ、これから三年だけで気晴らしにちょっと遠くに行ってみん?」
「遠く、っていうのは?」
「この会場に来るときに、根本さんがバスの中でカフェっぽいお店を見たっていうんよ」
ね? と羽田さんが根本さんを見た。
「あんま信用せんでよ。お店は見たけど、カフェかどうかはわからんし開いとるんかどうかもわからん」
「ええんよ。みんなで話しながら散歩しようや。カフェは、あったらラッキーってことで。表彰式まで毎年二時間くらいはかかるって、さっきうちの顧問が言いよったし」
私は頷いた。勝手に会場の敷地から出てもいいのかな、と一瞬考えた。でも竹井先生が好きにしていいと言ったのだし、バレたとしても、もう引退するからたいして怒られないだろうと思い至った。
ロビーを出てカフェへ向かう。会場の周囲は工場のような建物が三つと、小さな川があるだけで、あとは平野が広がっている。私たちは川に沿った道を通って会場までやってきたので、今度はその道をさかのぼってカフェらしきお店を探すことになった。
日陰の無い道を歩き始めると、あまりの日の強さに汗が噴き出してくる。川の水は流れが絶えてしまいそうなくらい微弱で、少しも涼を感じない。一歩踏み出すたびにサウナの蒸気みたいな風がねっとりと体を撫でた。
「うち、和歌山は広島よりも涼しいって聞いとったんじゃけど」
ふーっと重い息を吐きながら羽田さんが言う。
「ほんまに、それ……」
まだ歩き始めて五分も経っていないのに、私はお店探しの提案に乗ったことを後悔しはじめていた。尋常じゃないほど暑い。みんなも、暑い、暑いと零している。誰か「やっぱり帰ろう」と言ってくれないだろうか。私にそれを言い出す勇気はない。
「あー、綾瀬さん、ずるいっ!」
何事かと思って後ろを向いたら、後列で根本さんの隣を歩いている綾瀬さんが、日傘を差していた。
「根本さん、ずるいって言い方よくないよ。綾瀬さんえらいね」
永原さんがたしなめる。綾瀬さんが日傘を傾けて、根本さんに「入る?」と聞いたが、根本さんは真っ赤なお饅頭みたいな顔を更に赤くして、「いい」とそっぽを向いた。
それから二、三十分くらい私たちは無言で歩き続けた。暑い。そろそろ私が帰ろうって言った方がいいだろうか。「帰る」か。広島に帰ったら次の地獄が待っている。周囲との差はどのくらいついているのだろう。私は部活生だから普段の授業にプラスされる補講が免除されていたけれど、同級生たちは放課後や土日を補講や塾で埋めている。この夏休み、私が部活に出ていた間、クラスメートは集中補習を受けていたらしい。
今更周りに追いつけるのか。後悔先に立たず。今となってはどうしようもないことほど心を蝕んでいく。もうどうにもならないのではないか。まだ志望校も決めていないのに浪人の可能性を感じて頭が痛い。広島には帰りたくない。それにしても暑いな。
結局一時間近く歩いた。戻るタイミングを見失った私たちは、引くに引けなくなってしまったのだと思う。ようやく、これか、という木造の飲食店を見つけたが、近づいてみるとドアノブに「closed」の札がかかっていた。
「残念!」
永原さんが言った。暑さに加えて、ずん、と重量感のある疲れがのしかかってきた。暑さに決死の想いで耐えてきたのに、徒労に終わってしまった。
「うちが悪いとは言わんといてよ。お店は見たけど、カフェかどうかも開いとるんかどうかも分からんって先に言っとったんじゃけ」
根本さんが不満げに呟く。
帰ろうか、という雰囲気になったとき羽田さんが口を開いた。
「ねぇ、あそこまで行ってみん?」
羽田さんが指差した方向とみんなの視線が重なる。川が分岐して、細くなった道の少し奥まったところにピンク色の建物があった。桃色じゃなくて人工的なピンク色。屋上に何やら大きな置物が数個乗っている。ここからだとはっきりとは分からないが、建物よりも私たちがいる位置に近い所に置かれた看板の上に座って、「宿泊 3200円」の旗を持たされているサンタクロースと同じものだろう。
恐らく、私を含め全員が、道中でこの景色になじまない建物の存在には気づいていたと思う。気まずくて、できるだけ存在に気づいていない風を装っていただけだ。
正気? と聞くと、羽田さんはまじめな表情をして頷く。
「ええじゃん。これも思い出作りの一つよ」
「うちはええけど」と、私はひかえめな返事をしたが、内心はすごく気になっていた。子供禁制の未知の空間。広島にいると、こういうホテルを見たら視界に入れないようにやり過ごす私だけれど、今は和歌山県にいる。私がこの建物を凝視しても、咎める親や気まずくなるような友達はいないのだ。ちょっとくらい悪いことをしてみたい。暑い中これだけ耐えて歩いたのだから、何か収穫が欲しいという気持ちもある。暑さでおかしくなってしまっているならそれでいい。とにかく近くまで行ってみたいと思った。
「高校最後の部活の思い出がこれになるってことぉ?」
言いながら、根本さんも嫌ではなさそうだ。「私はみんながいいなら……」と永原さんも頷く。断るとしたらこの中で一番上品な綾瀬さんかなと思ったが、彼女は「私も! 行ってみたい!」と興奮ぎみだった。
やばいやばいと笑いながら進んでいく。さっきまで八月のカンカン照りにこたえていたのに、一気に元気を取り戻したみたいだ。おかしい。さっきまで軽く鬱状態だったのがうそみたい。
建物の解像度が上がってくる。遠目から見ると、サンタの置物は看板の上にいる一体しか分からなかったけれど、実際はホテルの建物の上にもたくさんいた。プレゼントらしい袋を背負っていたり、箒にまたがっていたり、中にはトナカイ付きのサンタもいて、変に力を入れているのが滑稽でまた笑った。
ホテルに向かってずんずん進んでいく。気分は勇猛な戦士だ。敵地に向かう我々に怖いものはない。どんな話でも笑えるし、ためらうものなど何もない。
看板を通り過ぎ、徐々にホテルに近づくにつれてみんなのボルテージも上がっていく。序盤、永原さんだけが「こんなんで盛り上がるって、女子としてどうなんじゃろ……」とうなだれていたけれど、吹っ切れたのか、彼女も笑っていた。
とうとうホテルの目の前までやってきた。入口にはサンタが三体いて、そのうちの一体がこちらを手招きしている。
「着いた……」
近づいてみると、サンタは思っていたよりも汚れて黒ずんでいた。表情は笑っているけれど、目が笑っていないというか、不気味に感じる。少なくとも子供が両手を上げて喜ぶようなサンタさんではない。その時私は、ホテルの入り口を、異世界に向かう扉みたいだと思った。一歩足を踏み出したら、暗闇に呑まれてしまって先が見えなくなる。それでも入ってみたいような、でも、やっぱり少し怖い。私は今十七歳であり、あと一年経てば成人するが、大人になればこの境を軽々抜けられるようになるのだろうか。自分はまだ子供なんだなと実感した。
さっきまであんなに騒いでいたのに、建物を目の前にするとみんな黙った。それぞれ感じていることは違えど、圧倒されているのは同じらしい。
すると、入り口の奥からエンジン音がして、目の前の入り口から一台の車が出てきた。運転席に男性が、助手席に女性が座っている。みんなで慌てて端によけた。
「あれって、さ」
と根本さん。言いたいことは分かった。
「そういうことよね」
ふっ、と羽田さんが噴き出した。「生々しいっ! 生々しいよ!」と叫びながら根本さんも笑っていた。一気に現実に引き戻された感じがした。「うちらって、もしかしなくてもやばい?」と永原さんが言う。華の女子高生とは誰が言ったのか。実際はラブホテルで大笑いする小学生男子みたいな年頃のことらしい。
私も久しぶりに心から笑った。最近は受験とか将来とか、まじめなことばかり考えて塞ぎこんでいたからか、こんな馬鹿らしいことがおかしかった。親の前でやったら、品がないと怒られるくらい口を大きく開けて笑った。それがラブホテルに対する正しい反応の仕方に思える。こんなに楽しいのなら、ラブホテルと日常の境も分からなくなるような大人にはなりたくない。
それから、ホテルの入り口をバックに記念写真を撮ったり、サンタに鼻が触れそうなくらい近づいたりしてはしゃいだ。「そろそろ戻らんと! 式に遅れるわ」と永原さんが言って、別れを惜しみながら帰路についた。
帰り道。カフェを目指していた時の憂鬱は霧消して、すごく晴れやかな気分だ。真夏の太陽のいささか強すぎる日差しが、私たちの背中を押してくれている。大丈夫。広島に帰ったら受験に対してやる気を出さなくてはいけないけれど、それもどうにかなる気がした。
私たちが会場に戻ったときには既に表彰式が始まっていた。結果、広島勢は惨敗だった。私を含め広島はどの学校も表彰台に上がることはできなかった。その上、竹井先生に会場の敷地を勝手に出たことがバレていて、私たちはこっぴどく叱られた。交流会の途中で三年生が一人もいないことに気づいた竹井先生が探し回っていたらしい。ごめんなさい。でも、後悔はしていません。
式が終わって、結果と、それからこれまでの部活生活を思って少し泣いた。しかしすぐに取り戻して、私はこれからのことを考えた。行ってみたい大学や学びたいことを今なら見つけられる気がする。まだきっと間に合う。私はエネルギーに満ち満ちていた。ホールを出ると、会場の映像を外に飛ばす中継車が目に入った。そういえば、この大会の中継や機材の運営をしてくれているのは大阪にある芸術大学の映像科の人たちだった。映像科って、何をするんだろう。放送部でやってきたことと近い気がする。私は既に片づけを始めている学生さんたちに声をかけに行った。