ああ、誰か! 僕が死ぬ時にはささやかな微笑みを下さい。愛や幸福は結構ですから。そんなものには初めから縁がなかったですし、受け取る資格だってありません。それは現世を生きるあなた方があなた方の愛するもののために暖めておくべきものでしょうから。あなた方はそれを大事に息づいていてください。
ああ、誰か! 僕が死ぬ時にはささやかな微笑みを下さい。お礼に死に顔をあげますから。気楽で、爽やかで、慈愛に満ちた出来るだけ美しい死に顔をあげます。そのために毎日、一人で月光を浴びています。あなた方はそれを胸に抱きとめ、あなた方の暖かなる生を生きるが良い。
ああ、誰か! 僕が死ぬ時にはささやかな微笑みを下さい。僕にはもう何もないのですから、せめて尊い犠牲者ではいさせて下さい。あなた方の幸福を祈らせて下さい。あなた方の道に良き愛と幸福とがありますように。何かしらの結実がありますように。
もし本当に孤独な夜に涙が止まらなくなりましたら、微笑みを貰って死んでいった哀れな男を想い出すと良い。独りぼっちは独りじゃないことを、きっといたわりの死に顔をもってあなたに教えてくれるでしょうから。
四月一日。月曜日。
晴れの日。僕は今日、非常な決意をした。忘れぬようにこれから度々僕の行動や考えを記録する。魂に刻みつけるのだ。今日から僕は新しい人間になる。今までの怠惰を捨て去り、姉さんの頑張りにも大いに報いる。目下の目標は一年後のT大への入学だ。それは姉さんも前から望んでいたことなので、話してやったらひどく喜んだ。
「圭ちゃんなら、きっと叶うわ」あまりにも清純な眼で、僕は俄然やる気になった。早く立派な人間になって、姉さんに楽をさせてやりたい。
姉さんは不憫な人だ。親がいないので、昼も夜も働いている。借金の返済と僕の学費の貯蓄のためにお洒落一つ満足にできない。今年で二十五になるのに、浮いた話の一つもない。非常に聡明なのにぼくのために大学へは行かなかった。家にいるときは、大概、静かに寝息を立てているか、僕のくだらない話に微笑んでいる。父さんがまだ健在だったころは熱心に書いていた小説も今ではまるで止してしまった。全部、僕のためだ。自惚れではない。だから苦しい。あれはもう七年以上も前のことだ。
ある休みの日、ショッピングモールに出かけて、仲睦まじそうな家族たちを横目に僕らは靴売り場へ行った。何も知らされていなかったので、僕は茫然と辺りを眺めていたのだが、ふと、「圭ちゃん、好きなの選びな」と姉さんが言う。「いいの?」と僕が尋ねると、「ええ」と姉さんは微笑んだ。「もうすぐ、十歳の誕生日でしょう」
その時の姉さんはその日出会った全ての人間より、いや世界中の誰よりも美しい顔をしていた。僕は一番欲しかった、クラスでも流行っていた白のスニーカーを手に取ろうとし、その時、ちらと値段を見たら驚いた。一瞬考えて下にあった安い黒のものを手に取り、「姉さん、これにするよ」
「そう、きっと似合うわ。お会計に持っていこうか」
笑って言う姉さんの瞳の奥の深い悲しみ。一生涯忘れないだろう。僕はとんでもないことをしてしまった。
夕暮れの帰り道、二人とも黙って歩いた。正確には僕がすっかり黙ってしまったのだ。こんなにも素敵な人がどうしてここまで辛い目に遭わねばならぬのか、僕は不思議でたまらない。姉さんは僕の方に時折、心配げな視線を投げる。それがたまらなく苦しかった。神様、どうか姉さんには幸福をお与えください。僕は自分を贄にして姉さんのための幸福に姿形を変えてしまいたかった。
昔を思い出して、話が少々横道にそれたが、とにかく姉さんはいい人なのだ。こんなに良い人は天界にだってそうそういまい。僕は必ず姉さんに報いなければならぬのだ。一日十時間の勉強に励もう。
そうだ。ちなみに、始めにあったのは、僕の好きな実鈴という詩人の作品である。題は分からなかった。少年趣味だろうけれど、僕はこれを日記の一ページ目に貼り付けるようにして書いた。その意図をわざわざ書いたりはしない。今からの僕の生活にはまるで関係のないことにしたいからだ。
四月七日。日曜日。
快晴。明日からは高校三年生だ。日記は一週間ぶりだが、それはこの一週間、僕の決意と行動に何の心配も不安もなかったからである。要するに上手くいっていたんだ。ただ今日は、久しぶりに姉さんが一日中暇だったので、駅前のモールの美術展に出かけ、その後は映画を見たり、ご飯を食べたりしているうちにいつの間にか日も暮れていて、晩御飯の後もダラダラとお喋りに熱中しているうちにいよいよ夜も更けてしまった。明日の準備をさっさと済ませて、寝る前の今、慌ててペンを握っている。楽しかったあまり、今日は勉強もしていなければ、物事を深く考える思索の時間も取れていない。こんなことではいけない。気持ちを改め、今日はもう眠る。
四月八日。月曜日。
晴れ。微風良し。始業式は退屈。目新しいことは何もなかった。今日の外での収穫は、吹き付ける暖かな春風で、はららかに舞い散る桜の花びらを見れたことだけ。
四月十二日。木曜日。
やや曇り。今日の朝ご飯もパンである。我が家は毎朝、必ずパンだ。それは思想でも、好みでもなく、単に姉さんが昼間はパン屋さんで働いているという理由からである。姉さんが働いてるパン屋さんは駅前の商店街の一角に昔からある古い店で、気の良い初老の夫婦が経営をしている。僕ら姉弟のことも何かと気をかけてくれており、いつも余ったパンを姉さんに持ち帰らせてくれるし、シフトをはじめ、働き方にはかなりの融通を利かせてくれている。数年前に改装された店内にはイートインスペースがあるので、お客さんが減る昼時以降、時たま僕はここで姉さんを待ちながら勉強をさせてもらうこともあった。
「圭吾くんは良い姉さんを持ったね」
僕がシャーペンを動かしていると、これも時たま、夫婦の男の方、茂道さんが話しかけてくることがある。
「はい、自慢の姉さんですから」
茂道さんは、うんうんと、頷きながら、自分も椅子に座った。
「弱音一つ吐かない子だから、本当にすごいよ。仕事もてきぱきとやるし、もし僕らに息子がいたら、是非ともお嫁さんに来てもらいたかった。って、本人いないとはいえ、弟くんの前でこれはあんまり良くなかったかな」
「いえ、僕は構いませんし、たとえ姉さんが聞いていても気を損ねたりはしませんよ。あの人は本当に偉い人です」
「でも、いないんだもんねぇ。君が、あの子を褒めてやるんだよ」
茂道さんは僕ら姉弟を羨ましがるような、同情するような、不思議な声色でそう言った。
「言っているんですけどね、認めないんですよ、あの人は。そうしてその限り、高い高い場所に上ってゆくんです。僕も置いていかれないようにしなくちゃいけない」
ああ、僕は時折、思うのだ。姉さんがもっと嫌なやつだったら良いのにと。もっと自分勝手で、いい加減で、私利私欲が傲慢に繋がるような人だったら良いのになと思うのだ。でも、現実の姉さんは誰に紹介しても誇らしい自慢の姉で、誰かを大事に思うことに何ら抵抗のない人だから、僕は日に日に苦しくなるのだ。
この夫婦には娘が一人いて、今は東京で勤めているらしい。彼らの優しさには、その寂しさを埋めるためという意味合いもあるのかもしれないが、いずれにせよありがたいことだと思う。感謝せねばならないものだ。
「お待たせ、圭ちゃん。帰ろうか」
姉さんは夕方、仕事を終えると、帰りに夕食の買い物をすませ、家に帰るとすぐに夜ご飯を準備する。そうして週に三回ほどは、夜の仕事に出かけていくのだ。今日は行かない日で、僕のセンチメンタルな魂がひどい日だった。姉さんと二人ご飯を食べていられるのがひどく不思議で、夕食後、僕はまた、昔のことをぼんやりと思い出す夜をすごした。
客観的に見れば僕は今からでも働くか、遅くとも高校を卒業したら働くべきだ。そうして二人共が自立して生活を送るべきである。しかしそうもいかない事情がある。精神的な、けれども大事情だ。姉さんは僕のために進学を諦めた。というのも、もう十年近く前だろうか。両親が居なくなった僕ら二人を半ば強制的に引き取らされたおじさん夫婦はひどく僕らを疎んでいて、聞き分けが良く家事でもなんでもテキパキとこなす姉さんはともかく、事あるごとに反抗的な目つきを向ける生意気な僕は蹴られるだの殴られるだのが日常茶飯事だったのだ。おじさん夫婦には子供がなくって、多少大人になった今ではおじさんたちの心情的にも経済事情的にも同情出来る余地は幾分かあるが、そんなことなど知る由もない当時の僕は家に帰るのが嫌で嫌で仕方がなかった。だから、姉さんが高校を卒業して家を出る時、「一緒に行く?」と笑った姉さんの手を僕は握ってしまったのだ。姉さんは大学に行きたかったのに。姉さんは働きたくなんかなかったのに。姉さんにも一人で生きていくことへの寂しい思いがあったのだから、僕と一緒に暮らしている、なんてのは当たり前の事実でしかない。そんなものは利己的でも、姉さんのメリットでもなんでもないんだ。
姉さんの想いも背負って、僕は勉強をしなければならん。そうして立派にならねばならない。あの人はいい人だから、不満や不安を僕に背負わせることは決してしないが、期待や感謝は平気な顔で背負わせてくる。ありがたいけれど、重いもの。愛おしいけれど、重いもの。一旦、傍に置いたら壊れてしまうもの。僕はどうしたら良いのだろうか。今のところは自分自身を鍛える以外に対処法を知らない。
四月十五日。月曜日。
晴れ。本格的に新学期が始まり、クラスの連中も一新された。一通り眺めたが、碌なやつがいない。高い志を持った人がまるでいないのだ。担任の村田先生まで腐っている。
「いいか、君らの高校生活は今年が最後だ。悔いなく頑張れよ。青春の尊さなんてのは大抵、後から気づくものだからな。今はとにかく遮二無二やるんだ。そしたら必ずいいことが待ってる」
何がいいことだ。頑張らなかった挙句があの中年太りのだらしなさなら頑張るだろうが、それでもあんまり馬鹿にしている。僕は、これをよほど前から思っていたのだが、先生という人種は驕りがすごいね。自分自身のことを、あたかも百戦錬磨の人間通かのように思い込んでいる。大人のくせに、本当のことは一つしかないんだと根拠もなく盲信している。これではクラスの連中がてんで話にならぬのも仕方がないことだと思った。
家に帰って、「どいつもこいつも全然ダメだ」と愚痴を言ったら、「まだよく知りもしないのに滅茶苦茶言って。先生だって案外、皆を思って言ってるものよ。さあさあ、早くお風呂掃除をしちゃってちょうだい」
お玉で鍋をかき混ぜながら姉さんは言った。僕は第一印象をもってしてその人への感覚が凝り固まってしまうんだ。僕の心は姉さんほどきれいにできていないのだ。口には出さず、お風呂掃除に勤しんだ。今日はもう早く寝よう。僕は一人でも学校生活と戦ってやる。明日からは徹底抗戦だ。
四月十六日。火曜日。
晴れ。部活を辞めてしまおうか検討している。今年から赴任した新しい顧問と反りが合わない。前年までは緩く楽しくをモットーにしたお遊びみたいな部活だったのが新しい顧問のせいで一変したのだ。厳しい練習が始まった。しかし、はっきり言って僕からしてみればそれは全然苦痛じゃなかった。じゃあ何がと言われれば、今年からの新体制が当たり前だと思っている新入生と、去年までの楽しさを重視したままの上級生との間に立たされるのが辛かった。顧問の塚本はその憎まれ役を部長や副部長らに押し付けてばかりで自分では何もしない。練習や方針の指示も部長や副部長である僕らにだけ伝え、何かしら思ったらしい愚痴や不満も僕らにだけ、やたら滅多らに吐き出してくる。そのくせ、ベンチで練習を監視し、練習の始めと終わりには偉そうなご高説を垂れてくる。院政みたいな形で部活に介入してくるのが、僕は気に入らなかった。あんまり気に入らなかったので、今日、「だったら自分で言ってくれませんか?」と試しに反抗をしてみたら怒鳴られた。
「お前らの部活はお前らでやるもんだ!」
それ以降は何を言っても無視された。それなのに練習終わりには、僕ら幹部は部室前に集まれと傲然と言うので、僕は我慢ならぬくらいに腹立たしくって、そのまま直帰してやった。
「圭ちゃん、あんまり先生を怒らせん方がいいと思うな」
気が小さく、心配性な会計の小池はそう言ったが、「構わないさ。ああいう手合は血管が切れるまで怒っているがいいんだ」と言い残して、僕は帰った。
家に帰ってから、彼の心配は僕へのものでなく、僕がいないということによって発生するだろう顧問の怒りが自分達に向けられることへの不安、不満からのものなのだとようやく気づいた。悪いことをしちゃったかもしれない。
まぁいいや。戦いは無益。得るものひとつない。外のことなんか気にしないで、自分自身のことに集中しよう。明日のことは明日の自分に任せましょう。
四月十七日。水曜日。
曇りのち雨。青空にあこがれ、ため息をつく。つまらない一日とはまさしくこういう日のことを言うのだろう。昨日なんてまだマシな方だった。これが続くなら学校なんてもう二度と行きたくない。
お昼までは良かったのだ。ピーヨン、ピーヨンと名の知れぬ鳥の鳴き声が窓外のどこかから聞こえて来るのに耳を澄ませながら、そろそろ葉桜が思い出されてくる四月中旬の暖かさに身を包みながら、僕は学校に対して安らかだった。それが昼過ぎの総合の授業で、委員会の役割配分や校外学習の班決めなど、僕の嫌いなものが目白押しになって台無しになった。時間内に終わらない上、変な争いや牽制が随所に見え隠れていて、暗澹たる気持ちになった。これだったら、いっそくじ引きで全部済ませたい。
さらにつまらぬことがもう一つ。昼休みにあった顧問の塚本からの呼び出しの放送を無視していたので、なんとなく予感はしていたが、放課後、帰りの挨拶が終わるや否や、顧問があちらからやってきたのだ。鼻息を荒くしながら怒鳴る塚本に僕は退部の旨を伝えたが、彼は取り合わなかった。副部長の退部など認められないのだそうだ。ならばこちらも取り合わないだけだ。僕は対話を破棄して、鞄を背負った。塚本はますます怒った。
「ここで逃げたら、一生逃げ続ける人生だぞ」と、最終的に塚本はありきたりの文句を吐いた。僕は彼が教育者であることが信じられなかった。あいつは最後、実力行使に出ようとして、手を振り上げて、一瞬躊躇してそれを止めたのだ。僕は確かにそれを見た。しかも躊躇の理由は、なんだなんだと、騒ぎに集まり始めた先生や生徒らの目線であったに違いない。
あいわかった。これからは部室と体育館には行かなければ済む話だ。幸い、あいつの担当は一年生の国語なので、直接関わる機会はない。部活がイヤならやめたら良いのだ。そう思って校門の方へ歩き出したら、今度は部長や会計、幹部たちからの慰留があった。僕が辞めたら彼らが困るのだそうだ。部長の上村が代表して言った。
「馬鹿な真似はよせよ。みんなが迷惑しているんだ。いい加減に戻ってこい。今なら塚本先生だって許してやるって言ってたぜ」
「せめてお願いの形を取れよ。あれだけ顧問の悪口を言っていたのに、結局はあいつの駒じゃないか」
僕が言い放つと、上村は口角を上げた。彼が怒り出す前触れの仕草である。
「お前は俺たちのことなんかまるで分かっていないんだ」
上村はそう言って仲間たちを一瞥した。彼らもまた同様の気持ちらしい。場は硬直した。
君たちだって僕のことをなんにも分かっちゃいないじゃないか。本当に嫌なら辞めれば良いのに。ずるいだの、最後までやれだの、お前はおかしいだのを口々に言われて、僕の気持ちはお構いなしか。僕は不愉快な気分になった。いい加減帰りたくなって、校門の方へ向き直ったら、上村が腕を掴んで帰さまいとしつこかった。部員たちも僕を掴もうと押さえかかってきたので、僕は足で砂を蹴って、奴らに浴びせた。その隙に走って帰った。
無理やり連行されたところで、僕はもう何も働く気がないというのに、奴らは一体何がしたいのだろうか。想像力の欠如と自立なき心は罪だと思った。そして、僕の心の中には不思議な悔しさみたいなものが渦巻いていた。なんでだかは分からないけれど気持ちの良い感覚ではないから早く消し去ってしまいたい。
四月十八日。土曜日。
曇り。夕方から小雨。全部が解決した。ちょっとした話し合いがあり、僕は晴れて退部者扱い。ひどく疲れた。今日はもう何も出来ずに夕食を食べてからぼーっと天井を眺めている。人生を真剣に生きようと決意を固めるほど、人生から色が失われてゆくのは、この世の何か欠陥みたいなものじゃないか。
弱音はこれくらい。明日からは全てがリセットされ、僕の道は開けるでしょう。
四月十九日。金曜日。
晴れ。今日も僕の魂は進展している。人を四人笑顔にした。一人は姉さん。一人は堅物だと思っていた村田先生。
放課後、鍵を閉めなきゃならんと、いつまでも教室に残っている僕を追い出すがてらに先生は、「この間、生徒の手前だからああは言ったが、自分も学生時代は偽物の心緒を掴んで良い気になっている先生たちを軽蔑していた」と僕に向かって懐かしく語った。
「作文に学校や先生への手酷い叱責があるんだからなぁ。旧体制の俗物の卑しさばかりが溢れている、だなんて」
先生は後ろ頭をかきながら言った。ぼくはちょっと赤くなった。
「それは僕も子供でした。今度からは心中に全部留めておきます。言い訳じゃないですが、あんな作文、真面目に読まれるだなんて思ってもいませんでした」
「いいんだよ、別にそれで。お前が真剣だってことが一番大切なんだから。先生はサンドバック役も兼ねているんだ。こっちだって偉ぶるばかりじゃ馬鹿になるよ」先生は笑った。
「もっと下手に出てくれても僕は構いませんよ」と、僕がおどけながら言うと、今度は先生、声を立てて笑った。「お前がもっと偉そうな態度を取ればいいんだ」
そう言って廊下を行く先生の後ろ姿には確かな大人の印象があった。
さて、残りの二人はクラスメイトの女子二人組。今日のお昼──いや、やめだ。あぶない。あぶない。浮き足立って書いている途中、つまり今気づいたのであるが、これを嬉しがって書こうとしている時点で全然ダメだ。こうやって書いている最中にも、誰かへの自慢の気持ち、衒う気持ちがないとは言い切れぬ。日記なんてのは誰に見せるでもないからこそ、傲慢の本性が育ちかねない。よくよく注意せねばならぬ。
四月二十一日。日曜日。
暗い雲。本日は、僕の特技の中の一つにセンチメンタルに浸ることが追加された日だった。起きてもカーテンから漏れ出る光の一切がなく、リビングもどこか薄暗かった。外は雨の音無く、暗い雲が空中に広がって世界は鉛のように重く重くなっていた。頭がズキズキと痛い上に、僕は憂鬱と不安と孤独の色が頭に溢れて仕方なかったので、気分転換に朝食を作り、漫画を読み、外へ出かけたりとあれこれ試した。が、かえって苦しみは深くなる次第で、僕は薄暗い部屋の中、ほとんど無意識にペンを握った。すると、冬の寒さのような淋しい絶望は闇の中に悶える熱情みたいな絶望に変わった。
薄雲が照らされる夜に彼は愛を唄う。祝福の竪琴は遠くの方に鳴って、その揺曳を響かせる。この旋律は誰のために彩られ、誰のために綾なされたのか。奏者はいったい誰なのでしょう。彼のためと自惚れて良いのでしょうか。彼の信仰を試しているのでしょうか。
カラメル色の髪に恋をさせてよ。甘くないよ、苦いんだ。ちょっと焦げ付いて、ケガしちゃってもかまわない。甘いにおいで、わたしをさそう。カラメル色の髪に恋をさせてよ。
枯れた葉の中のきらめく優しさ。拾う人なく、いずれは消え散る運命か。本当は念願な優しさなのに、愛が包んでくれるというのに。いずれは消え散る運命か。ほぞを噛み切り、犬歯が笑う。
詩は読むだけのものでなく、僕自身の内にも住み始めた。病身の興奮なのか。この日の僕は頭だけでなく魂までもがどこか痛むらしく、やけに落ちつきがなかった。不健康な生命力が言葉を編み、僕を不出来な詩人にさせた。ああ、何かが確かに足りないのだ。
四月二十五日。木曜日。
晴れ。今朝は跳ね起きた。語るも恐ろしい夢を見たのだ。それは何らかの事件によって、僕と姉さんの血が繋がっていないことが発見される夢で、そこにいる僕らはひどく青白い皮膚をした一対の惨めに見えた。真っ暗だが、互いの姿はよく見える部屋の中で姉さんは言う。
「私がずっと不幸せなのは、この不完全な醜い半身のせいだった。でも今度こそは本当にさよならができるの」
恍惚とする姉さんの表情は僕の最も見たくなかったもので、言い終えると、姉さんの口から黒い黒い血液が垂れた。恐ろしくなった僕は逃げ出し、遮二無二走ったが、目の前に現れるのは抗えども必ず、悲惨な姉さんの姿態だった。そして、姉さんは滴る血なんか気にせずぼそぼそと言う。
「いったい、人間一人の背負えるモノには限界があるのよ。私だってそりゃ不出来だろうけど、自分にできる精一杯の範囲はがんばったわ。やれることは全部やったし、その見返りに無条件の安らぎを求めるような人間でもない。何かがほしいわけじゃないわ。でもせめて、この醜怪で、鉛のように重い足かせだけは外してくれたっていいじゃないの。これじゃあまるで囚人だわ。清いことを行っても誰からも見向きされないんだわ。きっとあなたたちは私を暗い暗い世界に置き去りにする気なのね。そうよ。きっとそうよ」
次第に半狂乱になってゆく姉さんを眺めながら、僕の視界は宙に浮いたように姉さんから離れ始めた。姉さんはまだ何かを呟いている。僕は聞こえなくなってゆくその声にできるだけ耳を澄ませながら目を瞑り、必死に何かを聞き取ろうと努めた。
次に視界を意識したときには僕は現実のベットにいた。朝がやってきて、カーテンの隙間から暖かな光がお辞儀していた。妙な不安が胸に残る中、僕は幼少期からの記憶を掘り起こしながら姉さんのいるリビングの方に行った。
「おはよう」と姉さんは笑った。笑う顔にできる愛嬌のあるしわや眉の形に僕と共通のある所を認めて、ようやく一息、安心した。そんな馬鹿なことがあってたまるか。そんな馬鹿なことがあってたまるか。でも、そんな瑣末とも思える事柄で、僕はどうして動揺なんかしたのだろう。どうして汗は垂れていて、どうして心臓はこうも激しく波打っているのか。僕と姉さんの繋がりは、血の繋がりのあるなしで変わってしまうようなちゃちなものではないはずだ。不変で美しいものであるはずだ。幽暗な思考の波に攫われながら行き支度を済ませていたら、そろそろ学校に行く時刻だ。僕はバックを背負い、玄関に向かった。姉さんが見送りに来た。
「いってらっしゃい」
姉さんの瞳は相変わらず輝いていて、その声色は泣きたくなるくらい柔らかかったが、そこには秘めやかなる永遠はなかった。僕は慌てて、「いってきます」と返したけれども、その僕の声にも何処かへ向かって持続するような響きはなかった。
四月二十七日。土曜日。
雨。天気が悪いので一日、出不精。夜は一篇だけ詩を書いた。
しとしと降る雨が地面をびちゃびちゃ濡らします。私の中の懊悩は絶えず流体化しています。今日はちょっと右半身の方にあります。
四月三十日。火曜日。
曇り。この前、姉さんが言った通りだった。僕は今、非常に興奮しているのだ。お昼休み、教室があまりに騒々しいので図書室へ行って本を読んでいたら、目の前に男が座ってきて、ややはにかみながら、「それ、『シナーの日記』だろう。俺も読んだぜ」
僕は大いに驚いた。
「一番好きな本なんだ。にしてもこの学校にもマシなやつがいるもんだね。ちょっと、慌てちゃった」
「人文学を志すなら当然だろう。まあ、お前の気持ちもわかるがな。ここの連中は動物か、機械しかいない」
男は目つきにも声にもやけに大人っぽい自信があった。学校という場と制服とがなかったら、しばらく敬語のまま話していたかもしれない。が、にやりと笑ったその口角には少年らしさが垣間見える。
「そうなんだよ。三年生になったら何か変わるかなと思ったらこうなんだから、イヤになる。ところで、『シナーの日記』を読んだんなら、『微笑みの美学』って本を知ってるかい?」
「知っているとも。君は造形が深そうだな。エストロの孤独について、君の見解を聞きたい」
男の声の調子が一段上がった。それを聞いて僕も歓喜した。。「ああ!」エストロは『シナーの日記』に出てくる妹思いの村の働き者で、彼はある日、妹を病気で亡くしてしまうんだけど、次の日にはいつも通り村の仕事に精を出すんだ。皆は不審に思うけど、エストロの働きぶりは大変助かるし、話をしても違和感なく、病んでいる様子だって全然ない。皆、エストロの心の強さに敬意を示し、一安心もしたんだ。けれども彼は妹の一周忌に崖から飛び降りて自殺してしまう。そして彼の家の地下室を調べたところ、なんと百冊以上の痛嘆の日記帳が見つかったというんだが、僕はこのエストロの話にたまらなく打たれたのだ。
「そう、つまりエストロはね」と言いかけたときだった。
「あのねぇ、図書室では静かにしていただけますかね」
僕らは少々高ぶり過ぎたようで、図書室の先生に注意された。そそくさと退散して、中庭の欅の木の下のところまでいってようやく笑い声を出した。
「初めて教師に怒られちまった。俺は原口。原口隆弘。三年二組だ」
「二組だと隣だね。僕は一組の佐々木圭吾だ。君とは仲良くやれそうだよ」
「続きはまた話すとしようぜ」
そう言って原口は駆けて行った。彼が去ったと同時に風が吹き、葉っぱが、はららかに落ちて来た。風を起こしたのは彼なんじゃないかと本気で思えそうな出会い方だった。要するにそれだけ唐突で驚くべきことだったのだ。僕が言えた義理でもないが、現代っ子ぽさが全くなかったな。不思議な奴だが、わるくない。同じ志を持った仲間を一人得たような心持ちだ。
五月十日。金曜日。
晴れ。風がやけに強い。話していくうちに分かったこと。原口もT大へ行くつもりだそうだ。文学か哲学をやるつもりで、夢は一端の学者。知への考究で暮らせたらそれ以上のことはないらしい。兄と弟がいて三人兄弟。運動がよく出来て、サッカー部に入っていたが、夢に繋がらぬことに気づいて止めてしまったそうだ。本人曰はく、文才はあまりないとのこと。いつも自我が先行しすぎるんだそうだ。また、これは原口に教えてもらったのだが、僕のクラスにも一人、木原という面白い奴がいるらしく、僕はさっそく色々と話してみたのだが、話すことの一つ一つがあまりに俗っぽくおまけに下品ときたもんで、僕は全然気に入らなかった。原口と同様の好感は抱けなかった。原口はこの男の一体何が気に入ったのだろう。ちょいと尋ねてみると、「あれより俗っぽいやつはいねぇからな。俺たち理想主義者はとかく足元がお留守になりがちだ。時折、あいつの話を聞くと損はねえぜ」それを聞いてから、僕は矢庭に木原が好きになった。
木原は僕らの夢物語を、ところどころ馬鹿にしながらも、やけに楽しく聞いてくれる。彼は筋金入りの理系人間で、突拍子のない非現実を鼻で笑うが、一方では案外ロマンというのを愛しているのだ。
「君らの話は荒唐無稽すぎるよ。それを現実に落とし込むには多少の妥協が必要だ。つまりね」
話は大抵、このようにして熱中していく。最近は三人でいることが多い。けれども各々、一人の時間も大切にしている。それぞれに進むべき道があるのだ。それを思うと今の僕らの共鳴もいずれは失われてしまう性質を有しているのかもしれない。ほんの少しだけ寂しくなった。また、木原もT大志望だそうで、これは偶然にしては、少々僕らに有利過ぎた。姉さんも僕に友達の出来たことに大変安心を得たようだった。姉さんから見た僕はどうもまだまだ子供らしい。悔しいが、姉さんの世話になっている以上、これは甘んじて受け入れねばなるまい。
五月十四日。火曜日。
晴れ。夕刻、少し雨あり。昨日の帰り道にあった原口との会話がずっと胸に引っかかる。それは議論の端々に僕が姉さんの名前を出してきたことに発端があった。
「お前はいつも自分の姉をやけに褒めるが、そんなに素晴らしい人ならば、その魅力を語ってくれないか」
「ああ、言ってやろう! 姉さんはね、」
意気揚々と始まった僕の説明はなんと画竜点睛を欠く形で終わってしまった。
「なるほどな、ありがとよ」
原口は何か察したらしく、思ってもいない感謝を述べた。不思議な発見だったようで、しばらくじっと考え込み始めた。しばらく待って、ようやく口を開いた。
「深い経験と知識なしには、最上のものは語り得ない。説明は平凡に終わり、受け手の中で対象物が死ぬからだ。お前の美学はそれを決して許さない。でも、何も言えず退散することはもっと許せない」
ゆっくりと紡がれた彼の言葉は、全く僕自身も同意するところのものであった。
「今度、直接会ってみることにしよう。俄然、興味が湧いた」
そのまま別れて家に帰り、僕はひたすらに考えた。そして一つの結論に辿り着いた。あの人の魅力をまともな文章やお喋りで言い表すのは、どだい不可能なのだ。僕は姉さんの持つ魅力の一ミリでも原口に伝えられなかった。言葉がこの世に現出した瞬間にその言葉は煌びやかな装飾を腐らせていた。僕は悔しかった。自分の実力不足もあるだろうけれども、僕は、言葉は何もかもを可能にするはずだと信じていたのだ。諦めきれず、色々と試した。その結果、詩の中でなら、まだ何とか体裁が保てた。恥ずかしいが、日記の上では披露しましょう。
ああ、その香り神様に近く、やわらいだ口元に光る歯は物を噛み切るとは到底思えない。目元は涼しく、その瞳はあらゆる愚かなものを慈愛の眼でもって許し、尊く光あるものをまっすぐな感謝で見つめている。鼻は小高く、しかし明らかな主張は是としない。眉もまた同様であった。髪は、だが、気高くはっきりとした語気をもってその存在を露わにしている。清冽な水の流れのようなそれは黒色だが、天界の光色にこそふさわしい。頭上には天使の輪がかかり、時折私の面差しに吹きつける心地よいそよ風は、あなたがその手でやさしく扇いでくださったからに違いないのだ。そうして、大げさね、と笑うあなたのお声からは、理性が立ち昇り、祝福が原野を駆け巡るようです。
ああ、たまらない。真実はいつでも恥辱に満ちている。そうして孤独に満たされている。だって僕はこの詩を、決して原口に披露したりはしないだろうから!
五月十七日。金曜日。
晴れのち曇り。授業中、先生から姉さんが倒れたと聞いて、血の気が止まった。駆けつけて、よくよく事情を聴いたら疲労と貧血ゆえの一時的なものだったらしく、僕は力が抜けた。張り詰めた緊張と決心が一気に解けて、僕はへたりとその場に座り込んだ。
「心配かけてごめんね、圭ちゃん」
姉さんは人を安心させるための笑顔を浮かべた。患者衣のせいか、姉さんはいつもより幾分か痩せこけて見える。
「謝るなんていらないんだ。姉さんが無事でさえあったら、もうそれだけで全ては解決したも同然なんだよ」
縁起でもないけれど、僕は姉さんが死ぬことがあれば、自分も死のうと、知らせを聞いた何秒後かには既に決めていた。なぜならば、僕が生き、姉さんが死ぬなんて世界は不都合で、非論理的だからである。そんな世界は間違っている。僕は決して認めないでしょう。老衰などではなく、何か不運によって姉さんが先に死ぬことが分かれば、そして、それが運命だと叫ばれるのならば、僕は世界への抗議の意味を掲げて、必ず自死を選ぶだろう。その時になったら、僕はせめて微笑を湛えて、衣服も綺麗に着て、知人らとは歓談に興じよう。朝日に交じって僕は消え去る。それはもう始めから置いていなかった白絹のスカーフのように。
でも僕は意志薄弱だから、それを遂行できるかはひどく不安だ。死ぬ直前まで、ちらちらと後ろから誰かがやって来はしないだろうかと、あり得ない希望に醜くしがみついたまま、無様に死んでゆくそんな気もする。分からないな。いずれにせよ、このことを思うと、舌を噛んで死にたくなるんだ。
五月十九日。日曜日。
大体、晴れ。うろこ雲が広がっていた。姉さんは元気。夕食はマグロの刺身としじみ汁。僕が作った。姉さんにはいつまでも元気でいてもらいたい。僕よりも早く死ぬなんてのは大変困る。
「疲れたら休むことです」
そう言って姉さんの茶碗にご飯をよそうと、姉さんは、「はい、はい」と頷きながら、それを頬張った。
「中々よろしい御手前で。今度はお米を水に浸す時間を取ると、もっといいよ」
「ははぁ。精進いたします。」
「うむ、苦しゅうないぞ。励めよ、励め!」互いにくすくす、笑いをこらえている。
真面目な話はどこへやら。僕らの茶番は延々続いた。しかし楽しい。書いてみたら、キザったいが、確かにその時は楽しかったのでそれで良いのだ。
五月二十六日。日曜日。
薄曇り。昼前、木原と原口が家に来て大いに騒いだ。それから三人で映画を見に行った。海外のホラー映画で、上映二時間。その後の感想会三時間。馬鹿げていると思って、僕は先にお暇した。
五月三十日。木曜日。
晴れ。中間考査が返ってきた。僕は大変自信があったので、緊張や恐れは全くなかった。テスト用紙を受け取る際には姉さんの喜ぶ様がありありと頭に浮かんだ。が、その後の佐治と木原との引き比べには流石の僕も少々手汗が滲んだ。結果は木原、僕、原口の順だった。僕は微積分の応用が、原口は社会科目全般がそれぞれ足を引っ張った。
「君たち、精進が足りんね。人は勉強をしなくちゃならない」木原がニタニタ歯を見せた。
「お前の言うことが全面的に正しい」反発しそうな原口が今日は素直に敗北を認めた。勝ち負けつけど、爽やかな空気。僕がぼんやり、「苦手な教科なんかないんだもんなぁ」と遠くに言ったら、木原は少々恥ずかしそうに、「僕は、体育が唯一駄目さ。女の子の横で恰好をつけてボールを投げたら、地面に叩きつけて笑われちゃったよ」
少しキョトンとして、それから、三人笑った。木原は不器用に肩をすくめた。僕は他人と比べるっていうのがあまり好きではないのだが、こうライバルを持って、互いに切磋琢磨して高みを目指すのは存外良いものだ。二人に会ってから僕の勉強一か年計画は想定以上の進捗具合なのである。
夜は姉さんに仕事がなかったので、色々と話をした。
「来年、僕が大学を受かったら、姉さんはどうするつもりだい? 僕は寮に住むことになるけど」
「あら、自信満々は良い事ね。どうしようかしら」
「はっきりと決めることにしよう」
「うーん、どうするもないわね。久しぶりに小説でも書いてみようかしらね」
「茶化すのはやめてくれ。僕は真剣に話してるんだ」
姉さんは真剣に取り合わない。悲しみを隠して、大人の壁が目の前にはあるようだった。
「絶対だよ」と僕は諦めたように言った。それに笑う姉さんには寂しさを抱いた。
姉さんは涙を見せねば悲しみは伝わらないことを知っているのに、決して人前では泣かないのだ。僕は夜中、偶然目を覚まし、リビングに明かりがついているのを不審に思って、そっとそちらに目をやると姉さんが声を押し殺して泣いていたのを見たことがある。机に突っ伏し、声にならない息を吐いて、時折鼻をすすっていた。あんまり痛ましかったので僕は黙って部屋に戻った。その夜は眠れず、次の日の朝、姉さんにはクマを心配された。けれども僕はというと、少し赤く腫れた姉さんの目を心配してやることが出来なかった。弁当を受け取り、精一杯の笑顔で行ってきますを言っただけだった。
姉さんは今日も笑顔だ。人を大事に思えば思うほど、いたわりと同じくらいに寂しさを覚えるのは僕だけじゃないと思うのだが、僕にはこういった事柄を話し合う人がいない。
六月三日。月曜日。
雨のち曇り。
「世の中、自分と反対の意見や思想が許せない輩はたくさんいやがる。俺はその反対自体が新たな発見という意味で素晴らしい事なのだと思うのだが、彼らはいちいち排斥して、打ち壊してやらねば気が済まぬらしい。お前はどう思うよ?」
「意見を提示する側の方にも問題はあるよ。発信の際に自分ではない側の方をあらかじめ想定して、罵詈雑言や偏見を先置きしている。こんなんじゃ議論者は生まれず、議論の発展もないだろう。とにもかくにも今の世の中には、自分側の主張が全方位を占めていないと納得がいかぬ精神的豪傑が跋扈してるね。一体何がしたいんだろう」
「人間を思想的に天下統一したいんじゃないかしら」
雨上がりの土と草の匂いが爽やかな裏庭を歩きながら原口とダラダラ話していると、職員室の裏手側にさしかかった。窓が開いていて、何やら声が聞こえる。青年の語らいは中断され、大人たちの毅然とした会話が僕らの耳に入ってきた。
「三組の竹内が、いよいよ女になってきやがった」
「ええ、ええ。分かりますよ。久保田先生。教師ってのも全く辛い立場です」
「男はいくつになっても少年のままだからなぁ」
また別の一人がそう言って、下品に笑い出す猥漢たちに僕は辟易とした。村田先生の声が無いのは幸いだったが、ああいう大人が大多数なのだと思うと、全く気が滅入ってくるね。理性と少年の心を履き違えていやがる。少年の魂はもっと詩的で、優しくて、純情なものをこそ望むんだ。君たちのような汚らしい欲望や快楽に身を墜とす人間はただ理性の程度が低いだけだということを理解したまえ。僕は大人の魂を持った、理性がないだけの人間が、少年の心を振りかざすのに吐き気がした。
僕は自分の考えを原口に語った。
「まったくお前の言うとおりだ。人間は理性を前進させ続けねばならない」
確然とした調子で言う原口の言葉には、一種自己暗示的な不安定があって、僕はそれに気がついて彼を愛おしく思った。彼の理性も今まさに、亢進を続ける最中なのだ。
「大人なら大人の仕事をやりやがれ!」
原口は急に大声を発して、駆け出したので、僕は急いで後を追った。風を切り裂いて行くのが心地よかった。
六月七日。金曜日。
雨。昨日から熱がある。今日の朝になっても引かなかった。学校は休んで、姉さんの看病を受けている。
「僕は気にせず仕事に行きな」と言ったら、「馬鹿言ってるんじゃありません」ときっぱり言われた。
鼻歌交じりに氷枕を敷いてくれて、「それで圭ちゃん死んだら私も死ぬから」
姉さんは時々、氷のような冷たさで恐ろしいことを言う。僕は背筋がひんやりとして、そこから先はもう何も言えなかった。お昼はお粥を作ってくれた。大変美味しいので、熱があってもペロりといけた。僕は姉さんの作ってくれた料理を残したことが、当たり前だが、ただの一度もない。毎朝、ありがとうと言って弁当を受け取り、ごちそうさまと言って弁当箱を返す。その時の姉さんのいたわりの表情ったら。書きたいんだけど、今日は熱のせいで気力も体力も減衰気味だ。少し昼寝をする。
夕方からは原口と木原がお見舞いに来た。姉さんは二人を僕の部屋に上げて、「圭ちゃん、ごめん。さっき、橋本さんから電話があって、夜は行かなきゃなんないかもしんない」僕ら三人にお茶を出した。
「にしても、綺麗なお姉さんだな。お前にゃ、ちょっともったいない」
原口が、にやにや笑って言った。僕にはそれがひどく照れ隠しな彼の美徳に見えたので何か言い返そうとは思わなかった。僕らは近況をそれぞれ語った。僕の熱はもうほとんど下がってしまったようだった。二人を前にして話したいことが溢れてしまう。
ふと、姉さんのいるリビングの方に顎を動かし、木原が言った。
「なぁ、夜の仕事ってもしかしてあれかい」下世話な身振りをするので僕は怒った。
「馬鹿。んなわけあるか。姉さんは清潔な人なんだ。傘広のバーで働いてるんだ」
「ちぇっ。つまらない」
よっぽど小突いてやろうと思ったが、よした。つまらない。代わりに原口がボカンと一発やってくれた。あいつは姉さんに惚れているのかもしれない。その証左か、帰り際、馬鹿に丁寧に、「それでは僕らもおいとまさせていただきます。圭吾くんの快復を願っています」と言ってのけ帰っていった。姉さんもそれからすぐに、「礼儀正しい子たちね。圭ちゃんもその辺は見習わなきゃいけないね」と言って、仕事へ行った。
「何かあったら、すぐに電話をかけるのよ」
姉さんはやっぱり人を見る目だけはないのかもしれない。礼儀正しい、か。僕は先程までいた訪問者二人の顔を思い浮かべて、思わず笑ってしまった。身体は軽く、熱の方はもうほとんど引いているようだ。
六月十日。月曜日。
昼から大雨。学校終わり、僕には傘を持っていけと言ったくせに自分は忘れたおっちょこちょいな姉さんに傘を届けに行った。商店街のパン屋さんの方にである。一言目に放つ姉さんの言葉を想像しながら、僕は軽い足取りで歩いた。暗い空からは沈鬱な雨粒が降り注ぎ、街の景色もぼやけていた。何ら暖色のない世界で、僕は、姉さんが僕のことを待ちわびているだろうと思った。角を曲がり、パン屋さんの看板を見つける。視界が悪いので店内の様子はあまり分からないが、娘を連れた三人家族が僕の眼には微かに映った。近づいてゆくとそれは、気の良い夫婦と姉さんであった。三人が同じテーブルに集まって談笑している。厚いガラスの向こう側の店内では、暗い外とは対照的な暖かい光が満ちていた。僕にはまるで馴染みのない別世界が広がっていた。妻の方が何か気の利く一言を発したみたいで、夫と姉さんがどっと笑った。喜ばしい風景のはずなのに、なぜだか僕はひどく落胆した。途端に姉さんが余所の子みたいに見えてきて僕は自分が惨めだった。僕はパン屋さんの前の傘立てに傘を挿し、黙って商店街を引き返した。姉さんには傘は届けたと連絡を入れた。友人の誘いがあったから一緒には帰れなくなったと無理がある言い訳を一緒に乗せて。
六月十一日。火曜日。
晴れ。昨日のような寂しさはままあることだ。乗り越えて進もう。忘れはしないけれど、心の奥底に葬り去った。いつの日かこれが、発展の種火になるでしょう。こう前向きに考えられれば万事は解決なんだろうな。今日は、作家の船橋先生の講演があるので、ひとまずそれだけが楽しみだ。
六月十四日。金曜日。
曇りのち雨。やや風が強い。ちょっとした事件。本当にちょっとした事件で、校則が変わって、髪の色が自由になるとのこと。クラス中が朝からその話題で大騒ぎだったが、僕は心底どうでもよかった。昼休み、うんざりした気持ちで教室を抜けて出て、中庭にあるいつもの指定席へと向かった。僕らは昼休み、弁当片手にここで議論を深めるのだ。学校の勉強や将来のこと、哲学的な事柄やら現実の社会問題まで、実に手広く、知的な討論を繰り広げるのだ。もちろん高校生らしく日常の出来事を話すだけの時も、四割くらいはある。少し盛った。やっぱり半分はそうかもしれぬ。いや、本題はそこじゃないのだ。今日はちょっと様子が違っていたのだ。原口と木原がいつになく物騒な雰囲気で何やら言い争いをしていたのである。やや心配していた僕は二人の白熱していた話題に耳を傾けてげっそりとした。弁当を豪快に頬張りながら、原口が言う。
「髪の毛の色をもってして、自身凡俗から抜け出そうなど愚の骨頂だ。それこそ凡俗極まりないぜ。もし変なことをやってみろ。俺は君と歩きたくないぜ」
今朝の話題はどうも木原には大問題らしい。分かってないなと首を振りながら今度は木原が言った。
「いいかい、美しい顔をもった人の中で美しい心が育つように、外見から中身は成長するんだ。卑屈で人と話すのが苦手な少年が前髪を上げて金色に染めたら、彼の性格がたちまち社交的の方へ舵を切ったなんて話もある。君はただ現状の変更に怖がりなだけだろう」
「何を! とどのつまりは他者依存の道具頼りじゃないか」
両者、凄まじい睨みあいである。僕はというと、心底、あきれた。雨が降ってきて、結局この先どうなったかは書く気も起きない。好きにしやがれどうとでも。書いてみて、何か違う。やっぱり今日の内容は本題じゃないな。今日は皆少しどうかしていた。多分梅雨のせいだ。
六月十六日。日曜日。
澄清。今日も集合は僕の家だ。木原の家の方が広くて豪華なんだけど、あそこへ行かないのには理由がある。僕と原口は彼の兄とお母さんが苦手なのだ。面と向かって木原には言えないが、 当の木原本人も家族とはあまり仲が良くないらしい。それに対して僕の家はあまり広くはないけれど、素晴らしい姉さんもいるし、居心地が良いんだそうだ。木原は毎回、ちょっとよいお菓子のお土産をくれるので、姉さんからの評判は良い。原口にはその手の気遣いは無いが、何せ快活で、姉さんには従順なのだから、これまた評判は悪くない。
あれはいつだったろう。木原の家が大金持ちだと気づいた僕らは、乗り気でない木原を強引に説得して、彼の家にお邪魔した。その日は木原がまだ用事から帰っていなかったため、西洋の屋敷みたいな家のインターホンを押すと彼の兄が出てきて、しばらく待っていると中庭を歩きながら、こちらに歩み寄ってきた。
「いらっしゃい」と人見知り風の小さな声ながらも、丁寧な対応だったので僕らも一安心したのだが、僕らが木原の友人であることを告げ、恭しくお辞儀をした途端に豹変した。
「まあ、上がれよ」とぞんざいな態度でだるそうに顎をしゃくったので、僕はもう彼のことが嫌いになってしまった。応接間で木原を待つ間はとにかく嫌で、僕らが小説の話をすると、聞いてもいないのに、あの作者は何処どこに借金があっただの、何人の愛人がいただの口を挟んでくるので、困る。友人の兄でもあるので無下には出来ず、何となく躱した相槌を打つと、これがますますつけあがる。僕はもうちょっとで爆発しそうな原口を宥めるのでいっぱいいっぱいだった。
なんなんだろうこの人は。朝陽という名前のくせにちっとも暖かいところのない人だ。梅雨太郎と言われた方が諸々を差し引いてもまだ納得がゆく。梅雨太郎はソファーに腹ばいに寝っ転がり、年下の僕らにねちねちジメジメの悪態をついた。
「君たちは、大学に行くんだろうな。あいつが認めたってことはT大か? あんな陰気臭いところはないぜ。自分たちの頭脳をひけらかして、あんなに心の芯から腐っていやがる連中も珍しい。T大に行くってことは君たちもそうなるんだろうな。なんだか悲しい。ひどく不愉快になってきた」
「はあ、そうなんですねぇ」
「ああ。それから君らが仲良くしている誠司だけどね、あいつも芯から腐っていやがるんだ。兄の事なんかちっとも尊敬していないし、ちょっとばかり賢いからってなんでも見下していい気になってやがる。いつかあいつは地獄を見るんだ。世の中はそんなに甘くないんだ」
ついには木原の悪口まで言い出したので、うんざりとした。あなたが世の中のいったい何を知っているのだ、とよっぽど言いそうになった。木原の精神から生きている暖かいものを全部抜き取ったら、ああいう傑作が出来上がるのだろう。やがて木原が帰ってくると、梅雨太郎は逃げるようにして自室へ引っ込んでいった。
「その様子だと、やっぱり兄がまずいことをしたんだろう」
「いーや、素敵な良いお兄さんだったぜ。名前は聞かなかったが、確か梅雨太郎って、圭吾の野郎は知ってたみたいだ」
原口がふざけながら頭を揺らすと、木原はぱんぱんと手を叩いた。
「さて、これで分かったろう。家はあんまり居心地が良くないんだ。今日はもう来てしまったのだから、ゲームでもやろう。それで我が家はお仕舞いだ」
僕らにお茶菓子を出してくれた木原の母は鷹揚な人であったが、僕らの恰好や言葉遣いを軽蔑の眼差しでちらちらと見てくる癖があって、これもあんまり好きにはなれなかった。帰り際、木原が、「すまなかったな」と小さく言ったので、「悪いのはこっちだ!」と僕らは大きく言った。
それ以来、木原の家には行っていない。木原も家族のことはあまり話したがらないので、梅雨太郎の印象もあのままだ。
六月二十日。木曜日。
晴れ。四限目だった。国語の教師の松山が、恒産無ければ恒心無しという慣用句の正当性をこれでもかというほど必要以上に突きつけてきた。
「いいか、物質的に豊かでなけりゃ、豊かな心は育たないんだ。金持ち喧嘩せず、とはよく聞くだろう。あれもやっぱり同じことさ。およそ貧乏人の心までさもしいこと! 貧乏は限りなく悪に等しい。金持ち、とは言わずとも、皆、定職は持ってそれなりには稼げよ。出ないと心まで貧乏になるぞ。気遣いは一万円のお札からだ」
松山はそれを言うと豪快に笑い、僕は嫌な気がした。なんでったってそんなことをわざわざ言うのだろう。いちいち言わなくったって良いじゃないか。この中には僕を含めて、それを聞いてイヤな気分になる人だっているだろうし、恒産の無い人の全員が全員そうってわけでは無い筈だ。まさか、一般論を個人に当てはめて嘲笑する人もいないだろう。こんな分かり切った傾向なら各々が勝手に感じていることだ。ああ、恒産無ければ恒心無しなんてのは姉さんを見ているとまるで嘘みたいに思う。ついでに木原の兄さんを鑑みてみても、やはりまるきり嘘みたいだね。それに心がさもしいのは、二回も離婚したことをまるで武勇伝であるかのように話す、豪胆な松村先生の方ではないだろうか。そのことを僕は口にしなかったが、これが気遣いというやつだ。
六月二十一日。日曜日。
曇り。本格的な猛暑が襲ってくる前に散歩をしておこうと外へ出たのだが、これが失敗だった。この街は基本、道が狭い上に人通りと車通りがそこそこ多いので、常に気を張っていないと、何かしらの形で他人に害を与えてしまう。気分が沈んだら外へ出て散歩をしろと姉さんは言うが、それで気分が晴れるのはよほど無神経な人か、それこそ姉さんのように徳の高い人物だけだろう。
今日は、すれ違う車のために道を譲って待っていたら、運転手はお礼の代わりに煙草の灰を落として行った。自転車に道を譲れば憎しみの眼で睨まれ、向こうから歩いてくる三人並びの連中はてんでこっちを気にもしない。暗い気分で外を歩くと、無遠慮と、恩知らずと、お構いなしばかりで実に嫌だ。気分が明るいときにする散歩の方がよほど楽しい。こういった些細な事柄に鷹揚な、心の広がる探検ができるからである。
六月二十七日。木曜日。
曇天。朝、鏡を見る。久しぶりに自分の顔を見た気がした。眼の中に光が二つあった。迷っている。不純だ。悪徳だ。脱線だ。
七月一日。月曜日。
快晴。僕は日記の中でさえ誰かに読まれることを意識している。前のページを眺めていたら、ふと気づいた。本当は書きなぐりたいことが無数にあるのに、言葉を選んでしまうのが僕の甚だ良くないところだ。我々の心のつくづく孤独なことを思い知るね。書けたところで誰からも、何からも解放されないのは僕もよくよく諒解しているところだ。それでも書くのだから、やっぱり僕も物好きなんだろう。
ところで今日はプール開き。水泳は嫌いじゃないが面倒くさい。特に、プール後の授業のために慌ただしく着替えるあの忙しなさだけはどうも好きにはなれない。泳ぎに限らず、運動は原口、僕、木原の順に得意で、勉強とは反対なのは興味深い。原口のバタフライは僕のクロールよりもいっそう速い。
七月五日。金曜日。
晴れ。結論から言ったら良いのだろうか。僕は同じクラスの朝田さんから告白を受けて、それを断った。朝田さんは、「ごめん」と言ったばつの悪い僕の顔に、「ううん、ありがとう」と無理した笑顔を注いでくれた。この子は間違いなく良い子なんだ。素敵な子なんだ。朝田さんは去年、同じクラスだったこともあり、友人とまでは言えぬけれども、顔を合わせれば話をするような間柄の女の子だった。同年代の他の女子と比べると幾らか落ち着いた物腰で、でも決して陰気ではないのが僕には好印象だった。頭も良く、ハキハキと物事に言及してくれるので、僕は彼女に悪い印象を持ったことはなかった。しかし、僕は朝田さんの告白の深奥にあるものが、僕とは共鳴していないことを感知していた。少なくとも現段階では、僕は彼女が女性だからこそ、今の今まで忌み嫌わずに付き合っていたことを何とはなしに自覚していた。僕は断らねばならなかった。僕は陥るのが怖かったのだ。一度嵌ったら、明るいけれども決して利口ではない道を歩き続けねばならないだろう。僕は朝田さんを突き放した。酷薄なことをしていながら、被害者のように振る舞いかねない自身の心を呪った。
今回の件も含め、僕は自身の理想のために色々な人を突き放してきたし、これからもきっとそうするだろう。だからこの先、僕が人から突き放されるのもまた当然の帰着だろうと思うんだ。例えば僕は木原と原口以外の同級生をほとんど皆突き放しているから、同じ数だけ、僕は僕が好きになった人から突き放されるような経験をするだろうと思う。その際は傲慢の悲しみは捨て去れ。そして、苦しい時こそ、笑うのだ。今から決意しているのだが、自信はあまりない。だって僕は姉さんから嫌われたら生きていけないような気がするのだもの。
「どうして皆、相手がよく分からないうちから人を好きになるんだろうね」
夕食を頬張りながら僕は言った。
「よく分からないから恋をするのよ」
姉さんは笑って言ったが、僕は釈然とせずに首を傾げたままだった。それを見て姉さんはさらに笑った。高い笑い声だったが、清くて透明だったので、僕は不愉快にも思わなかった。心中にあるマイナスな感情は姉さんに置いていかれているようなちょっとした寂しさだけだった。
七月八日。月曜日。
大雨。降る雨やや冷たく、湿ったコンクリートの匂いと暗い空が気分をどんよりとさせる。びちゃびちゃの地面をびちゃびちゃ音を立てて歩く。陽が消え、緑からは何かが攫われ、輝く彩色は紫陽花の花だけ。朝は七時。傘を掲げ、つま先で地面を蹴って、梅雨の中を切り裂け!
七月十日。水曜日。
晴れ。学校からの帰り道、道を譲ってくれた少年に恭しく一礼した。少年は嬉しそうに顔をくしゃっと歪ませた。僕らは互いに頷き合い、別々の道を行った。やっぱり人間が対等に見合うって良いことだね。今度はニコッと微笑んでやろうかしら。いや、どうもそれは見ていて気持ちの良いものじゃなさそうだな。僕にでも分かる。
七月十六日。火曜日。
風が良い快晴。反省の日というのもある。放課後、いつものように三人で話をしていたら、「真剣」というものについての議論が、些細な口論に発展してしまい、一番喧嘩っ早い原口に手を出されてしまった。
「お前は大体」と多少頭に血が上った僕は過剰な悪口を言ってのけ、友人をいたく傷つけてしまった。原口が下唇を噛みながら無言で帰ってしまうと、僕は木原に諭された。
「君は正しい。が、それは原口が敵や他人である場合においてだ。君にとって原口は何者なんだ? もしも仲間や友人ならば、君のさっきのやり方は褒められるべきものじゃなかったね」
ぐうの音も出ない。かえって僕は自分の罪をすんなりと受け入れられた。
「うん、そうだ。君の言うとおりだ。ちょっと冷静じゃなかった。原口には後できっと謝るよ」
帰りは木原とお好み焼き屋に寄った。あまり会話はなかった。夜中、ベットの上で色々と考える。
僕の暴力嫌いは理性と正義の発露の結果だと思っていたが、それは大きな間違いかもしれない。きっと非力ゆえの妬みが関係している。というのも、僕が暴力を受けた際に生じる屈辱は、侮蔑や哀れを含んでいない気がするからだ。暴力を振られた後に出てくる行為者への過剰な罵倒の言葉は、僕自身の持つ攻撃的な性質に他ならない。いつか姉さんに言われたことがある。
「受け流すことね。圭ちゃんはなんでもそうだけど、水に流してしまうことが出来ないね。悲しみは置いておいて、少なくとも怒りに関しては、流しちゃった方がずっと健康よ」
内容は詳しく覚えていないが、その時も僕は受け流せずに持論を展開し、姉さんの困り笑いを引き出してしまったはずだ。僕は自身の中にある欲と名がつくあらゆるものをただ抑えて、人間を気取っているんじゃないだろうか。
ここまで思うと、頭が冴えてきて寝るに寝られず、こうやって日記を書き始めた。深夜二時。明日の朝は大変だ。
七月十七日。水曜日。
曇り。まだ霧が出ている早朝の時間、呼び出した原口をテニスコート前のベンチで見つけた。原口は大きく育った何十年来のクスノキを見上げていた。僕は思い切りよく足を運んだ。
「昨日はごめん。未熟ゆえのひどい悪口を浴びせてしまって」
「いや、悪いのは全くこちらだ。言い返せないから手をあげるなんてのは最低な人間のやることだ」
握手してそれで済んだ。理想主義の男の喧嘩はこうさっぱりと解決するものだ。
七月十八日。木曜日。
雨のち晴れ。昨日で僕も十八歳。ああ、歳なんてとるもんじゃないね。一日一日と進む度、自分の存在のいかに無意味かを思い知らされる。少々の病気あれど五体満足、姉さんという大事な人があって、木原、原口という知己も得ながら、どうしてこうありふれたセンチメンタルに身をやつすのだろう。これ以上侵攻が進む前に、誰か一思いにグサリとやってはくれないだろうか。僕を取り巻く孤独の溝がこれ以上深くなるその前に。
問い、なぜ今日、こんなにも苦しいのか。答え、昨日があまりにも幸福だったから。そして、何もかもが不確かな我が身だから。
七月十九日。金曜日。
曇りのち大雨。近年稀にみる低気圧。頭痛を言い出せず、苦節八時間。昨日に続いてイヤな日だった。夜ごはんも食べず、床に着く。不快感のある眠りの中で、心象世界の化け物を見た。
七月二十日。土曜日。
快晴。夏休みだ。学校の成績は去年よりもすこぶる良かったとだけ言っておこう。人様に見せつけることはもうしない。僕の虚栄心がそれをさせているのだからね。木原と原口にだけは勝負の義務として開示した。それから姉さんにも。あの人には僕の監督者としての務めがある。あれ? 結局仲の良い人には皆見せているでないか。間抜けなのかもしれない。僕はいつも理想や主義主張ばかりが先行して実行が全然伴わないことが多い。この前だってそうだ。
「僕は朝を有意義なものとするため、毎朝の読書を教室でやろう」と高らかに宣言したら、さっそく二日後、「学校に遅刻しちゃうよ」と姉さんに優しく起こされた。実際に遅刻までして、原口からは失笑を買った。
「実行してから宣言を明かした方が格好はつくぜ」
僕は何も言い返せず、「格好なんかいらないんだ」と苦し紛れに言っただけで、後から木原にも笑われた。
まぁでもともかく夏休みだ。部活を辞めたので、時間はいくらでもある。進歩の時間をたくさん作ろう。それから幾ばくかの憩いの時間も。一学期に起こった問題の多くは僕の性急が起因の大部分を占めていたと思う。
七月二十四日。土曜日。
大雨。いくら時間があっても一日の集中力には限界があるらしい。そう割り切ってからは夏休みも随分楽しくなった。今日は午前中の内にやるべきことはし終えたので、後は遊び。外は雨なので出かける気にもなれず家でゴロゴロした。姉さんが帰ってからは一緒に晩御飯を作った。どうせなので炒飯をどちらが美味しく作れるかで勝負をした。結果は二票差で姉さんの辛勝。
七月二十六日。月曜日。
快晴かつ猛暑。原口とキャッチボール。あまりに暑くて三十分で力尽きる。シャワーを浴びてから、今度は市民プールに集合。木原も一緒で、今度は三時間余りで力尽きた。部活を辞めてから、体力は落ち続けだ。今日はもう頭を働かせる気にはなれない。ごろりと寝っ転がっての休憩中、木原は言った。
「処女を好むのと、美人を好むのとでは、どちらが罪深きことなんだろうか」
「知るかよ。気持ちの悪い奴!」原口はドン引きしたみたいだ。
「なるようにしかならないという点においてその二つは案外同質のものなんじゃないか」
僕は極めて冷静に言った。
「すると極論、人間には優劣はないわけだ。あるのは理屈に糊塗された好き嫌いと独断に満ちた善悪観による好みだけで、我々には人を排斥的に見るなんて傲慢な権利は許されていないわけだ」
「ああ。君の立ち位置がいまいち掴めないが、頭脳でも、感性でも、容姿でも、何でもそうだ。僕らは自分が持っている、あるいは期待している何らかの能力が相手に欠けていたとしても、そこで持つべき感情は侮蔑や嘲笑では無い筈だ。必要なのはむしろ、理解やいたわりを孕んだ優しさではないだろうか」
「理想論だね。納得しても人間はそこまで簡単に割り切れないし、何より、感情はコントロールが出来ないのだから。君だってクラスの連中を時々イヤな冷たい眼をもって見つめている」
「それはそうだ。そこも僕自身に潜む夥しい数の自己矛盾の源泉の一つだ。僕はいつでもそれを忌み嫌っている」
タオルを頭に被せて眠ったらしい原口を置いて僕らは議論を続けた。途中からは向かい合って身振り手振りを加えて熱中した。くだらないことを考える余裕はどうやらまだまだあったみたいだ。にしても、僕らが人に求める特徴や性質に限らず、人間を構成するほぼすべてのものというのは、同列にもはや後天的にはどうしようもないものなんじゃないだろうか。
七月三十日。火曜日。
晴れ。姉さんとかき氷を食べた。それからアイスクリーム。デザートはもなかアイスで今日はアイス祭りだった。限界まで挑戦した挙句、二人ともが、今年の夏はもうアイスなんか食べないと高々に宣言した。
しかし、夜、姉さんは新作アイスのCMを見て、「あれ食べたい!」と叫んだ。僕が困惑の目つきで姉さんの方を見やると、それに気づいた姉さんは、しまった! という表情をした。すっかりお腹の中が気持ち悪くなっていた僕は、それにつっこむ気力もなく、舌を軽く出して嘲った。すると姉さんは笑って言った。
「宣言は受理されないこともあるみたいね」
八月五日。水曜日。
晴れ。夕立が心地良い日だった。木原が持っている別荘に招待を受ける。名目は勉強合宿だが、そんな気概は僕も原口も木原だって持ってはいなかった。朝から荷物を抱えて電車に乗った。浮町の駅に着いて、それから車で一時間弱。海辺に近い大きな屋敷で、二階のバルコニーに出ると波の音がさらさらと聞こえてきて心地良かった。
屋敷には木原が呼んだ執事が一人いる。運転や夕食の手配は彼が大体やってくれるのだそうだ。ヨボヨボだが足腰がしっかりした紳士である。
「お世話になります」僕と原口が頭を丁寧に下げると、お爺さんは目を細めて柔らかく笑った。
「坊ちゃんと仲良くして頂いて、感謝感謝でございます。ご友人を連れてなんて、本当に初めてのことでございまして」
休みが取れた姉さんも夕方頃に来た。
「現代日本に執事さん!」反応がいちいち可笑しかった。仕事があるので姉さんだけは三日で帰るが、僕の友人、二人とも姉さんのことをいたく気に入っている。僕が彼らと親しくなって以来、姉さんもちょっと楽しそうだ。僕らは四人で辺りを探検した後、お爺さんの車に乗って、近くの街に夕食を食べに行った。蟹を食べた。蟹を食べるのはお父さんとお母さんがいなくなってから初めてのことだったので、昔のことが思い出されてきて危うく涙が出そうになった。姉さんの方を見やると姉さんも目を潤ませている。僕らは目が合って頷きあった。
「うめえ、うめぇ」と騒ぐ原口と、「意地汚いなぁ」とバツのわるそうな木原のやりとりが僕らを救った。僕も姉さんも、美味しいねぇと笑い合うことが出来た。
別荘に戻ってからは砂浜で花火をやった。僕らは四人でひし形をつくって、線香花火をながめたりした。僕は皆の瞳の色が明るく輝くのに満足を得た。
「必ず、また、この四人で花火をやろう」と僕が、敵軍へ決死行する前みたいな真剣さでそれを言うと、皆は困惑して、顔を見合わせた。しかし、馬鹿にするなどは全くなく、三人共、口々に、そうだね、またやろうと言い始めた。別荘へ戻る道中の砂浜の上で、僕は満天の星空を見た。
八月六日。火曜日。
晴れ。風、心地良し。朝、目覚め良し。サンダルを履いて早朝の砂浜の方へ散歩に出かける。行き道に百日紅を見た。空気は清浄で、百日紅の甘い匂いは何の不純物もなくて格別だった。太陽に照らされた風の通りも良く、普段、僕の目覚めが悪いのは、あの街の空気が悪さをしているんじゃないかと思った。朝ごはんを皆でいただいてからは自由行動。僕らは徒歩で街に出かけた。歴史ある神社に行って、軽い山登りを敢行した。そこはちょうど学問の神様を祀っていて、僕らにはうってつけの場所だった。乗り気でない木原を説得しながら歩き歩き、拝殿でお参りを済ませると、すっかりくたびれきってベンチに座り始めた姉さんがいた。もう動く気はないらしい。アイスを舐めてご機嫌な姉さんを置いて、僕ら三人は社殿の横手にある石段を駆け上がって行った。先には天然の展望台があって、茂った緑からの草いきれが、風によって吹き飛ぶような視界があった。僕らは無言で青空と海、どちらも素晴らしい、タイプの違う美しき青を眺めた。うだる暑さからは解放され、呼吸をするのが心地良かった。
「そろそろ戻ろう。待ちくたびれている人がいるだろうから」
木原の言葉で僕らは現実に足を下ろした。軽い足取りで石段を下り、「遅い!」と笑いながら言う、既にアイスを食べ終えたらしい姉さんを回収した。
「本当に良い景色だから姉さんも来たら良かったのに」
「まぁまぁ。あなたたちの感想から想像をしましょう」
「ぜひ、お伝え致します。写真を撮れば良かったなんて元も子もないことは言わせませんよ」
原口は自信ありげに言った。姉さんは一人納得したようにうんうんと頷き、調べていたらしいレストランの画面を指さした。
「お昼はここにしましょうか」ここら辺は流石姉さん。ちゃっかりしているというかしっかりしている。僕らは空調の効いたハンバーグが有名なレストランで各々が好きな洋食を食べて、別荘に戻った。
お昼を過ぎてからは、海の方で楽しそうな三人を他所に、朝早く起きた僕だけが昼寝をした。榎の木の下にあるハンモックで、日陰が心地良かった。うとうとしているうちに太陽はいつの間にかオレンジ色。日が沈むと、皆で近くの温泉に行った。すっかり長湯して、別荘に戻ったら、皆すぐに眠ってしまった。
皆が寝静まった夜、昼寝をしていた僕だけが起きていた。朝の風と散歩の心地よさを思い出した僕は夜の散歩も決行した。果たして、夜風は心地よかった。浜辺の方へ行くと、風はより一層強くなって、僕の前髪とTシャツを襲った。姿形ない無透明な風が天空に向かって吹き付けていた。僕はサンダルの跡を砂浜につけながら歩いて行った。すると、何かが渦巻き、荘厳が現れた。息を呑む僕に向かい、現れた風の精霊は言った。
「あなたの歓喜の源はあります。あなたの悲劇の源はあります。それらは手を結び同一の場所に鎮座しています。あなたはそれを探すでしょう。生の意味を飛び越え、死の安楽に根ざすものを断ち切らんために」
言い終えると風の精霊は突然消えた。まるで初めから存在しなかったみたいだった。風は止み、僕の前髪はおでこにへたりついていた。しばらく茫然としていると、夏夜の湿ったTシャツの気持ち悪さが貼りついてきた。それを消し去るために僕はスキップをした。一歩ごとに僕の身体は軽くなり、宙に舞った。屋根を追い越し、電柱を飛び越え、僕は空から街を、僕らの別荘を見下ろしながら笑った。
「なんていう世界なんだろう!」
どこまでが僕の創作だろうね。まあまあ各々考えるといいさ。
八月七日。水曜日。
快晴。素晴らしき日は続く。こんな日が永遠に続いたって、僕らは決して退屈しないだろう。
八月八日。木曜日。
曇り。午前中に姉さんが帰ってからは勉強の方もちゃんとやった。微分の応用が苦手なので、木原に教えてもらった。木原は案外先生なんかが向いていると思う。本人は嫌がるだろうけど、説明は上手だし、生徒にやる気を出させるのもお手のものだ。何より彼には子供と上手く接することが出来る才能がある。愛情と突き放しのバランスが良いんだ。僕がそう力説すると、「生徒のくせに生意気だぞ」と言われた。
時々は海の方へ駆けて行った。裸足だと焼けるような砂と、透明で生命溢れる水が太陽の照らす限り広がっていた。僕らは少年に戻った。日が暮れて別荘の方に戻るまでは僕らは確かにあの頃の時間を過ごしていた。未来のことになどまるで無頓着で、現在がいつまでも進み続けると信じていた、あの不知の幸福の時間。
八月九日。金曜日。
一日、曇り。木原から突然の告白。夜更けの麻雀の最中であった。
「色々と悩んだが、君たちには誠実に言うことにした。僕はT大へは行かない」
「なんだ、なんだ。一番の秀才がびびっちまったのか」
原口が茶々を入れたが、木原の眼はいたって真剣だった。
「随分突然だね。とりあえずわけを聞かせてもらおう」
次の言葉の出かかっている原口の口を手で制して、木原に話をするよう促した。木原はジュースを一口飲んで、それから滔々と話し始めた。
「君たちには寝耳に水だったかもしれないけど、僕の頭の中にはずっとあった選択肢だったんだ。イギリスの大学を卒業している父さんからは度々勧められてきたことだし、僕自身、海外で行われている最新の遺伝子学には大変興味をそそられている。僕の成績や語学力に心配がないことは君らもよく知るところだろう。そして何よりこれが一番の理由なんだが、海外へ行けば、僕は自由が得られるんだ。父さんも約束してくれた。僕は木原家から一度、独立して毎日を送りたいんだ。日本だと、親も子もいくらでも甘えられるからね」
僕はちょっと時間を置いて、「嬉しくない。甚だ不満だが、君がそうしたいなら尊重するよ」
木原があまりにもいい顔をするので、こう言うより他に仕方がなかった。原口もそれは同じだったようで、「お前の考えはよくわかった。だが、まだ時間はある。お前が行きたくなくなるように接待をしてやろう」と彼流の餞別の言葉を放った。その後、僕らは麻雀を続け、意味のないような徹夜をした。
八月十九日。月曜日。
快晴。二週間続いたこの旅行も今日で終わりだ。明日の朝九時にはここを発たなければならない。木原のお父さんがいよいよ木原を呼びつけたらしい。「母さんの許可は取ったんだけどね、家は父さんが王様だからあの人の命令は絶対なんだ」木原は軽く伸びをして、「そんなに暗い内容じゃないさ。ただ家にも顔を出せってそれだけの話さ」
僕も原口も頷くしかなかった。また、僕だって姉さんに会いたい気持ちがここ数日は高じていた。
「まぁ良い休暇を過ごさせてもらったな。ありがとよ」原口が木原に握手を求めて、木原もそれに応じた。「うん、本当にありがとう」僕も木原の手を取った。彼の手を包むようにして力強く両手で握った。
それから二時間後、明日の帰り支度をしているときだった。僕らは青春について話していた。木原の説によると青春は神様の根城らしい。
「僕らは今、その根城がある天界から社会へのエスカレーターを下っている最中なんだ。けれども第一、皆意識なんかせずに乗っているだけだし、歩いたり逆走したりとする人は全くと言っていいほどいないんだけどね」
「俺は今すぐ飛び降りたい気分だ」
アウトロー派を気取る原口は言う。
「飛び降りたいならするがいいよ。大学に行かずに社会に出たら、君も立派に着地するだろう」
「そりゃ困る。けどよ、そんなことを自覚して一体何のためになるんだ? お前自体、それを持て余しているように思えるぜ」
「まぁね。しかし、不必要、なんなら不要なものを感得してしまうのが僕らの困った、それでいて愛すべき性じゃないか」
「なるほどなぁ。ちょっと詩的だけど、今の俺たちには消えかかった天使の翼が生えていると思えば中々ロマンティックじゃないか」
「それは笑える。君の面構えで天使の翼だなんて」
二人はじゃれ合い始め、話は明後日の方向へ飛んで行った。僕はその議論をぼーっと無心で聞いていた。頭には天界からのエスカレーターがくっきりとあった。
八月二十日。火曜日。
曇り。けれど澄んだ空気。家に帰ってきた。姉さんは木原の家に電話をかけて、何度も何度も感謝を述べた。そういえば外食から、細々した買い物まで、支払いはあの執事のお爺さんが担当していた。
「今日までどうもありがとう。この借りは必ず返す」
僕の方からも木原に連絡を入れた。
木原からは、「金なんか嬉しくねぇ。支払いは必ず、金以外のお前の能力の結晶だ」と返信が来た。
「心得た。見てるがいいさ」
僕は虚栄の返信をした。久しぶりに少年チックな内面を他人に遠慮なしで投げつけられた気がする。
八月二十六日。月曜日。
今日から授業が再開した。学生の中にも先生方の中にも、残念ながらこの一夏で劇的な成長をした注目すべき人材は見当たらなかった。何の変化もないから何の適応も、進化もない。勉強がちょっとずつ出来るようになってゆくのを見守るだけなのは、退屈で面白くないね。
九月四日。水曜日。
日本晴れ。前にお辞儀した小学生の少年にまた会った。僕の高校からの帰宅路の途中には小学校があり、五時間目でお終いの水曜日は、部活をやっていない僕なんかは、まっすぐ家に帰るとなったら、大抵、小学生と鉢合わせるのだけれども、この礼儀正しい少年と相まみえたのはその日の僕にとって、全くの喜びだった。高校の連中とは違って、彼はこの一夏で劇的な成長を遂げたようだ。隣には同年代の可愛らしい少女を連れており、今度は向こうからお辞儀をしてきた。僕が返すと少年は笑った。それから少女の手を取り、二人してこちらに手を振ってくれた。僕の胸には思わず涙ぐんでしまうくらいの感動が充溢し、彼らを照らすお日様の光からは神聖で清らかなものが感じられた。汚れなき純朴な魂に触れて、僕の心は神聖な石鹸で余すことなく撫でられてしまった!
九月十日。火曜日。
空を見上げず、天気不明。夏休みが開けてもう二週間だ。学校生活が続くと、世間とでも言おうか、社会とでも言おうか。とにかくそういった、地に足着いた社会的な何かが僕の体内に循環し始めるのを感ずる。それに伴い、僕の中にある風景。表面はキラキラと明るく、裏面は真っ暗の不思議な花びらがはらはらと舞い散る幻想的な風景の体積が段々と縮まっていくのを感じるのだ。ちょっとおとぎ話めいていて説明するのは恥ずかしいが、本当のところなんだ。これが良いことなのか、悪いことなのかどうかが、僕にはどうも分からない。なにせ痛みも快感もないのだからね。
九月十二日。木曜日。
そこそこ風吹き、ちょうどよい天気。姉さんの誕生日が近づいてきたのをそれとなく二人に言ったのが、思えば全ての過ちであった。手紙を書こうか迷っているなんて個人的な事柄を何となく口に出したのもまずかった。僕は木原と原口につかまった。ゴホンと声の調子を整え直して原口が言った。
「お前はあの人に手紙を書いて読め」
「君がいないとき、何度か伺ったことがあるけれども、君の姉さんは本当に嬉しそうに君のことを話していたよ」木原も口を挟む。「ああ、お前が書いてた小説まがいのことまで聞いた。なんでも神様がどうとか、慈愛がどうとか......」
「おい! その話はやめてくれよ。それに僕にはどだい無理な話だよ。第一、そんな知識も経験もないんだから」
僕の声はやや張り上げ気味になった。
「夢想家ならやるべきだろう。現実じみたことを言うんじゃないぜ。みっともない」
「そうだ、そうだ。僕らは君のロマンチストを気に入ってるんだぜ」
「ああ! もう! わかったよ! 僕も男だ。やってやるさ」
やけであった。多数決の原理に乗っかってやろう。三対零だ。異論なし。
「よく言った!」腕を組んで原口は言った。
「俺たちは立ち会わないが、お前は必ずそれをやるんだ。嘘をついたら今に分かるぜ。木原の勘の良さはお前もよく知ることだろう」
木原は相変わらずニヤニヤとしており、それを見て僕はまずい約束をしたかもしれぬと、ちょっとだけだけど怖気付いた。でもこれは良い機会だ。内心はイヤイヤじゃなかったからこそ、僕も強く断らなかったのだ。ああ、なんて卑しさ!!
姉さんへ
誕生日おめでとうございます。この一言がこだわりなく言えるようになって、もう十年が経ちます。僕ら姉弟は、余所から見れば不幸かもしれないけれども、そして、しばらくは確かにそうだったのだけれど、今はもう充分に元気を得て、邁進に必死です。姉さんもご存じの通り、僕は大変負けず嫌いだから、他人にも人生にも神様にも負けたくないんだ。今は目下、二人のライバルがいます。姉さんもよく知る人です。ああ、いけない、要らぬ熱が入ってきちゃった。僕の話はこれくらいにしましょう。姉さんはどうだい。姉さんは最近、いかがですか。姉さんは僕みたいに鈍重じゃないけれど、僕のための苦労を今までたくさんなされてきたはずです。そして、僕の幸福の土台は姉さんの不幸でできている。僕はそれを思うと泣きたくなります。感謝とも悲哀とも断定できぬ不思議な感覚。だが、一つ言えますのは、それはやっぱりあんまりいけないことだと思うんです。世界には汚れちゃダメな人がいるのです。僕なんかはいくらでも泥をかぶっていいんだけれど、姉さんは駄目だ。論理なんかじゃなくって、真理なんです。この世では清い人ばかりが磨滅して、吹いたら消える塵のように儚く無くなります。反対に、僕みたいな悪辣ばかりが跋扈して、僕は時々、現世が怖くなるんです。僕らの重すぎる業が尊い人をみんな押し殺してしまって、やがては地球をも押し潰す。あんまり言わないようにしていたけれど姉さんの指は白く、いつだって消えてしまいそうなんだよ。姉さん! きっと幸せになってね! 僕は大学へ入ったら自活します。今年で十八、もう立派な大人だ。男一匹、どうとでもなるさ。そうして卒業後は給料をたくさん貰って、姉さんにたらふく恩返しをします。僕の頑張りで姉さんの苦しみの一グラムでも取り除くことが出来ていたらうれしいです。僕にも姉さんにも祝福はきっとあります。姉さん、改めて、誕生日おめでとう。今日からの一年が去年よりも良いものになると良いね。
結局この手紙は読めなかった。恥ずかしくもあったし、なんだかひどく惨めな気がした。姉さんをも僕の惨めに巻き込んでしまいそうに思ったのだ。でも、全部を捨ててしまうのはもったいなくって、これは僕の本心でもあるのだからと、清い人ばかり云々のところを削って、夜中、机の上にそっと置いた。
今日、朝起きて姉さんは何も言わなかったけれど、昼休み、学校でお弁当を開けたら、小さな便箋があった。便箋には、「姉は強し。されどもいたわりには感謝。圭ちゃんもこのごろ、随分大人になったね」
姉さんにはかなわない。僕は鉛筆でいたわりの四字に線を引いた。そうして余白に、姉に幸あれ! と書いて、お弁当の包みを鞄に仕舞った。以上、今年の姉さんの誕生日のお話。もちろん普通に祝って普通に笑った出来事もあるが、あまりに平和的で日記に書くのは止した。書いた途端に陳腐化してしまうことも世の中にはあるのだよ。
九月十六日。月曜日。
雨。昼は特に豪雨。テレビを見ていると、どこかの国の出稼ぎの少女が故郷から二千キロ離れた街の靴工場で働いていた。昼間は馬車馬のごとく働き、夜は家族の写真を見て涙する。労働基準法なんて存在しない世界で僅かな賃金のために身を削る。番組を見ている際中、僕はこの少女に比べたらマシだとか、この子も頑張っているから頑張ろうだとか、少女を悲惨な目に遭わせた世界への怒りだとか、そういったものは全然湧かなかった。ただ、濁りのない眼をして笑う少女にすら優しくないこの世界そのものに辟易とし、たまらなくなった。魂の深いところでの共鳴がこの子の人生にありますように。そう願って、僕はテレビを消して床に着いた。
九月二十六日。木曜日。
曇り。教師からのちょっとした小言を微笑でやり過ごしていたら、「馬鹿と言われてへらへら笑うとは何事だ。プライドは、常いかなる時でも高く持て。自分の名誉は若いうちから惜しむべきだ」と、後で原口からちくちく言われた。違うのだ。僕は本当にプライドが高いから、プライドが高いと周囲に思われることすら厭うのだ。だから大抵は恭順派を装い、ふんぞりかえっているんだけれど、心眼を持った偉大な人物には存外それは看破されているのかもしれない。例えば高架下のボルちゃん先生とか。ボルちゃん先生は高架下にいつもいる毛むくじゃらの浮浪者なのだが、僕は密かに尊敬している。普段は長い髪と髭、深めに被ったニット帽で分からないが、ひどく男前だ。僕は商店街の方へ向かうときには、少々遠回りにはなるけれども、この人に会いに行くことが時々ある。姉さんが喜ばないので、本当に時々ではあるが。ちなみにボルちゃんというのは高架下を駆け回っていた子供たちが彼のことをそうやって読んでいたので、それから拝借した形だ。
とにかく、ボルちゃん先生は孤独を自分の内部に留め、育み、生まれた恵みを収穫するように生活している。能ある鷹は爪を隠すとはちょっと違うが、学識や顔の良さといった自らの強みを容易には振りかざさない人間には何やら不思議な凄みがあると、僕は素直にそう思った。
その人は、T大の赤本を袋に入れて高架下を通りかかったとき、突然ぬるっと話しかけて来た。
「T大は懐かしいところだ」
「T大を知っているんですか?」
「知らない人間がいると思うのかね」
煙に巻かれているようで、僕は少々むっとした。
「聞き方を間違えました。T大の学生だったことがあるんですか」
「ああ、首席で入って、首席で出たな」
念のため距離を取り、恐る恐る話をしていた僕は身を乗り出した。
「そんな人がなぜ浮浪者なんかをやっているんですか?」
「うむ、それでは君はなぜ学生なんかをやっているのだ」
僕は容易には答えられずに沈黙した。
「浮浪者にも同じことさ。適当にはぐらかすのは簡単だが、大抵の場合、自己の内側にあるものを他者の眼にそのまま写すことは容易ではない。少年よ。自分にとって容易ではない質問を相手に投げたからには忍耐が肝要だ。来週以降にまた来たまえ。お互いに質問の答えを用意しておこう」
「分かりました。しかし、もう僕は少年ではありません」
ひとかどの人物は高架下の段ボールの上にもいるものだ。僕は潔くその場を去った。一週間後、僕は手強い決闘相手との果し合いに行くみたいな面持ちで家を出た。高架下ではボルちゃん先生がビールを飲みながら待っていた。
「それで、青年。君は答えを持って来たんだな」
「ええ。僕はあらゆる意味において力がないから学校へ行っています。学力も経済力も体力も創作力も生活力も、何もかもが人生を一人で渡り歩くにはあまりに小さいから学校へ行っているんです。学校は保護してくれます。そうして、力を蓄えるための準備期間を与えてくれます。充分な力が備わったその日には僕は学校から解き放たれ、社会の荒波に自分の船で漕ぎ出すでしょう」
「ふむふむ」そう言ってボルちゃん先生は初めて表情を崩した。
「中々の答えだ。私の主義主張上、あまり滅多なことは言えないが、私の学生だった頃よりはよほど色々考えている」
「いえ、自分の立ち位置を再確認するための良い機会でした。良ければあなたの方の理由も聞かせてください」
僕がそう言ってボルちゃん先生の眼を覗き込むと、ボルちゃん先生は滔々と自分の生涯を語り始めた。そして最後にこう言った。
「独り身の人間は自己の容器に水を入れられればそれで良い。色々言ったが、単なるわがままなのだ。妥協の河に飛び込むのが嫌だから、立ったまま干からびようとしているのだ。しかし君、慎みを忘れるなよ。それさえ無くさなければ、人生の道は案外どこにでも開かれているもんだからな」
以降、僕は、ボルちゃん先生のところを度々訪れている。この人は嬉しそうな顔もしなければ、嫌な顔もしないので気が楽だ。
十月四日。金曜日。
雨のち晴れ。緊急事態だ。姉さんに男ができたのかもしれない。お昼、珍しくオシャレをしたかと思うと、鏡の前でニカッと笑って出ていった。歩き方もやけに軽快で弾んでいたので、これは間違いないのかもしれない。嬉しさと戸惑いが半分ずつ。邪魔にならないようにしなくちゃ。でも、ろくな奴じゃなかったら、必ず僕が排撃してやろう。姉さんは人に寛容すぎる人だから。
十月十日。木曜日。
晴天。高校最後の文化祭だった。今月は高校最後のという枕詞のつく行事が目白押しで、学校の皆、なんだか変な風に当てられたみたいだ。夕方、後片付けが終わって、クラスで集まると、村田先生がすたすたと前に出て、「これで文化祭もおしまいだ。本当に良い思い出になるよ。先生も、先生になってからずいぶん経ったが、こんなに名残惜しい学年を受け持ったのは初めてだよ。同窓会には絶対に呼んでくれよな。先生はお前たちとの時間が刻一刻と少なくなっていくのが悲しくて悲しくてしょうがないんだ」
叫ぶように言って涙ぐんだら、一人の女子が声を出して泣き始め、それから堰を切ったようにクラス中が涙に溢れた。一部の男子たちが、「村田先生万歳!」と叫ぶと、たちまち村田先生の胴上げが始まった。僕はその光景をみんなが形作った輪の外から眺めていたのだが、何故だか僕の胸にも変にじんと来るものがあった。涙は出なかったが、「おはよう!」と毎朝、校門前に立って言い続ける村田先生に明日からは渾身の誠意を込めて挨拶しようと思う。
十月十三日。日曜日。
朝霧あり。後は晴れ。やっぱり姉さんには男が出来た。今日もお昼前から念入りに行き支度を始める姉さんに僕は話しかけた。
「姉さん、最近は毎日が楽しそうだね」
「そう? 確かにそうかもしれないね。ここ一年は特に色々と楽しめたね」
「うん、本当に笑顔が増えたから、良かった」
「圭ちゃん」
「何?」僕が尋ねると姉さんは無言のまま、ちょっぴり意地悪そうな笑みを浮かべた。水筒にお茶を入れる姉さんに向かって僕はもう一度訪ねた。
「お昼からはやっぱり家には居ないのかい?」
「ええ、室崎さんとデートがあるのよ」
姉さんはあっけからんと言い切って、それから、からからと笑った。
「上手くいくといいね」
僕は心からそう思った。でも、それは後、半年経ってからでも良かったことなんじゃないかと思わないでもなかった。良くない考えなので、ここに書きつけることを持って捨てることにする。姉さんに幸あれ! 姉さんを気に入らない男の人が居るのが想像出来ぬ。きっと大丈夫でしょう。
十月十五日。火曜日。
曇り。十五夜お月さまは隠れてしまった。旧暦だから今日じゃなかったが、勉強は順調。というよりは、勉強だけが順調。
十月二十二日。火曜日。
晴れ。夕立が来た。僕は、姉さんの前では前途有為な青年を演じているのだろうか。姉さんの交際を心配したら、手痛いたしなめを受けた。
「室崎さんってどういう人なの?」
「時々、お店に顔を出してくれてた人よ。あんまり楽しい人だから、仲良くなったの」
「それで、やっぱり良い人なんだろうね」
「それは分からないけど、少なくとも私にとっては素敵な人ね」
「姉さんがそう断言するなら、やっぱり良い人なんだろうね」
しつこさに嫌気がさしたのか、姉さんは小さくため息をついた。
「今日の圭ちゃんは人をやたらめったらに区分するのね。自分にとって良い人かどうかは自分の眼で見なきゃわからないって、今まではさんざん言ってたじゃない」
ぐうの音も出ない。こうなったら探偵ごっこだ。邪な気持ちからの行動ではないので、神様からのお咎めはないと信じたい。やってやろう。
そう決意して二分後に悔悟した。でも、やるんだろうな。
ああ、どうして僕は姉さんの足を引っ張るような真似ばかりしてしまうのだろう。だって、どうしたら良いか分からないんだ。今はただ漠然と邁進しているけれど、そして密かな実務的な夢もあるにはあるのだけれど、いかんせん不安なんだ。僕の努力の全てが、何かから目を背けるための方策にしか思えないような夜はあるし、僕の傍にいる人達が、僕なんか居なくなってほしいと願っている朝が確かにあるんだ。いやいや、違う。まやかしだ。細かな病気は多々あれど、五体満足。どうしてこんなに不安なんだろう。
十月二十五日。月曜日。
概ね晴れ。週末の調査の結果を今のうちに記しておきましょう。僕は土曜日、姉さんが仕事へ行ったのを見届けてから、傘広のバーに向かった。オーナーである橋本さんは還暦過ぎの未亡人で、昼間は大抵、二階で暇を持て余している。その日も例によって暇だったようで、突然の来客は喜ばれた。
「あら、圭ちゃん。珍しいわね。いったい今日はどうしたのかしら」
銀の差し歯がギラギラ光った。僕は率直に聞いてみることにした。
「姉さんの男の人のことを教えてください。何かあったならきっとここからだろうと思うんです」確信めいた口調で僕が言い言ると、「うーん、いくら圭ちゃんでもそれはねぇ」そう言いながら、口元は綻び、何かを話したいと逸る目線が僕をちらちら見つめていた。そこで僕は、まことにこれは僕の美学に反することなのだが、橋本さん好みの、媚びるような少年の振る舞いで情報を引き出した。
三時間にわたる接待の結果、得た情報は以下の通りである。
姉さんの交際相手。室崎達也、三十三歳。折町の証券会社勤めで、この街にはこの春、出張でやってきたとのこと。バーには初め、会社の人たちと来ていたが、いつしか姉さん目当てで頻繁に店に来るようになり、姉さんもそれに満更ではなかったらしい。これは後から分かったことだが、どうやら室崎証券の跡取り息子で、この出張も次期重役を担うための経験を積ませるという意味合いが強いらしい。交際が始まったのは、恐らくこの夏の終わったころだろうと言う話だった。
「もしうまく行ったら、とんだ玉の輿ねぇ」
橋本さんはにんまりと笑って、せんべいをばりばりと頬張った。
僕は勢いそのまま橋本さんに頼み込み、日曜日に室崎さんに会う約束を取りつけてもらった。室崎さんは姉さんの弟が会いたがっていると話すと、快く快諾してくれたそうだ。
さっそく当日、駅近くの喫茶店で実際に会った室崎さんは随分と感じの良い大人だった。余裕のある大人になりかけの好青年とでもいった感じで、しかし、腕を組む姿や電子タバコを嗜む姿にはどことなく上品な色気もあった。真面目という道を一歩踏み外したような可愛げのある不良の匂いもした。
「初めまして。君が圭吾くんだな。君のことはお姉さんからいつも聞いているから、なんだか初めてあった気がしないな」
挨拶に対して、僕はぺこりと一礼した。
「わざわざご足労お掛けしてすみません。どうしても一目会ってみたかったんです」
「いやいや、こちらこそ、会いたかった。固い口調は無しにしよう。お互いもっと楽にやろう」
そう言ってくれたので、僕は張っていた肩ひじをそっと下げた。今のところ、悪い点は何ら見当たらないどころか僕はこの人にかなりの好印象を抱き始めた。
二人の共通項は姉さんなので、話は必然的にそのことばかりになったが、この人は姉さんのことをいたく尊敬してるみたいだった。惚気みたいな褒め言葉にはちょっと辟易としたけれど、それでも話の大部分を占める姉さんへの賛辞、僕は自分のことのように嬉しくなった。
「君の姉さんは本当に弟思いだな。愛の言葉なんかよりも、君を褒めた方がよほど嬉しそうな顔をするから、君もきっと良い弟なんだろうな」
お世辞だろうが、これにも僕は気を良くした。話は段々と姉さんと室橋さんの関係に近づいていった。
「圭吾君、君の心配を俺は杞憂に終わらしてやりたい。俺が、軽薄な男に見えるかい? 君の姉さんが選んだ男なんだから安心してな。あんなにいい人は初めて見たし、俺の方の気持ちは随分前から固まっている。それはたとえ、君が彼女の前に立ちふさがろうともだ」
話す言葉に確然とした調子があったので僕は少々ひるんだ。
「何も僕は邪魔したいわけじゃありませんよ。室崎さんが素敵な人なら、むしろ喜んで協力したいくらいですから」
「ありがたいことだ。それで判決はどうだったんだい?」室崎さんは帰り支度を始めた。
「随分話し込みましたけど、ひとまずは合格ですね」室崎さんは大いに笑い、その勢いでするっと会計を済ませようとしたが、僕が自分の分は自分で払うと主張すると、嫌な顔一つせずにそれを尊重してくれた。こういった些細な点から見ても何ら申し分のない人だった。
僕はてっきり姉さんが僕の学費や将来のことも考えて、多少の利害が混じった恋愛をしてはいないだろうかと不安だったので、実際に室崎さんに会ってみて、見どころのある人物だとちゃんと分かると、なんだかほっと一安心した。
十月二十八日。月曜日。
大体晴れ。今日は朝から嫌な目にあった。受験が近づいてきたからだろうか、最近は、教室での僕の毎朝の読書時間、周りには勉強をする者が増え始めていた。今日も皆、一心不乱に問題集や塾の宿題をやっていた。意に介さず、僕があくまで読書という習慣を崩さずにいると、一限の授業教室への移動前に一人の男子が、「佐々木の勉強は恋愛なようだぞ」と僕が読む小説を指さしてきて、僕はつくづく嫌な気がした。黙っていると、「誰だ、誰だ、狙いは誰だ」「神聖な受験にいやらしい」とほか何人かにも囃し立てられた。
むっとした僕は、「やめてくれ」と静かに言ったが、初めに仕掛けて来た男子が、僕の小説を手に取って馬鹿にしてきた。
「男が恋愛小説だなんて気持ちが悪いや」言われて、僕もつい熱くなってしまった。そいつの顔がお世辞にもかっこいいとは言えなかったので、「その顔でよくそんなに威張れるや。僕が君に生まれついたとしたら、絶対に家から出てこれないと思うけどな」
これは本当に良くないことを言ってしまった。余計だった。向こうは露骨に傷ついて、加害者は僕だという空気になった。
三限目の途中、報復なのだろうか。ちょっとした計算ミスをして、黒板に書いた答えを直しに行ったら、今朝のグループのやつらがクスクスと嘲笑ってきた。
「あんなんで、T大なんていけるのかな」と僕に聞こえるくらいの音量で言ってくるので辟易とした。あんまりじゃないか。僕は君らの同志ではないのかもしれないけれど、それにしたって、わざわざ争う必要なんかないはずだ。確かに僕も悪かったさ。和解したいと思ったが、取り付く島もない。どうしようもなかった。
独立の尊重ということをてんで理解してくれないのは世の中の常なのかもしれない。自分自身も含めて、人間の嫌な部分を直視させられた日だった。僕は多少遠回りしてでも、倒れている人を踏みつけていくような道は歩みたくないと思っていたのだが、この調子だと踏みつけたことにすら気づかない単なる悪人なのかもしれない。
十一月一日。金曜日。
大いに晴れ。姉さんは恋をしてもなお、姉さんだった。駅の方でたまたま姉さんを見かけた。姉さんは財布を落としたのか、お金を忘れたのか、切符を買えずにオロオロとしている少年に優しく声をかけているところだった。少年の頭の位置まで身をかがめて、少年の話に何度も何度も優しく頷きかけていた。すると少年も落ち着いて話が出来るようになったみたいで、無事、話を聞き終えると、姉さんはそっと顔を上げた。少年が不安そうな目つきで姉さんを見上げると、姉さんはちょっと考えて、すっと財布からお金を出した。切符を二枚買い、少年の手を握って、改札を通って行った。、階段を上っていき、僕がまさかと思って立ち尽くしていると、五分経って姉さんは戻ってきた。黒の長いスカートをはためかせながら、案の定、さっき買った切符を入れてそのまま改札を出ようとしたので、改札にしっかりと引っかかった。思わぬ形で駅員さんの手を煩わせてしまったことに、後ろ頭をかいてバツが悪そうだった。東出口の方へ身体を向けると、姉さんは僕を見つけたみたいで、少々照れながらも、大手を振って笑いながら歩み寄ってきた。僕の見ていないところではこれの百倍は善行を積んでいるのだと思うと、僕は頭が上がらなくなった。
十一月五日。火曜日。
曇り。頭が痛くて学校を早退する。保健室の先生は保護者の迎えを勧めたが、僕は自転車を押して、一人で帰った。途中にある坂があまりに辛く、頭の中を金づちで殴られているような鈍痛で吐きそうになったが、気合を振り絞ってなんとか家までたどり着いた。頭痛はずっとひどくなっており、薬を飲み、氷枕を額に押し付けてすぐ横になった。痛みで眠れないので否応なしに思考は進む。
僕が死んだら姉さんは泣くかな。多分泣くだろうな。でも、それっきりだろうな。自殺をしなきゃ青春の煌びやかな孤独が失われてしまうとするならば、それでも自殺は罪なりや? 青春は持続するなんてのは鄙びた老人の考え方で、僕は毎日を革命的な喜びと憩いに費やしたいのだ。不健康な時にかぎって威勢の良い極端なことがつらつらと湧いてくる。その度に僕は自分の本心が分からなくなるし、ふらふらと定まらない自我の奔流が嘆かわしくなる。何かを考えると頭が余計に痛くなるのに、思考を止められないのが大変つらい。結局夜中まで眠れなかった。
十一月六日。水曜日。
曇り。くだらないいじめを見させられた。昼休み、水飲み場の前を通りがかると同級生の水野君のブレザーが水でびしょ濡れにされていた。一人の首謀者と三人の取り巻きが嫌な高笑いを発していた。本当にくだらない。やる方もやられる方もいったい何の退屈しのぎなんだろう。僕は主犯格の自転車のタイヤにこっそり穴を開けてやった。そして匿名でそいつの下駄箱に脅しをかけた。いじめが続く限りは、いろんな手で嫌がらせをしてやろうと思った。普段はいじめみたいな下劣な行為には馬鹿馬鹿しいと距離を置いてきた自分であったけれど、今回に限っては、腹の虫がどうにも収まらなかった。正義の味方気取りではなく、単なる体のいい憂さ晴らしだ。腹の虫はいじめと無関係に暴れていた。まずいな。なんでこうも僕はイライラしているんだろう。
十一月十三日。水曜日。
曇り、時々陽が見えた。一週間して、いじめは終わった。向こうが怖くなって諦めたみたいだ。主犯格は常に辺りを警戒して怯えている。僕はやつの水筒に針を入れてやる計画を練っていたところだったので、いじめが終わってくれて本当に良かったと思う。ここ一週間、僕は変な気に当てられていて、危うく自分を見失ってしまうところだった。
十一月十四日。木曜日。
晴れたり、曇ったり。朝、たまたま三人が学校の玄関口で一緒になったので、僕は日頃感じている苦しみの一部を婉曲かつ抽象的に二人に話してみることにした。すると原口が大いに同調した。
「理解は出来ないが、共感は出来るぜ。俺にも身の上に起こることがいろいろ重なって、現実を見出せない辛さだけは多分一緒だ」
「全くそれらは単なる青春の病気に過ぎないだろう。時間だけが特効薬の厄介極まりない大病だ。あんまり考えてもきっと良いことはないと思うよ」
木原が冷静に口を挟んだ。
「そう言うけどよ、世の中には青春を辞められない哀れな大人が少年の魂を持て余しているように思えるぜ。俺はそれを眺めるのがたまらなく苦しい」
「はぁ。それならさっさと恋でもすることだね。君もそいつらも童貞を捨てたら、人の肌の冷たさには嫌でも気がつくさ」木原は呆れたように言い切った。「君らはまだまだ、世界に幻想を抱いている」
僕は気を悪くした。原口に代わって僕が木原に反論した。
「君らはいつも偉ぶるね。己の内の少年を失って、代わりに大人の精神を手に入れたことは、それほど重大で偉大な業績なのだろうか」またしても、悪癖の激昂が踊り始めた。「案外君も、もはや取り戻せない少年の魂に恋着しているばっかりにまだそれを失わぬ朋輩を馬鹿にしているのではないだろうか。達観しているのならば、微笑ましく見守っていたらいいじゃないか」
僕がそうやって啖呵を切ると、彼は案外、口角を歪ませて思いきりしょげた。
「僕だってさぁ、君らを苦しめたいわけじゃないんだよ。確かに僕の言い方は悪かったけどさ」
「ごめん」僕は謝った。そして、自分の幼さを恥じた。大人の精神が早く身に着けば良いのにと生まれて初めて思った。
十一月二十日。水曜日。
快晴だが寒い。最近は日の落ちるのも早くなってきた。下校が少しでも遅くなると、もう外はすっかり暗い。暗くなるのが早くなると、気分が沈むのも早くなるからいけない。
今日は姉さん、室崎さんと外食。関係はどうやら良好らしい。先週末、この間の調査も踏まえた上で室崎さんのことを大いに褒めたら、姉さんは飛び上がらんばかりに張り切って、「そうでしょう」と同意した。自分の方でも尊敬するところを発表しだして、えらく楽しそうだった。
十一月二十二日。金曜日。
曇り時々晴れ。突然何もかもが嫌になって爆発するようにベットから起き上がったら、ベッドから床に飛び込む際にベッドの組木を破壊してしまった。かなりの轟音が響いたので、聞きつけた姉さんが慌てて部屋に入ってきた。
「どうしたの、圭ちゃん。何があったか説明してごらん」
焦りながらも冷静を装った優しい声音に僕は涙が溢れた。姉さんには何度も何度も謝った。清らかな姉さんの弟がいやらしい罪人ではいけないと思う。
十一月二十五日。月曜日。
晴れ。もっと行動を書くべきなのかもしれない。僕の日記はつらつらと自分の頭の中ばかりをなぞっていて、これがまた、良くない不安を新たに生んでいるのかもしれない。試しに今日はやってみましょう。
朝七時、起床。姉さんと一緒に朝ごはんを食べる。「食欲がないので、パンは要らない」と言って、スクランブルエッグだけ食べたら、姉さんにやたらと心配をされた。用意を済ませて八時過ぎには自転車を漕いで学校へ向かった。風が冷たく、手袋無しではもうだめだ。
学校へ着くと、僕は日課の読書をする。一限目までの三十分間が僕の一日の中の一番の安らぎだ。クラスメイト達が続々と登校してきて教室が騒がしくなっていくのが意外と楽しみなので、一限が体育や情報技術など、移動が必要な日だとがっかりする。幸い今日は日本史で、授業が始まる時間まで何の心の揺らぎもなかった。授業も四時間目まではすんなりと終った。特に書くことは無い平凡さだった。昼休みになると、木原と原口といつもの中庭で昼食をとった。木原が、「人を殺したいほど、憎んだことがあるかい?」と僕らに聞いたので、僕も原口もあると答えた。木原もあったみたいで、それを知った原口は言った。「人間が好きな証拠だぜ。お前らの持ってるのは別に異常な悪徳でもないさ」
木原はちょっぴり嬉しそうにはにかみ、珍しく原口の言葉をそのまま飲み込んだ。
どうだろう。ここまで書いて退屈になった。技法を凝らす楽しさはあっても僕の精神には変化なし。やっぱり好きなように書こうかしら。その意味では今日も好きなようには書いたのだが、僕には性が合わなかった。
十二月五日。木曜日。
大体曇り。朝、少し霧あり。上手くいく恋愛があれば、そうでない恋愛もある。僕はというと、原口はてっきり姉さんのことが好きなんだと思い込んでいたので、そのことを聞いたときはひどく驚いた。原口には学年内に好きな人がいたのだ。望みはあるのかを訪ねたいくせに、はっきりとは説明しない原口の打ち明けに対して、木原ははっきりとものを言う。
「君、それは弄ばれているんだよ。二人きりなら楽しげなのに、人が加わるとめっきり静かになるなんてのは。ちょっとはおかしいと思わないのか」
「彼女はきっと恥ずかしいのさ。お前は俺たちの間に流れる空気を知らないからそう言えるんだ」
「まぁね。けれど、その恥ずかしいという感情の根源を恐らく君は勘違いしているな。彼女が恥ずかしがるのは君の前でだけなんだろう。誰かといれば含羞なんて見せないはずだ。女は男女間の色恋沙汰における変な勘違いをこれでもかってくらいに憎んでいるし、君のせいで誰かからの好意が喪失されるのは絶対に許せないことのはずだよ」
「そんな悪徳は彼女に限らず人にはないぜ」
「悪徳じゃなくて習性だよ。誰からも好かれたいのは僕らにも理解できる感情だ」
そう言って木原は、しつこいくらいに原口に忠告をした。が、それでも譲らない原口に、「まぁ好きにするさ。けれども悪いことは言わないから、そのタチの悪い女は諦めることだ。忠告は確かにしたからね」と最終的には根負けした形だった。
この出来事から約一か月経った昨日、原口は告白して手酷く振られた。惨敗だったらしい。原口の相手には既に意中の人がいたみたいだった。
放課後、学校から歩いて二十分、街の高台にある海の見える公園の手すりにつかまって、原口はわんわんと泣いた。僕は遠くの景色を眺めるようにして、彼をぼんやりと見つめていた。隣では木原が鼻を啜って、「だから言ったんだ、この馬鹿が」と小声で震えるように呟いた。僕にできることは何もなかった。
夜通しカラオケ。朝帰り。僕は帰り道、「詩人は決まって、女に振られるそうだよ」と彼が喜びそうなことを言ってやった。原口は寂しく笑って、ちょっとだけ誇らしげな眼差しを僕に向けたが、あるいは彼の気遣いかもしれない。次の日の学校は眠くて行かなかった。
十二月七日。土曜日。
晴れなのに極寒。薄々感づいており、原口の一件以来、完全に露わになった事柄がある。それは、どうも木原のやつは、恋愛を人生における重大事のように感じていないらしかった。「恋愛は人生の全てなんだ」と片思い中の原口ほど切実でなくとも、それは僕には共感の出来ない価値観だった。ラーメン屋で麺を啜りながら、「君らは神秘に酔っているんだよ」と彼はいつもの言葉を不愛想に言った。実際、その通りなのだと思う。少なくとも僕には、人生を酔わずに直視できるほどの強さはない。僕はいつでも牧歌的な日常の風景を、似つかわしい執着の思いで望んでいる。寒気がするほど醜悪な自分自身の姿には目を逸らしてだ。露悪的なロマンチストたる自分が、こと恋愛においてのみ、自分を見失わずにいられるとも思えない。少なくとも、片手間に、なんてのは絶対に不可能だ。
十二月九日。月曜日。
大雨。悲しみの雨だ。昨日は姉さんと喧嘩しちゃった。たまらなくつらい。いったい僕がいけなかったのだ。姉さんの魂は、確かに美しく澄んでいるのだが、僕がそれをあまりにも神格化しすぎていたのだ。それが姉さんの負担になっていたことなど知りもせず、僕は本当に愚か者だ。これほど自分を呪った夜も久々だった。事の発端は昨日の夜、帰ってきた姉さんの眼が涙で赤く腫れていたので、僕は心配の声をかけたのだが、姉さんは応答をしない。きっと室崎さん絡みだろうと思ったので傘広のバーに電話をかけようとしたら、「圭ちゃんには関係のないことだわ」と、ばっさり言われて止められた。僕は自分勝手に悲しくなって、「好きにしたらいいんだ。僕なんか捨てて、あの男と好きにやったらいいんだ」
吐き捨てるように言ってしまい、姉さんはうつむいて肩を震わせはじめた。どんな忍苦があろうと汚れ無き微笑を浮かべる人に対して、僕はいったいなんていうことを口走ってしまったのだろう。僕はすぐに、「ごめんなさい」と謝って、姉さんは、「いいのよ」と泣きながら困ったように言った。何の解決もせず、時間だけが流れた。やがて姉さんは僕の隣に座ってきて、「変に泣いちゃってごめんね」とやわらかく笑った。僕は姉さんになんていうことを言わせているのだろう。一番苦しいのは姉さんだろうに、僕は姉さんさえ悲しまなければ、自分のことを殺してやりたいと思った。俗なる魂をもって生まれ、本当の愛を求め続ける罪深き者よ。汝は何ゆえ生きているのだ。
十二月十日。火曜日。
晴れ。姉さんが心配するので、精神に鞭を打って、学校に行った。姉さんも心配させまいと、朝から仕事へ行く準備をしていた。朝、互いに笑いあって挨拶を交わしたが、こういう場合、血の繋がりがかえって僕らを遠くしていた。なくても何ら問題が無いはずのこの前提が、僕らの心の繋がりを自分の手柄だと、すっかり嘘をついているのだ。僕も姉さんも騙されるまでとは言わぬけれど一点の陰りはどうしたって感じてしまう。僕ら姉妹に出来ることはなかった。
負けるな! 負けるな! 佐々木圭吾! 今日は三回も世間に負けそうになった。ひどい堕落だ。
十二月十一日。水曜日。
曇り。学校帰り、室崎さんの会社の前で三時間張り込む。出て来た室崎さんをつかまえて問い詰めると、彼はあっさりと白状した。彼は別に敵ではないのだ。僕らは互いに姉さんの幸せを願っている。室崎さんは今回の件について、手前の方からかなり丁寧に話してくれた。
「俺はさ、来年の春には折町の方に帰らないといけないんだよ。本当は年明け前に帰るつもりだったんだが、まぁ御察しの通りさ。親父に無理言ってこっちに留まっていたんだが、もうそろそろ潮時だ。親父も年だし、いい加減戻ってやらねぇとなと思ってたわけさ」
僕はちょっとずつ事件の輪郭がつかめてきた。室崎さんは一度コーヒーを啜って、再び話し始めた。
「だからさ、弟さんが大学へ無事合格したら、俺と一緒に折町に来て結婚してくれないかって言ったんだよ。そしたら彼女、顔を伏せて固まってしまってね。しばらくしたら、考えさせてくださいって言って帰ってそれきりだよ」
室崎さんは苦笑した。
「坊やは何か聞いてないかい?」
「さぁ。どうでしょう」
僕は全部が分かった。折町はこの街より遥かにT大から遠い。簡単には会いに行けぬ。姉さんはきっとそれで泣いていたのだ。
「まぁ、分かんねぇよな。分かんねぇから俺のところに来たんだろうしなぁ。お姉さんにはいつまでだって待っていると伝えておいてくれ」
「はい、わかりました。わざわざすみませんでした」
店を出て、帰路に着いた。一度持ち帰ってじっくりと考えるべきことがたくさんあった。
家に帰ると、姉さんはもういなかった。傘広のバーに出勤したのだろう。僕は一人で雨の音を音楽にしながら勉強をやったが、全く身が入らなかった。夜は更けていって、僕は一人で考えていた。
どうしてこうも暗くなるのだろう。特に雨が降る夜の姉さんがいない夜はいつもいけない。一人でただいまを言って、一人でご飯を食べて、一人でお風呂に入って、一人で鼻歌を歌う。一人で勉強をやって、一人でベッドに横たわると、あんまり寂しくて涙が出そうになるんだ。でも、この涙の行く先を思えばたちまち泣けなくなってくるんだよな。眠気も訪れず、雨の音だけが僕の仲間だ。こういう時は詩を読むに限る。古今東西、自分ほどに孤独な人はいなかったろうと、かくも感傷的な悲哀に浸っていると、いやいや人間は昔からそうだったんだよと、偉大な詩人たちは無邪気に笑う。時に共感せられ、時に突き放す彼らの美しき言葉たちは僕の魂を慰めてくれる。その言葉の裏にある耐え難き救いの無さは僕と彼らの内の暗黙の了解だ。
ああ、死すその時まで、互いが互いの孤独を尊重し、慰め合う関係があったら、それはどれほど幸福で清らかなことだろう。
今、分かった。姉さんは結婚して、折町に行くべきだ。
十二月十三日。金曜日。
晴れ。僕がやっているのは余計なお世話なのかもしれない。でも僕の意思なのだから実行はする。学校から帰って来ると、僕は正直に昨日あったことを姉さんに話した。姉さんも自分の考えを包みなく明かしてくれた。
「僕は、僕のためにこそこそと生きる姉さんを見たくありません。姉さんの幸せは、僕の喜びでもあるのだから、姉さんは幸せなことを御心のままに享受して、苦しいことは御心のままに吐き出すべきだよ」
僕は自分でも何を言っているのか分からなくなったが、姉さんは僕の言いたかったことを了解したみたいだった。
「そんなつもりはなかったけれど、圭ちゃんがそう思ったんならそうなんでしょうね。私だって圭ちゃんに同じようなことをいつも思っていたわ」
びっくりした。「僕も、そんなつもりは一切なかった」
「私、圭ちゃんは私が居なくなったら、死んじゃうかもしれないってそう本気で自惚れていたんだわ」それは本当だった。が、僕は口を挟まなかった。
「圭ちゃんも、もう十八だもんね」
「うん」
「私がおばさんの家を飛び出した年齢だものね」
「うん」
僕は頷き、姉さんの次の言葉を待った。姉さんは改まった顔つきになった。
「圭ちゃん」
「はい」
「私、室崎さんと折町に行くわ。結婚したいって思える人がようやく見つかったの」
「それは本当におめでとう」芯からそう思って、「姉さんのためにも大学は必ず合格して見せるよ」
僕は思わず飛び出た、お芝居みたいな真剣な台詞を自分で笑ってしまった。姉さんも吹き出してしまい、真剣な空気は霧散して、それから二人で楽に話した。
夜、僕は姉さんに許可を取って、またまた室崎さんをつかまえる。今度は連絡先を貰っていたので、外で待ち伏せする手間は無かった。室崎さんが酒を飲みたいと言ったので、僕らは近くの居酒屋に入った。僕は烏龍茶を注文して、室崎さんが酔っぱらってしまう前にと、話を始めた。
「実はですね、室崎さんが心配するような事柄はなにもなかったんですよ」
「と言うと、どういうことなんだ。俺はてっきり、この街に未練があるか、俺と行くのがやっぱり嫌になったと思っていたんだが」
室崎さんはハイボールを一気に飲んだ。
「全然違います。自惚れじゃないですけど、姉さんは僕と離れるのが寂しかったんです」
「でも、君はT大に合格したら、どっちみち一人暮らしなんじゃないか」
「ええ、でも会いに行こうと思えば、行けるわけじゃないですか。折町だとそんなに気軽には行けません」
僕は身振り手振りで話した。室崎さんは合点がいったようだった。
「なるほどなぁ。確かに君らは唯一の家族だもんな。それじゃあ今のところはいくら頼んだって、君の姉さんは折町には来てくれないんだな」
「いえ、姉さんはきっと行きます。姉さんの寂しさには僕への遠慮みたいなものが多分にあったんです。でも話し合って、気兼ねするな! と言いました。姉さんは室崎さんのことを本当に大事に思っていますよ」
僕は一息ついて、「あなたが姉さんを愛していて、姉さんもあなたを必要としているのなら、姉さんを必ず幸せにしてやって下さい」と言った。
すると、「高校生のガキが生意気言ってんじゃねぇ」
室崎さんはそう言って右手を振り上げ、僕の頭にぽんと乗せた。いつになく乱暴な口調で僕は手を出されるんじゃないかと、薄目を開けていたので、これにはちょっと驚いた。僕の頭に乗せられたその手は厚く、大きく、ゴワゴワとしていて、僕なんかよりもよほど姉さんを守り抜くことが出来るに違いなかった。
「だが、約束はしよう。男と男の乾杯をしよう」
室崎さんは僕にお酒を勧めたが、僕は頑なにこれを拒否した。
「俺なんかよりよっぽどすごくなって、君のお姉さんくらい綺麗な人と結婚しろよ。兄妹の贔屓目なしに君にはかなりの見込みがあるぜ」
室崎さんは笑って言った。姉さん、おめでとう。室崎さんはきっと姉さんと一緒に歩んでいける。
十二月二十六日。木曜日。
曇りのち雨。我が家にはサンタさんはいない。でもクリスマスケーキは食べる。昨日は姉さんに気を使って、木原家でパーティー。両親は旅行中で、兄は不在。好都合だった。夜ごはんは夏休みの旅行で一緒になったあの執事さんが作ってくれて、これは嬉しい再会だった。以前と変わらぬ優しい物腰で僕らの来訪を喜んでくれて僕は思わず握手を求めてしまった。僕らの騒ぎは朝まで続いた。力尽きたように眠って、今はもうおやつ時の三時。一人先に目覚めたので、雨雲が集まってくるのをバルコニーで眺めながら久しぶりの詩を書いた。
夜、笑顔を星空へ向ける。向ける相手がいないから。でも、人間は誰かに笑顔を向けないと死んじゃうんだ。
夜、涙を星空へ向ける。向ける相手がいないから。でも、人間は誰かに涙を向けないと死んじゃうんだ。
夜、手のひらを星空へ向ける。向ける相手がいないから。でも、人間は誰かに手を握られないと死んじゃうんだ。
もっと明るいものを書きたい。笑顔で文章を書きたい。この日記だって、本当は楽しいことばかり書きたいんだ。それには太陽があまりに不足していて、残念なことに雨が降り始めたので中に戻ったら、木原と原口がもう起きていた。二人してソファーに並び、テレビのニュースをじっと見ていた。その後ろには執事さんが立っている。頭にサンタ帽を被った博識らしい執事さんが二人の後ろに立って日本銀行の量的緩和政策について説明する光景の珍妙具合に僕は思わず笑ってしまった。力が抜けて、明日は笑顔で実生活に臨もうと思った。
一月一日。水曜日。
頭上に白き太陽。初夢を見た。場面も感情も全部ぐちゃぐちゃだった。覚えている範囲で書いておこうと思う。
和やかな朝の戯れが欲しい。鳥の鳴き声に目を細められるくらい穏やかな。僕の前には寂しい夜だけが千もある。僕は果てしなく遠いどこかの空を眺める。
ああ、激烈なる意思で飛び立ったは良いけれど、止まり木がない!どの木もそっぽを向いていて、こちらを一顧だにしない。諦めて堕ちようか、もがききって堕ちようか。考えながら必死にもがく。周りが見えなくなって、大木に激突。死んじゃったのだろうか。そこから先はなかった。
年始の挨拶を交わして、お雑煮を食べると、姉さんと過ごす正月もこれで一区切りを迎えるのだとしみじみ感じた。
一月二日。木曜日。
快晴。朝から電車に乗って、原口、姉さんと初詣に行く。合格祈願が目的だったが、僕は神様に別のことをお願いした。どうか姉さんの結婚生活が幸せなものになりますように。
一月三日。金曜日。
晴れ。お昼過ぎ、室崎さん、我が家に来訪。片手には立派な鯛の姿焼きを入れた包み箱があって、流石に社会人は心得ているなと思ったものだ。
「圭吾くん、お年玉をやろう」と狙い明らかな笑みでこちらに寄ってきたので、「ありがとうございます」僕も歩み寄ってやった。
一万円だった。僕は買収されるつもりはないけれど、貰えるものは貰っておく主義なのでこれは素直に受け取ってやろう。
夜は姉さん特性の鯛めしの美味しさに皆が舌鼓を打った。
一月五日。日曜日。
くもり。夜は雪が降った。夕方ごろ、電話があって、木原が家に泊まることになった。家族間でいざこざがあったみたいで、僕らの家に転がり込んできたのだ。帰らずとも親は別に気にしないらしい。僕らは一緒に鍋を囲んだ。ともあれ、姉さん、僕、木原。メンバーもメンバーだったので話は次第に愛や精神性についてなどに傾いていく。木原がまず口火を切った。
「生憎、僕は特別というものを認めていませんから。誰かの特別になりたいだとか、そんなものが僕らの人生を滑稽な悲劇にしているんです」
「でも、その祈りはロマンティックよ」姉さんは柔らかく言った。
「あなたもやっぱりそうなんですね。圭吾君も原口も皆すぐにそれだ。美しいものの幻想を勝手につくって」
「だってそうじゃないとあまりに僕らが可哀そうじゃないか」
流れ玉のように自分の名前が出てきたので、しばらくは黙っていた僕も話に割って入っていった。
「君こそ世界を理想化してるよ。ロマンティックに限らず、美しいものなんてのは世界には始めからありはしないんだ。だからこそ、仮初でも僕らで作らなくちゃならないんだ」
木原は顎に手を当て、しばらくは思案を巡らせて、「理解はできるけど、そんな世界は怖いな、やっぱり」と諦めたように匙を投げた。僕も木原と同様の動作をして、「うん。到底生きていける気はしないねぇ」と言った。
その後は姉さんによる、青年二人への薫陶が始まった。内容は「それでも僕らの明日は続く」とでも言うようなもので、姉さんはしきりに、共に歩む者の大切さを語った。僕はひたすらに寂しい思いがこみ上げて来たけれど、そこにかつてのような悲惨さはなかった。隣の木原の感情は、表情からは全く読み取れなかった。
一月十日。金曜日。
大雨。口に出しても理解者はいない。発見の孤独が生の倦怠感を加速させる。原口がT大に進まないことが僕の方にも知らされた日だった。担任の村田先生が、「今年T大を受けるのは佐々木だけか」と妙なことを言い出したので、僕が、「原口もですよ」と訂正したら、村田先生は、「聞いていないのか」と驚いた。
「あいつは色々あって、K大を受けることになってるはずだが」
居てもたってもいられず、原口をつかまえて問い詰めたら、原口はあっさりと白状した。
「一人暮らしのお金は無いし、兄貴が雲隠れしそうなもんだから、代わりに俺が母さんの面倒を見てやらないといけなくなったんだ。K大はなんとか実家からも通えるし、あそこも悪い大学じゃない。でも、圭吾、お前には本当にすまないと思っている」
問題はどうも母の介護にあるらしい。今までは彼の兄がそれを担っていたらしいのだが、仕事との両立によるストレスが今にも爆発しそうなようで、現状、原口が実家を離れるのは現実的ではないのだそうだ。離婚しているので父もおらず、正直、受験勉強どころじゃないらしい。僕は全然そんなことを知らずにいた。一番つらいであろう原口が努めて明るく話すので、僕はただただ苦しかった。誰にも言えずにT大の受験を諦める決断をした彼の苦しみが流れ込んでくるようだった。
これでもう僕の同志は全員、別々の道を歩み始めた。
一月十五日。水曜日。
大体晴れ。矢庭にボルちゃん先生の訓示を受けたくなって、学校帰りに高架下へ行った。僕は大学へ行く意味についてボルちゃん先生に尋ねた。ボルちゃん先生は歯切れよく喋った。
「大学はつまらないものだ。一方で面白いものでもある。それを裁決する権利は大学生個人にある。大学へ行って分かることの大半は大学へ行かずとも分かることだ。しかし、その事実も大学へ行かなければ実感はない。君、何事も実感が大事なんだ」
ものすごい含蓄を浴びた気もするし、ありきたりのお話を貰った気もする。持って帰って自分で考えろということなのだろう。僕はボルちゃん先生が急に鄙びた哀れな老人に見えた。
一月十九日。日曜日。
曇り。今日で第一の関門は突破したはずだ。といっても緊張や苦戦はあまりなかった。今の僕には絶対的な決意がないから、それに呼応する苦しい感情も生まれないのだと思う。勉強貯金が僕を救った。日々の積み重ねの偉大さを実感するのが、何の積み重ねも無かった日だというのは中々人生、うまくできている。
二月一日。土曜日。
外出せず、天気不明。ただ、誰かに抱きしめられたかっただけなんだと告白すれば、今からでも世界はこちらを振り向いてくれるのだろうか。やり直しは利くのだろうか。もう一度同じ苦役がこの身に課されてしまうのだろうか。はい、はい。きちんと分かっていますよ。こんなものは意味のない仮定ですからね。いっそこの世から、愛やいたわりが消え去ってくれれば楽になるのに。生憎、僕は不存在を信じ続けられるほど強くありませんし、一度好きになったものは死んでも嫌いになれそうにない。
二月九日。日曜日。
晴れ。昨年末から書き始めていた姉さんの小説が完成したらしく、僕は早速読ませてもらった。主人公の男の子の持っている晴れやかな気質と深い愛情が、遠回りしながらも巡り巡って周りの人皆を笑顔にさせてゆくという何とも姉さんらしいお話で、僕は読んでいてほろりと涙が流れた。この主人公の誕生に僕が少しでも関われていたら良いなと思ったし、この主人公のように純粋な邁進をしたいと思った。
読み終えてリビングに行くと、丸く輝いた眼で感想を求められたので、僕は率直に思ったことを伝えた。
「今すぐにでも作家になれるよ。これを読んで救われる人がきっとたくさんいると思う」
姉さんは照れたように笑い、「大げさね」と言いながらも、結局最後は、「ありがとう」で終わった。素直にお礼が言えるというのは、なんて素敵な美徳なんだろう。
二月二十六日。水曜日。
曇り。疲れた。もうこれからしばらくは勉強をしなくてもすむ。好きな本だけ読んで、気力と体力を整えよう。夜は、お疲れ様会が僕のために開かれた。室崎さんに焼き肉をごちそうになった。
二月二十八日。金曜日。
晴天。朝から卒業式があった。色々と感慨があった。木原と原口はもちろん、村田先生、同級生、校舎に、顧問の塚本まで、もう日常的に会うことは永遠にないのだと思えば、嫌な思い出は洗い流され、美しい面影だけが僕を感傷に誘った。村田先生の言っていた青春の尊さとは、こういうことを言うのかもしれない。
涙は出ていないけど、ほんとなんだ。僕は何もかも全部を愛しているのだと思う。
最後は、正門近くにある欅の木の下で木原と原口と並んだ写真を姉さんに撮ってもらった。すると僕ら三人、一人側にいて写真を撮る姉さんの寂しさが気になって、たまたま通りがかった保護者の人に、姉さんも入れた四人での写真も撮ってもらった。三人とも、さっきよりも断然、いい顔をしていた。
三月一日。土曜日。
快晴。高校生の衣が取れて、朝からちょっと身体が軽い。姉さんと室崎さんは昼間からお出かけ。映画に行くんだそうだ。週末は最近ずっとこんな調子。僕も誘われたが、何となく気分が乗らないので行かなかった。
三月二日。日曜日。
だいたい晴れ。夕方ごろ、木原が家に来た。心なしか、いつもより穏やかな顔をしていた。木原は促しても中には上がらず、僕らは玄関口で話し合った。
「明日、いよいよ日本を発つんだ。原口にもさっき挨拶をしてきたよ。これでもう当分はサヨナラだね」
「姉さんには挨拶していかなくて良いのかい?」と僕が尋ねると、「うん、君らでもう限界なんだよ。未練はこれ以上作りたくないんだ」
木原は快活に話し始めた。
「あーあぁ、ちくしょう。どうして人は余計な事にばかり気がつくのだろうね。僕はね、利己的な波に飲み込まれたことがただの一度もないんだ。親切によってのみしか一顧だにされない。その残酷が分かるかい。つまり真に欲すべきものではないということさ。特別でないということさ」
ああ、木原、愛すべき友よ。僕も今まで同じことを思っていたよ。僕らは病に苦しんでいる。
「君の寂しさを僕は尊敬する。君に会えて本当に良かった」
僕は木原の眼をじっと見つめた。
「僕もさ。君ならそう言ってくれるような気がしていた。こちらこそ君に会えて良かったよ」
自分の言った言葉が照れくさかったのか、木原は耐えかねて、表情を崩した。その面差しはかつてないほどに柔和だった。
「それじゃまたどこかで」
言い残して夕暮れの景色に混ざってゆく木原の姿は美しくて、朝露のように儚かった。
「孤独を行く人の内奥には! ──」僕は木原のために思わず声を張り上げていた。「耐え難い苦悩が沸き立ち、寂寞は激烈なる流れをもってその人自身に襲いかかる。けれども、けれどもだ! それらの苦難こそが孤独の果実だ。発展のためのエネルギーなんだ。君は誰よりも、一歩を、大きく、踏み出した!」
「ありがとう!」振り向いた木原も負けじと声を張った。僕は再び歩き出した美しき後ろ姿がすっかり太陽に溶けきるまで、じっとその場を動けずにいた。
三月十日。月曜日。
晴れ。お昼ごろ、合格発表。無事、合格だった。インターネット上だったので感慨もない。もっとも張り出しでも変わらない気がする。世界が激変するようなことは何もなかった。相変わらず平坦な道に様々な困難がある。
姉さんは泣いて喜ぶ。僕が予想していたよりも、もっと切実な喜びようだった。ともすれば泣いているように見えた。
「圭ちゃん、良かったね。それから今まで、色々とごめんね。あんまり助けてやれなかったのに、ここまでよく頑張ったよ」
「いや、姉さんが居なかったら僕は今頃、どっかで不良でもやっているさ。こういう時はおめでとうだけで良いんだよ」
「本当に大人になったね、圭ちゃん。おめでとう」
室橋さんにも電話で姉さんが報告。室橋さんも喜んでいるようだった。電話を代わって、祝いの言葉を貰った。僕は嬉しくもなかったが、自然と笑顔は出て、感謝の言葉を述べた。
昼過ぎ、原口が満面の笑みで家を訪問してきた。K大の合格発表もそういえば今日だった。原口は僕の方の結果報告を聞きもせず、ふざけた将来のビジョンを話し始めた。
「俺たちが次会うときは、互いに一端の求道者だ。まずは手始めに俺はK大を征服するから、お前はT大を征服するんだ。そうして関ヶ原で決戦をやろう」
原口とは最後までこんな調子だ。
「俺たちに湿っぽい別れは似合わねぇ。寂しいからって軽々しく連絡を取ってきたら台無しだからな」
「心得てるよ。でも死ぬ時だけはお互いちゃんと連絡は入れることにしよう」
原口は苦笑いした。
「お前が言うと冗談に聞こえないんだよ。まぁいい。お前がお姉さんの幸せをわざわざ壊しに行くとは思えんしな」
原口は最後に一冊の本を手渡してきた。それは『シナーの日記』だった。
「最近新しい翻訳が出たんだ。実を言うと俺、エストロの孤独なんて全然分かってなかったんだ。だから初めてあった時、お前に見解を聞いたんだぜ。でもお前と木原と過ごしているうちにうっすらと掴めてきたんだ。不思議だよな。人と過ごしているうちに孤独な気持ちが分かってくるだなんて」
原口は照れくさそうに言って、それから笑って歯を見せた。
「んじゃ、元気でな。俺らがいなくとも、ちゃんと研鑽を積むんだぜ」
「君こそ、僕がいなくてもちゃんと勉強をやれよ」
それにしても激動の一年だった。傍から見れば一歳分、歳をとった肉体があるだけだろうが、僕も木原も原口も、それぞれ自分にしか分からぬ大きな内面の動きがあったんだろうな。
三月二十七日。木曜日。
明るい曇り。昨日の夕方、一人暮らしの僕の部屋に姉さんは色々と持ってきてくれた。荷物を開けている際中に、僕は半ばふざけながら言った。
「なぁ姉さん。あの野郎が気に入らなかったらいつでも戻って来るんだぜ。五年後は僕の方がきっと高給取りさ」
姉さんは笑いながら、僕を相手にしない。
「あの人を悪く言っちゃイヤよ。圭ちゃんにも今に分かるから。まぁ高給取りは悪くないけれど」
僕は泣きそうになった。ここまで来ても姉さんが本当の本当に幸福に騙されている気がしてならないのは今までの僕らの不遇のせいだろうか。気がかりは晴れない。姉さんは昔から人を疑わない人だったのだ。いつも騙されて、それでも気丈に振る舞う。その度に僕は姉さんが幸せになれない世界なら、なくなってしまえばよいのにと思ってきた。
「それなら、いいんだ。でも、ほんのちょっとでもイヤになったら、いつでも戻っておいでよ。僕だって一人で立派に生きていけるし、姉さんの邪魔をするようなことはきっとないから」
姉さんは首をちょっと傾げて言った。「圭ちゃんは、やさしいね」
今日の朝、僕は姉さんを見送った。昨日さんざん泣いたから、涙はなかった。姉さんは、朝から努めて明るく振る舞っていたけれど、迎えの車の止まって、飛び乗る直前、後ろをちらと振り返り、目が合って少し泣きそうになった。僕は思わず、「姉さん、きっときっと、幸せになるんだよ」と叫び、姉さんは唇をぎゅっと引き締めて、うんうんと頷いた。僕も姉さんもボロボロ涙が止まらなかった。僕も姉さんも普段は涙脆くも何ともないのになんでだろう。互いのことになると嘘のようにポロポロ涙がこぼれてしまう。姉さんは幸せになるんだ。僕はもっと強くならないといけない。僕はきっと偉くなります。いつか必ず立派な人間になって見せます。
俗物的な意味では決してないよ。立派な人間になるということはまっすぐな道をまっすぐに歩けるようになるということです。
四月一日。火曜日。
晴れ。僕は今、一人ぼっちである。姉さんも木原も原口も皆いないこの街でたった一人で生きている。世の果てにある栄光へとたどり着くためには誰でも一人でなくちゃならないのだ。今まで知ったような振りをして唱えていたその事実。ようやく身に染みて実感しました。
ああ、孤独のなんという暖かなことだろう。これほどまでに僕を強く抱きしめてくれたものはかつてなかった。姉さんの抱擁にはいつでもいたわりの加減があったから。この容赦のない痛みは僕を必ず高き所へと導いてくれるでしょう。そこには、殺されるまでに辿りつかねばならぬという困難が待ち受けているだろうけれど、その時が来たら、僕はきっと行くよ。