これは手短に言うのならば「鏡」にまつわるお話です。そうです。皆様が頭の中に描き出されているあの鏡です。しかし、これからお話する鏡は普段皆様が目にする鏡とは少し異なります。ただ素直に人々の願いを受け入れ、実現させる、不可思議で美しく恐ろしい鏡です。これをお読みになっているそこのあなた。そう、あなたです。くれぐれも美しい鏡に呑み込まれぬようご注意願いたい。
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私には、それはもう小野小町にも負けず劣らずの美貌と気品を兼ね備え、人情に厚い一人の姉がいました。美貌と気品だけでなく、勉学の才にも恵まれていました。大学では好成績を常に叩き出し、それに満足することなくなお一層学問に追求する姿勢に私も尊敬の念を抱いていました。姉が言うには「私は別におよそ聡明な女性と形容されるほどの頭脳は持ち合わせていない。むしろどこまでいっても分からないことだらけで、いわゆる、阿呆だから、勉学に励むの」とのことです。謙遜も度が過ぎれば皮肉になるとは言いますが、姉のそういってはにかむ顔を見たらそのような皮肉のひの字は胸中から綺麗さっぱり消え去っていきました。そんな彼女も今はもう立派な社会人であり、日本社会の支柱となりました。一方で私はというと、姉のような美貌は持ち合わせていないことはもちろんのこと、大学での勉学も中の下といったところであり、これといった趣味も無く、電子レンジよりも面白味に欠ける夢無し大学生なのです。いえ、夢がないと言えば真っ赤な嘘になってしまいます。私は確かに、密かに姉のように広く美しい女性になりたいという夢というより願い、望みを胸の奥底に秘めているのかもしれません。小学校時代のクラスメイトからの私への容貌の評価は低いものでした。もし私が鏡の国に迷い込み、鏡に「この世界で一番醜い女はだあれ」と問うと間髪入れずに「お前」と帰ってくることでしょう。ああ、いつの日か姉のようになって、縦横無尽にその美しさを振りかざし、出会う異性全員を私の虜にし、私の存在価値に磨きをかけたかったものです。お分かりの通り、私は姉のような謙虚な姿勢は持ち合わせていないのです。だからこそ、私は永久に姉のようになれはしないのでしょう。しかし、このような私にも転機が訪れました。彼と出会ってから、私、赤城聖七は文字通り変わってゆきました。
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僕は図書館というものにめっぽう弱い。大量の情報が詰まった紙束が四方八方に己の周りを取り囲むあの閉塞感がどうも苦手である。加えて、あの静寂も苦痛の要因の一つである。というのも、僕が通う大学図書館の職員は等しく学生が立てる物音に敏感であり、常に館内を数人の職員が巡回している。一昔前には、この図書館の治安はよろしくなかったそうで、不良学生団が騒ぎに騒ぎ、荒らしに荒らしていたそうだ。当 時非力だった図書館職員たちは親指を咥えて彼らが去ることを待つしかなかったそうだ。そこで職員長が「学生連中は言葉を用いて意思疎通し、徒党を組んで悪さを働く。つまり音を発生させ悪さを働くのだ。ならば音をなくすのだ、この図書館から。勉学以外の執筆から発生する音も許さぬ。不必要な音を出す者には、老若男女問わず特別更生教育を施す。全ては図書館のために」と主張したのだ。職員らは過酷な訓練を耐え抜き今日のような図書館体制が構築されたのである。もし、不幸にも勤勉な学生がその手から難解な研究書を、地を這う蛇の様にするりと地に落としたならば、恐るべき形相をした職員が学生をよく分からない部屋に連行し、よく分からないことを彼に行うであろう。終始、よく分からないという情報の不透明さが余計に僕の恐怖心を煽る。そんなことをして、多方面と揉めたりしないのかと心配になるが、もちろん多方面と揉めている。しかし、あまり関わりたくないのでこれ以上は深く述べないことにする。私の身体はよく音を出す賑やかな身体であるから、この図書館に来る時は常に奇妙な汗のような汗ではない何かを垂れ流しながら館内を歩くことになるのだ。何故、このような可能な限り近付きたくない図書館に足を運んでいるかというと、頼み事を頼まれたからである。僕はあるサークルに所属しており、そこの先輩方にレポートを執筆するために必要な文献資料を確保し、持ってくるようにと頼まれたのである。
「実際はパシリだけどな」消えそうな声で耳打ちしてくる腹の出た男が横に一人。紹介しよう。友人の赤目君だ。同学部、同サークルで一回生からの付き合いである。よく目が合うなと思っているうちに、気付けば大体の行動を共にする仲になっていた。
「馬鹿野郎。連中に嗅ぎつけられたらどうする」
小声で応答する。
「さすがのあの横柄な先輩連中もこの図書館の異質さには怯えるか」
赤目君はフッと軽く鼻で笑い、お目当ての文献資料を手に取ってゆく。無事に文献資料を確保したので、残すは二階カウンターの職員に貸し出し登録をしてもらうという正念場が残っている。僕らは職員に文献資料を手渡していくが、そ の場にいる三人の視線は手から手へと渡る文献資料ではなく互いの眼であった。職員はノールックで登録の手続きを行い、は瞳孔が開かれており、瞬き一つせずに、虎視眈々と獲物を狩りとろうとする獣のような眼で僕らの眼を見ていた。視線を逸らせば忽ち、何がとは言わないが、とられるような気がするのだ。確実に。証拠に隣に並ぶ赤目君がゴクリと唾液を飲み込む音が聞こえてきた。しばらく睨み合いが続き職員からゴーサインが出たので僕らは文献資料を抱えカウンターを後にした。最後まで油断はできない。
「おっかないことこの上ないな」また赤目君が小声で耳打ちしてくる。
「しかし、この図書館の異様な緊張感のおかげで勉学に精が出て喜ばしい成績を手にした者もちらほらいるとか」
「犬も食わないものと思っていたが、案外、需要はあるんだな」
僕らが先輩方の盤面で踊らされる駒の様になったのは遡ること入学したての頃であった。山あり谷ありの受験戦争を勝利し、晴れて大学生になった僕にはある普通の望みがあった。それは素晴らしい大学生活を謳歌するパートナーの存在であった。要は彼女が欲しかったのである。生まれて十九年間彼女がいなかった僕は「大学生になれば誰でも彼女はできる」という甘い言葉を真に受けて、期待に胸を膨らませて、目的を確実に成し遂げるために比較的女子が多いとされるこの大学への入学に踏み切ったのだ。しかし、入学後に勇気を振り絞って腰を低くし数人の女子に声をかけたが、相手にされるどころか、なんだこのつまらない物体は、と言わんばかりの冷ややかな眼を向けられ 、冷静にあしらわれて終わることの繰り返しで僕の心は寒いままであった。少し考えれば女子が多いからといって彼女が自動的にできるわけはないのだ。顔も良くない、背丈も普通、運動神経も無く、せめてものトークセンスにも恵まれない僕を相手にする女子はこの大学にはあらずという状況であった。しかし、そうはいっても、あの女子たちのほうこそ社交マナーがなっていないとも言えないだろうか。眼は口ほどにものを言うというではないか。それなのに、あのような無粋な視線を向けるなど非礼ではないか。もっと優しく、真摯に相手してくれてもよかったのではないか。あのような嫌な連中は必ずこの先痛い目にあうに違いない。いや、そうならなければならない。そうならなくとも、僕が痛い目に合わせてやる。けれども、嫌な奴の話で盛り上がれる僕自身も等しく嫌な奴なのかもしれないという考えがプカプカと浮いてきたので、もう何も言えないし、言えば余計に心が寒くなっていく気がするのでここいらで話を戻すことにする。兎に角、僕は単独での彼女を獲得するのは不可能と判断を下し、部活なり、サークルなりグループに属せば突破口が見つかるだろうと踏んで、諸々の条件を満たすサークル探しに乗り出したのだ。そして、この辺りで赤目君と行動を共にすることが多くなった。
「彼女か、そんなに欲しいと思わんがなあ」
キャンパスの中央に位置する最大規模の学生食堂でラーメンとカレーライスを交互に喰らう赤目君が実につまらない話題とでも言いたげな顔で言った。
「嘘つくなよ。男子大学生は一人も漏れず、彼女が欲しいと思う生物のはずだ。女子も同様だ」
「もしそうだったら少しは日本の少子化問題の解決に繋がりハッピーなんだがな」
「本当に彼女を欲しいとは思わないのか」
「俺の場合は趣味に時間をかけていたいからな。あとは自分の世話で手一杯なのにどうしてパートナーのことを気にかけてやれるだろうか」
最後の一口を飲み込み、残留物を胃に流し込むようにゴクゴクと水を飲みあげた。
「逆に聞くが、彼女をつくってどうしたいんだよ」
「二人で幸せになりたいですな」
「綺麗ごとを言いやがって。本当はもっとふしだらな思いに支配されているんだろう?」そんな思いには支配されていないという信念に相反して身体の内側が打ち上げられた魚のようにビクンとはねた。
「その件については黙秘権を行使する」
「まあ、応援はするさ。励むこったな。俺はいいんだ。俺の心は女じゃなく、食い物が満たしてくれる」
「満たされるのは胃袋だろ」
赤目君の腹を見下しながらそう投げ返した。
「俺は胃袋を満たすために食っているんじゃない。五感で食物という芸術を楽しむために食っているんだ」
「確かにお前、いつも何かしら食ってるわ」
赤目君は大きな腹を太鼓のようにポンッと掌で叩き満足そうに微笑んだ。それから赤目君は僕のサークル探しに協力するようになり、あのサークルに辿り着いた。そのサークルはゲーム同好会というものであった。ただ単に男子と女子とがボードゲームで遊ぶだけのサークルである。素晴らしい。私は直ぐに目的を達成するためにそのサークルに駆け込んだ。その際、心配だからと言って赤目君もサークルに加入することになった。赤目君は加入してすぐに女性陣の元に行き、親睦を深めていった。彼は僕と話す時の何倍も幸せそうで、嬉しそうであった。なあにが彼女は欲しいとは思わないだよ。かくいう私も温かい心をお持ちの女子が多かったために、すぐに打ち解けることができ、航海は順調に思えた。しかし、ある問題が発生した。このサークルの構成員の割合は女子の数が圧倒的であり、残りは数人の屈強かつ男前の先輩方がおり、その先輩方がこのサークルの覇権を握っていた。順調に上手く女性陣に溶け込む僕たちが面白くなかったのか、妬ましかったのか、邪魔だったのか、彼らは次第に僕らに辛辣に当たることが多くなり、女子がいない隙に悪辣な悪戯を仕掛けられるようになった。ある時は強化極細ワイヤーを巧みに駆使して赤目君と僕のズボンを引き下ろしあられもない姿を露呈させたり、またある時は赤目君の柔らかく膨らんだ大福のような腹をマッサージと称して先輩方がペチペチと往復ビンタをかますという拷問を受けたりした。ある日、リーダー格の志賀が僕らに言った。
「ここは俺たちの王国なんだよ。俺たちが王であり、法なんだよ。お前らみたいな三下共を入れたくはなかったがな、女の前での俺たちは良い王だから仕方なくいれてやったんだ。しかし、命じる。俺たちの女には手を出すなよ。話すぐらいは許してやる」
「王は国民を守り、国民の幸せを願い守るものだろうが」
赤目君は果敢にも自称王様たちに抗議の声を挙げたが、ひとたび鬼のような形相で睨まれると、怯えた犬のように僕の背中にそそくさと身体と威勢を隠してしまった。
「良いこというじゃねえか、ブタ。しかし、一つ間違いがある。お前らは国民じゃねえ、奴隷だ。お前らという底辺は王である俺達の輝きを引き立てる闇に過ぎないんだよ。それが嫌ならさっさと失せろ。ま、それでもいい玩具だからな、脱退しても遊んでやる。あと、俺たちのことは今後、名君と呼ぶように」
「今まで、入って来た男子生徒にも同じ真似を? 暴君」
「空気が読める奴、気に食わない面をしていない奴、従順な奴は残してやってる。まあ、それでも自然消滅していくのが大半だがな。そして、お前たちはこれら三つのどれにもかすってはいない」
「僕たちが奴隷であんたらが王ならば、彼女たちはメイドってところか」
「いや、あの女たちはメイドじゃねえ」
「ならなんだよ」
「姫」
「ホストクラブか」
「さて、奴隷共よ。王は退屈してきた。いじめても構わないだろうか」
「構うに決まってんだろうが。あんたらは、ほんと、身体だけが大きくなったガキみたいだな。倫理の授業でも受けたらどうだ‼」
そういって、僕らは親の手を振り払い、玩具売り場に駆け込む幼稚園児の様に全速力で連中から逃げ、サークルを事実上脱退した。しかし、逃亡しても連中の魔の手を振り払うことは容易ではなく、大学構内で連中と出くわした時には、僕らは捕縛され、赤目君は腹ぺチの拷問を受け、僕は連中が納得するまでゾウアザラシなどの動物の鳴き声の物真似を強いられた。今では大体の動物の鳴き声を精度高く真似ることができるようになってしまった。解せぬ。そのような日常が続き、遂に耐えきれなくなった僕らは、連中と交渉し、学内での身の安全を保障するのと引き換えに連中の駒になることを選び、今日に至る。
「奴ら、横暴なくせして学業に対しては真面目なんだよな。加えて、表向きは好青年で、成績もそれなりに取っているという。ああ、ますます嫌いになる」
小さく溜息をついて、赤目君はやるせない表情を浮かべた。
「お前について行かなかったらこうはならなかったな」
「頼んだ覚えはない。赤目君が勝手に付いてきたんだろう。しかも、女なんて興味ないみたいなこと言ってたくせに、鼻の下を立派にのばしてたじゃないか」
「誰の話してんだ。そんな覚えは微塵もないぞ」
「先生がいればこんな下らない問題なんぞすぐに解決するんだろうけど」
「例の信憑性に欠けるへんてこなお前の先生、それも、魔法使いのくせに魔法を使わない先生の話か」
「ああ、そうとも」
「先生とやらがいれば、この絶望的学園生活が薔薇の学園生活に転回するのか?」
「間違いなく」
「ならば連れて来てくれやしないか?」
「何処にいるか分からないんだよ。自然児みたいなもんでさ。いなくなったと思えば、急に現れたり、気付けばいなくなっていたり」
「まさに神出鬼没か」
「本当にお前が困った時には帰ると言っていたんだが、今僕の前に現れないということはまだ困難な状況にないということか」
「いてもいなくても、そんなへんてこな奴が連中を抑えることができるとは思えんがな」
魔法を使わない魔法使いの先生。名を「アル」という。しかし、いつかの日に僕は先生の魔法を見たことがある。先生が優しく何かを唱えると星々が一斉に煌めき、森の木々が喜びの歌を歌い、風が、足元を回り、甘える愛犬のように僕らを優しく取り巻いた。今でも彼の魔法に魅了された時の不思議で感動的な経験は心に刻まれており、鮮明に覚えている。
「最近はなぜだか木々や本が話さない。何か怯えているみたいだ」
「待て待て。本が話す? さすがに面白くないぞ」
「本は話すだろ、普通に。夜になれば鳥の様にパタパタと飛びもするぞ」
「お前、不思議ちゃんだよな」
残念ながら、先生に師事しているからといって僕が魔法を使えるわけではない。しかし、いつしか自然の声や物から声が聞こえたり、不思議な現象を目にすることができるようになった。
正面玄関が見え、窮屈で息苦しく、恐ろしく、気味の悪い図書館からやっと出ることができると安心したその時であった。油断したのか、赤目君が抱えていた文献資料の一冊が彼の腕から地面へと滑り落ちたのだ。鈍い落下音があたりに響き、やがてすぐに静寂が舞い戻る。赤目君は静かに眼を閉じ、上を見上げた。
「俺とお前は二人で一つ。死ぬ時も一緒だ」
微笑む赤目君に返答するように僕も目を細め優しく笑う。後方から音を立てずに高速で接近する職員の姿が目に入った。赤目君は片手で僕の服を握りしめている。笑顔のまま、僕は大きく息を吐き、彼の手首に全力で手刀を叩き込み、足早に出口の方へと向かった。赤目君の眼は憎しみと恐怖と血が入り混じったように真っ赤になり、泣きながら僕を睨みつけた。
「鬼川真一いいい‼ 覚えていろ‼ ひいっ、こ、殺される」
止めろ、知り合いだと思われるじゃないか。赤目君は二人の職員に拘束され、口を押えられ、何処かに引きずられていった。ああ、名乗り忘れていたが、赤目君が叫んだあの名前が僕の名前である。差支えなければ覚えていてもらいたい。
*
私と彼との関係はこの大学に入学して間もない頃でした。私は交友関係に乏しく、サークルや部活にも所属しておらず、大学構内では雨の降りそうで降らない秋の空模様のような思いで日々を過ごしていました。陽が落ちかけている構内をトボトボ歩いていると、ベンチに腰掛け仲睦まじく話をする男女の姿が目に入りました。きっと恋仲にあるのでしょう。私にもあのように素敵な殿方と砂糖菓子よりも甘い日々を過ごす世界線は有り得たのでしょうか。何を言っているのでしょうか、ろくに友人と呼べる友人もできたことが無いくせに。もちろん、今までに優しく声をかけてくださる男性の方や女性の方はいましたが、上手に話すことができず、関係が順調に構築されることはありませんでした。この方は醜い私に我慢して話してくれているのではないか、何か裏があり、私に分かりにくいように皮肉をくるみこみ、弄んでいるのではないか、そんな疑念と恐怖と困惑とが身体の内で玉石混交し、遂には思考が停止してしまうのです。今でも道行く方々が愉快そうに笑顔を浮かべているのは、私のこの顔の醜さと滑稽さとに笑いを禁じ得ないからではないのか、すれ違う方々が話しているのは私に対する非難と侮蔑ではないのかと、杞憂かもしれないとは分かっているものの、私の脳とはまた別の何かがその考えを肯定することを決して許さないのです。しかし、私も醜いとはいえ女です。素敵な王子様というものへの憧れをこの歳になっても捨て去ることはできず、未だこの胸中に抱いていました。いえ、それだけでは留まりません。多くの異性に愛され、求められ、生きる価値を見出したいという色欲が存在します。たとえ、この世界が私をいらぬものと足蹴にしても願わずにいられません。理想と現実の狭間で苦しみに耐えているある日、彼が私の前に現れたのです。
「そこの君、何か悩みがあるだろう。そうに違いない」
振り返ると、着流し姿で優美な笑みを浮かべる中性的顔立ちをした方が立っていました。声からして恐らく男性の方なのでしょう。美術品のような方で甘く眠たくなるような声色でした。私は咄嗟のことで言葉を返すことができずにいました。
「嫌な空模様だ、これからまた冷たい冬が来るのか。悩みがあるなら話してみなさい、君からは嫌な空模様の匂いがする。それもかなり複雑な匂いだ」
何故に分かるのでしょうか、神通力でしょうか。
「い、いえ」
「色々な人間を見てきたんだ。観察眼には自信がある。それに見ず知らずの人間だからこそ、色々話すことができるとは思わないかい」
「少し、羨ましいと思いました。ああして仲睦まじく人と愛し合うことが」
「君もそうすればいいだろう」
「不可能です」
「何故?」
「私の顔を見たらお判りでしょう」
「ふむ。容姿に自信がないか。そうだね、異性を惹き付けるには美しい容姿が鍵となるのは否定しない」
「宿命なのかもしれませんね」
「……過去に何かあったかい。どうせなら話してみたまえよ」
そうですね。私がこの醜さという罪を自覚するまでの話をこの際ですから皆様方にもお話しようかと思います。まだ私が小学生の頃でした。私は姉と共に小学校に通学し基礎的学力を身に付けるべく日々勉学に励んでいました。姉は誠に多彩で何をどうすればよいのか、今、何を求められているのかを瞬時にして理解し、即座に行動に移し、よく先生方から称賛の声を貰っていました。また小学生の時から麗しい容姿を持っていましたので、よく席替えの時には、クラスの男子たちが姉の隣の席を獲得せんと一つの椅子を巡って小さなお尻を突き合い、椅子取りゲームのような状況がよく起こっていました。私もそんな姉の妹であることに誇りを持っていました。姉の様に私も日々精進しようとしていました。しかし、問題がありました。私のクラスでは、血気盛んな男女によるいわゆるいじめが時々起きていたのです。学校側は、単にじゃれているだけ、好きにさせた方が子供の教育に効果的と考えており、深く介入することはありませんでした。たとえ、いじめが見つかったとしてもいじめた当事者たちは知恵を振り絞り、彼らにとって面白くない状況を器用に打開するのが常でありました。いじめの対象は決まっている訳でなく、時に味方である生徒、時には他クラスの生徒、時には普通の女の子が標的になりました。
「僕たちは偉い王様なんだ。王様は強くて、偉いから、みんな従わなくちゃいけないんだ。逆らったら駄目なんだ」
いじめを行う小さな王たちはそう主張しました。幸いなことに私はいじめの火の雨を被ることがありませんでしたが、クラスメイト達が悪辣な手段でいじめを受けている様子を見るのは愉快でなく苦しいものがありました。しかし、不幸なことが起きたのです。私の姉が標的になったのです。姉は他の生徒がいじめられているところを見かけ、やめるようにと彼らの手を止めようとしました。
「年上だからって僕に命令するなんて駄目なんだぞ。僕らは王様だぞ」
「いいえ、あなたは王でもなんでもない。いつも集団で自分たちより弱い子たちに意地悪をする臆病者よ。自分たちが意地悪されたら怖いくせに止まることなく意地悪を続ける、いい加減成長しなさいよ。小学生とはいえ、分かるでしょう? 身体と言葉は傷つけるためにある訳じゃないの」
「この女ッ」
それ以来いじめの標的は姉に一点集中するようになり、家に帰ってくる姉の姿は明らかに粗末なものに変り果てていました。靴を履いていなかったり、雨の降らない日に濡れて帰ってきたり、目が赤くなっていたりしました。私は耐えきれず姉に進言しました。
「学校、お休みしたほうがいいよ。お姉ちゃんは何も悪くないのに」
「いい。ママとパパに心配かけたくないし、あ、パパとママには内緒ね。それにどうして私が逃げなくちゃならいの。逃げるべきはあの子たちよ」
「そうだけど……」
不安でいっぱいの私の顔を見た姉は優しく微笑み、私の頭をクシャクシャと撫でまわしました。
「ありがとう、聖七。お姉ちゃん絶対に負けないから」
それからも姉への恐ろしい攻撃は止むところを知らずに横行していました。ある日私は偶然三階の姉の教室付近の廊下を歩いていました。姉の教室を覗くと、窓側から夕暮れ時の温かい黄土色の光が旗の様にはためくカーテンの隙間から零れていました。そこに一人の女子生徒が立っており、その見慣れた後ろ姿から直ぐに姉と分かりました。姉はただただ窓の外を眺め、立ち尽くしていました。
「お姉ちゃん?」
姉は振り返りませんでした。何か夢中になる光景が窓の外に広がっているのでしょうか。そう思っていると姉は上靴を脱ぎ、窓の柵にゆっくりと登ろうしました。姉が何をしようとしているのか私は直ぐには分かりませんでしたが、私の身体は熱を帯び、既に姉へと向かっており、まるで芯のない、魂のないぬいぐるみのような力のない姉の身体を後方へと引き戻しました。私はその時、生まれて初めて、姉が震えながらその美しい瞳から涙を流しているのを見ました。それから姉は学校を休み、学校は私一人で行くことになりました。しかし、不幸は苦しめたりないのか、手を振り上げることを止めてはくれませんでした。
「お前、あの女の妹らしいな。なんか来なくなったし、お前でいいか」
それから私は涙が渇く間も与えられないほど、数々の呪いの言葉を浴び続けました。何故、彼らはこのようなことをするのか。私は小さい脳をもって必死に考えましたが、いくら考えても理由、目的は分からないままで、私が嫌いだから彼らはこんなことをするのか、それとも嫌いじゃないからなのか、彼らが言う通り、私が不細工だから、醜いからなのか、私はもう何も分かりませんでした。そして、いつからか私は自分の顔や身体が見えなくなりました。鏡を前にしても、以前の私の顔はどんな風だったのか、どのように醜いのかも分かりませんでした。見えてはいるのに、見えなかったのです。それから私たちは転校し、姉は徐々に回復していきました。私も普通の生活に戻りました。しかし、私は依然として私が見えないままでした。
「辛い思いをしたね」
「姉はもう過去を克服し、今も活躍しているのに私はというと、情けないです」
「そんなことはないさ。どれ、君が良ければ、私が君を見えるようにしてあげようか」
「どうやって?」
彼はニッと笑い、一言、こう言いました。
「魔法」
「あれば素敵ですね」
「馬鹿にならない。魔法はそこら中にあるのさ。皆が見ようとしないだけで魔法は昔から君たちの傍にある」
すると彼は一枚の落ち葉を拾い上げ、私の瞳を真っ直ぐに見つめ、手に持った葉を前に差し出しました。すると葉はたちまち一匹の鼠に変わったと思いきや、今度は蛇になり、最後には、蛇は炎に包まれ、葉は燃えカスになり空中に離散していきました。私はその眼前に繰り広げられた光景を呆然と情けない顔で眺めるしかありませんでした。
「うん、いい反応をありがとう。見せ甲斐があった。どうだね、美しい君を見せてあげようか」
そうして私と彼との関係が始まったのです。私は直ぐに竹林が周りを覆う時代劇に出てきそうな屋敷に招かれました。屋敷は全体的に薄暗く、明かりは殆ど見受けられませんでした。私はある部屋に連れられ、そこには和に似つかわしくない西洋風の大きな長方形型の白銀色の鏡が置いてありました。鏡の縁には、何処の国の文字か分からない文字が彫られていました。
「見た目はごく普通の鏡だけどね、世界に一つしかない魔法の鏡さ。この鏡にむかって君の胸に秘める熱い願いをぶつけるんだ」
内心、半信半疑の私でしたが、先程の魔法に魅入られた私は何も
論を呈することなく、彼の指示に従い、鏡の前に立ちました。私は大きく息を吸い、口にしました。
「誰にも醜いと言われない、姉のような美貌が欲しい」
すると鏡は強い光を放ち、私は恐怖に駆られ、その場でしゃがみ込んでしまいました。恐る恐る眼を開けると、そこには、一人の儚げな眼をし、ルビーを絞って取り出した赤く煌めく液のような唇、なんの穢れもないキャンバスのような白い肌をした乙女がそこにはいました。
「ああ、とても美しいよ、赤城聖七。君は新しくなったんだ」
彼の言葉を聞き、身体の内から溢れるばかりの幸福感が私を支配し、底知れない強さのようなものをこの手中に収めることができたような気がしました。頭がフワフワし、少し何かが足りないような気もしましたが、気にすることなく、私はしばらく鏡の前で自分の顔を可愛がり、彼にお礼を伝えようとしました。
「なんのこれしき。私もこの鏡がちゃんと機能するか試したかったからね」
それからというものの私の大学生活は何か憑き物が落ちたように一変し、寒かった大学生活に熱が帯び始めるのと同時に心が炬燵の中で暖を取る猫の表皮ぐらいに温かくなっていくのが分かりました。様々な男子から視線を集め、時には声を掛けてくださる方もいました。男子のみならず女子の方々からも声を掛けられ、私はあるサークルに勧誘されました。ゲーム同好会というサークルで、男子と女子とがゲームを介し、親睦を深め合い、場合によってはカップルが成立するなど、それはもう夢のようなサークルでした。しかし、私はある障壁に阻まれました。
「……上手く話せない」
顔は美しくなっても、未だ誰かと話すことには 未熟なままでありました。これを何とかせねば、素晴らしき薔薇色のキャンパスライフが私に舞い降りるとは到底言えません。私は直ぐにまた彼の屋敷に向かうことにしました。並木道の木々から無数の銀杏が落ちており、辺りにはあまり好ましくない香りが立ち込めていました。道の奥の方で男子二人が何かから逃げている様子で必死に走っています。その後に鬼気迫る勢いで二人を追うように、というより追っている数名の男子の姿も見られました。スポーツの秋とも言いますし、鬼ごっこをして運動しているのでしょうか。彼の屋敷というのはこの大学近辺に位置しており、道のりも頭に残っていたので難なく辿り着くことが出来ました。冠木門をくぐり、沓脱場で彼と合流し、またあの素晴らしい鏡の元に導いてくれました。
「次は何を願うんだい」
私は鏡の前に立ちました。
「美貌だけでは足りないことに気付いたのです。私はまた新たに、話術の才を望みます」
また鏡は私の願いに返事をするかのように前回と同じように眩い白い光を放ちました。眼を開けると同時に意識が朦朧とし、身体の内から芯が抜け出す感覚を覚え、私はよろけながら尻餅をついてしまいました。
「体調良くないのかい? 駄目だぞ、君のような若い子はしっかり睡眠をとらなくてはならないぞ」
私、ここで何してるんだっけ。ああ、そうだ、鏡にお願い事をしにきたんだ。なんでお願いしに来たんだっけか。なんか頭が回らない。
「大丈夫、大丈夫です。すみません、お邪魔しました」
「どんどん君は完全に向かって進んでいるよ。私はその過程を見ることができて本当に良かったと思っている。感謝するよ。また何かあれば来るんだよ。魔法は何時でも君の味方だからね」
まだ視界が定まらず、頭も上手く回らない。壁に手を置きながらよろめきつつも出口を目指す。私、今何歳だっけ、ここはどの辺りだっけ。私はお姉ちゃんみたいになれているのかな。
「……お姉ちゃんって、どんな人だっけ」
*
皆様、お久しぶり。僕だ。僕は寝起きのドブメッキのような情けなく見るに耐えない顔を引っ提げて、講義を受けるべく重い足に鞭を打ち、大学の並木道を歩いていた。隣には暗澹たる表情を浮かべた赤目君が並んでいる。
「なあ、あの後、何されたんだよ」
「……何も」
「嘘つけよ、あれから赤目君すごい変だよ。時々敬語を使いだしたり、奇声を挙げたり、涙を流したり」
「何もなかったんだよ。そうだ、君も彼らの特別教育を受けてみるといい。素晴らしい世界に羽ばたけるぞ。大丈夫、全然痛くないから」
「絶対痛いじゃん」
少し申し訳ないことをしたかもしれないという気がしたがしばらく歩いているとそんな気持ちは何処かへ一人で歩き去ってしまった。並木道の木々から銀杏が落ち、悪臭を放っている。一体何故、大学側はかような悪臭を放つ小型爆弾を設置するのか、何故、大学を臭くするのか理解に苦しむ。否、一番苦しいのは悪臭を一手に引き受ける鼻であった。しばらく歩き続け、学舎の入り口付近に近づくと後ろから「鬼川」と声を掛けられた。聞き覚えのある声だった。
「何ですか、蛭沼さん」
後ろにはやけに足が長い、長細い女性が立っていた。顔の肉付きは薄く、目は暗く、頬は落ち窪み、口はむすっと一文字に結ばれていた。蛭沼さんは先生の弟子ではないけれど先生の知り合いなんだとか。
「これから授業かい」
「そうです。大体の人はそうだと思いますよ」
「励みたまえ。まあ、どうせ最後の試験かなんかで痛い目を見るんだろうけどね。君の様に短絡的に物事を考える子はそうなりやすいんだ。まあ、警告したところでどうにもならないけどね」
「気を付けます」
「赤目君、といったかな。君は元気かい?」
「まあ、ぼちぼちといったところです」
「そうかい。ぼちぼちでも元気なのはいいことだ。だけどね、君のその可愛らしい腹を見ているとこうも思うんだ。これから冬がやってきて寒くなり、雪が降り、路面が薄く凍り、どうせ鈍い君は転倒するだろうね。それも前向きに転倒し、君の腹は体重に耐えかねて菓子袋の様にパンッと、なる気がするんだ」
「善処します……」
蛭沼さんの困った所は、何かにつけて話題を暗い方に持っていこうとすることである。彼女と話し始めたての頃は、それはそれは苦労したものである。今はもう慣れているので平気である。
「それで何かお話したいことがあったんですよね」
「ああ、そうとも。君の先生から言伝を預かっている。『君の学校に敵が攻撃をしている、十分に気を付けなさい。本当に乗り越え難い壁に出くわした時には、私があなたを守る』だそうだ」
「敵?」
「確かにこの辺りの木々や風に落ち着きがなくなっているね。まあ、確かに伝えたからね」
蛭沼さんは後ろを向き「どうせ帰り道に銀杏に殺されるんだ」とブツブツ言いながら歩き去っていった。
「敵ってなんの話だろう」
「お前、ほんと周りに変な奴しかいないよな」
僕らは三階の講義室に到着し、適当な席に座ろうとしていた時であった。前方に、つまり、講義室の後方に、それはそれは完璧ともいえる造形をした筆舌に尽くしがたい、まさに、美少女の姿があった。もちろん他にも可愛らしい女子はいたのだが、彼女の美しさはひときわ目立つものであった。儚げな様子で窓の方を見つめ、艶やかな黒髪を小さくたなびかせている。周りの男子共も気付かれぬようにと視線を彼女に向けている。⁉ 彼女の隣の席が空いているではないか。隣の赤目君も情けなく鼻の下を伸ばした顔で彼女を見つめている。いかん、このような変態を彼女に近づけさせてはならぬ。僕は彼女を守るべく隣の席に座ろうと足を動かした矢先、赤目君が物凄く気味の悪い走り方で彼女の元に突進していった。
「ぬかった‼」
負けじと僕も後を追い、小競り合いを経て、何とかして彼女の席を勝ち取ることができた。赤目君は一つ後ろの席で厳つい番犬のような顔でこちらを睨んでいる。さあ、始めよう、素晴らしい薔薇のキャンパスライフ。
「ご機嫌用。今日はとても良い天気ですね」
彼女はゆっくりと視線をこちらに向け、「そうね」とだけ呟いた。
「こうして偶然とはいえ、隣になったのです、自己紹介をさせてください」
「俺は赤目と申します‼」
「貴様は黙っとれい‼」
僕は再び笑顔で彼女に向き直った。
「私、鬼川真一と申します。差支えなければ、貴女のお名前は?」
「名前、名前か。ああ、名前ね。赤城聖七」
ゲーム同好会では短い期間とはいえ、熱心に女子との会話訓練に励んだのだ。いける、いけるぞ。風よ、私を勝利に導きたまえ。すると赤城さんは軽く溜息を吐き、窓に視線を戻し、こういった。
「私、あなたとあなたの後ろにいる変な顔をしている人にもまったく興味ないし、好意なんて抱くわけがないから」
その刹那、講義室が雄大な南極大陸に変貌を遂げた。久方ぶりのこの感覚、冷静にあしらわれていたあの時の心情が記憶の底から這いあがって来た。僕は何もできずに笑顔のまま静止していた。しかし、僕の心の中は、国家中枢機関にサイバー攻撃が仕掛けらたかのように混乱状態に陥り、私はひたすらに「ぱおーんんん‼」と情けなく鳴くしかできなかった。後方からは「くーんん」と聞こえてきた。やがて講義が終わっても、私は机に突っ伏したままでいた。赤目君は私より一足先に再起し、僕を置いて何処かに行ってしまった。さすが、あのイカれた図書館の洗礼を受けただけある。非常に手厳しい女子であった。あの手厳しさもまた美しさの一つなのだろう。しかし、何か変な匂いがしたのは気のせいだろうか。嗅ぎ慣れた匂いであった気がする。
「何か悩みがあるのかい。いや、あるんだろう。そうだろう?」
ゆっくりと顔を上げるとそこには洒落た着流しの美男子が座っていた。とても眠たくなるような、優しい音色を放つ楽器のような声であった。眼は自信に充ち満ちた様子で口角は少し上がっている。それに何か先生に似ている気がする。
「分かりますか。僕の何がいけないんでしょうね。女子にはまともに相手にされないわ、狂った暴君共に虐げられるわ」
「君がいけないのではないよ。いいかい、君はいつだって正しく、正しくないのは周りなのだよ。自分を責めてはいけないよ」
「……あなたは僕の先生に似ている気がします。いや、先生はもっと厳しいか」
「そりゃ、私も君の先生の弟子だったからね。今はもう独立しているけどね」
「え⁉ そうでしたか。最近、先生にお会いしませんでしたか?」
「会っていないね。見つけようと思っても見当たらないし」
「そんなことより、君のその悩みの解消に先輩として、一役買わせてもらえないだろうか」
「……ぜひ、お願いします」
彼は優美な笑みを浮かべ、席を立ち、ある一枚のノートの切れ端を僕に手渡した。
「そこに僕の屋敷への道のりが示してある。明日にでも来てくれ。心配ない、この大学の近くだから。君には期待しているよ、後輩君」
*
何か、身体が空っぽな気がして、気持ちが悪い。何か、満たされない。私は何がしたいのか分からない。美貌も人と話す術をも手に入れたのに、何故だろう。苦しい、いや、苦しいのかも分からない。兎に角、彼の元に行って何とかしてもらおう。彼なら私を何とかしてくれるはず。私はぎこちない足取りで彼の屋敷に到着し、彼が正面玄関から出てくるのを待たずして例の鏡のある部屋に向かった。そこにはいつも通り彼がいて、鏡が置いてあった。
「来ると思っていたよ、聖七」
「何か、とても気持ちが悪いのです。私が私でなくなるような。元に戻しては頂けませんか? もう十分、楽しめました」
気付けば、彼の顔からはいつもの優美な笑顔は失われていた。
「何を言っているんだい。素敵な殿方と甘い日々を過ごしたいのではなかったのかい。心配しなくてもいい。君はまだ慣れていないだけさ。君ほど美しい人間はいないんだ。どうか、諦めないでほしい、魔法を信じてくれ」
「い、いえ、もう大丈夫だから。お世話になりました」
彼の必死さが私の恐怖心を煽り、私の身体は勝手に後ずさりを始めていた。私は小さく震えながら彼に背を向け、元来た道を戻ろうとしたけれど、私の目の前には彼が立ち塞がっていた。機械のように無表情で何を考えているのか分からない眼で私を見下ろしていた。
「君が苦しいのは、中途半端な状態にあるからだ。完全まであと少しなんだ。君は過去の自分の『名前』を捨て、新しく生まれ変わるんだ。そうすれば、苦しくなくなって君は完全に美しくなる」
「名前を捨てる?」
「そう、名前を捨て、新しい名前を手に入れるんだ。ここから出て行っても君はこの先、苦しさが残るだけだろうね」
彼は優しく私の髪を撫で、手を滑らせ、頬に手を置き、愛おしそうに見つめていた。そして、私はより一層頭が朦朧とし、彼に鏡の前に連れていかれた。
「さあ、いってごらん。いい子だから」
「ああ」
*
大学の講義がすべて滞りなく終了し、僕は昨日話した先輩の助力を願おうと一枚のノートの切れ端を手掛かりに屋敷へと向かっていた。赤目君は用事があると言ってついては来なかった。彼の言う通り屋敷は大学のすぐ近くにあり、難なく辿り着くことができた。戦国時代の武家屋敷のようで、竹林の葉が風で擦れる音が辺りに響いていた。正面玄関まで歩いて行くと彼が待っていた。
「待っていたよ、後輩君。ここではなんだ、上がりたまえ。部屋に案内しよう」
「では、お邪魔します。趣深い屋敷ですね。僕も将来こんな和風を感じられる屋敷にすみたいなあ」
「気に入ってくれてよかったよ。さあ、こっちだ」
ただ少し、屋敷は全体的に薄暗く前が見にくいので、もう少し明るくしてほしいというのも感想の一つである。しばらく回廊を歩いていくと「ここだ」と言って、部屋の襖をあけ、僕を中に招いた。そこには見覚えのある顔があった。
「赤城さんではないですか」
赤城さんは薄っすらと笑みを浮かべているものの、心ここにあらずといった顔であった。赤城さんの隣には大きな西洋風の白銀色の鏡が立っていた。薄暗かったのでよくわからなかったのだが、鏡には人のようなものが映し出されていた。そして、その姿は僕のものではなく、裸の綺麗な顔立ちをした女性であることも分かった。まるで、眠っているかのように鏡の中に立っていた。何かの芸術作品であろうか。
「あの、これはどういう……」
「彼女の名前は赤城聖七ではないよ。今は名無しで空っぽ状態で、私が新しい名前を考えている」
「赤城聖七ではない?」
先輩は何を言っているのだろうか。
「彼女はね、遂に、過去の自分を捨て去り、完全なる美しさに辿り着いたのだよ。否、私は新しく完全なる者を作り出すことに成功したのだよ」
「ほ、ほお」
「さて、そこでだ、後輩君。取引をしようじゃないか」
「取引?」
「そうだ。私はあの鏡を使って君の望みを可能な限り叶えさせてあげよう。君が困った時には直ぐに力を貸そう。その代わり、今後、君は私の弟子になり、私の言うことだけを聞くんだ」
「あなたの弟子に?」
「そうだ。何でも手に入れることができ、君は完全な魔法使いになることができる」
「でも、僕には先生がいます」
「私なら、君にとことん指導できる。自然児みたいな彼にはできないことだ。それに君には力が必要なはずだ。鏡を見てごらん、あの美しい身体に触れたくはないか? 煮えたぎる情欲を彼女にぶつけたくはないか?」
鏡の中の女性を僕の好きなようにできるのか? あの持ち上げれば砂の様に零れ落ちそうな艶やかな髪を、あの果実のような唇を好きなようにできるのか? ふむ、アリである。私は赤目君の様に情けなく鼻の下を伸ばしていたが、鏡の縁に何か文字が彫られているのに気付いた。
「……」
いいことずくめで僕に不利益なんかない気もするが、しかし、
「お誘い、嬉しいですけどお断りします。先生は怒らせたら怖いなんてものじゃないくらいおっかないんです。御存じでしょう? 勝手に弟子をやめたら何されるかわかりゃしません」
というのは建前で、あの鏡の縁に彫られた文字、あれの意味は「もの言う鏡─アルが創りしもの」という意味であるのだ。私は先生が使う文字をなんとなく分かるのだ。ああ、先生が怒ればとんでもなく怖いのは本当のことである。
「私は、今や彼より優れた魔法使いだと自信がある。それでも来ないのかい?」
恐らく、あの鏡の中にいるのは彼の魔法にかかってしまった子なのだろう。助け出すべきなのだろうが、僕にはそのような力はない。さて、どうしたものか。
「ええ、それでも僕の先生は、大魔法使いアルがいいです」
「君、あの文字が読めたね。君をこのままに外に出せばアルに他言するだろう」
「いえいえ、他言なんて」
「絶対他言するじゃん」
「しませんて」
「最後に問うよ? 私について、その指にはめている契約の指輪を捨てるか、二度と外に出れないようになるか。命を粗末にするんじゃない」
空気が一気に張り詰めたものに変わり、蝋燭の火は怯え、音が一つも聞こえてこなかった。彼の眼は底知れない真っ暗な大穴のようであった。僕は意を決して、部屋の出口を目指し、全速力で駆けだした。次の瞬間、僕の首に黒い闇のような手が巻き付いたのが分かったのと同時に激しい苦しみが全身を襲い、叫び声にならない叫び声を挙げた。
「君をアルから落として、奴が困り果てる姿を目にしたかったんだけどね。叶わぬ夢になってしまった。いや、君という命は消え果てるから、それはそれで奴は困るか」
「……ッそんなことのために」
「君にとってはくだらないことかもしれないが、私には重要なことなのだよ」
駄目だ、落ちる。
「……けて、助けて」
「んん? 私につくか? 命が惜しいか」
「助けて、先生‼」
「愚かな後輩よ」
意識が遠のいていく。ゆっくり。ゆっくりと。諦めかけ、瞳を閉じたのと同時にあるヒーローの決まり文句が聞こえた。
「そこまでだ」
その声は、真夏の海のさざ波の様に爽快で雄大な声であり、その声は、屋敷中に轟き屋敷を打ち振るわせた。
「私の弟子にそれ以上触れるな」
首にまとわりついていた闇が消え去り、僕は地に伏し、激しく咳き込んだ。朦朧としたまま声のした方に目をやると、そこには赤茶色のローブを羽織った、白い髪と、炎の眼を持った大魔法使いの姿があった。
「お久しぶりでございます。先生」
「ユハよ、お前からは取り返さないといけない山の様に積もっている。私の弟子、鏡、鏡に囚われた娘」
「魔法を使えないあなたに何ができますか?私は今やあなたをも凌駕する大魔法使いとなった。私は赤城聖七という女から新たな命を創り出すことにも成功した」
「貴様のそれは魔法と呼べるものではない。呪いだ。何よりその魔法は私から奪ったものだろう。いい加減に返せ」
先生は僕に目をやり「こちらに来なさい」といい、僕はその言葉に従い、駆け込むように先生の後方に身を隠した。ユハという名の彼は屋敷中の蝋燭の火を呼び集め、巨大な百足のような形をした、燃え盛る炎を生み出した。燃え盛る炎の熱線が離れているにも関わらず頬に突き刺してくる。先生の背中は微動だにせず、ただ前の一点に目を向けている。
「私の鏡に呪いをかけてくれたな。それもかなり複雑な呪いだ。彼女は正しくない方法で鏡を使用したんだ。確かに鏡は彼女の欲望を満たしはした。しかし、それは偽の姿を本物の姿と引き換えに与えているだけだ。欲を満たせば満たすほど、偽りは彼女に纏わりつく。やがて」
僕は息を呑んだ。
「彼女は嘘になる」
「名前を捨てさせたな、貴様。名前はその者の存在を表すかけがえのない言葉だ。それを捨てさせたのか、ユハ」
「違う違う、全然違う。繰り返しになるが私は彼女を完全な者へと作り替えたに過ぎない。しかし、先生、あなたは今日ここで消えることになる」
「貴様にはできない。魔法を使えずとも私は魔法を信じている。世界は私に味方する」
「焼け死ね」
ユハが甲高く呪いの言葉を吐くのと同時に巨大な炎の百足は、興奮して手の付けようのない闘牛の如く僕らに向かって突進してくる。先生なら大丈夫という信頼はあったはずだけど、それでもやはりあのような業火に包まれた暁には僕の身体のみならず魂をも灰燼に帰してしまうのではないかという恐怖が確実に僕の身体の中であった 。百足はもうすぐ目の前であった。僕は筋力を顔面の上の方に集中させ力強く瞼を閉じた。しかし、私の身体も心もはげしい炎によって焼き尽くされることはなかった。百足は先生の手前でその足を止め、夏 の夜空に咲く色鮮やかな花火の様に散り、火の粉が僕と先生の周りを泳ぐように浮遊していた。
「まだやるか、ユハ。今ならまだ許してやる。でないと次は私がお前を焼き尽くす」
「魔法のないお前にそんなことができるか」
「私を誰だと思っている」
そういって先生は怒りに満ちた獅子の様な顔でユハを睨みつけた。その眼は見るもの全てを焼き尽くすような、凍てつかせるような、ただただ恐ろしい眼であった。蛇に睨まれた蛙とはこのような気分なのだろうか。嫌、比較にならない程である。
「まあ、いいでしょう。今回は手を引きます。しかし、私はいずれ必ず全ての魔法を支配し、魔法を新たなものにする。その時にまたお会いしましょう、愛しの先生並びに才のない後輩よ」
するとユハの身体は黒い霧となり空中に離散していき、姿を完全に消した。先生と僕は大きな溜め息をつき、安堵の空気に包まれていた。
「なかなか、手強くなっておった。私に直撃するまで魔法は奴の命令に従っていた。次に会うときはどうなることやら。しかし、大きな障害物は退けた。次は、鏡と鏡の中の娘だな」
「助け出せますか?」
「分からぬ、この娘次第だ」
先生は優しく鏡に触れ、瞳を閉じながら、優しく話し出した。
「少し眠りすぎではなかろうか、友よ。ものいう鏡よ」
やがて鏡は白い輝きを放ち、中から人間の欠伸のような声が聞こえてきた。
「その声はアルではないかい。やあ、久しいね、元気にしていたかい? あたしは随分長い間眠っちまってたようだけど」
「ああ、久方ぶりに友とこうして会えて私はとても嬉しい。ところで、ものいう鏡よ。君の中に一人の娘が眠っているのだが、起こしてやってはくれないだろうか」
「ああ、どうりであたしのカラダが重い訳だ。よし、お安い御用だ」
「この鏡は、元は、悩める者に対して希望を与えるために、最善の選択を示すために造られた鏡なのだよ」
「あたしゃ、言わば、大魔法使いお墨付きの占い鏡なのさ」
そういってカッカッカと笑い声を天高く響かせた。
*
私はある夢を見ていました。私と姉は共に何処かのお祭りの賑わいに紛れ込んでいました。辺りは薄暗く、空は黒なのか灰色なのか判然としない様子でした。とても寒く、冷えた空気が道行く人々の隙間を縫うように伝っていきました。けれど、橙色に輝く提灯が辺りを照らし、道行く人々に寒がる様子は見られませんでした。次第に歩いていると、お祭りの空気にあてられて私は酔ったような気持ちになり、身体から力が抜け、深海の海藻の様にゆらゆらと漂っていました。姉も同様で、私の手を強く握り締めながらお祭りの空気に身を任せていました。
「私、将来はお姉ちゃんみたいに可愛くて、強い女の子になりたい」
私は姉にそう呟きました。それと同時に希望の無い空に大きな白い花火のようなものが現れ、お祭りの全てにその白銀の光が差し込みました。不思議と眩さはあまり感じられず、私はただただ空に広がる輝きを眺めていました。すると姉が私の方に向き直り、こう言いました。
「将来、あなたは私みたいになるんじゃない。あなたは素敵なあなたになるのよ」
そこで私は姉との夢から目覚めました。
*
鏡から解放された赤城さんが眼を開けたのは暫くしてからのことであった。その間、僕は先生からお叱りと拳骨の刑に処されていた。何故かというと、彼女の美しい裸体に心を奪われそうになったことを咎められたのだ。誘惑には勝ったのだから、ぜひ見逃して欲しかったものである。
「何か言いたげだな、真一」
「いえ、何も‼」
「さて、娘よ。一つ問おう。何故、名前を捨てようとしてまで自分を消そうとした?」
「……消すつもりはなかったのです。私は美しくなりたくて」
「しかし、あなたは消えてしまったではないか」
「……はい」
「此度の経験を忘れないように。美しさや艶やかさは直ぐに消えてしまうものなのだ。それらに固執し、大事なものを見失ってはいけない。あなたが言うように、望むがままに偽りの美しさを取り込み、あなたが鏡に呑み込まれ、完全に存在を消されれば、大事なものが失われる。あなたがいなくなってしまえば、あなたのお姉さんの命も失われてしまうのだ」
「……ごめんなさい」
「これからは、自分の価値から逃げてはいけないよ」
先生はゆっくりと赤城さんを抱き上げ、彼女の髪を丁寧に整え、最後に僕の方を向いた。
「さて、真一。まだ問題が残っているようだな」
「問題、ですか。あの狂った魔法使いは追い払ったし、赤城さんは取り返しました。何か残っているとは思いませんが」
「いや、まだ残っている。あの小さな王たちを何とかせなばな」
ああ、そういえばそうであった。暴君共という障害が未だ僕の学園生活にこびりついていたのだ。
「しかし、なんとかなりますか? 素直に話を聞く連中ではありませんよ」
「ものいう鏡よ、私たちはあの小さな王たちに勝てるだろうか?」
「あたしゃ、万に一つもアルが負けるとは思わないね」
「ものいう鏡よ、少しだけあなたの魔法の力をお借りしたいが構わないだろうか?」
「お安い御用だよ」
「先生も一緒に来てくれるのですか?」
「彼らは今日見たことを生涯忘れることはないだろう」
そうして僕たちは大学に戻り、ゲーム同好会の拠点に向かい、暴君共を見つけ出した。暴君共は新鮮な獲物がきよったという目でこちらに近づいてきた。
「さあ、真一。そこに転がっている小さな石を拾い、上に掲げなさい。ただし、彼らには投げてはいけないよ。これから戦う相手は剣を持った名君でも暴君でもない、ただの臆病者だから」
すると、隣にいた先生の身体が徐々に膨れ上がっていき、赤茶色のローブを破り裂き、金色の身体をした巨大な獅子が現れた。その獅子は威厳に満ちた顔で唸り、小さな王たちを見据えていた。そして、僕が持っていた石も次第に大きくなり、軽自動車ほどの大きさに膨れ上がった。しかし、全くと言っていいほど重さを感じることはなく、押しつぶされる心配はこれっぽっちも無かった。これらの摩訶不思議な光景を見た臆病者たちは、突然足を止め、その顔から残酷な表情が消え去り、恐怖に支配された顔が現れた。臆病者共は情けない声を挙げ、各々一目散に逃げ出していった。気が付くと、隣にいた獅子はおろか、先生の姿も消えていた。
「また、行ってしまわれたか」
それからは、あの臆病者共に絡まれることもなくなり、またいつも通りの日常が舞い戻り、私と赤城さんは長い長い交友関係を経て、恋仲に、はならなかった。誠に遺憾である。
「今は、色んな人とお話して交友を深めたいと思います。その後で、素敵な殿方を見つけたいと思います」
「ここに素敵な殿方が……」
「……? 何か言いましたか?」
「……僕も頑張ろうかなと」
「ええ、共に頑張り、素敵なキャンパスライフを送りましょう」
そこには、それはそれは可愛らしい笑みを浮かべた、小野小町にも劣らぬ美女の姿があった。