私が愛しき彼と出会ったのは、ちょうど二年前の今頃でございます。水が固相になるかならないかの瀬戸際にある、シベリア高気圧が日本国の上空で元気にはしゃいでいるのがひしひしと感じられる時候の折にございました。私はまだその時はただの鉄、正確には〇・一五質量パーセント、炭素が含まれる S15Cと呼ばれる炭素鋼でございましたので、実際のところ冬将軍の逞しさを理解してはいなかったのですけれども、それでも何となくは騒がしい学生たちの言葉から汲み取ることができました。毎度やってきては寒い寒いと嘆くわけですから、自我と知能を持つ私が意味を汲み取れないはずがないのです。
愛しき彼は当時、その学生集団の一人にございました。そのときの彼は私にとってはまだ何の価値もない、ただの定命短い下等生物の一個体に過ぎなかったので、特段注意を払っていたわけではなかったのですけれども。一方で、彼はこのときすでに私が異質な存在であることを知覚していたようでした。彼は少しばかりではございますが、確かにほかの人間と比べて私がいる試料棚の方に多く視線をくれていたのでございます。
さて、人間のことを高みの見物していた私ではございましたが、実のところ内心彼らを羨ましく焦がれておりました。彼らには互いに同じ時間と場所を共有できる能力が天より与えられていたからにございます。たとえどんなに薄い内容、例えばそれが天気の話であろうとも、同種族と意思疎通ができるだけでそれは恵まれているのです。むしろ薄い内容のほうが気楽でよいかもしれません。兎にも角にも私のほかに自我を持つ物質は一つもあの部屋に存在しないのですから、私は常に独りだったのです。
孤独に飽きた私はとうとう気が狂ってしまったのか、下等生物と見下していたはずの人間達に何とか自らの声を届けようとしておりました。「もしもし、私の声が聞こえますか」、「あぁ、そんな私の同族を折り曲げようとしないで」といった具合でございます。別に自我の無い同族が塑性変形させられようとも大して何も思わないのですが、そのときは何か一言でも人間達に届けたかったものですから、してもない心配の素振りをしていたのでございます。ついには大多数の人間には私の声は届かなかったのですけれど唯一声に反応を示してくださった人間がおりました。それが愛しき彼でございます。 愛しき彼が私の自我に気づいてくれたとき、私は感無量でございました。それは彼が修士課程に入って間もない、冬将軍が切腹するも未だ介錯を受けず捨て置かれているかのような、そんな折節のことにございます。そのときは珍しいことに部屋の中には彼と私の二人きりでございました。私はこの機会を逃すまいと、声を脳に送ったのです。「もしもし、私の声が聞こえていますか?」
毎度のごとく視線をキョロキョロ動かしていた彼でしたが、驚くべきことにふと私のいる試料棚の方へと目を向けると、そのまま私の方に歩いて近づいてきたのです。まさか私の元まで誘導せずとも居場所を特定できる者などいるはずもないと思っておりましたので、もし心臓を持っていたならばうっかり止まってしまいそうなくらいには吃驚に溢れておりました。
「ずっと騒がしかったのはあ、あなたですか?」
ですからそのためにせっかく勇気を持ってくれた彼に私は何の返事も出せませんでした。私のような高等な存在が、きわめて情けないことに、あれほどまでに望んでいたコミュニケーションの機会が訪れたにも関わらず、しばらくそのまま睨めっこを楽しむことになっていたのでございます。
彼は恥ずかしそうに頭を掻きながら視線をずらしてしまいました。このまま終わってしまえば私にはもう二度と孤独から抜け出す好機は訪れないかもしれない。そう思った私は、一切合切の抵抗感を捨てました。
「騒がしいとおっしゃられますと、私としては遺憾ではありますが、声の主は私です」
「本当に炭素鋼がしゃべってる……」
控えめな性格をしているように思われた彼は図太さをその内に秘めていたのか、臆することなく私の身体をつんつんとつついておりましたが、そのうち猫のように首をかしげ、なんとも形容しがたい表情でじっと私を観察し始めました。
「微妙に暗いからよくわからないな。外に持ち出すか」
「え? 私、外は初めて……」
挙句の果てには私は太陽の下にさらされ、彼の手のひらの上で彼の好きなようにされるしかなかったのでした。
「金属光沢が妙に強いな……」
「もう帰して……」
それからというものの彼は私とお話しするために足繁く通ってくださいました。冬将軍の切腹も問題なく完了し、とうとう植物の生命が爛爛と感じられるようになっても彼の私に対する関心は止まることを知らなかったのでございます。そしてそのように自らを見てくださる彼を私は心の底から求めるようになったのです。彼が来てくださるだけで私の感情は正の方向に塑性変形を起こし、そのひずみはどんどん大きくなって、最早彼との関わりが途絶えた生活など想像もできないほどになっていたのでございます。
そしてそれは私の思想にも強い光を打ち付けました。かつては劣等種と考えていたはずの人間に憧れるどころか、私自身がそれになりたいと考えるようになってしまったのです。
「どうするべきなのでしょうか」
彼はいないのですから、当然返事はありませんでした。私と空間を共有しているのは変哲の無い鉄鋼か、ふよふよ漂っているだけの酸素や二酸化炭素などの分子だけでございましたから、独り言の虚しさがより響き渡るだけだったのでございます。けれどもしばらく虚無感を味わっているうちに、そこの二酸化炭素が重大な事実を語っているような気がしてきたのです。
「二酸化炭素、炭素、私は炭素鋼……。人間の表面を覆っているのはタンパク質、つまりは炭素……」
この日、私は自らの炭素比率を上げることを決断したのでございます。とは言っても炭素比率を変えるというのはそう簡単にできるものではないとこのときの私は考えておりましたので、彼に熱処理をお願いするほかありませんでした。
「え? 炭素含有量を増やしたい? 浸炭焼入れすれば多分できると思うけどどうして?」
「貴方との時間を増やすためです」
「よくわからないけど、わかったよ。とにかく炭素をあげればいいんだね」
そうして熱処理を繰り返している間に私はS55Cになりました。これで私の炭素含有量は〇・五五質量パーセント濃度です。しかし所詮鉄鋼は鉄鋼。私の理想までの道のりははるか地平線の彼方で、心の中は高層雲ひしめく夜半になっていたのでございました。後から冷静になって考えてみれば、人体だって骨格を形成するリン酸カルシウムに炭素を反応させているわけではなく、リン酸カルシウムとタンパク質は互いに独立した存在として人体を構成していました。つまりは熱処理して私が炭素を抱えたところでタンパク質を着ることにはなりえないのです。
詰み。
この二文字が思考を占領しました。高等な存在であるはずの私がたった一つの願いさえも叶えられない。自我を持って以降初めて高い壁に阻まれたのでございます。この壁はベルリンの壁よりも高く、そしてより強固でした。なんとかしたいと思ってもひらめきは訪れず、何もできないうちに外の世界は姿を変えていました。樹木の花は散り、植物たちの生命は輝きを増し、日本の領域はほとんど小笠原高気圧の植民地になっていたのでございます。そしてそれよりも恐ろしいのは彼と会う頻度が明らかに減っていることでした。桜の散る前は何度もここに来てくれていたというのに、葉桜が増えるにつれ、彼はその回数を減らしていき、今となってはまったく姿を現さなくなったのです。
私は独り、彼を想ってはどうすれば人間になれるかを思案しました。想う。思案する。想う。思案する。想う。思案する。想う。思案する。想う。思案する。想う。思案する。想う。思案する。想う。思案する。想う。思案する。想う。思案する。想う。思案する。想う。思 案する。想う。思案する。フフフ。
「久しぶり!」
ですから彼を十三日ぶりに見たときには心が飛び跳ねることこの上ありませんでした。 もうそれ以上感情が揺れることなど無いだろうと思えるほどでございました。ぴょんぴょんぴょこり、ぴょんぴょこり!
「お久しぶりですね。また会えてうれしいです。なんせ十三日ぶりですから」
ぴょんぴょん!
「あぁごめんね。最近ちょっと忙しくてさ」
ぴょんぴょん!
「何かあったのですか?」
ぴょんぴょん!
「実はね……」
ぴょんぴょん!
──彼女ができた。
ぴょ……。みしゃり。
「彼女とずっと遊ぶのに忙しくて」
その言葉はその言葉が持つ意味以上に私には鋭利なものに感じられました。私の心は高層雲ひしめく夜半どころではなく、それよりもっと他の、底なし沼のようで、マグマだまりのような曖昧なものに支配されていたのです。
その日は彼との会話もずっと虚ろで、ただ相槌のような返事をするだけでも息苦しいほどでした。私は所詮鉄鋼ですから、表情に出るということは当然なく、彼は私の思いを読み取らずしてひたすらに私をその鋭利な包丁で刺し続けたのです。
彼が帰った後も私は揺れ動いていました。彼女というモノが私から彼を奪ってしまうであろう事は容易に想像できたからです。彼がいなければ私はまたずっとこの退屈な場所で独りになってしまいます。誰も私の存在に気付いてくれないまま、光が私を照らすこともなく、この先ずっと独りぼっちに。なんの意識も持たないただの酸素や窒素に囲まれて。私はもう知ってしまったのです。独りでないことの楽しさを、独りでないことの喜びを。一度知った私には過去に戻ってしまうのは闇でしかないのです。
「嫌だ……」
あまりにも強い感情は、私の封印を解くには十分なものでした。私の身体である鉄鋼は黒く輝き、空気は振動し、周囲にあった金属試料は砂のように溶け、コンクリート製の壁や地面には大きくヒビが入りました。そして周囲が原形を失うほどに私の身体は更に黒い輝きを増していきました。
有り余るほどの全能感は私に無限大の可能性を感じさせましたから、私は人間の女の姿を思い浮かべました。すると周囲の金属原子や炭素原子、酸素原子や水素原子などを取り込みながら、人間の姿へと変えていきました。黒い光が収束するころには私は完全に人間の女の姿をしていたのです。このときは現代人の美的感覚というものを理解していなかったものですから、ついうっかり枕草子のような顔を作ってしまいましたが、それでも人間の姿をとることには成功したのです。
「これでようやく、貴方とずっといられますね」
戻ってきた記憶曰く、私は元々八百万の神々と呼ばれる者たちのうちの一人だったようで、そんな私にとって愛しき彼がどこにいるのかを察知することなど造作もないことでした。ですから、私は初めて私の方から彼に会いに行くことにしたのです。受け身では叶うはずの願いも叶いませんから。ちなみに私がいたこの場所は爆発事故を起こさせることで不自然な現象の証拠を無かったことにしようとも考えたのですが、彼との記念の場所ですから残しておくことにしました。それゆえに彼に会いに行くのは掃除が終わってからになりました。残念ではありますが、どのようにして人間の姿をとろうかとゴールまでの道のりが霧に包まれていたことに比べれば幸せなことですから、思い悩む必要はもうどこにもないのです。
原状回復は困難極まりないので行いませんでしたが、床に散らばった金属粉は改めて私が吸収することでヒビ割れただけの片付いた部屋にまで戻すことができました。試料棚も金属製だったのか一緒に吸収してしまい、部屋には机と椅子しか残りませんでしたが、まぁ問題ないでしょう。
時は既に子の刻を過ぎておりましたが、どうにもこうにも感情を抑えることができなかったのですぐさま彼の元に向かうことにしました。大丈夫。寝ている彼を無理に起こしたりはしません。ただ、そっと彼の寝ている隣に潜り込むだけです。姿が人間のままだと彼もびっくりしてしまうでしょうから、潜り込んだ後はすぐにでも直方体試料に姿を戻すつもりです。
彼のいる家は全て消灯しておりました。彼の家はどの部屋からでも日の光を取り込めるように設計されているようでした。つまりは窓の外から彼の様子を伺うことができるということです。私は彼の気配が最も強い部屋の窓をそっと覗き込みました。しかし暗くて何も見えませんでした。
雲が避けて月明りが彼の部屋を照らします。
会いたかった彼がそこで眠っていました。
「あぁ、ようやく」
布団からはみ出した彼の肌色が月の灯に照らされます。少し暑いのか手が布団の外に投げ出され、その数は一つ、二つ、三つ、四つ。
……。一つ、二つ、三つ……。
三つ目の手が彼の肌色を撫でました。
浮かれていて気づけなかったのですが、確かにそこには人間の女がいたのです。その女もまた、彼と同様に肌色を月に晒しておりました。暑かったのか、その女は自らを隠す布団を彼の方に追いやって、胸の突起物までも私に見せつけているのです。
その日、私は確かに芽生えた、泥よりも粘着質でベンタブラックよりも真っ黒なソレを胸に抱えて彼との思い出の場所に帰ることになったのでした。
すっかり片付いた私の部屋の異変に気付く者はいませんでした。この部屋を使う予定のある人間がいなかったからでしょう。特に騒ぎになることもなく、誰かから人の姿をした私の存在が気づかれることもなく、ただ何もなく時は過ぎていきました。
あの女さえいなければ、きっと彼がここに来て、この部屋の変化に驚いてくれていたのでしょう。あの女さえいなければ、きっと彼がここに来て、私の手を取って外に連れ出してくれていたのでしょう。あの女さえいなければ。
きっと、今、私は独りではなかったのです。
私はとても良いことを思いつきました。あの女を殺してあの女に成り代わればよいのです。そうすれば彼の隣にいるのは私になる。
私は数日間に渡り、あの女を観察し続けました。あの女を演じるためにはあの女の性格や趣向、行動を理解しなければならないからです。例え、女と彼とがベタベタとくっついて私にとって見たくない景色を見せつけてきたとしても、私は観察を続けたのです。どのみちその地位は私のモノになるのですから。耐えがたきを耐え、忍び難きを忍び、万世の愛を求め、 ひたすらに観察を続けたのです。
女はずいぶんとさっぱりした性格のようでした。自分のミスについては後悔を引きずらず、他人のミスには寛容でした。彼がうっかり寝坊してデートに遅れたときも彼を迎えに行ってケラケラと笑っておりました。また、バニラ味のソフトクリームが主食ではないかと思えるほどにそれを毎日のように食べ、時折他の味に浮気しているようでした。体格維持のためか早朝にランニングをするのが日課のようで、女の自宅周辺を朝から徘徊していました。
趣味は外遊びならば集団でバレーボール、内遊びであれば日本や世界を舞台に鉄道で飛び回る桃太郎がモチーフのゲームを好むようでした。そして案外妨害系のカードを容赦無く使っておりました。それで彼に貧乏神が何度もついて、何度も徳政令カードを使わされておりました。服装は落ち着いた色合いのパンツコーデが多く、ジーパンを除いては黒か白かベージュか茶色を着用していたようです。
情報が集まりました。あとはあの女を始末するのみでした。私は機会を待ちました。待ち続けて、待ち続けて。
交差点、歩行者信号は青。自動車信号は赤。女は横断歩道を歩き始めます。まだトラックは停止していませんでした。当然です。私の力で、あのトラックはフットブレーキに異常があるのですから。運転する人間が慌ててブレーキを踏もうともこの流れは止まりません。この横断歩道は下り坂の終点にあるのですから。ふふふ。
女は迫り来るトラックに身を固くして逃げられず、ついに 3000キログラムはあるだろう 鉄の塊が時速 100キロメートルで女に衝突したのでした。上手くいったことを確認した私 はすぐに女の姿になりました。顔も、体格も、服装までも。外から見てわかるものは全てあ の女そのままになったのです。雲一つない青空に見守られて、私の計画は成就したのでした。
愛しき彼は私を出迎えるなり、私に熱い抱擁を交わしてくださいました。そして何も気づくことなく、いつも通りにゲームをして、いちゃいちゃして遊びました。私の胸からは黒い靄は消えてなくなっていました。
邪魔者や
血染みになりて
ここを去る
愛しの君は
私のモノ
完
【補足説明】
愛しき彼はこの主人公をかつて祀っていた神職の子孫である。ゆえに神格を宿した鉄鋼の気配に気づくことができた。また、本文は主人公の主観であるため「何も気づくことなく、いつも通り」と記載したが、実際はきちんと違和感を覚えている。
以上