何故時間というものはこう瞬く間に私を置いて過ぎ去っていくのか。地方から顔を出し、某私立大学に進学し、一年という時が疾風の如く過ぎ去り、私に残されたのは哀感と虚無のみであった。無論、私は断じてこの一年間何もせず、胡坐をかいていたわけではない。学生の本分たる学業に精進し、如才ない学友たちにも恵まれ、他方面では、いつの日か私が忙しなく回り続ける社会という表舞台の役者の一人として起用されることを見据え、役に徹するための知識、技量、度胸をこの手中に収めんと週二日毎で労働に励んできた。言わずもがな、そこでも同じ志を胸に秘めた若き労働仲間に恵まれてきた。誰がどこから覗き込んでも欠落のない大学生生活を私は過ごしてきたはずだ。しかし、私の心、いや、魂は寒い、温もりが足りん、もっともっとよこせなどという不満の念を叫ぶばかりであった。何故であろう? 何が不満なのか? こうして知らぬふりを決め込んではいるが、私には心当たりがあった。人によっては鼻で嘲笑されかねないものではあるが、この場をお借りして胸の内を明かしたいと思う。それは、この先待ち受ける幾多の波乱を払いのけ、苦楽を共にしてくれる女性の不在であった。けれども、私には一方的に恋心を注ぐ対象となる女性がいた。ならば話は早い。早く彼女を我が相方にするのが吉。だが、それが出来たら苦労はしない。どうしたものか。そもそも、どうにかなるものなのか。私という人間の不器用さを披露した上で話は変わるが、ここからは私という人間と彼女、その他の愉快な面々とが織りなした変哲極まりない記録の数々を語ろうと思う。
温かみの欠片もない寒風を日本列島に心行くまで吹き散らかした憎き冬季が過ぎ去り、桜の花が盛りを迎える四月上旬という温暖な季節が舞い降りた時のことである。部活動の新入生勧誘期間という各部活動が、己が組織の繁栄を願い、新入生を奪い合い、ぶつかり合い、時には涙を交わし、笑い合った、喧騒嫌いの私から言わせれば、ただの大患難時代でしかなかった期間が過ぎ、大学内に平穏と適度な静寂が舞い戻りつつあった。今年は書道部が異様な力を見せつけ、他サークル、部活動の面々を圧倒していた。私が所属する部活動も例外ではなく、私含む部員たちもまさに手も足も出すことが出来ない程であった。そういう訳で、私は長きに渡る新入生争奪戦で負った傷を癒すのと同時に俗世から我が身を離し、静寂に覆われた喫茶店で優雅に珈琲を嗜むつもりであった。しかし、私は今現在、静寂とは縁遠く、無手勝流に飛び交う笑い声と酒の香りが入り混じる素朴な居酒屋の隅の席に座り、空のグラスを指で小突きながら一人の女性を眺めることで閑を潰していた。私が何故この場に腰を下ろし、何故彼女を眺めているのか。それは、私が所属する部活動「奇譚研究部」の新入生歓迎会が行われていたからである。そして彼女もまた奇譚研究部員の一人であった。彼女が歓迎会に参加していなければ、私は今日の誘いを無視し、珈琲片手に読みかけの本と睨めっこをしていたであろう。
一言で言ってしまえば、私は彼女に一目惚れしたのである。大学内の学舎へ繋がる大きく急な坂道を、歯を食いしばりながら登っていた折、前方から美しく輝く漆黒の髪をなびかせながら下ってくる一人の乙女がいた。そこで私は彼女と偶然目が合った。微かに憂いと潤いを含み輝く瞳はその時その瞬間に我が心を長き恋の旅路に駆り立てた。しかし、一年という時が過ぎても尚、いつも軽い会話程度で終わり、彼女と私の距離に微塵の変化も現れなかった。ある時、何事も焦らなくとも時間が解決してくれる、という他力本願の塊のような言葉を耳にしたことがある。嘘である。誰だ、そのような世迷言を吐いた無責任な阿呆は。何も解決してなどいない。なぜこのような戦略的失敗を招いたのか。無論、私の小心が招いたことではあるが、それを素直かつ冷静に受容することは出来ず、現実逃避が飛躍して日本国、いや、世界にこの恋路が立ち行かない原因があると我が脳内で結論付けた。そのようなことをぐるぐると考えていると一つの人影が近づき、隣の席にふわりと腰を下ろしてきた。見当はつく。
「彼女を眺め続け早一年……。赤く煌めく炎のような恋心は未だ彼女に届かず……。もたもたしていると卒業してしまうぞ。俺は悪くない。日本が悪い、否、世界が悪い、みたいな顔を引っ提げてもそれはお門違いというやつだ。彼女という対象に何一つ行動を起こさなかった君自身が悪い。否、君の魂が悪い」
至極真っ当かつ的確で鋭い言葉を私に浴びせたこの男も同じく奇譚研究部員の一人であり、私の先輩各にあたる。名を大塚という。
「仰る通りでございます……。俺は目に余るほどの不要な大迂回をしてきました。機は熟しに熟しすぎました。しかし、なぜか今日は身体の内から湧き水の如く勇気のような物が湧いてくるのです。先輩、自分、いけます!」
「その言葉を幾度となくこの耳に入れてきたが、今宵の君の顔つきは何か一味違うと見た。思う存分ぶつかってきたまえ」
大塚先輩に誓いの言葉を述べ、ありがたき激励の言葉を頂いた私は彼女がいる神聖不可侵の領域に足を向けた。歓迎会の方も盛りを迎え、より喧騒が店内を弾けた風船のように飛び交った。気付けば先程まで身を丸くしていた新入生も喧騒の内に溶け込んでいた。私はこの時、新入生が二人だけだと気付いた。新入生勧誘戦は圧倒的敗北に終わったらしい。
昨夜の福徳円満、和顔愛語に充ち満ちた新入生歓迎会は夜の十一時頃にお開きとなり、各々が帰路についた。そこで気になる私と彼女に関する昨夜の戦略的作戦の結果だが、私の目論見はあっさりと水泡に帰した。彼女がいる神聖領域に向かい足を数歩動かしたところで、新入生の一人が私の上に降りかかってきたのだ。そこで私は気を失い、大塚先輩に担がれ我が下宿先に投げこまれたそうな。これは歴とした事故である。私の落ち度ではない。と信じたい。その我が恋路を無慈悲に切り裂いた憎き新入生の名を覚え、顔はしかとこの目に焼き付けた。さて、どうしてくれようか。兎にも角にも、昨夜のことを引きずって物思いに耽り、いつまでも胡坐をかいていては大学の講義に遅れてしまう。大学の教室において私は非の打ち所ない優等生なのだから遅刻など言語同断、あってはならない。身体の内に幾万の漬物石が入っているのではないかと疑う程の重き我が身を起こし、大学構内に向けて足を動かした。新春を迎えた大学前の学生街は新入生の期待と不安、色々な内なる心情を映し出しているのか、どこか新鮮で初々しい雰囲気を漂わせ、朝からというのに相変わらずの盛況を博していた。すると突然「兄ちゃん、ちょこっと付き合ってくんねえか」と声を掛けられた。
目をやるとそこにはいつもの奴がいた。白い長髪にボロボロの衣服を身に纏い、路傍に座り込んでいる。私は奴のことを浮浪者と心の中で呼んでいる。実際は浮浪者ではなく、ただの外見に無頓着な一般人か、どこぞの大手企業の社長か優秀な官僚か、正体は不明なので現時点では外見から判断し、浮浪者と呼ぶことにしている。この浮浪者はこの辺では有名なのだ。「何ですか? こちらも暇じゃないんですが」
「兄ちゃん、女関係で何か悩んでそうじゃないか。君は多彩な才能の持ち主なのに勿体無いねえ」
何故分かる? 神通力か。しかし私の優れた才覚を瞬時にして見抜くとは中々、人を見る目があると見た。この達人の域に達した審美眼の持ち主ならば素晴らしい突破口を授けてくれると私は踏んだ。
「そうなんです。私はどうしたら良いのでしょうか? 生憎と色恋に関する知識は持ち合わせていないのです」
「無知を恥じる必要はないさ。偽りの知識に気を付けな。慌てずともそう遠くない未来に兄ちゃんは結ばれるよ。山あり谷ありの紆余曲折が待ち受けているけどな。兄ちゃんが結ばれる時は俺にも変革が訪れることになる。そん時はよろしく頼むぜ」
「漠然としていますねえ。もっと具体的なヒントはないのですか?」
「そうさなあ……。背伸びはするな、猫を被るな、後は、必ず彼女を見つけ出せ」
駄目だ。ありきたりなアドバイスでまるで役に立たない。最後に関しては誠に意味を見出せない。結局の所、時間を無駄にしてしまった。しかし、どこか神秘的な何かを感じるのだが。
「あなたは何者なのですが?」
「俺か? 俺はな、王様だよ」
さらばだ、浮浪者の王よ。それから私は浮浪者の王に取られた時間を取り戻すべく、足早に歩みを進めた。
何故か講義中の徹頭徹尾、「そこの君、発言せよ」「そこの君、これらの文献を比較せよ」「そこの君、常日頃から怠らず学問しているか?」といった具合に、なぜか文語体で話しかけてくる個性的な教授の講義を受け終え、私は足早に部室棟に向かった。断じて奇譚研究を行いに行く訳ではない。もしかしたら、彼女が部室の窓辺で美しい黒髪をたなびかせているかもしれない。その淡い期待が私を部室棟へ導くのだ。蛸の触手のようにウネウネとした無数の蔓が赤い煉瓦で身を固めた四階建ての部室棟に絡んでいる。何やら、中が騒がしい。また大塚先輩が何かしでかしたのか。扉を開けると、案に違わず、部室棟の一階ロビーで大塚先輩が天井あたりに漂いながら何者かの大群に追われていた。
「皆の衆、怒りを鎮めたまえ。決して怒らせるつもりはなかった。大竜の如く暴れ回る我が知的好奇心をどうしても抑えることが出来なかったのだ。」
それに対し、大群は罵詈雑言の嵐を大塚先輩に向かって解き放ち、何やら長い棒を手に取り大塚先輩を串刺しにせんとしている者や巨大な虫取り網ならぬ人取り網を担ぎ振り回している者もおり、まさに喧喧囂々の世界が眼前に広がっていた。
私が一階にある文化部総本部室を覗くと、複雑に配置された事務机に座り黙々と作業に打ち込んでいる数人の係員の姿があった。奥の方に目をやると、悠々と湯気立つ紅茶を飲みながらふんぞり返り、まるでどこぞの成金社長の様な雰囲気を醸し出している男の姿が目に入った。
「偉くなったなあ、文化部総本部副部長殿」
私が声をかけると、その男は視線のみをこちらに向け、「ああ、君か」と言った。彼と私は同じ学部に所属しており、一回生からの友人である。彼は優秀な男であり、その優秀さは学業や文化部総本部での活動はもちろんのこと、彼が身を置くサークル、ボランティア活動、学内アルバイトにおいても遺憾なく発揮され、それゆえ、この辺りで彼の名を耳にしたことがない者はいないに等しかった。加えて、彼は優れた容姿を持ち合わせており、彼の眉目秀麗さは数多の女性たちの視線を一挙に引き付けるに留まらず、ファンクラブなるものも存在していると聞く。羨ましい。「女性に縁があった家系だからかなあ~~。いやあ、参っちゃうよ」とはにかむ彼の顔に一発お見舞いしたいのは読者諸賢と私だけの秘密である。世の寵愛を一身に受け、どの方面でも抜け目ない彼は今や二回生ながらも文化部総本部副部長の玉座に腰を下ろすことを許された。彼は空いている席を指さし、紅茶を出してくれた。
「今日も元気に奇譚研究、ではないね。どうせ彼女目当てだろう?」
私が軽く頷くと、彼はフッと笑った。
「昨日の歓迎会、彼女も来ていたんだろう?何か進展は?」
「話しかけようとはしたさ」
「……情けないね。いつまで手をこまねくつもりだよ。こまねきすぎて猫になっても僕は面倒見ないからな」
「自然と女性が寄ってくるお前に私の気持ちなんて分かるものか」
「にしてもだよ。内気すぎやしないか。目の前に相手がいるならさっさとぶつかるべきだ」
「この恋の戦は一手一手が肝要なのだ。慎重に行動しなくては」
「単にビビってるだけだろう。器用なのに不器用な男だねえ。見苦しいことこの上ないよ」
言い忘れていた。この男は話してみると意外に手厳しい奴でもある。
「似た名前同士なんだ、優しくしておくれよ~~」
「ま、君のその一途な姿勢は好きだけどね」
私は話題を変え、部室棟のどんちゃん騒ぎについて聞いた。
「ああ、君のところの大塚さんが書道部の逆鱗に触れたらしい。なんでも、どこかの偉い人が特別な手法で丹精込めて生み出した、滅多に手に入らない高級な墨汁を彼が勝手に持ち出したそうだ」
「返せばいいじゃないか」
「それが、墨汁を冷凍した後、氷にして、その氷でかき氷を作ったらしい」
「……なんと。ていうか、出番じゃないのか。部室棟の秩序維持に努めろよ」
「冗談言うなよ。今行ったら僕まで殺されちまうよ」
耳を澄まし、硝子窓から覗くと、大塚先輩と書道部の先頭に立つ男とがやりとりをしていた。どうやら書道部の部長さんのようだ。
「貴様、どうしてくれる! どう責任を取る! あれを手に入れるまでどれほどの時と金を失ったことか! なぜだ? なぜ大人しくできない? なぜ、お前たち奇譚研究部は幾度となく他部を混乱と恐怖に陥れる? 特にお前! 大塚!」
「名も知らぬ巨匠が生み出した、稀な墨汁。実に美味であった。貴君らの部室の前を通った折、墨汁が黄金に光り輝き、私に向かって『我をそなたの体内にいれてみとうはないか? 口に甘し、腹にも甘しの一品であるぞ』と言ったのだ。飲まぬ訳にはいかんでしょうが。そして、我ら奇譚研究部のみがこの文化部棟で暴挙に出ている訳ではないぞ。先日、紙をよこせと新聞部が我らの部室に襲撃してきた」
「……だからって、墨汁は飲食物では、ないの、だぞ」
燃え尽きたかのように書道部部長はゆるりと雨粒のような涙を流しながら床にへたれこんだ。見ているこっちまで胸が締め付けられる心苦しい光景であった。
「そう泣くな、書道部の長よ。高級とは言え、ただの黒色の液体だ。もしかしたら、今日の夜にでも向こうの世界の連中から摩訶不思議な墨汁が手に入るやもしれないぞ。それにまだ墨汁は残っている。貴君らにもかき氷を振舞おうではないか!」
「もうこの人なんか気持ち悪い! 根本から何かおかしい!」
そしてまた書道部の連中は飛び回る大塚先輩を追いかけ回し始め、私はなんだか楽しそうだなあと呑気に考えながら、副部長に別れを告げ、戦乱の飛び火を踊るようにかわしながら奇譚研究部の部室がある三階を目指した。さあ、今日は意中の彼女は来ているのだろうか。淡い期待を胸に硝子扉を押し開けると、そこには私の脳内で描いた理想郷と化した部室の姿はなく、あるのは彼女と私の恋物語の一歩を妨害した後輩の憎き顔のみであった。
部室の硝子窓から濃い赤に染まった夕日と灰色の綿菓子の様な雲が見える。
私は、彼女と会えず、如何なる進展もなく今日という日が私から離れ去っていくのを、ただ親指を咥えながら見つめることしかできない自分に嫌気がさしていた。そして、目の前にいる、不本意ながらも後輩にあたるこの男と対峙していることについても嫌気がさしていた。
「昨夜のことで心配していたんですよ。先輩、気絶してしまうんですから」
「誰のせいだと思ってんだ。だいたい、なんであの場で上から降ってくるんだよ」
「もう一人の新入生がいたでしょう? 訳あって奴と相撲試合を先輩方に披露することになりまして。奴の屈強な腕力になす術なくやられてしまいました」
どんな訳で相撲をすることになるんだよ。確かに目の前に座っている男は、男にしては背が低く、どこか頼りなさを感じる身体付きであった。しかし、もう一人の新入生は屈強な腕力とは相反して華奢な身体付きであった気がしたのだが。兎にも角にも、彼女がいないのであればこの場所にもはや用はなし。黙って背を向け、硝子扉に手をかけると後ろから憎き後輩が訊ねてきた。
「用は済んだのですか?」
「ああ、ちょっと探し物をしに来たんだが、どうやらなさそうだ」
「先輩が探していたのは意中の方、ですよね?」
憎き後輩は不敵な笑みを浮かべた。
「残念でしたね、先輩の意中の相手はここにはいません。ただここにいるのは可愛い後輩の僕だけです」
私は振り返り、憎き後輩の肩をガッと掴んだ。か細い身体が風船の如く揺れ動いたが、憎き後輩の顔から不敵な笑みが消えることはなかった。
「オイ、どうして分かった? それから、断じてお前は可愛くない」
「昨夜の居酒屋で熱烈な視線の跡が先輩から出ているのが見えました。跡を辿ると、なんと黒髪の麗しい女性に繋がっているではありませんか」
「すごく恥ずかしい! そんなにあからさまだったのか……」
では、私が一人の女性に対して熱烈な想いを馳せているのを知っておきながら私の輝かしい恋路の序章に泥を塗りたくった訳か。なんて恐ろしい奴なんだ。生かしておくべきではないかもしれぬ。
「君の恋事情の一片を握る仲間が一人増えたな。よくよくは君の恋路の支柱となるやもしれんぞ」
ふと視線を外すと、いつの間にか部室の隅の方で、大塚先輩がガラクタの集まりでできた塔の上に座り、もうすっかり闇に染められた外を眺めていた。
「よくあの血気盛んな書道部の連中を巻けましたね。あれは、どうやって飛んでいたのですか? 何かの奇術ですか?」と訊ねると、「烏天狗から教わった」と呟いた。
「若き後輩達よ。もう日が暮れた、そろそろ帰路に就くとしようではないか。道中、面白いものが見れるぞ」
「あなたも十分に若いでしょう」
今日も私は彼女との恋物語に一石投じることは出来なかった。唯一得ることが出来たのは、私の恋の内情を握りしめる憎き後輩の存在のみであった。
大学内はすっかり藍色の夕闇に浸されており、大学構内を練り歩く学生たちから帰宅の意志が仄かに感じられ、私は再び一日の終わりを感じていた。
大塚先輩と憎き後輩、私を含む三人は闇夜に落ちてゆく大学構内をトボトボと歩いていた。ふと遠くを見ると何やら賑やかに輝く光の数々が目に入ってきた。
「やってるな」と大塚先輩が顎を擦りながら呟くと、憎き後輩が「あれ、なんです?何かの祭りですか?」と訊ねた。
「ほう……、見えたか。まあ、今に分かるさ」
次第に賑やかに盛る光の正体が判明し始め、それが露店か何かのよせ集めだと分かった。
裸電球と古風な提灯が解き放つぬるい橙色の光がその場の闇夜を支配し、焼きそば、たこ焼き、りんご飴、金魚掬いに千本引きといった乱雑な文字で飾られた看板を引っ提げた露店が大学構内の広場のそこかしこに立ち並んでいた。広場を往来する人々を眺めてみれば子連れの家族、薄汚いおじさんや生真面目で近寄りがたい雰囲気を伴う大学職員、美大生的雰囲気を醸し出す洒落た女性もおれば、どこかの部族の長老の様な長い髭を顎からぶら下げた爺さんもいた。往来をかわしながら足を進めてゆくと、異様なお面や木彫りの人形を売りに出している店や見慣れない草花を売る店、赤い文字で呪術屋と書かれた店などがあった。ふと空を見上げれば、美しく点在する星々だけでなく、ふらり火、赤提灯らが大きな舌をたらし、何やら口ずさみながら闇夜の空を泳ぐように飛んでいる。お、河童が胡瓜の店を出しているではないか。病に伏していたと聞いたが元気に商い中だ。向こうには鬼の金棒風蝋燭を売っている赤鬼と青鬼の姿が見える。人間の様な身体付きではあるものの犬の顔を持った露店の店主が「今なら、活きの良いのが入ってるよー!」と犬の鳴き声より少し小さい声で叫んでいた。何やら紙芝居を披露している店もあった。不安そうな面持ちを伴った、華やかな着物を着た麗しい女性を背中に隠した若い侍の様な男が刀を構え、何やら恐ろしい怪物に挑もうとしている。奥の方で民謡の様なものを歌いながら歩いてくる集団が見えた。その集団の面々は往来人一人一人に物柔らかな笑みを向けている。
「これは何かの縁日かお祭り、ですかね?」
案に相違して憎き後輩の顔には驚嘆の色は見られなかった。面白くない奴だな。
「この辺は昔から不思議な場所でね。ここは現在我々が住処としているこの世界とこの世界とは別の世界が重なり合う場所なんだ。そして、これは定期的に開かれる魔物と人間たちの祭り兼市場。通称『妖祭』。ま、この土地に慣れてない人間には彼らは見えなかったりするから、お前は目が肥えるのが早い方だよ。確か、地方からの出身だったよな」
「はい、日本一不可思議な場所とは聞いていましたが、こんな感じだったとはなあ」
「んで、今通り過ぎたのが平安衆って呼ばれてる連中だ。魔物の世界とこの世界の平安維持のために時折儀式を行ったり、魔物へおもてなしをしたり、魔物世界の王に敬意を示すためにこうして何か分からない歌を歌いながら練り歩いて、捧げ物なんかもしてる」
平安衆。東に困り人がおれば手を差し伸べ、西に魔物がおればおもてなしの組織。総本山に日本有数の広大な寺を所有しているとも聞く。この土地ならではの組織といったところだ。
「で、説明合ってますよね? 大塚先輩?」
振り返ってみるが、どこにも大塚先輩の姿は見えない。先輩は我々の目にも留まらぬ足取りで物珍しい物品の数々が眠る露店群の中に、勇猛果敢に単身で乗り込んだのだろう。通常運転だ。
「どうする?このまま帰るか、もう少しブラブラするか。……ん?」
気付けば、憎き後輩も姿を消したかと思えば、少し先の所でタツノオトシゴの様な物が漬けられた瓶を持ち、泣く子も余計に泣き出す程の形相を伴った般若の面を被った魔物の話を興味深そうに聞いていた。
私はこの妖祭に特に用はなかったので、好奇心の塊の二人は残して、当初の目的である我が下宿先を目指すために先に進むことにした。私は何故だか魔物に対して名状し難い感情を抱えており、簡単に言えば苦手意識を持っていた。道中、固く手を握り合って露店を見て回る若い男女の姿が目に入った。頭の中で考えてしまった。私も彼女の手を引き、この豪華絢爛煌びやかな夜の祭りを闊歩することが出来たのならば、ただただ物珍しさが点在するだけで騒がしいだけのこの広場も楽園の如く感じられたに違いない。その時私はハッとした。
ある露店の前で、顎に手をやり、売り物をしげしげと眺めている小柄な女性がいて、その横顔は誰であろう我が意中の相手であった。なんと有難き天佑であろうか。この千載一遇の好機を絶対に逃すまいと固い意志を我が魂に宿し、大きな一歩を踏み込んだ。そして、勢いよく駆け寄ろうとした途端、小さい子供と衝突した。何故いつもいつも私が彼女に近づこうとすると決まって邪魔が入るのだ。よろめきながら私は人の恋路を邪魔した御尊顔を拝見しようと視線を小さい子供に向けた。しかし、視線の先にいたのは人間の子供ではなかった。
「……ちっ。ちゃんと前向いて歩けよ、一つ目小僧」
「大人気のない人間もいたもんだな。心配の一声もねえのかよ、え?」
小僧の名に似つかわしくない大人の様な掠れた声で、名前に似つかわしくない言葉が飛んできた。
「あーあ、怪我しちまったよ。責任、取ってくれるよな? な?」
「とる訳ないだろ。俺は天からの使命を全うしなくてはならん。じゃあな」
「使命ってのは、あの嬢ちゃんのことかい?」
「だからなんで分かるんだよ」
「オイラの眼は何でも見通せるのさ。あんたが考えている事、あんたが好きな人間はもちろん、あんたが嫌いな人間、好きな食べ物、本、曲、その逆も、そしてあんたのこの先も、一目見たならば何でもお見通しさ。ま、最近は調子が乗らんのだがな。例えば、あんたは夜な夜なこんな事を考えている。夢にまで見る彼女との交際という願いが叶ったのならば、あんたは彼女に助平な……」
「分かった、俺が悪かった。ごめんなさい」
「よし、なら責任を取ってもらおうじゃないか。まずはリンゴ飴を買ってもらうとするかねえ」
ああ、私に降りかかった一点の曇り無き天佑が天に帰り昇って行く。神様、願わくば、波乱よりも我に彼女との交際という恋の潤いを与えたまえ。そして、私は彼女が誰かに話しかけられてるのが微かに見えたが、一つ目小僧に手を引っ張られ、誰と話しているのか見当はつかなかった。
結論から述べると、昨夜は愛らしさの欠片もない一つ目小僧に徹底的に搾取され、私の財布と精神はもはや干ばつ地帯の如く渇きに渇いていた。しかし、一つ目小僧の有無を言わさぬ大鯨の様な食べっぷり、飲みっぷりは憎いながらも称賛に値するものがあった。天晴だ。二度とお前のことは忘れない。それでもいつの日か、誰もが羨むこの才覚をもってしてお前に目にものくれてやる。私は起床後、直ぐに行き場を失った恨み辛みを飲み込み、固く腐りかけた寝床で一人慎ましく思慮に耽っていた。何故であろうか。彼女との恋物語を進めようとすると彼女が遠ざかっていくのは。何故であろうか。遠のけば遠のく程、私の深紅に輝く情熱が巨大なものになっていくのは。世の片思い中の男性も私と同様に現在も恋の駆け引きの戦いにおいて奮闘中であり、毎夜毎夜果てしない思慮の世界に迷い込んでいるのだろうか。意中の女性を勝ち取った男性諸君よ、知恵を恵んではくれないか、如何にして諸君らは勝者に成り上がったのかを。ただ、勝利後の愛憎渦巻くロマンチックな物語は語らくなくて結構である。持論だが、遥か昔から人間という生き物は自慢話を耳に入れることは好まないのである。勿論、例外も存在するであろうが、少なくとも私は自慢話をただただ耳に入れ込むぐらいなら、一日中公園のベンチで植物ごっこに耽っている方がまだ有意義な時間を過ごすことが出来ると考えている。ふと、狭い窓に目を向ける。昼過ぎに起きたので、日は暮れかかっている。今日は大学の講義が無く平日ながらも休日同然であった。午後六時頃、あれこれ独り言を呟いていると、我が下宿先に一人の男が訊ねてきた。
「ドブメッキみたいな顔をしてどうした」
これが彼の第一声であった。
「どこがだ、どこまでも洒脱な顔をしているだろうが。お前も相変わらずうそ寒い顔をしているな」
入学以来我が敷居を跨ぐ輩と言えば皆男ばかりであった。二十歳を超えた男二人が、夕暮れ沈む一部屋で向かい合っている。なんだろう、何故か嫌な気分がする。彼の名は中島。私と同学年ではあるものの年齢は彼の方が一つ上だ。高校時代ではサッカー部に所属していたらしく、世の女性から余るほどの寵愛を我が物にしていたらしい。しかし、目の前にいるのは風采の上がらない、憑き物が引っ付いた怪人の様な形相を伴った朴念仁であった。故に、先述の薔薇色の内容は虚偽だと認識してほしい。
「ところで、ちと頼みがあるんだが……」
「金なら貸さないぞ」
「頼むよ! 本当に今月は生きるか死ぬかの境目なんだよ。お隣さんには金をせびり続けて愛想尽かされちまったし、ヤバい奴にも金借りちまったし。な、絶対返すから、俺の命を救ってはくれないか?」
中島が足元でこれまた見事な土下座を我が寝床の上で披露して見せた。
「何回目だよ。お前だけが不幸だと思うなよ、この野郎。皆必死に日銭を稼いでギリギリを生きてんだよ。金が無いなら黙って労働に励め」
「お前はそんな冷酷無情な男ではなかったはずだ。なあ、頼むよ」
「誰のことを言ってんだ? もう、ここには冷眼傍観を決め込む男しかいないぞ。一体何に金を使ってんだよ」
中島は屈託の無い笑顔浮かべた。
「最近さ、春が来そうなんだ」
私はこの突けばすぐ崩れてしまいそうな信憑性に欠ける台詞を幾度となく耳にして来た。
「また、貢いでんのか」
「いい子なんだぜ~~。彼女が一度笑えば俺の中に巣食う忌々しい邪気が払われる気がするんだ。俺にとっての仏様だよ。その仏様が俺のことをいい人とお認めになったんだぜ。これはもう仏様の配下になるしかないだろう!」
「配下って言ってんじゃねか。それは恐らく都合のいい人って意味だと思いますよー配下殿」
「ね、妬んでるのかよ」
中島が僅かに震えながらこちらを睨む。
「中島、落ち着け。俺が言うのもあれだが、お前は女性を見る目が無さすぎる。孤独を紛らわせるために、わざわざより悪い方に進むのはまずい」
大学生ならば彼女がいて当然という悪しき風潮にあてられた中島は薔薇色に充ち満ちたキャンパスライフを手中に収めんと邁進してきたが、奴がこれまで出会ってきた女性は客観的に見て、皆女王様気質でなかなか手強い相手であった。中島に甘い言葉を降りかけ、己が私欲を満たすために奴を馬車馬の如くこき使い回し、飽きれば路傍に転がる小石の如く捨て去るという鬼のような面々であったのだが、恋は盲目なのか、当の本人には厳しい現実が見えていないようであった。いや、見たくなかったのか。
「こうでもしないと、振り向いてくれねえんだよ……。あの文化部の副部長の様な眉目秀麗な男でもない、巧みな話術も持ち合わせていない。イジメも受けて、親でさえ俺を不良品扱いした。でもそんな俺でも愛される単純な方法があった。金だよ。金がありゃ、物も女も心も幸せも、なんだって買える。金は俺にとっての唯一の味方なんだよ」
「仮に成功しても、金で得た情なんて直ぐに瓦解するのがオチだよ。兎に角、金は出さねえ、並びに早く借りた金を返してもらおうか」
こいつの味方なんて面倒この上ない役回りなんざ慎んでお断り致すところだが、まあ、敵には回らないでおこう。
「チキンのお前に恋愛を語られてもな。あと、金は待ってください」
硝子窓の向こう側では、藍色の夕闇が光に喰らいつき、丸呑みを試みようとしていた。
中島が「せめて何か食い物を恵んでおくれ」と煩く繰り返すので、私は二人分の回鍋肉を作り、大学生となってから日頃不足しがちな栄養を男二人で補給することにした。
いまいち味に攻めの姿勢を欠く保守的な回鍋肉を胃袋に流し込み終え、一切の後片付けを中島に任せていた私は、かの涅槃仏に引けを取らない横たわりの姿勢で読書に耽っていた。洗い場で古びたスポンジ片手に皿にへばりついた頑固な油と格闘を繰り広げていた中島が訊ねてきた。
「お前んとこの部活の、大塚だっけ? 何かやらかしたのか?」
「なんで?」
「昨日の妖祭で警邏組とどっかに歩いてくのを見たからさ」
「警邏組と?」
そもそも警邏組とは如何なる組織なのか。警邏組とはこの不可思議な土地の特殊性に絡んだ問題、難事件の解決に尽力する治安維持のための自警団である。その組織は英傑、怪傑、豪傑、俊傑、女傑といった優れた面々によって構成されており、現在の時代に似つかわしい黒色の帷子を下に白い法被を身に纏い、まこと現在に似つかわしい刀を腰に差しており、まるで江戸幕末期の志士の様な、漫画的特撮的な姿をした特徴的な連中である。もっとも、その組織は辿れば江戸幕末期より更に遥か昔から存在していると聞く。そろそろ装備一式を近代的にしても良いのではと思う今日この頃なのだが、彼らなりの浪漫があるのだろう。何かこの土地で魔物絡みの事件を引き起こすと警邏組が駆け付け、犯人は捕縛された後、地下奥深くで強制労働を強いられる、もしくはカニ漁船の船員として送り込まれる、有人ロケットのテストパイロットにされる、踊り念仏を九時間踊らされる、水の食レポを九時間披露させられるなど物騒な噂が絶えない。とうとう大塚先輩も警邏組に目を付けられたか。逆に今の今までよく問題を起こさなかったものだ。
「まあ、先輩は日頃誰かしら何かしらに追われている様な人だから驚きはしないよ。ただ、警邏組に連れてかれたんなら、しばらくは会えないだろうなあ」
「なんでお前はあのお騒がせな人間とつるんでるんだよ?そのうちお前も奇異な目を向けられちまうぞ」
「お前がお騒がせ言うな。奇異な目ならあの部に入った頃から向けられてるよ」
まだ薔薇色のキャンパスライフへの期待に胸を膨らませる右も左も分からない新入生であった時のことである。私はあの真夜中の日本海の荒波の様な烈烈たる新入生争奪戦、正式には新入生歓迎会の嵐に揉みに揉まれ、半ば意識朦朧の状態で大学構内を歩いていた。書道部、新聞部、美術部、速記部、将棋部、哲学研究部、科学研究部その他文化部並びに体育会系部活動など挙げればキリがないので多くは語らないことにする。上回生同士が取っ組み合いの喧嘩をしているのを傍目に、私は嵐の中の束の間の休息を取るために芝生広場の小さなベンチにポツンと腰かけていた。私は手に持っていた無数の勧誘ビラの中から一枚を抜き取りしげしげと眺めていた。その時、背後から何者かが私の肩を掴み、訊ねてきた。
「その部、奇譚研究部に興味がおありかな?背筋を寒からしめる奇妙かつ幻想怪奇な奇譚の研究に明け暮れ、時には部員同士と建設的かつ知的会話を交わし互いの友情を如何なる鎖よりも強固なものにし、四年に渡る大学生生活を潤ったものにしてはみないか?」
高校時代の私は決して活動的ではなく、未知なるものに飛び込むなど選択肢にすら入っていない人間であった。しかし、大学とは敢えて奇妙奇天烈、摩訶不思議な世界に飛び込んで未熟な人間性を余す所なく熟させ、来るべき忙しなく回り続ける日本社会という深淵かつ広大な歯車の中でも難なく生き残るための布石を打つ場所と認識していた私はその男、大塚先輩の手を取り、奇譚研究部の一員となった。
大塚先輩は言った。
「もしかしたら、君はこの部に所属したとしても有意義な時間を過ごすことは叶わないかもしれない。しかし、私が無意義な時間を愉快に過ごすことが出来るように尽力することを誓おう」
もしかしたら、あの傍若無人ぶりは私を楽しませるためのものなのかもしれない。いや、恐らくあれは生来のものだろう。
「それで、お前は楽しい時間を過ごせてるの? 幻の薔薇色のキャンパスライフはその手の中なのか?」
「まあ、それなりには」
「成績良し、人にも恵まれている?お前に足りないものは……、例の子だよなあ」
後片付けを終えた中島が距離を縮める。
「最近はどうなんだ?」
我が意中の相手と最後にまともな会話をしたのはいつであっただろうか。確かあれは昼休憩の時のことであった。妙に講義とは縁もゆかりも無い独り言を並べ続ける教授の有難い講義を優等生らしく熱誠に受け、知的営みをし終えた私は、今すぐ美味かつ大量の食事を胃に流し込めという脳からの命令に従うべく、学生食堂に来ていた。私には食堂に来たならば、かけうどんと親子丼のセットを注文するという絶対不動の主義があった。蕎麦では駄目なのだ。うどんでなくてはならない。合理的理由を話せば長くなるのは勿論のこと、蕎麦好きの方々からの顰蹙を買う恐れがあるので割愛させて頂く。そのかけうどんと親子丼のセットは五百円と手ごろな値段であった。券売機の前に立ち、かけうどんと私を結ぶ切符を購入しようとした時に阿呆な私は気が付いた。
「……財布が無い」
あれ? 本当に? 落とした? いやいや、一度実家の鍵を失くして両親に飽きる程叱られて以来、私は一度も落とし物をしたことが無い。となると、我が下宿先に忘れてきたか。
「お困りですか?」と背後から流麗かつ凛とした声がした。
振り返ると我が意中の相手が立っていた。「お貸しします」
「い、いや、それは悪い」
しまった。情けない所を見られてしまった。ていうか、緊張して上手く話せない!
「いいのです。困った時はお互い様という言葉があります。それに─
彼女は少し口ごもり俯いた後、優美な笑顔で顔上げた。
「兎に角、お使いください! 五百円のかけうどんと親子丼のセットですよね。出汁も滴る良いうどん。美味しそうですね」
私は情けないながらも彼女から五百円を有難く受け取り、食券を購入した。あまりお話する機会が無いのでご一緒しても? と彼女からのお誘いに嬉し涙を堪えながら喜んでお受けし、食堂の隅の方のテーブルに腰かけ、私と彼女はうどんをすすり始めた。
「ありがとう、この借りは必ず返すよ、五百円と共に」
嬉し恥ずかしのこの状況の中で私は今にも緊張とドギマギではち切れそうな脳を特急列車の車輪の如く全力で回転させ言葉を紡いでいた。
「何か困っていることや欲しい物があるのならば言ってくれたまえ。金をせびり続ける輩の所為で私の財布はすっからかんなのだが、君のためならば奴らから金を取り返そう」
「そうですね……」
そして彼女は何か閃いた様な顔で提案した。
「では、どこかオススメの飲食店に連れて行ってください」
「そんなので良ければ、勿論。そうだな、極道ラーメンはどうかな。殺人前科があると噂の元極道が生み出す奥深い味と香りを秘めるスープと丹精込めて打たれた麺は比類ないものと評判の店だ」
「物騒な単語が聞こえた気がしましたが、恐怖心よりも好奇心に軍配が挙がりました。約束ですよ?」
「ああ、勿論。ところで、情けないことなのだが、お名前を……」
同じ部活に所属して未だ彼女の名前を知らなかったことに私自身も驚いていた。
「え? え? えへ? 名前、え? 、ショック……」
「……すまない」
「私の名前は─
気が付けば中島が冷蔵庫から氷菓を取り出し、幸せそうな顔で頬張っていた。
「んで、その神崎さんとはそれから進展ないの?」
「……あったわ」
「ん?」
「進展、あったわ」
どうして今の今まで忘れていたんだ、この阿呆めが! 恥を知れ! あの時は彼女とまともに会話をしたという嬉々たる事実に酔いしれていたとはいえ、大事な約束を忘れるとは、もはや私に神崎さんの片想い人を名乗る資格など無い。故に、恋の神様は我が恋路に刺客を解き放つようになったのであろうか。だとしたら、恋の神様よ、願わくば、この不届き者にもう一度寛大な措置を与え給え。悔し涙を堪え、中島を睨む。
「中島……」
「な、なんだよ」
「来てくれて、ありがとう……」
この日は様々なことを思い出す日であった。中島に感謝の意を表明した後、我が下宿先から追い出した。私は後悔の念に駆られ、なかなか寝付くことが出来なったので、羊の代わりに神崎さんを数えて眠りにつくことにした。読者諸賢には鼻で笑われかねないのだが、それでもやはり私は神崎さんに俗に言う運命の様なものを感じていた。何故か初対面とは思えないのだ。そして、数えて神崎さんが約五千人のところで私はようやく眠りに落ちた。
この日は一限から講義があるために私はいつもより早めに我が下宿先を後にした。私がレディとの約束を忘れるという男として万死に値する愚の骨頂を極めていたことが昨日の中島との非生産的かつ生産的でもあった会話から明らかになった。しかし、万死に値するとは言え、私は素直に死を受容することが出来ない。せめて彼女と薔薇色のキャンパスライフを謳歌した後、彼女と幸せな家庭を築き、紆余曲折ありながらも最後は家族に温かく見守られながら死を受け入れる、そんな人生を送りたい。そうしたい。恋の神様、刮目せよ。私はこれより行雲流水の如く実に見事な恋物語の展開を繰り広げてゆく所存である。大学構内に入り、時計台を見ると、まだ講義までには時間があったので芝生広場で朝の新鮮な空気を楽しみながら待つことにした。芝生広場を何気なく眺めていると、朝っぱらなのに意外にも大人子供の姿がちらほら散見することが出来た。そして、広場の中央にいつもの奴がいた。紙芝居の準備を入念に行っている様に見える。奴の名は但馬先輩。大塚先輩に並ぶ奇人である。その奇人ぶりはこの大学内に留まらず日本、世界にまでも認知される程であった。但馬家は大富豪の一族であり、但馬先輩はその恩恵を余すことなく利用し、大学内において非公式の金貸し業を営んでいるという噂もある。期限までに借金を返さない不届き者には聞くに耐えない恐ろしい報復が待ち受けているそうな。そして最近では大学の実験棟で無断に私的実験を行い、爆発騒ぎを起こしたり、書道部が部員総動員で丹精込めて作り上げた大筆を持ち出し巨大松明に変貌を遂げさせたり、哲学研究部と口論の末、手に汗握る殴り合いにまで発展したそうである。また、彼は無類の子供好きとしても知られており、時折、実に古風極まりないが、早朝にこうして紙芝居を子供達に披露している。善人なのか悪人なのかイマイチ判断し難い傑物である。そんな但馬先輩が子供達にどのような紙芝居を披露するのか、哲学批判物語か、資本主義ヘイト物語か、或いは己の人生論を美しく纏め上げたノンフィクションドキュメンタリーなのか、いずれにしても子供達にあまり良い影響は与えない、むしろ逆効果で大塚、但馬の様な人間を量産し、日本の未来は暗きものになり、立ち行かなくなるのではないかと一抹の不安を抱えたが、兎にも角にも、私は気になったので少しの間見物することにした。
「今日も元気だな。ほら、そこ押さない。よしよし、では物語の始まりだ。
『昔々にとある王国とその王国を治める王がいました。その王国は悲しみも絶望も死も存在しない国で王は勿論、国の民も幸せな日々を送っていました。王は優秀な部下達に支えられて国のためを考え、政を行いました。しかし、幸せな日々は続きませんでした。優秀な部下達の長が王を裏切りこの国を奪ってしまいました。王は国の民を人質に取られ、裏切り殺され国の外に投げ出されてしまい、部下達の長にして王に最も近い存在であった者が新たな王としてこの国を統治することになりました。偽の王の軍勢は本物の王に従い続けた部下達を皆殺しにし、本物の王は実は邪神であり、この国を騙し続け、いずれはこの国を地獄に変えるつもりであったと国の民を洗脳しました。偽の王が統治するこの国では本物の王の名を呼ぶこと、話をすることを固く禁じ、それでも本物の王に付き従う国の民は大人子供関係なく賊軍として皆殺しにされました。偽の王は体制を固め、国の民を服従させることに成功し、この国を完全に我が物にしました。貪欲な偽の王はこの国に飽き足らず、やがて人間の世界にも手を出していきました。偽の王は人間の姿に化け、人里を歩いていました。やがて偽の王は人間の女を気に入りました。男に比べ力が弱く、見目麗しい女は偽の王の大好物になりました。偽の王は人間の世界に来ては何度も何度も美しい娘を攫い、王国に連れて帰り、娘達が死ぬまで閉じ込め、暴虐外道の限りを尽くしました。娘達の悲痛な叫びは人間達には届きませんでした。どんなに泣き叫んでも、何度も逃げようとしても捕われ、身も心も砕かれ続けました。いつものように偽の王が人の姿に化け、歩いていると、それはそれは美しく凛とした姫が数人の侍に囲まれて歩いていました。偽の王はこの姫に心を奪われ、後を追いました。見事な屋敷に入っていった姫を追うために偽の王は侍に化けました。姫の部屋に近づき覗き見ると、何やら姫は一人の若侍と睦言を交わしていました。偽の王は虎視眈々とその機会を狙い、遂に若侍がいない隙に姫を人知れず攫うことに成功しました。偽の王は姫に夫婦になること、この偽の王国でその命尽きるまで身も心も捧げさせることを強要しました。逆らえば、攫ってきた女達を目の前で一人ずつ惨殺してゆくと脅され、姫はもはや抗うことは叶わず、その美しい目からは絶望の念が混ざった涙が流れ落ちました。しかし、ある日、偽の王国に人間達が現れました。その人間達は姫を取り戻すために偽の王国に入ってきた、姫守の若侍と姫廻の家の者でした。若侍は直ぐに姫を見つけ出し、攫われた娘達と共に脱出を試みましたが、偽の王が前に立ちはだかりました。若侍は姫を守るため、太刀を抜き、偽の王に挑みました。その若侍の剣技は凄まじく、偽の王の身体中に深い傷を負わせました。返り血まみれの若侍の眼は恐ろしい程鋭く、偽の王の命を絶つまでその剣技を止める気はないと語っている様でした。人間の力を侮っていた偽の王は戦いから身を引き、若侍と姫達の逃亡を許しました。しかし、姫廻の家の者は偽の王の配下達に追い詰められ、殺されそうになっていました。死を恐れた姫廻の家の者は偽の王の配下達に命乞いをし、それを見た偽の王はある条件を出し、姫廻の家の者を逃がしました。その条件とは、逃げた若侍と姫を攫い、再びこの偽の国に連れて帰ること、姫廻の家の者は偽の王の為の下僕となり、姫廻一族に呪いをかけ、裏切れば女、子供も関係なく死が訪れ、人間の世界に乗り込み暴虐の限りを尽くすことでした。屈した姫廻の家の者は人間の世界に戻り、若侍の寝込みを襲い、縛り上げ、姫君を騙し、攫い、二人を偽の王の前に連れて行きました。若侍は何とか抵抗しようとしましたが、姫の前でゆっくりと傷をつけられ続け、最後には首を刎ねられてしまいました。偽の王はこれで姫を好き放題出来ると歓喜しました。姫は心が壊れてしまい、もはや涙も流すことも出来ず、ただただ若侍の無残な死体を眺めることしか出来ませんでした。せめて、偽の王の物にはならないと姫は姫廻の家の者から短刀を奪い取り、首を切り裂き、自害しました。偽の王はその身体を飾り付け、丁重に扱いました。偽の王の貪欲は留まる所を知りません。また人間の女を欲しました。しかし、あの若侍の様な人間が現れてはたまったものではありません。そこで、偽の王は姫廻一族に自分の代わりに、怪しまれぬよう、露呈せぬよう、美しい女を攫い、あの美しい姫が生まれ変われば、術を用い、直ぐに連れてくるようにと命令を下しました。今も偽の王国で娘達は届かぬ悲痛な叫び声をあげているのかもしれません』はい、お終い」
ふむ。とても子供に見せられる内容ではないと読者諸賢もお考えになったであろう。何かの風刺なのか、世の中ハッピーエンドなんて聞こえの良い物はないと伝えたいのか、ふむ、奥が深い。深いのか? しかし、意外にも拍手喝采で気付けば子供のみならず大人達も紛れており、但馬先輩も満更でもないといった顔を引っ提げていた。
「はいはい~、終ったら散る散る。元気に遊んでこいガキども」
私は片付けを始める但馬先輩に近づいた。
「実に古風かつ闇深いお話でしたね。大丈夫なんですか、子供達にこんなの見せて。何かこう、感性に悪影響とか、そもそも理解出来ているのか」
「大塚のとこの後輩か」と手を止めこちらを見つめた。
「子供を舐めてはいけないよ。我々歳を重ねた人間が思うより彼らは現実を受け止め、理解し、我々大人が感じ得ない事を感じ得ることが出来る。差し詰め、子供は馬鹿ではないし、ヤワではないのだよ。心配せんでいい」
「で、この物語が伝えたいことは何なのですか?」
「それはだな、俺にもよう分からん。ご自由に独自解釈しておくれ」
「本当ですか? 但馬先輩は異常者でもあっても聡明な方だと思っています。ほら、時折、図書館で如何にも難解そうな書物と睨めっこをしているではありませんか。そんな好奇心旺盛で知を愛しているあなたが考え無しに物語を創るとは思えないのですが」
「俺はな、好奇心ってのは、実際はただの虚栄心に過ぎないと思ってる。何かをわざわざ知ろうとする奴はただそれを他人に語り、気持ちよくなりたいだけなのだよ」
「但馬先輩もそうだと?」
「そうだ。俺は賢哲な人間となり様々な女にモテたい。勿論、俺が気になることのために動くこともあるがな」
彼は澄んだ声で濁った不純な思想を語った。
「本当に分からないのだよ。この物語を披露するのも初めてなのだ。誰かに会って、ビビっと脳に刺激が走って創作したのは覚えているんだが、誰だったかな」
但馬先輩は不思議そうに首を傾げ「まあ、もうこの物語は披露しまい」と呟いた。
「ところで話は変わるのですが、中島が抱えている借金、何とかなりませんか? 今の奴に全額返せるとは到底思えない。あれでも俺の、友達なんです」
それに、ちょっとした借りもある。
「ふーむ、そうだな」
但馬先輩は腕を組み、歴戦の軍師を思わせる顔を浮かべ、澄み渡る青空を眺めた。
「では、こうしよう。中島の奴が俺に何か面白いものを見せることが出来たならば、借金を半分負けてやる」
「分かりました。伝えときます」
「逆に面白くなければ、お前に中島の奴で面白いものを見せてやるよ」
「手加減してあげてください」
「お前も意外と人情深いな」
「あなたに追い詰められた奴が俺に泣きついてきて、俺もごたごたに巻き込まれるのは御免なんです」
「ふーん。ところで、大塚の奴は元気にしているか? 近頃顔を見ていない」
「あなたに引けを取らない程好き勝手やってますよ」
「そう褒めるな」
「褒めてません」
私は講義までの時間が残り僅かとなったことに気が付き、但馬先輩に別れを告げ、教室へ急いだ。
午前の講義を受け終え、私は例の如く知的営みによる空腹を満たすために食堂へ足を向けた。道中、私は優れた容姿を持ち、時代は我が物と言わんばかりの自信に充ち満ちた顔を引っ提げ、闊歩していた男と出会った。誰あろう、奴である。
「やあ、今日の献立は?」
「かけうどんと親子丼のセットでございます。文化部総本部副部長殿」
「いっつもそれだな」とフッと彼は軽く笑った。
何か周りの女性陣からの熱烈な視線を感じる。中には獲物を虎視眈々と狙うサバンナの獰猛な獣の様な末恐ろしい視線もあるように思えた。実際、副部長も時たま得たいの知れない何かを感じ取り、身震いをしていた。憎しと思えど、こいつもこいつで苦労はあるのだなと同情の念を抱いたのもまた事実である。
「奇譚研究の方はどうだい」
「そういえば俺、奇譚研究部員だったな、忘れていたよ。ってぐらいには?」
「それはそれは順調そうだな」
「ところで、これは極秘中の極秘なのだが。共有したい話がある」
副部長が真剣な眼差しを向ける。
「ほう?」
「君んとこの後輩君、ああ男の方だ。彼が極秘ルートである書物を渡してくれた。見てくれ」
黒いブックカバーで覆われた薄い一冊の本が目の前に差し出された。
「どれどれ。……言ったろ、俺はこういった不純極りない物は受け付けないって」
「いい後輩に恵まれたな。彼の様な優れた審美眼を持ち合わせた人物は探しても中々いない。君、いつか彼は大した奴になるぞ。助平で世界を、地球を美しいものに変えてくれる」
「何を言っているんだ」
「褒めているんだ、深く受け止めるな」
全く……。私はお世辞にも微塵もこういった類のものの良さを理解することが出来ない。しかしまあ、念のために題名と表紙を覚えておこう。
「俺には心に決めた意中の女性がいるのだ。この心は決して動かぬ」
「へえ。意中の相手って?」
「……? だから、例の子だよ」
「うん、だから誰だよ?」
「何だよ、今更冷やかしかよ」
「いや、純粋に疑問なんだが。誰なんだよ」
「誰って、神崎さんだよ」
なんだ、何かの心理実験を受けているのか私は。自分が置かれている状況を再整理させたいのかこいつは。
「神崎さんって誰だよ?」
「あー、もういいよ」
「よく分からないが、おめでたいことだな。頑張れよ」
副部長と別れ、食堂に到着した私は例の如くかけうどんと親子丼を注文した私はたまたま中島が阿保面を引っ提げて座っているのを見つけたので、食事を共にしようと奴の前に座した。
「昨日の件について感謝の念を表明する、どうもありがとう。それはそうと良い知らせを持って来た」
「ん、何?」
「但馬先輩が面白いもの見せてくれたら借金の半分を負けてくれるってさ」
「マジかよ! うっし、じゃああれだな、ネタを考えないとな」
「もし、見せることが出来なかったら、まあ、うん、頑張れ」
「え、何。気になるんだけど。ていうか、さっきの昨日の件って何?」
「何って、我が意中の相手との大事な約束を忘れていた阿呆な自分を救ってくれたじゃないか」
「意中の相手? へえー誰だよ?」
「誰って、神崎さん。これ流行ってるのか? 今更の冷やかし」
「そのカンザキさん? ってのが気に入ったのか。どんな子なの?」
「もう、やめろよ。その冷やかしは飽きた」
「別に冷やかしなんてしてねえけど」
中島は純粋な疑問の色を顔に浮かべ、訝しげにこちらを覗き込んできた。可笑しい、何か可笑しい。私の知らない所で今まさに世にも奇妙かつ恐ろしい計画が私に対して行われているのか。そんなちっぽけなことで奴等は各々の鬱憤でも晴らしているとでもいうのか。ちっぽけとは何だ、私と彼女の恋物語はちっぽけの一言で片付けることが出来ない代物である。
午後の講義も終わり、私は部室棟に立ち寄った。但馬先輩が哲学研究部と何か熱い議論を交わしている間を抜け、見慣れた扉を押し開け、部室に入った。そこでは憎き後輩ともう一人、女子の方の後輩の姿も見られた。近くで見ると可愛らしい顔つきで、目はまるで満点の星空の様に輝きに満ち、実に細く華奢な身体つきであった。こんな子が男を相撲で投げ飛ばすとは、まこと、世界とは不思議なものよ。
「あ、先輩、こんにちは」
「あ、どうもこんにちは」
私は一抹の不安に駆られた。
「なあ、憎き後輩よ、まさかとは思うが彼女に私の秘密は話していないよな?」
「秘密って何です?」
「ほら、例の、我が意中の」
「先輩に意中の相手がいらっしゃるのですか?」
「おい、やっぱ流行ってんのかよ、この冗談」
「何のことです?」
このやり取りにいい加減飽き飽きし、少しばかりか怒りも湧いていた私は憎き後輩をこれ以上憎みたくはない、ここで先輩として矯正しなければならないと義務感に駆られ、拳に力を貯めていた。少しばかりして大塚先輩も部室に入室して来た。その顔はいつにもまして神妙な面持ちであった。
「君、少しいいかな」
「何です? 先輩も忌まわしき計画の片棒を担いでいるのですか?」
「皆、君を冷やかしている訳ではない。分からないかね?」
「分かりますよ。皆揃いも揃って神崎さんを知らない振りだ」
「皆、本当に忘れておる。世界から君の想い人が消えた」
大塚先輩は真っ直に私を見つめ、そう言い放った。
夕日が翳り、大学に今日という日の終焉の気配が漂い始めた時分、大塚先輩は憎き後輩を部室に残し、私と可愛い後輩を外に連れ出していた。やはりその顔はいつになく真剣なものであった。大塚先輩が本腰を入れて私を揶揄いに来ているという線を未だ拭えなかったが、一先ず話を聞こうと思い、大塚先輩の背を眺めながら意図も無く練り歩いていた。
「もう一度言おう。皆共謀して君を揶揄に来ている訳ではない。そんなことをしても我々に得られるものは少ない。ああ、確かに君は揶揄い甲斐があるが、今回は訳が違う。まだ疑惑に苦しむのなら大学に確認してみるが良い。部の名簿は勿論のこと、大学内での彼女のデータの一切はこの世には存在しない」
「状況を上手く呑み込めません」
「まあ、兎に角聞き給え。遥か昔、まだ今程魔物達との交流が浅かった頃にこの土地では度々人、それも女性が消えるということが起こっていた。人々は、消えた者には穢れた罪があるが故に神隠しに遭ったと片付けていた。しかし、時代が流れ、平安衆と警邏組が現れてからは神隠しは起こらなくなった」
「魔物の仕業だと?」
「恐らく」
「私が異変に気付いたのは文化部総本部本部長が消えた時だった。ある日突然彼女は姿を見せなくなくなった。私以外の者達は異変に気付かずに普段と何ら変わらない様子で日々を送っていた。我々警邏組はある魔物の仕業だと踏んで捕えようと試みているのだが、これが中々厳しいものでなあ!」
「ある魔物とは……?」
「考えられるのは、人喰い狼。それもその者の存在、この世に生きた証を奪い去る狼だ。優れた話術と優れた容姿を用い、人を惑わし、喰らう。遥か昔の地方の土地神であったが、何者かの手によって利用されているのかも知れぬ」
「しかし、何故俺と大塚先輩だけが彼女の存在を覚えているのですか?」
「浪漫溢れる話だが、きっと君の彼女に対する強い想いが記憶を繋いでいるのだろう。私に関しては半血だからな。まだ僅かに神崎君の記憶が残っている」
「半血?」
「大塚さんは魔物と人間のハーフなんですよ」と背後から可愛らしい後輩が教えてくれた。
この可愛らしい後輩は何故その様な事を知っているのか、この二人は如何なる関係にあるのか、魔物と人間の半血とは、疑問は湧き水の如く止めどなく湧いてくるが、私の個人の情報処理能力はこの場に適応することが出来ず、ただ大塚先輩と可愛らしい後輩の言葉の数々に耳を傾けることしかこの場では許されなかった。
「私達警邏組はその人喰い狼の足取りを追っているのですが、僅かな活動の匂いしか残さないもので、苦労しているんですよ。それで、味方は多いに越したことはないので、先輩にも捜査のお手伝いをと」
「私達警邏組……?」
「言ってなかったかね。我々が警邏組の人間であることは」
「言われてないし、大学生なのに」
「大学生が警邏組に属しているのがそんなに不可解かね」
私は未だ現今の状況についての処理に手を焼いていた。私は彼女への恋しさに起因した摩訶不思議な妄想の中に囚われているのか。ならば、一刻も早くこの変哲極まりない妄想の世界から抜け出し、彼女との約束を果たし、彼女と共に甘い一時を堪能しなくてはならぬ。
「寝ぼけているようだな。ほれ、彼に一発現実パンチを入れてあげなさい」
可愛らしい後輩がよし、任せておけといった表情を浮かべ、ブンブンと腕を回した。私はすんでの所で彼女が男性を投げ飛ばす程の力量の持ち主であったのを思い出し、この妄想、否、現実を受け入れ、恭順の意を示した。
その晩、大塚先輩と可愛らしい後輩、私含む三人は我が下宿にて細やかな陣を張っていた。大塚先輩は神妙な面持ちで、私の冷蔵庫を見つめていた。
「このジンジャーエールは頂いても良いのかな」
「良くないです。私の大好物なんです、その手を離して!」
時すでに遅し。大塚先輩は私の伸ばした腕をかわし、一飲みで飲み込んでしまった。
「先輩、何か食べる物はありませんか? 先程から腹の虫が鳴り止まなくて」
「そこに菓子パンがある、それで我慢してくれ」
我が敷居に女性が跨いできたのは旧態依然の状況に変化が訪れたと言う点では大変喜ばしくめでたいことではあるが、私が胸に秘めた期待とはかけ離れた光景が眼前に広がり、私の胸中は複雑な暗雲に支配されていた。有り体に言えば、思っていたのと違う。
「最後に人喰い狼が活動を見せたのは、この前の妖祭だ。そして、神崎君が姿を消したのもその日……」
「妖祭がある日に人喰い狼は現れると?」
「そうとは限らないが、可能性はある」
「次の妖祭は、三日後か」
「左様。また被害者が現れる前に止めなければならぬ。そのため我々警邏組と平安衆は一層警戒を強める。神崎君は私の可愛い後輩でもある。本気で敵を潰しに行かなくては。そこで君には魔物への聞き込みを頼みたい」
可愛らしい後輩が菓子パンを頬張りながら、うんうんと頷いている。私の楽しみだった生クリームパンはさぞ美味であろう。そこでは私はふとあることを思い出した。
「いい手があるかもしれません」
三日後の朝、私はいつも通りに我が下宿を後にし、いつも通りに個性溢れる教授の講義を受け、いつも通りに夕暮れを迎え、一人部室で硝子窓の向こうを訳もなく眺めていた。やはり今日も、私以外の者は彼女、かん……。
「名前が分からない……」
駄目だ。忘れてはいけない。忘れたら本当に彼女はいなくなってしまう。急がなくては。私は部室棟を後にし、賑やかな光の集合に向かい足を進め、大塚先輩と可愛らしい後輩と合流した。私の目的は一つ、ある魔物を見つけ出すことであった。我が恋路に水を差し、私の趣味思考の数々を見透かしたあの魔物ならば何か知っているかもしれない。妖祭は相変わらずの賑わい振りを博しており、目が眩むほどの露店群の数々が立ち並び、不可思議な世界を人間と魔物が織りなしている様であった。何処だ。何処にいる。走り回っても見つからない。
「何処にいる、一つ目小僧!」
「ふむ、見つからないか。空から見ても分からぬな」
「確か、奴は菓子を好んでいました。飲食の露店にいるかも」
私は往来の人をかわしながら、飲食の露店群に急いだ。すると、見覚えのある姿形がソフトクリームの露店の前で立っていた。
「ほれ見ろ。やっぱりいた」
私は一つ目小僧の背後に立ち、頭を触ろうとした。
「気安く触るんじゃないよ、兄ちゃん」と相変わらずの見かけに反した掠れた声を放ち、振り返った。
「よお、久しいな。単刀直入で申し訳ないんだが、一つ頼みがある」
「断るよ」
「何故だ?」
「それを教えるのも断る」
「何が望みだ?」
「別に何も望みなんざ無いさ」
「……。最近、人攫いの事件が起きて、俺の大切な人が攫われたんだ。恐らく怪しいのは存在を喰らう人喰い狼って奴で、今必死でそいつを探してるんだ。頼む、その何でも見通す目で奴の居場所を教えてくれないか」
一つ目小僧の大きな瞳が僅かに揺らいだ。
「……知ってるさ。あんたが何に困り、何を今探しているのかも。でも、オイラは兄ちゃんを助けない。いや、助けることは出来ない」
「何故だ!」
「禁じられてるんだ……。この件に関して一切関与せず口外するなと。背けば、殺されちまう」
「殺されるって、誰にだよ」
「い、言えない」
大塚先輩が私の肩を掴み、前に出てきた。
「何かあれば貴君の命は我々警邏組が全力で守ると誓おう」
「それでも、無理なんだよ。人間がどうこう出来る相手じゃない」
私は一つ目小僧の何かへの恐怖心故の意志の固さにどう手を打ったものかと考えあぐねていた。相手は想像してたよりも強大かつ残酷な連中なのか。
「話は終わりだ。あんたらも命が惜しければ下手のことはしない方が身のためだぜ。じゃあな」
そう言って、一つ目小僧は立ち去ろうとしたが、直ぐにその歩みを止めた。何故だ。前を見ると、あの浮浪者が微笑んで一つ目小僧の前に立っていた。一つ目小僧は何か父親に諭されて反省している、小僧の名に相応しい子供の様な顔をしていた。
「あなたは……」
一つ目小僧は向き直り私に近づいた。
「本当にオイラの命は大丈夫なんだろうな」
「大船に乗ったつもりで」
「……。兄ちゃん、教えたらたらふく菓子を食わせろよ」
「ああ、約束しよう。」
私はあの浮浪者が一つ目小僧を止めてくれたのは意図してなのか否かなのかは判断しかねたが、こうして協力を得ることが出来たので感謝の意を伝えようと思ったが、あの浮浪者の姿は何処にも見当たらなかった。
「人喰い狼はもう既に女子を喰った。奴、奴等はこの学校のそばの寺にいる」
「寺? 平安衆の寺か?」
「もう言わなくても分かるか?」
「ふむ」と大塚先輩は呟き、顎を撫でた。
「あそこには唯一人間があちらの世界に入り込める扉がある。ふむ、成程。これは厄介なことになったな。君、この先危険が待っている。君はここに残りたまえ」
「え?」
「安心してくれたまえ。○○君は必ず助け出して見せる」
確かに、物騒で面倒なことには極力関わりたくはない性分ではあるが、もし、私が彼女を直接この手で救い出し、彼女の手を引き共に歩けば、彼女は私に惚れ込み、私はこの先大学内、人生の勝者となることが可能なのではないか。実に雑多な色をした世界が真っ赤に輝き煌めく赤薔薇の如く変貌を遂げるのではないか。ここは引いてはいけない。美味しい所だけ有難く頂こうではないか。危険が牙をむき始めたら迷わずに大塚先輩を盾にすれば良い。
「俺も行きます」
「不純な香りがする」
可愛らしい後輩が静かに呟いた。
大学を出て西に少しばかりか歩いた所に、趣のある竹藪の間から美しい和風建築の建物の姿が現れた。夜風が吹き、葉の擦れる音が絶えず聞こえている。この寺はこの大学に合格するために合格祈願をしに来る学生に度々利用されていると聞く。その霊験はどれ程の効力を持ち得ているのかは不明である。そして我々三人と一つ目小僧は寺の門前に立っていた。夜蔭の暗闇で辺り一面は暗く、唯一の明かりは寺に無数に配置されている赤提灯の橙色の光のみであった。
「ふむ、明かりは灯しているが、人の気配は無し、か」
「貴君、この先で合っているのかね?」
「ああ、この先の本殿に扉がある」
「では、皆の衆油断せぬよう」
我々は門前を潜り抜け、本殿を目指した。構造はかの有名な法隆寺のそれに似ていた。そこかしこに石灯篭が並び、辺りはやけに静かで、その静謐さと不気味さが言いようもない神秘的な雰囲気を醸し出している気がした。寺内をしばらく歩いていると背後から声がした。
「こんな所でどうしたんだい」
振り返るとそこには彼が立っており、気が付くと我々の周りには優しく温かみを感じる笑みを浮かべた平安衆の面々の姿があった。
「お前こそどうしたんだ」
そこにいた彼とは文化部総本部副部長であった。
「今日の儀式はもう終わったぞ。それとも僕みたいに闇夜の寺の静謐さに心打たれに来たのかい」
「向こうの本殿に用があるんだ」
「本殿に?何故?」
「人攫いが起きてるんだ。恐らく魔物の仕業でこの辺りに逃げ込んでいると思うんだが」
副部長は困ったような笑みを浮かべこちらを見つめた。
「人攫いって、大昔じゃないんだから。魔物と人間はずっと友好関係にあるんだ。そんな物騒なことが起きるはずがないよ」
「あー、まあ俺達は本殿に用があるんだ。また後でな、副部長」
「本殿は関係者以外立ち入り禁止だよ」
「ふむ」と大塚先輩が後ろで呟いた。
「貴君が平安衆と如何なる関わりがあるのかは私には定かではないが、何か隠しているだろう? あの狼がわざわざここの扉を通る理由、ここでは上手く魔物の匂いを嗅ぎ取れない理由。勘づいている我らをこの場で一平安衆を使い、一網打尽にして処分しようとか考えているのではないかのね? 姫回副部長」
「……」
「儀式の際に捧げる捧げ物、あれは人喰い狼を使って攫った女子ではないのか」
「さすが、化け物と人間の半血だ」と姫回副部長はわざとらしく手を叩いている。
「副部長……?」
「君には悪いと思っているよ。彼女はとてもいい子だし、友達が好意を寄せている相手だからね、心苦しくない訳が無かった。でも、例のあの人は彼女をずっと探していたらしくてね、逆らえなかった」
駄目だ。脳の処理が追い付かない。副部長が人喰い狼を?人間を捧げ物に?
「遥か昔に、僕等姫廻一族の先代が向こうの世界のあの人に命を救って貰ってね、恩返しとして、僕等姫回一族はあの人の言うことを聞くという契約を結んだんだ。これは人攫いなんて物騒で品の無いなものじゃないよ。契約を破れば、僕等姫回一族は全員死んでしまうし、その怒りは人間界にも向いていしまう。だから、僕達はこの世界とあちらの世界の平和を安定させる重要で必要な使命を全うしているんだよ」
淡々と口を巧みに動かし続ける姫回副部長に反して私は現今の状況を上手く呑み込むことが出来ずに立ち尽くしていた。ただ、我が心の蔵は落ち着きを失い、その鼓動はこれ以上似ない程小刻みで、激しいものであった。
「僕に靡く女の子、皆馬鹿ばかりでやりやすかったんだけど、○○さんだけは何か違った。流石、あの方が惚れ込んだ姫君だよ」
「待って、待ってくれ。お前が、本当に」
姫回副部長は少し悲しそうな表情を向けた。
「毎晩、頭の中であの人が囁くんだ。『早くしろ、約束を果たせ、そうでないと女も子供も容赦なく殺す、全員殺すって。人に知られてはいけない、人に知られてはいけない』って。君が気付かずにいたら、静かに終わったのに。残念だけど、知られちゃったからにはこのまま返す訳にはいかない」
姫回副部長は悔しそうに地面に顔伏せたのち、乾いた声で「やれ」と呟いた。優美な笑顔の平安衆の面々が表情一つ変えずに襲い掛かってくる。
「こいつ等の相手は私が引き受けよう。君たちは境内に入って扉を探すのだ」
「しかし先輩一人じゃ」
「心配ご無用。この程度で私は止められんよ。そうだな、私を止めたくば、但馬の奴でも連れてこい」
平安衆の一人が大塚先輩に殴りかかるが、大塚先輩はそれを華麗にかわし、平安衆の首を掴み、その身体を軽々と宙に浮かべた。平安衆は必死の形相で大塚先輩の腕を掴み、引き剥がそうとするが、その腕は岩の如く不動でピクリともしなかった。大塚先輩は首を掴んだまま振り回し、残る平安衆を薙ぎ払った。
「まだ、書道部の連中の方が恐ろしく手強いぞ」
「ただの変人野郎かと思ってたけど、これは本気で潰さないとな!」
姫回副部長は何か聞き慣れない詞を唱え、闇色の煙をその口から放ち、それは次第に恐ろしい狼の姿に変貌した。
「こいつを喰え!」
「君達、境内に急ぎたまえ。ここは私が止める」
「先輩、行きましょう」
「お前ら死んでもオイラを守れよ」
そして私と可愛い後輩は一つ目小僧を連れ、変人なだけではなかった大塚先輩を残し、境内へ急いだ。
長きに渡る歴史を感じさせる木造りの柱と微かに香る線香の匂いと薄暗い照明が織りなす空気は、慌ただしい現今の状況をも忘却の彼方に投げす捨ててしまうことが出来るのではないか、と錯覚させる程に荘厳かつ神秘的な雰囲気を醸し出していた。きっと、優れた技量に恵まれた巨匠がその技量を余すこと無く大いに揮ったのであろう。
「ただの線香じゃ無そうですね、魔物の気配を感じにくい」
「何か、気持ちが落ち着いて、眠くなってきた……」
「寝ている暇はありません、早く扉を探しましょう。しかし、本当に惹かれる香りですね。今度あの人に香水を買ってもらおうっと」
「あの人?」
「中島さんって人です。ちょっと甘えたら何でも言うこと聞いてくれて、便利で都合の良い人なんですよ」
「……情けなく阿呆な奴だが、あれでも俺の友達なんだ。あまり虐めないでやってくれ」
見渡す限り、扉らしき物は見当たらず、あるのは古代の三角縁神獣鏡に似た銅鏡と、それを讃えるかの様に並べられた蝋燭の集合であった。奥には襖があり、この先にも部屋があるのかもしれない。
「一つ目小僧、何処に扉があるか分からないか?」
「向こうだ」と奥を指さした。
「やはり、襖の向こうか」
「違う。あの襖だ。あの襖絵が扉だ」
襖はそれを開けて初めて襖の仕事を果たし、襖に成り得る物である。その上襖絵が扉だと言い出したこの一つ目小僧に向かっ腹が立ちそうになったが、この一つ目小僧は我々人間には見えかねる物事を見通す力をその眼に宿しているため素直かつ冷静にその言葉を信じて、私は襖絵に近づいた。遺憾ながら、こいつは腹の立つ小僧だが私より物事を見ることに長けている。その襖絵には極楽浄土に似た神々しく、華々しく、豪華絢爛をそのままに表現した桜色の花街が描かれていた。街の左端には無色彩の直黒で塗り固められた和風城の様なものが描かれている。
「襖絵が扉ってどういうことだ?」
「手を触れてみろ」
私は恐る恐る襖絵に触れようと手を伸ばしたが、私の手は行き止まりに遭うことなく前進を続けた。私の手の半分が襖に飲み込まれていた。
「準備はいいか?」
私は二人に合図をし、彼らが軽く頷くのを確認した後、水中に飛び込むかの如く、力強く目を瞑り、全身に力を込め、襖絵に飛び込んだ。飛び込む寸前、誰かがこちらを見ている気がした。
襖絵に飛び込んだ後、しばらく周囲には幻想的な黄金色の光に包まれ、一切の闇の侵入を解さないという気迫までも感じ取れた。そして今は目が慣れ、世界の輪郭を明確に判別できるようになり、現今の状況を脳内において一時整理をしていた頃であった。辺りは暗く、私の周囲に反抗期の中学生の内情を巧みに表現しているかの様な大小の岩山があった。岩山の壁面には無数の実に古風な木造建築の建物が連なり、その屋根瓦の下には赤提灯が吊るされており、温和で穏和な光を灯していた。まさしく、住宅街を縦にしたかの様な異文化景色が我が眼前には広がっており、私は幽玄閑雅の中に名状し難いもの哀しさを感じていた。
「お、オイラ達は運がいいぜ、ここはオイラの住処に近い所だ、オイラの家に来な。こんなとこを連中に見られたらオイラも兄ちゃんたちも殺されちまう」
私は一つ目小僧の住処とやらを目指し歩き出した。木造建築が幾層にも連なった岩山を上り、下り、山あり谷ありを体感し、小一時間ほど歩いた所で、一軒の木戸の前で一つ目小僧が歩みを止めた。
「ここだ」
小さな木造りの木戸をくぐり、私達三人は申し訳なさそうに設置された居間の掘り炬燵に腰を落ち着けた。
「しかしこの世界はあの襖絵とは違った様子をしているな。そして、何かこの世界は薄暗い」
「ここは都の外れだよ。この西を真っ直ぐ進めば、王の城がある。ここはな、前の王に味方した奴らで生き残った奴が集められた場所さ。時折、ここに住んでる魔物は連中が気に入らないと思えばいちゃもんを付けられ、嬲り殺される。皆、怯えながら、恐怖と共に生きてんだ。もう何年も光を見てねえ。あの王がこの国を支配してから、この世界にはずっと夜が続いている」
「何か、彼女を助け出すことが出来る良い方法は何処かに無い物か」
「しかし、希望が無い訳でじゃあない。ある予言があるんだ」
「予言?」
「三人の人の子がこの地に足を踏み入れし時、狗神は死から蘇り、狗神来れば光が咲き誇り、狗神吠えれば闇は死に絶える」
「一人足りないじゃないか。そのワンちゃんには頼れそうにないな」
「さっきいたもう一人の奴が来てくれりゃあ、望みがあるんだがなあ」
「犬に勝てるのか?」
「その犬は、前の王だ。あの偽の王をきっと噛み殺してくれる、はず」
「悪いが今は信憑性に欠ける予言なんぞに振り回されてる暇はないんだ。彼女は何処にいるんだ?」
「お嬢ちゃんは奴の、偽の王の城に閉じ込められている。おっと、待て待て、その考えはよろしくない。そのまま行けば、匂いでバレて直ぐに殺されちまう。いい手がある」
一つ目小僧は居間を離れ、数多く瓶が並べられた棚から、一つの瓶を取り出し、私に手渡した。
「そいつは匂いと実体を他者の眼から失くすことのできる薬だ。飲みすぎると取り返しのつかないことになるから、分量は守って飲めよ。そいつを飲んだら、偽の王の城に行くんだ。悪いがオイラに出来ることはこれだけだ」
「何かと世話になったな。この借りは生きて戻れたら必ず」
「あ、それと兄ちゃん。これ、持ってきな」
一つ目小僧がそう言うと、私に何か細長く、重みのある物を手渡してきた。見れば刀であった。その刀は古代の日本を彷彿とさせる実に古風な装飾が施されており、鞘には純金の彩りが煌めき、琥珀と碧玉が綿密な細工となっていた。燃え盛る炎の様な赫色の柄巻きは何故か懐古的なものを感じた。少し抜くと、青白く輝く刀身が姿を見せた。
「昔この世界に来た人間の物らしい」
「私は剣術の心得など微塵も持ち合わせていないのだが」
「刀が兄ちゃんを導いてくれるさ。お守り代わりだ」
私は、これは一つ目小僧なりの愛と応援の念と自己解釈し、感謝の念を伝え、一つ目小僧宅を後にした。
結論から述べると、偽の王とやらの城には案外容易に辿り着くことが出来た。夜の闇の中に咲き誇る華の街を通り抜け、少し霧がかった暗黒色の和風城が眼前の聳え立っており、その城からは何処か元の主を失った哀愁の様なものを放っている気がした。
「怖くないですか?失禁しそうになっていませんか?」
「怖いし、帰りたいし。私の胸中はどんな祭りにも勝る程の賑わいを博しているよ。けれど、何故か、足が止まらない。彼女を助け出せと我が魂が懇願してきている感じがする。実に変な気分に襲われている」
「執着がそこまでいけば気持ち悪いものがありますね。あれとか、前世ではそれはもう愛に溢れた恋仲だったのでは?」
「生憎と私は前世という考え方を信じてはいない」
私と可愛らしい後輩は細心の注意を払いながら、彼女の所在を掴むため城内を彷徨っていた。道中、怯えながら何処かに連れていかれる女性や両腕が見当たらない女性が虚ろな目で佇んでいる姿があった。そして、城の最上階、彼女の姿があった。赤色の天鵞絨の天蓋の付いた、綿密で細やかな装飾が施された玉座の様な豪華な椅子に眠るように座っていた。その姿は最上級の絹で仕上げられた民族衣装風のドレスに身を包んでいた。玉座の周りには美しく華の様に輝く宝石や売却すれば相当な値打ちになるであろう陶磁器などが並べられていた。まるでその光景はお供え物のそれである。私は直ぐに彼女に駆け寄ろうとしたが、可愛いらしい後輩が私の手を引いた。しばらくして、何者かが入って来た。その頭からは二本の禍々しい角を生やしており、二メートルは優に超える巨躯で顔も大きく、口からは鋭利な牙が覗かせている。醜い鬼の様であった。
「ふう、やっと寝てくれたか。この娘の好奇心には末恐ろしいものがあるな。次から次へとこれは何? あれは何? とあまり触っては欲しくない価値ある代物を次から次へと破壊された時は逆に度肝を抜かされたが。しかし、この娘は他の女共よりも美しく素晴らしいと、この愛らしい寝顔を見ると、そう思えて仕方ないのお」
恐らく奴が、この城の主にして、この国の現国王。隙をつけばやれるか?
「お前はどう転んでも儂と一つになる定めにあるのだ。安心せい、これから未来永劫お前をどの女よりも可愛がってやる。やはり少し惜しいが、あの時みたく自害されてはかなわぬからな、四肢を切り落とさせてもらうぞ。あの憎き若侍の生まれ変わりを見つけ次第、直ぐ捕え、是でもかと言う程に痛めつけ、嬲り殺してくれるわ」
そういって偽の王は下品な笑い声をその場に張り巡らせ、部屋を後にした。
同時に、私達の姿消しの薬の効果が切れた。私達は彼女の下に忍び足で駆け寄り、彼女の細く、華奢な肩を掴み軽く揺すり目を醒まさせた。
「起きて。迎えに来たよ」
「……? ああ、こんな所でお会いするなんて奇遇ですね」
「攫われたってのに、随分平気そうだね」
「攫われた? え、え、私攫われているんですか! 選ばれし者のみが参加を許された特別な魔物の世界ツアーと聞いたんですが」
「……君はもう少し疑うことを覚えた方がよさそうだ。兎に角、悠長にしてはいられない。今から何とかしてここを抜け出すよ」
決まった。この危機的状況から救い出された彼女は私を命の恩人として親しみ敬い、情熱的な恋に落ち、私は彼女との素晴らしく、誰もが羨む恋の路を駆け抜け、新天地を切り開くことが出来るであろう。きっとそうである。
「先輩、何か臭います。不純な香りが」
「あなたはいつもこうして私が困った時に手を差し伸べてくれますよね」
「え、そうだったかな。すまない、あまり覚えていない」
「私が高校生の頃、いえ、何もないです」そう言って彼女は頬を赤らめ軽く微笑んだ。もし面白味の無い無味無臭のこの世界に微笑み選手権があるのならば、間違いなくこの微笑みで世界を取れるだろう。マネージャーは私である。しかし、今は性急にこの場から脱出にしなくてはならない。
「さて、行くよ」
すると扉が勢いよく開き、偽の王と武装した配下が現れた。ずいと我々の前に立ち、叫んだ。
「忌々しい。下賤な人間の男が我が城に入るとはけしからんのお。しかし、同時に嬉しくもあるぞ。あの時の様に死にに来たのだな。今回もまたその娘の前で嬲り殺してやる。儂を追い詰めたことを迫りくる恐怖の中で後悔するがよいわ」
「ちょっと何言ってるか分からないが、気付かれていたんだな」
「この世界に入ってきた時点で気付いておるわ。儂はこの世界の王、否、神であるぞ。気付かないはずがなかろうが。配下共よ、この者等を捕えよ」
偽の王の配下達が我々を取り囲み、距離を縮めていく。巨体を有した魔物が上から下へ叩きつける様に拳を振り下ろしてきた。私は反応しきれず、動けずにいたが、我が身体は後ろへ引っ張られ、代わりに可愛らしい彼女が拳を華麗に受け止め、空間に重い肌と肌とがぶつかり合う音と地震に似た衝撃が張り廻った。そして、可愛らしい後輩は魔物が伸ばした手を払いのけ、わき腹に重い蹴りを直撃させた。魔物がよろめきながら後ろに後ずさる。
「先輩!」
振り向くと巨大な鎌を持った魔物が襲い掛かってくる。私は戦えもしないのに鞘から刀を抜き出し、ぎこちなく、生まれたての小鹿の如く震えながら構える。しかし、刀に身体が引っ張られ、鎌を持った魔物へと流れる様に距離を縮め、振り下ろされた鎌を掻い潜り、伸び切って動かなくなった腕を、刀を返し、魔物の両腕を薙ぎ払い苦痛に呻く魔物に一切の間を与えず首に刀を振り下ろした。
「やりますね、先輩」
「い、いや、私は特に何もしてないんだが。そうだな、刀が勝手に動いたというか」
しかし、偽の王の配下は留まる所を知らず、増える一方であった。
「あの若侍とは思えんな。もっと鬼神の様な眼で、武神の様な身のこなしであったのだがな。今の人間界は随分と生温いものに変わり果てたと窺える」
「とても便利な時代だよ! それに、負けられない戦いがここにある」
「勝てるとでも?」
「引き分けに持っていき、逃げます!」
可愛らしい後輩がはめ殺しの窓を拳一つで粉々に粉砕した。
「先輩達、私に身を預けてください!」
「どうする気だ」
「こうします」
私と彼女の手を固く握り可愛らしい後輩は粉々に砕けた大穴に突っ込み、大鷲の如く飛翔した。我々の眼前には夜の闇に咲く魔物の世界の城下町や、局所的に輝く岩山の景色が広がっていた。一面に闇色が染まっていたが、岩山の方から日の光が輝きだしているのが見えた。恐ろしく冷たい空気に凍えながら、出口のある岩山へ降りて行こうとしたが、思うように飛翔することが出来ず、城下町の端の方で着地した。
「このまま岩山へ急ぎましょう」
直後に背後で何かの巨大なものが落ちてくる音が鳴り響くと同時にその衝撃派で我々は吹き飛ばされてしまった。よろめきながら体勢を立て直すと、そこには偽の王の姿があり、憎しみの籠った赤い目が我々を睨みつけ、偽の王の身体が沸騰する湯の様に変形し始め、着物がズレ落ち、真の姿が露になってゆく。その姿は大蛇そのものであった。
「さて、いつかの戦いの続きを始めようか」
「お断りします」
我々は背を向け、かつてないほど全速力で岩山に向けて走り出した。あのような物凄まじい怪物に勝てる訳がない。そして何より私は蛇が大の苦手なのだ。
「まこと、以前とは比べものにならぬほど腰抜けになったものよ。その方が虐め甲斐があるというものだが」
そう言って、偽の王は大きく飛び上って我々の前に立ちはだかり、不協和音の様な鳴き声を我々にぶつけた。私が耳を抑え、よろめいていると偽の王と目が合った。次の瞬間に偽の王が獲物に喰らい付くが如く、飛び掛かって来た。私はこの時この瞬間に死を覚悟したが、私は何者かによって突き飛ばされ、命を失うことはなかった。顔を上げると、そこには自分以外の男が腹部から赤黒い血液を流し地に伏していた。その顔には見覚えがあった。
「中島!」
そこにはいるはずのない友の姿があった。駆け寄り、身体を起こし、顔を覗くとそこにはいつものようにヘラヘラとして情け無い阿呆な顔は無く、鋭く締まった眉間からは、痛みによる苦悶がにじみ出ているかの様に見えた。
「なんでこんな所にいんだよ。どうして……」
「変なおっさんに言われたんだよ……。大事な仲間がピンチだってな……。勘違いすんなよ、俺はあの可愛らしい後輩ちゃんのために来たんだ……。でも、カスみたいな俺でも誰かを助けられたのは少しいい気分がする……。友の手の中で逝くのも悪くないな……。生まれ変わったら、皆が愛してくれる様な奴に……」
中島の瞳から灯火が失われ、薄暗い闇が全体を侵食し、空虚さのみが残った。
「金返さないまま死んでんじゃねえ」
私は刀を力強く握り締め、可愛らしい後輩に向き直った。
「彼女を連れて、先に逃げてくれ。大丈夫、必ず追いつく」
「神崎先輩を送り届けた後、直ぐに戻ります。死んではいけません。あなたが死ねば私が叱られるんですから」
私は偽の王に向き直った。
「おお、その眼だ。あの時に近い眼をしている」
私は刀に身を任せ、力強く踏み込み、濃密な殺意を持って刀を振り下ろすが、その一刀はあまりにも無様な大振りであった。姿をくらました偽の王は羽虫を払い除けるかの様に、鞭のような尻尾で私を薙ぎ払った。立てない。呼吸が出来ない。苦しい。苦しい。苦しい。死んでしまう。死ぬ。激しい痛みに悶絶していると、偽の王は締め上げようと私の身体に巻き付いてきた。何故だ、ただ今まで上手くやって来た。彼女を求めるのはあってはならぬ罪だというのか。恋の神よ、来世があるのならば、どうか平和で潤いのある人生を。静かに眼を閉じたその時であった。徐々に何か獣が駆けて来る音が聞こえてくる。ぼやけた視界に一切の闇を許さない純白の雪の様な毛に包まれた巨大な狼の様なものが写った。その眼は赫く、その牙は悪党を討つために打たれた剣の様に鋭いものであった。
「狗神、有り得ない……! 完全に殺した筈……」
そして狗神は大きく口を開け、地の果ての果て、天よりも更に遠くまで届く程の咆哮を偽の王に向けた。完全に夜は消え去り、光が世界を包み、偽の王の身体は燃えてゆく紙束の様に灰の塊に変貌してゆき、そこには、赤ん坊の様に蹲った老いた人間の姿があった。
「輝く星の子よ、何故堕ちた。何故お前は身を滅ぼされ、打ちひしがれた。お前は心の中でこう言った。奴に取って代わろうと、この世の王になろうと。しかし、お前は今日滅びる。何故古の伝承を信じなかった。私は不滅であるという古の伝承を」
狗神は少し悲しそうにしてから、その老いた人間を丸呑みにし、こちらへ向いた。
「人の子よ。全て終わった」
狗神の後ろには今までに狗神の名の故に殺された魔物達が並んでいた。
狗神は私と中島に軽く息吹を吹きかけた。すると、驚くことに中島が目を醒ました。
「……あれ、助かったのか。……気まずいな」
中島が生き返ったのは大変喜ばしいことでめでたいことだが、何故か目を合わせることが出来ない。
「ここで失われた魂は、君達の世界での私に任せる。彼ならきっと幸せに生まれ変わらせるであろう。呑気に珈琲屋を営んではいるが、これから忙しくなるぞ」
私は狗神の心地の良い声と現今人で至る激動の過程による疲労がとうとう我が脳を蝕み始め、私はその場に伏してしまった。
その後、聞くところによれば、平安衆と姫回副部長は大塚先輩と異変に気付いた憎き後輩による警邏組の派遣で完膚無きまでに圧倒され、捕縛されたそうである。
「姫回はまったくもって度し難い奴ではあった。しかしだ、彼は神崎君を攫うことは何時でも容易なことであった。しかし、君のことが最後まで脳にチラついて、最後まで抗っていたそうだ。出会い方が異なれば君と彼はベストコンビであっただろう」と大塚先輩に聞かされた。そして、魔物達は夜にしか姿を見せなかったが、朝にも見せる様になった。隣に我が家の食糧を貪る二つの蠢く物体。一つ目小僧と可愛らしい後輩である。
「満足したら出てけよ。これが最後だからな!」
私は聞く耳を持たない食に支配された哀れなモンスター二匹に言葉を残し、下宿を後にした。今日は神崎さんと大学付近の珈琲を嗜んだ後、夜の妖祭を楽しむ約束をしている。目的地まで私は彼女との知的かつ有意義な会話を滞り無く進行するための予行演習で多忙を極めていた。隣で大学前駅へと向かう電車が重厚な機械音を流しながら走ってゆくのが見えた。見慣れた景色だが、この後のことを考えると何の変哲もない普段の日常も心躍る愉快なものに思えた。しかし、私は考えた。世の成人した男女は二人きりの時、何を話せばよいのか。人生、愛、世界の根源、価値観は人それぞれでいいのか、安楽死は有りか無しか、などについて白熱の議論を繰り広げるのか。恐らく違う。しかし、私は人を楽しませる才にはそっぽを向かれ、明朗愉快なものごとが寄り付かない男である。さて、どうしたものか。どうにかなるものなのか。延々と珈琲を飲むだけになるのではないかと延々と頭を悩ませていたが、進めばいつかは目的地につくもの、私は約束の珈琲屋に着いていた。私は意を決して重い扉を開け薄暗い店内に足を踏み入れた。彼女は先に窓際の席に絵のモデルの様に実に丁寧かつ綺麗な姿勢で珈琲を嗜んでいた。私はペコリと頭を下げ、席に座り、彼女に向かい合った。
「魔物の世界の件に関しては本当に感謝しております、ありがとうございます。本当にあなたは私が困った時に現れる、特撮的漫画的英雄のようです」
「その件なんだが、私は何か君にしたっけな」
「私が高校生の頃、痴漢から守ってくれたではないですか。私があの方を二度と痴漢が出来ない身体にする前にあなたは私を守ってくれました」
「あ、あれねー」
恐らく当時の私は煩悩まみれにして不純まみれな理由で動いたのであろう。女性にモテたいという。
「他にもあるんですよ。例えば─」
神崎さんの言葉は最後まで聞くことは叶わず、途中で遮られてしまった。何か以前にも体感したことのある状況が二人の間に降って来た。降って来たのは憎き後輩であった。
「何故、お前が、ここに、いる」
「いやあ、但馬先輩と腕相撲をしていたら身体ごと吹き飛ばされてしまいましてねえ」
あまり目にしない腕の曲がり方をした憎き後輩が降って来た方を見ると、但馬先輩と大塚先輩が馬鹿にしているのか祝福しているのか判然としない奇妙な笑顔でこちらを見つめていた。この阿呆共めが。私は連中にかつての様に彼女との恋物語に泥を塗られたくない思いの一心で、珈琲を飲み干し、彼女を外に連れ出した。
「姫森さん、これからどちらへ?」
「うん、何処か別の店に入ろうか」
季節は六月。天気は快晴。訳もなく住宅を沿って練り歩いていると、一輪の花が目に入った。それは実に誇らしげに咲き誇る桔梗の花であった。