死者を弔う様々な行事は、結局は生きている者のために行われると思う。私は祖母の死に顔を眺めながら、この葬儀はいったい誰のためのものなのだろうとぼんやり考えていた。
死化粧をしてもらった祖母は、生きていたときよりも血色がよく見えた。病気から来る翳りのようなものは消え、楽になったようだった。
遺影の写真は確か兄の大学進学が決まった時に家族で撮ったものだ。背景に祖母が好きだった藤の花を合わせてもらっている。
読経の奥からはあちこちから啜り泣く声が混じる。
私はその声を聞きながら思う。祖母が入院してから、音戸の街に帰ってきて祖母に顔を見せた者は何人いただろう。弔問や葬儀に来てくれた親戚に腹を立てるのはお門違いと分かってはいたが、ただ腹立たしかった。
そんなふうに思うのは、私がどこか心の中で素直に悲しめない部分があるからかもしれなかった。
*
祖母が若いころから肝臓の薬を飲んでいたことは知っていたけれど、容態が目に見えて悪くなってきたのは祖母が七十を過ぎてからである。まず黄疸が出始めた。もともと小太りだったのがさらにむくむようになり、身体を動かしにくくなったためか免許も返納していた。大口を開けてよく笑う人だったのに最近は能面のような表情で座っていることが増えたことには私も気が付いていた。
そうはいっても盆や正月など私と兄が帰省するときには揚げ物や刺身を余るほど用意してくれる。何かにつけて多すぎることよりも足らないことを心配する人だった。
そんな鷹揚な祖母の姿を見ていたからか、電話口で母から祖母が入院したと、いつ死んでもおかしくない状況だと聞かされた時には信じられない気持ちだった。ちょうど大学の春休みに入った時期で、私と兄は一緒に実家に戻った。
祖母が入院している病室のドアを開けベッドに近寄ると、去年の夏よりもむくみが酷くなり、一回り大きくなった祖母が身体を横たえている。テレビはつけたままで眠っているようだ。
「ばあちゃん」
兄が祖母の身体に触れる。祖母は低くうなりながら目を開けた。
「起こしてごめんね、俺ら春休みになったけぇ帰ってきたんよ」
「葉月か」
兄の名前だ。
「来るゆうて聞いとらんかったけぇ、何もしとらんよ」
そう言いながら祖母はゆっくりと身体を起こした。机にもた れかかった祖母と私の目が合う。
「千遥もおるよ」
兄が言うと、祖母の目が揺れた。このときの祖母の表情を私はいつまでも忘れることができない。祖母は「ああ、」と小さく声をもらし、口は半開きのままだった。空や海でも眺めるように私を見つめる祖母の姿は、まるで小さな子どもだった。または美術館で一枚の絵を見つけてえらく感心している人のようにも見えた。ただ、祖母のあのまなざしはこれまで私が向けられたことの無いものだった。
「おばあちゃん」
私が声をかけても怯えた顔は変わらない。祖母は私と兄を見比べ、時々「助けてくれ」と言わんばかりに「葉月、葉月」ともらしていた。兄が「ばあちゃん、千遥だよ、千遥」と揺さぶったが祖母は黙ってしまった。祖母の目に反射する私はくっきりしていた。
少しの沈黙の後、祖母が言った。
「ほうじゃった、歯ブラシこうてきて」
売店で歯ブラシを買うために一人で一階まで降りる。病室には兄が残った。
母から祖母の認知症の症状が悪化していることは聞かされていた。実際に、肝機能が低下するにつれて認知機能も低下するということはよくあることらしい。
しかし、祖母は兄のことは解かっているようだった。それなのに、私のことはーー。
途端に何も考えられなくなった。頭が真っ白になりその場にうずくまる。
「おばあちゃん」
蚊の鳴くような声でつぶやいた。吐き気がして、今日新幹線の中で食べたサンドイッチがせりあがってくるような感覚が残る。
そのとき私は思い出した。祖母と祖母の友人の田畑さんと私でお菓子を食べていたときのことだ。確か私は小学生だった。
「あんたのところは孫が男の子と女の子とおるけえ、いいね。うちは上も下も女ばっかりじゃけ」
そう田畑さんが言ったのだ。田畑さんの家には娘さんしかいない上に孫は三人姉妹だ。
「ほうじゃろう、やっぱり男の子の方がかわええんよ」
聞いたときは気にも留めていなかった。いや、それは嘘だ。じゃないとこんな最悪なタイミングで思い出すはずがない。
私はこれまで祖母の愛を疑ったことなど一度もなかった。男の子のほうがかわいい、という祖母の言葉で兄に少し嫉妬したのは事実であったが、その「かわいい」はマスコット的な意味合いだと納得していたのだ。愛情や信頼の量で言えば、実娘である母の次くらいにはくると思っていた。
私は頭の中が真っ白なまま、歯ブラシと病室のテレビを観るために必要なカードを二枚買って戻った。
*
下宿先への帰り、新幹線の中で私は元気だったころの祖母の姿を呼び戻していた。特に印象に残っているのは後ろ姿だった。台所で料理をしている姿。祖母の家の台所は祖母がいてこそ完成する安心感のようなものがあった。でもこれだけじゃない。もう一つ、強く心に残っている姿がある。
私が小学生の頃に、祖母の家に家族で泊っていた時のことだ。地震が起きた。ある程度身体で感じることができる揺れだった。二階で寝ていた私は母と一緒に一階に降りた。まだ物が落ちてくるとかそういったレベルではなかったけれど避難した方がいいかもしれない。呉市音戸町は海に近いので津波が心配だった。
恐怖で青ざめた私と母が見たのは、台所で日本酒の瓶を逆さにし、激しく振り続ける祖母の姿だった。当然、酒は音を立てて流れ出ていく。何をしているの、と思って、机上を見ると、酒瓶や味醂、料理酒のボトルが何個も置いてあった。水に入れ替えていたのだ。避難用だった。気づいた私と母も祖母と同じように瓶を開け、流し、水を入れ、を繰り返した。
数十分で揺れはおさまったので被害はなかった。しかし、あの時の祖母の圧倒的な姿は目に焼き付いている。次の日、祖父は自分の大事な酒を流されたことに激昂していたのだが、祖父の倍くらいの勢いで言い返していた。それも覚えている。
しかし、病室での祖母には、以前の気丈でたくましい様子は全くなくなってしまったばかりか、私のことすら思い出せないようだった。私は言いようのない恐怖のようなものを感じつつも、二日後にはまた祖母のもとを訪れた。
その時の祖母は、
「孫が来てくれたんよ」 と私に話してくれた。
「こまいころから勉強ができる子でね」
「自慢なんだね」
祖母はいたずらっ子のように笑った。
よく聞くと、やはり孫とは兄のことだけで、私のことは見覚えはあるが誰かは分からない、といった様子だった。
見舞いに来た友人と納得して話をしているようだった。その、「見覚え」が果たして私と過ごした長い年月のことを指すのか、それとも前回のお見舞いのたった一回のことを指すのかは私には分からない。
春休みが終わっても、大体二週間に一度の休日には実家に帰った。移動費は痛い出費だったし、アルバイトに出られずに顰蹙を買うことになったが、祖母に会うためなら仕方ないと自分を諌めた。
そう考えてから、私のことを覚えていないあの人は、果たして私の知っている祖母といえるのかしらと思って、私はこれから誰に会いに行くのだろうと、わけが分からないぐちゃぐちゃな気持ちになることもあった。
母も塞ぎ込むようになった。ちょうど私が実家に帰っていた時、深夜にリビングから物音がした。そっと覗くと母がアイロンがけをしていた。見ると、病院から受け取った祖母の服だった。洗濯するために母が持ち帰ったものだ。
「お母さん……?」
母が私の視線に気づく。
「なんかしとらんとね」
そう母が言う。もちろん病院で着るような服にアイロンをかける必要はない。すると母は堰を切ったように泣き出してしまった。「ごめんね」、「違うんよ」と言いながら母は涙を流し続けた。
押さえつけて、何度も何度も押さえつけて、どんなに見せないようにしても溢れ出てしまう。それは私たち家族にとって、こんなにも切実な問題だった。
*
地元に戻る度、病室の祖母は会う度に様々な話を聞かせてくれた。自宅の軒先でお好み焼き屋をしている話や、売れない蕎麦屋でアルバイトをしている話など、どれも突飛な話だった。祖母はお好み焼き屋など経営したことはないし、もちろん入院している状態でアルバイトなんてできるはずがない。
しかしそれは小春日のようなひとときだった。話をしてくれるときの祖母は心から楽しそうで、ずいぶんはなやいで見えた。
五月に入ってすぐのころ、また祖母が不思議なことを言い出した。
「あんた、また来たんね」
この頃の祖母は私を看護師だと思っているようだった。祖母によると、私はいつも祖母の病室に仕事をサボりに来ているらしい。
祖母が言った。
「あたしはこれから学校行かんといけんのんよ」
「学校?」
「ほうよ、大学に行くんよ」
祖母の実家は貧乏だったため、大学はおろか高校にも行かずに働いていたはずだ。
「なんの勉強するん?」
聞いてから、しまった、と思った。記憶を試すようなことは聞くべきじゃない。私はあわててこう言い直した。
「でも今日はひどい雨じゃけ、行かん方がいいんじゃないんかね?」
祖母は窓に叩きつけられる雨を見ながら、「ほうじゃねぇ、確かに」と言ってまた布団にくるまった。
人と過ごすということは小さな国を一つ作り上げるようなものだと思う。私と祖母はこの間、大事に育てていた国を失って、最近、ものすごく短時間で急速に新しい国を作った。脆くても、微かに西陽が差し込む国だった。
*
また、祖母は五月の中旬に洗濯物を受け取りに来た母にこう言ったらしい。
「みんな、バラバラで帰るんね?」
祖母には代わる代わるやってくる友人や親戚の姿が浮かんでいるのか、あの人にはお弁当も渡しちゃってよ、あの人にはお菓子もね、という風に母に伝えていたらしい。
母が、「ちゃんと渡したから大丈夫」と都度伝えると、安心したようにまた眠ってしまったそうだ。
そのおよそ一週間後に祖母は死んでしまった。私は葬儀では泣かなかった。私が泣いたら母が私に気をつかってしまう。そう思ったのと、私だけ純粋に悲しみきれない部分があったからだ。
納骨堂で祖母の骨が焼かれている間、私は参列者にお菓子を配ってまわった。どんな言葉よりも形式的な言葉が一番ありがたかった。
親戚と話をする中で、驚いたことがある。病室で話していたお好み焼き屋や蕎麦屋は、若い頃の祖母がやりたかったことらしい。
「あんたのとこのじいさんは頑固じゃろう、じゃけえやりたいことを言っても許してもらえんかったんよ」
そう話してくれたのは滋賀に住む祖母の姉だ。
心だけ取り残されたまま、私は下宿先に戻った。本当は私も兄と一緒に実家に残りたかったのに、私の大学は忌引きが通夜と葬式の当日しか効かなかった。
保険や年金の処理が全て終わったのは一、二ヶ月経った後だった。亡くなってすぐは電話する度に泣いていた母だが、全てが終わった頃には穏やかに祖母の思い出話ができるくらいには回復していた。
いよいよ本格的に梅雨の季節に入り、人の動きが緩慢になり出した。
水曜二限、いつも通り教室に向かう。先に着いていた友達の隣に座る。私たちは特に約束したわけでもないのに、毎回前から四列目の窓際に座るのだ。
「里香ちゃん、今日メガネじゃないんだね」 と私が言うと里香ちゃんは、
「コンタクトにしたの」 と言った。
剥き出しになった里香ちゃんの目と皮膚は、どことなくあどけない感じがした。そしてその感じは病室での、か弱い祖母を連想させた。その頃にはわたしの傷もだいぶ癒えていたけれど、やっぱり分からないことは分からないままだった。
病室で過ごしたあの時間はなんだったんだろう。
窓の外から真夏の予感をはらんだ風が吹き込んでくる。葉の一枚一枚や色褪せた建物の粒子のすべてに生命が繰り返されていっているのがわかる。
大学って、よその家の玄関みたいな感じがする。人が入ってきて、出ていって、の繰り返しで、生命とか人の気配は常にしているんだけど、それは私以外の誰かの気配だ。そこには自動的な冷たさがあって、もちろん、ずっとここにはいられない。
隣に座る里香ちゃんが船を漕いでいた。水曜日は眠いよね、分かる。
そういえば病室の祖母は、大学で勉強していると言っていた。するとなぜか里香ちゃんの姿が祖母の姿と重なった。
祖母と一緒に勉強して、テストを受けて、ゲームをして、買い物に行って、二人で夜通しお菓子を食べながらレポートを書いて。案外祖母も私や里香ちゃんみたいに授業中にうたたねしてしまうこともあるかもしれない。そして、あ、と私は気づく。病室で過ごしたあの時間、例え妄想だったとしてもやりたいことができてよかったのかもしれない。
月影にさらわれたようにいなくなってしまった祖母を思い浮かべ、この大学をおしゃべりしながら二人で歩く姿を想像してみる。実際の世界と同じくらいか、それ以上に広い世界の中に祖母がいるのを確かに感じた。