猫先輩はいつものように、僕の高校の近くの寂れたバス停のベンチに座っていた。
〝猫先輩〟と言っても、先輩が本当に猫だというわけではない。僕はまだ動物を先輩扱いするほどに拗れた人間になったつもりはないからね。
だからと言って勘違いしてほしくないんだ。何をかって? ほら、多分君、猫が好きな先輩だから、僕は先輩のことを猫先輩って呼んでるって思ったろ。確かに先輩は今も猫を愛でている最中だ。だけれど、僕はそんな安直な人間じゃない。舐めてもらっちゃ困る。大体、先輩が愛でている猫ってのが、猫って呼びたくないくらいとにかくふてぶてしいデブなんだ。可愛げなんてあったもんじゃない。
〝猫〟の由来は先輩の名前にある。先輩の名前は霧谷真央って言う。ほら、『まお』だ。『まお』だぜ? ああ、カタカナで書いたほうがいいか。『マオ』。こう書いたらピンと来る人もいるんじゃないか? そう。中国語だ。猫のことはマオって呼ぶだろ。
「……やぁ」
どこか気怠げに、冷蔵庫で冷やしたみたいな声で、先輩は言った。笑みを浮かべて、僕は軽く会釈する。先輩の表情は変わらない。そうだ。これを言っておかなくちゃいけない。
先輩は絶対に笑わない。
まぁ、それが、この上なく似合ってるんだけど。
1
先輩と初めて出会ったのは、市立の図書館だった。そこまで大きくもないし、蔵書も何だか残念さが目立つ、そんな図書館だ。『指輪物語』の二巻が二冊あるくせして、一巻はないっていう図書館。経験あるだろ?
僕はそんな図書館で『罪と罰』を返却したところだった。退屈……ってわけじゃなかったんだけど、だからというか、うざったい小説だった。台詞は長い、人名は覚えられない、そもそものページ数が多い……名作の片鱗は見えたのだけれど、すとんと「ああ、名作だな」って思える本じゃなかった。多分三回くらい読んだら紛うことなく名作って思えるんだろうけど、そんなに読み返すには長すぎる。大体、ドストエフスキーは代表作がどれもこれも長すぎるんだ。ウィトゲンシュタインなんかは『カラマーゾフの兄弟』を戦地に持っていってまで読んだらしいけど、イマイチ共感できないね。
さて、ドストエフスキーに対する僕の意見を言うのもこの辺にしておこう。誰かエラい人から怒られそうだ。まぁ、そんなわけでドストエフスキーにうんざりした僕は、彼のもの以外の作品を探してる最中だった。今僕の中では海外文学フェアが絶賛開催中で、中でもロシア文学が推しに推されていた。だから、自然と海外文学の棚のロシア文学がかき集められているコーナーに足が向かう。けれど、ここで困ったことが一つ。ロシア文学の棚って、大体七割くらいがドストエフスキーとトルストイの作品で占められてるんだよ。だったら、トルストイ読めよって思うよな。うん。君の気持ちはよく分かる。『イワン・イリイチの死』読んだらいいって僕も思う。何しろ『戦争と平和』は枕詞にクソを付けたくなるくらい長いからね。『イワン・イリイチの死』ならその心配もない。けれど、それじゃダメなんだ。僕が読書に求めているものが『イワン・イリイチの死』にはない。
ここで、ある作品が目に入った。ナボコフの『絶望』だ。シンプルな題。僕の好みに合っている。背表紙のあらすじに目を通した。うん。この本ならいいだろう。でもこの一冊じゃ足りない。休日を挟むからね。『絶望』はそこまで厚くない。もう一冊くらい借りた方がいいだろう。何しろ僕は無趣味だ。それにインドア派。自主勉強に取り組む程勉強熱心でもないから、本を読むくらいしかやることがない。ううむ、どの本にすべきか。
「その本、貸してくれる?」
背後から、冷ややかな声が投げかけられた。図書館に、まさか人が手に持っている本を指名する人間がいるとは。どんな奴だ。僕は少しばかりの興味と驚きと共に振り返った。
何というか、雪女って感じの人だった。多分、それじゃ分からないだろうから、もうちょっと具体的に説明しよう。髪はストレートのロングだ。よく手入れされているようで、艶やかな輝きを放っている。色は黒。光が透けて少し茶色に見えることもない。殆ど完璧な黒だ。それとは対照的に、肌は青白い。病的ってわけじゃないんだけど、何だか心配になる青白さだった。顔立ちは平均より随分上。要するに美人だ。背も僕より高い。牛乳でもいっぱい飲んだのかな。制服を見るに、僕の高校の近くにある女子校の生徒らしい。図書館の利用者らしく本を二冊抱えている。
「それ。その本だよ。貸してくれる?」
彼女は僕が手に持っている『絶望』を指さして繰り返した。
「貸してくれませんね」
僕は『絶望』を背中に隠し、笑みを浮かべてその申し出を拒否した。何だか自分で自分のことを実況してるみたいになったけど、別にテンパったんじゃない。彼女は何だか面白そうな人だと思ったのだ。そういう人に、僕はこんな風なふざけた態度を取ってしまう。僕の短所でありチャームポイントだ。大体の人はここで顔をしかめるのだけれど、彼女は大体の中には入っていなかった。彼女の表情はピクリとも変わらなかった。
「どうしたら、貸してくれるかな」
淡々と、感情といったものが見受けられない声で彼女は尋ねた。僕は背中に隠していた『絶望』を取り出し、もう一度拍子を見つめた。作者はウラジーミル・ナボコフ。訳者は……それ目当てで僕に話しかけたってことは流石にないかな。表紙も特段芸術的ってわけでもない。
「どうしてこの本が欲しいんです?」
物事はできる限り単純であるべきだ。アインシュタインが大体こんな感じのことを言っていたと思う。僕もそれにあやかって、極めて単純に尋ねてみることにした。すると、彼女は五秒くらい考えてから答えた。
「君が読もうとしてたから」
あまりに意外な答えだ。僕は返事も忘れて目を丸くしてしまう。僕は彼女に会ったことがあるだろうか。おそらくないだろう。ケンカ別れをしたのでもない限り、僕は人の顔は覚えられる。
「えーと……口説きですかね?」
やっとのことで口に出したのは、そんな台詞だった。彼女は少し首を傾げてから、自分の言った台詞を僕がどう受け止めたのかを理解したようで、
「そうなるな」
と口に出した。
「別にやぶさかではないですけど」
本心だった。好みにどストライクってわけじゃないが、目に入れても痛くないくらいには美人。性格面はまだ分からないが、僕を開口一番罵倒しなかったって時点で全然アリだ。
「そういう意味じゃない……やぶさかじゃないところ、悪いけど」
「だったら、どういう意味です?」
「君のことを知りたいって意味」
同じじゃねぇか。声に出さなかっただけ、褒められてもいいと思う。彼女もそれに気づいたのか、僕から目を逸して考え出した。なんだろう。もしかして天然寄りの人なのかもしれない。今度の彼女の思考は〝少し〟って枠には収まらなかったようで、彼女はいつまでたっても僕と視線を合わせない。かといって、立ち去るわけにもいかない。気まずさってやつを久々に感じた。
そいつを紛らわせるために、彼女の持っている本が何なのかを見てみることにする。文庫本が二冊だ。オウィディウスの『変身物語』と、伊坂幸太郎の『重力ピエロ』。ギリシャ神話はあんまり好きじゃない。僕は北欧神話のフォロワーだ。伊坂幸太郎の作品は『グラスホッパー』とかは読んだことがあるけど、『重力ピエロ』については読んだことがなかった。結構有名らしいが、面白いんだろうか、この本。にしても、僕から首尾よく『絶望』を借りられたとして、三冊ひっくるめると結構な分量になる。学業もあるだろうに、貸出期限の二週間で読み切れるのだろうか。
「こんな路端の会話で君の誤解を解くのは無理そうだな」
彼女が言った。僕は視線を彼女の顔に向ける。彼女は反射的に、と言ってもいいくらいに素早く僕から目線を外した。
「……じゃ、どうするんですか。どっかのカフェで駄弁ります?」
「生憎いい店を知らないんだよ。チェーン店は嫌いだし」
僕と同じだ。親近感が湧く。
「そうだな……よし。君、直近で読んだ本はあるか?」
「え……『罪と罰』ですけど」
借りるつもりだろうか。だとしたらまずい。『罪と罰』は、僕がついさっき返した分を除くと、ここの本棚には中巻と下巻しかなかった。しかし、彼女は頷くと、少しだけ間を置いてから僕に告げた。
「月曜日の放課後……君、多分帰宅部だから時間あるよね? で、君の高校の裏門から出て少し行った所のバス停に来てくれ。場所、分かる?」
裏門から徒歩八分という、何とも微妙な場所にあるあのバス停のことだろう。立地の悪さもあって利用者も殆どおらず、なぜ撤去されないのか不思議な。名前も覚えていないから確認を取るのも面倒だ。多分合っているだろうから、僕は首を縦に振った。
「月曜日の午後四時。そこに来てくれ。今日の所はその本、諦めるよ」
それだけ言って、彼女はくるりと僕に背中を向けて歩き去ろうとした。慌てて僕は彼女を呼び止める。彼女はびくりと身を震わせて振り返った。ちょっと猫みたいだ。
「別にバス停に行くのはいいですけど……何するんです?」
「知的な会話に付き合ってもらおうと思って。これでいい?」
腕時計を見ながら彼女は言った。よくはないが、僕には微に入り細を穿ち根掘り葉掘り色々と聞き出すような根気も特にない。だから、これだけを訊いた。
「名前は、何ていうんですか?」
「霧谷真央。ごめんね、もう時間だから。また月曜日に」
手を振って、彼女は図書館を出ていった。一体全体意味が分からないとは思うが、これが真実なんだから仕方ないだろ?
まぁ、そんなこんなで、僕は彼女、猫先輩と知り合うこととなったのだ。
*
「君とこうして会うのも、もう四回目くらいにはなるのかな?」
「六回目ですよ」
「ああ、もうそんなになるのか」
今日は、猫先輩と出会ってから丁度三ヶ月の記念日だ。だからって、何かお祝いをするわけでもない。馬鹿みたいなカップルと同じにしてもらっちゃたまらない。
「お互い、読んだ本の話をしなくなったのはいつからだったっけ」
「そんなこと、初めてここで会った時しかしてませんよ」
さて、猫先輩とここで会って何をしているのかと言われれば、僕は困ることになる。何せ、僕だって何をしているのかよく分かっていないのだ。
初めて先輩とここで会った時は、実際に入ったことはないのだけれど、文芸部の真似事でもさせられるのかとでも思っていた。そりゃあ、『罪と罰』の感想について数十分の間訊かれ続けたらそう思うのもやむなしって思うだろ? とにかく色々訊かれたね。まずどうしてその本を読もうと思ったのかから始まって、ラスコーリニコフが辿った末路についての私見とか。知らないっつうの。この本を手に取った理由は、人が殺されるからだ。僕は殺人が起こる小説しか読まない。理由はあるにはあるのだけれど、少なくとも、こう、創作物でキャラクターが死んだらテンションが上がるからとかいった薄っぺらな理由じゃない。ラスコーリニコフについての私見? そんなもん、「ただのバカ」か「腹括れ」のどっちかだ。乱暴な意見だって思うだろ? 僕もそう思う。猫先輩も同じように思ったのか、僕の答えには、「そう」としか答えなかった。いつも通りの、感情が読み取れない、フラットな声で。僕は逆に訊き返してみたんだけど、猫先輩は、「血は好きじゃないね」と答えにもなっていないようなことを返すだけだったから、訊く気もなくした。珍しいんだぜ? 僕が突っ込んでいかないのは。最も、僕がそんな気まぐれを起こしたおかげで猫先輩との関係は続いているのかもしれなかった。それはつまり、僕のこの悪い癖が周囲から人を遠ざけていることの証明に他ならないわけだけれど、それならそれで構わない。むしろ嬉しいかもしれない。
「もしかして、またあの時みたいなことしたいんですか?」
漠然とした表情をして宙を眺めている猫先輩に尋ねかけてみる。猫先輩はこちらに視線も寄越さない。聞いていないのでは、と普通の人なら焦るか怒るかする所だろうね。だけど僕は違う。三ヶ月も会っていれば、猫先輩の……生態? っていうのか、それは分かってくる。猫先輩は話を聞いている。
「……いや、特にそんなこともないけど」
だから、ほら。きっちり答えは返してくれる。僕の方はてんで見ちゃくれないけどね。
「じゃあどうしますか?」
「たまには君が話を振ってくれよ」
猫先輩はこう言うけれど、先輩が話題を提供してくれた回数は二回くらいで、多いとはいえない。けれど、僕が話を振った回数は一回あるかないかくらいだから、あまり偉そうなことは言えなかった。
「そいつの話は……だいぶ前にしましたね」
僕は猫先輩の膝の上で丸くなっている猫を指さした。どこに食いぶちがあるのか、思わず研究したくなるくらいに太った猫だ。顔はふてぶてしい。休日の中年みたいだ。今も眉間に皺を寄せて目をつむっている。
「ああ、この子」
猫先輩はそのデブ猫を優しく撫でた。柔らかな視線を向けている。おもむろにデブ猫が目を覚ました。どこまでもふてぶてしい目で僕のことを見る。「どうだ、羨ましいだろう。お前はこの娘に見つめられたことなんてないのにな」。そんな声が聞こえてきそうだった。全くもって余計なお世話だ。猫先輩は別に僕のタイプじゃない。もうちょっと小柄で、ほんのり笑ってくれるような子が僕のタイプだ。お前には分からないだろうけどな。どうせお前は猫だから。
「君、この子のこと嫌いなのかい?」
僕は目線を猫先輩に戻した。先輩はすぐに僕から目を背けてデブ猫の方を見る。
「バレました?」
「隠してたつもりなら、ちょっと驚くくらいだね」
苦笑すると、猫がにゃあお、と鳴いた。この野郎、馬鹿にしてんのか。
「なんかこの猫、僕のことコケにしてる気がするんですけど。気のせいですかね」
「気のせいというか、君がそういうことにしてるだけだよ。この子の一挙手一投足、あるいは容姿に対して、勝手に意味を与えてね」
「……つまり、僕のことをコケにしてるのは僕自身だと?」
「そこまで言っちゃいないだろう。その考えが真っ先に出てくるのは先輩としてはちょっと心配だな」
猫先輩は、こんな風にどこか観念的な話を度々する人だった。短く済ませるし、分かりやすいから、こういうことを話してくれるのは聞き手として気分がいい。
「僕は、この猫が未だ知られざる恐るべき知能を用いて人間を、その中でも僕をどこまでも下に見ている可能性に賭けているだけですよ」
「……君、中々面白いこと考えてるんだね」
「先輩、今嘘つきましたよね」
「ついてないよ」
「これで二回目です。言った本人が面白いって思ってなくちゃ、言葉は面白く伝わらないものですよ」
猫先輩は観念したように息を吐いた。
「そんなわけあるかって、思ったよ」
そりゃそうだろうな。そんな知能があるとするなら、猫がトラックに轢かれるって事象は新手の解脱になり得る。けれど、先輩から嘘を引き出せたというのは新鮮だった。もう少しこの話を続けてみたらどうなるのだろう。
「でも、確実にないとは言い切れませんよね? トマトの遺伝子って人間よりも多いらしいんですよ。トマトでも人間を超えてるなら、猫が人間を超えている可能性は十分あります」
「実際、夜目は人間より効くね。運動能力も、長距離走でもしない限りは人間が負けるだろうし。その点じゃ人間は超えてるよ」
つまらない場所に着地させられてしまった。デブ猫がまたしてもふてぶてしく僕を見ていた。この〝ふてぶてしい〟という印象は、猫先輩の言によれば僕が勝手に与えた意味ということになるのだけれど、とてもそうには思えない。
「目と鼻と口があるのが悪いのかな」
「恐いことを言うな。君は」
猫先輩が冷たい声で言った。
「安心してくださいよ。そいつのこと、取って食いやしませんから。でも、そいつがいっつもいるっていうのは考えものですね。落ち着かない」
このデブ猫は、猫先輩と二回目に会った時にはもう彼女の膝の上に鎮座していた。安住の地を見つけたような顔ですやすやと眠りこけていたのは、今になっても忘れない。この助平が。咄嗟にそう思った。
「でも、懐かれちゃったからね。ノラちゃんの憩いの時間になっちゃったみたいだし、急に追い払うのもかわいそうだよ」
猫先輩はデブ猫に向かって、にゃあと鳴き真似をする。デブ猫もそれに呼応するように、にゃあお。何となく疎外感を感じた。
「ノラちゃんって……名前ですか?」
そう訊かれて、先輩は少し意外に思ったようだった。
「ああ、そうか……そうなっちゃうな。私としては、ただ野良猫っていうのも淡白で嫌だなって思っただけだよ。ほら、よく知らない小さい男の子に『ボクくん』って言うのと同じ……そうだ」
猫先輩は突然手をポンと打った。
「君、この子に名前付けてみなよ」
「はい?」
「名前だよ。名前。付けてみたら少しは愛着湧くんじゃないかな?」
「それ、先輩がさっき言った、勝手にする意味付けって奴になるんじゃないですか」
「私は別にそれが悪いこととは言ってないけど」
気が進まなかった。僕は動物に名前を付ける、ということがたまらなく苦手だった。その動物とどんな関係性にあっても、名前を付けた瞬間、その動物は僕にとって家畜と同じ存在に変わる。ほら、違いだって、いずれ死ぬか殺されるかくらいしかないだろ?
猫先輩の様子を伺った。変わらず、デブ猫を撫でている。もうこのデブ猫を名前にしてもいいんじゃないかとも思えてきたが、猫先輩の前でこのアイデアを口にするのは躊躇われた。猫先輩だって淑女だ。BMIとか何だか、気にすることが色々あるだろう。
仕方なく、デブ猫を観察した。本当ふてぶてしいな、こいつ。……じゃない。容姿を見ないと。脂肪をたらふく溜め込んで……それだとまたデブ猫に逆戻りじゃないか。いけないいけない。別のところを見よう。例えば、毛並みだ。このデブ猫、毛並みだけはやたらといいのだ。色は漆黒。どこかの風呂でも拝借しているのか、やたら艶がある。
「クロとかどうです?」
単純が過ぎる。自分で突っ込まざるをえなかった。
「……それは、やだな」
猫先輩が、ぽつりと言葉を漏らした。か細い声だった。
「やっぱり安直過ぎました?」
「そうじゃなくてね」
猫先輩は少しだけ俯き、デブ猫を撫でた。
「あんまり、黒とか、夜とか、暗いものは好きじゃないんだよ。それをそのまま名前にされるのは、悪いことじゃないんだろうけど、何だか嫌で。ごめんね」
別に謝ることはないのに。このデブ猫は間違いなくひねくれ者だ。こんな安直な名付けは似合わない。せめて一捻り……こいつは黒猫なのだから、そうだ。
「だったら、ポオはどうですか」
「ポオ? ポオって、エドガー・アラン・ポオ?」
僕は頷いた。
「代表作が『黄金虫』ですよ。黄金。輝いてる」
その前に『黒猫』と『モルグ街の殺人』が来やがるけど。猫先輩もそれを知っているのか、微妙な顔をしていた。
「まぁ……偉大な文豪だしな。うん。ポオ。君は今日からポオだ」
デブ猫もといポオは、喜んでいるのかいないのか、にゃあ、と気怠げな鳴き声を上げた。
「……っと。そろそろ時間だね」
猫先輩が腕時計を見て言った。
「何か用事でもあるんですか」
「君、ここで会うのは六回目なんだろう? だったらいい加減覚えたらどうだい?」
猫先輩は時刻表を指さした。あと二分程でバスが来る。
「思ったんですけど、腕でバッテン印でも作ったらどうです? スルーしてくれますよ」
「私達を確認した時点でバスは減速するだろう? あれって、乗客の身からすると中々なストレスなんだよ」
なるほど。あまりバスには乗らないから実感が湧かない。
「じゃあ、どこに行きます? ゆっくり話せる場所は——」
「いや、今日はもうここで帰るよ。移動してまでする話もない。それに、丁度ポオの名前も決まったしね。キリがいい」
猫先輩はポオを膝から下ろした。ポオは機嫌が悪そうだった仏頂面を少し緩めると、バス停を去っていった。
「利口な子だね」
「言葉、理解してるんじゃないですか」
「君、もしかして猫が人間を超越してるって話蒸し返そうとしてるんじゃないだろうな」
そんな気も、少しはあった。
「……ともかく、今日のところはお別れだ。毎度付き合ってもらってありがとう。それじゃあね」
「ええ。また今度」
猫先輩は僕に背中を向けて手を振った。猫先輩はすぐに脇道に入って見えなくなる。僕は腕時計を見た。僕たちは大体三十四分話していたらしい。今日は早い方だ。とは言え、持ち時間の半分は使っているわけだけれど。
猫先輩は、長くても一時間しか話をしない。絶対に、きっかり一時間で話を打ち切る。なぜなのだろうと思ったことはあるが、そう悩みはしなかった。
単純に、一時間も話すようなことなんて、そうそう持ってないからね。
2
変な意地なんて張らずに、通信高校に通えばよかったと常々思う。朝は早いし、友人なんているわけでもない。終いには体育がある。槍投げなんかはまだいい。無様を晒すだけだから。でも、サッカーなんかになってくると話は違うな。その無様のせいで嫌われる。元から嫌われてるから、あんまりダメージはないけどね。
今日は体育もなかったし、クラスメイトと話すことはなかった。教師からも当てられずに済んだから、僕の声帯にお役目が回ってくることはない。普段からこんな具合だ。そろそろ辞表を出して転職してしまうのでは、と心配になってくる。
終礼も終わり、周りのクラスメイトが部活や塾へ向かいに教室を出ていく中、僕は変わらず教室の中にいる。いつもはこんなことしないんだよ。誰よりも早く教室を出て、周囲の顰蹙を買いつつ走って最寄りの駅へと向かう。そして普通ならまず間に合わない時刻の便を捕まえて、学生なんて殆どいない車内で、何をするでもなく優越感に浸る……それがいつもの僕だ。そんな僕がどうして人がいなくなり始めた教室で、奇異の目を向けられながらも黄昏ているのかって?
窓の外に答えがある。水滴でよく見えないかもしれないけれど、答えなんだからそれでいい。そうだ。雨が降っているから、僕は教室から出られないのだ。傘を使えばいいじゃないかという意見については全面的に同意する。僕だってその意見の支持層さ。今や数少ない合羽派と熾烈な争いを繰り広げてるよ。けれど、今日ばかりは話が違った。何せ鞄の中に忍ばせているはずの折り畳み傘がないんだから。濡れるのは御免だ。風邪でも引いたら目も当てられない。
というわけで、僕はまだ、教室における僕の数少ない陣地……机に座り込んでいた。別段することもない。本の持ち合わせはなかったし、図書室に行く気もない。あの部屋、図書室じゃなくて自習室って名前に変えた方がいいんじゃないかな。だってさ、あそこの机で勉強してる人たちって、僕みたいな本来の利用者が部屋の中を歩いてたら、とにかく睨んでくるんだよ。国語の試験範囲に『図書室』って言葉の意味を問う問題を追加するべきだと思うね。割合真剣に。
こんなことについて思索を巡らせていても仕方がないから、僕はスマートフォンを取り出した。みんな大好き文明の利器だ。ゲームなんて入っていないけど、暇つぶしにはなる。LINEの通知が二件溜まっていた。開いてみると、大盛り無料券欲しさに追加したラーメン屋と、プリン欲しさに追加したカレー屋からだ。どちらも、特に美味そうでもない新メニューの告知だった。十数人しか表示のない、現実が充実している人が見たら哀れみのあまり涙を流してしまいそうなホーム画面。その中でもとりわけ目立たないアイコンに目を向ける。デフォルトのままなんだから、そりゃあ目立たない。猫先輩のアイコンだった。
猫先輩は、多分あまりファッションに拘らない人なんだと思う。そうじゃなかったら天下の女子高生がLINEアイコンをデフォルトのまま放置するなんてありえない。ほら、あれって週一ペースで変わるんだろ、普通。よく知らないけど。おもむろに、猫先輩とのトーク画面を開いた。猫先輩はアイコンだけでなく、使う言葉も質素だ。『十六時、いつものバス停で』。スクロールをすると、こんなメッセージが延々続く。時たまスタンプを返してみたりするんだけど、既読が付くだけで何も返ってこない。無愛想すぎやしませんかと猫先輩に言ってみたら、元からあるスタンプの中でも殊更無愛想なスタンプを送ってきた。ほら、あの茶色のクマだよ。名前は何ていうか知らないけど。あの人、私服もこんな具合じゃないだろうなと、要らぬ心配をしてみる。クローゼットの中で眠りこけている服を渡して、数日後の夜に自撮りを送ってくれとでも頼もうか。僕の渡した服を着ていたらQEDだ。
「おい」
机の上でくたびれている僕に声がかけられた。機嫌の悪そうな、ざらついた声。さっさと用事を終わらせたい。そんな思いが透けて見えた。できる限りゆっくりと、顔を声のした方に向ける。帰らせてあげないよ。僕は天邪鬼だから。僕と同様に相手も言葉の奥の感情を悟ったのか、顔を顰めた。多分クラスメイトの男子だ。多分ってのはどういうことだよと思うだろうが、単純に人の顔と名前を覚えるのが苦手なだけだよ。
「何だい?」
ふん、と息を吐くと、男子は手短に言った。
「正門の前で、お前を待ってるって人がいる。彼女か?」
信じられないけど。多分彼はそう続けただろうね。しかし誰だろう。僕に女子の知り合いなんていないに等しい。いや、中学生まではいたんだけどね。高校生になってからはさっぱりで、それこそ猫先輩しかいない。だったら、必然的に猫先輩になりそうなもんだけど、あの人は会う前日には連絡してくれるし、何より、あのバス停以外で僕とは会わない。僕を正門で待っている女子が猫先輩って線は限りなく薄い。だとしたら……。
僕は席を立った。男子が驚いたような顔をしているのにもお構いなしだ。軽く礼を言うと、足早に教室を立ち去る。急がなければ。自然と歩く速さが上がり、最後には殆ど駆けるような格好になった。廊下を行き交う人々が迷惑そうに僕を見た。ごめんよ。胸中で呟く。君たちに構っている時間はないんだ。靴箱で手早く靴を履き替えると、雨に濡れるのもなんのその、正門まで駆け出した。正門で足を止め、僕を待つその人を探す。雨の中、傘もささずに息を切らしている僕に、周囲の無味乾燥な視線が投げかけられては消えていく。そんな、消えていくようなものを相手にしている余裕はない。僕は、必死で待ち人を探した。けれどどうしよう。彼女が、僕の思っているその人だったら、僕はどんな顔をして彼女に会えばいい? 自然と、口角が吊り上がっていく。僕の悪い癖だ。
「ちょっ! 君、大丈夫⁉」
焦ったような声がして、体を打つ雨が遮られた。傘を差し出されたのだ。声の主は女子だったが、僕の思った人ではない。全く記憶にない声だ。いい人もいるもんだ。お礼を言おうと目線を上げてみて驚いた。猫先輩と同じ女子校の制服だ。もう少し目線を上げる。声が違うから当然だけれど、彼女は猫先輩ではなかった。猫先輩とはある種真逆の、快活そうな印象の女子だった。
「そんなに急いで来なくてもよかったのに……。ほら、これ使って」
彼女は流れるように僕にタオルと折り畳み傘を渡す。僕は呆気に取られながらも折り畳み傘を開き、タオルで顔の水滴を拭った。
「そのタオルと傘ね、後で真央に渡してくれればそれでいいから」
真央。……ああ、猫先輩のことか。名前は最初に聞いたっきり、僕の中ではずっと猫先輩だったから思い出すのに少し時間がかかった。
で、結局、この人は誰だろう。雨に打たれなくなったからか思考が冴え、疑問が首をもたげた。猫先輩の友達……いたんだ、とは思うが、それは今は関係ない。友達だとしても、どうしてわざわざ僕に会いに来ることがあるのか。
「あの、あなたは……」
こういう時は臆さず訊いてみるのが一番早く済む。すると、僕が言い終わらない内に彼女は答えた。
「私は古川美穂。真央の大親友。えーっと、真央の彼氏、でいいんだよね?」
聞き捨てならんぞ。声に出す代わりに、僕の顔に笑みが浮かんだ。
*
それにしても、女子校ってやつは入試に『身長』って科目があったりするのかね? 猫先輩といい、古川さんといい、僕よりも背が高い。向こうの発育がよろしいのか僕の遺伝子が悪いのか。こんなことをやっかんでいても仕方がないし、大して気にもしていない。今はとにかく、古川さんの、とんでもない、と言ってしまってもいい誤解をなんとかしなければ。
「えっと、彼氏っていうのは」
「いやぁそれにしてもラッキーだったよ。ここまで来たはいいんだけどさ、真央には君の名前しか聞いてなくて。クラスも分かんないからどうしようって思ってたんだけど、ダメ元で尋ねてみたら君のクラスメイトでさ。連絡入れてくれるだけでよかったのに、わざわざ教室にまで呼びに行ってくれてね。君も君で傘もささずに走ってきたからびっくりしたよ」
連絡は入れられるはずがない。何せクラスLINEに入っていないのだ。彼と個人LINEで繋がっていないことは傍から見たって明らかだしね。うん。
それにしても賑やかな人だ。〝うるさい〟までのギリギリのラインを攻めに攻めている。コミュニケーションにおける走り屋だ。頭文字H。しかし、この走り屋を何とかして止めないと、僕と猫先輩がカップルであるという噴飯もののデタラメがまかり通ってしまう。僕は彼女に左手を突き出した。この左手が言葉に轢かれればもう為すすべはなかったが、幸い、この左手の意味は理解してくれたらしい。彼女は言葉を止めると、少し申し訳なさそうな顔をした。
「ははは……。ごめんね。私、すぐに喋り過ぎちゃうクセがあって。あ、また私が喋っちゃってるね。ごめん。どうぞどうぞ」
古川さんはそれっきり口を閉じたけれど、今は釈明できる状況ではない。何故って? ほら、よく考えてもみてくれよ。雨の中、校門の前で女子校の生徒が男子と話している。しかもそれが校内では中々有名な嫌われ者と来たもんだ。そりゃあ、注目されるだろう?
「とりあえず、場所変えましょうか」
僕はそう言いながら歩き出した。言葉より先に行動を。そうすればこの人も喋ることはない。
*
「え⁉ 君彼氏じゃないの⁉」
「逆に訊きますけどね、どっからその情報仕入れてきたんですか」
「真央が言ってたことを自分なりに解釈したら、そうなっただけだけど」
雨が降りしきる中、僕は古川さんと共に手頃な喫茶店でも探しながら歩いていた。
「……先輩が僕のことを話したんですか?」
「うん。まぁ、一ヶ月前くらいまでは頑なに話してくれなかったけど、最近はぽつぽつ話してくれるようになってね。話に付き合ってくれる男の子がいるって。そんなのもう絶対恋じゃん。それでいても立ってもいられなくなって突撃してみたわけ」
何だろう。やっぱり、人間っていうのは異性とまぜこぜになっているのが正しい状態で、同性ばかりが集まっていると脳がショートするのだろうか。多分当たってるとは思う。そこそこの自信がある。そうでもなくちゃ、別に知り合いでもない男を尋ねにわざわざ縁もゆかりもない学校まで足を運ぶとは思えないだろ。
「……根負けしたんですかね」
「え? 何が?」
「いや、別に」
猫先輩と古川さんの気が合うものなのだろうか。それは分からない。全ての人間は全ての他者に対する門外漢だから当然だけれども。ましてや、僕の見立てでは、猫先輩と僕は真逆の位置にある。猫先輩の内心を推し量れるわけもない。けれど、何となく納得できる部分もあった。猫先輩は寡黙だけれど話好きだ。一見矛盾しているけれど、それは真実だ。自信を持って言える。だって、そうじゃなくちゃ、猫先輩は僕をわざわざ六回も呼びつけないだろう? そして、寡黙だけれど話し好きっていうのは、言い換えれば話を聞くのが好きってことだ。だったら、放ってても次から次へと話を繰り出す古川さんとは気が合うのも何となく分かる。実際、彼女は今も、僕が意味をすくい取っていないだけで、話し続けている最中だ。
けれど、猫先輩が僕のことを最近まで頑なに秘密にしていたのが少し気にかかった。古川さんがこんな暴挙に出ることを予測していたのか、それとも僕のことをある種恥だと思っているのか……別にどちらでも構わないけれど。だからこそ気がかりで済んでいるわけだし。
「……ちょっと君、話聞いてる?」
古川さんが少々訝しげに僕のことを見ていた。キャバ嬢ばりの相槌が疎かになっていたらしい。
「ああ、すいません。ちょっと雨の音が強くて」
「こんなに近くで話してんのに?」
「知ってます? イヤホン難聴って。イヤホン付け過ぎたらなる例のアレ」
「私イヤホンめちゃくちゃ使ってるけどそんなことになってないよ」
「今は気がついてないだけです。気づいた時には手遅れってのがこいつの恐ろしいところですけど」
「じゃあ、君はもう手遅れってこと?」
「繊細だったらしいですね。僕の耳は」
「……それって私の耳がガサツだって言いたいの?」
「そうなっちゃいますね」
古川さんは可愛らしく頬を膨らませた。
「……そういう関係かどうかはともかく、真央と仲良しなんだなっていうのは分かった」
「え?」
「さっきの言い方、真央そっくりだったよ」
猫先輩と出会った時の記憶が微かに浮かんだ。確かに先輩も僕の言葉にそういう返しをした気がする。
「じゃあ、先輩に謝っといてください。似ちゃってすいませんって」
「何で。謝る必要ないじゃん。それに、謝るにしても直接言いなよ。どうせその内会うんでしょ?」
それもそうだ。多分、二週間後くらいにまた連絡が入るだろう。大体いつもそのペースだ。
「けど、駄弁るのにいい店って中々ないよね。大体混んでるかお高いか……」
「マックかなんかでいいんじゃないですか。そこら中にあるし。ていうか、ちょっと意外です。学校周りの店は知り尽くしてそうなタイプなのに」
「あー……。実際その通りだけどね。あのね、万が一私の同級生に見つかったらちょっと面倒なことになるんだ」
なるほど。マイルド古川さんが量産されるってわけか。
「そうなっちゃったら、君にだけじゃなくて真央にも迷惑かかっちゃうかもだからさ。ごめんね。こんなに歩かせちゃって」
「別にいいですよ。いい運動になる」
「……あんまり運動してないの? だめだよそれは。太っちゃう」
「食わなきゃ太りせんって」
僕は結構な少食だった。基礎代謝が持つ内は、日常生活を送っていれば、特段運動をしなくとも太るってことはないだろう。
太るといえばポオだ。あのデブ猫。猫のことはよく知らないが、あれほど脂肪を溜め込んで健康に悪くないのだろうか。目の前を野良猫が悠々と歩いていく。古川さんが「わぁ」と声を上げた。体毛は黒。丁度ポオと同じ。随分な脂肪を溜め込んでいる。まるでポオだ。
というか、その猫はポオそのものだった。
「どしたの。嫌そうな顔して。もしかして猫アレルギー?」
「……いいえ」
「じゃあ、猫嫌いなの? だったら私とは相容れないなぁ。猫派なんだ、私」
確かに相容れない。僕は秋田犬に心を奪われている。
「えっと……あの猫だけが嫌いというか」
「何それ」
古川さんはポオを警戒させないように、できるだけ静かに、しかしその範疇で可能な限り速く、ポオの前方へと回り込んだ。 今頃彼女はあのふてぶてしい顔を見ているのだろう。戻ってきたところに僕の秘蔵の秋田犬ファイルを見せつけてやれば、犬派に寝返らせることができるかもしれない。しかし、古川さんの反応は予想外のものだった。ポオの顔を見た瞬間、彼女は短く叫び声を上げて口を手で覆った。それが恐れからの行動であればよかったのだが、目に二等星くらいの輝きが浮かんでいるあたり、そうではないのだろう。ポオは驚いたのか何なのか足を止めている。これで逃げないところが可愛くない。古川さんは意気揚々と僕の元へ戻ってくると、ポオを指さしつつまくし立てた。
「ちょっと君‼ 独り占めしたかっただけでしょ‼ 言ってよぉ‼」
「は? 何を?」
「とぼけないでよ! 当然知ってるでしょ! あの猫、この周りで最近話題のルシウスじゃん!」
僕は指を指されているポオを見た。奴は下らなそさそうに「にゃあ」と鳴いているだけだった。
*
どこぞのローマ人テルマエ技師と同じような名前だと思ったが、どうやら由来は本当にそれらしい。
始まりは、一枚の写真がSNSにアップロードされたことらしい。古川さんに見せてもらったのだけれど、落ち葉の中、石で舗装された露天風呂みたいな池にこいつが浸かっている……というか池から飛び出している写真だ。まだこの頃は警戒心があったのか、レンズを向けられたことに対してだろうか、ポオは目を丸くして口を開いて池から飛び出していた。奇跡的なタイミングも相まって、その写真は丁度『テルマエ・ロマエ』のルシウスが銭湯へとタイムスリップするシーンと非常によく似ていた。実写版が数日前に地上波で流されていたこともあって、ちょっとした話題になったという。世間的にはすぐに落ち着いたものの、ルシウス本人? がいるこの街では別で、元ネタの方のルシウスが、ローマのテルマエに新しい知見を持ち込んだということにあやかって、会ったら新しいアイデアが湧くというある種招き猫的なシンボルになりつつあるらしい。
そのルシウス……もといポオはそんな噂がなされていることを知ってか知らずか平然と歩き出した。
「ついて行ってみようよ」
古川さんがポオの後を追い出した。別に行く所もないのだ。ポオに先導されるというのは癪だが、拒否する理由にはあまりに弱い。
「ちょっと考えたんだけどさ」
古川さんがおもむろに話しだした。
「ルシウスと会えて気にしてなかったけど、口ぶりからして、君って前からルシウスのこと知ってたってことになるよね?」
「ああ……。あの猫、僕と先輩が話してる時に、確実に来やがるんですよ」
「来やがるって君ね……いや、ちょっと待った。じゃあ、真央もルシウスのことは知ってたってこと?」
「有名な猫だっていうのを知ってるかどうかは分かりませんけど、すっごく可愛がってますよ」
「ああ、そっかぁ。真央、全くSNSやってないからなぁ」
運がいいんだか悪いんだか。そう言って古川さんは肩を落とした。
ポオはどんどんと繁華街とは真逆の方向へと突き進んでいった。とても喫茶店などありそうにない方向だ。横目で古川さんを見る。彼女はポオに会えたことが嬉しいらしく、気にしている様子は見受けられない。
そして、気づいた時には繁華街どころか、〝街〟であるかどうかすら怪しいような……具体的には、コンクリートが丸ごと木に置き換わったような郊外にまで出てきてしまっていた。
ポオは前方を尻尾を揺らしながら歩いている。街より山の方が落ち着くらしかった。奴の都会的なひねくれた性根には似合わない。
「ねぇ、ちょっと」
「何です?」
「そろそろ引き返さない?」
やっとか。正直、僕はそんなことしか思わなかった。雨の中の山中(山ってわけでもないのだろうけど、コンクリートジャングルに住んでる僕らからしたら山みたいなものだ)なんて、あまり歩くものでもない。
「じゃあとっとと戻りましょう。これ以上奥まった場所に入り込んでもいいことがない」
「うん……そうだね」
古川さんは何かを探すように周囲に視線を差し向けながら答えた。
ポオがこちらを向いて「にゃあ」と鳴いたのはそんな時だ。
「……どういうことか分かる?」
「猫の言葉を理解できる人間がこの世にいるとでも?」
そんな馬鹿馬鹿しい会話を繰り広げる僕たちを蔑むようにふてぶてしい顔を背けると、ポオは再び歩き出した。どこへなりとも行けばいい。そんな風に思いつつ、奴の足取りを眺めていると、ふと、地面がそれとなく舗装されていることに気づいた。少し早足にポオの後ろ姿を追う。少し先が分かれ道になっていた。ポオは右側に進んでいた。こいつと同じ道は選びたくない。反射的に僕は左側を向いた。
「ちょっと君、何も言わずに進まないでって……」
後を追ってきた古川さんも、僕と同じものを見た。年季が入ってこそいるが、しっかりと手入れがなされている家屋がそこにはあった。しかも、僕が、未だ知りえぬ言語を読もうとしているのでなければ、扉の横に置かれた看板には「Cafe」と書かれていた。
ふと、後方のポオを見る。たっぷりと脂肪を溜め込んだ奴の姿は、もうどこかに消えていた。
*
「いやぁ運がよかったね! こんな場所にカフェがあるなんて。まさに隠れ家だよ隠れ家。しかも週一回しかやっていないなんてね。隠れきってるよ‼」
週一で店を開けている時点で隠れきってはないだろうと思いつつも、運がいい、という一点においては同意せざるをえなかった。雨に打たれ山中を歩き回り、しかもそれが盛大な徒労と化しかけていたところを、このカフェに救われたのだ。何とも運のいいことにこの天気のせいか他に客もいない。僕と古川さん、そして客でない人間を数えるとするならば、この店の店主しか店内にはいない。この店主について多くを語るつもりはない。それで納得できない人は君の思うマスターを思い浮かべてくれるといい。それがこの店の店主だ。いや、ふざけてるわけじゃないんだ。本当に絵に描いたような「マスター」って感じの店主なんだよ。僕に絵の才能があれば描いて見せてやってもいいんだけれど。
「あ、君何頼む? というか、コーヒー派? 紅茶派?」
コーラ派なのだけれど、そんな俗なものはこの店にはないらしい。古川さんからメニューを受け取る。ほら、わけがわからない。ダージリンだのキリマンジャロだのやかましいと店主を叱りつけたくなる。大体、苦いか歯磨き粉の親戚みたいな味のする色水でしかないのだし、コーヒー・紅茶=崇高みたいな風潮を作るのを止めて欲しい。何だろうな、バリスタとかソムリエとか、あそこらへんの界隈が悪いのか。憎悪の言葉が渦巻いたものの、こんな静謐な店内ではものを言う気力も失せてしまう。仕方がないので言葉の響きだけでカプチーノを、口直し用としてクッキーを注文した。古川さんは何かしらの紅茶と、週替りケーキなるものを注文する。店主は穏やかに頷くと、準備に取り掛かり始める。
「カプチーノ……コーヒー派か。とことん相容れないなぁ」
さて、彼女は僕が色だけはよく似ている、泡立ち、こってり甘いあの飲み物のフォロワーだと知ればどうなるのだろう。少しは相容れるのだろうか。彼女は店主のほうに視線を向けた。客などいないのだ。もう品物が来たっておかしくない。そう考えたのだろう。でも、彼女はこの店主を甘く見すぎていた。彼は絵に描いたように豆と葉から準備を始めている。この調子ではクッキーを粉から用意し始めても何らおかしくない。中々に時間がかかりそうだ。
「……時間かかりそうだね」
彼女もそれを察したのか、店主の耳には届かないように僕に耳打ちする。
「何か話でもします? というか、そのために来たんでしたね。どうしましょう。先輩の話でもしましょうか?」
「うーん、それでもいいんだけどね——」
彼女は考え込んでから、僕と目を合わせた。
「——今は、君のことを訊きたいかな」
意外な答えに、僕は首を傾げてしまう。
「今日一日……っていってもちょっとだけど、君と一緒にいてさ。結局分かんなかったんだよね」
「何がですか?」
「なんで真央が君と一緒にいるのか」
古川さんの目に、一瞬冷たい光が宿った気がした。
「ううん。完全に分かんないってわけじゃないんだよ。真央が君のことを気に入ってるって言ったら、納得はできちゃうし。何というか、曖昧なんだよ、君。掴もうとしたら煙にまかれる、みたいな。そういうとこを、真央は気に入ったのかもしれないけど」
曖昧、か。そうだな。この人からすれば、僕はそう見えるんだろう。
「……僕のこと、僕が何なのか、ですか。そりゃあ難問だ」
猫先輩と初めてバス停で会った時、質問攻めにされたことを思い出した。古川さんと猫先輩は友人同士なのだ。古川さんの理屈で言えば、彼女と猫先輩の友情が示されたと、それだけの話になる。いや、できる。そうするのだ。彼女の言った通り、煙にまいてやろう。
「そうですね。出生届やら何やら、書類と……そうだな、血でも採血して並べたら証明になりますかね?」
古川さんは、落胆したような表情を見せた。
「そうか」
しかし、その表情は、徐々に憐れみに似た色を宿し始めた。
「それが君なんだね」
気に入らない、声と顔だった。
*
少なくとも、日本の主食は米からこのクッキーに変えるべきではないかと思うほど美味いクッキーだった。カプチーノにしたってそうだ。琵琶湖の水を全部抜いてこのカプチーノにすべきだと切に思ったね。何がいいって、こんなに美味いものを月の小遣い三千円の高校生が躊躇なく買える値段で提供してるってことだ。道楽営業バンザイだよ、全く。
まぁ、それだけ安くても今回は古川さんが奢ってくれたから僕の出費はなしで済んだんだけどね。
店の外へ出る。雨はすっかり止んでいて、厚く暗い雲の隙間から太陽の光が覗いていた。折り畳み傘は持って帰らずに済みそうだ。
会計を済ませた古川さんが店内から出てきた。ケーキが美味かったからか、外が晴れているからか、彼女の顔は穏やかだった。
「ごちそうさまです」
「……ん」
古川さんは、彼女らしくもなく、あまり言葉が出てこない様子だった。
「あ、そうだ。この折り畳み傘返してもいいですか。もう雨降りそうにないですし」
「うん。そうだね。貰っとく」
僕は彼女に折り畳み傘を手渡し、少し彼女の出方を伺った。彼女は、悲しげな笑みを浮かべつつ、何と言うべきか決めあぐねているようだった。しかし、やがて彼女は僕を見据えた。決意のような光が宿った目だった。
「君と話しててさ、一つだけ思ったことがあるんだよ」
「奇遇ですね。僕もですよ」
「一緒に言ってみる?」
「ええ」
一拍おいて、僕たちは口を開いた。
「「いけ好かない奴め」」
ぴったりと、一致した。軍隊の行進もかくやと言うほどにぴったりで、思わず笑みがこぼれた。
「……なんだ」
同じように笑みを浮かべて、古川さんがどこか呆れたように言った。
「ちゃんと、笑えるんだ」
「失礼ですね。僕はいつだって——」
僕が言い終わらない内に、古川さんが僕の頬を引っ張った。
「はひふふんへふは」
「いいか。これは忠告だ。嫌いな人間からの心からの忠告だ。滅多に聞けるもんでもないからよく聞きな」
古川さんの表情からは、笑みなどとっくに消えていた。
「憐れまれたくないのなら、まずはその気味の悪い笑顔を止めることだよ。……そんなに長く生きてきたわけでもないけど、君ほど辛そうに笑ってる奴は初めて見た。見てるこっちまで息が詰まりそうになった……」
頬を引っ張る手の力が弱まった。ひりひりと痛む頬を擦る。
「……無理ですよ。女の人の前では、特に」
「ならせめて、真央の前だけではその顔を止めてくれよ。……そうじゃないと、あの子は……」
報われない。彼女が言い切らなかった言葉を、僕は勝手に補っていた。
「……もう帰ってもいいですか。いっぱい歩いたからかな、今日は——」
胸の淀みを出し切るように、僕は息を吐ききった。
「——今日は、疲れた」
「……うん」
僕は、古川さんに背を向けて歩き出した。
「もう、真央とは——」
古川さんが僕の背中に呼びかける。聞き流してやろうとも思ったが、僕は振り向いて、返事を返した。
「関わるな?」
口角は上がっている。悲しいことに。
「……ううん。これからも、真央をよろしく頼むよ。……君がよければ、だけどね」
会釈すら返さず、僕は帰路を辿り始めた。古川さんも、もう何も言わなかった。
安心してくださいよ。弁解のような、言い訳のような、自分でもよくわからないけれど、そんな言葉を、僕の頭は勝手に紡ぎ始める。今だって、薄氷の上をおっかなびっくり歩いてるような関係なんだ。
今に……そうだ。今に、終わってもおかしくないんだ。
3
「風邪ですか?」
「……ああ、君か。うん。そんなところだよ」
猫先輩はいつものバス停で、ポオを膝の上に乗せながら錠剤を飲んでいた。僕はいつも通り、猫先輩の隣に座る。
「そうだ。これ、忘れない内に。古川さんに返しておいてもらえますか」
「ああ。分かった」
柔らかな、白いタオルを猫先輩に手渡す。古川さん。いい人だけれど、苦手な人だ。そうか。あの人と会ったのも、もう二週間前になるのか。時の流れは恐ろしく速い。
「……美穂が迷惑をかけたね。きつく言っておいたから、もう君にちょっかいを出すことはないと思う。……君にとってはどうかは分からないけど、悪い奴じゃないんだ。ちょっと心配性なだけでね」
「心配性ですか。はは、確かにそうだ。全く参りましたよ。僕と先輩がカップルだとか言い出すんですから」
「君にとってはたまったものじゃなかっただろうね」
「……? 先輩は違うんですか?」
「違うさ。私に想い人なんていないって、美穂は知ってるだろうからね」
「……先輩、僕の気持ちをちょっとは考えてくださいよ」
「どうして?」
「先輩、美人でしょ?」
「自覚はないけれどね」
「美人なんです。で、僕は男だ。男は、基本的には美人が好きなんです」
「……そうみたいだね」
「だとしたら、僕は先輩に振られた形になる」
「君、私のことが好きなのかい?」
「話し相手としては好きですけど、異性としては、どうでしょうね」
笑みを浮かべつつ、僕は言った。
「……それを聞けてよかったよ」
その言葉には、確かに安堵の色があった。少し気にかかって、猫先輩の方を見る。猫先輩は、いつものように無表情で、しかし、確かな優しさを感じさせる手付きでポオを撫でていた。
「……そういや、そいつ、この街じゃ結構有名みたいですよ」
「〝ルシウス〟だろ? 知ってるよ」
驚きかけたが、何ということはない。古川さんが意気揚々とそのことを教えている様子が目に浮かぶ。
「この子のことは前々から知っててね」
一瞬で予想が外れた。
「え、古川さんが、先輩はSNSやってないって……」
「殆どね。ちょっとは使うよ。最も、もう投稿なんてしてないけど……ほら、これだろ?」
猫先輩がスマートフォンの画面を見せてくれた。この前古川さんに見せてもらったあの写真だ。
「これ、写真だけで投稿されてるんですね」
「ん? ああ、そうだね」
別にルシウスとの類似点を示すのでなくとも、『かわいい』だの何だの、一文添えてもよさそうなものなのに。こんなもので何かがわかるというわけでもないけれど、アイコンを見てみる。先が七つに分かれている植物の葉のイラスト。あんまり造詣が深くないから、何の植物かは分からないけれど。
「そいつと一緒にいて、何かラッキーなことありましたか?」
「この子と会えたことが、今のところ一番の幸運かな」
猫先輩は、ポオを慈しむように撫でる。一方、ポオはというと、ただでさえふてぶてしい顔をより一層険しくしていた。撫でられて嬉しいような様子は一切見受けられなかった。
「つまり、幸運は何も起きていないと」
「そういう君はどうなんだい? ほら、誰か気になる人と出会ったりさ」
「……先輩、古川さんに変なこと吹き込まれました?」
猫先輩は微かに首を傾げた。
「先輩らしくないですよ。恋愛の話題なんて」
「失礼だね。私だって花の女子高生だよ。そういう話題の一つや二つ、したって何も不思議じゃない」
そう言われたって、どうにも違和感は拭いきれなかった。
「……気になる人、ですか。そういう意味を引っこ抜いたら、先輩ってことになりますけど、先輩が言ってるのはそういう意味ですよね」
「もちろん」
さて困った。異性どころか、同性との出会いもないこの僕だ。こんな話を振られても、返す言葉は何もない。せめて『最近』ではなく『これまで』に話の範囲を拡張してくれたら、一人くらいはいないこともないのだけれど……いや、あの子のことは駄目だ。こんなところで出せるような話じゃない。
「……恋愛関係というと、あれですね。『初恋』読みましたよ。ツルゲーネフの」
「話題に沿うフリして、派手に外してくるね君は」
「やっぱり駄目ですか? すいません。本当に、恋愛経験なんて毛ほどもなくて」
「別にいいよ。何となく予想できてたし。それにしても君、ロシア文学が好きなのかい? 確か、初めて会った時も『絶望』借りてただろ? 『罪と罰』も読んでたし」
「別に好きってわけでもないんですよ。ただ、僕の中でロシア文学フェアが開催されてただけで」
「随分賑やかだね」
「内容は暗いですけど」
何しろ、やってることが『絶望』では保険金殺人、『罪と罰』も、傍から見たら只の殺人だ。
「で、どうだった?」
新鮮だったというのがその答えになるだろう。何しろ、これまで僕が読んでいた小説のセオリーからは外れる本だったからだ。
「……するにしても、あんな初恋はしたくないと思いましたよ」
けれど、そのことを言いたくはなかった。この時間に水を差したくない。そんな思いがどこかにあったからだ。
「それはそうだね。私だって同じだよ」
「ああ、そうだ。ジナイーダでしたっけ。あの子が可愛かった」
「君、ああいうのがタイプなのかい?」
「いや、全然」
可愛いっていうのと、好きって気持ちは、必ずしもイコールじゃない。四人ぐらいの男相手にそこそこふしだらな遊びをふっかけるような女を好きになるって方が難しいだろう。そんなこと言ったらツルゲーネフが怒りそうだけど。
「……というか、君の好みってどんな人?」
ポオを撫でる手を止めて、猫先輩が訊いた。その様子を少し怪訝に思う。
「言ったら、その通りになってくれたりするんですか?」
「いいや。ただ知りたいだけだよ。初めてここで会った時みたいにね」
あまり、気分のいいことではなかった。『罪と罰』について根掘り葉掘り訊かれた時と同じだ。あの時は『罪と罰』、そして今は僕の好きな人を通して、猫先輩は僕を見定めようとしているのだ。ある人間のことを知りたいのなら、これは最も適切な方法なのではないかという風に思う。直接、自分のことを尋ねられているのなら、いくらでも嘘を吐けるけれど、レンズを通して尋ねられてしまったら、自分の放った答えがどう屈折して伝わるか分からない。心理テストみたいなものだ。
「そもそも、外見のことを言われたって変えられないだろ? そんなの」
「……だったらよかった」
「何が」
「背の低い人なんですよ。好きなタイプ。もうちょっと詳しく言うと、少なくとも僕より低い人です」
「へぇ……」
猫先輩は、つまらなさそうに……いや、既に知っていたことを聞かされたような様子で言葉を返した。
「まさかそれだけってことはないよね?」
何も言わないでいると、猫先輩が淡々と尋ねてきた。
「え……ああ。はい」
参ったな。頭を掻きつつ考える。いや、あるんだよ。背の低い以外にも条件が。そうじゃないとゴブリンだのスプリガンだの、ギリギリ人語を介せるかどうかの連中も僕の射程範囲に入ることになる。でも、残念ながら僕はそこまで先進的な人間観を持ち合わせてはいないし、これから持つ気もない。
じゃあその条件を言えばいいだろうがと思うだろう。うん。その通りだ。だけれど、何が問題かって、その特徴があまりにはっきりしているところなんだ。
白状しよう。僕には好きな人がいる。
霞がかってしまって、全体を思い出そうとすると滲んでしまうけれど、一つ一つの部分、例えば、大きな目とか、小さく笑う口とか、生まれつきらしい茶髪とか、そんなことは余さず覚えている。ならそれを言えばいいじゃないか。別にその子の身元が割れるってことでもないのに、どうして言わない。そんな言葉が聞こえてきそうだ。多分、それを面と向かって言われたら僕は中指を突き立てちまうね。分かるかな? それくらい彼女のことを思い出したくないってことなんだけど。
彼女とは恋人なんかじゃなかったし、何なら友達かどうかも怪しかった。ただ、最悪な別れ方をして、それっきりってだけだ。
……ああ、いけない。ちょっと吐き気がする。強引に思考を打ち切った。
「大丈夫かい?」
心配そうな声色の混じった声で、猫先輩が尋ねた。
「昼に食べたトンカツが胃にもたれまして。ちょっと気持ち悪いだけです。大丈夫。しばらくじっとしてたら治りますから」
笑顔と共にデタラメを言い放つ。僕の昼食はサラダチキン。マイブームは燻製風味。コンビニで適当なサラダと一緒に買って食うのが最近の至福の一時だ。
「だったらいいけれど」
僕の言葉がデタラメだと知ってか知らずか、プレーンのサラダチキンぐらいに淡白に、猫先輩は話を打ち切った。勿論、僕の好みのタイプについて訊いてくることもない。彼女は、ただ黙ってポオのことを撫でていた。
別に沈黙に耐えられないってわけでもないんだけれど、何となくこの状況は気に入らなかった。もしかすると、僕だけが一方的にタイプを訊かれたということに、自分でも驚くけれども腹が立っていたのかもしれなかった。そのことを証明するかのように、僕の口は無意識的に言葉を発していた。
「そういう先輩の好みのタイプはどんな人なんですか?」
猫先輩は、ポオを撫でる手を止めた。すぐには、答えは帰ってこなかった。僕みたいな、間に合わせの答えすらも、だ。猫先輩は額を人差し指でコツコツと叩いていた。脳ミソっていうマンションの記憶って部屋のドアをノックするみたいに。でも、居留守でも使われたのか、力なく手をポオの体の上に置き直すと、寂しげに、しかし嘲るように、声を絞り出した。
「……どんな人だったんだろうな」
砂漠みたいな沈黙が、僕たちの間に流れた。猫先輩の問いは、問いの形すら為していないように思えた。疑問が相手じゃなく空中に消えていっちゃあ、その問いに答えることはできないだろう? この場合、質問に対しての質問なんていうわけの分からないものだから、それ以前の問題なんだけれど。
「そうだな。僕には近いですか?」
質問に質問を。こんな風に破綻しつつある会話だったから、さらに質問を増やしてみる。これで意外に応答になったりするんだ。押して駄目なら更に押せ。引くより有効だと個人的には思うよ。
「……多分、近いと思うよ」
ほらね。
「具体的にはどんなところが近いんですか?」
「ええと……」
猫先輩は僕のことをまじまじと観察し始めた。そんな中でも、先輩と目が合うことはない。
「線が細いところ。それと、気に食わないかもしれないけど、私より背が低いってところ。あとは——」
僕の顔を瞬間的に一瞥すると、猫先輩はすぐに目線をポオに落とした。
「——うん。やっぱり、顔つきが可愛いってところ」
「言ってて恥ずかしくないですか、それ」
「君の方こそ」
気恥ずかしさなど、僕はもうここ一年ほどは感じていない。多分スクランブル交差点のど真ん中で真っ裸になったって、平然としていられるという自負がある。
「にしても、外見のことばっかりじゃないですか。もっと僕の性格に関することで何かないんですか。ほら、『ロシア文学読んでて知的でステキ!』みたいな」
「君、『戦争と平和』読んだことあるかい?」
「ないですよ。あんなクソ長いの」
「ロシア文学を物差しにするなら、あの本を読んでいない時点で君は私より知的じゃない」
降参だ降参。白旗の代わりに手のひらを振った。これで伝わってくれるだろうか。
「それにね、内面を見て欲しいと言うのなら……」
猫先輩は自分の頬を両手で持ち上げた。
「そんな笑顔を止めることだよ」
振っていた手を止めた。自らの顔に手を当ててみる。表情筋と言うのだろうか。とにかく、筋肉に力が入ったままだった。
「……古川さんみたいなことを言うんですね」
「そりゃあ、親友だからね。言動が似たっておかしくないだろ?」
「ああそうだ。古川さんみたいな人はどうです? とことんまで賑やかな人」
強引に話題を逸らされたからか、猫先輩は少し怒ったように口を閉じた。だが、やがて観念したように話し出す。
「人と付き合い出すとはっきり分かるんだよ。どこまで行ったって親友ってカテゴリーで収まる友人と、そのカテゴリーから引っ張り出したくなるような友人にね。美穂は前者なんだ。どれだけ仲良くなったって、友人ってカテゴリーからは出られない」
「つまり、タイプではないと?」
「そう言ったつもりだけれど」
これでまた話はスタート地点にまで戻ってしまった。
「……先輩、他に仲いい人っていません?」
「いないんだよ。困ったことに」
「僕もそうなんですよ。困ったことに」
「それは……何というか、災難だね」
猫先輩は、自分のことを棚に上げて、申し訳無さそうに告げた。いや、まぁ、確かに、猫先輩にとっての古川さんにあたる人間が僕にはいないから、そんな態度を取られても憤ることもできないのだけれど。
「君、それを私に訊いて一体どうするつもりだったんだい?」
「周囲の人間のことを見れば、その人間のことが分かるって言いません?」
「それが正しいとするなら、まずは君自身について知るのが一番の近道じゃないかな?」
言われたくなかったことを。猫先輩に古川さん以外の知り合いがいないとするなら、次に猫先輩に近い人間は僕だということになってしまう。
「……自分を知ることはこの世で最も難しいって、誰か有名人が言ってくれてませんでしたか?」
「言ってそうだけど、具体的な名前は思い浮かないな」
溜息を吐いて、仕方なく自分とは何かなんていうティーンエイジャーらしい思考の沼に陥ってみる。普通はどうなんだろうね。真っ逆さまに落ちていく中、雲やら霞を掴むなんていう無理難題に挑戦するような感覚になるのかな? 我ながら滅茶苦茶な比喩だとは思うよ。だけど、この問題で悩んだことなんてないんだから仕方ないだろ?
自分が何かなんて、分かりすぎて困ってるくらいだ。
「ああそうだ。先輩から見た僕って、どんな感じですか」
「……それはもう言ったじゃないか」
「あれは僕が好みのタイプにどれだけ近いかって話でしょう? 今聞きたいのは、僕がどんな人間かってことです。いいところ、悪いところ……何でも良いですよ。……あ、できればいいところ多めの方がいいですけどね。褒めると伸びるタイプなんで」
猫先輩は僕の冗談にも眉一つ動かさなかった。ただ、顎に手を当てて、真剣に考え込んでいる様子だった。
「そうだな……うん。一言で言うと——」
そこまで言って尚、猫先輩は考えを巡らせていた。時間が経つにつれ、猫先輩の表情にはほんの少し陰りが見え始める。時間にしたら十秒にもならないんだろうけど、数時間は考え込んでいるように思えた。声をかけようかと思ったその時、猫先輩は口を開いた。
「——鏡みたいな人」
「鏡?」
「ああ。鏡だよ。……やっぱり、それが一番しっくり来る」
あまり気分のいい答えではなかった。この鏡って答えからは二通り程の意味が読み取れた。猫先輩がどちらの意味を指しているのか、はたまた、どちらの意味でもないのか、それは分からないけれど、どういう意味にしろ褒め言葉にはならないだろうだから。
「もっと具体的に言えません?」
猫先輩は先程とは比較にならないほど短い間を置いて、話しだした。
「図書館で話しかけただけっていう、限りなく他人に近い関係にある人間の約束を律儀に守ってくれた人間。私としては君のいいところになるけど、世間的に言えばもう少し警戒したほうがいい。そういう意味じゃ悪いところって言えるかな」
〝鏡〟の説明にはなっていないらしい。僕は適当に相槌を返す。僕が真剣に話を聴いていないことを悟ったのか、猫先輩は言葉を続けることはしなかった。
「結局、僕について、大したことは分かりませんでしたね」
「……協力できなくて済まないね」
「いいですよ、別に。僕だって先輩の好みのタイプ、思い出させてあげられなかったんですから」
「そういえば、そんな話をしてたんだな」
無駄なのにね。そう言い添えると、猫先輩は、遠くに視線をやった。
「……無駄ってことはないでしょう。自分が何が好きか知ることは、人生を楽しむために必要不可欠なことじゃないですか」
「そんなことは分かってるよ。私だって、大体のものの嗜好は答えられる。好きな食べ物はクリームコロッケって具合に。……問題なのは、〝好きな〟の後に〝相手〟を入れられないことだ」
猫先輩は言葉を続けようとしたのか、また口を開いたが、何を言えばいいのか思い浮かばなかったのだろう。言葉の代わりに深い息を吐いた。
「好きな相手を訊かれて、何も思い浮かばないってだけじゃないんですか?」
僕が尋ねると、猫先輩は表情を歪めた。猫先輩の顔に表情らしきものが浮かぶのは初めてだったから、僕は少し驚いた。猫先輩も自分が顔に感情を浮かべていることを自覚したのか、少し焦ったような様子で元の無表情を取り繕った。
「……何か、気に障ることでも?」
僕の言葉を聞いた途端、猫先輩の口元に柔らかな笑みが浮かんだ。見惚れるって感覚を覚えたのは久しぶりだった。何となく、猫先輩から目を逸してしまう。
「いや、安心していいよ。別に気が立っているわけじゃない。……そうだな。うん」
猫先輩は何かを決めたようだった。猫先輩には、憑き物が落ちたような、弛緩というべきなのだろうか。そんなものが見受けられた。
「宿題にしようか」
「……何をです?」
「私がどうして、好きな相手って概念も想定できないのか。次に会う時までに考えてみてくれ。……当たったら、何かプレゼントがあるかもね」
猫先輩はポオを膝から下ろすと立ち上がった。ポオの顔からはふてぶてしさが少しだけ薄れているように思えた。すぐにせいせいしたというようにふてぶてしく歩き去っていったから、本当のところは分からないが。
「もう帰るんですか?」
猫先輩は何も言わず、ただ腕時計を指さした。もうすぐで一時間。そんなに長く話していたのかと少し驚く。
「それじゃあ、またね」
僕に背を向け、猫先輩は去っていった。僕は、猫先輩の姿が見えなくなった後もしばらくバス停のベンチに座り込んでいた。猫先輩の出した宿題。そのことについて考えていたからだ。最も、答えについては殆ど確信に近い予想を立てることができている。問題なのは、猫先輩がわざわざこんな宿題を出した意味だった。まぁ、それも一つしかないのだけれど。
猫先輩は、僕たちの関係を次で最後にするつもりらしい。
*
二週間が経っても、猫先輩からの連絡はなかった。けれども別に寂しいなんてことはない。それに、猫先輩からの宿題を解くにあたっては、時間はあればあるだけよかった。
この二週間と少し、僕は学校が終わるや否や、図書館に入り浸っていた。蔵書は微妙だけれど、僕の目的は電子書籍扱いの新聞のアーカイブだ。最も、僕の目的の記事が見つかるかどうかなんて分からないけれども。実際に、二週間もここに入り浸っても、それらしい記事は見つかっていない。それにしてもブルーライトってのは恐いね。もう目が疲れてくる。ちょっとばかし休憩しようと、図書館据え付けのパソコンの前を離れる。
「あ……」
「お」
僕の視線の先には古川さんがいた。彼女は、僕を認めると同時に、悪友に会ったようないたずらっぽい笑みを浮かべてこちらに駆け寄ってくる。
「久々。一ヶ月ぶりだね」
「本を読む人間とは思いませんでしたよ」
「失礼な奴だな……確かに、本は読まないけど」
唇を尖らせ、後半ははっきりしない声で、古川さんが言った。
「なら、どうしてここに?」
「もう見たい動画とかアニメとかも切れてきてさ。漫画買うにしてもお金足りないし。何かいい暇つぶしがないかって真央に訊いたら、『本読め』って言われてさ。学校の図書館も覗いたけど、ムズカシそうな本ばっかでね。ここならまだ楽しそうな本あるかと思ってきたんだけど……あ、そうだ。君のおすすめ教えてよ」
「星新一でも適当に読んでればいいんじゃないですか?」
代表作が五十ページもない、読書初心者の強い味方だ。間違いない。
「……真央に自慢できる?」
「本って自慢のために読むものじゃないと思いますけど」
「それは分かるんだけどさ……ほら、私、本は……ええと、なんだっけ、そうだ。強迫観念に駆られてないと読めないと思うからさぁ、ね?」
「……『カラマーゾフの兄弟』でも読めばいいと思いますよ」
「確実に挫折すると思うんだけど。それ」
意外にもそのタイトルに聞き覚えがあったらしく、古川さんは露骨な抵抗をその顔に浮かべた。
「人に訊いてそんな嫌な顔するなら、もう自分で選んでください」
「むぅ……」
古川さんは本棚をしばらく眺める。
「もうこれでいいや」
『パン屋再襲撃』を古川さんは手に取った。大丈夫なのかな。村上春樹だけれど。心配にはなったが、これ以上こんな相談に付き合うのも嫌だった。古川さんにハルキストの素質があることを僕は心中で祈る。
「えーっと……これ借りるのはどうしたらいいの?」
「カード持ってないなら、あそこで手続きしないといけませんよ」
「え、あ、そっか。カードとかいるんだ」
古川さんは急ぎ足でカウンターへと向かう。ここで手続きをした際の遠い記憶を引っ張り出す。開館の日程など諸々の説明で五分くらいはかかっただろう。その間に少しでも調べ物を進めておかなくては。ええと……さっきまで見てた年数は……。
数年前の懐かしいニュースを読み流しながら、目的の記事を探す。もうそろそろ見つかってもいいころなのだが、中々見つからない。これも違う。これも違う……。
……あった。あまり分量もない記事だ。もう一度読み直す。うん。間違いない。時期も場所も同じだ。すばやくカウンターに目を向ける。古川さんが司書と話していた。まだ手続きは終わっていないらしい。僕はさっさとこの記事の貸出手続きを済ましてしまうと、とっととログアウトする。これで二週間はこの記事をスマートフォンやらパソコンやらで自由に見られるわけだ。便利なもんだね。
「お待たせー! 借りれたよ! ……でも、勢いだけで借りちゃったけど面白いのかな。これ」
「さぁ、どうでしょう」
少なくとも、『風の歌を聴け』よりは楽しめた記憶がある。短編集だし読みやすさも上だろう。
「ま、それは読んでみれば分かるからいいや。それより君、これから時間ある? ちょっと話したいことあるんだけど」
「大丈夫ですよ。あ、でもちょっとだけ待ってくれます? 暇つぶしの本借りたいんで」
「この文学少年め」
褒め言葉なのだろうか。そういうことにしておこう。その方が平和だ。それにしても、燃え尽き症候群だろうか。古川さんのことを馬鹿にできないくらい別になんの本でもいいやという気になっている。ふと、ある本が目に留まった。『重力ピエロ』。あの日、猫先輩が借りていた本だ。これでいいや。青い背表紙の文庫本を手に取ると、僕はカウンターまで歩いていった。
*
「真央がね、最近変なんだよ」
開口一番切り出されたのはそんな話だった。
「変って、どんな風にですか?」
「一見普通なんだけどね。何というか……言葉にしにくいんだけど、悟ったみたいな。とにかくそんな感じになってるんだよ」
「いいじゃないですか。解脱できますよ」
「真面目に聞きなさい」
古川さんは僕を睨みつけた。
「見れば一発なんだけど、何というか、笑いはするんだけど希薄なんだよ。この世から消えちゃいそうな……そんな感じ。二週間くらい前からかな。君、何があったか知ってる?」
やっぱり。予想通りだ。
「そのくらいに、先輩と会って話しましたけど」
「何話したの」
古川さんが間も置かずに訊いてきた。
「……もしかして、僕が変なこと言ったって疑ってます?」
疑っていたとして、その疑いは半ば正解なのだけれど。
「君がそんなこと言うとは思えないんだけどね。ほら、自分にとっては何気ないことも、相手にとっては傷になるようなこともあり得るでしょ?」
僕はあの時、それを承知で話していた。
「お互いの好みのタイプについて話しましたよ」
古川さんは、顔を赤黒くして口を開いたが、怒号を飛ばすようなことはせず、ただ、やるせないような顔をして唇を噛み締めた。
「……すみません」
そんな方向に話を持っていけば、今の状況がやってくることは分かっていた。ここでだんまりを決め込むのは、流石に良心が咎めた。
「謝るなよ。君だって、もう止めにしたかったんだろ?」
古川さんは、悲しげに大きな溜息を吐いた。
「……真央に男の子の友達ができるのかもって、思ったのにな」
しばらく、僕と古川さんは何も言わずに歩いた。前と違って、今日は目的地もない。あのカフェは開いているのだろうかと、ふと疑問に思う。あの日は何曜日だったか。多分、今日とは曜日が違うから空いてはいないのか……でも、もし空いていたとして、古川さんが一緒に行ってくれることはないだろうと思う。
「……古川さん。ちょっと質問いいですか」
「……何?」
「先輩って、古川さんと目線合わせます?」
古川さんは、呆れたように笑った。
「私が、目も合わせてくれない人のことを大親友なんて呼ぶと思う?」
分かっているくせに。言外に、その言葉が含まれている気がした。
「ありがとうございます。……あっ」
スマートフォンが振動する。LINEの通知。猫先輩からだった。『明日の十六時、いつものバス停で。宿題、忘れてないよね?』。いつもより温かみのある文面が、逆に悲しかった。
「……真央から?」
古川さんの言葉に、僕は頷きで答えた。
「そっか」
古川さんは、何かを諦めたかのような、けれどもどこか清々しい笑みを浮かべると、僕の手に何かを押し付けた。
「何です、これ」
「餞別。受け取っときなよ」
メープルクッキー。袋を括るリボンには、カエデの葉のイラストと共にそう書かれていた。
「あの店のクッキーだよ。あの後も何回か行ってたら店長さんがくれてさ。でも、私メープルシロップとか好きじゃないから君にあげる」
「いいんですか? 主食にしたくなるくらい美味いのに」
「何言ってんだよ、君は」
けらけらと古川さんは笑った。ひとしきり笑うと、古川さんは僕の頬を掴んだ。
「はひふふんへふは」
「君に善意で真面目な話をするときには、こうしようと思って。……もう会えるかも分かんないけど」
図書館に行けば高確率で会えますよ。そう言ってもよかったのだが、両頬がつねられている以上まともに発音ができない。僕は古川さんの言葉を待ち受けた。
「後悔は残さないでくれよ。真央にとっても、君にとってもね」
それだけを言うと、古川さんは僕の頬から手を放した。そして、肩を強く叩く。
「ファイト!」
古川さんは僕に背を向けて走り去っていった。相変わらず風みたいな人だ。一緒にいて疲れる。けれど、悪い気分がしないから困る。さて、適当に歩いたからかあまり見覚えのない場所に出てしまっていた。どう帰ればよいのやら。グーグルマップを開こうとすると、目の前を黒い毛並みの、太った猫が歩いていた。ポオだ。いつも通りふてぶてしい。にしても、今日は知り合いによく会う日だ。僕としては、静かな生活が希望なんだけど。……けれど、こういうのも悪くはないかもしれない。そこまで考えて、首を横に振った。焦がれたって無駄だ。古川さんにしろ、ポオにしろ……僕と彼女たちを繋いでいたのは猫先輩なのだ。
その猫先輩との関係は、明日で終わってしまう。だとすれば、願うだけ無駄だ。
ああ、そうだ。しておきたかったことを思い出して時計を見る。四時過ぎ。まだ間に合う。あまり気が進まないながらも、僕はポオの後を追った。
4
体が重かった。当然だが、バス停へ向かう足どりの一つ一つも重かった。昨日徹夜して『重力ピエロ』を読み切ったせいだろうか。それともポオについて行ったからか。理由としては両方あるのだろうけど、どちらも違うような気がした。だとすれば、猫先輩との別れを惜しんでいるのだろうか。……仮にそうだとしても、そこから何か解決策が浮かぶわけでもない。僕と先輩の関係は、絶対に正しくない。これだけは、確かだ。
猫先輩は、その顔に浮かべている消えてしまいそうな笑みを除いてはいつもと同じだった。正面から見てベンチの右側に座り、ポオを膝に乗せている。猫先輩は僕の姿を認めると、ポオを撫でる手を止めた。軽く会釈をすると、僕はベンチの左側に座る。しばらくは、何も会話は起こらなかった。相手の出方を伺っているというよりは、ただ、静けさを味わいたいがために沈黙を保っているという風だった。
「いい、天気だね」
沈黙を破ったのは猫先輩だった。猫先輩は、視線を空へと向けていた。もう夏も近い。四時を回ったというのに、まだ日は高かった。
「ええ。本当に」
僕は毒にも薬にもならないような言葉を返す。再び、猫先輩と僕の間に静寂が流れた。風が木の葉を撫でる音だけが耳を打った。ポオは眠ってでもいるのか、全く鳴かない。こうも静かだと、静けさに体が溶けていくような錯覚に陥る。体の輪郭も、時間間隔もないまぜにして、ただ音のない中に溶けていく……。目を閉じて、その感覚に身を任せていた。
「……宿題、覚えてる?」
その感覚から僕を現実へと引きずり戻したのは、どこか躊躇うように発せられた猫先輩の声だった。もう、引き返せない。引き金は、猫先輩が引いてしまったのだ。
「……ええ」
僕は、スマートフォンを取り出した。ログインするのは図書館のホームページ。二週間通い詰める中で覚えてしまったカード番号とパスワードを打ち込んでマイページを開く。迷わず借りている書籍のアイコンをタップした。冊数は二冊。一冊は昨日借りた『重力ピエロ』。そして、二冊目は二週間かけて探し当てた新聞だ。後者の欄にある、「閲覧する」のアイコンをタップする。僕のスマートフォンの画面に、読めないくらいに縮小された新聞記事が表示される。何ページに目的の記事があるのかは分かっていた。淀みなく、ページをめくっていく。猫先輩は、変わらず、その顔に笑みを浮かべながら、ポオを撫でていた。この笑みも、今から消えてしまうのだろう。けれど、ページをめくる速さが淀むことはない。そして、目的のページに辿り着く。僕は、その部分を拡大し、読めるかどうかを確かめた。少々文字が粗いが、この程度なら読めるだろう。一度大きく深呼吸をする。猫先輩のポオを撫でる手が止まった。
「先輩」
猫先輩の方を向かずに、僕は言った。
「これ、見てくれませんか」
スマートフォンを猫先輩に差し出す。そして、恐る恐る、猫先輩の方を見た。
画面を見た瞬間、猫先輩の呼吸が一瞬止まった。猫先輩は画面を凝視していた。猫先輩の体が震え始めた。震動を不愉快に思ったのか、ポオが不機嫌そうに鳴き声をあげる。猫先輩の呼吸は、先程一瞬止まった分を取り返そうと、尋常ではなく速まっていった。僕は急いで、スマートフォンを猫先輩の前から引っ込めた。やっぱり、こうなるか。猫先輩は、ポオを抱きしめるようにして身を縮ませ、呼吸を整えていた。やがて、先輩の呼吸は規則正しさを取り戻し始め、外から見える異常も、微かな体の震えくらいになっていた。もう、大丈夫だろうか。僕は猫先輩に話しかけた。
「すいません。こんなもの見せて。……でも、証拠がないと、いけないと思って」
この宿題に点数が付くとしたら、僕の解答は百点なのだろう。何しろ、模範解答を貼り付けて提出したのだから。
「これの被害者、先輩のことなんですよね」
僕の見せた新聞記事の見出しにはこうあった。
『K市強姦犯 逮捕』
*
僕の質問に対する答えはなかった。なくたって構わなかった。別にここで平手打ちを食らって、猫先輩がどこかへ行ってしまおうが僕は驚かなかったし、その覚悟もできていた。けれど、猫先輩はどこにも行かなかった。ただ、身を固めて、自身の身の震えを止めようとしていた。
「……どこで」
息も絶え絶えながらに、震える声で、猫先輩は言った。
「どこで、分かったの?」
色々と、手がかりはあったのだ。さて、どこから話そう。
「……目線」
「え?」
「目線ですよ。先輩、絶対僕と目線合わせないでしょう? 変だなと思って。単純に好かれてないのかなって思ってましたけど、そんな相手と七回も会わないだろうとも思うし、どうにも辻褄が合わない。人見知りなのかとも思いましたけど、そんな人が図書館で見ず知らずの人間に、ああも流暢に話しかけられるとは考えにくかった。それに、古川さんに訊いたんですけど、先輩、古川さんとは普通に目を合わせるらしいじゃないですか。それを聞いて僕は考えた。僕と古川さんの違いは何だろうって。色々考えたけど、結局は単純な場所に落ち着いた。つまり性別です。先輩、男性恐怖症なんでしょう?」
猫先輩は何も答えなかった。正解、ということでいいのだろう。
「他にもありますよ。例えば、僕たちが話す時間だ。きっかり一時間。先輩は一時間以上は絶対に話してくれなかった。この一時間って、精神安定剤の効果時間なんじゃないですか。ほら、この前飲んでた薬がそうなんですよね?」
「……ああ」
どこまでも弱々しい声で、猫先輩が答えた。
「極めつけの証拠は、そいつが教えてくれましたよ」
僕はポオを指さした。猫先輩の虚ろな目も、つられるようにしてポオへと向く。
「こいつの毛並み、見てくださいよ。野良猫のくせしてやたらと綺麗だ。どっかで風呂でも入ってんじゃないかと思うくらいに。僕はそれがちょっと気になった。だから、調べてみようと思ったんですよ。幸い、こいつの入ってる風呂に関するヒントならありましたから」
僕は件の〝ルシウス〟が生まれるきっかけとなったあの写真をスマートフォンに表示させた。
「こいつの入ってる池です。周囲が石で舗装されてる。明らかに人の手が加わってますよね。けれど、その舗装の外側を見てみると、これは完全に山の中だ。こんなに落ち葉があるんだから。この近所でこんな場所、そうそうあるもんじゃない。で、僕にはこういう場所にちょっと心当たりがあった」
言うまでもない。あのカフェだ。しかし、あのカフェにあんな池はなかった。だとしたら、この池は分かれ道のもう一方にあると考えるのが自然だろう。それが分からなくたって、ポオの後をつければよかったが。
「探してみると、何というべきか……やっぱり、自然の中っていうのがいいんですかね。この池を持ってるのは、児童精神科の診療所でしたよ」
猫先輩は、自身の反応が見られることを恐れるようにポオのことを抱きしめた。
「先輩、前々からずっとそいつのこと知ってたって言ってましたよね? ここでも一緒にいた……あれって、こいつがどこで何をしてるかある程度分かってたからできたんですよね? このことは、先輩があの診療所に通ってるってことを示してると思うんです。そいつの先輩にとっての役割は……あれ、なんて言ったかな、そうだ。ライアンの毛布。あれに近いんでしょう?」
あの山の中で、古川さんは何かをちらちらと警戒していたようにも見えた。あれは、僕の目に診療所が……大親友の最大の秘密が映らないかどうかを心配していたのだろう。ああそうだ。古川さんと言えば。
「古川さんが僕を訪ねて来たのだって、僕が先輩に危害を加えていないか確認するのが目的だったんでしょうね。過去に恐ろしい目に遭っている友人が男と関係を持っている……優しい人間なら何よりも心配が勝つでしょうから」
「……余計なお世話さ。本当に」
猫先輩は空元気を振り絞り、嘲笑うように言う。こんなことになるのなら、古川さんの行動は間違っちゃいないなと、僕は納得した。
「で、その記事は、どうやって見つけたのかな?」
僕は再び、スマートフォンの画面を猫先輩に差し出した。それを見て、猫先輩は表情を歪ませた。
「……恐いですよね。インターネットって。一度外に出た情報はどうやっても消えない」
僕の携帯の画面には、今よりも幼い顔立ちの猫先輩……つまり、中学校時代の猫先輩が映し出されていた。
「先輩、僕がSNSやってるのかって訊いた時に、〝もう〟投稿はしてないって言ってたじゃないですか。あれってつまり、昔は投稿してたってことになりますよね? 探してみたら出てきましたよ。下世話な奴なのか、単なる下衆か……先輩の投稿をコピーした奴が」
投稿日時から、事件の大体の日程が割り出せる。地名は中学校名が判明すれば分かる。後はその二つを手がかりに、ネットニュースや地方新聞を調べていけばいい。僕はネットニュースのコメントが嫌いだった。猫先輩にもどんな悪影響が出るか分からない。だから、事実だけが記載されている新聞を選んだのだ。苦労はしたが、猫先輩の姿を見てしまうと、これでも罪悪感が募る。
……あと、これは弱いけれど、猫先輩が読んでいた本も、手がかりといえば手がかりだった。『変身物語』にはカイネウスの神話が所収されている。元々はカイニスといった美女が、ポセイドンに強姦され強い男の肉体を求める物語だ。『重力ピエロ』も、兄と、強姦の末に生まれた種違いの弟との物語だった。全く、何というか、僕と似たようなことをするなよ。
「……訊きたいことが、あるんじゃないのか」
ひとしきりの説明を終え、僕が黙っていると、猫先輩が口を開いた。
……その通りだ。これだけは訊かないと、僕の腹の虫は収まらない。大体、猫先輩の素性なんて初めて会った時から感づいていた。だからこそ、あの推理が成り立ったのだ。例えば、目線の話で言えば、僕と、親友の古川さんとじゃ比較は難しいだろう。相違点が多すぎる。それでも性別が差であるとしたのは、僕が猫先輩が強姦の被害者だと考えていたからだ。勿論、旺盛な想像力と悪い趣味があれば、この前提がなくたって答えは導き出せただろう。けれど、僕にはそれはない。僕はホームズでも、ポアロでもないのだ。
「ええ。ありますよ。先輩——」
なら、僕は何なのか? 問いが脳内でこだました。そんなもの、決まり切っている。目一杯の笑みを浮かべて、僕は言い放った。
「——この強姦殺人犯に、一体何の用ですか?」
*
「下らない嘘はよせよ」
吐き捨てるように、先輩が言った。
「知ってくれてたんですか」
「……知りたくは、なかったんだけどね」
猫先輩は俯いた。
「冤罪なんだろ。本当の犯人は、事件当時、君の横で死んでた男だ」
「ご名答」
全く、思い出したくもない。死体なんて、下手したらビッグフットより珍しい。
ああ、これじゃあ分からないな。順を追わないと。とは言っても、短い話なんだけどね。
僕には好きな人がいるって言っただろ? 僕より背が低くて、はにかんでるみたいな笑い方が素敵な女の子。防衛機制って言うのか分からないけど、顔も名前も思い出せない。でも、たまらなく好きだって気持ちはいつまでも消えない。
彼女とは、中学の時に何かの係で一緒になったんだと思う。おぼろげに思い出せる記憶の中では、僕と彼女はいつも二人きりだった。僕も彼女も、人の輪の中に入っていけるような人間じゃなかったしね。何を話したのかはあまり覚えていないけれど、きっと楽しいことに違いなかった。僕は彼女に次第に惹かれていった。
男と歩いている彼女を見たのは、もう少し経ってからだった。ああ、何だ。相手がいたのか。取り繕ったつもりだけれど、その時の僕を見てる人がいたのなら、僕が落胆しているのが目に見えて分かっただろうね。そりゃもう、笑っちゃうくらいに。仕方がない。彼女は目立ちはしなかったけど可愛らしかったし、僕の他に惹かれる男がいてもおかしくない。ただ、徒競走に負けたようなもんだ。それだけ……。言い訳を重ねて、普通なら引き下がるところだった。けれど、彼女とちょっとは一緒にいたからかな。分かったんだよ。どう見たって彼女はその男と親密じゃなさそうだった。怪しい。やっかみ混じりの感情で、僕は二人を追った。尾行なんてしたことなかったけど、案外上手くいくもんだ。元々目立ちにくいタイプなのが効いたかな。
で、彼女達は誰も使っていないような、錆びついた小屋の中に入っていった。あの時ばかりは背筋が寒くなった。無我夢中って言葉を初めて実感できたよ。僕は小屋に押し入った。そこからはもう察せるだろう? 案の定、制服をはだけさせて、目に涙を浮かべてガタガタと震えている彼女と、暗い笑みを浮かべている男がいたってわけだ。それを確認した瞬間、僕は男にぶち当たった。完全な不意打ち。構えてもなかった男はそれだけでバランスを崩した。それで、僕たちは二人仲良くドアの部分に突っ込んだんだ。老朽化のせいだろうね。呆気なくドアは外れた。それで終わればよかった。だったら、彼女に「逃げろ」なり何なり言って、この男を食い止める。多少どころじゃ済まない怪我をするだろうが、別にそれでもよかった。彼女が助かるのなら。でも、幸か不幸か、もっと別のことが起こった。小屋の壁には、材木が立てかけてあった。それが、僕の体当たりの衝撃でバランスを崩し、僕たちの方へ倒れ込んできたのだ。ああそうだ。これはどうでもいいんだけど、男は背が高かったんだよ。え? 何が言いたいかって?
男の頭にだけ、材木が当たったんだよ。
あの光景は生涯忘れないね。男の、材木が当たった箇所には赤黒い血がこびりついてた。やっぱり、死体と生きた人間って違うもんなんだね。一ミリも動かないんだよ。でも僕はその時はあまりショックを受けていなかった。あの子が危険な目に遭わない。それが分かったからだ。そうだ、彼女に大丈夫かどうか訊かないと。彼女は、顔を青白くし、体を震わせて、立つこともできない様子だった。どうやったら安心させられるだろう。必死で考えていたからか、僕は自分が置かれている状況に気づかなかったんだ。後ろで短く悲鳴がした。僕と同じ学校の制服を着た女子だった。
ここで、ちょっと考えてみて欲しいんだよ。服をはだけさせて、泣いて震える女の子が一人。そして、その前で立ってる男が一人。ついでに言うと、その横には死体が一つ。
ここから、さっき言ったような状況を類推できるかな?
できないから、今の僕がいるんだけど。
*
僕が彼女を犯そうとして、人を一人殺した。
びっくりするくらい速く、そのニュースは広まった。警察とかも色々調べて、少なくとも故意の殺人である可能性は限りなく低いって結論を出してくれたけど、つまんない事実は面白い嘘には負ける。数ってのは恐い。さらに悪かったのは彼女がショックで何も話せなかったことだ。そんなこともあって、僕は家族諸共、元いた土地を追われる羽目になった。でも、噂ってのは恐いもので、いつの間にか今の学校でも広まっていた。頑張って調べれば僕が悪くないってことは分かるらしいけど、そんな労力を他人にはかけないだろう。だから僕は嫌われ者になった。笑顔が止められなくなったのはこの辺からだ。知ってる? 辛さが度を超えた時って、涙よりも先に笑いが出るんだよ。殺人が起きる小説を読み漁ったのは、いっそ本当に殺人犯だったらって思ったからだ。でも、所詮は作り物だね。全く役には立たなかった。だからもう止めたわけだけど。
え? 何? うるさい?
こっちの台詞だ。
ちょっとは、話を聞いてほしいんだよ。
「……最初は、復讐のつもりだった」
猫先輩がぽつりぽつりと話しだした。
「どうして私が、あんな目に遭って、その上、外もまともに歩けないようにならなくちゃいけないんだって……腸が煮えくり返った。必死で、学校には行けるようになった。事情を知った上で、私を受け入れてくれる友達もできた……けれど、この怒りは収まらなかった。君のことを知ったのはそんな時だった」
先輩は、両手を握りしめた。
「強姦殺人犯がのうのうと学校生活を送ってるってね。許せないって思ったよ。君のことは調べればすぐに出てくる。会ってやろうって思った。爆ぜそうな嫌悪感と吐き気には薬で蓋をした。尾けてみると、君は図書館に行った。ここで少しだけ疑問が湧いたんだ。どんな本を読めば、こんなふざけたことができるんだって……。殺すのは、それを知ってからでも遅くはなかった」
猫先輩は古川さんに僕のことを頑なに黙っていた。あれは僕との接点を隠すためだ。クローズドサークルなんて普通ないんだ。探偵の目から逃れるためには、被害者との接点を失くしてしまうのが一番いい。
「けれど、君と話している内に、本当にこの子が私の憎む相手と同類なんだろうかって思うようになった。貼り付けたみたいな笑い顔、取ってつけたような冗談交じりの喋り方……私はもう一回君のことを調べてみることにした。そしたら、はは……笑い話だ。君は被害者だって言うじゃないか」
自棄になったように、猫先輩は笑い出した。
「君の笑顔の訳が分かったよ。こんな馬鹿なことがあるか。私が恨みを託そうとしていた相手が、自分と同じだったなんて」
猫先輩の笑い声は、次第に小さくなっていき、やがて消えた。猫先輩は、唇を噛み締めていた。
「……なぁ、君。教えてくれよ。この恨みを誰にぶつけたらいいんだ?」
知るか。そんなもん。
「神様にでも託せばいいでしょうよ。裁きくらいなら、下るかもしれませんよ」
「裁きなら下ったさ。強姦殺人他余罪多数で死刑判決だと」
なら、僕にはもうアテがない。口を閉じて、猫先輩の言葉を待ち受ける。
「……神様には優しさが足りないよ。裁きを下す、奇跡を起こす……そんな大層なことができるのに——」
猫先輩の顔には、再び消え入るような笑みが浮かんでいた。
「——傷は舐めちゃくれないんだ」
今度こそ、猫先輩は黙り込んでしまった。鳴き声の一つでもあげてくれればいいのに、ポオはいつも通りのふてぶてしい顔で猫先輩の膝の上に乗っているだけだった。そんなポオを撫でる猫先輩は、なんだか酷く小さい、子供のようにも見えた。僕は、おもむろに腕を広げていた。
「……何だい、それ」
「抱きしめてあげましょうか?」
猫先輩は苦笑する。
「遠慮しとくよ」
だろうな。そうじゃないと。僕たちは硝子細工みたいなものなんだ。
そんなことをしたら割れちまう。
猫先輩は遠くを見つめて、漏れ出たような声で言った。
「私達は、どうやったら救われるんだろうな」
何を今更。そんなもの、決まり切っている。
「幸せになれれば、ですよ」
けれど、その方法が分からないから、僕たちはどん底にいるのだ。
「そんなことができれば、復讐にもなるのかな」
「あるいは、そうかもしれませんね」
「……そっか」
僕の言葉を聞くと、先輩はポオを僕の膝の上に移し立ち上がった。ポオが不愉快そうににゃあお、と鳴いた。
「何するんですか」
「一緒にいてやってよ」
どちらに向けた言葉なのかは、分からなかった。
「……はっきり言うとね。君のことは、多分、初めて君を知った時よりも嫌いだと思う。私の復讐を散々にして。全くさ、考えるだけでイライラしてくるよ」
嘲るような笑い声を混じらせ、猫先輩は言った。
「だから、もう帰るよ。しばらく一人になりたいんだ。寂しかったら、その子に話しかけな。最も、猫と話す変人だと思われるのがオチだろうけど」
猫先輩は、僕に背を向けて歩き出した。しかし、すぐに足を止める。
「……長い間、話に付き合ってくれてありがとう」
猫先輩の足が再び動き出す。
「待って!」
殆ど反射的に、僕は叫んでいた。
「また……また、会えますか」
自分で言って、笑いそうになる。答えは決まってるじゃないか。猫先輩が振り返った。
「んな訳ねぇだろ。馬ァ鹿」
はっきりと僕と目を合わせて、どこまでも似合わない笑い顔で、猫先輩は言い放った。後ろ姿を、僕は見守る。すぐに脇道に入って、見えなくなった。膝の上では、ポオがふてぶてしい顔でこちらを見ている。背中を撫でてやる。人慣れしているのか、全くと言っていいほど抵抗はなかった。
「先輩、もう会ってくれないんだってさ」
ポオは何も言わない。こう見ると、いつものふてぶてしい顔がどこか貫禄あるものに見えてきた。
「〝ルシウス〟の力もここまでってわけか」
さぁ、これからどうしよう。元の生活に戻るだけなのだけれど、それが恐ろしく暗く、空虚なものに思えた。少なくとも、学校には行きたくないな。いっそのこと、転校してしまおうか。なぁ、ポオ。どうすればいい? 鳴き声の一つも、ポオはあげてくれなかった。次第に、鼓膜を打つエンジンの音に気がついた。バスが近づいているのだ。ああ、どかないと。今はバッテン印を作る気力もない。しかし、ポオが重かった。猫先輩はよくこんなのをいつも膝の上に乗せていたものだ。足は痺れなかったんだろうか。ポオを掴んで脇に退けようとする。しかし、中々上手く行かない。何せ重い。悪戦苦闘している内に、エンジン音のリズムが遅くなっていく。ああクソ。謝らないと。車窓に目を向けた瞬間だった。
信じられないものを見た。
ポオを持っていた手から力が抜けた。僕の目線は、その少女に釘付けになっていた。茶色の髪、大きな目、身長は変わってない。あの時のまま。バスが停車すると、その子は立ち上がる。その子以外に降りる客はいないみたいだ。
「どうして」
誰に言うでもなく、自然に言葉が漏れていた。なんで、この子が。頭の中の靄が急速に晴れていく。それと同時に、凄まじい勢いで頭が回転していく。ああ、そうだ。猫先輩の言葉を思い出す。「本当の犯人は、事件当時、君の横で死んでた男だ」。
どうして猫先輩が、あの男が僕の横で死んでいたと知っていたのか? 当て推量? する意味もない。現場で死んでいたと言えばいい。なら、考えうることは一つだ。当事者から話を聞いたってことになる。一体誰から? 当然僕からではない。目撃者からか? 違うだろう。聞き込みでもしなけりゃ、目撃者が誰かなんて分からない。猫先輩にそんなことができるとは思えなかった。なら、当事者はあと一人だけだ。けれども、一体どこで……。にゃあ。ポオが鳴いた。うるさいな。今いいところなんだから——。
ピースが、嵌った。
あの、〝ルシウス〟の写真を投稿したアカウント。あの投稿には文がなかった。これは完全に推測だが、あの投稿は、リハビリのようなものだったのではないか? まだ、言葉を発信するには勇気が足りない。けれど、写真なら、と。そうだよ。彼女はショックからか何も話せなかったじゃないか。それに、あのアイコン。古川さんからクッキーを貰った時、どこか既視感があると思ったんだ。あのアイコンの葉は、クッキーのリボンのイラストと同じだ。頭の中の靄は、今や完全に晴れていた。メープルクッキー……彼女の名前、楓じゃないか。
彼女がルシウスの写真を投稿したと言うのなら、彼女もまた、猫先輩が通っていた診療所へ通院していたということになる。そこで二人が出会っていたのだとすれば、この状況には辻褄が合う。けれど、まだ疑問が一つ残っていた。
どうして、猫先輩がこんなことを。僕を彼女に会わせたかったのなら、過去を直視してまで僕と離れることはしなくてもいいはず。だったら、なんで……。
——そんなことができれば、復讐にもなるのかな。
猫先輩の声が、僕の耳を打った気がした。彼女ともう一度会って話をすること。僕の願いかは分からない。けれど、僕が幸せになるためには、彼女と共にいるためには必ず必要なこと。猫先輩は、そのためには邪魔なのだ。少なくとも、猫先輩はそう考えた。
そして、僕と猫先輩は同じ。
自然に、笑みが浮かんだ。力が抜けるような、そんな笑みが。
「……完敗ですよ」
これこそが、猫先輩の復讐。
ドアを閉めて、バスが走っていく。残されたのは、僕と彼女。
彼女は、おずおずと僕を見ると、はにかむような笑みを浮かべた。
ポオが僕の膝から退いた。彼女の向こうへと、ふてぶてしくポオは去っていく。
その姿は、滲み、潤んで、よく見えなかった。