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関西大学文化会文芸部文学パート
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関西大学文化会文芸部文学パート

淵

日野山社

 夏の山は、その空気中の一粒一粒が生きているみたいな感触がする。こめかみからあごに流れ落ちた汗をぞんざいに手の甲でぬぐいながら、マコトはぼうっとそんなことを考えた。雑木林の枝は伸び放題になっていて、まだ日も高いというのに辺りは薄暗く、なんとなく湿っぽい。

 苔むした岩々のすき間に半ばうずもれるようにして、一人の老女が一心不乱に手を合わせていた。小さく丸まった背中は痩せ衰え、服越しにも骨の筋が浮いて見えるようだ。乾いてしわくちゃにすぼまった唇からは、ぼそぼそと何ごとか呟く声がしている。彼女がそうなってから、かれこれ三十分は経っていた。

 マコトはいい加減に手持無沙汰だった。木漏れ日に目を細める。田舎でも日差しの厳しさは変わらないんだなと思った。ずっとそうしていると目がちかちかして、脳みその奥がしびれるようだった。老婆の読経はまだやまない。この田舎にきた当初は、見よう見まねで彼女の後ろについて手を合わせていたりもしたが、信心も持たぬ自分が形ばかり真似ているのも馬鹿らしい気がして、もうここしばらくはその背中を眺めるだけの日々が続いている。

 こちらにいる間は、彼女の日課に付き合うことがマコトの日課になる。が、「一人が心配だから付き添うよ」などと軽薄に言ったことを、彼はちょっと後悔していた。退屈だから、というのもまあ理由の一つではあるが、彼女はマコトがいない間は大抵一人で行き来しているわけで、ちょっとお節介だったかしらという気がしなくもなかった。マコトがいるかどうかなんてそもそも関係ないのであろうから。とはいえ、この日課ももう数年越しになる。「やーめた」と言うのもなんだか今更過ぎて、そして特に嫌なわけでもなかったので今に至る。

 遠くで蝉が鳴いている。読経はいまだやまない。枝葉の端からのぞく空がやけに青かった。

 不意に、生ぬるい風を感じた。来たな、と思う。

 肩に柔らかな重み。まるで元からそこにあったかのような、不自然な自然さ。感触とは裏腹に氷のように冷たいそれは、そうっとマコトの両肩に乗っかって細い指先を這わせている。耳のすぐ近くで、「はぁ」と誰かが重いため息をついた。硬直した背中にじっとりと嫌な汗が伝うのを感じながら、今日はどうも女みたいだなと他人事のように考えた。いや、どれかというとそれは現実逃避だった。老女のちっぽけな後姿を睨みつけ、浅い呼吸を繰り返す。

 こういうことがたまにあるからちょっと嫌、っていうのは大いにあった。そうっとため息をつく。この周辺は、そこそこ普通の田舎なのに、そういう「曰く」があるのが難点だった。


*


「大ばあちゃん、それ全部覚えてるの?」

 昔、一度帰り道に聞いてみたことがある。ほとんど独り言のつもりだったが、老女の落ちくぼんだ小さな眼は、静かにこちらを見た。

「全部は覚えとらんよ。ばあちゃんが覚えてるのはこれだけ。本当はもっと長いんよ」

 存外しっかりした声色で、彼女はゆっくりとそう言った。マコトはその時、初めて彼女がまともに喋るのを聞いたのでどぎまぎして、それを誤魔化すように問いを重ねた。

「もっと長いって、どれくらい? 倍くらい?」

「さあねえ。四倍くらいはあるんじゃないかねえ」

「げえ」

 老女はおかしそうにうっすら微笑んだ。まともに表情らしい表情を見せたのもそれが初めてだった。

 家にいるとき、彼女は濡れ縁にぼんやり座ったまま、食事をしたりトイレに行ったりする以外はほとんど動かない。ごっそり表情が抜け落ちた顔で、ぼうっとただ庭を見つめている。誰かが話しかけても返事はめったになく、聞いているのか聞いていないのかも分からない。幼いころから、大ばあちゃんの周りだけ時間が止まっているみたいだ、とマコトはつくづく思っていた。



「ボケてるわけやないのよねえ。足腰もしっかりしてるし。でももう、おばちゃんも年が年だから。生きるのに疲れちゃったんやねえ、たぶん」

 からから笑いながら祖母はそう言った。老女はマコトの祖母の伯母にあたり、つまるところマコトから見ると大大伯母ということになるのだった。彼女たちは、このど田舎の無駄にだだっ広い平屋に、たった二人でつましく暮らしている。

「百二歳? だったっけ」

「いいえ、もう来月で百五歳。もうこうなると、一年や二年はほとんど誤差ね」

 そう言って、祖母は急須にどぼどぼお湯をそそいだ。この家では真夏だろうがなんだろうが、お茶は熱いものだと決まっているらしかった。マコトは大人しく冷蔵庫からオレンジジュースを取り出して、自分でグラスについだ。この家では「子どもはオレンジジュースを好むもの」とも決まっているらしい。現状この家における唯一の「子ども」たるマコトは今年で十六になるが、物心ついたころからずっと、マコトがこの家にいる間、ここの冷蔵庫にはきちんとオレンジジュースが準備されているのだった。

「もういつ往生したっておかしないわ。おばちゃんも私もね」

「嫌なこと言うなあ」

「ご心配なく、ちゃんとご近所づきあいは欠かさんようにしとるもの」

「そういう問題じゃないって。なんのために僕一人でここまで来てると思ってんの」

「わかっとるよ」

 祖母は伏し目がちに微笑んだ。ほとほと音を立てて、湯飲みになみなみと番茶が満たされていく。縁側の方で、ちりんと風鈴の鳴る音。廊下をわたって台所まで吹き抜けてきた風は、ほんのり雨と土の匂いがした。

「アカネは、まだ許せんのやろうね」

「許せない……というか」

「うん」

 マコトはうつむいて、今ここにはいない母を思った。この家に生まれ育ち、都会に出た母。街から逃れて出戻り、そしてまた逃げるようにここから出ていった母。

 普段同じ家で生活しているはずだが、もう長い間ろくに互いの顔も見ていなかった。否。正確に言えば、母が意図的にマコトの顔を見ないようにしていることを、彼は肌で知っていた。これ以上傷つかないように、思い出さないように。人が折り重なって息をするようなあの街の片隅で、彼女は今この瞬間もじっと息をひそめてうずくまっている。

「マコちゃんが背負うことやないよ」

「うん……」

「これはアカネの問題や」

 諭すように祖母は言った。優しい声だったが、それはどこか自分に言い聞かせているようでもあった。言外に子ども扱いされているように感じて、マコトはきまり悪く押し黙る。舌の上にオレンジの苦みだけが残っていた。

「今年もお盆が来るなぁ」

 ひとり言にも似た呟きに、うん、とマコトは小さく返事をした。


**


 その日、集落には朝から雨が降っていた。

 昼を過ぎたころ、大ばあちゃんは静かに腰を上げた。ちょっとやそっとの悪天候では、彼女は日課をやめようとはしない。古びた雨合羽を着込んで出かける後姿を、マコトはビニル傘を片手に慌てて追いかけた。

 舗装もされていない山道は、すっかりぬかるんでいる。坂道を上っていく老婆の足取りは思いのほか力強く、マコトは息を切らしながら必死に足を動かす。

 針のように細い雨粒が、絶え間なく降り注いでいた。土の匂い。草木の匂い。半袖からのぞいた二の腕に、うっすら鳥肌が立っている。空の高いところで風がうなっているのを聞いて、マコトはちょっと嫌な感じがした。

 今日に限って道のりは妙に遠く感じられた。歩けど歩けど塔婆も墓石も見当たらず、雑木林の薄闇に、苔に覆われた斜面の地肌だけが浮かび上がって見えた。道間違えてない、と声をかけようとして、口を噤む。この山は上りも下りも、道らしい道は一本しかないのだった。

 やがてマコトは、周囲が奇妙な静けさに包まれていることに気がつきはじめた。雨音、風に葉の擦れる音、落ち葉を踏みつけて進む二人の微かな足音、小さな息遣い。重苦しいくらいの静寂。鳥の声も虫の声も聞こえない。いつしか、辺りからはすっかり生物の気配が感じられなくなっていた。

 長いこと坂道を上っている。外気にさらされた肌は表面ばかりは冷たかったが、身体の内側は沸騰しそうなくらい熱かった。心臓の動きに合わせて、全身が脈打っているようだ。

 しんとした道行に、ぼそぼそ呟く声が混ざり始め、マコトはぎくりとする。前を行く老婆の声だった。いつもの念仏だろうか。何事かを唱えながらも、彼女は足を止めない。

 やっぱりあの時もおかしかったのだ、とマコトはぐらぐらしはじめた頭で考える。彼の片割れが姿を消したあの夏。

 マコトと違ってしっかり者の妹だった。「先に帰ってるからね!」と弾んだ声を、マコトはもうほとんど思い出せない。帰ったら一緒にかき氷を作る約束をしていた。性格はまるで似ていなかったが、顔かたちと好き嫌いはそっくり同じだった。

 水面に浮かぶ青白い顔を見たとき、自分だと思った。そう思いたかったのかもしれなかった。自分も一緒にそこにいたかったのに。

 突然視界が開けた。「あっ」と声が漏れる。林を抜けたのだ。頭上を覆う木立が無くなったものの、辺りは一面、好き放題に生い茂った雑草に膝くらいの高さまで覆われていた。草のすき間から、鈍く光るさざなみが見える。いつか見たあの池だ。マコトは直感的に確信する。

「ごめんなぁ」

 老婆が言うのが、いやにはっきりと耳に届いた。数歩先を行っていたはずの彼女は、いつの間にか背中がずいぶん遠ざかっている。

「ま、待って」

 マコトの声が聞こえているのか聞こえていないのか、数メートル先から「ごめんなぁ」とまた声がした。

「待ってったら!」

「ごめんなぁ」

 ぱしゃん、と水音。まずい。マコトはかろうじて握っていたビニル傘を投げ捨てる。とうに悲鳴を上げている脚を必死で動かした。

 かつて貯水池として使われていたこの池は、周縁こそ子どもが水遊びできるくらいの浅さだが、少し奥に入ると急に底が深くなっている。まるで入ったものを呑みこむように。妹が見つかったとき、この集落の大人が言っていたことだった。

 今この老婆を突き動かしているものと、年のわりに分別のついていた妹がなぜか山の奥地にあるこの池に浮かんでいた理由が、ここに現れようとしているような気がした。少し先で、老婆の喋るのが聞こえる。

「マコちゃんはまだあげられんのよ」

「大ばあちゃん!」

 マコトはほとんど怒鳴りつけるように叫んだ。

「わしを連れてけ」

「危ないって、戻れよ」

 ばしゃばしゃと自分の足元からも音がした。足首からふくらはぎまでみるみる水に浸かっていく。

「長い間、寂しい思いさせてごめんなぁ」

「行くな!!」

 ぎりぎりのところで、指先が古びた雨合羽の布端をひっつかんだ。勢いで小柄な老婆の身体を引き倒し、もつれこむようにして岸辺へ転がる。

 いつしか雨は霧のようになっていた。マコトは荒々しく呼吸をしながら曇り空を見上げた。間に合った。安堵とどうしようもない胸騒ぎがごちゃ混ぜになって、マコトは濡れて額に張り付いた前髪を乱暴にかきあげた。隣で、老婆は静かに泣いているようだった。

「大ばあちゃん、帰ろう」

 一本しかない山道なのに、どうして途中にこの池が現れたのか、いつもの墓碑群はどこへ行ったのか、はたしてここからちゃんと帰れるのか、何一つマコトには分からなかったが、とにもかくにも一刻も早く家に帰りたかった。何より、老婆をこのままここに置いていてはいけない気がした。ずっと道を上ってきたのだ、下れば帰れるだろう。マコトはわざと楽観的にそう考えた。

 老婆を助け起こし、どうにか二人は道を下り始めた。道中、二人は一言も話さなかったが、マコトはずっと老婆の腕を握っていた。不気味な静けさは、山を下るごとに徐々にほどけていくようだった。



 びしょ濡れのまま二人が帰り着くと、祖母はびっくりしながらも手際よくタオルやら着替えやらを出してきてくれた。もうお風呂入っちゃいなさい、と言われたのでマコトはシャワーを浴び、風呂上がりのアイスを片手に居間でぼうっと座り込んでいた。傍らの仏壇から、うっすら線香の匂いが漂っている。

「おばちゃんはね、もう何人も見送っとるんよ」

 ちゃぶ台を挟んだ向こう側で、横になっている痩せた背中に座布団をかけてやりながら、祖母は唐突にそんなことを言った。

「お姉さんに弟、娘、孫息子、それからスズちゃん。みんな連れてかれちゃった」

「……」

「戦争から帰ってこなかった旦那さんとかお兄さんとか、年上の人たちはまだあきらめがつくかもしれん。それでも傷つかないわけやないけれど」

 よっこいしょ、と言いながら祖母は立ち上がる。なんとなく立ち姿がくたびれているように見えて、マコトは目を伏せた。

「血を分けた幼い子を理不尽に亡くすのは、身を切られるような思いがするんやわ」

 マコちゃんたちはちゃんと帰ってきてくれてよかった、と祖母はさびしく笑った。深く傷ついているのは自分や母だけではないのだ、とマコトはふと思う。当て所もない感情は自らを蝕んでしまうものだから。

 老婆は固く目を瞑って、かすかな寝息を立てている。マコトは手元のアイスモナカがゆるくなってきていることに気がついて、もそもそと残りを口に詰め込んだ。

「あ。そういえば、大ばあちゃんの雨合羽、なんとなく見覚えがある気がするんだけど」

「やだ。それ、スズちゃんが使ってたやつじゃない? んもう、おばちゃん、使うものに全然頓着しないんだから」

 顔を見合わせ、二人してちょっと笑った。

 盆は明日に迫っていた。目を瞑ると、あの池の湿った嫌な空気がよみがえるようだった。もう来ない方がいいかもしれないとも、来ないわけにはいかないだろうとも思った。だって、あの池にはきっとまだ妹が残っている。二人が頑なにここに住み続けるのも、似たような理由なのかもしれない。

 祖母が立ち上がって扇風機をつける気配がした。ぬるい風がやわらかく畳の上をはしっていく。風に乗って、マコトの丸い頭を、覚えのある冷たくて細い指先が優しく撫でた。

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