風が吹いた。そう言うにはあまりにもしょぼくれた風が吹いた。しけた海風で統一性を失った髪を揺らし、登ってきた坂道を振り返る。目下数メートル先で顔見知りの野良猫が日向を探していた。つい先ほどまで駅前のバス停にいたはずなのに。
ほっぽられたコカ・コーラの赤い錆びたベンチでじっとしていると身体が冷えた。今となってはそのベンチもずっと坂の下にある。
人生はあまりにも短い。
つい先月まで心潤わせていた麓の梅林は今では見る影もない。
「今期は客足も随分遠のいちまうな」
駅員の遠藤さんが舌を舐めて、鬱々としていたのを思い出す。朝来た道を引き返す。今日一日で又聞きした町内の情報は回覧板くらい鮮度が悪く扱いづらいものであった。
ようするに無駄足である。
僕は「療養」という名目で和歌山の辺鄙な場所に住んでいる。辺鄙とは言いつつも市街地からは徒歩で三十分、白浜もさして遠くない。ただ、出生地が大阪市内だったからかどうも不便に感じる。
療養のための逗留といえばやはり湯治だが、近くの温泉は文豪が通うような恰好のつくものではない。バスに二十分揺られて行くほどのものではないな、とのぼせながらに思った二度目以降、一度も足を運んではいなかった。
とはいえ、かくいう僕自身、恰好のよい身なりでもましてや身分でもなかった。型崩れしたジーンズによれたカッターシャツ。ランシューも年不相応な色味でいかにも余裕がなかった。
療養と呼べるほど懐にゆとりはなく、僕の場合は逃避という言葉が酷く似合っていた。
汗でシミになった左袖に時計はなかった。気付けばこの地に越してきて三週が通り過ぎた。歎息を漏らす。吹っ切れもせず、日時計に従って影の伸びる方へ足を運んだ。あいつも待ちぼうけていることだろう。
猫はとうの昔に消えていた。
普段より急ぎ足で家を目指す。その分、浅い呼吸が玄関前で深く息づいた。木造モルタルの二階建てアパート一〇三号。築年数は覚えていない。大阪にいた頃より数段落ちぶれた一DK、ここが今の僕の家だ。他には何もない。過去に大きな損傷もなく、家賃も月三万以下なのであればそれでよかろう。
花壇に寄せ集められた花々はかえって虚しさを埋めるように気丈に振舞っている。大根のしば漬けみたいなやつもある。それがスイートピーであることを最近になって知った。
修復跡が残るドアノブを捻った。
キャン! キャン!
門戸の開閉でドアチャイムがちろちろと揺れた。呼応する甲高い声に駆け寄る足音は揉み消される。飛びつくことはせず、前脚を上げてただ膝に縋り寄ってくる。
ウォン! ウォン!
耳に障らない低い唸り声が四方へ反響する。合図を送ると手が届く範囲にお座りした。こいつは僕と共同生活を続ける唯一の存在だ。よしよし、艶のあるブラックタンの被毛を撫でる。自分の手が冷たかったことに今更気づく。
――「両隣に誰も入居していないから」――
入居前、大家さんはあっさりと室内のペット飼いを認めてくれた。その分、追加で敷金を積まされた訳だが……
和歌山のとあるアパートで僕は一匹の犬と暮らしていた。
元より騒がしいタイプではないが、手を離してもまだ頑なに鎮座しているのは珍しい。ほほーう、そういうことか。
『俺を置いてどこほっつき歩いていた! 自分だけ外に行くなんてずるい! おやつは買ってきたんだろうな?』
意訳するにこんなところだ。仁王立ちして居間への行く手を阻もうとしている訳である。
「テオ、悪いね。ちょっと一休みさせてくれ」
だが所詮は小型犬、恐れるに足りぬ。この間みたいな逃亡劇を未然に防ぐべくそっとチェーンをかける。そしてミニチュアピンシャーの横を何事もなかったかのように抜けた。吠えるテオを後目に電気をつけっぱなしの居間に足を踏み入れた。
部屋干しされた洗濯物もつけ置きした食器もそれに本だの何だの。その他丸ごと朝のままだった。追っかけ回すテオを思わず睨むもすぐさま肩を落とした。
(こいつが人間だったら何とでも言えたのに)
そんなのテオからしたら知ったことではない。全くバカげた話である。いよいよ晩飯を作る気力が失せた。一難去ってまた一難。生乾き臭を誤魔化すように窓を開けるが室外機の音がやかましい。難とやらはどうも簡単に去らないそうだ。
ベッドに行くのも億劫になり食卓に座り込む。卓上のピッチャーを除けて広げた腕にそのまま顔を埋めた。犬は一層非難の声を上げる。
『寝るな! 俺を外に連れていけって! さもなくば、筋力不足で頸椎ヘルニアと骨粗鬆症を起こしてボク死んじゃうぞ』
いや、最後のは絶対に言ってないな。
暗がりの足元を周回したり、ブルブルと身震いをしたりしてあの手この手で妨害してくる。どうやら止む気がない。
犬は愛玩動物と呼ばれるほど癒されるものだろうか。時折波長の合わないコイツを黙らせたくなる。最近はなんで犬を飼ったのか自分でもよく解らない。
「仕方ない。行くしか手はないか」
よもやよもやだ。犬に軍配が挙がる。重い首を持ち上げ、僕はノロノロと自室に向かう。半開きの引き戸をある種受動的に開け切った。
小窓から差し込む光が朧げにベッドの枕元を照らす。静寂を嫌うように冷却ファンが独りでに回っていた。静まり返った一室、憩いと慰みと一握りの思い入れが詰め込まれていた。
壁を伝ってPCあるデスクに辿り着く。傍で寝そべった熊のあみぐるみを掴む。名前はコチ。商品名をそのまま拝借した。長年僕が手離せていない、愛着のあるものの一つだ。はちみつを舐めるプーさんのようなフォルムで、そいつはいつも眠そうにしている。
ブルーライトを浴びながら今日もほつれた眼で上目遣いにコッチを見上げていた。PCの電源を落とす直前に僕は異変に気付いた。
(まさか……)
慌ててスタンドの電源を入れる。そして、入念にコチを睨みつけた。尻尾の辺りから綿が漏れている。朝デスクトップを整理していた時にはこんなことはなかった。粗方検討はつく。
「おい、テオ! あれだけ仕事場には近づくなと言っただろう!?」
『やべぇばれた』
思わず声を荒げる。傍らにいたテオは叱られると思うと一目散に居間へと逃げた。
ここに越してきて四度目だ。躾が行き届いていない現実に、飼い主としてはぐうの音も出ない。幸いにも尻尾は胴体につながっていたことに胸を撫で下ろした。
なぜあいつはこんなにもこれを噛むのだろう。元来噛み癖のある犬でもない。
(うーん、どうしたものか)
今日一番の溜息が漏れ、頭を抱える。
後悔先に立たず。いつまでも起きたことを悔やんでも金にも思い出にもならない。きっと今頃、テオは隠れながら怯えていることだろう。
薄い財布を引っ掴み、一枚重ね着する。ファスナーを閉めるとすぐさまベッド下を物色する。見つけた百均のボールをポケットに詰め込んだ。
「あとで、あやしてやるか」
一先ずテオを見つけることから始めよう。
ウォーン
あれから引っ張り出すのには苦労した。かくれんぼの鬼役になり、気を静めるまでに計十分、この身を捧げた。当の本人は先程のひと悶着が嘘みたいに今はピンピンしている。
皮肉なものだ。営業回りに明け暮れたあの頃がもう懐かしい。半年前と変わらない夕陽を背に、僕は犬っころと玉遊びをしていた。
『もっと! ワンモア!』
おじさんもう疲れたよ、そう言いたくなる。テオに押し付けられたボールを投げる。なるだけ遠くに。テオはその度に喜んで離れていった。遠くであるほどに。
アラサーの肩はそろそろ悲鳴を上げそうだ。
こうしていると時たま思うことがある。主従関係が入れ替わっていることがよくないか。限られた時間を削りペットに費やす。諦めつつあるが、これはペットを飼う上での宿命だろう。
僕たちは自宅から徒歩十分の公園に来ていた。果たして公園というのは適切だろうか。遊具も砂場もない、ベンチや照明具があるだけのだだっ広い空き地だ。品揃えの悪い駄菓子屋の方がまだ面白いし、ドラえもん達が集う空き地の方がよっぽど絵にもなる。
市街地に新しく建設された公園はここにないものが全てあった。芝生に海辺に、児童施設。商店街の側に大型スーパーが造られたようなもので、どうやったって勝ち目がない。市街地の公園が臨時休業でもしない限りここに活気が戻ることはないだろう。
僕の生活圏は限りなく狭い。たった数分の時間をケチってこんな更地に来ている。惨めにも聞こえるが、その分グランドを好きに、窮屈なく使えるのは良いことだと思う。ここまで閑散としていると犬同士のじゃれ合いがないのはテオに悪い気もする。だが、それもまた僕を主に選んだ宿命であろう。
『他の遊びもしようよー』
煩いぞ。咥えたボールをむしり取って、追っ払うように遠投する。ピンクの球体は放物線を描き、馴染まない空に浮かんでは消えた。こうやって空を眺めていると無性に口が寂しくなる。退勤後の行きつけの喫茶店が少し懐かしい。茶でもしばきたくなってきた。
「あ、我孫子さん。こんにちはー」
身体をびくつかせ、清々しい声のする方向へ振り向く。ポケットに突っ込んだ両手を抜いて、腰に当てる。車道を挟んだ向こうに上下ランニングウェア姿の杏やよいが立っていた。パイプ状の防護柵をすり抜けて小走りでやってくる。
「こんにちは、やよいさん。今日もランニング? 精が出るね」
「そんなことないですよ。我孫子さんも犬の散歩、お疲れ様です!」
はい、ごっつ疲れてます。照れ隠しについ耳裏を掻く。女性に褒められて嬉しくない男はいなかろう。
「いやー、そんなことないですよー。好きで飼ってる訳ですし」
ワン、ワォン
お前はしゃしゃり出てくるな。
「ホント可愛らしい犬ですね」
膝を曲げてテオの瞳を覗き込む。初対面はあれだけ警戒心を示していたテオだが、今ではすっかり彼女の手玉に取られている。今では興味深く自ら鼻を突きだしていた。スリスリと首筋を撫でられると目を細めて偉く気持ち良さげだった。
(こいつ、色目使ってんじゃないだろうな)
あてにならない猜疑心が湧き上がる。
「今日もテオ君と遊んでいいですか?」
小首をかしげ、とろんだ眼で訴えかけてくる。前聞いた話だが、彼女は自宅で猫を飼っている。だが彼女自身、なんでも犬の方がよっぽど好みらしい。逞しくて素直で従順なところが好印象だとかなんだとか。
早春の持久走で馬鹿にされたくないからと、軽い運動を始めた真面目な彼女にとって如何にもしっくりくる理由だった。
「もちろん。遊んでやってください」
断る理由もなく僕は彼女にリードを譲った。ペンキの剥がれた青いベンチに腰掛けて、頭で自動販売機を探している。
BOSSの缶コーヒーを食道に流し込む。最近のコーヒーは随分美味くなった。その分、渋みが減った。僕がこうして黄昏ているのとは裏腹に、テオの主人代理は大粒の汗を流していた。あいつに追い掛け回されたのなら無理もない。遊んだのか、遊ばれたのかよく分からない状態で彼女はどうにかやってきた。ベンチの端に寄り、結露した清涼飲料水を手渡す。
「お疲れ様。大変な思いさせちゃったね」
「……ありがとうございます……テオ君、ホント元気ですねっ」
呼吸を整え、汗で額に張り付いた髪を搔きわける。小さなホクロをつけた口元が妙に色っぽかった。テオは遊びに飽きたらず砂塵を巻き上げて独りボールをこねている。もう八歳になるのに元気な奴だ。
「お仕事もされているのに犬の世話まで。本当にすごいと思います!」
「そんなことないよ」
今日で六回目の嘘をつく。僕は脱サラしたことを彼女に隠している。厚手のジャージから覗くカッターのおかげか、彼女は今回も疑わなかった。
「謙遜なさらないでください。だって執筆もされてるようですし。たしか、ミステリでしたっけ?」
「そうお伝えしましたね」
ついとうっかりが多いのは僕の悪い癖だ。なんでミステリ作家と言ったのか。そんなの安いプライド以外に何があろう。ラノベばかり書いてきた人生だ。見てくればかり気にして僕は何層も嘘を重ねている。視線さえないのに。必死に笑顔を作る。
「楽しみにしています! いつか見せてもらえるのを」
そう眩しい笑顔を見せられると良心が痛む。逃亡ともとれる生返事だけ返しておいた。
常夜灯がちらほらと明りを燈し、昼間の十分の一の光が辺りを覆う。僕は、恐らく彼女も話題を振るのが下手で、二人して相手の出方を窺っている。彼女の時計の方がよっぽど饒舌で、僕たちの惜別を急かす。それをよそにテオは自分の尻尾を夢中で追っていた。
いつも通り彼女が先立つ。そろそろ私いきますね、と。汗は既に引いていた。まだ少し走るのだろう、脇を締めてサッと身を翻す。乾いた土を蹴って十数歩。何か忘れ物があるらしく一旦引き返してきた。
「一週間後もこちらに来られますか? 我孫子さんに見てもらいたいものがあるのですが……」
「? 多分いけると思うけれど」
予定なんてそもそもないのに無理なんてことがあろうか。忘れないうちにスマホに記録を残す。
「ありがとうございます! では次お会いするのはその時に」
テオとも挨拶を交わすと颯爽と園内から退場した。あっという間に視界から消える。
これ以上いても価値はない。この辺で退場することとしよう。後ろ足で耳を掻くテオを大声で呼ぶがまるで反応しない。まさか無視という高等技術を覚えたわけではあるまいな。
ワン!
「痛!!」
頭を撫でるとやたら動揺して咄嗟に腕を噛まれた。すぐ振り払ったので幸いにも流血はない。息を荒げて毛が逆立ち、それでいて怯えている。どうしたのか。苛立ちを落ち着かせ、水を与えるといつものテオに戻った。どうやら水分不足だったのかもしれない。
僕たちは帰路につく。行きで背に受けた陽光は今やもうない。機嫌の良いテオとは対照的に部屋の惨状を思い起こすと憂鬱で仕方がなかった。
今日は朝から散々な一日であった。無為に時間を過ごし、犬に振り回され、執筆は一行も進んでいない。足は鉛のように重く身体はいうことを聞かない。明後日以降、筋肉痛に悩まされることであろう。明日の散歩はお休みすると固く決心した。
*
クン、クーン
人工灯に見守られながら独り創造に彷徨っている。
僕は錯綜していた。一向にテーマが決まらない。脳内で闇雲に霧を分けているだけで、晴れることもなければ、懐中電灯を拾うこともない。
クーン
「駄目だ、今は作業中……」
『少しくらい遊んだっていいじゃない?』
膝に飛び移り、机の下からヒクヒクと鼻を覗かせる。媚びるな、媚びるな。キーを叩く手を止め、テオをフローリングへ降ろす。諦めの悪いコイツはキャスターを揺らして単独ヘイトスピーチを始めた。心身休める暇もない。
「頼むからあっち行ってなさい!」
一層声を強めると、テオは飛ぶように何処かにいってしまった。入ってこれないように部屋を閉め切る。椅子に座り直すと背もたれに寄りかかる。欠伸が零れた。
検索エンジンを開いてはあてもなくネタを探す。転職・アルバイトの誇大広告がサイトを餌にしていた。好きを仕事に、禍々しいにも程がある。嫌に目についたのですぐさま消した。マウスの手を止める。
「犬なんて引き取らなければ良かった」
相槌を打つ相手等誰もいなかった。
テオとの出会いは退社一年前、テオが七歳三か月の時である。福岡から神戸に戻されて何かと癒しを求めていた時期、「里親募集! 殺処分から彼らを救ってくれませんか?」と銘打ったビラに釣られた。小学生の頃は猫を二匹飼っていたので、保護犬カフェに漂う犬独特の匂いや挙動に何ら抵抗はなかった。人懐っこい犬が放されていると言っても、人間に好き嫌いがあるように犬にもそれぞれの快・不快がある。触るだけで不快感を示してそっぽを向くやつも少なくない。
そんな中で僕に好感を抱いてくれた一匹がテオであった。突起状の尻尾を左右に振り、胡坐にこんもりと収まった。虐待されて三週間前に保護されたばかりの犬というのをピン止めされたプロフィールより知った。切り揃えられた艶やかな毛並みからは想像できなかった。
「その子、初対面の人にあんまり懐かないんですよ」
茶髪ボブの若い店員さんが唐突にそういったことを今でもよく覚えている。飼うかどうか自体、躊躇していたがこの時点で家に招き入れようと決めた。いいカモである。
それから足しげく通って仲を深めた後、里親制度を利用してうちにやってきた。事後報告をすると弟が受話器をとった。婚期をとやかく言う父とは対照的に母は歓迎してくれた。
――「いい支えになってくれるんじゃない!? 啓也はお仕事に根詰めすぎる質がある訳だし。大事にしてやりなよ」――
――「うん、大事にする」――
今ではその言葉も約束も守られてない。一過性の心筋梗塞のように飼った当初の愛着は薄れ、世話が億劫に感じてくる。身体を拭くことを嫌がること、いつまでもトイレに慣れないこと、邪魔をすること。嫌な習性が多く目についた。
ふと画面に目を戻す。液晶に映す自分の顔は醜かった。眼光はカッターで削がれた鉛筆のようにギラついている。
僕の悪い癖だ。お腹が空くと、つい過去を悔いてしまう。つい言い訳を探してしまう。
フリーターなのに稼ぎにもならないことを続けている。親泣かせとはこういうことだ。
PCの右下には十八時五十六分が刻まれていた。きっとサザエさんとじゃんけん勝負を繰り広げている者も多いことだろう。今日はパーに違いない。
席を立ち、Wordを閉じる。そして強制的に電源を切った。金具を取り下げて戸を開くとテオが眼下に立ち尽くしている。
『ごめんよー、もうしません』
頭を下げるというよりは耳を下げてか細く鳴き声をあげた。
「分かったから」
視点を下げて頭をさする。こいつの分のご飯も用意してやらないと。全部テオが悪い、引き取ったのが間違い。そう思えればどれだけ楽であろう。
一先ず自らの夕飯づくりに取り掛かった。
*
いつからだろう。目が覚めるとみすぼらしい財布の中身を指で数えるようになったのは。盗まれたという訳でもないのに、だ。この日々は続いていく。物語でないのをつくづく思い知らされた。
書いたキャラ設定を見返すと自分の能書きのようで厚みがまるでない。話も膨らみがなく、読みやすすぎてつまらない。ここまでラノベでやってきたが、俺の肌に合わないのだろうか。
ゴミ箱へとドラッグする。腕を組んでは大きく息を吐きだした。
「ミステリに挑戦するのもありかもしれないな」
「…………」
「いやー、ないないない」
降って湧いたようなアイデアを即座に否定した。
日は遠くに沈み、ずっと肌寒くなってきた。辺りを見回せばまた一日が終わろうとしている。何もしなかったのではない、何もできなかったのだ。
ここに開きがあると信じるのは虚妄だろうか。罪だろうか。
携帯を開く。母からの着信履歴と公式からの通知が数件、メールは溢れかえっていた。
久しぶりに親に連絡をしようか。いや、面倒だ。Googleカレンダーの通知機能が作動する。
十八時、やよいちゃん 公園
「あ」
完全に忘れていた。PCを閉じて急いで準備を始める。パジャマを脱ぎ捨て、いつもの恰好に着替える。ついでにとテオを呼びに行く。忘れじとコチへ暫しの別れを告げた。
アゥーン
同居人はパドルのブレードのような小さな耳をフローリングに擦りつけていた。つぶらな眼を潤ませている。
『今は気分じゃないよ』
とすぐさま顔を背ける。ええい、構うことなく首輪をつけた。
「はぁ、はぁ」
たった数分走っただけでもうこれだ。汗ばんだ服で更に汗を拭いつつも自分の老いに直面していた。やよいちゃんみたいにランニングを始めようか。もちろん、老化防止に。
「我孫子さーん、コッチですよー」
幾分か弾んだ声が飛んできた。彼女は髪を下ろした制服姿で奥まった木にもたれていた。後ろ手を組み、足を交差させて今か今かと僕を待っている。彼女にピントを合わせ、ゆったりと歩み寄る。連れてきたテオを放してやった。ドッグランで号砲が鳴ったように飛び出す。
「待たせてごめんよ」
「遅れてないじゃないですか……それよりも桜、咲きましたね。やっと」
彼女はふっと顎をあげる。手をとるように、彼女の瞳が写す先へと視線を流した。
花弁が宙を舞う。一つ、二つと地に落ちた。一週間、ほぼ丸々外に出ない日が続いたので全く知らなかった。
「……そうですね」
こうして眺める桜は何度目だろう。僕は彼女にもう一度視線を戻した。微笑みを向けて何を想う。べっぴんさんと言う訳でも無ければ、大人びているとも違う。公園、桜、ある女子高生、一枚のフレームが成立つ。なんとも様になっていた。モーパッサンの詩よりもコロラドで観た砂漠よりも綺麗だった。
「……さん……びこさ……あびこさん、聞いてますか?」
「はい! どうかしました?」
知らぬ間に彼女はただの杏やよいへと戻っていた。見惚れていたというのだろうか。理由は分からぬ。惚けた僕の顔を見て、彼女は可笑しくて笑う。つられて僕も笑った。
とぼけた調子で彼女は僕に問う。
「で、何をするんでしたっけ?」
「えっ」
間の抜けた声が洩れる。呼んだのは君じゃないか。余韻を返して欲しい。
「えーっと、やよいさんが見せたいものがあるとかなんとか」
「あ! そうでした!!」
合点承知と言わんばかりにパチンと柏手を打つ。
「我孫子さん、この間、美術館に行くのが好きって言ってましたよね?」
「うん」
桜の根に立掛けたキャンバスを拾い上げて、もったいぶったように胸に押し当てた。頬が薄紅色に染まっている。どうやら絵を見せたかったらしい。
「描いて、きました。笑いませんか…………」
「うん、笑わないよ」
「本当ですか?」
もう一度首を縦に振った。羞恥心からフレームで鼻まで隠す。機能的な目だけがいつまでも僕を見定めている。
沈黙の帳が降りた。風が逆巻く。添えるように花弁が空を泳いだ。卒業証書のようにキャンバスを裏返して僕に押し付けた。
「はい!」
僕は黙って受取った。油絵の宗教画みたいであった。
思わず息を呑んでいた。中央にはヘルメスだろうか……ケルベロスを連れて冥界から穴を見下ろしている。穴に落ち往くのは咎人。黒よりも深い闇が渦を巻いていた。種々多様な筆で何重にも塗られている。その様に抗議し嘆く女神が右上に据えられ、初老の男性が左下で詠っていた。場に合わせ、両者のラインが際立ち過ぎないようにタッチの強弱を工夫したことが手に取るように分かる。眼を離さずに僕は彼女に問うた。
「テーマは……テーマは何?」
「ダンテ、神曲です」
描くのは罰かそれとも救いか。三篇のどこをさすのか混沌の中で探していた。
批評するだけの言葉が足りないが、簡単に描けるものではない。胸に湧き上がる、くすぶらせるだけのものがあった。目の前の女の子が描いたのかと疑いたくなる程だった。
凝視する対象を交互に移す。彼女の眼はもうぶれてはいなかった。はにかみつつも真剣な面持ちで真っ直ぐに。眩しいくらいこちらだけを見ていた。
「すごいね……たしか美術部って言ってたけどここまで描けるんだね。おどろいたよ」
「幽霊部員ですけどね。まだ題は決めていないんですけど、気に入ってもらえましたか?」
「上手くかけていますか?」
三度、僕は視線を落とす。
突然のことだ。手が震え、喘ぐ、喘ぐ、喘ぐ。
刹那、胸中に火花が生じた。自負、嫉妬、貪欲。三つのどす黒い火花だ。良からぬ思いが脳を駆け巡る。
――この女を殺したい――
首根っこに手をかけキャップのように捻ればどれほど楽か。脳が揺れていた。さっきよりも綺麗なものに出会えるだろうか。
魔が差していた。手にかけたくて仕方がない。
早く、はやく、ハヤク!
胸が高鳴り、喉が渇く。欲求の赴くまま、一心に彼女を見やった。
彼女の眼は怯えていた。震える手を固く結び、身を縮こませている。まるで怒鳴られたテオのように。僕はキャンバスの縁を強く握る手を緩めた。火花は散っていた。
「ご、ごめんよ。驚かせちゃったね」
誤魔化す言葉を遮二無二探し回る。背中は冷や汗でぐっしょり濡れていた。
「発作だよ、発作。僕、身体が悪くてさ。薬を飲み忘れるとこうなっちゃうんだ……取り敢えずごめん!!」
頭を下げた。どれだけ殺気の篭った眼差しを、僕を慕う彼女に向けたのだろう。たった一瞬であったとしても……わなわなと身震いし、返答をひたすらに待ち続けた。僕の顔を横から不安げに覗く。
「そ、そうだったんですね。大丈夫ですか? お水買って来ましょうか?」
杏やよいは杏やよいのままであった。眉を曲げて困惑するほどに。彼女はハッタリを信じたのだ。気取られないように優しげな作り笑いを心がける。
「……ありがとう。そうしてもらえると助かるよ」
手を貸してもらわなければならない、そのフリをしてベンチまで誘導してもらう。そのまま彼女は息づかせながらミネラルウォーターを買ってきてくれた。虚言を飲み込むように、鎮火でもするように目一杯口に煽る。彼女は何も言わず、隣で背をさすってくれていた。十は年上であろう男の。
「ありがとう。やよいさんのおかげで大分落ち着いたよ」
「それは良かったです。心配しました」
如何にも安堵したようであった。冷ややかな風が頬を撫でた。沈黙を嫌うように桜に立掛けられたあのキャンバスを取りに行く。戻ってくるとやよいはおらず、テオの相手をしていた。行きつけのバーが閉まっていたかのような寂寥感に苛まれる。ここに来て初めての出来事であった。彼女の温もりが残る座席に絵をそっと仰向けで置き、やよいが返ってくるのをひたすらに待とうとしていた。
その瞬間のことである。
「我孫子さん来てください! テオ君が!!」
「!?」
跳ねるように身体を起こした。十メートル程先でテオが蹲っている。その側でやよいさんが手をつけられずあたふたしていた。僕は血相を変えてその場に急行する。
クン、クーン
左前脚が脱臼していた。その他目立った外傷はないが、とても四肢で歩けそうにはなかった。踵を返して顔を蒼白にしたやよいさんに尋ねる。
「ここらで一番近い犬猫病院ってどこや!!」
「この近辺ですか!? えーっと。どこかな。どこなんやろ」
しどろもどろに答える。スマホを操作しながらあーでもない、こ―でもないと逡巡する。
「あ! ここです!! さつき病院です。ここから十五分、市街地へ下ってバスを一つ乗り継げばいけます。メイとレオンが一度お世話になったことがあるところです」
「ありがとう! 僕のスマホにURLを送っておいて」
汚れることを厭わず、テオを持ち上げる。ジェットコースターの安全装置のように不慣れにテオを担いだ。一瞬、よろめく。
「だ、大丈夫ですか? 僕も手伝いますよ?」
「いや、大丈夫。君は絵のこともあるし、今日は帰りなさい。ついてくると親御さんも色々心配なさるだろう」
有無も言わさず、振りほどくように彼女と別れる。重さを忘れて猪突猛進に土を踏み鳴らす。彼女が完全に視界から消える前、叫ぶように言った。
「やよいさーん! 絵、凄く良かったよ。他にも描いたものがあったら遠慮なく見せてね!!」
お別れの言葉は酷く乾いていた。
さつき犬猫病院、URLが示す目的地、確かにそれはあった。思ったより大きな病院だった。到着する頃には夜七時半を過ぎていたが、やよいさんの事前連絡が功を奏した。今、僕は客の出払った夜の待合室で一人佇んでいる。看護師さんから呼びかけがかかる。初めてのことに戸惑いながらも気弱に診察室を叩いた。
「はーい、どうぞお入りください」
入室すると三〇代半ばの獣医、如月先生がいた。席に座るよう促され、遠慮なく腰を下ろす。軽い挨拶を交わすと五分程度の簡単な問診が始まった。
「はい、質問は以上です。ありがとうございまーす」
ちょっと気の抜けた先生だった。髪はロン毛だし、服は着崩しているし、少し変わった人なのかもしれない。無論、ただの偏見である。
「先に症状からお伝えしますと見ての通り脱臼ですね。大がかりな施術は必要ありませんでしたが、少し癖になっていますね」
「え、癖ですか?」
「無理もありません。自分ではめ込んでいたんでしょう。今回は整復と固定、抗炎症作用の薬を投与しました。状況をお伺いしたところ、眼を離した隙に起こった過剰な運動が招いた事故として間違いはないでしょう」
低いトーンで落ち着かせるように語った。先生の背後で看護師に抱えられてテオが大人しくしていた。患部には包帯が巻かれ、足は伸びきっていた。一つ咳払いをして、視線を引き戻すように先生は話を再開した。
「で、我孫子さん。一つお伺いしたいことがあります。テオ君は適切な食事と定期的な運動を取れていたと自信をもって言えますか? 加えて適度に耳のチェックは行っていましたか? 僕の顔を見てお答えください」
「……」
さっきまでと打って変わったその面持ちに、言い訳さえ出てこない。先生が威儀を正すのに倣って、弛緩した空気が一瞬にして張りつめる。
「今回合わせて検査を行いましたところ、軽度の栄養不足・中度の運動不足の兆候が見られました……後天的な脱臼の予防に大きく関係するのはやはり、その子に適した運動と食事です。その他にも外耳炎を発症していました。点耳薬を処方しておきますが、これも適切な耳のケア、ひいては環境の整備がなされていないことによって起こります」
「まぁ大事に至らなかったのは何よりです。厳しい言い方にはなりましたが、以後テオ君のことを。より一層、目を配ってやってください」
ジジジ、蛍光灯が細微な音を立てていた。僕は諭されるまま、頷くことしかできなかった。
薬の経過観察ということでテオは病院に預けた。支払いが済んだのは九時過ぎであった。追い出すように看護師に見送られる。営業中の看板が差し替えられると大きなため息が洩れた。今日だけで一〇五〇〇円の損失である。
「イラッシャイマセー」
バスを乗り継いだ帰り際、駅前のドラッグストアに立ち寄った。先生に勧められたドッグフードがないか店員に尋ねてみる。東南アジア系の外国人は始め困っていたが、身振り手振りで何とか売り場まで案内してくれた。スーパーと変わらない品揃えに度肝を抜かれた。お目当ての商品を見つけ、レジに出す。
「ヨルオソクニアリガトウゴザイマシター」
ナバート君か。覚えておこう。ラミネート加工されたポスターが目に入った。「未経験者歓迎! 僕たちとこの店で働きませんか?」イラストの女性は生き生きとしている。
「時給一一〇〇円か……」
ガラスドアがゆっくりと閉まると、僕は歩き始めた。店から遠のくほどに、前方の影は薄く伸びていった。
良い子は寝静まる夜十時、漸く僕は家に着いた。
「ただいま~」
声は部屋の四隅に溶けてゆく。一人暮らし当初に聞き馴染んだこの感触も今では気色の悪さだけが耳に残っていた。居間を暗闇のまま放置して自室へと直行する。照明を付け、コンビニ袋をベッドの足へ置く。iPhone10と財布を写真たての横に解放する。PCを起動させ、僕は一つ伸びをした。テオがここにいないのは何時ぶりだろうか。
「今日は作業、捗ればいいな」
二匹の野良猫が盛る真夜中、スタンド一本を立てて、安っぽいマウスを動かし始めた。
怪盗に時間を盗まれた!
そんなキザなこと言えるくらい、あっという間の深夜一時、僕は頭を抱えていた。左クリックを長押しして、画面上のポインターをザッと横断させる。
打った文字数は約五〇〇〇、残ったのは一八五四文字。
僕はうなだれていた。活路も見出せないままに。
あと三日で退社して一ヶ月が経つ。椅子にもたれ、冴えた目を瞑る。
和歌山の田舎、自由に満ちた生活で僕は何を残してきたのか。
ちょっと振返ってみた。
やよいさんとの出会い、犬の保育、そして五六八二九文字で動きを止めた物語と増やすだけ増やしたボットみたいなキャラ設定の数々。あとは全部ゴミ箱か腹の中だ。
金目になるものは一つもない。
この一ヶ月間、失ったものは何か。
いや、やっぱり振り返るのはやめだ。やめにしよう。
意を正し、PCの液晶を見つめる。文字は嘲笑うかのように勝手に躍っていた。幻想が脳裏を駆け巡る。
「君は何で会社まで辞めてこんな生活してるの?」
「執筆なんて金にならないのにさ。ひどいバッドエンドだねぇーwww」
「馬鹿なんじゃな……」
PCの電源を落とした。文字が躍っているのではない、僕が文字に踊らされているのだ。全部を投げ出したい、消えてなくなりたい。頭を両腕に挟んで丸まった。大人なのに悔し涙が流れた。怖くて、悔しくて。逃げ出したかった。
――「我孫子君、本当に辞めてしまうんだね」――
――「はい、三月で辞めます」――
――「小説が君をそうさせたのかい? ものを書くことが君を変えたのかい?」――
――「……はい」――
――「本には、君にはそれだけの力があるのかい? 世の中でやっていけるだけの」――
――「…………それは分かりません」――
――「では何でっ。何のために君は執筆をするんだ? どうして小説を書くんだい?」――
――「………………」――
ハッと目を覚ますと十五分、世界は進んでいた。よく見る夢だ。僕にもそれなりに親しい人がいた。その人との押し問答に叩き起こされたとでも言うべきか。
あの時、僕はなんと答えたのか今でも思い出せない。キレのあることを答えたかもしれないし、実は何も答えてなかったのかもしれない。
左手に意識をそらすと何かが握られていた。あみぐるみのコチだ。まだ修理をしておらず、相変わらず綿が漏れていた。強く握ったせいで顔に皺が寄っている。ブサイク極まりない。
褪せた生地の色といい、鼻の感じといいその面がどこかテオに似通っていた。
面白くって何もせずただジッとそれだけを考え、それだけを見ていた。
どうしてテオはコチが嫌いだったのか。今なら少し分かる気がする。
家の前を一縷の風が流れた。きっとそうだ。
人間、どうも一度、失ってから大事なものに気づくらしい。
自分はなんて愚かなのだ。こっぱずかしいが敢えて口に出そう。
「テオは我孫子啓也を愛している」
ホント可笑しな、可笑しな話である。こんな主人に対して、だ。
僕は再びPCを起動させる。酷い目に合わせたテオに僕がテオに返せるものは何だろう。そんなの分かり切った話だ。Wordを開き、文書を、真っ新な見開き一ページを開く。
希望と言うには過大評価で、一条の望みというには弱すぎる。
ただ、もう一度描いてみたくなった。自分と言うよりも誰かの為に。
この一年だけ。この一年だけは僕に連れ添ってくれた、たった一匹の犬に捧げようと思う。僕の全てを。
今回もまた一種の気の迷いかもしれない。でもそれくらいしてもきっと。罰は当たらないだろう。十字架は決して降りない、それでも降ろそうとすることに価値がある。
自然と笑みを零しながら僕は何度目か。いや、何度目か分からないキーをもう一度動かし始めた。
物書きとはひどく非合理で非効率だ。コスパが悪い。そのくせ金にもならない。大多数が見向きもしない。腹を満たしもしない。エゴの塊だ。言いたいことは山ほどあるけども、
それはそれでいいじゃないか。
動機は歪んだアイの呪い。
モノローグはこれくらいにしよう。
「あ! どうしよう」
夜中に僕は声を張り上げた。肝心なことを忘れていた。テオは人間じゃない、これではそもそも文字が読めない。うーん、どうしたものか。あ、そうだ!
「描いた小説をプリントアウトして細かく刻んで食べさせるのは……」
いや、それは可哀そうか。俺だったら絶対にドッグフード食うな。しょうもないことにツボって、両隣がいないことを良しとして僕は声高らかに笑った。書いてみてから考えれば良いことだ。ミステリに挑んでみようか。
でも何をするにしても、
「きっとテオは喜んでくれるはずだ」
気分転換でもしようか。小窓を全開に開ける。テオの寝息が聞こえるように。ピアノを弾くようにキーボードを何度も何度も叩く。少しでも届くように。
深夜二時、僕は歪んだ愛と哀を奏でよう。
押し入った青い風が埃を宙に舞わせた。
胡蝶の夢。されどこれも一つの現実なのかもしれない。
文字までも宙を舞っていた。