その男は自分が何者であるか、ここがどこであるかを知らなかった。一番古い記憶は何なのか、一番初めの刺激は何だったのか。寄せては返す波打ち際のようにその境界線は曖昧で、物心ついた時にはこの三階建てアパートの一室で暮らしていた。
洗濯機、冷蔵庫、コンロ、ベッド、風呂、トイレ、生活に最低限必要なものが揃っている七畳ほどのワンルーム。朝起きて、三度の食事を経て、夜眠る。記憶の上ではおそらく最低でも二年間は住んでいるだろう。しかし、体はどう見ても二十歳を超えた青年なのだ。二年間の生活以前の記憶は全くの白紙で、どこからかこのアパートに移り住んできたのか、或いは生まれてからずっとここで暮らしているのかさえ覚えていない。
その男の住んでいるアパートにはエレベーターはなく、階段で各階を上り下りできる。一つの階に四部屋ずつ横に並んでおり、計十二部屋あったが入居しているのは五部屋ほどだった。外観の形状は横に長く、中央の階段を軸として線対称で、その男は二階の右端の部屋に住んでいた。どこにでもあるような構造のアパートだが、特筆すべきはその色にある。
白い外壁、白い内壁、白い階段、白い配管。目に映るどれもが白、いや純白色なのだ。それも純白のドレスのように清らかさを表現する際の「比喩的な純白」ではなく、文字通り「真に混じり気のない純粋な白」。論理的には現実に存在し得ないはずの「人間の目に見える光の全てを反射する物体から感じる色」という概念としての純白がアパートを覆っていた。そのため、外観から築年数を推測することは容易ではない。『ペンキ塗りたて』の看板があっても違和感を抱かないだろう。
透き通るほど白く目立つ外見をしていても町の住民は気に留めることなく通り過ぎていく。なぜなら周りの建物も全て純白に覆われているからだ。純白の屋根、純白の電柱、純白の道路、純白のマンホール。まるで買ったばかりの塗り絵のような街並みが続いている。人々の着ている服も純白であり、人間だけが肌色に着色されている。
アパートから徒歩五分ほどの距離にはスーパーやホームセンターがあり、トイレットペーパーやインスタント食品などの日用品や食料品が調達できる。一つ違和感があるとすればレジが無いことだろう。そもそもこの世界にはお金が存在していないのだ。しかし、この世界の人々はお金の存在を知らないので、そのことを疑問に思う人は一人もいない。ただ、その男は、日用品や食料品がどこで生み出されて、なぜ自分に与えられているのかということには興味があった。その男の他にも同じアパートに住んでいる人は居たし、近くのマンションや一軒家に住んでいる人たちも同じスーパーを利用していた。ある日、その男は青果売り場でじゃがいもを手に取っていた一人の主婦に、
「そのじゃがいもってどこで生産されているか知ってますか?」
と尋ねてみた。
するとその主婦はカバンにじゃがいもを二、三個入れながら、
「さあねぇ。知らないわよ。興味ないから」
と答えて今度は人参を手に取り、カバンにするりと入れた。そして、そのままこちらを振り返ることなく精肉売り場へ歩いて行った。彼女はカレーか肉じゃがを作るのだろう。釈然としない気持ちを抱きながら、しばらくの間その男は売り場に立ち尽くしていた。
その男は二年間何も考えずにダラダラと暮らしていたわけではない。はじめの方こそぼんやりとした意識の延長線上にある惰性に囲まれた生活を続けていたが、次第に自分は何者なのか、ここはどこなのか、という疑問が生まれては消え、生まれては消えるのを繰り返していた。膨らみ続けるその疑念を考えないように頭の隅に追いやり続けていたが、やがて四六時中そのことしか考えられなくなった。そして、一ヶ月ほど前、野菜売り場で主婦に話しかけた日から、肥大した疑念に押しつぶされそうな生活からの脱却を切に望むようになったのだ。
まず、その男は情報収集から始めた。毎日、朝から夕方まで選挙のときの出口調査のようにスーパーの出入り口に立ち、利用客に「この世界のことについて何か知っていることはありませんか?」と質問し続けた。大抵の客は「知りません」と答えていた。とある小太りでボサボサ頭の中年男性に尋ねたときには、
「そんなこと知ってどうするの? 衣食住が確保されてんだから死ぬまでダラダラしたらいいじゃん」
と返されたこともあった。しかし、十数日が経過した日の午後、両腕に買ったばかりのティッシュを抱えた青年にいつものように質問すると、
「ああ、僕は知らないんですけど、色々知ってそうな人の居場所ならわかりますよ。ここから十キロぐらい離れたとこに住んでるおじいさんなんだけど博識でなんでも知ってるって近所で有名なんだ。僕も部屋の掃除方法が知りたくて尋ねたら丁寧に教えてくれたから一度聞きに行ってみたら?」
と答えた。その男は青年にお礼を言い、そのおじいさんの詳しい場所が書いてある地図をもらった。やっと有力な情報を得られたことで一抹の希望を抱いたその男の目には純白の世界が心なしか色づいて見えた。
翌日、荷物をまとめ、アパートを後にした。青年からもらった地図はとても丁寧だったので、白い建物しかないせいで狂いそうになる方向感覚にさえ気をつければ目的地まで難なく辿り着けそうだった。道中、なぜ自分は自分の正体を知りたいのだろうかという自問自答を繰り返した。それを知って何になるのだろうか。安心したいのだろうか。別に今が不安なわけではない。生活にも大した不満はない。ただ自分では制御できない何か、一種の使命感に近い何かがその男を駆り立てているのだ。その何かとは? 結論の出ないままとうとう目的地に辿り着いた。
そこには金属製の柵で外周を囲われた一軒家があった。例によって白一色で構成されている。門扉から玄関までは自然石の緩やかなアプローチで繋がっており、アプローチの両脇には手入れの行き届いた植栽が並んでいる。その男は門扉のそばのインターフォンを押した。
「はい……どちら様?」
ひと呼吸置いて、くぐもった低い声が聞こえた。
「すみません。こちらに博識のご老人がいらっしゃると聞いてお伺いしにきたのですが……会って話をすることは可能でしょうか?」
「……ちょっと待ってなさい」
そう言い切ると同時にインターフォンは切れた。しばらくすると玄関のドアが開き、中から髭の生えた恰幅の良いおじいさんが出てきた。髪は完全な白髪で、縁の細い眼鏡をかけ、まるでピアノの鍵盤のように、白い髭にはところどころ黒髭も残っている。ピチッとした白いズボンの上には飛び出た腹が乗っかっていた。
「さあ、入りなさい」
と門扉を開けながらそのおじいさんは言った。
「失礼します……あの……僕が誰かとかどこから来たかとか聞かないんですか?」
「そんなこと聞いてどうする。わしは君がもう少し早く来ると思って、コーヒーをつくって待っとったんじゃ。ささ、コーヒーが冷めないうちに……話はそれからじゃ」
その男の部屋よりも一回り大きいリビングの真ん中には円形のテーブルがあり、木製の椅子が二脚向かい合う形で置いてあった。相変わらず白一色に統一されている。その男は言われるがまま椅子に座った。少し時間が経ち温くなった純白色のコーヒーを口に運ぶ。
「ミルクとか入れたほうがよかったかの?」
とおじいさんが聞く。
「いえ、大丈夫です。ブラックの方が好きなので」
コップ半分ほど飲み干したところでその男は早速おじいさんに尋ねた。
「ずっと気になっていたんですけど僕は一体何者でこの世界は何なんですか? あとどうして僕がここに来るのを知ってたんですか?」
するとおじいさんはコップを置き、その男の目を見据えて言った。
「そうじゃなあ……簡潔にいうと我々は擬人化された概念なんじゃ」
「えっ……どういうことですか?」
予想外の答えにその男は一瞬自分の耳を疑った。
「君ももう既に会ったことがあるはずじゃ。『無関心』じゃとか『怠惰』『潔癖』の概念の擬人化に心当たりがあるじゃろ」
その男の頭には青果売り場で出会った主婦やスーパーの出入り口で話しかけたボサボサ頭の中年男性、おじいさんの場所を教えてくれた青年が思い浮かんでいた。
「そうか……あの人たちが……じゃあ、あなたも僕も何かしらの概念の擬人化なのですか?」
「もちろんじゃ。わしは『知識』の概念の擬人化、いわば知識氏かの。じゃからわしは生まれた時からこの世界についての情報を知り尽くしていた。じゃから当然君のことも、君が今日尋ねに来ることも知っていたんじゃ」
「では、一体僕は何の概念なんですか?」
知識氏はコップを掴み、残っていたコーヒーを一息で飲み干し、音の立たないようゆっくりとテーブルの上に置くと、
「君は『好奇心』の概念の擬人化じゃ」
と言った。
「好奇心? 僕がですか?」
「そうじゃ。なぜ君は今日ここへ来たんじゃ? 何か具体的な目的があったわけではないじゃろう。ただの漠然とした好奇心に駆られて来たんじゃろう? 普通この世界の人は自分の正体なんかに興味はない。自分とは誰かを尋ねに来たのは君、好奇心氏しかおらん。それが答えじゃろう」
それを聞いた好奇心氏は自分の中の積み重なっていた疑念が根本から解けていくのを感じた。自分のこれまでの全てに説明がついたように感じる。
「なるほど……まだ全てを飲み込めたわけではないですけど、少し腑に落ちた気がします。それで、この世界は何のために存在しているんですか?」
ふた呼吸置いて、知識氏が続けた。
「実は一つ下の次元にこの世界とは別の世界がある。そこではここと同じように人間が暮らしている。じゃが、その世界では人間それぞれに役割があるわけではなく一人一人に複数の特性が共存している。我々はその世界の人間の特性、性格や目に見えないものの概念を擬人化したものなんじゃ。つまり、我々が消えたら向こうの世界の概念も消滅するんじゃ。わしらが存在することで向こうの世界の平穏が保たれてるんじゃ。表裏一体ということじゃな」
それを聞いた好奇心氏に新たな疑問が生じた。
「我々が消えるというのは我々が死ぬということですか?」
「そうじゃ」
「向こうの世界の概念が消滅したらどうなるんですか?」
「さあ、そこまでは流石のわしも分からん。前例がないからの」
膨れ上がっていた疑念から解放された好奇心は次の目的を渇望していた。一度気になり始めた疑念は坂道を転がり続け、巨大化する雪玉のように留まるところを知らなかった。
「この世界に住む全員が死んだ後の世界が知りたいです。どうしたらいいでしょうか?」
「うーん……やはりそうなると思っておった……よかろう、どうせ教えないと言っても知りたがるじゃろうからな。方法は一つだけ、『概念』の概念の擬人化を殺すことじゃ。」
「『概念』の概念の擬人化ですか? 何なんですかそれは?」
「言ってみれば我々の生みの親のようなものじゃ。我々は皆、概念氏が存在することで存在できていると言っても過言ではない。概念それ自体を擬人化させたものじゃ」
「なんか複雑でよく分かりませんが……その人は一体どこにいるんですか?」
「この世界は同心円状に広がってきたんじゃ。概念氏は一番初めに擬人化された概念じゃからこの世界の中心におる。ちなみにこの家は中心から徒歩六時間ほどのところにあるから、今日はうちに泊まって明日出発しなさい。」
「助かります。ありがとうございます。しかし、なぜそんなに協力的なのですか? 概念氏を殺すとこの世界が消え、あなたも死んでしまうのでしょう?」
「単純な理由じゃよ。わしはもう疲れたんじゃ。生まれてからずっと知識に溺れたままの人生に。わしはただの知識の入れ物として長い間生きてきた。別の世界を支えてることだけを心の支えとして生きてきたが、あまりにも退屈すぎてもう飽きて来たんじゃ。世界の均衡を守るためにこの世界では自死ができなくなっとるんじゃ。じゃから、わしの代わりにわしの人生に終止符を打ってくれる人をずっと探してたんじゃ。願わくばこの世界ごと消してくれるような人を……」
「そうだったんですか……コーヒーありがとうございました。美味しかったです。よければ知識氏の持ってる知識をもっと教えてくれませんか?」
その日は夜が更けるまで、知識氏の話を聞いた。別の世界はここよりも様々な色に溢れていることや、その色自体も概念の一種だという話や、知識氏が今まで会ってきた擬人化概念の話や、中心部に住んでいる他の擬人化概念についてなど興味深い話ばかりだった。
翌日、知識氏の家を発ち、言われた通り世界の中心に向けて歩き出した。相変わらず純白に囲まれたまま、陰影で建物との距離感を把握しながら歩く。中心に近づくにつれて大きい家が増えていく。五時間ほど歩いたところで誰かに後ろから声をかけられた。
「おい君! ちょっと待て! 何者だ! この辺では一度も見かけたことがない顔だな」
振り返ると、短髪で体つきの良い若者の男性と、長髪で鼻が高く、スタイルの良い女性がこっちを睨んでいた。好奇心氏は昨夜、知識氏から聞いた話を思い出し、この二人は「正義」と「美」の擬人化概念だと確信した。と同時に好奇心氏の頭の中に新たな疑問が生じた。この二人を殺したらどうなるのだろうかと。よくない考えだとは分かっていた。しかし、理性を失った好奇心が好奇心氏の頭の中を埋め尽くし、概念氏を刺すために携帯していた短刀を握りしめ、驚いた顔で立ち尽くしている二人目掛けて、ブレーキの効かなくなった車のように突進した。
短刀は正義氏の右の脇腹に深々と突き刺さった。うっ……と言って倒れかけている正義氏の腹から短刀を抜き取ると、そのままの手で美氏の左胸に突き刺した。美氏は倒れている正義氏の上に声も上げず覆い被さるようにして倒れた。純白の道路に赤色の血が映えていた。
*
「さあさあ、お次はこちらの十三カラットものダイヤモンドを贅沢に使用したネックレス! それは見るものを魅了する誘惑を纏い、その美しさは世界一! 落札は一千万から!」
その言葉を合図に一斉に札が上がる。
「一千二百!」
「一千五百!」
「一千八百!」
「二千万!」
「おおっと! ついに二千万の大台に乗りました! さあさあ、まだ上がるのか……希望落札価格二千万円以上の方はいらっしゃいますか?……いないみたいなので二千万で落札を締め切らせていただきます! さあさあ落札者の方ぜひ前の方へ……何か一言お願いします!」
「あの……やっぱり落札辞退してもいいですか? なんか急に興味なくなったので」
「えっ、ああ……そうですか。では一千八百で札を上げられてた方、繰り上げで落札となります! えっあなたも辞退するのですか? では、一千五百の方! えっあなたもですか? あれ? そういえば私はなんでただの石ころをこんな高値で売ってたんだっけ……」
半年前に夢のマイホームを購入した家族が夕食後言い争いを始めた。
「あれ? そういえば何で俺お前と結婚したんだっけ?」
「はあ? あなた私の顔がいいからって言ってたじゃない!」
「俺ほんとにそんなこと言ったっけ。なんか急に顔なんかどうでもよくなってきたんだよな」
「どういう意味? 私が綺麗じゃなくなったってこと? もういいわ。寝る」
それまでテレビを見ていた息子が二人に尋ねる。
「ねえねえ。仮面ライダーって何のために戦ってるんだっけ?」
同時刻、地球のあちこちで妙な出来事が起きた。正義と誇りを胸に、紛争地域の前線で戦っていた兵士は急に無気力になり、撤退を始めた。世界的に有名な絵画は破格の値段で売り出され、絶世の美女と言われ、注目され始めていた女優の元に舞い込んでいた仕事がぴたりと止んだ。
*
動かなくなった二人を残し、返り血を浴びた状態のまま概念氏の住む家まで再び歩き始めた。一時間ほど歩き、一軒の家の前で立ち止まった。古さを感じさせない白壁に囲まれた、間違いなくこの町で一番大きいだろう三階建ての家。威圧感すら覚える重厚な門扉の横のインターフォンを正義氏と美氏の乾き始めて茶色くなった血の染み込んだ人差し指で押す。
「どちら様?」
柔らかく芯の太い声が聞こえた。湧き出てくる興奮を抑えながら、低い声で言った。
「概念氏に会いに来たのですが……」
こちらの姿が見られているのかは分からなかった。
「入りなさい。鍵なら既に開けたから」
その言葉通り、少し押すだけで門は開いた。慎重に中に入り玄関のドアを押す。鍵はかかっていなかった。玄関から伸びる廊下の突き当たりの広い部屋に済ました顔で一人の男が座っていた。その男は一瞬驚いた顔でこちらを見たがすぐに真顔に戻った。その男が概念氏だと確信した好奇心氏は単刀直入に言った。
「あなたを殺しに来ました」
すると概念氏は、
「そうか、やっと来たか。やっと解放されるのか……」
「解放? 何からだ?」
「私は新たな概念を生み出す仕事を長い間続けてきた。退屈な仕事に嫌気がさし、何度も自死を考えたがその中で自分は何者なのか、その答えを求め続けていた。そして、ある日それは結局好奇心というただの浅い考えだと悟った。それと同時に好奇心が持つ潜在的な力に気づき、それを利用しようと考え、君をつくった。この世界の均衡を崩す不穏分子になればと思っていたが……私を殺すことを選んだのか……私が死んだ後の世界がどうなるか……私も興味がある。さあ、一思いにやってくれ」
聞き終わると好奇心氏は短刀を振り上げ概念氏の喉元を裂いた。それと同時に眩い光に包まれ、擬人化概念の住む世界もろとも好奇心氏は消し飛んだ。
*
それは唐突に起こった。さっきまで話していた会話が止まり、世界から人の話し声が消えた。いや、正確にはテレビからは聞こえていたが、聞き手がいなくなった今それは何の意味も持たないノイズに過ぎず、ただの空気の振動でしかなかった。車は四方八方に飛び散り、空からは飛行機が降り注いだ。歩行者は立ち止まり、抜け殻のように永遠と立ち尽くした。まるで極めて精巧に作られた人体模型のようであった。ありとあらゆる生物の思考が止まり、海には魚が浮かび、植物でさえ光合成をやめ、枯れ始めた。やがて地球の表面は砂で覆われた白い星となった。それでも地球は健気に回り続け、流れ始めた悠久の時間に誰のためでもない朝を届け、新たな生命の誕生を待ち続けた。