左手で目覚まし時計を叩き、右手で瞼を擦った。朝だ。朝というのは、螺旋階段のある一点、つまりは、若さだ。わかってくれるだろう。わかってくれるはずだ。だって、わからないはずがない。これを読んでいるあなたは、たぶん生きた人間のはずだから。三十七兆に聞けばいい。一つもわからないなんてことは、きっとない。ああ、やっぱり、今のは忘れてくれ。三十七兆の中にあなたがいるかはわからないのだった。
開けっ放しのカーテンから刺す光は金と銀の間をしている。神さまの色だ。ただし、それで神の存在証明はできない。光が神に似ているのは、当たり前のこと。人間がそこに神を見出したのだから。そのうちにきっと神に見えなくなる。いや、似ていると言えるのは別物にだけだから、もう既に本当には見えていない。つまり、手遅れ。それでも生きていくつもりなら他に縋るものを探すべきだ。それもいつか頼れなくなるとしても。
両手を広げただけの幅しかない窓枠の内には今日も小さいながらも蒼く透けるような美しい初夏の空が収まっている。それを背に今日もぼうっと立っている半袖カッターシャツに黒いズボンの学生服。その頭はワインのように深い赤のボタン・アコーディオン。怪物だ。コントラストの高い景色は歴史の教科書の片隅に載った一昔前の映画のポスターに似ている。ビコーズ、イッツフィクション。美はフィクションの証明ではないが、あれが綺麗な理由はフィクション。
「落ちるほど重さあるのかあの空は。蒼の中には魚が見えない」
怪物は語る。良く言えば詩的、正直に言えば意味不明な言葉を吐く。だから、身内の子にそうするように頬に口付けしてやりたくなる。そして、恋人にそうするように抱きしめてやりたくなる。それから、季節の変わり目に捨てる服にそうするみたいにビニール袋に押し込んで踏んでやりたくもなる。今のところ一つだって本当にしたことは無いが、いつかはどれか……あるいは複数、ひょっとしたら、全てかもしれないし、少しだけ違う形かもしれない……だが、確実に何かしてしまうだろうという予感はある。それは階段を昇り降りする度に思うこと。いや、確認されるだけ。知ったのは恐らくずっともっと前。そしてこれはあなたもきっと知っている。朝や若さと同じようなかたちで知っている。人間はどうしたって怪物に干渉せずにはいられない。法や神話に近い、絶対的で容易には裏切ることのできない法則だ。
ベッドから降りて冬からずっと敷きっぱなしのラグに足の甲を埋める。いつも通りスマホのラジオアプリでニュースを聞き流しながら朝食を準備する。今日は十数年前のパンデミックに対する振り返りが特集されているようだった。追悼の歌は意外と子守唄に似ているなんて感想が浮かんで、不謹慎なのだかそうでないのかなど考えていた。
あなたはどう思うか。失われた明瞭な意識と生まれたての曖昧な意識、それらの差は何だろう。想像する。想像する。いつかどこかで耳にした思考実験を試す。ゴム手袋に覆われた指の隙間から柔らかな羽が見える。雛だ。私の手が、鶏の雛をミキサーの中に入れる。蓋を閉め、スイッチを押したら、何が失われるか。開始時点で既に死んでいる場合と生きている場合で結果は変わるか。言わないでくれ。残忍なんて言わないでくれ。もしもあなたが、蟻の巣に水を注ぐ幼稚園児がいればその肺に水を注ぐし理由は問わない、というのならいいけれども。言わないでくれ。意味のないことを考えるなんて言わないでくれ。もしもあなたが、過去も未来も一度だって考えたことがないというならいいけれども。全然、ちっとも、これっぽっちだって本当はよくはないけれど、諦めるさ、諦めるしかないだろ。でも、そうじゃあないはずだ。勿論、私は幼稚園児ではないし、あなただって全てを赦せるだけの存在ではないだろうし、私たちどちらも残された時間は長くないけれど、まだ希望はあるものとして考えたい。
学生時代にスコットランドで買った白地に紺のケルティック・ノット模様が描かれたガラス製のコップに牛乳を注ぐ。それから食パンを袋から出してちぎりながら口に入れる。今日も四口目が喉に詰まるので、牛乳に珈琲の粉をこれでもかというほど混ぜて飲み干すことでなんとか流し込む。当然、苦い。口直しに角砂糖を齧る。当然、甘い。程なく口の中は唾液の味に戻る。無味ではない。これは無を装った生命活動の味だ。本当の無は恐らくは死の後。カップを水でゆすぎ、そのまま水で満たす。歯ブラシを浸し、苺味の歯磨き粉をのせる。色こそ薄紅をしているが、当然、果汁が入ってなどいない。科学的な味で、甘くない。寧ろ、辛い。ホテルのアメニティや試供品で貰う一般的な歯磨き粉より幾分刺激がないような気はするがそれ程の差がある訳でもない。味を自称するだけで値段が少し高いこの苺味を私は買い続けている。その理由をあなたにあてられたい。
「歯磨き粉、それのおかげでまだ待てる」
訳知り顔の怪物(先に言ったが頭自体がボタン・アコーディオンだからこれは想像。そもそも存在からしてフィクション、最初から想像)はいつもより少しだけ明るい声で言いながら歯磨き粉を指差す。怪物の丸みの残る指の先にある爪の先が少し凸凹しているのを見て、私はまた扱いに悩み始める。愛憎、これは明暗や真偽とは別の種の二字熟語だと声を大にして叫びたい。愛も憎しみも同じような形でこの身体を動かしうるけれども、同じ数直線上にあるわけでも、排反的関係性でもない。そういうふうに思えてしまうのは、愛と憎しみがそれぞれ酸素と一酸化炭素に似ているからだ。身体に影響する時には、普段と違うようになる時には、大抵、どちらかだけが原因になるから。でも、原因にならなかった感情が存在しない証明がそれでできるわけではない。酸素と一酸化炭素の両方が空気中にあるように愛と憎しみは同時存在できる。愛憎の二字熟語を上下対になる漢字の組み合わせとする教科書は改定するべし。正せ、正せ、正せ。
蛇口を捻りそのまま流水に頭を突っ込んで髪を濡らしながら頭ごと洗うように洗顔した。六月の朝はぬるく優しく、ほんの少しだけカルキの匂いがする。気のせいかと思うほど薄いその匂いに、気が遠くなるほど底の深いプールに潜っていく妄想をする。綿麻の柔らかい寝巻きを脱ぎ肌に張り付くような硬いスーツを着るのが、なんだか水泳の授業前の着替えに思えてくる。
「スーツ着て出ていく人の背を見送る今日も秋だと思うばかり」
六月は秋ではない。旧暦ですら夏だ。それでもたぶん怪物が言わんとするのはそういうことではないとなんとなくわかっているから指摘はしない。
革靴に足を入れて、けれども学生時代とは違って小動物みたいな軽さの鞄を抱えて家を後にする。鞄の重さが私の命の重さだなんてそんなことはまさか思っていないが寂しい朝だった。