電車に揺られる。ぼくはぐるぐると回っていた。
今日は塾でテストを受けなきゃいけない日だ。クラス分けをするためのテストが第二日曜日にある。いつものように受験票や筆記用具、参考書、そしてさいごに水筒をリュックにいれて家を出た。
駅について車から降りるときにお母さんは「アキくん、がんばってね。あと昼ごはんちゃんと買って食べるのよ」と頭をなでた。いつもと同じだったのに今日はその言葉を聞くと、早食いしすぎたときのように息の塊がのどにつまった。言葉にはならないけれど、ただただ塾に行きたくなくなった。こんな気持ちは初めてで行かなきゃと行きたくないがごちゃ混ぜになっている。
なんとか乗りこんだ電車の中でそんなことばっかり繰り返して考えていたら、首から吊り下げているコドモケータイがふいに震える。あっ……と思ってつめたい汗がドバッと出た。たぶん到着メールが来なくて心配したお母さんからだ。とっさに通話を拒否してしまい、そのままボタンを長押しして電源を切った。いつのまに。窓の外に目をやると、もうとっくに降りないといけない駅は過ぎてしまっていた。
ぼくはやってしまったと思いながら、なんとか落ち着こうとまわりを見渡した。平日よりもずいぶんとお客さんは少ないけれど、それ以外はなにも変わらない光景だった。電気は付いているし、座っている椅子は青色をしていて長い。それにドアは二三分おきに開いたり閉じたりを繰り返している。いつもと違うのは焦っているぼくだけ。どれほど心の中でお願いしてもこの電車は逆方向には動かない。
最初の一周目では呆然としていた。落ち着こう落ち着こうとしてもなかなか心臓はおさまらなかった。ようやく心臓がもといた場所に戻ってきたころ、再び塾のある駅が近づいてきたけど、すでにその時にはもうテストなんてとやけっぱちに身を任せて降車しなかった。初めて塾をズル休みした。
次の一周では車掌さんの低く通る声がよく聞こえた。
「まもなく──でぇす」
「とびらがひらきまぁす、ごちゅういくださぁい」
電車が止まってとびらが開き数人が乗り降りして、
「とびらがしまりまぁす、ごちゅういくださぁい」
とびらが閉まって電車が動き出す。
「つぎは……」
そして一連のくり返し。その間延びした単調なアナウンスがぼくの体に入ってきた。これまで車掌さんの声を真剣に聞いたことがなかったけど、少し変なイントネーションに気付いた。段々と外国語のように聞こえてきて、段々と頭が働かなくなってきて、催眠術ってこんな風に掛かっていくのかなと思うほどに目蓋が重くなっていく。ぼくは耐えきれなくなって膝の上の鞄につっ伏した。
ふと肩をゆすられて目を覚ます。体を起こして隣をみると若い金髪の男の人がじっとこっちを見ていた。寝起きだということも相まって何が何やらで言葉が出ずに固まっていると、しばらくして彼は半笑いで口を開いた。
「君、塾をサボってるんでしょ」
知らない人に喋りかけられたからというより、一言で図星を射ぬかれたから緊張した。ぼくは焦って、鞄にでかでかと存在を主張している塾のロゴマークを隠す。
「そんなに慌てなくても大丈夫だよ。俺は別に怒るために話しかけた訳じゃないんだからさ」
そう言って肩をすくめながら笑った。初めて会った人なのにやけに馴れなれしいけど、自然とぼくの気持ちをほぐしてくれるような声色だった。
「じゃあ何でぼくに話しかけたの?」
「いやなに、お前こんな天気のいい休日だっていうのに塾をサボってすることが電車の中で寝るだけじゃあ寂しいだろ。だから散歩にでも誘ってやろうって思ってな。ってなわけで切りが良いここにしよう」
ドアがちょうどよく開いたタイミングでぼくの手を引っ張って外へ連れ出した。目に付いた駅名は「大阪城公園前」だった。前々から勝手に仲間はずれだと感じていた駅だ。だって、他の環状線の駅名はだいたい二三文字なのにここだけは六文字もあるから。
「その鞄はじゃまだからこの駅のロッカーにでも入れとけ」
ぼくは言われるがままにリュックをロッカーの中に入れた。鍵はズボンのポケットの中にしまう。改札を出た僕たちは歩きながら話す。
「俺の名前は刀弥。日本刀の刀に弥生時代の弥で刀弥な。大学で青春を謳歌しているピッチピチの二十歳だ」
「ぼくは昭です。昭和の昭でアキラ。小学五年生」
彼は自信に満ちていてはっきりとした声を発していた。対照的にぼくは内向的な性格でやっぱり消極的な自己紹介となった。いつも新学年が始まると自己紹介をするが、終始テンパってしまう。そんな自分が嫌だけど変えられない。それからも途切れながらも彼と話し続けた、そうしている内に砕けた口調になっていった。少しずつ大阪城が見えてくる。すると急に問題を出してきた。
「よし一年後に中学受験を控えているお前にクイズを出してやろう。歴史は得意だろ」
ぼくはこくりと首を縦に振った。歴史は確かに得意だ。塾のテストでも上位に食い込むレベルだから密かな自慢となっている。
「あそこに見えている大阪城は誰が命じて造らせたか知ってるか?」
「それは豊臣秀吉じゃないの? 大坂冬の陣、夏の陣だって豊臣が攻められたんだから」
すると、刀弥はこれ見よがしに人差し指をぼくの顔の前で振ってにやりとした。その仕草から、種類はまったく分らないが彼の罠にかかったと知る。きざったらしくても、顔が整っている彼がするととてもかっこよく見え、悔しさはなかった。
「お前もしっかり学んでいるな。けどちがう、豊臣じゃあないよ。たしかに初代大坂城は秀吉が造らせた。けど今見えている部分は違う。石垣や堀は徳川家が造らせた二代目の残滓で、天守閣は三代目。昭和に入ってから建設された、それこそ近代建築だ」
知らなかった分野と言えばいいのか、受験では使わない知識に体をなでられたような興奮を感じた。
「でも大阪府民でさえ、大阪城は豊臣氏が造ったと言う。これはなぜだ。俺は別に歴史の授業の価値がないと思っていない。大学で日本史を専攻している人間だからな。けど、一部の知識を得ると、段々派生していき真実と異なっていたとしてもロマン溢れる過去を浮かべるんだ。そして一度定着したロマンは真実に届きそうなものを拒む」
目の前には大阪城天守閣が視界いっぱいに詰まっている。確かに江戸時代よりも前に建築されたとするには、時代を見守ってきたという自負が足りないような気もしないでもない。小首をかしげたぼくに続ける。
「あともう一つ、すでに固まった知識が新しい情報に揺さぶられたときは必ず新しい情報もいろんな方向からみろよ。人間は学び続けないといけない。まっ、簡単に考えとけ」
一通りしゃべり終わった刀弥は、たこ焼き買ってやるからここのベンチで座って待ってろと言った。
刀弥さんは意外に大きな手でベンチに座ったぼくの頭をなでた。そのとき、手の重さで前髪がふいに目に入ったのでおどろいて、両手で目をこすった。
手で周りが見えなくなった瞬間。本当に一瞬でまわりに人がわらわらと出現したように騒々しくなった。人の会話や歌声が一帯に響きわたっていた。周囲を確認したぼくは何が起こったのか理解できなかった。大阪城の目の前にいたはず? 刀弥さんは? ぼくはどうやってここに来た? そもそもここはどこだ? いくつもの問いが答えをともなわずに次々と浮かんでくる。たくさんのスーパーボールが収拾付かなくなって跳ねまわっているようだ。何も状況を把握できないまま、目の前に突如として現れたお爺さんに話しかけられた。
「そこな坊主、それ食べないのならワシに分けてくれんかの」
欠けた歯をにたっとむき出して笑みをつくり、ぼくの隣に置いてあるたこ焼きをさした。彼の雰囲気は全体的によれていた。良い服だが、いろいろに汚れが目立つ。手入れのされていない髪の毛やひげは脂でくたっとしている。酸っぱいような臭いが鼻について、すこし怖かったけれど、一体ここはどこなのか訊ねたくて返事をした。いつもならそそくさと逃げていた。
「あの、ここってどこですか」
「なんだい、坊主は迷子だったのかい。ほほっ、こんなとこまで来て、ここは天王寺公園じゃな。この道をそのまま進めば、動物園と駅が見えてくるぞ」
天王寺……天王寺はお母さんに連れられ何回か訪れている。天王寺動物園と公園にも遠足で来た。こんな場所ではなかったと首をかしげた。というのも、ぼくが生まれたころに、大幅なリニューアルがあったと知っている。おじいさんが言うように場所的には公園であることは確かなようだ。でもダンボールとビニールシートの家がそこかしこに建ち並んでいるのはおかしい。
頭の中の整然とした公園と目の前の混沌とした公園が、目玉を境にして主張をぶつけ合って挟まれているぼくとしてはどっちつかずのままでいた。おじいさんはしれっと半分くらいたこ焼きを平らげてから、黙りこんだぼくに喋りかけてきた。
「何を考えとるんか知らぬが……、たこ焼き全部食ってしまうぞ。ほほっ」
そう言われ、我に返ったぼくは食べますと答えた。考えても理解できない現象に巻き込まれただけだと無理に納得させる。それよりも刀弥さんがぼくのために買ってくれたたこ焼きを食べなければと思い、おじいさんからたこ焼きの乗った舟を受けとった。口に含んだたこ焼きはまだ熱々でとてもおいしかった。
「ここはどういった場所なんですか?」
気になって仕方がなかった問いをおじいさんに投げかけた。記憶になかった家とそれを取り巻く歌声。大勢の人たちが思い思いの曲を流して歌っている。さっきから聞こえてくる歌はすべてぼくが知らないものばかりだった。
「どういった場所とな。そうさな、簡単にいうと家なし身寄りなしホームレスのたまり場、じゃな。」
ぼくは間近でホームレスを見たことがなかった。空き缶でいっぱいのビニール袋を三つも四つも乗せてのろのろと走っていた自転車がいた。車を運転しているお母さんに質問したとき、ミラーに映ったお母さんの顔はキッチンで虫を見て叫んでいたときと同じだった。お母さんの反応を思いおこしたぼくに、おじいさんは察したのだろう。
「家がなくとも金がなくとも人間じゃ、心はある。褒められれば喜ぶし、罵られれば怒る。今ここにいるみんなは青空の下で歌って楽しんどる」
生きてきた年月の長さだけさまざまな経験が体に刻まれている。ちょっとだけその重さを感じられた。いくらか目を合わせてじっとしていていると、
「たこ焼き、もらったからのぅ。ちょっとこっちに来なさい」
そう言っておもむろに歩き出した。後ろに組んだ手は節くれだっていた。その皮と骨に枯れた細長いそれをそっと目におさめ、付いていく。公園の木々はおじさんたちの明るい歌声で揺れている。
交番を過ぎて商店街にたどり着いた。道中で何度も「キグチさん、キグチさん」と話しかけられた。おじいさんの名前はキグチさん、とても慕われているんだなぁと後ろを歩くぼくは思った。
ある八百屋に着くとおじいさんはピタリと足を止める。そろりと中をのぞき込んで店の奥に座って編み物をしていたおばあさんにひとつ声をかけた。
「ほほ、景気はどうかの。頼みがあるんじゃがいいぶどうは入っとるかい?」
おじいさんは隣に立ったぼくの頭にぽんと手を乗せた。メガネを額にのせ、こっちを見たおばあさんはめいいっぱいに破顔した。
「おや久しぶりじゃないか、キグチのだんな。いやおかげで峠は越えましたわ。内の倅がやらかしたもんの後始末を任せちまって、あいつも感謝もせんで、ほんにすまなんだな。夫がいない今、ここらに顔の広いだんなの手がなかったらと思うと……」
何のことを言っているかは全然分らなかった。でも段々と嬉しさから悲しさへと移っていく八百屋のおばあさんの顔を、優しく見つめているおじいさん。キグチさんには後ろをついていきたくなる雄大さが細い背中にあった。
キグチさんとぼくはたこ焼きを食べたベンチまで戻ってきた。そこでもらってきたぶどうを二人して頬張った。
「うんまい、ぶどうじゃのぅ。うん、秋の味覚じゃの」
隣で子どものように口のまわりを汚して、秋を口いっぱいに味わうキグチさんにはさっきの雄大さとのギャップがあった。でもそのギャップが持てる人に憧れを持った。
「ねぇ、どうしたらキグチさんみたいな大人になれるの? 自由で、優しくて、みんなに好かれるような人に」
「こんな大人にはなるもんじゃないよ、坊主。家もなく家族もなくその内どこかの隅っこの方で野垂れ死ぬんじゃから」
キグチさんは食べる手を止めて、しみじみと言った。
「でもでも、キグチさんはみんなから笑顔をもらってるじゃん。ぼくは学校に行ったって塾の宿題をしなきゃいけなくて、友達もほとんどいなくて誰とも笑顔を交わさない」
「ふむ、嫌だと思うのなら、変わる努力はせんとならん。わしも極意なんて持っとらん。ただ、困っている人がいれば助け、困っていれば助けを求める。それだけじゃよ。あんまりやり過ぎてもならんぞ、なくしてはいけない物をなくしてしまったわしみたいになるからな、ほっほ」
ぶどうの果汁で濡れていない方の手でぼくの頭をなでた。それはぼくが小さいときに死んでしまった祖父になでられているような安心に包まれた。
暗転
また意識が途切れていた。激しい場面転換になれ始めた自分に呆れが出るが、今度はどんな場所かと期待する好奇心が出てきた。今ぼくはふっかりとした椅子に深く背もたれている。ゆったりと包み込まれる感じは、さっきのキグチさんの雰囲気に似ている。ゆっくりと目を開けるとくもりなき満天の星空が落ちてきそうな圧迫感があった。ゆったりとした空間に自分の存在が溶けていくような、それでいて自分の脈動が鮮明に聞こえる。暑くもなく寒くもなくこれまでで一番落ち着いている。
あぁ、あれは夏の大三角形、ベガデネブアルタイル。遠い昔のように思える七月七日、教室で女の子たちが盛りあがっていた。その日は小雨が降り続き、彦星と織り姫が会えなくてかわいそうと口々に言っていた。でもぼくは知っている。雨が降ったから会えないんじゃなくて、会えないから涙して雨が降るのだと。今年は二人会えないのだということが定めだったんだ。
刀弥さんとキグチさんと出会えても、それは運命だったから? ぼくは努力をせずともなるようになるのだろうと考えてしまう。夢見心地で星空を見続けていると星と星との間にふわりと光る直線がかがやいた。自然ではない星空、すこし頭をもたげてここがプラネタリウムであろうと気付いた。
ぼくはこのように複雑な思考をしていただろうか? 自身を見下ろしてみると連れ添ってきたそれよりも大分成長した姿をしていた。精神もそれに引っ張られているのだろう。今日に経験した怪奇な現象のひとつだと言ってしまえばそれまでなのか。齟齬なく体を動かせているのだから問題はない。
満天の星々の下、外界から切り離された場所でぼくの他にも人がいると気付いた。ひとつ席を空けた右側に女性が座っていた。首から赤いストラップのIDカードをぶら下げているので、ここの職員だと思う。名前は“井田 晶”。彼女もまたぼんやりと天井を見つめている。
そこにはただ何者にも汚されていない純粋な美しさがあった。糊のついた服装に肩で切り添えられた髪の毛の先まで神経が通り、彼女の周囲には見えない結界が現れている。それでいて、星空を眺める眼差しから無防備さが漏れている。
穴が開くほど見とれていた視線を察知した彼女は、微かに目線を星から移した。ぼくはどうしても彼女に触れたくなった。こんな風に思う相手はいなかった。あるいは幼い頃に月を手にしたいと感じた以来だ。
ぼくはすくと背もたれから離れ立ち上がった。小動物に近づくように彼女を怖がらせないようにゆっくりと。彼女は目線をこちらに向けたままじっとしている。境界に一足踏み込んでも彼女はじっと動かない、何を考えているのかも分からない。一歩一歩近づく、手を目一杯伸ばせば彼女に触れられる。
手を伸ばした。その時初めて彼女に動きがあった。その瞬間ぼくには後悔があった。青い衝動に突き動かされていたぼくは赤い羞恥が生まれた。
伸ばした手をぴたりと止めて引っ込めようとした。犯した罪は消えないけれど、それ以上犯さないように。
指先に弾ける温もり。彼女の方から手が伸びてぼくの手に触れたのだ。そして温もりは去っていく。残された手には紙片が残された。暗かった館内が急激に明るくなっていく。と同時にぼくの意識は浮上していった。
明転
ぼくはずっとぐるぐると回っていた。電車に揺られている。
意識が戻ったぼくは、目の前の明るさに慣れてゆっくりと目蓋を開けた。今までの夢に引っ張られて頭がくらくらしている。長い眠りから醒めてひざに乗せた塾のカバンにできた染みをそでで拭った。
枕代わりにしていた腕、その先の手の中に異物があった。かたく握りしめていた紙があった。くしゃくしゃになってたそれを両手で広げると思ったよりしっかりとしている。夢から持って帰ってきたとでも……
『オールトの雲』という単語が赤いボールペンで何周か囲われている。どうもこの紙切れは図鑑? をちぎったものらしい。どうりでしっかりしている。説明を読んでみると、『オールトの雲』は太陽系の一千倍もの距離で周回している球状の天体群らしい。彗星の源と書いてあった。
ああ分かった。これは彼女からの手紙なのか。窓から差してきた西日で照らされるなか走書きを見つけた。
これまでの自分が嫌ならば変わらないといけない。それを知るのが今日という日だったと決まっていたんだ。まずは両親に今日ズル休みしてしまったことを正直に謝るところから始めよう。そっと彼女からの言葉をつぶやいてケイタイの電源を入れたぼくの影は、朝よりも長くなっていた。
君はまわっている。知っている世界もまわっている。知らない世界もまわっている。けれど全てはまじわっている。