喫茶店がまだあったことに、私は驚きとも感心ともつかない気持ちになった。サイフォンはあの頃よりも新しくなっているが店全体に古い空気が残っている。鈍い音を鳴らす柱時計はまだ健在だった。ガラス扉がぎこちなく閉まるのを見届けて、私と先輩は席に着く。漂うコーヒーの匂いと暖房が私達を迎え入れてくれた。
「懐かしいですね、ここ」
「まあそうだね。長田と来るのは久しぶり」
「ってことは先輩は──、」
ひらがなで書かれた名札が頭をよぎる。あの日、私は別人だと思いたくて目を合わせられなかった。だから余計に名札のことを覚えてしまっている。
「すみません。今は一ノ瀬さん、でしたっけ」
「そう。坂口真尋あらため、一ノ瀬真尋です」
先輩でいいよと彼女はメニュー越しに笑ってみせる。歯を見せない笑い方は営業スマイルとは違う、昔からの笑い方だった。けれど、私の中で何かが違っている。何かとははっきり言えないが、それが私にとってよくないものなのは確かだった。
「ショートケーキと紅茶にしよ」
先輩からメニューを受け取る。パラパラとめくって、中身が変わっていないことを確認する。もう七年にもなるのだから、値段くらいは変わっているのかと思っていた。昔からずっとそうだと言ってたような気がする。私がアップルカスタードタルトとコーヒーを頼むと、先輩は笑った。
「長田はいっつも同じの頼むよね」
「……そうでしたっけ」
「なんか長田のお気に入りってイメージあるわ」
「いいじゃないですか。おいしいんだから」
別に私もそれしか食べなかったわけじゃない。いろいろ試した結果、ここで一番おいしいのはタルトという結論になっただけで。
この喫茶店はレトロなタイプのお店だった。落ち着きのある木材がいい色を出していて、カフェというよりは喫茶とかカッフェとかそういう言葉が似合っている。駅から少し距離はあるけれど、それが客数をほどほどに抑えてこの雰囲気づくりに一役買っていた。私はそれを気に入って、学生のときはよく先輩とここに通っていたのだ。
ガラスから外がよく分かる。ここに来る途中、この通りに新しい店が入っていることに気が付いた。シャッターも少し増えたような気がする。大学生らしき子達がスマホを片手にはす向かいのスタバに入っていった。
「長田はさ、最近どう?」
先輩も外を眺めていた。彼女にとってこの景色はどんなふうに映っているのだろう。聞いたところで明確な答えが返ってこないことは分かっていた。かといって「どう?」というアバウトな質問に私もはっきりとしたことが言えない。
「どう……。どうってほどじゃないですね。働いて、休んで、たまに趣味をして。その繰り返しですよ」
真面目に聞いているのかいないのか、ふーんと生返事をされる。私のことは面白くもないからいいのだけれど。
「先輩の方こそ、どうなんですか最近」
「どうだと思う?」
面倒くさい恋人のようなやりとりも、学生のときなら楽しかった。今となってはすっかり気持ちが冷めてしまっている。あの日からずっと、私は冷えたままだった。
年末を目前に、地元に帰ってきた私を迎えたのは空腹感だった。それなりの距離を移動して安心したからか、何か軽くつまんでおこうという気になった。どうせ実家に着けばあれやこれやとお菓子が出てくるのは分かっていたが、最寄駅からは少し距離があった。まあ歩いてカロリーは消費されるしと私は駅近くのコンビニに入った。
あと一個のチキンが目に留まってそれにしようとレジに向かうと、ちょうどレジ待ちの人が店員を呼んだところだった。
「今うかがいまーす」という声に、後頭部を内側からなぞられたような気がした。
気怠さと透明感の入り混じったその声を、私は決してこんなところで聞きたくはなかった。そんなまさかと頭の中で何度も繰り返した。貴女は、貴女はこんなところでくすぶっているような、そんな人じゃないはずだ。
気が付くと私は嫌に胸が高鳴って、顔を確かめずにいられなかった。端正な横顔を見て固まった。客の肩越しに見るその姿にはかつて感じたオーラがない。学生の頃よりメイクが大人しくなったことも、コンビニの制服を着ていることも関係ない。私はそれを認めたくはなかったが、七年の歳月はこの人にも平等に訪れたのだと思った。彼女はどこにでもいる、ごく普通の人に見えた。
会計を終えて私の番になる。目を合わせたくなくて俯きがちにチキンを頼んだ。ちらと名札を見ると知らない名字が書かれていた。もしかしたら勘違いじゃないだろうか。よく似ているだけの他人であってほしいと思った。もし本人だったとしても知らないフリをしてそのままスルーしてほしい。何故かは分からないけど強く願った。しかしその願いは打ち砕かれる。
「あれ、長田?」
私はそのとき酷い顔をしていたような気がする。
そうして、もう何年も連絡を取っていなかった先輩からメッセージが来て今に至る。彼女は歳を重ねた分だけ落ち着いていて、結婚までしていた。いや、結婚していたことは実家に届いたはがきで知っていたが、実際に会うまでそれを現実だとは思っていなかったのだ。スケジュール調整と帰省する手間を考えて断っていなければ、今みたいに失望することはなかったのかもしれない。考えたところでもう遅かった。
「……お金に困ってるんですか?」
ため息交じりに私は質問に答える。
「それもあるけど一番は──、」
先輩が私の目をまっすぐ見つめる。学生の頃ならドキッとして目を逸らしたかもしれない。薄茶色の目に私が映っている。彼女の瞳を通して、自分と目が合うような気がした。
「暇を持て余したからかな」
なにそれ。そんな理由で、よりにもよってコンビニのパートなんてしないでほしかった。もっと先輩にふさわしい仕事があっただろうに。例えばこことか。
愚痴のような言葉があふれてくる。その中で一つ、気になる単語を拾って先輩にぶつける。
「先輩、仕事はどうしたんですか」
「ああ。子供ができたから辞めちゃった」
「そうですか……」
結構いい会社だったような気がする。そこを辞めてパートをしているのは、なんというか贅沢なことのように思えた。
思えばこの人はずっとそうだった。いつも綺麗でなんでもこなせるくせに、他人が羨むものをあっさりと捨ててしまえる。掴みどころがなくてとしていて、世俗とかそういうものに囚われない人で、そういうところがかっこよかった。だから先輩は卒業したら私の手の届かないところで幸せになっているんだろうと、そう思っていた。
私が心の中でため息をつくと頼んでいたタルトとコーヒーが運ばれてくる。同時に先輩にもケーキが来た。「いただきます」と彼女が律儀に手を合わせるので、私もそれにならって「いただきます」と呟いた。
彼女はまずいちごを突き刺した。ケーキを食べていくと、だんだんいちごの重さでバランスが崩れて倒れてしまうから、最初にいちごを食べるのだ。一口、二口とかじっていく。
「生クリームで気持ち悪くなりませんか、それ」
「んー、ならない」
「私はちょっと前から生クリームいっぱいのやつだめになりましたけど」
「私はまだ平気」
不摂生をしているつもりはないが、甘いものを控えてるうちにクリーム系がだめになりつつある。ショートケーキのいちごは最後までおいしくいただくための工夫だったのだと気付いたときには感心してしまった。子供のときはいちごがすっぱいとハズレを引いたような気になったけど、大人になるとそれがありがたかった。
「食べないの、タルト」
「食べますよ」
「じゃあちょっともらっていい?」
何が「じゃあ」なのかは分からないが、私はどうぞと皿を寄せる。先端を少しだけ取って返された。彼女は目を閉じてタルトを口にすると納得したようにうなずいた。
「やっぱおいしいね」
笑いかけられて、私もタルトを口にする。しっとりとしたタルト生地が歯に当たって砕けていく。砂糖と小麦とバター、それからほんの少しの塩が舌を刺激する。それと同時にりんごとカスタードがやってきて、全体の甘さを整えてくれる。きどったところのない、私の好きな味だった。
「実は私も食べるの久しぶりなんだ」
先輩はティーカップを両手で取る。大事そうにそれをもって息で冷まそうとした。もう三十にもなるというのにこの人がするとあざとさを感じない。むしろ絵になるような気さえした。私はそのさまにしばし身動きが取れなくなった。
「機嫌なおった?」
「え?」
「いや、この前からずっと難しい顔してたからさ。何かあったのかなーって」
不機嫌を見透かされていたとは思っていなかった。正直なところ、先輩が人の機嫌を気にするとさえ私は思っていなかった。記憶の中の彼女はずっと遠くを眺めているような人だったはずだ。だが、目の前の彼女はさらに私を驚かせた。
「失望したでしょ、私に」
今目の前にいる女は、私が知っているどの先輩とも違っていた。私は意味もなく目を閉じてコーヒーを啜る。
「コンビニで会ったとき、なんか泣きそうな顔してた」
「そんな顔してません」
「ほんとに? 私にはそう見えたけど」
黒い水面が私の顔を映している。黙ってると人を不愉快にさせる、無愛想で面白くない顔。こんなことならカフェオレを頼めばよかった。息を吹きかけると、水面が揺れる。
「昔から、長田は私のことを崇拝してたと思う」
「……尊敬はしてましたよ」
「尊敬にしちゃ大袈裟かな。私にひっついてくるわりに、目も合わせなかった」
一目見て息を呑む。そんな経験を私はあれからしたことがない。大学一回生の春、くだらない新入生の群れとその勧誘が行われる中、すれ違うだけで目を奪われた。私の大学生活はこの人と過ごせばいいと確信できた。
彼女が通りすぎた後で声をかけなかったことを後悔したし、それ以上に安心した。でもやっぱり忘れられなくて、彼女のいるサークルに入った。先輩は話してみると意外と親しみやすかった。私の知らないことでも面白かった。一つ年上の先輩がとても大人に見えた。
今にして思えばただの憧れだったんだろう。私が一つ年を取ろうと先輩は変わらず大人に見えた。だからずっとこの人はこの人のままなのだと信じていた。
「先輩はすごい人だなって思ってたんですよ」
「うん」
「すごい人だから、私の手の届かないところにいてほしかった」
「うん」
「地元のコンビニなんかで働いてる先輩なんて、見たくなかった」
我ながら随分勝手だなと思う。人が何をしようとその人の自由なはずなのに。けれど、綺麗な思い出の、その延長線には綺麗なままでいてほしかった。
「長田」
名前を呼ばれ私は先輩の顔を見据える。やはり私の胸にあの頃のような感情はない。
「私は長田が思ってるより普通の人だよ」
換気用の窓から冷たい風が差し込んで、肺の奥に留まった。言われなくてももう分かっている。私が舞い上がってただけでこの人は多分ずっとそうだった。私の勝手な憧れが、今この人に私を否定させてしまっている。酷く惨めで、思い出の終わりにふさわしかった。
「私はね」
先輩の言葉に肩が震える。何を言われるんだろう。恨みつらみでも、絶縁宣言でもよかった。馬鹿な私を嫌悪しててほしかった。しかし待っていても先輩は何も言わない。
不意に柱時計が鳴った。依然聞いたときより錆びていた。午後四時を知らせる音は、長く感じられた。音が止むのを待ってから、彼女は今まで見たことのないやわらかな顔で笑った。
「私は今の長田の方が好きかな」
あ、子供のお迎えに行かなきゃ。先輩は荷物をまとめて立ち上がると、紅茶だけ飲んで出て行ってしまった。後に残ったのは冷めてしまったコーヒーとタルト、そして先輩の食べ残したケーキだった。私はフォークを突き刺してでたらめに頬張る。生クリームは意外とさっぱりしていた。先輩が会計を済ませていたことに気付いたのはもう一度柱時計が鳴ってからだった。
反対側の駅のホームは込み合っていた。当たり前だけど年明けを実家で過ごす人の方が多いのだろう。私は東京へ向かう新幹線を待っていた。ベンチには私と先輩と、先輩の息子が座っている。まだ幼いその子はようやく人見知りをし始めた頃らしく、私と目が合うとお母さんの裾を強く握った。「私に似てるでしょ」と言うが、今のところ似ているとは思えなかった。旦那さんの写真も見せてもらったが父親似とも思えなかったので単純に私には人を見る目がないのかもしれない。そのことに気付いて私は呆れた。
「帰ってくるときには連絡してね」
「分かりました。といっても、帰ってくるのなんてお盆と年末くらいですけど」
新幹線の扉が開く。私が立ち上がって先輩の方を振り返ると、目が合った。
「今の先輩のこと、好きじゃないけど素敵だとは思いますよ」
アップルカスタードタルトを食べながら出した結論だった。どうやってもあの頃と同じではいられないが、たまに喋るくらいならいいかなと思ったのは嘘じゃない。崇拝するのはもうおしまいだ。
窓越しに先輩が息子さんを抱いているのが見えた。彼女が何かを囁くとぎゅっとしがみついているのを片手だけ放し、彼がこちらに手を振る。私が振り返すと彼はびっくりしたようで、先輩の胸に顔をうずめてしまった。先輩と私は顔を見合わせて笑った。