澄んだ音がする。鍵盤の上をはずんで、丸く落ちた単純な音。
昔はよくこんな風にして弾いたものだ。人差し指だけで、スイッチか何かを押すみたいに。かあさんはそれでも僕を褒めてくれた。何にも興味を示さない子供だった僕を、かあさんはずっと心配していた。
◆
懐かしい夢を見ていたような気がする。薄く霞んだ視界に見慣れた天井が映った。クリーム色の壁紙に、アンティークのシャンデリアが煌々と光っている。そういえば、これも母さんがこだわって買ったんだっけ。半覚醒の意識の中、遠い記憶がぐにゃぐにゃと現在に混ざりだす。
「終わりましたよ」
低い声と同時に、シャンデリアの光を遮るようにして、ぬっと大きな人影が現れた。
僕はぎょっとして危うく悲鳴をあげかけたのを、すんでのところで呑み込んだ。
「ご、ご苦労様です」
「いえ。お休みを邪魔して申し訳ない」
表情一つ動かさないまま、彼はそう言った。意志の強そうな眼差しがじっと僕に降り注ぎ、僕はもぞもぞときまり悪く身を起こす。革張りのソファがきしきしと耳障りな音を立てた。
ここは母さんの仕事場だ。元、と称するのが正しいかもしれない。近所の子供たち相手にピアノを教えるのが彼女の仕事だった。
「すみません。こんなに寝てしまうつもりじゃなかったんですけど」
言い訳がましく思われるだろうか。別にそう思われたところで何も失いやしないのだが、ほぼ反射的に僕の顔は弱弱しい微笑を浮かべている。
「いいじゃないですか。ここは貴方の家なのだから」
彼は至極どうでもよさそうに応えた。多分彼にとっては、仕事以外のことは全部どうでもいいのだろうと思う。
「僕の家、ね」
「間違いではないでしょう」
「まあ。書類上はね」
母さんの知己であった彼には、事情を簡単に説明していた。説明というほどでもない。母さんはある朝突然息を引き取り、血がつながらないながらも唯一の親族だった僕に、彼女の全財産は受け継がれたのだというそれだけの話だった。
「まだ実感がわきません。母に叱られそうだ」
そう言いながら、母さんは決して怒らないだろうと思った。困った顔で笑って、あいまいにして、僕を責めたりなんかしない。僕はそれが少し悲しかった。
「──試し弾きしてくれませんか。なにせ年代物で、ここしばらくはずっと調整もできなかったものですから」
彼はいつの間にか、部屋の中央に座するグランドピアノに、寄り添うようにして立っていた。堂々たる主人に付き従う執事のような、あるいは馬を携える騎手のような佇まい。それは彼自身の職業意識を表しているようにも思えた。ぴんと伸びた背筋、左腕の肘から先の空白、上着の片袖が行き場を失って頼りなく揺れているのを見て、僕はそっと目を伏せる。
「『ねこふんじゃった』くらいしか覚えてませんよ」
「十分です」
「それも怪しいかも」
「なんでもいいんです。さわりだけでも。私は音の響きを確かめたいだけなので」
僕はしぶしぶ立ち上がった。
鍵盤を触るのはいつぶりのことだろう。おっかなびっくり、古びた椅子に腰かける。幼いころ、母さんに手ほどきを受けたときも同じ椅子に座った。重ねた年月がぎしりと呻く。
「嫌だな。何も思いつかない」
鍵盤の上に手を乗せては引っ込めて、僕は唸った。有名どころが次々に脳裏をかすめては遠ざかっていく。弾けない。弾きたくない。僕ごときが弾いていいものじゃない。
「好きな曲でいいですよ。それか、アンが好きだった曲でも」
アンは、母さんの名だった。ぴたりと思考の渦がやむ。僕は口をつぐんで、ゆっくりと手を伸ばす。かなりおぼろげになってしまった、遠い記憶の中にある歌。
「──パッヘルベルですか」
「ありきたりですよね」
「名曲は、えてして普遍的になりすぎるものですから」
「なんですかそれ」
しかつめらしいコメントに、ふっと頬が緩んだ。冗談なのか本気なのか、よくわからないことをいう人だ。
「母さんが初めて褒めてくれた曲なんだ」
たどたどしくメロディをなぞりながら、僕は小さく呟いた。古典的な和音。ゆったりと右手が歌う。彼は何も言わなかった。僕もそれでよかった。
「、え」
「なんですか」
「い、いや。びっくりして」
「スイングですよ。片手でも、合わせて軽く弾くくらいのことはできますから」
びっくりしたのは彼が一緒に弾き始めたからというよりは、むしろ、不意に隣にいたからだったのだが、そんなことは些末なことだった。長い指先が、軽やかにしなやかに、鍵盤の上を踊りだす。
「……ピアノ、弾くんですね」
「じゃなかったら、調律師目指そうとはあまり思わないんじゃないですか」
彼は微かに唇をゆがめた。不愛想な横顔はどことなく楽しそうだった。
やがて曲は終わりを迎え、始まりに戻る。僕はやめどきがわからなくて、そのまま惰性に任せて緩慢に音を鳴らし続けた。母さんは僕のことをずっと褒めてくれたけど、僕はそれに値する人間だったんだろうか。期待に応えうる人間だったんだろうか。きっとそうじゃなかった。大人になっても半端なままの僕は、一言も母さんに謝れていない。
「もう、もうやめましょう」
耐えきれなくなって、僕は曲の真ん中で手を止めた。
途端に、部屋に静寂が満ちた。主のいなくなった部屋はがらんどうで、僕だけが異物みたいだ。おしまいにした方がいい。彼女はもういなくなったのだから。
「……僕は、もうやめたんです」
「そう聞いています」
「このピアノも、母さんがいなくなったら売るつもりだった。母さんもそう言ってたんです」
「そう、聞いています」
「僕はもう弾けない」
古びた椅子の上で僕はうなだれる。叱られるのを待っている子供のような気分だった。実際、僕は待っているのだろう。もう子供でもないくせに。
「……少し、不安定ですね」
「僕がですか」
「ピアノの話です」
温度を感じない表情で、「私は医師ではありませんから」と彼はのたまう。冗談を言っているのか本気で言っているのかわからない。
「来週、また調整しに来ます。行く先はピアノを直してから考えても遅くはないでしょう」
「また来るんですか」
「お代は結構です。アフターサービスというか、私の自己満足なので」
「でも」
「嫌ですか」
端的な問いに僕はひるんだ。
静かな瞳が見下ろしている。あ、この人背が高いんだなとおもむろに気がつく。母さんの古い知り合いにしては年若そうだなということにも。
「嫌じゃないです」
自分の声が答えるのを、一秒後で聞いた。
彼は不器用に口の端を持ち上げた。どうやらそれで笑っているようだった。
「大丈夫ですよ。終わりはいつか来るものです。何事にも、どんなものにも」
帰り際、励ましでもなく諭すわけでもなく、彼はどこか自分に言い聞かせるように呟いた。ぴんと伸びた後ろ姿、上着の左袖は相変わらず所在無さげに揺れていた。