野菜、肉、飲料、菓子、その他諸々。購入した食料をリュックや袋に詰め込み、軽くない足取りでスーパーを後にする。
外は暗い。十一月にもなれば日が沈むのも随分と早くなり、五時半頃にはもう夜と言っても過言ではないほど暗くなる。気温の低下も相まって、冬の訪れが近いことを感じさせられた。
そろそろ服装にも気を遣っていかなければならないな、と。吹きつける風に体を震わせ、家路を進んでいく。
「ただいま」
家のドアを開けながらこぼした言葉は、真っ暗な部屋に消えていく。独り暮らしを始めたばかりの頃は、返事がないことに一縷の寂しさを感じていたが、一年と半年が経てば思うことはなくなった。
荷物を下ろし、明かりを点け、手洗い、うがいまでを機械的に済ませる。そして、それらが終わると部屋の隅にある押し入れの前に立ち、その戸に手をかけた。
「レイさん、ただいま。開けるよ」
断りを入れ、ゆっくりと戸を引く。
二段に分かれたさほど広くない押し入れ、その上の段で、彼女は膝を抱えて揺蕩っていた。当たり前のように重力を無視して、僕には水中でしかできないような、逆さまの状態でふわりふわりと浮いている。にもかかわらず長い髪だけはだらんと垂れ下がっていて、いつも前髪で隠れている顔が露になっていた。微かに口を開けて虚空を眺めている様子は、なんだか酷く退屈そうにしているように見えた。
「ただいま、レイさん」
そんな不思議な同居人に声をかけると、彼女は驚愕に目を見開いた後、すぐさま顔を髪で隠し、すーっと僕のもとへ近付いてきた。頬を膨らませ、腰に手を当てて身を乗り出してくる彼女は、もしかしなくても怒っていた。
「いや、開けるよって言ったんだけど……ああ、ごめんごめん。次からはもっと気をつけるから、ね?」
そっぽを向いてしまったレイさんを宥めるのは一苦労だ。レイさんは喋ることができないため、本当に機嫌が直ったかどうかは本人を見て判断するしかない。もし対応を間違えたときには、数日から一週間は押し入れから出てこなくなってしまう。
頭を下げて謝ること数分、どうやら気は収まったらしく、レイさんは白いワンピースを翻し、おもむろに七畳ほどの部屋を浮遊し始めた。怒ったり寛いだり、その自由気ままさは相変わらず猫のようだ。もちろん、それを口にすると怒るのは目に見えているが。
帰宅し、押し入れからレイさんを解放した後は、夕食の支度を始めるのがルーチンだ。今日のメニューは焼きそば。買い物袋から豚肉、野菜ミックス、麺を取り出し、それ以外の必要なものは冷蔵庫にしまう。
「……ん、レイさん」
野菜を炒め、豚肉を投入したところで、視界の端を白い影が横切った。どうやら一人でいることに飽きて、こちらを見に来たようだ。そんなレイさんは僕の周りを行ったり来たりしながら、のんびりと揺れたり、手元を覗き込んだりしている。
危ないよ、と一応注意しておくが、レイさんが従ったことはほとんどないし、その注意が無意味であることも分かっている。現にレイさんはフライパンの側面を指でなぞっているが、なんてことないと言わんばかりに得意気な笑みを浮かべていた。
「楽しそうだねぇ」
麺を入れ、適当に味をつければ夕食の焼きそばが完成する。その我ながらあまりに雑なやり方に、レイさんがもっと丁寧にやれと調味料を指差して訴えるのは、最早日常茶飯事だ。そしてそれを、僕は決まって却下していた。
「いいでしょ別に。レイさんは食べないんだから。僕はこれでいいの」
焼きそばをフライパンごとテーブルに持っていき、手を合わせてから箸を伸ばす。
麺類の利点は、適当に作ってもそこそこの味になるところではないかと思う。美味しい、とはまではいかずとも、悪くない、くらいの出来の焼きそばを、もそもそと口に詰め込んでは咀嚼する。
そんな僕の様子を、レイさんはテーブルの向かい側から観察していた。たまに作る手の込んだ料理のときなどは、食事中の僕にちょっかいをかけてきたり、減っていく料理を食い入るように見つめたりするものだが、今日のメニューには興味がないようだ。雑だという自覚はあるので、当然と言えば当然だが。
「ご馳走さま」
夕食の片付けを済ませると、シャワーの前に少し食休みをする。布団に寝転がれば、いい具合の満腹感に眠気がやってくるが、そうさせてくれないのがレイさんである。どうやらテレビを所望らしく、リモコンの上をぐるぐると回っている。
テレビから知らない誰かの声が響くようになると、先程までの眠気はどこかに消えてしまった。僕は寝転がったままスマートフォンのゲームをやりつつ、時折テレビを占領するレイさんを盗み見る。空中で正座したり、膝を抱えたり、横になったりする光景は、何度見てもシュールの一言に尽きた。
ちなみにレイさんが観ているのは、そこはかとなく胡散臭いショッピング番組だ。「空気清浄機が今なら三万円!」という宣伝に、レイさんが期待に満ちた目を向けてくるが、即座に首を横に振る。
「そんな顔しても駄目なものは駄目。高すぎて買えないよ、全く……」
がっくりと肩を落とすレイさんには悪いが、仕送りとバイトで細々と生活している学生に、たかが空気清浄機に三万円も出す余裕はない。もしあったとしても、もっと有意義な使い道を選ぶだろう。
シャワーを浴びて帰ってくると、番組は既に終わってしまったらしく、レイさんは天井を見上げて辺りを漂っていた。髪に隠れていて表情は窺えないが、きっと物憂げな顔をしているような気がした。
さっき僕は彼女を猫のようだと思ったが、こうしているときのレイさんは水槽の中のクラゲにも似ている。白くて、柔らかで、何を考えているのか検討もつかなくて、そして何よりも神秘的だ。僕が普段使っている七畳の部屋が、このときばかりは侵しがたい聖域のように思えた。
そのまま立ち尽くしていると、僕に気付いたレイさんがゆっくりと泳いできた。首をかしげ、どうかしたのかと問うてくるレイさんに、なんでもないと言って苦笑する。
就寝までの時間をどう過ごすかは日によって異なるが、課題がある場合はそれに充てるようにしている。インスタントコーヒーを用意し、パソコンを立ち上げた僕は、教科書を横目にキーボードを叩き出した。
「ここの章の要約だよ。哲学っぽい小難しい話だから、正直よく分かってない部分も多いけど、ここは多分こういう意味なんだと思う」
横から画面や本を覗き込んでくるレイさんに説明しつつ、文章を少しずつ進めていく。彼女への説明を通して、僕自身が新しいことに気付いたり、理解を深めたりするのは多々あることだ。おかげで作業が捗り、文字を打つ手も一人のときよりずっと早くなる。
勢いに任せて書いていけば、作業はあっという間に終わってしまった。とはいえそれは体感のことで、時計を見れば開始から二時間弱が経過していた。同時に、眠気と疲労感が同時にのしかかってくる。
「ふぅ……。レイさん、ありがとね。助かったよ」
長々と付き合ってくれたレイさんにお礼を言うと、彼女はふっと微笑し、その手を僕の頭にかざした。
それが触れられず、喋ることもできないレイさんのできる、精一杯の労いなのだということを、僕はよく知っている。
手を離したレイさんは最後に僕の周りを一周し、開けっ放しの押し入れへと帰っていった。戸を閉める直前、中の様子を覗いてみると、隅の方で体を丸めていたレイさんが、僕に小さく手を振っていた。
「……おやすみなさい、レイさん。また明日」
そんな彼女に手を振り返し、僕はそっと戸を締めた。