窓の外は闇に包まれ、ぽつりと立った街灯の影が道路に伸びる。もうこんな時間になったのかと慌ててスマートフォンを取り出し、メッセージを打った。
『今、友達について病院にいます。今日は泊まりになるかも。明日の夜までには帰ります』
今日は、今夜は家には帰らないかもしれない。そんな予感はあった。けれどこんなことになるなんて、わたしは思ってなかったのに。
嘘はついていないが家族に友達と出かけると伝えた手前もあるし、本当のことは言いにくい。
彼氏とのファーストキスで、その彼氏を病院送りにしたなんて。
その彼氏と出会ったのは、先月の大学の同級生との飲み会だった。といっても卒業して何年も経つし、同級生といっても何百人といる。見たことはあるけど覚えてない人がほとんどだったし、覚えが全くない人だっていた。会ったことがあるかも怪しいものだ。
そんなメンバーであったから次第に同窓会というよりは合コンのような様相を呈してきたのは仕方ないと思う。わたしたちはいわゆる『適齢期』で、いろんな職種の、身元だけは確かな同年代が集まっていたのだから。
別に独身ばかりではなく、恋人持ちも、既婚者だっていた。そういう人は同窓会のノリに徹するも火遊びに興じるも自由といった有様だった。わたしを誘ってきた昔のサークル仲間は、彼氏がいると聞いていたのに他の男とどこかへ消えていったし。まあ、そんなこともあるのだろう。
少なくとも出会いを求めて来たわけでもなく、けれど親しい人がほぼいなくて戸惑っていたとき。彼に声をかけられたのだった。
わたしは綺麗な人間ではない。まだ若輩ではあるが社会に出ていろんな人を見てきたし、男性と付き合ったことが皆無というわけではない。むしろ友人のことをどうこう言う以前なのだ。その時のわたしには、きちんとした相手がいたのだから。
仕事の関係で知り合ったその人は、一言で言えば真面目なひとだ。真面目で、穏やかで。その前の恋に傷ついていたわたしはその優しさに甘えて、ぬるま湯に浸かっているような気持ちで付き合っていた。そして関係が深まる程に、思ってしまうのだ。
本当にこれで良かったのか、と。
いわばわたしたちの関係は互いの妥協の末の帰結なのだ。互いに傷付けず、傷付かず。否、傷付けられないのだ。近くて遠い、その距離がいつまでも狭められないままだった。
だから、彼の存在はちょうどよかったのだ。
わたしは別れたくて、別れたくなくて。離れたいと思うこともあったけれど、ここで切ってはきっと二度と結びつかない、だから自分からは断ち切れない、そんな存在。二人で積み重ねてきたものなんてどうでもよかった。ただ熱情のない、惰性のような、それでいて簡単には切り離せない乾いた執着のようなものがそこにはあったのだろう。
彼はそこから抜け出す契機として、適格だったともいえる。
彼はそれでもいいよ、と言う人だった。どうしようもないわたしを、どうしようもない状況を、それでも面白がって見ていられる人。彼自身もとても楽しい人だった。
一方的に利用するのではなく、互いに楽しめるならと。久しくなかった恋ともいえない恋の予感に、わたしの心は浮き足立っていた。
一度目のデートは、水族館だった。最後に来たのはいつだっただろうか。希望したのは私ではあるけれど、楽しそうに振舞えていただろうか。水族館は顔色が悪く見えるというし。それ以前に、気がつくとふとあの人のことを考えている自分がいて嫌気がさした。
二度目のデートは映画だった。好みの内容ではあったから、きっと楽しめていたのだと思う。夕方の上映のあとはカフェでお茶をした。レモンパイの甘酸っぱさとあまりにも違う気持ちの自分。ティーカップに映るそれを一息に飲み干して、そっとなかったことにした。
軽くお酒を飲みに行こう、そう決まってすぐ手を繋いで歩き出した。まだアルコールは入っていない。けれど、久しく味わっていないふしぎな高揚感が既にわたしの内にはあった。
彼とのファーストキスは、レモンの味がした。
レモンパイの中のメレンゲがダメだったらしい。カスタードの下にメレンゲがあるのは珍しいな、そう思っていたのが命取りだったようだ。
数分後にいきなり苦しそうに喉をおさえた彼を見て、慌てて病院へと連絡した。幸いここはあの人が働く街で、近くに大きな病院があるのを知っていたから。
デートの場所を指定したのはもちろんわたしだ。万に一つもないだろうけど、デートを見られていたらどんな気持ちになるんだろう。そう、少し試すような気持ちもあったのかもしれない。だからといってこんな事態になるとは想定していなかったから、結果としては悪くない選択だったのではないかと思う。
彼はすぐに処置を受け、少し休むことで落ち着いたらしい。
「変な所を見せてごめんね」
彼が一番悪くなくて、一番大変な目にあったというのに。そうやってスマートに言えるところが好かれる所以なのだろうか。
「大丈夫。わたしこそ何も知らずにごめんなさい」
いいよと言うように笑顔を浮かべる彼。この人を好きになれたら、きっと楽しかったのに。
彼が診察を受けている間のことだ。メッセージを送ったあと、すぐに返信があった。
『大丈夫? 着替えはいる?』
あれほど聡い人が、気付いていないはずもないだろうに! 何がしたいのかと、短気なわたしが憤りすら覚えかけたときだった。
『僕は別れるつもりはないよ』
気付いていないはずもないだろうに。どうしてこうも、こんな男なのか。それとも結局、あの人もこの関係を断ち切れないのだろうか。早く見捨ててくれていいのに。ただの惰性ならば、これを理由にわたしとの関係には見切りをつけるべきだというのに。
あの人は静かな人だ。騒がないし、怒らないし、なにか気が付くことがあってもそっと対処して、あとは黙っている。面白みがない人だと、出会って最初の方は思っていたくらいだ。
彼のような賑やかな人とは、対照的なひとだった。
彼に声をかけられたとき、思ったのだ。これを知ったとき、お互いの妥協で選んだこの男は、どんな顔をするのだろうか、と。
「俺も油断してたから、君は悪くないよ。また来週にでも埋め合わせを――」
そう言う彼と付き合い続けるのは、きっと楽しいことなのだろう。でもおそらく、わたしは心からは楽しめない。それに、何よりも。
「ありがとう。でももうやめにしましょう」
さっき送られてきた写真には、レモンのタルトが写っていた。どんな気持ちでこれを買ってきたのか、帰って問い質さないといけない。もちろん、わたしも洗いざらい話すことになるのだろうけれど。
「家で、夫が待っているの」