カチリカチリと音が鳴るのは時計だけではない。私はお腹の外殻をスキンごと取り外した。今日は目覚めた時から微妙に調子が悪かったのだ。おかげでマスターよりも遅い支度になってしまった。
指先の感覚を頼りに異常を探す。他に影響が出ないように、慎重に身体の奥へと指を沈めていった。さながら血管の如く張り巡らされているコードはメインコアの活動のおかげで温かい。
しかし探ろうとも探ろうともそれらしい異常には行きあたらない。頭の角度から見る範囲にはなさそうだ。先週のセルフメンテナンスの時には何もなかったはずだ。異常は早く直してしまいたい。頭を外して直接見るべきだと思考回路は判断した。
「マスター、頭を外してもらえますか」
同じ部屋でキャンパスに向かって絵を描く彼女に呼びかける。いまいちはっきりしない声が返ってきた。この分だとメンテナンスは長くかかりそうだ。
時計はあと少しで夕暮れを迎えることを伝えていた。夕食の支度にはまだもう少し時間がある。私は一度外した外殻を手に取ってはめなおす。カチンと音がした後、スキンが馴染んで境目は見えなくなった。めくりあげた服を整える。箱に機材を戻そうとして、マスターと目があった。なんとまぁ、間の悪い。
「やめるの? メンテナンス」
「そのつもりだったんですけどね」
今だけは呼吸が欲しいと思った。ため息をつくためだけの呼吸が。
「で、頭外せばいいんだっけ」
「もういいですよ。中身を露出した状態で頭を外すのが不安だっただけですから」
「ふむ、じゃあ折角だから私が見てあげよう」
「いいですって。絵はどうしたんですか」
「行き詰まり。同じ行き詰まりならこっちの方が先に解決しそうじゃない?」
一理あると思う一方で微妙に納得したくなかった。ことのついでみたいに私の身体を直さないでほしい。
「とりあえず」
マスターがやると決めたのなら、私に選択権はない。ただし機械の身として譲れないものもあった。
「何?」
「手を洗ってきてください」
自分の手を少し見て、「それもそうだね」と手を構えたままの姿勢で部屋を出ていった。
その間に私は服を胸のあたりまでまくる。プログラムに命令を出すと、スキンの境界に青い筋が走り、カチリカチリと音を立てながら外殻が前に出た。スキンに傷をつけぬよう慎重に取り外して机の上に置く。
普段身を守っている外殻が外れると途端に心もとないような気がしてくる。実際、無防備になっているので危機を感じて当然なのだが、それもあってメンテンナンスはあまり好きになれない。本当は繊維が隙間に入るのでよくないのだが、まくった服を元に戻す。週に一度やると決めても、避けたい気持ちはあった。
「お待たせ」
ゴム手袋をつけ、さっきと変わらない姿勢で戻ってきた。意外にも真剣な面持ちをしていた。彼女は机の上の外殻をちらりと見る。
「始めようか。服めくって」
マスターに命令されれば拒めるはずもない。私は自分の内側を彼女に晒す。
「久しぶりだなぁ。のぞみの身体見るの」
呟きながら、彼女の手がコードに触れる。二本の指で形を確かめるようにそれをなぞっていく。コードの細さを感覚で理解する。自分で触ったときにはなんてことのなかったはずの感触が、妙にくすぐったいような気がした。
「まぁ自分でメンテナンスをしていますので」
指はさらに細部を探るために奥へと進んでいく。自分では触れない位置に、中身が詰まっていることを感じる。鈍くはあっても触れられている感触だけは確かにあった。こんなところにまで触覚を作りこんだマスターを少し恨みたくなる。
腰の奥の辺りまで来たところで、手がぴたりと止まった。
「ああ、これは接触が緩くなってるね」
彼女はバランサーを指で叩く。くらりと後ろに倒れてしまいそうな感覚。軽い音が体内に響いた。手が腰に強く押し付けられ、カチンと何かが差し込まれる音がした。
「多分これで大丈夫だろう」
「ありがとうございます」
彼女の両手が私から出ていく。お腹の中になにか空白があるような気がした。錯覚だと理解はしていた。私は急いで外殻をはめ直す。まだ、腰の奥にマスターの感触が残っていた。
立ち上がってくるりくるりと回る。ロングスカートがふわりと舞う。システムは異常なしと判断を下した。
「問題なさそうでよかった」
ゴム手袋を外しながら彼女は言う。
「他もざっと見たけど異常はなさそうだしね。セルフメンテが上手くいってる証拠だよ」
「ありがとうございます」
私はスカートの裾をつまんで古いメイドスタイルのお辞儀をする。
「のぞみの身体を最後に見たのも随分前だからね。もしかしたら直せないんじゃないかって少し思ってた」
「どういう意味ですか。私を作ったのはあなたでしょうに」
「いや、そのままの意味だよ」
マスターはキャンパスの前に座って筆を取り直した。赤い絵の具がかき混ぜられて弾力を失い、筆先にべったりと付着した。窓から差し込む西日と相まって、より濃さを増している。
「のぞみは当たり前のようにやってるけど、自己修復機能って実は大昔に禁止されててね」
絵の中の夕焼け空に赤が重なった。目を離せばとけて変わってしまいそうな赤。いつかマスターと見た空を思い出す。私達以外、もう誰も見られないあの赤い空を。
「そうですか。人の手を煩わせない、機械らしい機能だと思いますが」
ふふふと彼女は笑った。私が機械目線でものを言うと、彼女はいつも満足げに笑う。不思議と馬鹿にされていると感じたことはなかった。
「人の手を離れていっちゃうんだよ。特に高度な人工知能を搭載していると。より丈夫に、より優秀になろうとするから」
遠回しに自分が優秀ではないと言われている気がした。彼女は私に成長を期待しているのだろうか。
マスターの手を離れることを──?
「のぞみを作った時はその辺苦労したなぁ」
私の思考を意にも介さず、彼女は感慨深そうに言う。
「でしたらそんな機能、つけなければよかったのに」
「そういうわけにもいかないよ。のぞみのためにも私のためにも必要だったんだ」
思考回路はその言葉の意味を探る。マスターは何かに気付いたようにふと手を止めた。椅子に座ったままの私と目が合う。夕陽が一層その色を増した。
「ねぇ、私よりも長生きしてね」
彼女はどこか自分に呆れたような、納得したような顔をしていた。時折見せるその表情を私はいまだに芯から理解できていない。
それとは裏腹に、思考は先ほどの言葉の答えを一つ提示していた。感情がそれを受け付けないでいる。
「それは、命令でしょうか」
自分の口から出た言葉は随分と無機質に聞こえた。感情では処理しきれない、思考から出た懇願だった。これが命令であればどれだけ楽になれるだろう。これが命令であればどれだけ自分を恨まずにいられるだろう。
しかし、彼女は残酷だった。
「ううん、これは命令というよりはお願い。のぞみには私がいなくなった後、自由でいてほしいから」
胸のメインコアが悲鳴をあげる。急な負荷に熱がこもりそうになる。頭のプログラムはどこまでも冷静に、彼女の言葉を理解していた。
貴女は、貴女は私の終わりを考えてはくれないのですね?
私は俯いて自分の手をじっと見つめた。人肌と変わらない、柔らかなスキンに包まれた手。確かなぬくもりはあるのに、内側はただの配線に過ぎない。血も、涙も、私には流れていない。あの人と一緒ではない。
涙が欲しかった。しかし、それ以上に泣きたくなかった。
「うん、よし。完成」
彼女はカタンと音を立てて椅子から立ち上がる。
「のぞみ、これ乾いたらアトリエに飾っといてね。……のぞみ?」
俯いたままの私にマスターが駆け寄ってくる。ああ、今私はどれだけ酷い顔をしているだろう。見られたくはなかった。涙も流れないのに、顔を両手で覆う。
「ごめんね、のぞみ。これは私のエゴなんだ」
マスターは私を胸に抱き寄せる。髪の一本一本を分けるように丁寧に頭を撫でた。
「ただ作品を保存するための機械なら、感情も思考もいらない。でも私はこうして言葉を交わせる相手を望んでしまった」
彼女の心音が伝わる。たったひとりの音だった。私には伝えられない音だった。この内側には今どれだけの葛藤があるだろう。
「あなたを人間の都合に縛りたくはないの。私のわがままに付き合わせたから、のぞみには自由でいてほしい」
ごめんねと言って彼女はそっと私を向かい合わせた。
「それに適うだけのものは与えたつもり。パパとママが私にそうしてくれたように、私ものぞみにそれを遺したい」
彼女の目に嘘はなかった。真摯で、いびつで、自分が矛盾していることくらい分かっているのだろう。私は何も言えなかった。彼女のわがままを聞き入れたいと思った。それはプログラミングのせいかもしれない。結局、生みの親の手で踊らされているだけかもしれない。それでもよかった。私は彼女を力強く抱きしめる。マスターはただ、腕を添えるような強さでしか抱き返さなかった。
あぁ、神様。出来ることなら、彼女と共に終われる命をください。