懐かしい斜陽の中、道の脇に赤いテントウムシが蠢く草むら。晴れ。今日も彼と私は一緒に下校した。彼は鞄を肩に乗せ、私は鞄を後ろ手に持っている。数歩先を歩く彼がこちらに振り返り、止まる。私も、止まる。
「なぁ、お前はどうすんの、来年から。俺は一人で上京するよ。ほら、前に言ってたろ、将来の夢。それを叶えたいだけ」
「私は、……何も決まってないよ。国公立に行きたいってくらいかな。君みたいな夢すら全くないし。……うん」
私は顔を伏せながら答える。嘘だった。少しして彼はまた前を向いて歩き始めた。いつものように彼は私の放った言葉に何やら言いたそうにしているが、いつものように何も言わない。私も黙って彼の後ろについていった。
あれから私の家の前まで、私たちの間に一つも言葉は生まれなかった。
「じゃあ、また月曜日に。またね」
私はドアを閉めた。
「明日、空いてるか」
ドアが半分以上閉じてから、急に彼は言った。私はもう一度ドアを押して、門廻りの外にいる彼に答える。
「うん、空いてるよ。何かあるの?」
「ああ、丁度いい、付き合え。明日の朝八時半、近所の公園、いつもの時計の下にあるベンチに集合だ、大丈夫か?」
「何か持っていくものは?」
「持ち物は何もいらない。金も。金は全部俺が払うから。服とかは、好きにすればいい」
相も変わらず彼は無愛想だ。
「分かった、じゃあね」
私は手を振りながら、再びドアを閉めた。
「ただいま」
「おかえりー」
向こうの方から母親の声が聞こえる。夕飯の支度をしているのだろう。とんとんと野菜を切る小気味よい音と、ことことと鍋を煮込んだ食欲を亢進するよい香りが、リビングを挟んだキッチンから漂ってくる。テーブルの上に置いてある私宛の封筒を手に取った。軽い。その軽さに気落ちしながら階段を上り自室に入った。
普段着に着替え、ベッドの上に投げた制服を畳んでから、月曜日の時間割を合わせておく。学習机の上に並んだ学校の教科書の横に、読み込んで端がへたった資格の教本が数冊続く。服飾、色彩関連の本が大半だ。一応、あまりに薄い封筒の封を切る。やはり紙面上の文字を見ていると、今いる場所からは終着点が全く見えない。いくら頑張っても私の夢は遠のき、陰鬱さに囚われ身動きが取れない。この場所から抜け出したかった。
つと、天道虫の発見や彼との出会いが懐かしく思われる。
彼ら一家が隣の家に越してきたのは小学校に入学する一、二ヶ月前。三寒四温、休日だったはずだ。でも、その日は外に出たくない寒さだった。新しく家が建ったのは知っていたけれど、どんな人たちがやってくるかは知らなかった。おやつ時にインターホーンが鳴って、こんにちは~、と声がする。私はリビングのソファに寝そべっていた。お菓子をつまむ手を止まり、視線はテレビに釘付けだった。来客の対応をしていた母が、父と私を呼び仕方なく起き上がって向かった。
玄関には越してきた家族がいた。父親、寄り添う母親、そして足の影に隠れている男の子。美男美女の家族だった。
大人たちは玄関で少し話してから、家の応接室で続きを話すことにしたようだった。私も話を聞いていたが、どんな内容だったかは既に記憶がない。大人たちに子どもだけで遊んでくるように言いつけ、またも話し込み始めた。自分の年齢を棚に上げて、子どものお世話なんてまっぴらだわ、なんて思っていた。男の子のことは放置して、このまま応接室に居たかった。でも、応接室を急かされるように追い出され、仕方なく男の子と一緒にリビングに向かった。
リビングには食べかけのお菓子がある。まぁ、お菓子を放って玄関に向かったから当然ではあるが、そのお菓子を食べきってしまおうと思った。と同時に、私はテレビで止めていた美少女戦士の映画を再生する。男の子への感情は、祖父が買ってきた所々欠けている骨董品、巨大な女性の半身像への感情と同様に無関心であった。ちなみに、祖父の買ってきたもの自慢は幼稚園児ながらに鬱陶しいなと聞き流していた。
丁度お菓子を食べきった頃、部屋を見回していた男の子が話しかける。
「ねぇ、あの絵、きみがかいたの?」
ドアのすぐ側、壁に掛けてあった一枚の絵を指さした。その絵は幼稚園の遠足に行った思い出を残そう、みたいな授業で描いたテントウムシの絵だった。
近くの公園に着いてお昼休憩になったとき、小さな草むらの影に隠れた気になる小さな穴を見つけた。なぜ気になったのかはもう思い出せない。友達たちがボール遊びをしているのを尻目に、私は穴を掘じくり広げていった。今思い返せば、リュックにスコップを入れておいたのが吉だったのだろう。結構深くまで掘ったときに、不自然に小石が多く出てくるようになった。
その奥に蒼色が煌めいた。蒼という漢字さえ知らなかった私は、宝石のような色に惹きつけられたのだ。それがふらふらと宙に浮き、利き手に止まった。もっとその色を見たくて顔を近づけてみると、どうも蒼色の羽に黄金色の星が瞬く「夜空」のような天道虫らしかった。こんな色の天道虫は初めて見る。よろよろと手のひらを歩き回り、その内に薬指を登っていき、ついには晴天へと飛び立っていった。太陽の光を反射し浮かんだあの色は目に焼き付き、今でも素直に綺麗だと感じる。その天道虫を遠足の思い出として絵にしたかったのに、結局蒼色が再現できなくて青色にしかならず、悔しかったのもあの時の思い出だ。
あまり人にその天道虫の話をしたくなくて素っ気ない態度でいる。
「ええそうよ」
男の子を一瞥してそう答えた。アニメが佳局を迎えていたので、すぐに男の子のことなど眼中になくなった。
お母さんの作った料理を食べ終えたと同時に、お風呂が沸き上がったアナウンスが流れる。
私は食器を台所に持って行き、食器を片付けてからお風呂に入ることにした。テレビを見ているお母さんの脇を通って、脱衣所に向かう。
服を脱ぎ、鏡で自分の姿をぼんやりと眺めた。下着は上下で揃えている。私の一番好きな色に近い色味を探し出した。高校生の私にとって、繊細な刺繍は艶やか過ぎるのかもしれないが、お気に入りなので体育の授業がない日には頻繁に身につけている。
生まれたままの姿になった私は頭から順に隅々まで洗い、一息ついてから湯船にゆっくりと鼻の下ぎりぎりまで浸かる。体の芯まで温もってからお風呂を出る。バスタオルに体を包んで、水滴を優しく拭う。寝間着を身に着けて、鏡の前でドライヤーをかけた。水気を含んだ髪の毛、風が重みを掠ってゆく。
充分に髪が乾き、さらさらと指からこぼれるようになった。リビングに入って、お母さんの隣に座りテレビを眺める。レンタルしてきた映画らしかった。多分画質の荒さからして私が生まれてくる以前の作品だろう。
エンドロールが始まったのを見計らって尋ねる。本当は違うことを言いたいにも関わらず、尋ねた。
「今日、お父さん何時頃に帰ってくるの」
お母さんは画面から目を離さずに応える。
「さぁ。夕食は要るって朝に言ってたから、そこまで遅くならないのかしら。何か相談でもあるの?」
「うん、ちょっとね」
今度はお母さんがこちらに目を向ける。私はほんの少しだけ体を震わせた。曲は愉快な旋律。どこかで聞いたようなキャッチーな歌詞。どの映画にも有りがちな黒地に白字。幾分か無言の時間が過ぎ去り、色々と言葉を巡らせている内にいつの間にかメニュー画面になっていた。
「部屋で勉強してくる」
またお母さんに言えなかった。だからといって、お父さんに言える訳でもないのだから、ただ単に問題の先送りをしただけ。いつかは言わなきゃいけないことは理解しているが、勇気が出なかった。決してお母さんが嫌いな訳ではない。掃除や洗濯、食事など家事の全般をやってのけ、その上で私に何か悩み事があると察すると優しく問いかけてくれる。それを無碍にしているのは、何時も私だった。
今も変わらぬ位置に青いテントウムシの絵が飾ってある。
目覚ましの音で目を覚まし、カーテンを開けた。曇り。休みの日にしては大分早く起きた。今日は彼との約束で早々に家を出なければならない。私は手早くクローゼットの中から水色のAラインワンピースを引っ張り出して身に着けた。すぐに階段を降りた。洗面所で歯を磨き、長い髪の毛を撫でて整える。鏡の前でくるっと回り、裾が綺麗に広がるのを確認して洗面所を出た。
「おはよう」
「おはよう、今日は早いのね」
「うん、外に出る予定があるから」
私は冷蔵庫から取り出した牛乳を流し込み、台所から取ってきた食パンを飲み込んだ。情報番組の八時丁度の天気予報によると、快晴であるはずの空が夕方から明日未明にかけて崩れるかもしれないらしい。彼の用事が夕方までに済むのだろうか。一応、鞄に折りたたみ傘を入れた。腕時計を右手首に嵌める。最後に学校の革靴の隣りに置いてあるフラットパンプスに足を差し込んだ。外に出たときに腕時計に反射した太陽が目に入って痛かった。
「行ってきます」
「ええ、行ってらっしゃい。あんまり遅くならないようにね」
お母さんは玄関まで見送ってくれた。
公園に着いた。ここで集合するとき、いつもは私の方が先に着いてベンチに座って待っているのだが、今日に限ってベンチの側に彼が佇んでいた。時計は八時十五分、彼はいつもよりも十分ほど早く来たのか。橙色のネルシャツに黒いスキニーだった。私に気付くと、組んでいた腕を解いて軽く手を挙げた。私も頷いてかえす。
「来てくれてありがとう」
「うん、別に。どこかに行くの?」
「水族館に行こうと思ってる」
やっぱりいつもの彼と違う気がする。何というか、言葉や仕草から緊張した雰囲気を感じるのに、その一方で表情、特に目元からは弛緩した雰囲気を感じる。おそらくは彼の中に両立してしまっているある種の矛盾が、私に違和感を抱かせているのだろう。
少し戸惑っていると、
「ほら、早く行くぞ」
と言って、優しく私の手を取った。公園を出て駅へ向かった。
初めて水族館前の駅で下車する。床、壁、天井にはポップな生き物が様々に舞っていた。陸の上では生きていけないはずの色とりどりな海洋生物。それら全てが深目の青色に包み込まれている。水族館に来たという実感が得られた。
駅の改札を抜け階段を降りると、前衛的とまでは言えないが中々に特徴的な外観をしている水族館が見える。遠くに見える六つ全ての券売窓口が稼働していた。長蛇の列ができている。その最後尾に並んだ。沈黙が続く。どうして私をこの水族館に連れてきたのかが気になり、喉の下の方にまで言葉が出かかっていたが、結局は喉で詰まる。
高校生一人の料金が千二百円、計二千四百円だった。初めてこの場所に来た私にとって、この値段はとても高く感じた。金額と価値を天秤にかけるという少し捻くれた見方さえもしてしまう。いくら彼が連れてきたから、彼がお金を出してくれるからといって、罪悪感が湧き上がってきた。
ガツンッ、と視神経を通して頭を殴られた。
それまでのネガティブな考えは一瞬にして吹き飛ぶ。明瞭でくっきりとした外の景観とは打って変わって、エントランスは漠然とした薄暗がりになっていた。数多の人影の奥から水を透過した自然光が漏れ出て揺らめいていた。私は彼の手を引っ張って、人波をゆっくりと掻き分けて大水槽に近付いた。世界一大きいというその水槽には、青、赤、黄、白、黒、又はそれらが複雑に交じり合った様々な色が渦巻いていた。駅の絵を見て想像していたよりもずっと多くの色が水槽の中に見て取れたが、その全ての色が調和を崩さずに海水の瑠璃色に包み込まれている。もちろん色を担っている生物たちは活きているのだから、色は水槽の中を遊々と動き廻る。
彼に促されて二階にあるベンチが並ぶ部屋へと連れられた。さっき見た水槽を見る為だけに作られた部屋のようだった。他のお客さんたちは先々と次の展示を見に行くのかして、局所的に人口密度が低かった。私たちはベンチに座る。私は一刻一刻と過ぎ去っていく時間の中で、創り出されていく唯一無二の景色に黙って見入るしかなかった。
駅に着く頃に夜空に明るく月と星が散らばっていることに気が付いた。やっぱり天気予報は当てにならない。それまで二人の間は言葉少なに歩いていたけれど、家に着きそうになったときに彼が突然話しかけてきた。
「俺、実はお前とあの水族館に行きたかったんだ。この前あそこに行った時に、お前がめちゃくちゃ好きそうな色が溢れていたからな」
待ち合わせのときよりも強い緊張を滲ませて話し始める。私も自分の好きな色が彼にばれていたと知り、ともすれば将来についての嘘も察しているのではと少し緊張を感じる。
「うん、特にあの大水槽、とても気に入ったよ」
「そりゃよかった。……少し時計の下で話していかないか?」
そう言って彼は朝に待ち合わせしていた場所に目を遣った。月の光が反射する時計の下のベンチに並んで座る。水族館でもこんな感じに座ったなぁ、と思ってしまって不意に笑みが澪れた。
と、彼は繋ぎっぱなしだった手を離した。そして、どこからか一つの箱を取り出し、私の方に差し出した。家族以外から贈り物をされない私はおずおずと受け取り、艶やかな青いリボンを解いた。
蒼。
黄金色の小さな斑点が鏤められており、宛らさっき見上げた満天の星空を凝縮したものが手の中にあるようだ。
蒼い宝石が主役となった銀のネックレス。
「これは?」
「ラピスラズリだよ」
ラピスラズリといえば、画家が青色を描き出そうとしたときに使う高価な顔料だったはずだが。その材料はこんなに綺麗な宝石だったのか。『真珠の耳飾りの少女』、あるいは『青いターバンの少女』。絵画の中で振り向き現実世界の住人を意味深に見ている少女の感情の揺らぎである喜怒哀楽はターバンの色で決まる、という話も聞いたことがある。それほどに重要な色であっても私はそこまで好きにはなれなかった青色だった。でも、青色の原材料となった蒼色は一目で好きになった。
「お前、「ちょっと待って! その先は私に言わせて」
これ以上彼に嘘を吐き続けるのは嫌だという気持ちが、心の内で沸いてきて我慢できなくなった。私の口は私のものじゃないみたいに滑り出す。
「私には将来の夢があるの、幼稚園の頃からの夢が。リビングに飾ってあるテントウムシの絵、知ってるでしょ。あの絵に描かれたテントウムの色、覚えてる?」
「……あぁ、蒼色だろ」
「信じてくれないかもしれないけど、私は蒼色の天道虫をほんとに見たの、あの色が私に夢を与えてくれたの」
あの時のように手に乗った「夜空」を感じ、あの時のように人生を変えてくれる予感がした。一息、吸い込んだ。
「実は昔からデザイナーになりたいと思ってたの、しかも、この『夜空』のような蒼色がテーマの世界で通用する自分のお店を持ちたいと思っているんだ。で、高校を卒業したら留学しようって考えてる。やっぱり、もっと色彩とか服飾とか学びたい!」
やはり彼は動揺したようだが、少し目を瞠るにとどまる。ネックレスの入った箱を乗せた私の左手を、彼は両手で包み込んで優しく握りしめた。そして、真っ直ぐなその瞳が私の瞳と絡み合ったときに言った。
「お前が何か隠していることは気付いていた。けどそんなにでっかい夢を持ってたとは思わなかったよ」
すこしだけ口角を上げ、続ける。
「お前は大人しいけど、実は頑固な奴だって知ってるし、本当は気が強い奴だって知ってる。だから、絶対叶えるだろ? その夢が叶った後、もし俺が自分に相応しい男にだって感じたら、結婚してくれないか?」
「……、……」
「別にすぐに決めて欲しいって訳じゃないから、落ち着け」
端から見たら可笑しいくらいに、目が忙しなく動いていたと思う。奥底にあった彼へのどぎまぎした気持ちが、彼からの言葉で表層に浮かび上がってきて散らかっている。彼のことなんて何とも感じてなかったはずだけど、本当は将来に無我夢中で蓋をしていたみたい。彼に対する純粋なる恋慕なのかと問われれば頸を傾げざるを得ないが、その感情は夢で形造られた分厚い蓋を叩き割る位の動力が備わっていた。
私たち二人はしばらく無言の時間を過ごした。
消灯した部屋、ベッドに寝転んで今日あった出来事を瞼の裏で振り返り、一筋の光を見た。はっと目が醒める。体を起こして深く考える。私が求めて止まない蒼色が、どうして私になかったのか。様々な色を包括した碧色で満たされた水族館の大水槽。碧色に一種の蒼色が潜んでいたから、あれほどに見入ってしまったのではないか。いや、蒼い天道虫も様々な色が飛び交う世界にはっきりと存在していたから、私の心を痛いほどに惹きつけたのだ。そのことに気付かず、私は蒼色が蒼色に完結していると取り違えてしまい、光のない袋小路に迷い込んでしまった。本末が顛倒していた。私はひとりではない、彼は私のことを信じてくれていた。家族もまた然り。今すぐにでも両親と話したくなった。
時計のアラームが鳴る。外では鳥が鳴く。今朝の目覚めは普段よりも爽快だった。これまで両親の厚意を無碍にしてきたので、将来の夢に対してどのように言われるかは心配ではある。けれど、これまでよりも明確に目標へのビジョンが見えている今、自分が意気地を出さなければ先には進めない。
決意を固めて階段を降りる。リビングでは丁度朝食ができたばかりだった。おはよう、とお母さんがエプロンで手を拭きながら、キッチンから出てくる。お父さんもコーヒー片手に読んでいた新聞から目を離し、おはようと言う。
「おはよう。今日お父さんとお母さんに話があるんだけど、時間あるかな?」
「大丈夫だよ、二人とも外に出る予定はないからね」
お父さんもお母さんも、優しさの込った笑顔を私に向けていた。
「先にすることをしてしまおうか」
「うん」
一段落ついた時間、私たち三人で食卓を囲む。私の前に二人、肩が触れあうか触れあわないかの距離で座っている。子どもの頃から変わらずに両親は仲睦まじく、結婚するならこんな夫婦でいたい。
「今日は改まってどうしたんだい」
「あの……、私、将来の夢について話しておきたいの」
湯気の出ている紅茶を一混ぜしてから、ティーカップに沈んでいる鮮やかなレモンの輪切りをスプーンで掬い上げる。一口含んで喉を湿し、昨日と同じように気持ち、考えをありのままに切り出した。中々に荒唐無稽な夢だとは自覚しているけれど、お父さんお母さんは真剣に私の話を聞いてくれた。一通り話し終えた後、最後にこれまで伝えようとしても、どうしても伝えられなかった思いを話した。
「ずっと黙っててごめんなさい。夢のこと二人に反対されると勝手に思って、一人で抱え込んで、二人はずっと優しくしてくれたのに、その優しさが怖かったの」
「もう、結花は思い込んでしまったら、一直線になっちゃうんだから。ちょっとは気楽に親を頼りになさい」
「自分から言ってくれなきゃ助けたくても助けられないからな。思い悩んで元気のない結花のこと、母さんと一緒に心配していたんだぞ。何にせよ、結花に夢があるなら俺たちは一生懸命に応援をするだけさ」
両親の優しさは糊塗されたものではなく、純粋な無償の優しさだったのだ。膝の上に乗った手に目を向けると両手は硬く握り締められていた。私は力んでいた手を弛ませ、どれほど全身が強ばっていたのかを知る。もう随分と冷めてしまったけれど、今飲んだ紅茶は仄かな温もりと気爽な透明さがあった。ああ、懐かしい。
「……さい、…長、社長! 起きてください、あと四半時間で出発時間ですよ」
秘書が私の肩を軽く揺らす。耳から入った言葉に頭を振り覚醒させた。机に突っ伏していたようだった。連日徹夜でコレクションの新作について制作陣と煮詰めていたので油断して眠ってしまった。窓から斜めに差し込んだ夕陽が卓上の時計に反射して眩しい。秘書が淹れてくれた紅茶を啜り、口腔に豊かな香りが広がった。久しく会ってない彼がどのような為人になっているのか思い描く。
彼と最後にあったのは高校を卒業して、パリへ出発する際の空港だった。彼と別れてから色々と経験した。何度挫折しかけたのかも数えられないが、今では世界で名が通るくらいまでに成長したと言えよう。ここ数年、ファッションの業界で仕事をしていると彼の名前を聞く機会が増えた。私の会社の上層部でも、自然と彼の会社との提携が視野に入った。
「しかし、その作品を社長が着ているのを初めて見ましたし、しかも社長が異性と二人きりで食事している姿なんて想像もできませんよ。これまで、男性と一緒になるときはいつも無理に私を連れだしたじゃないですか。やり手で格好いいって噂の男社長だからですか」
この会社を立ち上げた時から尽力してくれている秘書が言う。かれこれ丸五年は一緒に過ごしている。ため口でいいと何度言っても、彼女は尊敬しているからと敬語を止めてくれない。が、今回ばかりは彼女抜きで男性と食事をすると聞いたからか、打切棒な口調に聞こえる。
「私なりの破れない約束ってものがあるのよ。大丈夫よ、男に現を抜かしてファッションや会社、勿論あなたのことも御座なりにするつもりなんて全くないんだから」
ドアの横に設えてある巨大な姿見に全身を映す。今日のコーディネートは私が師事している巨匠に見初められる切掛となった型だ。エンパイア・ドレスを土台として、独自のスリーブ構造を取り入れた意匠に、橙色のフォカマイユを意識した色遣い。クラシックを基調としながら堅苦しくなり過ぎず、胸元のラピスラズリが悠々と輝く衣装だ。しかし、今の私に彼が好きだと言ってくれたあの頃の私が残っているかどうかは分からない。
「最近はすごく忙しかったから、今日はゆっくりと休んで英気を養ってね。じゃあまた明日」
相手方と面識なんて有ったのかしら、というか約束って何かしら、と背後で呟く声が聞こえた。
目的地であるレストラントが入っている高層ビルに着いた私は、運転手にお礼を言って車を降りた。暖房の効いた車内から出ると、寒い風が渦巻いており頬と指先を巻き込み突き刺した。オレンジ色のテントが掛かった階段を抜けると入り口はすぐ。ビルの中は暖かかった。
今日はタワー全体を貸し切りにしているので、チケット売り場も素通りだ。超高速エレベーターの中で胸元の「夜空」を手に握り締めた。三十秒と少しが経ち、あの人がいるパノラマフロアに到着する。彼はレストラントの入り口付近に立ち、私に気付くと会釈した。私も軽く頭を下げる。
彼のエスコートに従い夜景がよく見える席に案内される。まずは軽い挨拶を済ませてから、題目である仕事の話を進めた。元々、会社が提携することはほぼ確実に決まっていたので、長同士が対談する必要もなかったが、二人で会うために少しばかり強引に今回の会食を設定した。とは言え、仕事で妥協するつもりもないので、些細な件を話し合って確定させていく。
仕事の話をし終えると、徐々にプライベートな話へと移行するのは世の常であり、私たちも例に漏れなかった。
「別れて十年ほどになるのかな」
「ええそうね。私たち、随分と子供っぽさが抜けてきたのじゃないかしら」
上手に笑えているといいのだけど、と不安に思いながらも自然な会話を心掛ける。
「僕は部下におじさんっぽいと言われ始めて少々困っているんだがね。今となっては、子供っぽさも大事なのだと痛感したよ」
困ったように彼は両目をくしゃりと細めた。それから後は、お互いに別れてから起こった出来事を面白可笑しく繰り出し続ける。
ふとした瞬間、天使が通った。私はワインで唇を湿らせて彼の目を真っ直ぐに見る。
「……ねぇ、公園での約束覚えてる?」
「ああ、……もちろんさ。もちろん覚えているよ」
「でね、世界で通用するお店を持ちたいと言う夢は取敢えず叶えたの。それでもって、あなたの会社もここまで大きくなったでしょう。そろそろ答えを出さなきゃなって思って」
一度視線の交錯を切り、市街を一望できる窓の外を見る。数ある名所の中でノートルダム大聖堂が目に入る。これまでの人生で出会った人や色を回想して、彼への言葉を纏めた。
再び私は彼と視線を絡める。私の気持ちの込った言葉を伝えると、彼は暫く放心した後に泣き笑いの顔を見せ、私の左手に手を添えた。
上質な蒼い生地に金糸で刺繍されたスカーフを肩に乗せているアンティークの大理石像が飾られたリビング。ソファに座った三人が、一家団欒の時間を過ごす。その中の一節にこんな会話があった。
「きょうね、てんとうむしさんを見つけたんだ! でね、そのてんとうむしさんがね、ご本で見たあかいろじゃなくて、あおいろだった! でもね、みんながわらうんだ。おかーさん、おとーさん、しんじてくれる?」
不安そうに私たちを見る子どもを尻目に、夫婦で顔を合わせて驚いたように息を呑んだ。そして、女性が左手で優しく子どもの頭を撫でつけた。
「紬、信じるわ。その天道虫さんはね、幸せを運んでくれる虫さん。だからね、今日見たものを忘れては駄目よ」
女性は良く晴れた青い空を天窓から覗き、静かに祈った。